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はてなキーワード: 部活とは

2020-11-20

自分特別人間じゃないと気づいた年齢

自分は16歳の時に自分特別人間じゃないと気づいた。

それまでは勉強部活習い事など不自由なく上手く行っていた。これからも素晴らしい人生を歩んでいくのだと思っていた。

失敗もなく上手く行っていたのが良くなかったのかもしれない。

しかし16歳の時に自分が何もできないクズだと気づいて、自分は全く特別人間では無いことが分かった。

もっと早くに気がつけばよかった。

それからは本当の意味人生を楽しめなくなった。

気づくのが遅かったのは幸せだったかもしれないが、だからこそショックは大きかったのだろう。

一生特別だと思い込んだまま過ごす人こそ、真の幸せ者だ。

2020-11-19

昭和50年頃の日本田舎風景

思いついた順。順番に意味は無い。

 

田舎道路舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装コンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。

・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。

石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカス掃除先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブ石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋改装されて、学校ニワトリを飼っていた。

火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。

掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。

・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。

洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。

・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番おやつだった。

農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。

・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。

軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。

コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。

・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。

カラーTV田舎にも普及しはじめた頃。

・街へ行くたびに、あちこちボコボコビルが建ち始めていた時代1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビル建設されて、日本の街の風景が一変した。

・いまはシャッター街となっている田舎商店街に、もっとも活気があった時代

軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦特攻隊の訓練生だったとか、広島原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師リアルに居た。多くの大人たちが原爆キノコ雲の目撃者だった。

・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。

貯金金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。

・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。

・お豆腐屋さんに毎日豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。

主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋

生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミ収集車は、不燃ごみの回収が主だった。

冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。

・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦セックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。

  

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そのほか、あとで思い出したこと追記

子ども神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。

・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所神社の床下だった。

・雨の日はよくトランプしていた気がする。

レゴブロックは既にあった。当時から定番おもちゃだった。

こたつテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。

蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。

 (しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)

バスには運転手のほかに切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年

宅配便はまだ無かった。国鉄の駅から小包を発送していた。

国鉄荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定タグをつけたりしなくてはならなかった。

昭和50年代に複数宅配便会社競争で一気に普及して、国鉄荷物を送ることは全くなくなった。

女子体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活マラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。

ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。

・そんなド田舎でも新聞牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。

学校の校舎は当然木造体育館木造。今思うと、体育館のような大きな建物木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。

バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。

・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。

・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチック発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年

幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞にっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。

リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。

ポヤポヤ就活大学生がむかつくしそれにむかつく自分にむかつく

コロナ就活厳しいのはかわそうだと思うし、そうでなくてももっと全体的に就活イージーモードになればいいと思うんだけど、

ポワッとした大学行って部活サークルも遊んでバイトも最低限実家暮らしのやつが就活大変~><って言ってるの見るとなんか腹立つ

自業自得やん

就活厳しいなんて10年ぐらい言われてるんだから就職強い学部行くとか大会コンクールで結果出すとかなんかあるだろ!!!

それで就職どうしたらいいですかね~とか相談されるから殴りそう

こっちはとにかく正社員になること目標に食いっぱぐれなさそうな機械系で就職強いとこ選んだから

好きなことで進路決めた人間が妬ましい 苦しい

安定した生活>好きなこと を選んだのは自分なのにそれを家が貧乏だったせいにして、金の心配せず好きなこと選べる家はいいよなってひねくれたこと考えてしま

貧乏だったけど公営住宅だったし、離婚した父の学資保険大学行けたからそれこそ「自分よりひどいやつは山ほどいる」なんだけど

こういうのって一生抱えて生きていくしかないんかね

受け身って過大評価されすぎじゃね?

授業で柔道やったとか中高で部活やってたとかで、事故で助かる率が上がるとは思えないが。

ようするに、体が地面に落ちるときに頭をぶつけないように首を曲げるってだけでしょ?

事故でふっとばされたときに体をまるめて衝撃を逃すとか漫画の見過ぎだと思うわ。

anond:20201119010722

それ言ったら柔道に限った話でもなかろう。剣道薙刀野球サッカーテニス卓球バスケットボールバレーボールも似たようなもんだ。

いっそのこと、こういう部活は全部廃止するか。

2020-11-18

anond:20201118145947

人脈作り

社会に出てから仕事関係以外の人と出会いにくくなる。大学のうちに、仲のいい友人を何名か、気軽にご飯に誘えるくらいの部活orサークル仲間あたりを作っておくのがいいよ。

人生の休息

最低限のことをやっていれば、遊べばいいし、バイトインターン経験を積むのもいい。

長期休みのある大学生だからこそ、できることはたくさんあるよ。

気になってることを片っ端からやってみるとか。

大学はまあ、高い学費と引き換えに自由時間を手に入れるようなものだよ。何するも自由

そういう時間ってなかなか得られないから大切にね。

有名国立大学中退しました

初めて長文をネット投稿するので、不備があったら申し訳ありません。また細かい部分は匿名性の保持のため一部改変してる可能性があります

タイトル通りですが今年の9月某国立大学を中退しました。現在24歳です。大学には理工学部に5年半在籍していました。1回生、2回生までは普通に進級できたのですが、3回生でつまづき(後述)、そこから休学を挟んで3年半3回生を繰り返して最終的には中退しました。

幼少期から勉強は非常にできる方でした。勉強するという点においては他の子と比べてあまりに要領が良かったのだと思います勉強時間はそんなに取らずとも吸収力はすさまじいタイプでした。両親の学歴はともに平凡でしたが教育熱心で幼稚園から公文などの学習を始めていました。小学校4年生から学習塾に通い、中学受験もして難関中高一貫私立校合格入学しました。

ただ私自身は勉強自体が好きだったというよりはゲーム感覚で解けるのが楽しかっただけでした。そして中学受験までは良い大学に入って良い企業就職するということが当たり前の幸せ人生目標といった感じでなんの疑いもなく勉強していました。しか入学後にその考え方は複数理由で消え去りました。この「良い大学に入って良い企業就職する」という考え方は、後に両親が一種洗脳に近い考えを私に植え付けていたのだと感じました。もちろん前述のようなレールに乗っかる人生設計は社会的成功する可能性を高めてはくれるので他の人から見れば贅沢の浪費だと考える人いるかもしれません。しかし当時の私はそうは思えませんでした。

中学入学以降私の成績は落ちていきます中高一貫校に入ったおかげで高校入試もなく、生徒の自主性を重んじる校風もあり強制されて勉強させられることもありませんでした。自由時間が増えたので私は遊ぶことに費やしました。テレビゲームだったり部活仲間とのカラオケボウリングなど、一般的中学生でした。成績は落ちたと言っても有名私立校で真ん中くらいの成績でした。これは高校3年生まで変わりませんでした。勉強時間も日頃は宿題をやる程度でテスト前だけ範囲分おさらいするくらいでした。

しかし、勉強好きだった(ように周りからは見えていた)私が勉強しなくなった一番の理由は、周りの圧倒的な天才集団を目の当たりにしたからでした。もちろんそれは一部の生徒でしたが、数学オリンピックメダリストだったり、論文コンテスト最優秀賞だったり、とにかく次元の違う天才ゴロゴロいました。もちろん彼らも類稀なる才能の他に血のにじむような努力はしていたに決まってるのですが、当時の私はその才能に嫉妬し、「とてもじゃないが敵わない」と感じ、トップブトップを目指すのをやめてしまったのです。そこから勉強するのが苦痛になりました。「どうせあいつらには勝てないのになんで勉強する必要があるんだ」と。

その結果勉強の方はなあなあで高校3年生まで過ごしてしまいました。それでも一定学力は維持していたので効率よく勉強する才能だけはあったようです。

とにもかくにも高校2年生になった私は自然大学受験意識し始めます。将来の夢もそれのために行きたい大学もなかった私はとりあえずどちらかというと得意だった理系選択します。大学受験しないという生徒は周りに1人もおらず、仕方なく周りに合わせて大学受験する、といった感覚でした。

高2のときは一応東大を目指していましたが本気で勉強しないで行けるほど甘くはなく、高3の夏にはランクを落として某国立大学を目指すことになります。その大学ですら日本ではベスト10に入る有名大学で、企業からも高く評価されている大学です。「この大学にならほとんど勉強せずに入れるぞ」と感じ、それでいて社会的一定評価を得られると思ったのです。

実際高3の夏以降の平均勉強時間は、平均1日5時間もなかったと思います

そんな舐めた私ですが、センター試験、2次試験ともに無事終了し、結果は合格

世間一般受験生からすればほとんど勉強せずに有名国立大学に入って「しまい」ました。自分受験に対する計算がぴったり合っているくらいの小さな努力とそれなりの結果の相関があり、割と満足してました。

大学は自宅から通える範囲ではなく、ひとり暮らしをはじめました。大学生になってから自由を得たこともあり、誇張なしに全く勉強しませんでした。1回生、2回生まではほとんど単位を落とすことなく進級できましたが、そのあたりで異変気づきます。「授業についていけない」と感じることが多くなってきたのです。大学理系科目の高度な授業を勉強せずとも理解ができるほど私は天才ではありませんでした。同級生過去問などをもらったりして単位を拾ってはいましたが次第に大学の授業に出られなくなりました。最初自分怠惰なだけだと思っていたのですが次第に大学に向かうだけで動悸、めまい嘔吐などの症状が出始めました。これはもしやと思い心療内科に行くと案の定うつ病と診断されました。

これだけ見ると「何だこいつ甘えてるだけじゃないか」と言われそうですが私は自己分析していました。メンタルの弱さと完璧主義です。

もともと完璧主義者のようなきらいがあった私はできない事があるとすぐ嫌になってしま性質がありました。小学校の頃は図工や家庭科などの副教科が苦手でうまくこなせないと授業中泣いてしまうことも多々ありました。周りの子に主要教科では負けたことがないのにです。また中高時代天才出会ってからトップブトップになれないという挫折を引きずっておりそれが数年たって限界に達したとも考えました。

私は4回生にあがれず留年しました。2度目の3回生を始める4月に休学をして、2年間大学に行きませんでした。その間将来に対する不安が募りました。大学すらまともに行けず、しか自分努力不足であるという自己嫌悪に陥り、社会人としてやっていける自信もなくなっていたのです。死にたいと思ったことも何度もありました。

しか大学から離れたことでうつ病の症状は緩和され、バイトを始められるまでになりました。

そのバイト先で評価され社員にならないかという打診を受けて、大学中退し今年の10から社員になりました。大学にこれ以上在籍しても勉強研究する気は全くないし、自分の将来にプラスになることはないんじゃないかと思い思い切って中退しました。現在は後悔は全くないです。

長くなりましたが一応まとめを書きます。この話から皆さんに伝えたいことは人生は辛いことから逃げていいということです。

私自身いわゆるエリート街道を歩んでいましたが、挫折し、レールからは外れました。少年時代描いていた未来とは大きく異なっています高卒ということで今後大企業就職できる可能性は大きく減りました。昔ならそれに耐えきれませんでしたが今は非常にポジティブに生きています

しかイレギュラーではありますコロナ禍の現在就職できただけでもありがたいと考えていますし、現在仕事やりがいも感じています人生一度きりだし後悔のないように楽しく生きる。これが今の私の人生観です。

もし受験勉強がつらい、大学に行くのが辛い、就活が辛い、仕事が辛い…そんな人の気持ちを軽くできれば幸いです。

冗長な文ですが読んでいただいてありがとうございました。

2020-11-17

anond:20201117173333

お疲れさま。私は9/27に第二子産んで大体似たような頃合いの赤ちゃんを抱いている。

授乳ながらスマホという僅かな自由時間に辛そうな増田を見つけたので少しだけ先輩風吹かすのを許してほしい。反省を活かしつつ新生児期2周目してるので。

第一子の時に同じくしんどくてしんどくて、産後うつになった。少しの過失でも赤ちゃん死なせてゲームオーバーという不安から夫のご飯まで手が回らなかった。そもそも台所まで2ヶ月くらい行ってない。

日中トイレにも行きたくなくて亡くなった祖母の残りの紙オムツで寝ながら放尿していた事もある。これは隣で寝ている赤ちゃんを起こしたくないのと、骨盤がガタガタだったから。

食べ物は朝の内に夫にお握りを2合分握ってもらって、それを食べながら母乳に変えていた。水は水道水部活用みたいな2リットル水筒に入れて飲んでた。夫の飯なんか知らん。

風呂なんか遠い世界の話で、3日に一度のシャワーだった。夫の風呂なんか知らん。

授乳Tシャツから乳を放り出してずっと添い乳で寝かしつけ、赤ちゃんに向き癖がつかないよう数日おきに左右入れ替えるくらいしかしていなかった。

不安になってはスマホ検索斜視に怯え、黄疸に怯え、SIDSに怯えていた。

それに比べて元増田はどうだ。ご飯を作って夫をおだてている。そして他人が読めるまともな文章を書く。無理をし過ぎているのではないか

うちの夫は母性が強いタイプで、私が交通事故だの病気だのと寝込む度に世話をしていたので、妊娠出産イレギュラーではない分安心して看病?できたらしい。

元増田も一度寝込んでみるのはどうだ。立ちたくない、横になっていたいと布団の中で言ってみるんだ。

下手に元増田が立ち働くから旦那さんもわからないんだろう。戦場なんだから参戦させろ。旦那さんに頼むのは沐浴キド体験ツアー参加じゃなく、自分の事を自分で済ませるという一人暮らし大学生がやるやつだ。

日々の洗濯、埃取り程度の簡単掃除炊飯器で飯を炊く、惣菜を買ってきて並べる、風呂に入って歯磨きして寝る。ちゃんと間違えずできるようになったら増田の分も頼めばいい。

寝込め寝込め。

赤ちゃんがかわいくない、泣き声が怖いと思い始めるとお世話するよつらいぞ。もしかしたら既にそう思ってるかも知れないけど、余裕のある状態で見る我が子はかわいいぞ。

同人って部活みたいだね

ジャンル移動してるつもりはなくて、普通に気分が乗ったらジャンルAもジャンルBもやるし 作品しか興味無かったら非公開リストに入れとくだけ もしくは名前だけ覚えておいてたまにガーっと見る 人柄とかには興味ないか

交流するのは本人が素敵だからってだけでジャンル作品はそんなに重要じゃない 当たり前だけどこっちと同じだけの興味を向こうが持つとは限らないから、探り探りウマが合うな〜と思うと嬉しい その頃には何だろうがどうでもよくなってる 作品うまくてフォロワー沢山いる人は気遣うのかツイートつまんなくなりがちだし、鍵垢とか違うところで楽しくやってるんだろう、すると舞台上の演者に話しかけるのもおかしな話だよな〜って感じ

という具合に適当にやってるとたまに変な説教される スポーツ系の部活にいた時こういう女いたな〜っと思って話聞いてる

2020-11-16

変わったのは私

大学時代にダラダラとやってた活動

協賛する学生お金を出し合い、活動を通して学生還元されるもタイプのやつ。

意識高いわけでもなく、先輩や後輩に囲まれて最高だった。

 

その活動がひょんなことから法人化した。

私は法人メンバー謄本にのるやつ)になった。といっても無給。

法人化して社会的信用を負いうる組織になったためか、

大きな資金を得ることができ、そして、設備投資をすることができた。

新しく導入された設備にわくわくした。

今までも、これから学生のために活動ができる。

  

活動自体法人化してもやることは変わらない。

実際、法人メンバー意識は依然と変わっていない。

しかし、法人化したことから資金周りをきちんと把握する必要ができた。

 

 

ここで問題が起きた。長期的な採算が合わない。

収支は、先行投資した設備分を回収できない。

現金収支はまあまあな黒字だが、減価償却費考慮すると赤字となる。

既存設備寿命が来た時に再投資を行う資金がない。 

(ここでは借入等は考慮外としてます

将来的には苦しい問題となることは明らかだった。

ダラダラと行っていた活動サークル部活の類から経営に変わる局面になっていた。

活動資金問題である

 

 

どうすればこの局面を逃れられるか。

どうすればこの活動を将来も続けることができるだろうか。

いたずらに問題を共有してもパニック状態になるのが目に見えている。

法人メンバー内で問題になる前に、事前に自分の中でいくつか案を考えた。

 

協賛してくれる学生からの会費を増額するプランだ。

今行ってる活動にも改善点があるため、そこを改善するとともに見合う分だけ増額する。

幸い、問題が表面化するのはかなり先の未来だ。時間はある。

少しの改善と少しの値上げ、これを何回か繰り返す。

改善するプランや他の資金集めの方法も考えた。

上手くいくかは分からない。正直、しんどい

でも、この活動継続していくことは大きな意味があると思ってる。

 

将来起こりうる事態をなんとか避けるために、時に支離滅裂になりながらも

手探りで試行錯誤することが必要だ。

現にいくつかの案は動きだしている。これらが、スマートにできればどれだけいいか

 

お世話になった先輩達に相談したが、返ってきた反応は厳しかった。

同じ時間を過ごした先輩達なら一緒に手探りで試行錯誤してくれるだろうと思ったが違った。

変わったのは私、そして、先輩たち。

先輩達は仕事があり家庭がある。

無給の仕事必死になってる私がおかしいのだ。

 

やってられないな。全部やめるか。

ペーパーテスト以外が全くうまくできない

から勉強はできたので高校受験大学受験まではうまく行ったけど学力以外が評価されるようになると躓いてしまった。

まずは大学4年次の研究室所属。人気の有る研究室だと定員を超えると面接があり希望が通らないことがある。

俺の場合希望者6人定員5人だったけど、一番成績優秀だった(らしい)俺が落とされ、全然希望してなかった研究室所属することに。

次に院試。結局合格はしたんだけど成績開示すると面接と小論の得点が3割もなかった。学力試験TOEFLの点数が良かったかギリギリ受かったらしい。

今は修士二年。コロナ禍ということもあるかもしれないけど、面接からず未だに内定ゼロメーカー学内推薦を5つくらい応募したけど学内選考で全部落とされてる。

から勉強だけすればそのうち報われると思っていたから、部活恋愛バイトもせずに学力に全振りしていた。しかし、コミュ力重要になってくるとどうにもならない。

今年24だけど彼女どころか気軽に話せる友人もいない。後悔しかない。

anond:20201113205302

部活リア充で遊んで勉強しなかったからF欄て奴なら気にしてない

それなりに一生懸命勉強して秀才のはしくれだと自認してた奴(地域3~4位進学校クラス10番くらい)がやばい

2020-11-15

ポケモンで人生救われた話

小学生の頃に引っ越しして小学校が変わった

知り合いが1人もいない環境初日ポケモンの話で友人ができた

その友人と同じ部活に入り中学も同じで学生時代を過ごすことが出来た

ポケモンがなければ友人が出来なかったであろう

それが俺とポケモンの話

2020-11-13

anond:20201113140843

中学の時テニス部で、山を切り開いて作ったテニスコート部活してたけど、年に何回かは見たな。

何年かまえも、山の中を通ってる国道沿いにある道の駅によって、隣の広場みたいなところを見たら大量にウサギの糞が落ちてたわ。

2020-11-11

anond:20201111185705

田舎だと体育とか部活のこと考えると私服ってか運動服になってしまうのよねー

anond:20201110113909

神扱いされてる 綾城が神格化しきれてないのが原因。

しろ、「霧島部活やめるってよ」の霧島のように、顔も本名も無いおけけパワーを理想ファンとして描ききる方が面白い

2020-11-09

社会人が楽しすぎてワロタ

毎月決まった日に決まった額のお金がもらえるし、体調悪かったり天気が悪かったり災害警報が出てたら簡単に休める。何なら上司が先に当日欠勤の申請してる。信じられないことにお金もらいながら休むこともできる。

9時間拘束は面倒だったが、実働はその半分にも満たなかったし、どちらかというと残りの時間つぶしに苦慮してた。それは俺だけではないらしくて、たまに中庭意味もなくうろついてる同僚を見かけていた。今は半分テレワークでそこらへんもあいまいになったので解決。定例で行われる飲み会あんまりきじゃないけど、状況により業務時間にあてられるし、会社から補助が出るので大きな不満はない。ただ自分から振れる話題ほとんどないのでつまらない人間だなと思う。他人の意外な趣味や家庭の話が飛び込んできたりして、聞かせてもらう分には面白い

忙しい時は残業宿題もあるけど、その分お金はもらえるし、もともとプライベートが充実してるわけじゃないので、あんまり困らない。大体の休日ちゃんと休めるし。

そんな態度でやってる仕事から年収は平均に結構劣るけど、物価も安いところに住んでいるので暮らしていく分に不便は少ない。自分としては平穏のもの人生で、不安は親の老後と自分孤独死ぐらいしかない。

それに比べると、学校に通っていた頃は本当につらかった。学年が違うというだけで廊下すら聖域扱いされる上級生とは、距離感を見誤ってよく怒られていた。名指しで呼び出されたこともあった。たかだか数年早く生まれただけでなぜあんなに偉そうなのか、進級して同じ立場になってもわからなかった。俺は人間関係が下手だった。

学校が終わったあと、やりたくもない部活動強制で放り込まれ、全く興味がないことに心身を疲弊させられるのは死ぬほど嫌だった。実家お金がなかったので、課外授業とか教材費とか合宿とか部費とか、出費がある度にお願いするのも心苦しかった。

バイトをすればよかったのかもしれないが、学業のために休日放課後に何かできるほど人生真剣ではなかった。そういう意味では、親に甘えていた。そのうち幽霊部員になった。部活に行かなくなった最初はほかの部員にドヤされたが、そもそもまじめにやっていなかった人間なのですぐに無視されるようになった。後ろめたさはすぐになくなり、心も軽くなった。修学旅行も、旅費を出してほしくなかったので行かなかった。多くの人間と寝食をともにすることに強いストレスを感じる性分だったので、もともと行きたくなかったのもあった。部活修学旅行も、強制されるものだと思っていたので、拒否することが可能なのに驚いた。やらない/行かないという選択肢そもそも目の前に存在していなかったが、選ぶことができるのを知った。

学校では出席日数がすべてであり、どんな体調、どんな天気だろうが通い続けることが美徳なのは悪夢ですらあった。高熱だろうが出校をうながされ、大雨だろうが台風だろうが大雪だろうが、まずは連絡網を待ち続けるのは不快しかなかった。休みにはならないと言うので学校に向かったら、朝のホームルーム帰宅指示が出された豪雨の日のことは、今でも呪っている。

教師ともソリが合わずいつもにらまれていたが、それは俺の思い過ごしかもしれない。ただ、こんな態度なのだから、好かれてはいなかっただろうと思う。授業はまじめに受けているつもりだったけど、勉強にはついていくことができていなかった。遅れた部分を取り戻すこともできないまま、内容はどんどん先に進んでいき、完全に一周遅れとなった俺はいしか学校に行っても何も学べなくなっていたので、授業中は椅子に座ってぼーっとしているだけだった。苦痛だった。問題を当てられて黒板の前に立たされても、どうせわからないのだから棒立ちしていることを繰り返していたら、指されなくなった。

それでも勝手単位が出てきて進級したし、進級したら高認をとれたので、そのまま学校をやめ、就職活動をしてみた。それしか道がなかった。奇跡的に就職できた後は一人暮らしも始めた。それまでの世界に比べると、そのあとはまるで天国だった。俺に対して決して捨て鉢にならなかった親にはとても感謝している。昨今は社会情勢的に実家に帰ることがなかなか出来ないので残念だ。連絡はときどきしているし、できる限り孝行をしたいと思っているが、敬愛の示し方がわからないため、なかなかままならない。

さておき、学校本来学ぶはずだったことが、仕事において必要なことはたくさんあった。日本語がうまくなくて困ったことがあった。確率割合計算ができなかったり、放物線がグラフで描けなくて困ったことがあった。世界の略歴を知らなくて困ったことがあった。グローバルな会社ではないが最低限の英語必要になることはあり、当然そこでも困った。野球サッカーゴルフ将棋麻雀ルール全然知らなくて困ることすらあった。義務教育の内容や、集団生活での経験社会必要ないなんて思ったことはなかったけど、俺が社会必要なことを学校で学ぶのに失敗していたのは事実だった。学校に通い、必要なことを必要な時にちゃんと学べている人は本当に立派な人間だと思う。

だがそれらが俺の責任である以上、学生のころは全くわからなかった学問を、小中学生レベルからやり直した。社会人になってから勉強することでお金がもらえるし、もらえるお金も増えるようになるので嬉しい。スポーツや遊びは俺を幼稚園児だと思って教えてほしいと伝えて学ばせてもらっている。強制されない、ノルマ存在しない運動楽しいということは社会人になってから知った。さかあがりはいまだにできないけどね。

今でも学生のころは夢に見る。そのほとんどは良くない思い出のごった煮で、目が覚めた時の気分はいつも最悪なのだが、それと同時に、現実ではもう社会人であれてよかったと安堵する。社会人になってから人生が楽しくてしょうがない。

anond:20201109020835

アイドルもの自分も苦手なんだけど、理由が、

同じようなかわいい女の子がたくさん出るのが多く、キャラクター識別できない。

会社側がろくでもない、あるいは労働条件がクソだったら、夢や、やりがいという人参をぶら下げられて搾取されてるのに気づかない労働者の群れに見えてしんどい

ってかんじ。部活スポーツだったら後者の要素は薄くなるんだけれど、アイドルだと営利活動から

2020-11-06

回想

anond:20201105213236

ふと、似たような経験を思い出したので、増田に認めてみる。

中学三年の時、A(♂)がB子(♀)に告白したらしい。

  (Aのスペック:170cm中ほどだったが、ひざ神みたいな運動音痴、ちょいポチャ、今でいうキモオタ系。)

  (B子スペック:150cm代中ほど、華奢だがバスケ部体育会系、かなり細くて色白。)

中学の時に付き合っていたとはいっても、帰宅彼女を家まで送る係みたいなものだった。

時は過ぎて卒業式も終了し帰宅することとなった。

靴箱の僕の靴の所には、何通か手紙が入っていた。

その一通が、B子からの物だった。

僕に対する告白と言うほどのものではなかったけど、

Aからしかけられて、あまり気持ちのいいものではなかったとか、キモかったとか。

ただ、文面からは、僕に対しては好意的ものだった。

他の手紙告白ではなかったけど、私のこと忘れないでねみたいな、手紙だった。

シャイな僕は、その後誰にも会ってないし、話もしていない。

なんだみんなそんなに興味があったんなら、先に言ってくれよともやもやした覚えが有る。


話は変わってAの事なんだけど、1年から同級生で仲は悪い方ではなかったのに

(もう一人の友達を加えて、3人で同じ文科系部活を行ってもいたので、仲は良かった方だと思う。

当時は、文科系部活運動部と両方に属することも当たり前だった)、

僕に対する態度が、3年のある時期から変わってしまった。

かなり攻撃的な態度を取るように変わって行ってしまった。

から思い返してみると、それはB子と付き合うようになった後の事だった。

しかしたら何かの拍子に、B子が僕の名前を出したのかもしれない。

それを快く思わなかったAが、僕の事を妬むようになったのかもしれない。

卒業式を数か月後に控えた或る日、僕とAは同じ学校受験した。

僕は3年の或る時期から、その学校過去問題集等を取り寄せて、かなり勉強していた。

結果、他のクラスから受験した人がいたが、その人もAも不合格となり、僕だけが合格した。

その時Aに言われた言葉が、なんでお前だけが合格なんだよ、大して勉強もしてないくせに、と。

(残念ながら君よりは勉強したんだよ、君には分からなかったかもしれないけど。)

そしてAは学区内の工業高校に進学したと思う。

そんなことが有って、卒業式を間近に控えた或る日、とある催し物(お別れ会みたいな)が行われ、

僕をターゲットにした些細な事件が発生した。

僕らの仲間内では、犯人はAしかいないと誰もがそう言っていた。

B子と付き合いだしてから事柄(この事件の時点では、まだ知る由も無かったこと)、

受験の失敗等で妬まれていたのかと思ったのは、卒業して暫くしてからの事だった。

余談

B子が僕に好意的だった事に関しては、思い当たる節が有った。

或る時、数学担当先生女子バスケ部コーチが授業中にC子を侮辱するような言葉を浴びせた。

クラスみんなの前でだ。

  (C子のスペック:160cm弱位、肩幅はそこそこあり、がっしりとは言えないがしっかりした体形でバスケ部、色白)

その先生にすれば、愛情表現だとも言いたいのか、好き勝手な事を言っていた。

今にしてみればパワハラであり、モラハラであり、訴えられるレベル言葉だったと思う。

授業終了直後、先生がいなくなったところで、C子は顔を覆って泣き顔を隠すようなそぶりをしていた。

それを友達のD子、B子が慰めに来ていたのだが、C子の直ぐ近くの席にいた僕は通りすがりに、

少し乱暴気味に、あんな奴のいう事なんか気にすんなよ!、皆、そう思ってるよ、と声を掛けた。

その直後D子が僕に向かって、凄くいい事言ってくれた!と、そこにいるみんなに聞こえる程度の声で言ってくれた。

C子もD子も、そしてB子も、ほんの少しは僕に対して好感度を上げてくれたのかもしれない。

しかしたらそんなことも、Aの反感を買うような事になったのかもしれないし。

2020-11-05

ブラック企業見て思ったけど

あい経営って弱小校の部活を思い出すんだよな

文句ばかりの癖に能力の低い、学業もできないクズを従わせるのって圧倒的な暴力なわけ

無能(社会の中に一定数いる能力の低い人間)を働かせるには、暴力をチラつかせる心理的コントロールしかない

そういう組織が嫌なら、各々が努力をしなければならないってそんな変なことかな?

大衆一般(特にまともに教育できてない地方)って基本的ルーチンワークしかできないんだよね

グローバル化競争が激しくなって、利益を産めない企業効率的奴隷を仕上げるしかないのよな

GAFAもおんなじことやってるしさ、手段が違うだけなんだよね

ブラック企業を潰しても行き場のないクズが世に蔓延るだけだと思うけどなあ

2020-11-04

anond:20201104130838

レンタルショップアダルトコーナーにいけば必ず女子校生モノの棚があるし

その中でもセーラー服ものとか通学痴漢ものとかスパッツブルマ着用してる部活ものとか

通学自転車サドルプレイものとか事細かくジャンル分けされてるもんな

あいうの見せられたら憤死しそう

2020-11-03

けいおんかいアニメキャラタイツ

私の時代部活でみんな真似てたし

自分も真似てたか

あいう絵を見てもかわいいじゃんとしか思わない

けいおんは種類的には間違いなく男向けだけど、それをかわいいと思う女の子はたくさんいるよ

そういう人たちの声は声の大きなネット活動家みたいな人にかきけされてないものになるんだなあ

つらたん

2020-11-02

部活体罰ってどう考えても異常だと思うんだけど

赤の他人子供預けて殴られて帰ってくるのを平然と見てられる神経が分からない

先生から良い指導をしてくださってるとでも思ってるのかね

十年前位からようやく騒がれるようになったが田舎はまだやってんだろうなぁ

anond:20201102110852

価値観を植え付けるのは所属するコミュニティだぞ

親がどんなに良くても悪くても、学校部活放課後に関わる人間によってどういった人間になるかが左右されるぞ

孟母三遷なんかにあるように紀元前から知られてる話だな

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