はてなキーワード: 活動とは
もし映画館で働いていて車椅子ユーザーの方が椅子に移動させてくれて言われたら、やっぱり大変だよなあと思う。
軽い女性でも50キロぐらいはあるだろうし、他のスタッフと協力したとしてもかなりの重労働だろう。
今回車椅子の方を擁護している人で自分がその立場になったのを想像出来ている人はどれくらいいるだろうか。
体重のある介護者を車椅子に乗り降りさせるのはプロでも簡単でもないと思う。
たとえば、常日頃から非常に弱者に寄り添う姿勢を見せているモバイルプリンスさんの例を見てみよう。
彼の所属していた組織で精神疾患のあるK氏がトラブルを起こした際、ケアは無理だということで組織から追放され
精神疾患のある方でも周りがケアし社会活動に参加できるのが理想だが、
モバイルプリンスさんが参加したツイキャスにおいて、犯罪を犯したわけでもないK氏に対し
などという非常におぞましい議論がなされていた。
モバイルプリンスさんはそれらに積極的に賛同したわけではないが、特に注意するわけでもなく黙認するかのような態度をとったことが一部で批判されている。
私も同じ立場だったらケアするのは無理だと思うのでモバイルプリンスさんをそこまで批判する気はないが
彼の様に弱者に寄り添う優しい姿勢を発信している方でも、実際に弱者のケアを実行するのは非常にハードルが高いのである。
参考
https://note.com/msnrjn/n/n14b65a2afb02
https://note.com/msnrjn/n/n502b234c1294#e5Hc2
# 女性を守るという大義は、障害者差別を正当化するか vol.6 モバイルプリンス氏の罪_未必の故意
https://note.com/msnrjn/n/n5f27b13b063a
note著者マスナリジュン氏はコメント欄を封鎖するため有料設定にしていますが(有料記事は買わないとコメントできない)、
noteの売り上げはマスナリ氏が同額を上乗せし寄付しており、売れれば売れるほどマスナリ氏の支出も多くなり、これによって金儲けはできません。
もし映画館で働いていて車椅子ユーザーの方が椅子に移動させてくれて言われたら、やっぱり大変だよなあと思う。
軽い女性でも50キロぐらいはあるだろうし、他のスタッフと協力したとしてもかなりの重労働だろう。
今回車椅子の方を擁護している人で自分がその立場になったのを想像出来ている人はどれくらいいるだろうか。
たとえば、常日頃から非常に弱者に寄り添う姿勢を見せているモバイルプリンスさんの例を見てみよう。
彼の所属していた組織で精神疾患のあるK氏がトラブルを起こした際、ケアは無理だということで組織から追放され
精神疾患のある方でも周りがケアし社会活動に参加できるのが理想だが、
モバイルプリンスさんが参加したツイキャスにおいて、犯罪を犯したわけでもないK氏に対し
などという非常におぞましい議論がなされていた。
モバイルプリンスさんはそれらに積極的に賛同したわけではないが、特に注意するわけでもなく黙認するかのような態度をとったことが一部で批判されている。
私も同じ立場だったらケアするのは無理だと思うのでモバイルプリンスさんをそこまで批判する気はないが
彼の様に弱者に寄り添う優しい姿勢を発信している方でも、実際に弱者のケアを実行するのは非常にハードルが高いのである。
参考
https://note.com/msnrjn/n/n14b65a2afb02
https://note.com/msnrjn/n/n502b234c1294#e5Hc2
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押す側の人はわかると思うんだけど、車椅子ってちょっとぶつかっただけで超痛い。
だから押す側はだいぶ神経使う。重いし。
繊細な人なんだなとか思われるかもしれないが、身内は人並に大雑把で人並に優しく人並に理不尽な人だ。
――――――――
例えば、人混みを通らなければならないとき。
介助者の自分は当然「すみません」って声をかけて通るんだけど、
乗ってる側としては「何で謝らなきゃならないんだ」って悲しくなるらしい。
そんなことで?ただの声かけじゃない?と思った。
大体人混み通るときって健常者だって「すみませーん」ぐらい言うし。
で、よくよく話を聞いてみると、そもそも「頭を下げないと道も通れないことが悲しい」というような旨を言う。
それは意味が違うと思うけどなあ…と思い、
そのときは「SorryじゃなくてPardonの意味だから、受け取り方が違うよ!」と慰めた。
そういうことを言う人でもなかったので、何となく引っ掛かりを覚えた。
よくよく考え、「そういう風に考えてしまう」こと自体が、身内の内情を表している、そんな気がした。
――――――――
金銭的に依存したいとか、恋愛的に依存したいとかは健全じゃないながらあると思うが、
『身体を動かす点において依存したい』という人間は、多分いない。だって不便じゃん。
最初は周囲に助けられてなんとかなるかもしんないけど、それがずっと、死ぬまで続くなら本当に毎日毎日うんざりすると思う。
周囲だって、毎日毎日世話することに疲れてくると思う。そう考えちゃうのも、周囲を信用できていないみたいでいやだし。
でも車椅子の人って実際こうなんだろうなと。
傲慢な人だとか、人を使役することに慣れている人なら、「でも俺は動けないし」で済むかもしれない。
本当~に一般の、どこにでもいる普通の人が突然そんな状況に置かれ始めたら、段々だんだん「申し訳ないな…」って気持ちになるのは必然な気がする。
「自分の要求のために絶対人が動かなきゃならない」が毎日毎日、この先もずっと…って考えたら、しんどくなるわそりゃ。
つまり、身内の中に蓄積された「また頼ってしまった」「また助けて貰ってしまった」という無力さと、
「それに対して自分が返せるものが何もない」という良心の呵責、周囲が自分をどう思っているかへの不安、
それらが蓄積した結果、「何で謝らなきゃならないんだ…」という最初の言動そのものになってるのかなと思った。
――――――――
いや、これはマジでよくない。と思った自分は「もっと外に出て元気でいて欲しいな」と安易に考えた。
だってずっと家にいるってことは、やっぱり生活に彩りがなくなるし、体力も筋力も落ちてくる。
これって、人によっては段々生きる気力が減退する場合もあるし、ネガティブになることも多くなると思う。
外に出て沢山刺激があった方が、色んなことが塗り替えられるじゃない。
でも、それも難しいんだよね、車椅子だとさ…。
だから多目的トイレを探さなきゃならない。で、もし使用されてたら使用が終わるまで待たなきゃならない。
車椅子用トイレが使用中で、仕方なく待つことはある。大体お仲間だったり、赤ちゃんだったりする。
ただ、10分後ぐらいに水を流す音もせず、ばっちりメイク決めたJKが出てくると流石にムッとする。
いや確かに多目的だけれども…苛つく気持ちは理性では抑えられない。
もしかしたら彼女も何か抱えているのかもしれないので口汚く言いたくはない。
かもしれないが…しれないが…しかし…世の中には多目的トイレでセックスをするアホもいたりするからな…。
健常者なら、許容できる範囲かもしれない。だってそんな苛立ちも抱えず他のトイレに行けば済むのだ。
車椅子の人だって介助者だって別に、自分に関係なければ許せるかもしれない。
そういうありもしない未来・過去がそのたびに去来し空しくなる。
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他の例だと、地方の美術館では2階に行けないこともあったし、砂利道はガタガタしすぎて危ないから通れないこともある。
外出の選択肢として楽なのはアウトレット。舗装されてるし広いから一人当たりの占有面積もゆったり。でも数は限られてるし場所によっては早々行けない。
海辺の砂浜なんて車輪がもたれるから絶対だめだ。山を登ることも、ハイキングもできない。
エスカレーターも階段も使えないから常にエレベーターを探さなければならない。
エレベーターって意外と辺鄙なところにあるから、実際探し当てるまでもかなり大変な目に遭ったりする。
一度エレベーター縛りで移動してみると、面白いと思う。それをこの先ずっと続けるとなると辟易だと思うが。
見つけたとしても、必ずしも乗れるわけではない。混んでたりするからね。
降りて譲ってくれる優しい人がいると、この先この人に今の五万倍の幸せがあるといいな!と思う。有難いことこの上ない。
実際バリアフリーは沢山あるし、色んな公的機関では配慮されてることが多い。
障害者オンリーの観覧日を設けてくれる美術館などは本当に助かる。
若ければ車椅子サッカーとかバスケとか、そういった活動もあるかもしれないが、年をとるとインドアなことしかできなくなるので。
とんでもない角度の段差の補助?だったりすると「あーっ惜しいですね」となってスルーせざるを得ない。
エレベーター行くのに遠回りしなきゃいけなかったりするし。まあ、仕方ないんだけどね。やってくれるだけ有難い。
(この「やってくれるだけ有難い」も、身内の「何で謝らなきゃいけないんだ」の一部だとは思うが…)
施設は、入場料がいらなかったり、半額になったりする。
でもまあそれは「平等なサービスを受けられないことによる減額」なのかもなと思う。
美術館だと照明が反射して、絵がよく見れなかったりする。健常者と見る位置が違うから。
コンサートなら車椅子用の席は固定で、「可も不可もない中間よりちょっと遠い席」が普通かも。
たまに逆にえらい良い席なときもあるけど。最後尾があたる可能性もないが、最前席があたる可能性はない。
本人は車椅子に乗ったまま、介助者の自分はパイプ椅子…なんてこともあった。
クラシックコンサートだったが、ずっと尻が痛かった。ちゃんとした席が横にあるんだからそっちにして欲しかったなあと思ったけど、まあ仕方がない。
「尻が痛かった…」と少し溢すと、申し訳なさそうな顔をされて「しまった」と思ったりする。
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マジで行ける分いいと思うのだ。行ける分良い。でも、ざっと書いただけでもこれだけ大変なことがある。
自分が車椅子だったらと考えると、そりゃ外出たくないよなって思う。
望んだわけでもないのに、同じサービスが受けられない。周りに迷惑だと思われているし、介助者にも迷惑がかかる。遠回りさせる。自分がいるから存分に楽しめなかったりする。そもそも、自分の行動や欲求に付き合わせている。
そういった事実によって生まれた葛藤が『何で謝らなきゃならないんだ』、ひいては『何でいちいち感謝しないといけないんだ』になるのは、わからんでもない。
そういう立場を体験していない自分が、その感情を否定することはできない。
ただ「しょうがないよね」って茶を濁して共感することしかできない。無力だなあと思う。
身内の気持ちは身内にしかわからないから、ここまで考えているか感じているか実際は知らないけど、まあ大外れではないと思う。
当初は「そんなことで?」と困惑した自分も、もう肯定するほかないなと思ってる。
――――――――
社会に生きる人間は良くも悪くも社会にある程度迎合しなきゃならないというのが個人的な持論。
人間は全員が「違う」から。違うから、お互いを譲歩し適切な距離を保って、険悪にならない距離でコミュニケーションをとる。
これは最近のトランスジェンダー関係の話でもそうなのかなと思う。
自分のすべて受け入れてほしい!と思うなら、そういう社会に行くか、新しく作るしかないんじゃないだろうか。
平和に生きてる人たちを脅かしてまで自分を押し通したいと思う人と、手を取り合いたいなんて思わないだろう。
だからまあ、身内の心情に心をいためつつも仕方ないよな、なんて思う自分もいて、
なんていうか…罪悪感じゃないけど、申し訳なさを感じたりもする。
色々人生楽しめるものを用意できるよう、無理じゃない程度にやっていきたい。
無理させてると思わせるのが一番、本人にもよくないと思うので。
――――――――
そういうわけで(?)
車椅子を押す側として思うのは、優しく見守ってくれる人がたくさんいてくれればいいなと思う。
助けてくれなくたっていい、通り過ぎたって全然良い。
舌打ちしたり、からかったり、邪魔になることはしないでくれれば。
こんなん、健常者でも当然のマナーだと思うんで、改めて言うのも変な話だけど。
――――――――
おまけ
テレビの某野外音楽フェス特集を見て「一回ぐらい行きたかったなぁ」と言われた時は「それは…無理だな…」と思った。
「そりゃ車椅子なんだから無理でしょ」って当然のように言う人はいると思う。
いや無理なんだよ。そりゃそう。無理なの。物理的に。
確かに頑張れば行けるかもしんないけど。知らないけど、配慮もされてると思う。
でも立ち見の音楽フェスに行くというハードルがそもそも高い。そこに行くまでの道程のハードルも高い。
立ち見だから見るとしても多分後ろの方でしっとり見るしかない。車椅子にぶつかると怪我させちゃうだろうし。
そういったリスクをひっくるめて考えて「無理」となる。勿論フェスを非難してるわけではない。
「金がないから無理」とか「忙しいから無理」とかと違って、「車椅子だから無理」は本人にはどう努力もできない「無理」だ。
介助人としては軽く「え!行きたいなら頑張るよ!」なんて返したりするけど、身内は難しいことを知ってるから、何も言わずに首を横に振る。
こんな無力なこと、ある?
自分はまあ行こうと思えばいつでも行ける。
身内はこの先あの景色を体験することはないんだ。と思ったら無性に悲しくなった。
――――――――
昔のような家族や一族コミュニティがあって、良く死ぬ社会のほうが、子孫を残そうとする傾向にあるよね。
自分がいつ死ぬかわからないから、他の柱になる人材を複数用意しておこうと考える。
人を生み育てるっていうのはそういうことなんだよな。
現代の平和ボケ社会じゃ、自分が急に死ぬなんてことは考えない。
みな当たり前に、80歳くらいまで生きるのかなとか実感のないことを考えてる。
その頃には、自分が守るべきコミュニティは見送り済みが決定している。
子孫を残す合理性が無い。
子供なんて趣味や道楽の範囲だよ。自動車やペットやオタク活動と同列。
僕の夢は女性がおしっこをお漏らしするのを目の前で見たいなって願望がありました。なかなかかないません。おしっこをお漏らしする女子が見たいがために活発に活動しているので人生がとても充実しています。
文化の盗用ならぬ、活動家による手柄の横取りを礼賛する内容になっている。
「わきまえない人たちが敢えてコンフリクトを起こすことでマジョリティは不承不承マイノリティの要求に対応してきた。今日では皆がその積み重ねの恩恵に与っている」
それは本当か?
例えば男女同権を推し進めてきたのは何ものの力か。戦争や産業に従事する上での、腕力の重要度の低下。家事専従者が必須でなくなったこと。そして法改正。ハードウェアの進歩と制度的な裏書きが社会を動かしてきたのだ。
フェミニストによる道義的非難に耐えかねて、あるいはその啓蒙に感激して動くほどに社会はヤワでも腰軽くもない。イズムにイズムをぶつけても1ミリも動きはしないのである。
バリアフリーのためのインフラ整備だって同じだ。増田は利用者の視点のみから「先人の闘争のおかげ」としているがただの想像でしかない。商業上の要請や建築法規に基づき、あるいは単に業務の一環として、少しずつ尽力してきた無名の貢献者はいなかったものとされている。
繰り返すがマジョリティは非難に耐えかねたり説教に感激して動くほどナイーブではない(へりくだって情を乞えではなく、マジョリティの冷たさ薄情さをナメるなと言っている)。活動家のおかげ説はそのフィクションに立脚している。その結果として何が起きるか。
小さなコンフリクトを平熱で改善につなげるべきところ、常にこうして感情的な分断ネタとして消費される「型」が出来上がってしまうのだ。施設側が100%悪い!いや車椅子の側が100%悪い!と。
「日本社会はいまだこんなに遅れているから、こういう機会を捉えて燃やさないと変わらない」というのは因果が逆で、無駄に燃やしてばかりだから協働の文化の成熟がスポイルされているのだ。
誰かが白眼視を恐れずいきなりギャーって騒いでくれたら「正直助かるわけよ〜」って言ってるが普通に恥ずかしい発想だと思わないか?
そうやって物理的/道徳的に担当者を責めたてるという要望の仕方が本当に合理的だと思うか?社会は基本的に事なかれ主義で、ノイジークレーマーには「特別あつかい」でお茶を濁すのだ。
「クレーマーがほどほどに騒いでくれると有り難い」ってバカみたいな結論だぞ。
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共産党赤旗、コンビニで見かけた成人誌の密告フォームを作成「国連に持ち込んで問題にする」ヤングジャンプ、ヤングキング、ヤングアニマルなどが対象
こういうのも同工。
とっくにエロ本が完全撤退したあとでヤンジャンとか燃やそうとしてんの。
「ワシが育てたムーブ」にコロっと引っかかってんじゃねえよ
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法律の制定が権利主張なしに良心に満ちた人々によって行われるとでも信じているのだろうか。大したお花畑。激しくない権利主張は現実として黙殺されるだけ。差別者が被差別者の大人しい主張に傾聴すると思うかい?
法整備はエンジニアリングを後追いするという本質論を主張する上で全然重要でないから詳論してない所に、隙があると思いこんでこうしてバカが頭をねじ込んでくる。
まあいったん対立のパターンができてしまうことの弊害はこういうことなんだ。それぞれの陣営の正義の能無しが問題の周りを固めてしまい、手つかずにさせてしまう。
実際にコツコツ手を動かす人を遠ざけ、吊し上げが好きな奴ばかりが集まってくる。
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「穏当に地道に“活動”してる人もいる」
そらそうよ。みなまで言わなかったけど。
自由な市民としての矜持を持ち、選挙にいく以外でもあらゆるチャンネルを探って社会の運営/改善に参画しようとする、リベラルであるとはそういうことだ。そこには当然にして摩擦が生じることもある。
くだんの車椅子インフルエンサーのことも別に迷惑100%とは評価していない。施設側のモノの言いようにカチンと来たのも想像はできる。
そんなに難しいこと言ってないが、まあはてな界隈にもうなんも期待してないのはある
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毎たび最後に同じようなこと言ってるが、一言マウンティングじゃなくてトラバで字数気にせず堂々反論すれば?でもお前らは絶対に自分の発言に責任持たないんだよな。ピンポンダッシュに最適化したカス連中
差別は社会的排除であり、「その社会がこそ決めた」秩序的・規範的な反差別活動など矛盾してるってところはあるからなあ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2333048
前作の次にオニガシマラソンという別の絵本出して(読んでないがレビュー見る限り普通に評判良い模様)、
ちなみにオニガシマラソンの続編も今月出てるようだが、こっちの内容はどうなんだろうね?
出版社が違うので、こちらは無難なままならポプラ社何やってんだって事にもなるが
人気絶頂なのに全然新作出さなくなったから、病んだかコンビ作家にありがちな喧嘩別れか?と思ってたけど
乙武氏のレストランの件や奄美大島でのバニラエアの対応、社民党関係者とJR、そして今回のイオンシネマ、どれも事前の通告なく合理的配慮をこえる要求を事業者にしていて正直トラブル上等の当たり屋的な活動家だよね。
まあ障害者であっても健常者と同じ体験が保証されるべきっていう信念があるんだろうけど、現状は合理的配慮の義務ってところが事業者との綱引きの結果だよね。それを強引に越えようとすると体制が整わない中で通常業務の隙間で対応させられる従業員が出てきて、その負荷を無視して過剰なサービスを得ようとしている点が炎上している理由だと思う。
そもそもこういった活動が現代においてどの程度有効かという点についても非常に疑問。現状合理的とされる範囲をこえて、例えば突発的な要求に対応可能な介護資格を持つ余剰人員を置きますとなると当然そのコストを誰が負担するのかという問題が当然出てくる。その時、価格に転嫁するにしても公費で負担するにしても国民の理解が前提にあるわけで、現状の活動は車椅子ユーザや一部活動家が盛り上がってるだけで理解からは寧ろ遠ざかっているようにネットを見ていると思う。
ただ諸悪の根源はこういった活動だけが注目されて騒がれることにあって、事業者と障害者団体が話し合って実現可能なサービスを検討しました、みたいな地味だけど建設的な活動が伸びていくような社会にならないといけないんだろうね。
シャニマスことアイドルマスターシャイニーカラーズ*1のコミュ(ゲームのストーリー)のあらすじや見どころをなどを紹介したいと思います。
ネタバレの配慮は特にしていませんがあしからずご了承ください。
283プロの3人組アイドルユニット「アルストロメリア」の桑山千雪は、同じユニットのメンバーである大崎甘奈の練習を、大崎甜花(同じくユニットメンバー)と一緒に見守っていた。
甘奈は、新しいファッション雑誌の”顔”となるカバーガールのオーディションへの挑戦を控え、面接での自己PRの練習をしていた。
甘奈は雑誌側からも注目されており、一般応募より有利なシード枠としてのオファーを受けていた。
甘奈から本面接を想定した厳しい意見を言って欲しいと頼まれ、千雪と甜花は、一定時間本心と反対の事を言う「反対ごっこ」を始める。本心と逆のことを言う形であれば厳しいことも言えるだろうという作戦だったが、結局ほめてしまう。
練習後の雑談で、その雑誌がかつて愛読していた雑誌「アプリコット」の復刊であると知り驚く。
事務所にいた283プロダクションのプロデューサーは、「アプリコット」のオーディション事務局から掛かってきた電話を受ける。
プロデューサーは、甘奈がシード枠としてオーディションを受けられることへのお礼と、オーディションへの意気込みを伝えるが、先方から甘奈は既にグランプリに内定していると聞かされ驚く。
甘奈と甜花はかつて刊行されていた雑誌「アプリコット」のことを調べていた。おしゃれで可愛らしい雑誌の雰囲気をみて、2人とも「まるで千雪のようだ」という感想を抱いた。
千雪は所有している「アプリコット」のバックナンバーを読み返していた。甘奈が「アプリコット」の”顔”となったら素敵だろうと思うものの、やはり甘奈のことが羨ましかった。
プロデューサーは、甘奈の参考になればと自宅から「アプリコット」のバックナンバーは運んできた千雪に、メンバーのことを考えるのも大事だが、千雪自信のことも大事に考えてほしいと伝えた。
甘奈と甜花はレッスン室でオーディションの審査項目の1つであるウォーキングの練習をしていた。
レッスン室に立ち寄った千雪は、「たまたま古本屋で見つけたので」と甘奈に「アプリコット」のバックナンバーを渡した。
オーディションまでにできるだけレッスンを入れる必要があるが、先生の予約の空きとレッスン室の予約の空きが合わなくて困っているという甘奈に、千雪は自分が予約しているレッスン室を譲ろうとするが、千雪自身が使うべきだと遠慮される。
レッスン室からの帰路、甘奈は甜花に、千雪は「アプリコット」を読んでいたのではないかという推測を伝える。甜花も、千雪はかなり「アプリコット」に思い入れがあるように感じると同意した。
事務所に来た甜花は、プロデューサーが電話をしている声を聞く。
プロデューサーは、「アプリコット」のオーディション事務局に、打ち合わせの約束を取り付けようとしていた。
「グランプリが甘奈に内定しているという事は光栄なことだが…」というプロデューサーの言葉を耳にし甜花は驚く。
レッスン室に揃った千雪と甘奈と甜花の3人、最初こそ「反対ごっこ」で互いを褒め合って楽しくレッスンしていたが、甘奈のオーディションの話題になると、それぞれ意識してしまい、ぎくしゃくした会話になってしまう。
レッスン後、1人河原で発声練習を行っていた千雪は、意を決して甘奈と甜花の自宅を訪問する。千雪は出迎えた2人に、自分も「アプリコット」のオーディションを受けたいと告げる。
千雪は居酒屋で、事務所の事務員であり友人の七草はづきに話を聞いてもらっていた。
「アプリコット」とは中学の頃に図書館で出会い、大きな影響を受けていること。
復刊すると聞いて、昔しまい込んだ大事な宝物がもう一回見つかったような気持ちになったこと。
でも、見つかったとたんに自分のものじゃなくなったような気持ちになったこと。
甘奈に嫉妬しているものの、甘奈が「アプリコット」のカバーガールとなったら素敵だと思うのも本心であること。
事務所で甜花は、プロデューサーに以前立ち聞きしてしまった電話の内容について質問していた。
プロデューサーは、今回のオーディションの実態は雑誌の宣伝のためのお祭りのようなものでグランプリは既に甘奈に内定しているのだと答えた。
これまでのオーディションに向けた甘奈の努力が無意味だったと知ってショックを受ける甜花に、プロデューサーは、公正な審査をしてもらえるよう、もう一度先方と話し合ってみると伝えた。
プロデューサーは出版社で「アプリコット」編集長と面会をしていた。
甘奈も他の候補者と同じ立場で受けさせてもらいたいと言うプロデューサーに、編集長はそれはグランプリを辞退するという意味かと返した。
返答に窮するプロデューサーに対し、編集長は今回の復刊は自分たちの悲願であり、甘奈のグランプリは多くの関係者の総意として”公正に”選んだものだと伝えた。
プロデューサーが、最初から負けが決まっている候補者の気持ちはどうなるのか聞くと、編集長は、今回のオーディションはスポーツのような単純な勝ち負けではなく、開催そのものが若い才能へのチャンスと学びの提供になるよう審査員として様々な分野の第一人者を迎えていると答えた。
出版社からの帰路、プロデューサーはアルストロメリアの3人に明日ミーティングをしたいという連絡を送った。
事務所でのミーティングの場、話始めるプロデューサーを遮るように、甘奈はアプリコットのオーディションを辞退すると告げた。
プロデューサーはまず自分の話を聞いて欲しいと頼んだが、甘奈は事務所に迷惑をかけてしまうのは理解しているが、千雪こそが「アプリコット」にふさわしく、それが分かっていながらどうオーディションに向き合えばいいのか分からないと語った。
それを聞いた千雪は、自分がエントリーを取りやめると言った。オーディション挑戦は決めたものの、どこかで甘奈がグランプリをとると信じ込んでおり、甘奈にこのような影響を与えることまでは理解しきれていなかったと伝えた。
プロデューサーは、甘奈がグランプリに内定したこと。編集部がはっきりとしたビジョンを持って、甘奈を起用したいと考えていること。
自分も混乱しているが、これまでの甘奈の活動が、たくさんの候補の中からこの結論を勝ち獲ったとも言えること。
オーディションへの参加については、甘奈と千雪それぞれの決定を尊重するので、もういちど考えてみてほしいということを伝え、そして2人がどんな結論を出したとしても、それを全力でサポートすることを約束した。
ミーティング解散後、千雪は1人河原で発声練習をしていたが、気持ちがまとまらず、うまく声を出せずにいた。
同じく気持ちがまとまらず事務所周辺を歩いていた甘奈と甜花は、千雪を見つけて合流した。
甘奈も声を出してみるが、うまく出すことができなかった。
その様子を見て千雪は「反対ごっこ」を提案し、甘奈がオーディションに落ちたらいいのにと叫び、次は甘奈の番だと促した。
甘奈が戸惑って声を出せずにいると、甜花は自分が先に言うと宣言し、2人ともオーディションに落ちたらいいのにと叫んだ。
千雪は負けたいと叫び、甘奈も負けたいと叫んだ。甜花は2人とも負けてと叫んだ。
千雪はアルストロメリアなんて大嫌いと叫び、甜花はアルストロメリアなんて一番大事じゃないと叫んだ。
反対ごっこ」の終了を宣言した千雪は、改めて甘奈に一緒に戦わせて欲しいと頼んだ。
最初は拒否しようとした甘奈だったが、叫んだことでそれまであった恐怖心が無くなっていることに気づき、自分と戦って欲しいと千雪に伝えた。
甘奈はオーディションの控室で、千雪から受けたアドバイスを思い返しながら、1人自己PRの準備をした。
千雪は最終選考に進み、甘奈の言葉を思い出しながら、面接で「アプリコット」に対する自分の思いを伝えた。
甜花は、オーディションのレッスンの先生をプロデューサーの車まで案内した。
甘奈の努力が無駄にならないよう、先生に自分の観覧席のチケットを譲り、本当に合格に値するか審査してもらうと思ったのだ。
甜花は会場へ向かう車を見送り、甘奈と千雪の健闘を祈った。
オーディション終了後、グランプリは獲れなかったと告げるプロデューサーに、千雪はそれは分かっていたことだが参加できてよかったと言った。
プロデューサーと2人で移動中、甘奈は、今回のグランプリはひとりで獲得したものではないと感じており、頑張らないといけないと語った。
甘奈のグランプリを記念する、ランウェイショーが開催されることが決まり、千雪と甜花は部屋で甘奈を応援するための練習をしていた。
甜花は千雪に感謝を伝えた。
千雪が戸惑っていると、甜花は千雪が大事なものを諦めなかったので、自分も何が大事なのか理解することができたと語った。
悔しいよね?と甜花は千雪に聞いた。甜花は、甘奈がグランプリで嬉しいが千雪がグランプリじゃなくて悔しいと言った。
千雪は少しだけ肩を貸して欲しいと、隣に座る甜花に頭をあずけた。
千雪は声にしないといけないことで、まだしていないことがあったと言い「負けたのが悔しいよ」と大きな声で言った。
その直後リハーサル中の甘奈からグループメッセージが届き、千雪は応援の言葉を返した。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
優しい笑顔が印象的な、事務所のお姉さん的存在。母性溢れる落ち着いた佇まいが特徴。手先が器用で、かわいい小物を作るのが趣味。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の妹。誰とでも分け隔てなく接する天真爛漫なギャル。今しかできないことを全力で楽しみたい今ドキの女の子。高校2年生。
姉の甜花からは「なーちゃん」ファンからは「まな」という愛称で呼ばれている。
姉の甜花を溺愛している。
283プロのアイドルユニット「アルストロメリア」のメンバー。
大崎姉妹の双子の姉。幼い頃から妹の甘奈に面倒を見てもらっている。人と話すのが苦手で、アニメやゲームなど、インドアな趣味が多い。高校2年生。
細やかな気配りでアイドルたちの輝く日々を支える、陰の立役者。
・お花のように可愛らしいポップでハッピーなユニット「アルストロメリア」に突如ぶっこまれたシリアスなストーリーで、油断しきっていたユーザーの度肝を抜いた
・シリアスなドラマが中心だが、クスっと笑ってしまうようなシーンや、アイドルの可愛らしさも描けており隙がない
話数 | サブタイトル |
---|---|
オープニング | 予感 |
第1話 | アプリコット |
第2話 | 反対ごっこ |
第3話 | そして彼女はインターホンを鳴らす |
第4話 | ふたつの夜 |
第5話 | こわい |
第6話 | 薄桃色にこんがらがって |
エンディング | エンドロールは流れない |
私はバリアフリーにも何もかも無知な健常者だが、色々追う中であ〜意見は最もだけど難しいよなとか、逆に確かにと納得する部分もある事があったので備忘で書き込む。
まず、何があったのか。
何が問題なのかをまとめてみたい。
◆何があったのか
とある車椅子ユーザーがバリアフリー対応していないプレミアムシートでの鑑賞のために過去3回、従業員2名の介助の元で車椅子つきで階段の昇降+シートへの移乗を頼み鑑賞していたが、3回目で責任者から次回からの利用をひどく断られた事に憤りXに投稿した。
◆何が問題なのか
まずよく言われているのが、断り方である。
「双方気持ちよくなれる」という台詞をきりとると、拒否された車椅子ユーザーには全く寄り添っていない言葉に聞こえる。適切ではく、謝罪文を出すのも当然だろう。
ここからは私の意見になるが、私はあまりこれについては何とも言えないと感じている。何故ならやりとりについては片方の車椅子ユーザーからしか出ていないからだ。
支配人がその酷い言葉をなげかけるまでにどんな詳細なやりとりがあったのかわからない。
このような場合好きに発言出来る客と異なり、映画館側からは声を上げるのはかなり難しく、従業員側は弱者と言ってもいいのではないかと思う。
「そう取られる事を言ってしまったのはやらかしだよね〜」とは思いながらも、あまりに話が通じなかったらそこまでいいたくなる気持ちもわかるのだ。
断ること自体は、Xで散々言われている通り
今の映画館側で出来る対応の範囲外の事だと思うので、問題ないと思っている。
対応してしまえば、ユーザーは大丈夫だと思うし、急に違う事を言われたらショックを受ける。
従業員やユーザーの安全を確保できていない対応だったのも問題である。
ならば安全上の理由で最初からその対応は難しいと言うべきだった。
特殊な対応が必要なスクリーンを予約し、事前連絡なしで来て従業員に運ばせた事と、xでの晒しあげるような告発、攻撃を促すような文章だろう。
特にインフルエンサーとして啓蒙活動を行っているのならば、専門家ではない他人に車椅子が乗った人物を運ばせる事への危険さ等は理解していた方がよかったと思うのだが
積極的に運ばせ本来の業務から逸脱した写真を取ってもらうなどの行動もしている。これでは客の立場を利用して従業員の安全を配慮せず店側を振り回したモンスタークレーマーととられかねない。
発言もプレミアムシートへのバリアフリー化や現在の車椅子席の不便さを訴えながらシステムを変えようという提言というより、叩かせようという攻撃にみえてしまっている。
そのために反感を買っているように見える。
以上がそれぞれの側の対応の問題点と私がかんがえていることだ。
◆なんでバリアフリー化してないの?
→大手映画館では通常の映画鑑賞におけるバリアフリー化は行われているので正確には車椅子ユーザーが映画鑑賞を行う事は可能だ。(あくまで、可能。快適かどうかではない。)
ところが、今回問題のプレミアムシート(と、4DX)は対応していなかった。
それは今の車椅子ユーザーの映画鑑賞は自前の車椅子を利用して鑑賞するスタイルを採っているからである。
そのやり方が採用されている理由は、チケ購入から鑑賞、退場までの全ての作業を車椅子ユーザーが独力で全て対応出来るからだろう。
また、シートに移動して座る形式だと、火事等の緊急脱出時に自力脱出が出来ないというデメリットもある。
豪華なシートに座ってこそ価値を提供できるプレミアムシートやシート自体に仕掛けがある4DXの楽しさは、今の車椅子に座ったままでの鑑賞では提供できない。だから既存の座席がないのだ。
提供するには、車椅子→シートへの移乗が必要であり、自力で移動できない人はどうしても人の手を借りないといけない。
そして、専門家ではないただのスタッフが普段関わらない他人の移乗を行う事はXの専門家達の意見をみる限り、様々な理由からやるべきではないのだろう。
そうなると、専門家の配備または利用者が介助をする人を連れて来る、の2択だ。
意見で、現状の車椅子席は見づらい、首がいたい。などの声もあった。
最前近くで席を取ったことがあるときの感覚にちかいのだろうか。それはかなり大変な事だろうと察する。それについては映画館側で対応が必要だと思う。だが、ここで問題がある。
映画館の劇場は、スクリーンに対して前方から後方に向けて階段上に座席がある。
車椅子席が配置される場所はそのうちの前方か、中央か、後方か。これは出口がどこかによって決まるとおもわれる。消防法とかで決まってるのでしたっけ、、、
出口に段差なくアクセス出来る位置に車椅子席があるのだ。そのため、出口が前方にある劇場ではどうしても前方に車椅子席、となってしまう。
これは、ゆくゆくはそのような劇場にも
中央または後方に出口を用意してその近くに座席があるのが理想だ。そこは変わっていってほしい。かなり大変だろうが。
◆声を上げないと変わらない現状
正直私は件のユーザーは、苦手だ。
だが、あのユーザーがアレをしなかったら現状の車椅子ユーザーが置かれた不便さへの注目や改善のための動きは煽らず黙殺されている可能性はかなりあったと思う。
と同時に現状の変わらなさにもやるせなさを感じている。
◆私の感想
じゃあどこまで?すべての人が平等に、
は簡単ではないと思った。
いつでも一人で入りできるようにする...なのはそうなのだが、
法律や緊急対応をクリアしつつ、ただの営利組織が人的場所的金的コストを考えながら実現するのは物理的に難しくないかと思う。
クリアするにはどうしてもスクリーンの大改造か人で対応のどちらかが必要なのだ。
(すべての人が利用できるを追求した豪華なコンセプトの映画館をいくつか作る、等は割とすぐに可能かもしれない。)
②
歌が下手なのではなく、 平成30年以来、34歳の頃から延々と活動してきたが、全く聞いていないし効果になっていないことを発見したから、やる気がなくなり、やっても意味がないから
意図的に下手になってきているだけ。昔は、コンビニで、歌詞をプリントしてから臨場していたが、意味がないからやらなくなった。
私は腐女子で、「左右固定」というやつだ。とはいえそんなにこだわりが強い方ではない。雑食の友人がたくさんいるし、キャラ解釈が合えば逆カプの人とも友達になってきた。逆リバも、進んで見に行くことはないが、たまにちょっと口に入る程度では死なないし、カプ色の薄いものなら好きな作品に出合うこともある。信頼のおける友人から勧められたものなら大抵いけてしまう。ゆる固定、とろ火固定を自称している。
そんな私が最近とある作品にハマった。それほど新しくもない、小さなジャンルだ。私がハマったABは、ジャンル内ではメジャーな二人だった。ジャンル内の大多数がABかBAで活動しているようなところで、どちらかが圧倒的に王道ということもない。というより「ABもBAも好き」という、いわゆる雑食の方が多数派だった。
そんなジャンルの空気を知らないまま沼に飛び込んだ私が浴びたのは、想像を超えて逆リバにまみれた世界だった。支部に上がっている作品の多くはABとBAが一緒に格納されていた。小さなジャンルだけにみんな仲がよく、ABの人をフォローしたつもりでも、当たり前のようにBAがRPされてきた。元々多少なら食えると思っていた逆リバも、あっというまに辟易してしまい、思った以上にBAがダメになってしまった。私はぐったりしながらフォロイーのRPを切って回り、BAをミュートワードに設定した。
私は友人に愚痴った。
「いくら雑食が多いからって、このジャンルは腐女子の常識がなさすぎる。死ぬわけじゃないといっても逆を見る前に心の準備はしたいし、さすがにキツい。住み分けぐらいちゃんとして欲しい」
雑食の友人は言った。
「それはお気の毒。でも、気にする人がほとんどいないなら、いいと思ったものは気ままにRPしたいし、わざわざ区分して別々に作品を上げるより全部まとめてアップする方が楽なのもわかる。それでもそのジャンルの人には読んでもらえるわけだし」
そしてこう続けた。
そう、これは固定への配慮の問題だ。ちゃんとカプ分けしなかったからといって、何かのルールに反しているわけではない。それでこのジャンルの人たちが楽しくやっているなら、私にとっては息苦しいが、誰も悪くはない。
「固定」とは、「そういう障害」なのではないか、と。症状の出方や強さに個人差があるところも共通している。
雑食の人は「健常者」なのだ。バリアフリーじゃなくても、何も気にならない。カプ分けされてなかろうが、生きづらいということもない。
たいていのジャンルは固定者の圧が強いので、当然の常識として「ABとBAは住み分けるべき」とされている。それは「腐女子界隈にはこの障害を持つ人が多いので、配慮が行き届いた状態にしないと逆に叩かれる」からではないだろうか。
固定者は障害者なので、配慮がないと生きづらくて仕方がない。けれど、健常者が多数を占める場所では配慮しなくても困る人が少ないから、細やかな配慮はされなくなってしまう。だって、その方が健常者にとっては楽だから。気にすることが少なくて済むから。
最近話題になった「逆を目にしただけで寝込んでしまう」だとか(それが本当なら確かに日常生活に支障をきたしているのだからまごうことなき障害だ)、車椅子騒ぎだとかを合わせて思い出して、私は猛烈に自分が恥ずかしくなってしまった。
五体満足で目も耳も使えて、発達も定型。そういう人ばかりが集まっているところに障害者が入ってくると、それまで必要のなかった「合理的配慮」を求められるようになることがある。できればお互い気持ちよく生きられるといいね、とは思うけれど、正直なところ「めんどくさい」と感じてしまう人はいると思う。自分だってそう思ってしまうことがあるだろう。
さらに言えば、そもそも障害に気付かれないこともある。目に見えない障害ならなおさらだ。そういうとき、マイノリティである障害者の存在はまるで「ないもの」のように扱われてしまう。それらが我が身に跳ね返ってきた瞬間だった。「このジャンル、みんなどっちも好きだからいいよね~」という雰囲気が、誰も悪くないのに自分にとってこんなにしんどいものだとは思ってもみなかった。
「自分は面倒くさい存在なのだ。他人に配慮を要求して、それを当然と思い込んでいたのだ」
自分を健常者だと思い込んで生きてきた人生で、それは頭を殴られたようなショックだった。あまりの衝撃に、今この文章を書くことで心を落ち着けようと試みている。
私がこれを書き、それを誰かが読むかもしれないことで、なんの問題が解決するわけでもないけれど、もしかしたら何か見え方が変わるものや、新しく見えてくるものがあるかもしれない。できたら、少しなにかがよくなるようなことだといいな、と願っている。
婚活で出会った女性と結婚を考えているんだが、結婚する時に自分の資産を開示したほうがいいのだろうか?
婚活のときはあまり年収が高すぎても良くないみたいな話もあり、年収800万で活動していたので、彼女は年収800万だと思ってるはず
でも実際は年収が1200万くらいあって、不動産と金融資産が合わせて10億くらいあって不労所得が2000万くらいある
ただ親族がなくなったら相続税等を払わなければいけない予定もあるのであまり裕福だと勘違いされても困るなとも思っている
後は親戚付き合いしてるとどうしてもどこかで不動産持ってることとかバレるよなとも思ってる
どうするのが良いのだろうか
数年前にYouTubeで``不登校少年革命家``として活動を行い、多くの議論を引き起こしたゆたぼん。
YouTubeのコメント欄は常にゆたぼんに対する中傷、そして彼の後ろに見え隠れする父親の方針に対する批判で溢れかえっていた。
自分はゆたぼんとタメだ。
ゆたぼんが嫌いで、ゆたぼんアンチをやっていた。「学校行けよアホ」、「そんなんで碌な大人にならねえよ」みたいなコメントをずっと送っていた。
ゆたぼん当時小5、自分も小5。自分がゆたぼんに送ったコメントは全部自分に返ってくるもので。
どんなにアンチが付いてもそのアンチを挑発するような動画を投稿するゆたぼんの無敵さにイライラしていた。
中一の春、世間がゆたぼんを忘れ始めた頃。自分もゆたぼんなんかすっかり忘れていた。
平日の3時。学校のチャイムが風に乗り家にまで聞こえ、焦燥感に包まれる。
ゆたぼんが嫌いだった。 自分はずっと不登校をやめたかった。やめどきが分からなくなって、友達もいなくなって、学校への行き方が分からなかった。
自信満々に不登校をやってるゆたぼんが嫌いだった。
時は流れ、ゆたぼんが「通わない、制服も買っていない」と宣言していた中学校に登校し始めた。 Twitterでは父親に対して反抗的な態度を取る投稿をしていた。(これはネタなのか分からない)
自分も中二の後半に入ってから、学校の先生の支えもあって学校に登校するようになった。
ゆたぼんが話題になる少し前から不登校だった自分は4.5年ぶりに教室で他の生徒と授業を受け、給食を食べた。
久しぶりにまともに通った学校は、友達もいないし、図工はなかったし、自分以外大学ノートとシャーペンを使っていたけど ``学校に行けた自分``が只々嬉しかった。
そして今年、2024年春。
ゆたぼんはここ最近、公立高校一般入試に向けたツイートを行っていた。
悲しいとか、ゆたぼんアンチをやってた身が言うのはエゴすぎる。だから何も言わない。
ゆたぼんなら、大丈夫だと思う。
小学校六年、中学三年の義務教育が終わった。 不登校になって、ゆたぼんアンチになって、不登校をやめ、中学に通いだして。
思えば自分が不登校になってからの4,5年間、ゆたぼんと共に成長してきた。
そこで私は相談を受けた。数年前は知人と似た職業で似た立場だからと。
知人はアドバイスを根掘り葉掘り求めるような姿勢ではなく、粛々と進めている印象だった。
私に対して、1つ2つ質問する程度。
しかし、私の話は数年前の話で再現性もない泥臭いリスクの高い行動と認識もしていたため、アドバイスの言葉を飲み込む。
「数年前の話で状況も変わっているから」と言ってアドバイス欲を発散する行動を控えた。
知人を思うなら、アドバイスというよりコーチングの観点から相手が抱える問題と付き合うべきと考えたから。
なぜアドバイス欲が発生するのだろうか。
ソフトウェアエンジニアとして働いてきて、端的な質問に背景も知らない中で断定的なアドバイスは、人間が抱える問題を解決しないと経験則で感じていたから?
いや違う。
私も苦労したから、苦労経験と切り抜けた経験を語る機会をもらい、語ることで、私の苦労を誰かに認めて欲しかったのかもしれない。
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数年前までの私は、自分の言葉を相手に投げつけがちな姿勢だったけど、今は少し違うようだ。
年齢を重ねたからか、多くの人と会話するようになったからか、それともIT業界で活動してコミュニケーションの大切さと勘所を知ったからか。
相手を多少なりとも慮るようになれたから、情報を取捨選択して問題解決する思考を得られたから、休日やオフの時間で睡眠時間を削ってまで熱中する趣味を得られたから。
生産性になぜ差異が生じる かの原因の 1 つは,おそらく文章を書くという作業があ る種のスキルであることに起因していると考えられる. すなわち,生まれつきの技能や特別な才能ではなく,地 道に練習をすればある程度までは論文を執筆するスキル は身に付けられるものであり「文章を書くという作業を 習慣化する(生活の中に組み込む)」ことこそが最も重 要なのではないかと思う.
自分自身を振り返ると,授業 や学内業務,社会活動をはじめ様々な日常業務がある中 で,いつも忙しいというのを言い訳にして「もう少しま とまった時間があれば,もっと論文が書けるのに」とい つも考えており,その改善策を考える上で,私の周りに いる生産性の高い研究者に教えを乞うことが有効だと考 えた.
そのため,論文執筆の生産性が高いと考えられる 研究者を対象に,執筆作業の効率化およびそれを習慣化 するための具体的な工夫等について聞き取り調査から明 らかにすることを試みた.対象者は,論文の生産性がかなり高い研究者 3 名(男性 2 名, 女性 1 名)であった.調査内容は, 1 )論文執筆作業を習 慣化するための具体的な工夫, 2 )論文執筆作業を効率 化するための具体的な工夫,の 2 点である.
論文執筆作業を習慣化するための工夫として,「タイ ムマネジメント」の一環として,論文執筆の日は出張に 行く日と同じという感覚を持つことが挙げられた.具体 的には,実際は自分の研究室にいるが,出張で終日不在 にしている体裁で論文執筆作業のみを行うというやり方 であった.特に,手帳に論文執筆の日であることを明記 し,他の予定を入れない,メールの確認頻度を減らす, 急用でないとメールは開かない,集中度が高いときは電 話にもでないという工夫をしていた.
また,早朝の時間 を論文執筆作業に充てるという意見もあった.学生指導 を含めた業務時間を自他共に分かるようにし,指導学生 には業務時間になってから相談して欲しい旨を伝える工 夫を行っていた.
さらに,無駄な時間や作業を減らすた め,非常勤講師や超過コマを持たない,むやみに学会発 表をしないといった意見もあった.
一方,いつまでに書 き上げるかのタイムスケジュールを(数カ月単位で)徹 底的に組み締切を作る,最低でも一文を書いてから帰宅 する等の「目標設定」を上手に行っていた.また,構想 から論文化までを一括管理し,何をどこまで書いたかを 常に把握しておく(可視化する)といった「セルフ・モ ニタリング」,できる限り大学に行く(まずは **やる場所** に行く),ふと良い流れや改善点,文章が浮かぶため, 常にメモができる状態にしておく等の「環境整備」に関 する工夫がみられた.
論文執筆作業を効率化するための工夫としては,作業 過程を 5 段階に分類するという意見があった.具体的に は,
①先行研究の動向を把握する段階(雑誌の最新号目 次のメール配信サービスの活用),
②データを分析し, 結果を確定させる段階(シンタックスを自分で書き, 分 析手続きの記録を残す),
③論文構成を考え,まとめる 段階(「日本語で」「段落ごとに」執筆する内容や主な引 用文献を, 箇条書きに簡潔にまとめる),
④文章を執筆す る段階(数日程度, 執筆のみを行う時間を作り, 細部は気 にせず一気呵成に書き通す),
⑤文章をブラッシュアッ プさせる段階(冷静に見直すため少し日数を置き, 全体 の一貫性など細かな修正を行い, 仕上げる)であった.
また,書く→修正→書く→修正ではなく,執筆自体が止 まらないようとりあえず全体を書いてから修正する,上 手に気分転換を図る(同時に複数の論文を書き, 1 つが 行き詰まったら他の論文を進める)といった意見も挙げ られた
論文執筆作業を習慣化するとい うことは,自分が重要性を感じているその他の時間との 価値交換を行う場面が多々あるため,なぜ自分は論文を 書くのかということを改めて突き詰める必要があるよう に感じた