はてなキーワード: 女形とは
付け足して言っておくと、海外の人権意識は俺からすれば馬鹿の一言。
白人が発展したのはひとえに凶暴性、キリスト教などの一神教からくる自分への盲信と他教徒への迫害観念。
そこはフェミニストとほぼ同じ。
奴らはフェミニストより狡猾でフェミのように幼稚ではないからそれを力関係や工作で広めて来た。
ただ、平和的で頭が良いだけでは駆逐されるのだ、平和的な人ほど進んでいるが、三すくみのように凶暴性には弱い。
スカートを履き化粧をする女のように振る舞う男が女より美しくてもヘテロでもいいのだ。
批判されるのは単なるルッキズムを理由にすべきであって、男女がこうあるべきという固定観念ではない。
日本は早くからそれを見抜いたから歌舞伎の女形、宝塚の男役が生まれた。
研究でもアジアの方が白人よりIQが高いと統計が出ている(IQは白人が黒人や黄色は劣っていると差別したいが為に作った指標というのを忘れてはならない、つまり自ら作った土俵ですら白人は負けてしまった愚か者)
個人的な見解として黒人とアジアは傾向の違いはあるが知能は同程度もしくは黒人の方が上。
理由は黒人の身体能力の高さIQや計算能力、運動の為の空間把握は関連がある、彼等は殆どが貧困なのに他の人種を圧倒する、IQはテストなので平均的に金持ちになり勉強する環境があれば上がる、白人は殆ど他の人種より凶暴性故に豊かなのに黒人に負け、お金を持ちちつつあるアジアにも負けつつある………恐らく知能の低さの証明である凶暴性以外は白人≦黄色≦黒人の順でスペックが高い。
純粋な白人国家より混血白人の多いアメリカの方がスポーツが強い事や、それなのに純粋なアジアである日本や中国に負けるジャンルも多くある事(その度にルール弄ったり勝てるように白人はしてきたが)黒人には殆ど勝てないジャンルが多くなりつつある事からもわかる。
敢えて黒人白人と言っているのは、黒人は人間が愚かでないなら近い将来に蔑称でなく敬称になると思われるからだ。
白人は天皇家と繋がって日本の愚民化にもかなり昔から力を貸してきた、神道=古代キリスト教(これは天皇家も認めている事実)として。
日本が今の惨状にあり、黒人が犯罪ばかり犯さないといけなくなっているのは白人のせいだ。
中国韓国は元より東南アジアの人々も白人より有能なのに抑圧されている。
人類学的な根拠として白人は美しい(これは白人のプロパガンダもあるが、人が人を見る時の美しいには本能も含まれるのでこれだけ見た目だけで好かれている白人は間違いなく遺伝子として美しい)が、美しい個体というのは遺伝子障害者を除けば『見た目以外に能が無く庇護してもらえる』ように進化してきたポンコツな遺伝子である。
原則として男が惹かれる人種や見た目は駄目なモノである(自分より下を無意識に選ぶ)
経済性もあるので補正をかけないといけないが、黒人男は貧困でも実はどの国に行ってもモテる。
白人が連れてる日本人やアジアの嫁はブサイクで白人はああいうのが好みなのかと思われがちだが違う、白人はWASABIを見た時に広末涼子など日本人から見ても美人を普通に美人と評価しており、白人が主催する世界の美人百人等には日本からはぐうの音も出ない佐々木希などの美人が選ばれる。
その他の如何にもアジアな顔ぶれは実はスタイルが良いので顔だけで選べばそれを選ばない事は明白なのだ。
もうおわかりだと思うが実は平等条件なら世界一モテないのは白人男だ。
で、ここまて白人が如何に下劣で劣等か書いたが、これは真実である。
つまり白人が言うマイノリティー問題解決法など間違っており、男女の壁を無くすのが本来の正解なのだ。
それを壊した後に、そこからやれ後から自分達の物と奪ったものを主張し始める、最近だとハーバード大が孔子孟子の考えを発見したかのように語り始めたり、黒人の音楽を奪っておいてロックなどと言うのだ。
今に白人は俺の言うような『白人以外が思い付いた画期的考え』を血眼になって探して自分達が発見したと言い出したがっているだろう。
奴等はそういう下劣だ。
『フェミニスト』などという英文、白人が言いだした時代遅れの周回遅れに心酔してるいる奴が増えたのは日本人が馬鹿にされてしまった証拠。
そして女である事だけで利権を産もうとしているフェミニスト(それに賛同しておけば理解ある男と思われると下心丸出しのバカ男とそれを利用する悪徳な男も含む)は厳しい現実に晒してやれ。
おっすオラネズミ!
絶対に行かないワニ!
会いに行きたくないワニ!
絶対に会いに行かないワニ!
物語になるような美しい平凡を生きていたワニ!
妾の子として生まれ、母を失い天涯孤独、死のうと思って軍隊に入ったけれど、馬を丁寧に手入れしてたら、気がついたら終戦してて、それで最近まで生きてたワニ!
イケメン、というか、旅の一座の女形が、夜中に夜這いに来るような、今で言うユニセックスな、そんなエキゾチックと言うかエロティックな人間だったらしいワニ!
なんか分かるワニ!
ばあちゃんは裕福な農家の末の娘かなんかで、どこで見知ったか知らないけど、そんなじいちゃんのエロさに射抜かれて、メンヘラになって、二人で駆け落ちして、自由恋愛の末に結婚したワニ!
じいちゃんは、そんなこんなでメンヘラばあちゃんと、ばあちゃんとの間にできた二人の子供と、家族になって、長い間生きてきたワニ!
つまりそれがもう終わるよって、
強烈に惹かれるワニ!
絶対に行かないワニ!
人間が死ぬという時、その人間に会いたくなる、その気持ちは分かるけど、じいちゃんに限っては、会いになんか行きたくないワニ!
そんなのポルノワニ!
もう少しで死ぬという人間を見に行きたいだなんて、そんな本能遡及的なイベントなんて、ポルノハブワニ!
じいちゃんはいつも遠い目をしていて、会話のテンポもゆっくり、というか、最初に頭に浮かんだこと、本当に言いたいことはそっと横において、それから、優しい言葉をじっくり選んで、ようやく返答する、そんな人間だったワニ!
そうやって、考えてるあいだ、視線は下の方に落ちていて、ワニはいつもその視線を追って、一緒に下の方を見ていたワニ!
でも下の方には何にもなかったワニ!
ワニがそうしていることを、じいちゃんは知っていたワニ!じいちゃんが知っていることを、ワニは知ってたワニ!じいちゃんが知っていることをワニが知っていることをじいちゃんも知ってたワニ!
だから、ワニと話すときのじいちゃんは、いつもより深く下の方を見て、いつもよりゆっくり時間を掛けて、でも、いつもより短い言葉で返答したワニ!
それが遺言ならありがたく頂戴するワニ!
お前には絶対に会いに行かないワニ!
新幹線に乗るまではしたけど、降りたワニ!
ママンには、なぜワニは最期のお見舞いに行かないかを滔々と説いた長文をメッセージしたけど、多分あれは世界一の駄文だったワニ!
ばあちゃんがキレようが、じいちゃんがもう少しで死ぬからじいちゃんを見物しに行くなんて、絶対にしないワニ!
ワニはじいちゃんが、死ぬからってよく喋ったり、死ぬからって何かを変えたりする動物ではないことを、絶対に知ってるワニ!
いままでそうやって生きてきたんだから!
まるで自分によく似た、哀れな動物が生まれてしまったかのように!
ワニは会いに行かなかったワニ!
癌細胞にむしゃむしゃされて、骨と皮だけになって、まるで原型を留めていないじいちゃんの写真を、姉ちゃんからラインでもらったワニ!
そして気がついたら死んでたワニ!
午前四時くらい、自力でトイレに這ってって、ズボンを下ろして、座って、力んだくらいのところで事切れたらしいワニ!
しっこより先にうんこが出るんだぞ
って言ってたの思い出したワニ!
葬式では、無言でぶらぶら、たまに棺の中を覗いたり、綺麗に整えられた死体を触ってみたり、ラムネのような冷ややかさに驚いたり、セレモニアルな悲しみにノッていけない、そんな感じを、じっくり味わっていたワニ!
じいちゃんの方の親戚が誰も来てないけど、本当だったワニね!
生物学上の父親が、お金を出してやるから大学に行きなさいってオファーしたのに、それを断って軍隊なんか入って、飛行機に乗れなかったから馬の手入れして、虚無に等しい玉音放送を聴き、気がついたらメンヘラの生命力に流されて、最近まで生きていたって、本当だったワニね!
わーお終わらないワニ!
全然終わらないワニ!
それでもう死ぬんですね
逃した!
自らの意思によって逃したワニ!
そんな目をするなよじいちゃん!
よく生きてたじゃないか!
実際にあそこまで可愛い子いねえって(笑)と思うリアルだが、稀に性別間違っちゃったんだろうなぁという人がいるよね。
まあ、そのへんの話は置いておいて、私はマンガのTS・女装作品が好きだ。
何が面白いのかっていうと、男で過ごしていた日常の視点が女の子目線になったり、
そのまんま男の視線で過ごしているはずなのに、見た目が違うだけでこういう女の子なんだと錯覚してしまったり、
はたまた、どたばたコメディ的な流れで恥じらう顔などが見れるのが好きだったりする。
でも、Hな展開とかは割とどうでもよかったりする。
そういうのではなく、日常における普通のやりとりで喜怒哀楽の豊かなキャラクターがTS・女装で表現されているのが好きなのだ。
そんな私が気に入っている作品を少し残す。
自分が女と表現はほとんどせず男とも言わないで学園生活を送る曖昧なスタイルで
学園の人気者になっている姿がとても良い。
彼(女)というキャラは、性別を知っている人も知らない人も虜にする。素晴らしい。
男だと最初から最後まで告白しているにもかかわらず、なぜか周りが理解してくれない。
口調も男なら、行動も男という姿なのに舞台に立てば見事な女形を演じきるのは美しい。
最後の最後まで、やっぱり男扱いされてない終わり方だったが、ああいう終わり方も好きだ。
大怪我をして宇宙人に救われた結果、女の子になってしまったという流れから始まったのは当時面白かった。
男だった子が女の子として生きていくためのレクチャーなどが作中であったが、
不器用な感じがまさしく男の子という感じで良かった。それが逆に可愛らしく感じた。
ありがちな作品ではあるけど、元は男の子で、ドキドキしたりすると女の子になってしまう。
性格は男の子なはずなのに、時々女の子になってしまうせいか、無意識に女の子っぽさが出てきているというのはツボにハマる。
当時のありがちなドタバタ系な割に作家さんがのんびり系の作家さんなのでほのぼのできて良い。
いくつか出してみたが、どれもこれも楽しめる作品だ。
なかなか面白いのも多い。昨今では同性愛なども話題になっているので、今後もこの系統の作品は増えるのだろう。
それはそれで楽しみだ。
「ナマモノ」とは、実在の人物(3次元)を題材にした二次創作物の総称です。
簡単に言うと、タレントや俳優、アイドル、お笑い芸人などを登場人物として使ったフィクション(虚偽)です。
そして、この「ナマモノ」の取扱は慎重に行わなければならない、とされています。
①題材とされている本人、及び関係者の目に触れられるような環境に置かない
②そういった嗜好を持たないファン、また一般の方の交流とは区別する
などがあります。
それは、題材とされた本人やそれを取り巻く環境にいる人の感情を尊重し、また、肖像権を守るためです。著名人と言えどもひとりの人間です。自分の人格や行動に脚色やフィクションが加えられたものを見て、どういう感情を抱くかは人それぞれです。もちろん「何とも思わない」方もいるかもしれませんが、不快に思う方もいるかもしれません。いわばこれは、グレーゾーンです。そんなグレーゾーンなことなら、わざわざ公にしてやる必要は全くないのです。
さて、本題に入らせていただきますが、先日このようなナマモノ界隈のルールに対し、真っ向から異論を唱える性差別反対派、表現規制反対派の方々を幾度かお見かけしました。
その方々の主張することには、
「本人から嫌悪感を持たれるかもしれないという危惧自体が性差別で不快、よってナマモノルールなど不要」
「表現の自由が保障されている日本で、ナマモノルールを遵守することは表現の自由の侵害にあたり、出版妨害と同等」
だそうです。
日本では表現と言論の自由が保障されているので、今から私が伝える主張も保障されます。もちろん表現規制反対派の方はこの但し書きをすんなり受け入れられますよね?
論 点 が お か し い 。
じゃあ表現の自由掲げてあんたらのフィクション妄想小説書かれても文句言わないのか。あんたらの子供や親や親戚や恋人や配偶者や親友や上司や部下も題材にされて、他人の公衆オナニーのオカズにされてるの見かけてもなんとも思わないのか。例えそれがあんたらの性的嗜好とは著しくかけ離れていても?これは感情論じゃない、人権問題の提起だ。
それとも著名人には有名税があるから、その対象にされることは当たり前でしょうがないって言うのか?それこそ今度は職業差別じゃないのか?
そんなの強姦致傷で逮捕された某俳優が好意持ってたセクシー女優に関して「あの女が一発やらしときゃ」って言い放った某女形コメンテーターと同じだろ。
表現する場所を区別することが表現規制?渋谷のスクランブル交差点のド真ん中で「性差別反対!」ってセックスしてるカップルを見かけてもそれが言えるのか。
島が違う。論点が違う。こっちにはこっちの意義を持ったルールがあるんだ。自分たちの信念と主張を通すために、よく内情を知りもしない界隈にズケズケと入り込んでくるな。
ナマモノ界隈では常に「最悪の事態」を想定してルールが定められています。こっちにはこっちの複雑な事情があってそういうルールがあるんです。明文化されたものだけがルールじゃないことは、もう皆さん大人ですからわかりますよね。
アニメの二次創作や、表現規制反対派の方々が守ろうとしている表現の対象と違い、こちらの表現の対象は、いち個人として生きています。感情を持っています。だからこそ、表現の自由や性差別問題以前に、「人権」と「公序良俗を守ろうとする人としての良心」が最優先になってくるのです。本人が気分を害する、あるいは法に基づき対処するという「最悪の事態」を未然に防ぐためにある程度の規制線を張っているのです。
しかしそれは「公共の福祉に害を及ぼさない限り」です。自由だからといって、公共の場で何を表現してもいいとは限らないのです。レストランで「うんち」と発言した小学生が叱られるのと同じ道理です。
ナマモノ界隈において、「このジャンルも規制されて閉鎖的になってしまってる!新しい表現者がかわいそうだ!私たちが開拓させてあげなければ!」という正義心は本当にいらないです。ましてやそこに差別問題や違憲問題を絡ませるなどもってのほかです。お門違いも甚だしいです。
表現規制反対派の皆さん、性差別反対派の皆さん。お願いですからナマモノ同人界隈に関しては放っておいてください。何事にも例外はあるものです。私たちは私たちで意義があり独自のルールを守っています。今の状態で安定しつつある田畑に、勝手に肥やしを与えないでください。お願いします。
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
「人工知能の思想とフェミニズムの思想は中途半端に似ている(しかし絶対違う)ので人工知能側の行うことにジェンダー論が紛れ込む要素がみつかるとフェミの側で炎上しやすい構造が元々ある、という色眼鏡をかけると人工知能学会表紙の件が通りよく理解できるのではないかなぁと思っている。
人工知能は機械が自立性を獲得する学問で、ジェンダー論は女性が自立性を獲得する学問で、「自立性の獲得」という点では共通しているんだけど機械は元々自立性は持っていない反面、人は元々もっている自立性を取り返す、「再獲得する」という点で二つの学問は明確にことなる。
で、ジェンダー論やってるひとはたぶん「獲得する」という言葉を使わないように気をつけてきたと思うんです。元々もっているものを再獲得する、復活するという風にしないと最終的に男女平等が達成されても「女性は元々持っていないものを頑張って手に入れた」になっちゃうから。そもそもが平等じゃない。
という色眼鏡を用いた上で表紙をみると、「たとえ男女平等の世界が達成されたとしても、機械が自立性を獲得したように女性も自立性を獲得したんだね」という、自分の目的は達成されたのに根本的な部分で人と機械が同列に扱われている恐ろしい世界がジェンダー論をやっている方々には幻視されてしまったんじゃないかなぁと。
なので人工知能の思想とジェンダー論の相似と差異、という点にまで踏み込んで人と機械を同列に扱うな!という主張をしてるんだったら擁護するかもしれない。「ただでさえ人工知能とジェンダー論は近いのに掃除する女形なんて微妙なの出してきたらいろいろごっちゃになるだろ!こっちは機械とごっちゃにされちゃ困るんだ!」みたいな。
なので、女性型アンドロイドが掃除をしている姿そのものに政治性は薄いけど、自立性を付与する学問である人工知能の学会誌がこれを表紙にするということでジェンダー論からの解釈が挟み込まれる余地が生まれてくる可能性はなんとなくわかる。まあ色眼鏡かけなかったら特に何も思わないんだけど。
結論としてあれだよね、「人工知能=アンドロイドは固定観念!」という批判は、チューリングテストで人工知能とは人と区別がつかないことであるって定義された人工知能の歴史と伝統を踏まえて言ってるのならいいけど、たぶん互いに無知なところがあるよね。
定期的に男の娘うんたらっていう記事が出てくる。
で、アニメや漫画に限定してスレが盛り上がってるだけなら何とも思わないのだが、
"毎度のこと"現実の女装子や性同一のトランスジェンダーの画像が貼られて盛り上がっている。
いい加減にトランスジェンダー、性同一性障害、女装子をまとめて男の娘呼ばわりするの辞めてほしい。
全部別もの。
男の娘ってのは、服装や性別はもちろん、アイデンティティも普通の男の子なんだけど
顔立ちやスタイルがどう見ても女の子のようにしか見えないような若年男子のこと。
そういう可愛い男の子が女装した時の女装男子も男の娘呼ばわりされることがあるが、
そして本人が、男に生まれたけど自分を女だと認識してるのが「性同一性障害」。
そこで実際に女の服装したりホルモンに手つけたりしたら「トランスジェンダー」。
トランスジェンダーは、性転換の有無は問わず、性同一性障害でありながら、
性ホルモン投与などを行って女性化をしている段階であればトランスジェンダーなる。
自分が男だと分かってて趣味で女装を楽しむだけのは「女装子」。
そういう女装子が行きすぎてホルモンとかに手をつけたら「女性化願望症」。
(見た目はトランスジェンダーと同じだが、トランスジェンダーは性同一性障害である事が前提なので異なる)
実はこの性同一性障害ではないのに性ホルモンや肉体改造にまで手を出す人達を女性科願望症以外の適当な言葉が存在しない。
日本じゃホルモンやったり豊胸したりして限りなく女性的な容姿の人をトランスジェンダーとは別に
「ニューハーフ」って呼び方するけど、本来はニューハーフは水商売業(タレント業含む)をやってる事が前提にある呼び方。
ただし性転換をして戸籍変更すれば「元ニューハーフ」となる。ニューハーフという呼び方はまだ性転換手術をしていない状態。
以上のように、性同一性障害者/トランスジェンダーは男の娘には含まれない。
ニューハーフは職業的な意味だから、ただ女装が好きな男性が水商売業に就いたらニューハーフになる。
男の娘だった男子も、女装をして水商売業に行けばニューハーフになる。
性同一性障害者やトランスジェンダーも水商売でニューハーフになる。
ニューハーフ業を辞めれば、元ニューハーフという肩書きは付くが、
トランスジェンダーも、また一般のトランスジェンダーに戻るだけ。
(男の娘と女装男性は、女装しなければ普通の男性にいつでも戻れる)
ここまで書けば、各呼び名の違いやニュアンスが掴めたと思う。
日本語での妥当な翻訳だと、「ニューハーフ」が一番近いとされているけど本当はちょっと違う。
女装子やトランスジェンダーの人らを総じて男の娘って呼ぶ風潮があるけど、
メディアにおいては、ニューハーフ&性同一性障害とは違うという分け隔てができてるみたいだが、
メディアはどちらかというと、若年女装子を男の娘って呼ぶ風潮がある。
(中高年女装者や中高年で乙女的な人をオネエって呼んでる節がある。このオネエが昔で言うオカマの代替言葉)
オカマ・・・見た目も心も男性なのに仕草や言動が女性的な男性/または心や仕草・言動は女性なのに見た目が男性的な男性(今は侮辱言葉でもある)
オネエ・・・オカマの現代における代替用語。(メディアではニューハーフも含める事がある)
女装子・・・普通の男性なのにファッションや性的趣味で女装を楽しむ人
→ その中で若年で綺麗に見える人に限り、男の娘と呼ばれる節がある
→ そうでない人や中高年者は、好意的にオネエ、または差別的にオカマ・女装者と呼ばれる
男の娘・・・普通の若年男子なのに、風貌が女の子に見えてしまう男の子。
→ 上手く女装をした時だけ綺麗な女の子に見える若年女装男子にも用いられることがある
ゲイ・・・自分を男だと思っていて、なおかつ同性の男を好きになること
(性同一性障害者は自分を女だと認識しているので同性愛だとは思っていない)
もっと分かりやすく、芸能人を公言を元に振り分けてみよう。
(元ニューハーフで性同一性障害のトランスジェンダー)性転換&戸籍変更済
(性同一性障害のトランスジェンダー)性ホルモンはやっているが未性転換
一説によると、芸能界では世間の混乱を招くために、トランスジェンダーである者は
(性同一性障害を抱えたオネエタレント)性同一ではあるが性ホルモン等すらやっていない
(オネエor女装キャラを演じてるだけの一般男性/女形に近い)
(不明・その他)
女装が好きな事は明白だが、本人の性自認が謎(自分を男だと思ってるか女だと思っているか)
彼の素顔は女の子っぽいというより、クールな美少年なので少し違う。
実際には、メディアには男の娘に当てはまる芸能人はあまり出てこない。
ネット上にはよく出てくる。
女装してるわけでも化粧してるわけでもないし、
それが「男の娘」。
されどネット上では、全部がごっちゃになり、
これは間違い。
そして女装した時だけ綺麗な女に見える女装上手な女装男子のことも
現実でのセクシャルマイノリティの区分けは前回も記事を書いたので、
是非参考にされたし。
http://anond.hatelabo.jp/20110112194311
「女形は男性が女性を演じるので、普段から『女性らしいしぐさ』をするように心がけています。女性ならあぐらをかいていても女性に見えますが、女形がやると男性にしか見えないのです。女性がうらやましいですよ」
まー、つまり、女性に生まれて、性同一性障害もないのなら、普通に振る舞えば女性らしく見えるってこと。ことさら「女性らしく」なんて意識する必要はまったくない。短髪で女性らしい女性はいくらでもいる。ペティキュアだってしない女性のほうが多いだろう。でも、女性は女性に生まれたというだけで女性らしく見える。
私の女性の友人は「男らしい」人ばかりだけど、主に「決断力がある」という部分でずば抜けているだけで、女性らしいところが少ないわけじゃないよ。
昨今の「男の娘」ブームは、2次元だけに留めておいてほしいものですが、
それに乗じて全然「娘」でないような外見の輩による「女装コス」にますます拍車をかけそうで戦々恐々としている。
「ネタであっても、それはちょっと…」っていう女装コスの輩と、冬祭りで何人とすれ違い、
その度に「うわあ…それはないわ」とテンションが下がっていった。
コスプレイベントだと、女装禁止が今や主流になってしまったし。
他方で、
「2次元の男の娘が、そのまま3次元に具現化したようなレイヤーさんがもし万が一居たら、それはそれで見たい!」
という欲求があるのは事実。
私だって、もし万が一準ちゃんや秋月涼や秀吉や、あるいは「元祖・男の娘」こと鰤たんがリアルな男の娘としてそこにいたら、
倒錯的な美しさに背徳感が加勢して、なおのこと萌えることだろう。
ということで、イベントでの女装は「ライセンス制」にするというのはどうだろう?
コス写真をサイトに上げて、ネット投票かなにかで合格か不合格かを判定。
判断基準は、美しいかどうか、萌えるかどうか、この1点のみ。
合格したらめでたくライセンス付与。どこのイベントに行っても、女装コスが出来る。
ライセンスは1~2年毎くらいに更新にして、その度に美しさの再審査をされる。
定年制度を設けるのも、よいかもしれない。
「どんなに美しくても30歳で卒業」とか。
そしたら、醜い女装が一掃されて、可愛い男の娘ばかりのイベントとかも開催されるかも。
少なくとも、見た目のレベルが「ヴィジュアル系バンドの女形」にまでは昇格するだろうから、
もうあの「目に毒」な輩を見なくて済む。
そしたら、私も堂々と、その場で鰤コスが出来るというものだ。