はてなキーワード: 箱庭療法とは
なんで、って考えるのはあんまり意味ないんだよね カントクの箱庭療法みたいなもんだから
昔からモヨコがいましたって出来合いにするの 上手いじゃない いいんでないの?
自分のタイプではないけど場を引っ掻き回す子に振り回された風に自分の過去から脱却してきました みたいな言い訳 させてあげてもいいんじゃない?
結局シンジが自分で立ち上がったみたいな描写のないのはカントク自身もよくわきまえてんじゃん
特異点ではこの世の常識が通用しないってガイナックスの遺産も使って 槍ってメタファーが世界を変えるとか女性も領域展開できる棒を瞳に忍ばせてるとか生々しさも文芸感があっていい
あの段ボールのビルの底に手書きで東宝のロゴみたときはカントク入り込んでるなーって勢いがあった
自分は業界で神様っていわれてる人たちになれてないのを首輪にしてたのもセンチメンタルでいいよね いつでもはずせたんだぜみたいな強がりも
首無し女体の山とかも全部女体にしたのちょっといまどきでは言葉にすると炎上しちゃうけど絵面だけにとどめて解説を許さなければ表現で済むのも巧
カントクの童貞心にどれだけリアルの肉体関係が彼を苦しめていたかすごく伝わる
世界を女体で埋め尽くすのが彼の世界平和だったといっても 謎なのは槍の本数
仕事とプライベートが一致する肉体関係が世界を切り開くとはいっても 槍をうけとるのはエヴァではなかったのではとちょっとシナリオにカントクの孤立を感じた
次があればアヤナミ的なカントク自身の女性的なココロの趣味に女性側からアンチNバイブを突っ込まれる趣味もさらけだしてもファンはついてくるとおもう
それくらいみんな影響をあらわにしてるしいまでもみんなファンだよ
腐女子やけど、高校生の時に初めて作った携帯サイトに掲示板を付けた
ただ単に当時はサイトと言ったら掲示板を付けるのがデフォルトっぽい空気を感じていたし、御多分に漏れずフォレストページでも簡単に掲示板を付けることができたからコンテンツの1つとした
ただそれだけだ
ただ紙に丸ペンとコピックで描いたの絵の写メを載せていただけだったが、なぜか掲示板には書き込みがあった
私はリア友でもない他人のサイトの掲示板に絵の感想を書き込もうなどと考えたことがなかった
このロジックでよく考えたらそもそも最初から掲示板を付ける必要がなかった
なにも考えていなかった
知らん他人と絡むのは怖いからリンクページなどは絶対作らないと思った時点で掲示板をコンテンツに入れるべきじゃなかった。アホだ
なぜか私のペンネームにそっくりな名前で書き込む人もいたし(私が〇〇、相手が〇〇ぽん)、たまたま似たペンネームなのかな?と思うようにしたかったけど書き込み頻度も高い
とても穏やかな文体で決して荒らしなどではないとはわかるのだがどうしても怖かった
こんなガキの絵を褒めてくれる優しい人はたまたま娘の携帯を見てサイトを見つけたリアル私の母かな?と本気で思っていたし今でも少しはそう思ってる
まあ、リアル私の母はそんなふうに携帯サイトの掲示板を使いこなしたりできないのだけど
そして褒めてくれるのが好意だろうと、逆に怖い。だって顔も知らん人だよ?私におべっか使う必要はない
それが怖い。この気持ちに共感してくれる人を遠くから見つけることができたらとても嬉しいくらい、インターネット世論から外れた感情かなと思っている
Twitterとかでも「感想を送らないと同人作家は筆を折る」みたいな私と正反対の極論の方が大きく聞こえるからね
あと知らん他人とインターネット上で、特に私の絵を媒介して絡むのは嫌だがリアルで知らん他人と話すのは好きだ
インターネット世論で嫌われがちな絡んでくるショップ店員と話すのが大好きだ
まあそれはアパレルの販売員ではない裏方だからというのもでかいけど、美容師とか、旅行中にその辺にいる人たちとかと話すのも好きだ
でもインターネット上で私の絵を媒介して絡むのは嫌だし、リア友でも相手が私の絵を変な持ち上げ方してくると徐々に気まずくなるのもうわかったから自作の同人誌渡す時はでかい声で「絶対感想とか言わないでね!」と言う
「感想いらないなら不特定多数に絵を見せるな」みたいな極論も聞いたことあるけど、私は自分の絵も漫画も好きで並べておきたいし、サイトを作ったり新しいSNSに登録するのも好き
勿論localhostにネットには上げてない小学生の頃からの絵を全部ずらっと並べたサイトだって作ってるよ
でもコンセプトごとに厳選した絵を載せるサイトをワールドワイドウェブに置いて、自分以外の誰かが私の絵を見てる形跡を発見して、どんなふうに見たのかなって生ログのページ遷移時間から想像するのが好き
でもよく知らん他人から接触されるのはいかに相手にとっては好意であろうとまじで怖い
私は好きで趣味で描いてるだけだからこれ以上改善してどうこうとかはそんなに思わんし、技術的に悩む時はあるけどそういう時は絵の上手いリア友に相談してるから不特定多数のご意見は不要だ
好きな「趣味」という大枠の中にコアとなる好きな部分と付随する苦手な部分があるのは多くの場合に有り得ることだ
その大枠から苦手な部分を限りなく取り除いて濃厚なコアだけ味わいたいじゃん
好きなことしたいなら苦手なことも受け入れろなんて根性論今時昭和すぎるでしょ
そんなわけで私からしたら「絵」と「不特定多数のご意見・ご感想」にはなんの関わりもないよ
勝手にセットにしないでほしい
まあこれもイマジナリーエネミーを勝手に見て心が騒いでるってだけなんだけど
いくつかの携帯サイトを作った高校生時代が終わり、大学生になると有料鯖を借りてPCサイトを作るようになる
長年ねらーで同人板の影響を多分に受けていたため同人サイトとは言え連絡先が1つもないのは無責任と思っていた
そしてメールフォームや拍手は感想を送りやすいが業務連絡用と書き添えたメールアドレスのみなら感想を送りにくいらしい
私は〇〇○★yahoo.co.jp(★→@)のような表記がダサく感じて嫌だったので、しっかり@込みでメールアドレスを画像にして貼った
画像ならコピペできないし一文字一文字打ち込むのは絶対にめんどくさいからよっぽどの不具合がなければ誰も連絡を取ろうとはしないだろうと踏んだのだ
クソめんどくさい。適当にお礼を言ってスルーしたかったけど多分これが営業ってやつだろうと思った
勝手な妄想が膨らんで相手をフォローしたり相手の作品に10点入れた方がいいのかなという圧を勝手に感じた
もうそんな妄想をしてしまう自分自身が嫌だった。だからとにかく私に触れないでほしかった
この頃にはだいぶ学習できてきていたのでかなりお触り禁止感の演出ができていたのではないかと思う
大体の人が黙ってRTいいねだけしてくれるし、bioで予防線張ってるから直リプも無視し放題だ
一言感想の空リプ引リツは結構あるけどこれは割とおもしろかった
どうやら私は感想メールに返信しなきゃいけないという義務感の発生が最も嫌だったらしい
でも積極的に感想欲しがってると勘違いされたら困るから絶対に反応しないしマシュマロとかは絶対置かない
Twitter見てると前述の「感想を送らないと同人作家は筆を折る」みたいなツイートがバズるのをたまに見かけるけどどうして?
個人的にはそういう極論を持ってる人ってごく一部で、大半は感想はあったら嬉しいけどなくても別にって人、そして感想不要って人も見かけよりは多いと思ってる
私は過去の経験から「感想不要」と明記せずとも感想を送りづらい雰囲気を出すことに長けてきたと思う
でもわざわざ不要と書くのはなんか怖い
感想を欲してやまない、でも全然もらえなくてほぼ飢えてるような過激派、同ジャンルでも目立つからついついヲチってるけど、目視したわけでもないイマジナリー感想不要の人を脳内ででっち上げて「嘘つき」とか「聖人君子を気取ってる」とか罵ってるもの
こっちからしたら私が「感想ください!」って言う方が嘘だし、人の好意を受け入れられない私みたいなタイプの感想不要人が聖人君子とはとても思えないけど
本人はほしいもんはほしいって言わなきゃもらえないって発想に捉われてるみたいだけど、逆にあの攻撃性の発露こそが「感想を送りづらいお触り禁止感の演出」の極致にすら思える
私は割と詳細なウェブ性格診断みたいなのの結果を見るのが結構好きだ
感想を欲しがるのって診断結果を早く見たいような気持ちと近いのかな、と勝手に想像している
確かになんかそういうののプロが私の漫画を読んで心理分析とかしてくれるならすごく興味ある
お金払ってでも頼むと思う
そういうことなのかな?
でもインターネット上で誰かに感想を送るであろう人の大半は心理分析の素人だろうし、別に感想って大部分は心理分析じゃないし、私はいいかなあ
(いくつかフェイクあり)
カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。
それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。
増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。
増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。
長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的なものだけを箇条書きで挙げる。
臨床心理士の資格を持っている50代の女性。中学生くらいの子供がいるらしい。
髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。
初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ、人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分は専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間も逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。
二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングとカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去の出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談をきっかけに、突破口を開いたこともある。
夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形や模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉の論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議な経験だった。箱庭療法の最初の一回も、自分の心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。
これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。
治療も後半になると、こうした技法はほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分の気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。
始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分はカウンセリングの技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイトの著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳の理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから、必然的に相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つのは人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。
カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理な仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活、自慰行為、風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。
そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。
最後に、カウンセリングの時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情を自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなたの感覚はそれほどおかしなものではない」という趣旨の言葉を返してくれるだけで、自分の過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。
ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月のことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分を軽蔑しない彼女の存在が尊く思われた。
珍しくないことだが、自分はカウンセラーに好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなたを尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人に自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分は知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手に尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人を尊重することを身をもって学んだ。
一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。
過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事に感謝することを学べたように思う。
また、自分の恐れの感情やトラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。
もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。
何よりも現実検討能力がついた。不安を不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安のエネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。
悩みの解決の過程を言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。
過去のいじめ、対人関係のトラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言・表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分と相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分と他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対に不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分が女性から不快な思いをさせられた経験から、絶対に女性を傷つけてはいけないというルールを自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。
それに、世間にはいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性が自分に暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。
フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。
仕事に関しては、転職をした。自分の能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。
男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間の価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。
その中で、家族との関係も改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間だからこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。
処女厨もロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生と恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックスは気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。
女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子はかわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間は自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。
同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器を露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントとカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。
死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。
カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。
とても感謝はしているけれども、自分で自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日の出来事を淡々とカウンセラーに報告するだけみたいになっていた。
というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ。
ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。
最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/373492901/comment/bocbqcmn
http://www.miemelody.com/about
◆学んできたもの◆
直感力開発・リモートビューイング・アートセラピー・カラーセラピー・レイキ・フラワーエッセンス・瞑想・ヘミシンク・前世療法・チャネリング・EFT(タッピング)・プロセスワーク・ビリーフチェンジ・コーチング・NLP・フォーカシング・交流分析・アサーショントレーニング・箱庭療法・氣功・ヨガ・合氣道
http://www.miemelody.com/entry/2018/06/30/000000
このブログでは
についても書いている
「性的に強調されている」
なんか被害者意識じゃない言葉が浮かんだんだけどうまいこと言えないし、それでツイッターでわんわんしてる人たちを擁護するわけじゃないのでまあいいかみたいな。
例えば端的なキャラクターとして、すーぱーそに子が性的に強調されているかと言えばされている。それに対して、どんな社会的な悪が存在するのかを説明する時、肉体以外の話をできるのだろうか(おっさんくせえ音楽趣味とかはあろうが、別にそれも大した問題ではない)。
肉体の話をした時、実際の肉体を持つ人間に対して同じことを言えるのか。また、実際にすーぱーそに子的な肉体を持った人間が、それを活かして商売をした時にどういった批判をするのか。批判が有効なのか。また、すーぱーそに子という「ただの絵」に対して申し立てた批判がどういう意味を持つのかきちんと現実的な言葉を打ち立てられるのか。
「描かれたもの」がどういう暴力性をはらむのか、というのはいくらでもこじつけできるんだけど、「私に対しての暴力性」でしかないので、その暴力性が「本当に私に対してのものだったのか」という無限の証明性を求められる現実がある。それに対応するくらいなら無視して好きな対象を消費したり、あるいは自分に対してもたらされた暴力からサヴァイブするために虚構を自ら作り上げたりしたほうがいいのではないかなあなどと思う。本当のレイプ被害者の人には難しいと思うけども…(一種の箱庭療法的なものとしては可能かもしれないが…)
元増田だけど、現実に人間が何か逸脱的な行動を起こすときって複数の要因が絡んでるものなので、赤の他人に伝えたい時は仕方なく何かの側面に絞って書くけど、近しい事をしている人間が読んでしまった場合、何か一つのせいにして自分の逸脱的な行動の原因にして怨んでしまうのはいい結果をもたらさないかもしれないというのは伝えておきたい。
自分だって元記事ではああ書いたし、確かに箱庭療法のような復讐の意味合いは強かったけど、だからといって承認欲求を満たしたいという願望がなかったかと言われたら、それは絶対嘘になってしまう。
低能先生氏や自分や言及してくれた貴方と価値観や動機が全く合わないような赤の他人が少しでも理解する助けにはなるかもしれないけど、逆に近い位置にいる人間が読んで原因を一個に絞るのは危険だ。
ちょっと違う例になるけど、昔アメリカで『毒になる親』(邦題)という本が出た。今でいう「毒親」の語源になった本で、この本が出てから自分の逸脱的な行動や歪んだ性格の原因を親の教育にする人が沢山出て社会問題になった。暫く経って、実際問題親がどれくらい子供の人格形成に影響を及ぼすのか調査した結果、親の教育は子供の人格を逸脱的には変えられないどころか、有意差が存在するかどうかも疑わしかったという報告が1つ発表されてしまっていたりする。(5年くらい前で1個だと思ったので、今はもうちょっと増えているかもしれないけど、こういうのをきちんとした結果を求めてやろうと思ったら長い年月と資金が要るのであまり調査出来るものではないんだ。)(ただし虐待は性的非性的問わず有意に悪影響を及ぼすことが大昔にハッキリしている。)研究自体の数も少ないので真偽はまだ実のところ不明で、単に難儀な性格が親から遺伝しただけなのではないかという見方も相当ある中、それにも関わらず、「自分の人格が歪んでいるのは親の教育のせいだ」と全て教育のせいにしてしまって、間違った憎悪を抱えてしまっている人も本当にたくさんいるんだ。これは凄く悲しいことだと思う。
繰り返し、元のエントリはこういう事に全く縁のない他人に向けて書いたので、現実に荒らしを行っている人が読んだときには「原因は本当にそれだけか?」と考え直す必要があるとは思う。
まぁ、個人的には、無関係だとは絶対思わない。そしてよーーーく考えてみてやっぱりあの頃の行動を自分が繰り返していると思ったら、それはそう思って良い。でも、一回は絶対に考え直して欲しい。
あともう一つ、原因が特定できたからと言って、それが治すことに繋がるとは限らない。長期的には、ブコメで言ってくれた人もいるけど、認知行動療法や、新しい趣味、全く知らないサイトでゼロから始めてみたりするのがとりあえず一番の手助けになると思う。
がんの原因なんてとっくに治っているけど患者ががんの発生理由を生物学的に理解したからと言ってがんが治るわけではないのと同じ。肺炎にかかった時に必要なのは治療薬であって医学書ではないんだ。小さい頃のいじめに原因があったからとしても、分かったところで逸脱的な行為の解決には繋がらない。
勿論やめなくてもいいし、自分みたいに激情的な性格を受け入れて暮らしていくことだって出来るし、それも選択肢の一つだし、そもそも治す事を望んでいなくて、増田はただ自分の奇妙な行動に一つ折り合いがついて納得が得られただけなのかもしれない。それならとても幸いに思う。
ちょっと不安だなと思って書いておいた。言及してくれてありがとう。似たような人がいて嬉しかった。少しでも幸せになれるのを祈ってる。
心理学では箱庭療法という治療法を用いる事がある。空の箱の中へ好きなフィギュアを用いて自由に配置させ箱庭を作らせる。これは、表現療法でもあるらしい。だとすればどうぶつの森というゲームもその一種だ。
頭の中に空想を描きながらまるで盆栽でミニチュアの世界観を作るかの如く、和気藹々と動物たちを暮させる。これには対象の心理が自ずと現れてくるものだ。落ち込んでいるものは何も配置できない。几帳面な者は整然とした箱庭を作る。こうして内面が表に出てくるものだ。
はじめは荒涼なる大地に魔法をかけるかのように、物を増やしていき創造主のような面持ちで世界を作っていた筈だ。
twitterで拡散される事を目的に、劣悪な環境を作り上げるものもいる。その行為ですら、人間性や心の闇の一部を浮彫とさせる。
他人の承認を得たいが為に構築された世界観。どうぶつの森は心の病理も含む一切を詳らかにする。面白さはその点にある。箱庭を通じた他者理解が可能なのである。
どうぶつの森の世界観には、創造主を認める自由な雰囲気があり、解決出来る程度の問題があり望ましい関係がある。遊びを通して、自分自身を表現していきたいものには打ってつけだ。
http://mess-y.com/archives/42524
これのブコメ
@irodori_kotori
発達障害かな?と感じたら医療機関へと言うけど予約取るの簡単じゃない。某クリニックの初診予約(5月分)30分リダイヤルで頑張っても撃沈。/ADD傾向で怠けてると思われて父親や祖父の躾が激烈化してる息子を救いたい。
その通りだよなと思う
精神病院に行けば何かしらの処方があるかと近隣病院のサイトをチェックしてみたが「大きな総合病院に行け」と書いてあるばかりだ
生まれつきの障害で完治するわけじゃないし、永久に通うことになるなら駅の近くで対処して欲しい
自分ではなく弟のことだが
うちの弟は今30歳なんだけど、小学生の頃に発達障害だと判断されて区のカウンセリングに通っていた
当時自分も小学生だったので詳しいことは知らないんだけど、区役所ではない何かの役所?のようなビルまで送り迎えをしていた
弟の症状は多動性障害がメインだった
授業中、ずっと座っていることができなくて立ち上がってしまう
シーンとしている授業中にスーッと引き戸が開き、その隙間から弟の顔が覗いて、自分と目があった途端にニッコリ笑う顔を覚えている
全校朝会でも列を抜け出して前方で当時流行っていたクレヨンしんちゃんの真似をしようとしたり
先生も誰も怒っていた記憶はなかったが、自分がものすごく怒ったのでその後の再発はなかった気がする
たぶん
でもしてたような気もするし、あいつがそういう奴だっていうのは受け入れられていたから、もうその時には腹も立たなかったかな
同学年の弟がいるクラスの女子に「あんなのが自分の弟になったら恥ずかしくて死んじゃう」みたいなこと言われた時には、こいつに弟の良さの何がわからんだと思った
でも弟はそいつの弟とも友だちだったので家に出入りしていたらしく、そこそこお世話になっていたらしい
自分のクラスメイトの男子には可愛がられていて、本人も年上に声を掛けられるのが嬉しいらしく、いつも彼らの気を引くためにひょうきんなことをしていた
同学年での扱いはどうだったか知らないが、なんとなく女子から嫌われているらしいという雰囲気は伝わってきてた
女の子を叩いて泣かせたり
そんなことをして人気者になる方がおかしい
ただ男子はいつも家に大挙して遊びにきていたのでハブられたり虐められたりはなかったようだ
母親は大変だったと思う
父が子育てが一番大変な時期に不倫をやらかしたり、会社が傾きかけて借金取りから逃げ出すために家出をしたりで信用がなかったため、ほぼ彼女一人で対応することになった
バリキャリとして働きに出ていたので手が回るはずがない
連絡簿を弟の担任に手渡す度に「お前も大変だろうが頑張れよ」というようなことをたまに言われたが、なにを?という感じだったし、今でもわからないのだが、もしかしてあの時自分がもう少し弟の世話を上の子らしくやっていれば彼の将来は違ったのかもしれないと考えたりもする
仲のよい兄弟として認識されていたし、実際ケンカもあったし泣かしもしたが、それは四六時中一緒にいたからだ
弟には全校生徒に顔を知られる快感というのが身に染みついていて、根が派手でトンデモな方向にむいているのはそれが原因だろうと思う
それともそれも含めて障害なのかもしれないが、それくらいなら個性のうちではある
中学校に上がり、弟は落ち着いたように見えた
年相応の少年としての情緒を育み、部活動にもチャレンジしたが顧問の先生に目を付けられて止めた
これは単純に巡り合わせの不幸だった
問題だったのは成績の方だ
壊滅的に勉強ができず、かといって塾にも向いていない弟は家庭教師をつけることになった
ただ、根本的に勉強への意欲を欠く弟の成績を爆上げするには及ばなかった
その後、高校を中退するまでずっと見てくれていたが結果には結びつかなかった
その頃には別々に暮らしていたためなんとなくしか把握していない
都内にはそのような定時制の高校がいくつかあり、弟が通っているのは自由な校風で知られた学校だった
この先生は自分を担任したことはなかったが、気に入られていていたのか、たまに呼び止められて話をすることがあった
担任していた生徒の一人が自分の友人で、そいつが揉め事を起こした時に相談を受けたりとか、弟が上がってきた時には「おまえの弟なんとかしてくれ」とか
「おまえの弟なんとかしてくれ」は昔から先生によく言われるセリフで、みんな笑いながら言うので漫才のセリフ回しみたいなものだろうと思っていた
だが「あいつはたぶんこの先、苦労するよ」としみじみ言われたとき、そうなのか、とハッとするものがあった
しかし弟の人生は弟のものだし、自分は目の前の人間の表情しか見ずに雰囲気だけで話しているところがあるので「そうでしょうね〜」と流した
その後、いろいろあって今は一緒に暮らしているが、正直お先が真っ暗である
好きなものだったからだろう、そこそこ働けていたらしく、バイトのマネージャクラスにまでは行けたらしい
だが、家族から「将来性がないことをいつまでも続けていていいのか」と言われ、そのバイトをやめてしまった
それ以外のことが何もできないなんて、その時はさすがに考えていなかったんだろうと思う
いろいろ試して、でもできないのでまた業界に違う居場所を見つけた
そこは前の場所よりは経営的に真面目なところで、なんというか手堅い仕事をしていた
業界というからには似たような仕事内容ではあるのだが、肝心の成果物を弟はどうしても愛せなかった
自分の良いと思ったものが認められず、どうでもいいと感じる部分がウケているのに納得がいかず、弟はまた転職する
転職先は彼の嗜好に合致し、やる気を持って仕事に向き合っていたらしい
が、気づいた時に彼はサボりがちになり、気がついたら仕事をやめていた
それから三年くらい、末端のバイトをしたり、バイトの面接を受けては落とされ、落とされ、落とされ、落とされ、落とされ、落とされ
深酒が過ぎるようになってから、カウンセリングを受けてみてはどうかと彼に伝えてみた
あれはもう二度とゴメンだし弟もそう思っているだろうが、酒はその信念をなかったことにする
アルコールで脳みそが萎縮してからでは遅いし、もうだいぶ縮こまっているんじゃないかとも思うが、弟にとって数少ないストレス緩和手段を取り上げることへの疑問もある
本も読まないしニュースも見ないし、そもそも理解する気もないのだと思う
世界や社会との接触がないものだから、自分の外にある知識や自称に興味を持つということがない
テレビを見、ゲームをし、インターネットの無料のコンテンツでただただ時間を浪費している
読んでみるといいと伝えたが読んでいるのかはわからない
まあ、これも東京での常識 に 近い んだけど。 部落解放 がらみ なら あまり「頭数優勢」 を 「みない」 ことだろね。 「頭数優勢」を「みる」すけべ心 が もっとも 性質 が 悪い。
まあ、ある程度の年齢にさしかかると 自分の劣勢 を 自覚 する こと が 多々 あるんだけどね。
立ち回り かた だね。
あまり 「恥ずかしい立ち回り方をしないこと」だろね。 「頭数が見える馬鹿」って 土壇場 に 極端に 弱い こと がある。
まあ。事業規模 を ほどほど の 規模 に 区分 するよう 行政指導 が あるんだろうけど「さ」 それも 部落解放 水平社 の 基本方針 だったりする。
まあ 精神医学の分野で 「箱庭療法」 といわれる 生活習慣病 改善 の 手立て が あるんだけど。
(こんなところ で よろしいかな? 母体 母体数 母数 母数 と 母体数 は 一致 しない。 事業法人数 と 事業従業員数 の はなし に スライド してくる から ここにしつこいひと は いるだろうね たしかに。
http://anond.hatelabo.jp/20130401110018
これを見て呆れた。物の見方が浅すぎる。
そんなことはない。むしろそこには自分の弱さに対するルサンチマンと、認知的不協和が見られる。
彼らは無自覚なのだろうが、モテないという言葉に本音が出ている。つまり、受容されることに飢えているのだろう。
垣間見えるのは他者から被拒絶感であり、その合理化が表出しただけである。その結果が「キャッキャウフフ」を愛でる箱庭療法的なアニメ鑑賞だ。
本音はモテたいである。受容されたい、承認されたいである。平和の象徴というのもセカイ系的なすげ替えだろう。
ところが彼らは自分の内面に閉じこもる。それは恋愛という他者理解とは真逆のところにあり、現実と妄想の区別が弱い発達障害的だ。(鉄オタにアスペが多いという話が最近話題になった)
このような内面性から発せられる性欲の解消ありき、女性蔑視と暴力性に他ならない。
対象が百合というのも象徴的である。彼らはホモソーシャルなのであり、アニメという性欲の対象に投影しているに過ぎない。
ようするに草食系というのは「内面に閉じ篭って」「自らを暴力的でないと思い込み「内面では女性に対する身勝手な決め付けをやめない」男なのである。
それを紐解けば、暴力的な欲求を抱くことを決して止めること無く、他者に対する無理解と、自省の無さが見えてくる。
●友達を大事にする/人間関係を絶たない
まこちんにとって友達の存在は大きい。友達の支えがなければ美人美容師にアタックする事もできなかっただろう。
ニートは恥の意識から昔の知り合いなどを避けて引きこもりがちだ。
だが人間関係は人間の成長に欠かせないものであるからして、ニートでも人付き合いは大切にするべきである。
●部屋はオモチャでいっぱい
遊具があって仲間も多い刺激的な環境で育てたラットは脳と体が他より大きいそうだ。
人間だって何もない殺風景な部屋よりも、ガラクタでも良いから色んな物があった方が精神的に良い。
オモチャを部屋に配置するのは箱庭療法みたいなもので一種の癒しだ。
まこちんでさえ女の子を部屋に連れ込んでいるのだから、、、
我々も例えそれが那由他より低い確率であったとしても、女の子に入られて恥ずかしくないように部屋を飾りつけるべき!
●世間体を気にしない
変に人目を気にすると余計にこじれる。コンプックスを感じてしまうのが一番良くない。
ゴーイングマイウェイで引け目を感じなければ、まこちんの様に堂々と彼女を作ったりもできるのです。
●特技を伸ばす
まこちんには漫画という武器があったからこそ成功した。何か一つでも特技があれば女の子を惚れさす事は可能・・・!
芸は身を助ける。
●話術を磨く
マニアックな分野でも構わないので二時間でも三時間でも話せてウケを取れる持ちネタを用意するべきだ。
まこちんは必殺のUFO談義でヤンキーからも絶大な支持を誇っていた。
●人気者になる
人望があって皆から愛されるキャラならニートでもリア充になれる。
俺には無理だが・・・OTL