はてなキーワード: 土建屋とは
もう、土建屋になろうや。
男にも見放されてる土建屋が何か言ってる
地方が仕事を作れないから地方の人が移民みたいに東京に来て東京の土地の人らは迷惑してると思うんだよね。外国人の不動産買い占めとか目じゃないレベルで、地方民が来る需要があるから年々不動産価格は上がるし就活競争も苛烈になるし、電車は混むし賃金も一生上がらない。幼稚園も保育園も混む。
頭が悪くて生産能力が低い、一生懸命な人たちがいっぱい来ちゃうのは正直邪魔だよなって思う。東京が地元の子たちがバイト1,250円で働いてた頃のが手取り多かったな〜って思う職場で地元の時給が950円だった子達が低い条件で喜んで働いちゃうから東京の賃金はいつまでたっても上がらない。
カスみたいな建売住宅や馬鹿みたいな1Kアパート、異臭がする東京湾の湾岸に住みたがる田舎者のせいで、おばあちゃん達は不動産屋に騙されて土地を取られるし、昔はまともな公営住宅が建ってた土地が地上げされてタワマンになる。
頭が良い人は納税してくれるからまだマシだと思う。北京みたいな感じで、三代都民じゃない人間は住居を買うのにVISAがいるみたいにしてほしい。よく分かってないけど。
地方は仕事がないって皆言うけど、地方民が東京に来るせいで東京にはまともな仕事がない。具体的には、商業高校で一番を取れば地銀に勤められるとか、工業高校でちゃんと勉強すればトヨタや製鉄の孫会社に滑り込めるとか、資格を取れば地元の電力会社や通信会社に入れるとか、高卒でちゃんと公務員になれるとかそういったコースがない。まともな仕事につくために必要な経費が、他地方よりも優位に多い。なぜかって言えば人が余ってるから。
東京の高卒は、運動神経が良ければ土建屋に、体力があれば引越屋か飲食にで、工業高校に行っても運送/倉庫管理の中小、商業高校に行っても事務は派遣みたいな状態。そうなったら金もないのに専門か大学に行くしかないし、専門に行ったとて地方から出てきた変な夢抱えてラリってる馬鹿が引下げた賃金と労働環境でやりがい搾取、大学に行ったら良いとこ入れるかは皆様ご存知の通りってとこ。
貧民が稼げるようになる糸口はIT土方か不動産営業くらいだと思う。それもそこそこ頑張らなきゃいけない。地方民が競争率上げるから。
東京が人を吸い上げるせいで地方が衰退するって言うけど、こっちから言わせてもらえば地方が人を送り込んでくるせいで東京は終わってる。全部引き取ってくれ。困らないから。夢とか追いに来るな、お前のせいで不動産の居室が1室埋まり、電車が1席埋まる。馬鹿なお前が日々やりがいを持って働くせいで、俺たちの労働環境は一生改善しないし適正な競争が生まれない。日東駒専以下のやつ全員帰れ。あと年収360万以下も帰れ。東京に貢献できないくせに東京に来るな。
あと安保の施設や工場、発電所を地方に押し付けてるって言い方も腹立つ、地元に首都機能押し付けられてる方がどう考えても迷惑。土地はぶんどられるし、労働市場も住宅市場も破壊されてる。
自然環境も家業の維持も、何贅沢いってんのって感じ。東京湾で漁師やってた人間も世田谷で葱作ってた農家も、全員、業は取潰されて端金の補助金受け取って、土地を2代も守れず追い出されてったわけだけど、それについてはどうなの。地元の土地になんかよくわからん施設ができるのは最悪よ。漁船を留めてた場所に羽田空港が出来ようが、元漁師は豊かになんかならない。全部東京がとうの60年前にやられた事で地方は意気揚々と文句垂れ流してるのもそれはそれで違わね?
残念だけど東京で割りを食ってるのは俺みたいに貧乏で馬鹿な連中だからちゃんとした文句の言い方知らなくて全然こういうの聞かないけど、東京一極集中について地方が可哀想って文脈はマジで馬鹿みたいだと思うよ。
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
「何人月ですか?」みたいな話をしてくる奴ばっかだろ?
1kmの道路を作る場合に比べて10kmの道路を作るのは単純に10倍かかる
期間を10倍にするか、人員を10倍にするか、っていう話だから人月計算で給料が払われてる
それがベースになってて基本的には時給計算で給料を支払い、残業っていう考え方が生まれ、労組っていうのができあがってる
営業にしても事務にしても同じような考え方で動いてるから実態に合ってないけど無理矢理合わせて動いてる
そんで頑張ってホワイトカラーエグゼプションとかやろうとしても労組を中心に反対されるから大企業でこの土建屋感覚を変えるのはほぼ無理なんだよね
なので「工数」「キロライン」みたいなクソ単位で見積もりしようとする
みたいなクソ質問してくるやつが後を絶たない
人を集めたら作れるでしょ?っていう感覚なので下請け構造にしてとにかく人数を増やそうとする
本当なら社内に2,3人の優秀なエンジニアがいれば全て解決できるんだけど
その2,3人だけを高給にできないし辞めるリスクを負えないから外部にその責任を負わせるんだよね
まぁ米国以外はだいたい似たような感じだし
米国が上手くいってるとは限らないけれどね
地方が仕事を作れないから地方の人が移民みたいに東京に来て東京の土地の人らは迷惑してると思うんだよね。外国人の不動産買い占めとか目じゃないレベルで、地方民が来る需要があるから年々不動産価格は上がるし就活競争も苛烈になるし、電車は混むし賃金も一生上がらない。幼稚園も保育園も混む。
頭が悪くて生産能力が低い、一生懸命な人たちがいっぱい来ちゃうのは正直邪魔だよなって思う。東京が地元の子たちがバイト1,250円で働いてた頃のが手取り多かったな〜って思う職場で地元の時給が950円だった子達が低い条件で喜んで働いちゃうから東京の賃金はいつまでたっても上がらない。
カスみたいな建売住宅や馬鹿みたいな1Kアパート、異臭がする東京湾の湾岸に住みたがる田舎者のせいで、おばあちゃん達は不動産屋に騙されて土地を取られるし、昔はまともな公営住宅が建ってた土地が地上げされてタワマンになる。
頭が良い人は納税してくれるからまだマシだと思う。北京みたいな感じで、三代都民じゃない人間は住居を買うのにVISAがいるみたいにしてほしい。よく分かってないけど。
地方は仕事がないって皆言うけど、地方民が東京に来るせいで東京にはまともな仕事がない。具体的には、商業高校で一番を取れば地銀に勤められるとか、工業高校でちゃんと勉強すればトヨタや製鉄の孫会社に滑り込めるとか、資格を取れば地元の電力会社や通信会社に入れるとか、高卒でちゃんと公務員になれるとかそういったコースがない。まともな仕事につくために必要な経費が、他地方よりも優位に多い。なぜかって言えば人が余ってるから。
東京の高卒は、運動神経が良ければ土建屋に、体力があれば引越屋か飲食にで、工業高校に行っても運送/倉庫管理の中小、商業高校に行っても事務は派遣みたいな状態。そうなったら金もないのに専門か大学に行くしかないし、専門に行ったとて地方から出てきた変な夢抱えてラリってる馬鹿が引下げた賃金と労働環境でやりがい搾取、大学に行ったら良いとこ入れるかは皆様ご存知の通りってとこ。
貧民が稼げるようになる糸口はIT土方か不動産営業くらいだと思う。それもそこそこ頑張らなきゃいけない。地方民が競争率上げるから。
東京が人を吸い上げるせいで地方が衰退するって言うけど、こっちから言わせてもらえば地方が人を送り込んでくるせいで東京は終わってる。全部引き取ってくれ。困らないから。夢とか追いに来るな、お前のせいで不動産の居室が1室埋まり、電車が1席埋まる。馬鹿なお前が日々やりがいを持って働くせいで、俺たちの労働環境は一生改善しないし適正な競争が生まれない。日東駒専以下のやつ全員帰れ。あと年収360万以下も帰れ。東京に貢献できないくせに東京に来るな。
あと安保の施設や工場、発電所を地方に押し付けてるって言い方も腹立つ、地元に首都機能押し付けられてる方がどう考えても迷惑。土地はぶんどられるし、労働市場も住宅市場も破壊されてる。
自然環境も家業の維持も、何贅沢いってんのって感じ。東京湾で漁師やってた人間も世田谷で葱作ってた農家も、全員、業は取潰されて端金の補助金受け取って、土地を2代も守れず追い出されてったわけだけど、それについてはどうなの。地元の土地になんかよくわからん施設ができるのは最悪よ。漁船を留めてた場所に羽田空港が出来ようが、元漁師は豊かになんかならない。全部東京がとうの60年前にやられた事で地方は意気揚々と文句垂れ流してるのもそれはそれで違わね?
残念だけど東京で割りを食ってるのは俺みたいに貧乏で馬鹿な連中だからちゃんとした文句の言い方知らなくて全然こういうの聞かないけど、東京一極集中について地方が可哀想って文脈はマジで馬鹿みたいだと思うよ。
土建屋が家建てるのに構造力学が必要ないのと同じで、コード書くだけなら要らんでしょ
すでに書かれてるけど複雑な計算はフレームワークあるんだって立場ならそれ使えばいいだけだし、そのフレームワークを書く人には高度な数学が必要だけど、大多数を占める単なるユーザは別に難しいことをやる必要がない クギを打てば家は建つ 複雑な理屈は要らない
ただそういう誰かが作ったものを使ってどうにかする人々っていうのは代替が効くので、いろいろ勉強してより根本に近いところをできるようになればより需要が増すというだけ
俺が大学に入ったときに言われて記憶に残っているのは、(当時)今後海外とかから安い労働力が入ってきて君たちの半額とかで仕事を請け負うようになるのだから、2倍の仕事量をこなせないのであれば、そういう人たちができない、一朝一夕ではどうにもならないところを学びなさいっていう話でこれは今でも時々思い出している