ただ、かりにそういうのがあったとして、許されるのは
伝統芸能だ
から、という前提があってこそのものだ。
僕自身としては、
伝統芸能だろうと、許されないと思うし、実際
ガチンコの
相撲をする
力士というのはそういうものが嫌いなんじゃないだろうか。
社会性というのは、どんな状況だろうと現状を追認しろ、という
ことなのかもしれない。
そういう
意味では
社会性を重んじる、というのは個人と
社会との徒弟主義であり、
ヤクザ的とも言える。そういうのが礼節だ、という考えもた
しかにある。
だ
から、なのかはわ
からないが、「そもそも」というのを
日本人は極度に嫌っているので
はないだろうか。
議論の前提、
既存社会の
根本に注意を向けるということは、これまでに費やしてきた
時間をムダにすること、これまで現状追認してきた
社会構成員すべてに過ちを指摘することと同義に捉えられがちに思う。
ゆえに「そもそも」というのはだい
たいが「出る杭」であり、それはこれまでの
空気を壊すこと
である。
だ
からこそ、と言えばい
いか、そういう人は
空気を読め、恥を知れ、と言われるのだと思う。
そしてそれが
無知によるものかどうか
はともかく、
社会や議論の前提の共有ができていないということで、
村八分にされがちなのだろう。
先の
朝生の
ホリエモンの「そもそも
尖閣って必要なん
ですか」というのは、つまりは「領土は失うもので
はない」という前提に突き刺
したもの
だが、ゆえに多くの
ナショナリズム的非難を浴びたので
はないか。
ときに、
日本の議論は
意見を戦わせて場としての結論を見出すことより、反対論なしの
村社会に特有な
イエス会議に陥りがち
である。
結果を求めるだけなら、
会議にムダな
時間はか
からない。
もし、
日本の
社会の究極としての
国家が揺らぐのであれば、私たちはどうなるのだろう。
仮にお隣さんに併合されたとして、私たちの
社会は今のままで在り続けるのだろうか。
社会や
文化まで
島嶼化していたとして、よその
社会についていけず、自壊するのがオチで
はなかろうか。
私は
政界再編を望むが、ムダな望みなのだろう。そして私はそんなやつらより
コネクションもな
いから、彼らの現状を追認する
しかないのだ。
なんにせよ、私は今の
日本社会が嫌いだ。
だが、私はよ
わっちぃ
からごまをすること
しかできない。
こんな私を許して欲
しいとは思わない。力なき私には、こんな形で
しか何かを主張することができないのだ。
私は望む。内
から坂本龍馬が出で、外
から黒船が訪れるのを望む。それが
中国でも構わない。というより、可能性としては
中国しかありえない。
こんな国、ぶち壊してくれ。もうたくさんだ。
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