はてなキーワード: 土建屋とは
関東に出る前、地元だった地方工業都市の旧来オタク系コミュニティはズタズタだった。
狭くて薄暗いラジコン屋。店内で話すだけに睨んでくるエアガン屋。電気がいつも半分しか点いていないTRPGコーナー(文具屋のプラモコーナーのさらに奥)。PC屋の隅っこの暖簾の奥のエロゲコーナー。レジのねーちゃんが初恋だった個人
経営のゲーム屋。地元のオタク臭のする場所のどれもこれもが、なんだか近寄りがたく、なにか卓越した技能を持つか、誰かの紹介無しには入り難い。そんな場所ばかりだった。
例外はアニメイトくらいか。あの誰でもウェルカムな明るさはいろんな意味で眩かった。
そしてアニメイトに一歩遅れてやってきたインターネット普及。当時は衛星放送が無ければレンタルが来るまで見れなかったアニメもP2Pという今思えばろくでもないアレのおかげでリアルタイム気味に楽しめるようになったし(後のネット配
信はまさに福音であった)、定価販売ではないエアガンの存在はすごい衝撃だった。
あと同人誌!存在はエロゲ雑誌なんかで知ってはいたが、実際に手に取れるようになったあの感動!通販だとメロンブックスの無地の箱はうれしい!
入手した同人誌からはるか遠き聖地、コミケへの憧憬を募らせた。何が欲しいという訳では無かったけれど。
こういった物質的情報的なアクセスの活性化は俺のような消費するだけのオタクには福音であったが、同時に旧来のコミュニティはそれらに追いやられる、あるいは経営悪化によって存在感を失っていた。
それから結構な歳月が経ち、俺は色々あって地元に戻った。長男だし。
改めて見てみると、そこには新たなコミュニティが芽生えていた。インターネットの強力な直射光に焙られて存在感を失ったように見えたコミュニティは、その環境変化に適応し新たな形を築いたり、新たな芽生えが発生していた。
これは盆正月の里帰りにも感じていたが、ネット配信の普及はライトなP2P層をほぼ駆逐した。面倒な時間もかけず、ちょっとした月額でどうにかなるなら多くは月額を選んだ。アニメ以外も視聴できるので家族からお金も出やすい。
映画館が減り、レンタルビデオも消えつつある現在、地元でもお手軽に映画を見ることができる手段でもある。
アニメイトは移転こそしたが元気だ。店舗面積こそ減ったが女性向け同人で賑わっていた。
ラジコン屋はインターネット通販によって焦土と化したように思われたが、生き残った店舗が郊外へ小さいながらレース場付きの新店舗を作り、大きく明るくなった店舗は周辺地域の需要を総取りしている。残存者利益という感じ。
ちゃんと運営のいるサバイバルゲームフィールドも出来ていた。昔はグループが地主と交渉して管理していたなぁ。
土建屋の中の行動力ある趣味人が余った土地(元農地や資材置き場)を転用して開いている感じ。関東のフィールドを参考にして整備した、見劣りしないと豪語するだけのことはある出来だ。
フィールドにありがちな常連問題はありそうだが、まあ関東でもそれは一緒だしそういうものである。
個人ゲーム店はほとんどが消え去ったが、行きつけだった店はカードゲームやTRPGのプレイスペースを売りにあれこれイベントを開き、地域のイベント中心の一つとなった。初恋だったレジのねーちゃんまだレジのねーちゃん、いや、もう奥さんだった。左手の薬指の指輪がまぶしい。ゲオごときには潰されませんよ、と語る逞しさは歳月を経た今でも魅了を失っていない。幸せであってほしい。
その他、俺にはよくわからないがボードゲーム店なんてものもできていた。コロナも耐え抜きしっかりと地域に根を張っているようだ。
他方、PC屋は周辺企業のサポート業務がメインとなってしまい、店としての機能はほとんど失われてしまった。マウスみたいなちょっとした周辺機器くらいは今でも細々と売っているが。
TVゲーム系コミュニティもネット対戦の普及で細切れと化した。ゲーセンはかなり最近まで粘っていたがコロナでついに倒れた。今はファミレスなんかで集まってゲーム、はあっても専門の場所みたいなものはもう見当たらない。これも時代か。
ある程度の濃淡は有れど、地方都市にもオタク的な趣味は根付き、生きている。自分が中学生くらいだったころを思い出すと隔世の思い。
東京の人間から見れば稚拙な都市部の模倣であろうが、それでも有るのだ。我が故郷にはなんでもある(何にもない)。東京には何もない(なんでもある)。
書く人も一人じゃなければ土建屋さんも一人じゃないので......
大学時代には居酒屋のキャッチ、雀荘、ガールズバー(雇われ店長)などのバイトをしていた。友達は同じ学科の人くらいでバイト、昼寝、ネカフェ、友達の助けを借りて期末試験とレポートを乗り切る、という生活だった。就活は面倒くさくてやらなかった。大学の説明会すら行ってない。
卒業した後はたまたまガールズバーで働いていた女の子(今は会社員)と付き合い始め、ヒモ生活。先月に彼女に愛想を尽かされて追い出された。実家に戻ったが真面目な妹や頑固な両親からの目が痛いため就職したい。どんな職種が良いのか適当に提示して欲しい。職種や方向さえ定まれば、勉強するなり就活するなりツテを探すなりしてなんとかなる。コミュ力はあるはず。目標や目的さえあれば勉強するのも苦手じゃない。
とりあえず様々な職種を提示し、怠惰で他力本願な俺が今ベッドから起き上がるためのきっかけを作ってくれ。見知らぬ他人に善行を働いて、功徳を積むと思ってさ。
・性別 男
・年齢 25歳
・職歴 なし
・資格 普通免許、TOEIC790(学生時代にとったやつで今も有効なのかすらわからない)
土建屋稼業だけど、縁あって一か月くらい乗船・洋上勤務したことがある。
そん時も思ったことで、今回のこの増田を読んで改めて、いわゆる3K業界同士だけど商船界隈のほうがウェルフェアいいよなぁ、と思った。
最近は土建業界は拘束時間を減らす方向で動いているけど、当時はまぁ、どちらかというと休めるほうがラッキー、って感じだったし。プロジェクトの切れ目切れ目で長期の休みをとってリフレッシュしたいところだったけど、それはなかなかできなかった...。
海外プロジェクトに行ったこともあるけど、半場にカンヅメ・工事はノンストップ・テロに合うリスク(というか標的)あり、だけど、月単位での休暇っていうのはなかったなあ。その点、船員さんのウェルフェアをうらやましく思ったことあり。その分土建業の給与待遇がいいか、というとたぶんそんなに変わらないでは。
ただ、人間関係は(両方ともめんどいけど)海の上の仕事のほうが、よりマッチョな感じがした。オフっぽい時間帯では超能力が必要なくらい空気読める能力必要だと思ったし、その辺はきついよね。
https://anond.hatelabo.jp/20220615174308
さんに対するアンチと思われるようなタイトルにしてしまったけど、実はそうでもなくて、前提の認識は特に全く同意。
・日本は一度雇用したスタッフをやめさせるのは、まともにやろうとするとすごく大変。
(いや、クビにされた!という声も多いだろうが、それはまともじゃない会社の話)
・派遣や業務委託はいざとなったら切れるから、それを前提として一時的に報酬を大きくできる。
・人材の流動化(解雇規制の撤廃、新規就労の活性化)が経済活性には必須。
完全に同意。
それでも、スタッフの定期的な昇給は続けていきたいと思っている。しんどくても。
その理由を書く。
私は40歳。業種はWeb関係。個人事業主から法人成りして、会社はまだ3年目のペーペー社長。スタッフはパート含めて10名弱。首都圏の地方都市で地域密着の業務をしている。(ちょっとフェイク入れてあります)
首都圏の地方都市の宿命として、優秀な人材は東京に出てしまい、大きな案件も東京の会社が持っていく。なので、活気があるのは地場の土建屋さんと公務員、あと大手企業の工場くらい(先は見えないが)。当然のようにブラック企業的古い価値観の同族企業や、最低賃金ギリギリの待遇などがまかり通っている。
そんな中で若手(Z世代)を中心に、社会的公平性や社会の持続可能性を重視し、資本主義的考え方に偏りすぎないライフスタイルという価値観が広まりつつあるのを実感している。その一方で精神的な充足感や働きやすさ、持続的な仕事のあり方や環境などを重視した価値観が生まれている。
そういう考え方を大切にする顧客も増えつつあり、個人的にもそういう価値を大切にしたいと思っていることから、会社の方針(企業理念やビジョン・ミッション)をその方向に明確化しようとしている。地方のビジネスに一石を投じたいという思いもある。
顧客といっしょに一緒に地域を盛り上げていく。だれかがしわ寄せを食うのではなく、取引先・スタッフ・お客さん、みんなで利益をうまく分配し、かつお金だけでない価値(温かい人と人の繋がりであるとか、感謝であるとか、居場所であるとか)も同時に作っていく。そういう理想を掲げている(まだまだぜんぜん未達だけど)
5年10年先を見据えたとき、そういう価値観で働く人が社会の主流になることは間違いない。であれば、先行者としてその分野でのポジションを確保することは重要と考えている。
そういう理想を掲げている限り、スタッフの賃上げも積極的にしていく必要があると考えている。
ただ現実は厳しく、税金を払うと利益はほぼゼロ。売上は毎年1.5倍くらいずつ伸びてきてはいるが、それでも運転資金が足らないこともあり、すでに個人資金を1000万円投資した。ちなみに自分自身の月給(役員報酬)は個人事業主時代の半額以下。スタッフの給与も基本給は低く、残業代はゼロ(残業時間自体はゼロでは無いが強制することは無い)、ボーナスは基本無し(この夏はちょっとだけがんばって出した)。それでも、一緒に仕事をしたいと言ってくれるスタッフには心から感謝している。
今後数年かけて、利益率を上げてまっとうな給与まで引き上げていきたいと思っている。そのため、1万~1.5万くらいずつではあるけど、先行投資として毎年昇給してきている。
ちなみに会社作ってから、「人関係」の悩みが圧倒的に増えた。その半分以上はスタッフに関すること。
雇用する側からすると、まともに信頼できる期待通りの人が就職して働き続けてくれるなんて、奇跡的なめぐり合わせなんだな、と感じている。採用したら期待外れ、ということもあるし、トラブルが起きるとメンタル的にはどん底まで落ち込むし、この先の会社経営に絶望したりする。
・低賃金でも、やりたい意欲がある人のみ採用する。一方で、職場の魅力は頑張って高める。
・契約社員として半年~1年様子をみる。だめそうなら契約更新しない。
ここまで慎重にしても、それでも応募があるのは、現代的で人気の職種だからだと思う。これがブルーカラー3K的職場だったらこんなことはできないとも思う。
こういうフィルターをくぐり抜けて、目先の低い給料にとらわれずに本気で価値を生み出したいと努力を続けてくれるスタッフが定着してくれているからこそ、毎年昇給したいと考えている。そういうスタッフには、泣きたいくらい感謝しているし、今のような待遇しか提供できない自分に不甲斐なさを感じている。
(しかしながら、会社におんぶにだっこを期待するなら昇給できないし、ましてや採用しない。)
さまざまな条件が噛み合えば、閉鎖的で後進的な地方においても風穴を開けられるビジネスが生み出せると信じているし、それによって自分やスタッフ、クライアント、パートナー、そして我々が生きる地域にも価値を提供できるようになり、みんなが幸せに少しでも近づけるビジネスモデルができると考える。
なので、結論としては
・新しい価値観を重視したいため、しんどくても昇給は続けたいと思っている
・けど、スタッフに求める条件も、厳しい
・それらをうまく回して実績を出すのが経営者としての責務だし、そのためにはリスクも取る
・結果的に、私自身はちょっと人並み以上にお金稼げればいいかな
という考え。
これとかもそうだが未だに日教組による教育被害が云々という言説がまだ見られるんだが。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/sivaprod/status/1536206227939950592
この際ちょっとその言説の経緯をまとめておくよ。
この言説のキーマンは小林よしのりなんだがそこに至るまでを説明しないといけない。
日教組が昭和22年に結成されて昭和30年代には組織率8割以上を誇って…というのはWikiとかで勉強してくれ。
右翼による日教組批判が特に熾烈を極めるようになったのは1980年代の後半からなのである。
街宣車で大音量で日教組!日教組!と怒鳴っているので一般の人の日教組の知名度はこの辺りで上がった。そもそもノンポリの人は学校の先生の組合なんて知らんもんである。但し右翼の一般受けは悪かったので日教組の評価は下がらなかった。
また日教組が集会を開くと周囲に街宣車が多数集結して大音量で軍歌を流し音圧を競うようになった。
すると近所の会社は仕事が全くできない。電話どころか窓を閉めても耳を塞がないといけないような状態だ。
でも日教組の知名度が低く、どこで集会をやってるかも判らないので右翼の評判が下がるだけだった。
こういう極端な抗議行動が流行した背景には当時の政治的社会的状況があった。
その一つは「デタント」で、もう一つは「任侠右翼の増加」である。
右翼が何と戦っていたかというと、その最大の敵はソ連だった。これは街宣右翼だけじゃなくて神道系の右翼も統一教会も皆同じだ。
だが1985年にゴルバチョフが書記長に就任するとどうにもならないほど疲弊したソ連の改革政策、ペレストロイカを推し進める。最初は大した変化はなかったが、チェルノブイリ原発事故以後は情報公開も進め、世界を巻き込みながら怒涛のように変化していく。
それによって西側ではゴルバチョフの歓迎ムードが高まり、要するに憎むべき敵性国家で無くなっていったのである。
更にソ連共産党は活動を停止し、遂にはソ連が無くなってしまった。
これは右翼陣営勝利のはずだが、困ったのは攻撃する敵を喪失してしまった事で、自分らのアイデンティティの根幹の喪失でもあった。鈴木邦男はソ連崩壊時に「これは僕らの問題だ」と語っている。アイデンティティ喪失に苦しむのか、敵の乗り換えをしてアイデンティティを保持するかという含みがある。結局鈴木は敵の乗り換えには乗らなかった。
また、街宣車での街宣はやりすぎて体制側に対策が出来てしまった。
まず憲法違反の疑いもある静穏保持法が施行されてしまったので外国公館などの特定箇所で大音量を出すと逮捕される。
またソ連大使館前の道路は街宣車が近づくと全交通遮断される。言っておくがソ連大使館前の道は外苑東通りという都バスも走る幹線道路である。当時は街宣車のせいで道路が遮断されたりそれで周囲が交通マヒしたり運行経路が決まっているバスが20分以上立往生なんて事はザラだった。
こんな風に最大の敵であるソ連がやたら腰が低く物分かりが良くなった上にソ連大使館に街宣掛ける事も出来ない。
という事でこの時期に日教組の悪質性が増加したのではなく、ソ連の変化とデタントの為に日教組批判が熾烈となったのである。
まずそもそも右翼だが、元はヤクザとの明確な区切りは無かった。これは土建屋、鳶や水商売やテキ屋も同じだった。
戦後の右翼は、例えば児玉誉士夫など体制と癒着しそれは米国に従順という事でもあった。
1960年代末に左翼の学生運動が盛んになるとこれに対する体育会と右翼学生が組織されていった。新右翼と呼ばれる。
新右翼の特徴は反ソ反共ながらも反体制、反米である事だった。これは当時の世相や全共闘運動に影響を受けている。
ここを境に右翼系の政治結社が誕生して行く。そしてそれらは「街宣車で軍歌を流し辻説法をする」というスタイルを確立していく。
この街宣車は最初は旧軍や自衛隊の国防色(カーキと灰色:バトルシップグレイ)だったのが後述の事情で威圧感の強い黒塗りになっていく。
よく「街宣右翼」とネットの一部で言われるが、1980年頃から右翼政治結社は街宣車スタイルをみな踏襲しており、それ以外はないような状態だった。ヤクザっぽいがはじめの方の新右翼にはヤクザとの殊更の関係はない。
因みに日本会議の中央の人士らはこういう街宣ではなく、就職しないで大学に残り学生運動を続けた人たちである。
80年代になると校内暴力で学校が荒れ、ツッパリ型不良が大増殖して暴走族も大増殖した。また暴走族の右翼感染が進んだ。特攻服や旭日旗が暴走族の印となったのもこの頃だ。不良or大人への反抗=右翼ファッションだったのである。
こうして右翼≒不良≒ヤクザが緊密化したところで任侠右翼の街宣参入が増えたのだが、もっと大きい商機的な問題があった。
思想右翼の主な資金源というのは機関紙の販売である。これは志を同じくする人からの購買もある。
が、もう一つのパターンは不正や思想的に看過できない行いをした法人へ抗議街宣をして、その手打ちとして機関紙の購買を取り付けるという方法がある。
ヤクザが参入する主目的は後者の方で、民事介入暴力の支払い手段として機関紙購買を取り付ける為に政治結社を立ち上げるのである。民事介入暴力というのは殴ったり蹴ったりじゃなくて、企業の商業活動に暴力団が威圧をもって参入する事だ。
企業恐喝に街宣車を利用するのだ。国防色より威圧感がより強い黒塗りが主流になっていったのはこの為だ。
暴力的手段を行使されないようにみかじめ料として機関紙を購読する会社も多く、大変な出費になっていた。
因みに総会屋も同じことを70年代にやっており、機関紙/誌の執筆者編集者需要が高まり、学生運動で就職が困難になった学生運動家が多数その仕事に就いた。総会屋の多くは内容には口を出さなかったので社会の不正を糾弾する記事を書きまくり、総合誌ブームが起きたが、80年代初頭の商法改正で総会屋が潰されると大方廃刊。
だが技能を身に付けた者は大手メディアでフリーランスとして雇用された。リベラル/左翼ライターには総会屋の手先出身が結構居たのである。
こういう訳で街宣右翼業界は膨れ上がり、日教組の集会や8月9日の反ソデーには黒塗りのハイデッキバスが大挙して集合し爆音で軍歌を流すようになった。それまでのライトバンやタウンエースにスピーカーつけてる貧乏右翼とは大違いだ。
ハイデッキ観光型バスというのは6000万円以上する。それの座席を取っ払ってラウンジ型にしてシャンデリアやカラオケ、自動車電話、冷蔵庫とバーカウンターをつけて車検を通したら1億を超える。それに自民党や共産党のようなプロの街宣用スピーカー、アンプを搭載して、北方領土の日にはフェリーと陸路で釧路とかの空港に回送しておくのだ。組員は飛行機で向かってバスに乗り納沙布岬に向かって「露助この野郎」とかやって帰るんである。
しかも一社あたり3台とか6台とか持ってるのだ。沢山来すぎて根室は渋滞になるほどだ。当時の任侠右翼の羽振りの良さが判るだろう。
ハリウッド映画でもジャパニーズヤクザが描写されていた頃で、特に企業活動への威圧的介入は警察に問題視されていた。
そこで暴対法が施行される事になる。これは大抵の暴力団を社会的に殺す大変大きな力がある法律だった。
伊丹十三のミンボーの女には暴力団が右翼の街宣車で企業恐喝に来るシーンがある。この映画は暴対法施行直後に公開されたので同法施行で先を案じているヤクザを大いに怒らせる事になって伊丹はヤクザに襲撃されて重傷を負ってしまった。
余談だが、この時伊丹を襲撃した組は後にJR東本社前の土地を巡って殺人事件を起こした。JR東本社は道路に面しておらず、また同社は本社付近の建物を次々に押えているのだが、購入すれば都道と面して建築基準が大幅緩和されるその土地に手を付けなかった。それほどヤバい土地だったのだな。
ちょっと長くなったが、「えせ右翼は在日朝鮮人が右翼の評判を下げる為になりすましてる」とか噴飯物の事をいう人が多く居る界隈なので一応説明した。
えせ右翼とは一般には上記のように民事介入目的でヤクザが運営して構成員も被る政治結社の事だ。もっと硬い警察用語では「右翼標榜暴力団」という。
こうして
となってソ連に勝利したはずなのに右翼/保守業界というのは停滞してシュリンクしてしまう事になる。
そして当業界では超直的なそれに代わって冷戦後政治リアリズムを中心に多様性がある論説が流行するようになった。産経新聞のコラム「斜断機」が柔軟で面白くて単行本化されてしまうような時代だ。因みに吉本隆明の門下生が多く書いていた。
そんな中で反共反ソイデオロギー一本の人らには居場所が無い。ソ連無き後に残った残存敵性勢力の日教組をひたすら叩きながら閉じた業界で腐っていたのである。
当時は欧州もみな社民政権でリベラル人気で冷戦後の世界情勢にも楽観的だった時代だった。
めちゃくちゃど田舎に住んでた。
電車も通ってない。インターネットは最近光回線がきた。実家に帰るとまだときどき3G回線に切り替わる。その程度の田舎。
同級生は7人(途中で一人引っ越ししていって6人に)。全校生徒は30〜40人程度の今は廃校になってるような学校。
そんなど田舎に住んでる大人ってのはだいたい個人事業主だった。
大工だったり、○○組という土建屋の社長だったり、飲食店を営んでいたり、木工だったり。
自分の父親は車で1時間30分かけて電車もあるしデパートもあるちょっとした街の会社に努めているサラリーマンだった。やってることはコピー機の営業。
なんでそんな人がど田舎に住んでるかって言うと父も母も同郷(つまりこの田舎出身)で両祖父母から結構な束縛があったからだ。(一度引っ越ししようかって話になったが母親の祖父がやってきて怒鳴り散らしていたがそれはまた別の話)
さて前置きが長くなったが、そんなんだから自分の父親の仕事紹介みたいなのが本当に嫌だった。
・どんな仕事?
みたいな内容で、先生としては「将来像を建てる時にどういうプロセスがいるかを実感してほしい」みたいな意図があったのは今になればよくわかるのだが、営業マンにとってはかなり「ない」「ない」「ありません」みたいな感じの質問だったので父親もすごく頭を悩まして答えてくれたのを覚えている。
それをまとめたものを授業参観で発表するわけだが、周りの子が「お父さんは○○組の社長です!おじいさんから会社を継いで従業員さんは何人で」とか「お父さんは料理人で調理の専門学校にいって○○というところで何年修行して…」みたいな所で「自分のお父さんはコピー機を売る仕事をしています。大学にいって精神面を鍛える必要がある仕事で」みたいなことを発表させられた。
今になったら別に恥ずかしい事でもないんだけど、周りの発表が尊大すぎてなんというか「手に職」感があってきつかった。
だから自分は「手に職をつけよう」と漠然と思い浮かべて大学にもいって精神面を鍛えてこんな時間に増田できるような会社の総務職についたってわけ。
株価はゆっくりゆっくり下降。暴落ではないから、真綿で首を絞められるよう。まだ下がるの?みたいな感じ。
円高で輸出産業が弱って、円安誘導するとアメリカ様に怒られるってのもあって、内需内需と叫んでた。
具体的には公共事業で土建屋にジャブジャブ資金注入と、サービス業の拡大。
景気は回復しなかった。
伝統芸能や文化遺産はコンテンツとして価値がある、みたいな話だった。
というか、いつもの小泉純一郎節の下手な鉄砲のハッタリだったと思う。
外で稼いでくることをあきらめ、国内の金回りをあきらめ、海外からタナボタを狙う。戦略としては正しい。舐めてるけど。
観光立国というだけで可笑しかったが、握った美しい国ニッポンの安倍晋三と、マンガが好きな麻生太郎が力をもってから、アニメやサブカルをプッシュし始めてますます迷走してきた。
コンテンツ輸出するつもりなら、韓国アイドルみたいにせめて英語じゃなくちゃダメだろって思ったが。
電通が日本でプロモーションして、日本人が日本人から金を巻き上げる謎。
電通の広告戦略に乗せられず、日本の技術を高く評価する中国人はやっぱり賢い。
これからどうなるの?