はてなキーワード: 植物とは
優生思想とは平たく言えば「人類を品種改良して、より優れた存在にしようず」というものだ。
そして問題だらけ。
人間には多種多様な評価軸があり、客観的に優等/劣等性を判定するのは不可能だ。
評価軸を絞れば客観性はある程度確保できるが、今度は評価軸の選定が恣意的になる。
数学の能力が高い人が優等であろうか。それとも身体能力が高い人?遺伝的な疾病リスクが低い人はどうだろう?アーリア人こそ優等だと抜かしたチョビ髭もいたな。
何を以て“優れている”と言えるのか、優生思想における核となる部分は、完全に主観に依存しているのだ。
言ってしまえば「○○は優れている」という“お気持ち”に立脚した思想なんだね優生学は。
元増田君が判断した“上位互換”と“下位互換”だって、結局は君がそう決めただけなんだ。
「××は優等/劣等である。僕がそう判断した。そして優等は保護される/劣等は駆除されるべきである」という思想があれば、それが批判的にみられるのは当然と言える。
まあ「思想だけ」なら、今ほど批判されることもなかっただろうけど、悲しいかな優生思想は(悲惨な)実践を伴ってしまった。
言わずと知れたホロコーストを筆頭に、優生思想の現実での実践は悲惨極まりない結果を招いた。
実践方法が悪かっただけで思想は悪くないと言いたくても、“お気持ち”ベースの欠陥思想(なお、この“欠陥”というジャッジも私の主観に依る)じゃあそうもいかない。
全部。
褒めるとこがない。
私の考えでは、秀でた能力をいくつも持つ人だけ存在していればいいという考えなので、ナチスドイツの「優生思想」とは少し違っている。
ナチの人種に基づく優等判断は間違っているが、自分の“秀でた能力”に基づく優等判断は正しい、というお気持ち表明。
“秀でた能力”を判断するのは誰?元増田君?それが人種に基づいた判断に比べて適切である理由は何?というかアーリア人は“秀でた能力”を持ってるから云々はナチも言っとったぞ。
→一理あるが、たとえば生まれたときから常に介助が必要な重度な障害者などはどう説明を付けようか。
生きていても価値を生産しないし、他人の手を一生借りる必要がある点で社会に与える利益はマイナスである。
強いてギリギリプラスになる要素はと言うならメディアのお涙頂戴ものに使われるのが関の山。
もし私がこの立場に立ったら殺してくれとさえ思っていると思う。
ナチのチョビ髭はアーリア人以外全部マイナスとか言ってたけど、それとどう違うんだい?
自分の判断は正しい、というところから一歩引いてみたらどうか。
初マスダ…ども…
バトル用の6V厳選個体がポケモンコンテストでも優れているか?
品種改良された家畜や農作物は食味という点では優等かもしれないが、野生下での生存力は劣等である。
「勝手に決めるな!!」
以上。
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・・・これやべーわ、ワイも先月にオトートから『オフクロがアルツハイマーの診断もらった』て電話してきたばっかりやったし。たまには電話してくれ言われたけど(ワイはコロナ大都市圏近郊住み、オフクロとオトートは南九州住みで会えない)話題もないしなー、そういや昔に牧野博士の植物図鑑みて草花のイラスト描くようになったんよゆうてたなー、てネットでポチって四国から贈ってやったらえらい弾んだ電話かけてきてなー...(普段オトートに老老介護させててこんなんしてるワイがファインプレードヤってるみたいでホンマ自分がイヤ)
よほどのことが無い限り、いわゆる自分の「上位互換」なんて掃いて捨てるほどいる。
もともと自分の「上位互換」として生まれた人がさらに努力をして成功するわけだから、「下位互換」の自分が努力しても絶対に勝てない。あほらしくて努力しようとかそういう気すら起きない。
そんな自分のような「誰かの下位互換」が生まれて来る必要はないんじゃないか、という考えが自分の中にずっと根付いている。
そもそもこの考えが「優生思想」といえるのかが少々怪しいのだが。
「天は3物以上を与えるのが普通」という言葉を聞いたことがある。さもないと「上位互換」なんていう発想が生まれない。
最低限3を与えられた人間が10人いても、50を与えられた人が1人いれば後者が勝つだろう。
歌って踊れる顔のいい名門大学卒業のアイドルに対してダンプカーに轢かれたような見た目・音痴・虚弱体質・大学全落ち、そしておまけに前科持ちが束になってかかってもどうしようもない。
私が採用担当なら、体力があるが頭の悪い人と、体力があって頭のいい人で、他のスペックや雇用条件が全部同じなら迷わず後者を選ぶ。
ここまでは皆さんも理解してくれると思う。
だから、本当に多くを持って生まれた人さえいれば、その下位互換の存在価値なんてないはずである。
いなくても世の中は回る。
ここまでくると「ん?」ってなる人が多いかもしれない。少なくともこれまで出会った人のほとんどはそんな反応をした。
ただ私は本気でそう思っているし、どこが間違っているのかすらわからない。
ここからは実際にこういった思想に対して私が言われたことと、私の考えを書いていく。
気持ちでどうにかなるんだったら絶対今の世の中もっとましになってる。
私の考えでは、秀でた能力をいくつも持つ人だけ存在していればいいという考えなので、ナチスドイツの「優生思想」とは少し違っている。
冒頭で自分の考えが「優生思想」なのか怪しいと述べたのはその点である。
→一理あるが、たとえば生まれたときから常に介助が必要な重度な障害者などはどう説明を付けようか。
生きていても価値を生産しないし、他人の手を一生借りる必要がある点で社会に与える利益はマイナスである。
強いてギリギリプラスになる要素はと言うならメディアのお涙頂戴ものに使われるのが関の山。
もし私がこの立場に立ったら殺してくれとさえ思っていると思う。
そもそも自分は生まれる必要がなかったと思っているので問題はナシ、というより上位互換がいることで苦しんでいるかわいそうな人が減るんだからいいんじゃないかな?
→それなら上位互換の人の人数を増やせばいい。上位互換の人どうしがいっぱい生殖をすればいいし、なんならクローンを増やしてもいい。
→ゲームやスポーツだったらずっと引き分けるかもしれない。が、そういったもの以外のほとんどの条件でメリットが大きい気がする。
ただ、均質化が起こった結果、全員コロナか何かで死んで絶滅しました、なんてことになったら取り返しがつかなくなるのでそういった点では反対する理由にはなると思う。今のところ唯一の納得できる解かもしれない。
ここまで長々と書いたが、共感してくれる人は自分で言うのもなんだがよほどのサイコパスだと思う。
しかし、よくよく考えて欲しい。
ポケモンでバトルに勝つためにいわゆる「6V」だけを「厳選」したことはないだろうか。
パワプロで選手を選ぶ際も、能力値のパラメータを見てチームメンバーを「厳選」して戦ってはいないだろうか。
発想としてはこれに似ていると思う。ただ、「ゲームだから」という理由で問題視されないかもしれない。
人は家畜や植物の品種改良を行い、味や病気の耐性がよい、従来型の「上位互換」を厳選している。
これはどうだろうか。「人じゃないから」本当にOKなのだろうか。
ヒカリの父親が「うちの娘は下ごしらえが上手だから美味しい」みたいなことを話していたと思うけど、下ごしらえが重要な具材ってなんだろう?
一つはアクの強い食物。例えばタケノコとか。もしかしたらドングリなんかも食べるのかもしれない。
ただ、絵は植物という感じではなかった。青っぽい皮のようなものがついた白い身に見えた。
ただ、あの世界にクジラはいないと思われ、そうなるとペンギンなのかなぁという気がする。
青っぽい皮してそうだし皮下脂肪が多くて臭みを取るのに下ごしらえが重要になりそうだし。
シンジ君が来たからとペンギンをしめてご馳走を作ったのかもしれない。しめたわけじゃなく塩漬けかもしれない。でも塩だって貴重だろうから塩漬けは作らないのかな。
というわけで、あの料理の具はいったいなにが予想されているのか知りたい。
普通、手で稲を植える時は後ろ向きに進むらしい。作中のように前向きで進むと植えた苗を踏むかもしれないから。実際そっくりさんは足を取られて植えたばかりの苗をダメにしている。
どうして前向きで植えたのだろう?
あそこまで小さい棚田だと後ろ向きは転落などで危ないから前向きに進んだのではないか説、元々農作業をしていない人たちが始めたから素人っぽさを出す演出説を確認できたけど、それ以外にはないのだろうか?
例えばプラグスーツのお尻が破れていたからとか。それとも前向きで田植えをすることは珍しくない?
テレビ版を見ている人にとって加持君の印象はだいたい共通したものがあると思うけど、新劇のみを見た人は加持君の印象ってどんな感じなのか知りたい。
鑑賞中、アスカはケンケンに加持君の代理を求めているのかと思ったけれど、あとから考えると新劇でアスカは加持君にちょっかいを出していないので、それは明らかに間違いだと気がついた。
新劇だけを見た加持君はどんな印象で、シンを見て違和感とかないのだろうか?
マリの描写が足りないのでは?という意見はよく見かけるけど、そういう意見を持つ方にとって加治君の描写は十分だと考えているのだろうか?
冒頭のパリ奪還でいつものようにマリは歌っているけど、真実一路のマーチだけ歌いかたが可愛くない?
マリっていうよりも坂本真綾が演じる他のロリババアみたいな感じで、演出の意図だと思うけど、意図が全くわからない。
あと、あそこでリツコの台詞が「カチコミ完了」に聞こえるんだけど「書き込み完了」?
書き込みだと思うけどシンは変な語感の言葉多くない?ニアサーとか。
ニアサーという略し方は矮小化することで実はそんなにシンジ君を恨んでいなかったという演出なのかと思うけど、引っ掛かる言葉が多かった。
私も庵野、庵野というのがイヤなタイプで、そもそもどれが庵野秀明が意図したものでどれが庵野秀明以外のスタッフが意図した演出なのか私は知らない。
決裁という意味ではすべての演出に庵野秀明は関わっていると思うけど、そうではなくエヴァンゲリオン博士は見分けているのかもしれない。
なので、どこをどのくらい庵野秀明が関わっているのか、その見分け方を知りたい。
普段は完全食だけで過ごしている。たまに無性に別のものを食べたくなるので、食感の異なる堅いものや味の異なる梅干しなんかも常備してある。
最近はなめこの味噌汁を欠かさない。なんかもうよくわからんくらいうまく感じる。味噌汁には一家言あってカップ味噌汁は非常用のつもりだったのに、なめこが入っていればもうごちそう扱いになった。何かを買って食べるときも、オクラとなめこのミニそばがおいしくておいしくて、このところ他のものが候補に挙がらない。
植物のねばねばをムチンと呼ぶのは誤りらしいが、ただのペクチンとは明らかに違う。そういうねばねばの恋しさが異様すぎて、身体が欲している機能が含まれるのかもしれない。調べてみた感じあまりそれらしいものは無かった。繊維は充分すぎるし血糖値やコレステロール値が急上昇することもまず無いし。
同じものを食べ続けて死なないなんてあまり無いことだし、こういう好みの変化も人体実験っぽくて楽しい。
あまりレパートリーが無いので調べてみたが、やはり汁物や麺類に入れるか、あんかけの具にすることが多いようだ。ところてんに入れるのは簡単だし良さそう。
オクラは比較的色々使える。おいしい時期は生でもいいし。暖かくなってくると次々と旬のものが浮かんで楽しみになってくるなあ。夏になったらなめことオクラとめかぶととろろと納豆をいい感じに混ぜておそばと一緒にすすりたい。
ほっといたら地面に当たって霧散するだけのエネルギーを受け止めて、それを生産活動に充てる
翻って動物はどうか?
そも、「他者を食らってそれによってエネルギーを得よう」って魂胆が気に食わない
肉食獣の残酷さみたいなものは取り沙汰されることが多いが、草食獣だってやってることは同じだ
まあ果実食の鳥とかは、生産者と消費者の意図が噛み合ってるからいいのかもしれない
草ムシャムシャやってぶっ殺しておきながら、「私は何も殺さない平和な草食動物です!」みてえな態度してるやつらがイチバン気に食わねえ
太陽エネルギーをせっせと変換してくださってる植物先生を容赦なく食ってんだから、草殺しの顔をしろよ
争いって言ってもいまみたいに直接殺し合うヤバンな感じじゃねえ
そういう世界が俺は良かった
動物になろうなんて言った奴は誰なんだ?
植物先生を殺す業を背負って、俺たちの暮らしは本当に楽しいか?いま!
本当に最低だ
太陽光からエネルギーを得てれば、本来殺し合う必要なんてなかったんだ
摂理でもなんでもねー
人間がどんなふうにほかの動物や昆虫や植物と領地争いをして虐殺し撃退して寝る場所を確保してきたかを映画にでもすればいいかもね
人間は動植物の生命の循環の成果である酸素ただ一つ以外、ほかの生物一切の生産物を生活環境において取り入れないどころか排除を徹底してるわけで
家の中で落ち葉が発酵してたりキノコが生えてたり鳥が巣をつくってたり他の動物や昆虫と食料の備蓄をする空間を共有してたりしないよね
共生せずに他の動植物を排除して皆殺しにして一切を立ち入らせずそれどころか塵やほこりや風に舞ってくる動植物の破片さえ生活の空間から毎日排除してる
どうして入れないようにしてるの みんなの成育を阻害する密閉空間を地上にみっしりとはびこらせておいたそのうえで動物と共存とかいってるのおかしいよね
自分が手を下していないからいい 土地を切り開いた人間とか工事をした人間とか清掃をしている人間は残酷な人間だから他の生物を虐待しているし許せないけど
その人たちが働いて作った居住空間で他者を排除してのうのうと生活しているのは自然で美しいのかな
それでよく自分の体の内外でさえ多種の生物と生きていて活かされたり殺してもらったり食べさせてもらったり栄養に変換したりその人生で生み出される唯一の個人生産物である排泄物を処理してもらったりしてることを個別の事で一人でやってることだと思えちゃうよね
全部が連綿と繋がってるから利用して得たり奪われたり変化したあとに引き継いだり引き継がれたりするわけだし命が平等だから同じ地上で循環していってると思うんだけど
循環からぬけまーすってそれもう生命を超えた存在になりますくらいのこと言ってる気がするけどやっぱり生きてくためになにかしら食べるんだよね
食虫植物に落ちた昆虫を助けて回ったりナマコに共生してる魚に自立を促したり寄生して行動を制御する微生物とか昆虫とかに権利を説いたりしてるんだと思うけど他の動植物の成果を得るしか能がない人間は動植物になにをお返しできてるんだろうね
仮に動植物がありがとうとか一緒にいてくれて助かるとかいつもお世話になってますと言ってくれるなら、それは人間が何をしたときなんだろね
問題は植物とちがって、牛・豚・鳥・養殖魚介は現代においては等しく異常な環境で育っているということだろうな。
そうでなく放牧で一生を遊ばせて、羊の毛皮をとって、年老いて死んだらそれの肉を頂く、というのはモンゴルの遊牧民とかがしていたらしい。
昔の家畜は今より良かったかというのはもちろんいえないが、少なくとも機械化はされてなかったろうし育成から屠殺にいたるスピードも違うだろうな。
家畜っていうのは、人間に飼われ食べられることで種が繁栄している、食べられなくなったら滅びる。
それが事実だが、お前はそんなことで納得せずに別の理屈を出すだろう。
お前らの食ってる野菜がなくなることで崩れる生態系は無視かよw
農業のために森林が開墾されてつぶらなひとみの小動物たちが絶滅危機www
悪いけど地球上のエネルギーを1ミリも消費しないようにするには自分が死ぬしか無いんだわ。
質量保存の法則考えれば誰でもわかる。
だからせめてもの感謝を、奪った命分だけ世の中が良くなるように努力するって、いただきます!っていうんじゃねーの?
俺だって祖父の葬式で、通夜振る舞いに出てきた寿司を見て真剣に考えたよ。
祖父の死はこんなに悲しいのに、この寿司だって同じ生命を奪われた生物じゃないかって。
なんでみんな平気な顔して食べてられるんだって。
そうやって自分なりに真剣に考えて導き出した結論は、娯楽で生物の命を奪わないこと。
奪ったら無駄にしない。
そうして頂いた命で成り立ってる自分も粗末にしない。
俺にも蚊が潰せない時期があった。
ここで潰されたら、この蚊の命は終わるんだ。もし自分だったらどうしようって。
潰されるような相手の血を吸わないといけないような状況になってしまった時点で。
その分この生命をちゃんとしたことに使おうって決めたのだからそれでいいじゃんか。
どこまでいっても、自分が生きている以上は、何かの命を奪うよ。
その中のどれかにしぼって、せめて自分だけは奪わないって決めたならそれでもいいと思うよ。
でも、野菜だけ食べてれば問題ないってのは嘘だね。へそで沸かした茶を飲んだ鼻が笑い出すレベル。
だって、それをするなら世界の人口を減らすほうがよほど効果あるでしょ。
単純に考えて人間が増えた分のタンパク質やらが地球上から減ってるんだから、その分の動物が減るのは摂理。
動物を減らしたくないなら、「食わない」じゃなくて「食う存在を減らす」ってことだとちょっと考えればわかる。
そういう意味で、自分の命を削ってまで動物を食べませんっていうならわかる。
だけど、動物を食べなくても健康に害はありません。っていうのはどうなの?
そうやってノーリスクにエコができますみたいな表現はやっぱりおかしいよ。
さらに言えば自分たちは一切動物に迷惑をかけてないから、動物を食べる人間を攻撃してもOKみたいのはどうなんだっていうの。
他の生き物だって、色々な生き物の命を食って生きてるんだよ。直接的であれ間接的であれ。
淘汰で生き残れなかった命を預かって、次の淘汰に備えてるんだって。
それを人間だけ天上界みたいなところから見下ろそうなんてのは文明2,000年程度の青二才には早すぎるよ。
ヴィーガンの存在は別に自由だけど、思想は鼻で笑うよ。悪いけど。
じゃないとお前の血肉になった命がうかばれねえだろ。
お前の命がいたずらに奪われても文句を言うなよって思う。
でもそれは植物も一緒で、野に咲く花を引っこ抜いてちょっと嗅いだくらいで捨てるやつもおんなじ。
ちょっとした疑問なんだが、アニマルウェルフェアを理由にヴィーガンを推奨して食肉産業を非難するのって、論として成立するのか?
食肉産業やめたら、当たり前だけど食肉になるはずの牛・豚・鶏とかなんて増やすわけないし、育てるわけないよね。
環境負荷と考えるなら、むしろ間引かないといけないよね。植物食っちまうし、鹿みたいな害獣になって農地を荒らすだけなんだから。
つまりアニマルウェルフェアを理由にした食肉産業批判と、環境負荷を理由とした食肉産業批判とは両立しないよね。
害獣問題で野菜農家とアニマルウェルフェアも利害対立するよね。
あと、アニマルウェルフェアを理由に畜産をやめるなら、それって「生まれて来なくなる」って事だよね。
ヴィーガンが健康に悪いのは間違いないので、増田のように気軽にできる、とか良識派ぶって言ってほしくない。
というのも、増田の似非ヴァーガン食生活であれば確かに生きていけるだろうけど、それは例えるなら「毎日マクドナルドで外食しても、ちゃんと運動と節制すればデブりませんよ」と言っているようなもん。できない人のが多いし、増田だって長年やれば問題が出る可能性のが高い。
基本的にはおすすめしない、バランス良く動物も植物も食べるのが、あくまでも基本だ。
増田自身も、毎日フライドポテト食ってる人の血管が知らんまに大変になってたみたいなことが、起きるかもしれないと警戒心は持っていたほうがいい。
少なくとも現行のヴィーガニズムは、動物の権利のために人間の幸福を犠牲にするものだと思っている。
技術の発展が全く足りてない。
ヴィーガン的には人工肉(植物由来の代理肉ではなく、生物としては成立していない細胞塊から作られた動物性の肉)への
誰か知ってる増田が居たら教えてほしい。
5年後10年後はわからないが、100年後であれば3Dプリント技術などとあわせて生物由来の肉とまず見分けがつかない
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
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遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。