はてなキーワード: 聾者とは
まず、文化の盗用、と主張するに足る背景がある、認識している当事者や賛同する人達が、もともと結構いるのよね。
それはお辛いでしょう
「補聴器や人工内耳があれば、手話は必要ない」「手話を使うと日本語を覚えない」みたいに言われて育ってきた聞こえない人は沢山いるし、
大変でしたね
結構なことです
続き)人達がいて、過去の同じ様な人達の活動により、街中で手話を使って話すだけで奇異の目で見られることは少なくなり、
大変でしたね
ただ、手話が一般的に普及していくのと同時に、まず最初に、聞こえる人が覚えやすい手話表現が広がった、という問題があったんですよ。
それを問題と言われても
何が問題なんですか?
アニメで日本語に触れる外国人は「キサマ」とか変な二人称から覚えるし、「アラアラ」という言葉をセクシーな年上女性と結び付けています
そんなもんでしょう
それはそうでしょうけど
それを、どこまで許容するかってのは議論があって…(続
聞こえない人が使ってる手話表現こそが正統派って思ってる人から、いやー少しくらいヘンテコでも手話が広まる方が大事だよーって人まで、いろんな考え方の人がいるんですよ。
その二者って衝突してなくない?
「普及は大事」「このバージョンが正統」これ衝突してないよね?
え、お話一通り終わり?
何がどう複雑であるのか、健聴者が手話学ぶことの問題が那辺にあるのか、お話聞いてもさっぱりわからなかったのですが
どこかで示されていましたか?
まとめると
1~4は「手話はこんなに抑圧されてた歴史がある!」というお話なんですよね。
はあ。
大変でしたね。
同情します。
でもそれが
本題である「健聴者のガキが手話を学ぶことは不当である」「文化の盗用である」という主張をどう後押しするのかさっぱりわからないんです。
本当にこれだけなら、ただの未整理のモヤモヤしたお気持ちの八つ当たりに見えるのですが…
5~7は「健聴者の手話には独特のクセがある」「それをどこまで許容するか」というお話。
はあ。
そりゃ聞こえない人と違うクセが出るんだろうなってことは言われるまでもなく想像できることですが
それの何が問題なのか、なんで許容するとかしないとかいう話になるのかがわからないんです。
中国人の日本語は独特のイントネーションや助詞のクセが出ますが、「それをどこまで許容するか」なんて話しますかね?
もちろんあまりにクセが強くて意志疎通出来ないとか、凄く失礼な雰囲気になってるとかで、「ここはこう治した方が役に立つよ」ってことはあるかもしれませんが
そういう話じゃあないんですよねえ。
じゃあなんなんですか?
8~9は、何も衝突してない2つの立場が対立的に書かれてるのでこの人大丈夫かってなります。
「Aが正統」と「Bが正統」なら戦争ですが、「普及は大事」と「Aが正統」は何も衝突してない。
さらに問題を複雑にさせてると思うのは、長いあいだ手話がしいたげられてきたからか、聞こえる人の手話感におもねる判断や行動をする、聞こえない人がけっこういまして。
少なくとも解決は聞こえない人の精神変革でしか達成しないですよね
おもねるのはやめよう!おわり
この人どうも「問題は複雑」って言うのが好きみたいなんですが、書いてること見る範囲ではそんなに複雑じゃないんですよ
自分が物事を整理整頓せずに思考してるだけなんじゃないんですかね。
文化の盗用って主張は、そういった聞こえない人達に対して、手話は自分達のものだよ!!って呼びかける意味もあったりするのよね。
はあ?
聞こえない人達に、「聞こえる人へおもねる必要はないでしょう」と呼び掛けるべき話を
聞こえる人達に、「手話を使うな!文化の盗用!」と言う。それが何故なのかがわからないんです。
例えば、年配の人に多いんだけど、普段はとても魅力的な活き活きとした手話を使う聞こえない人が、
痛ましい話かもしれないけど
それって聞こえる人間が手話を勉強しようとしたことが悪いんですか?
って聞くと、えー?ただ単に初心者向けに、わかりやすく表現してくれてるだけじゃないの?って思うかもしれないけど、そうじゃないの。
手話は文化であるって主張する人の本とか読んでると、聞こえる人が使う手話のほうが正しい表現だと思っていた、ってエピソードはわりとでてくるのよ。
それ聞こえる側にどうも出来ない問題ですよね?
その問題は「聞こえない人がちゃんとしよう!自主性を持とう!」 としか言いようがないことでは。
むしろ手話教室に出席しにきた聞こえる人達は生徒として教わる側なので
「あんたたちに教えてる手話は実はあんたたち向けに文法変えてるんです」とかも、言ってあげないと困るじゃんわかんないんだから。
彼等彼女等に何かできるの?それ。
はあ、大変でしたのね
でもご説まるまる拝聴しても
結局何が「文化の盗用」なのかさっぱりわからなかったんですよ。
耳聞こえるガキが手話勉強したことの何が問題なのかも結局全然言えてないですよね?
手話界隈のTwitterをゆるく眺めてる人としては、「お、また、いつものやってるな」って感じだったけど、話題が大きくなったので、
っていうから長々読んで、結局これだぜ
→さっぱりわからない
→さっぱりわからない
アホちゃう?
主張を~
ま・と・め・ろ!
これが基本形。な。
ポエムはどうしても書きたいなら基本を済ませた余白で書け。
なんでいっちょ噛みして「自分の言葉で語ってみます」からの、長文費やしながら全く何への説明にも回答にもならないポエムなの?
それってバカじゃん?
でさあ、この人個人がどうこういうより、このタイプのバカが多すぎない?世間。
私はバカだと思った相手について、相手が何故バカなのか、どうバカなのか、
逐一当人の言葉を引きながら、ちゃあんと理屈で説明してるでしょう。
私へ異論反論したい人は「待て、ここの論理がおかしい」「ここの前提が間違いだぞ」って簡単に反論出来るんですよ。
(まあ本格的バカはそれすらできないので「こいつなんかムカチュク!」という概観的お気持ちを喚くだけで終わりですが)
おバカさん全体に言いたいのは
「自分の気持ちを上手く表現できる言葉が出てくるまでもうちょっと考えてから言葉にして、文にしようよ」
ってことなんです。
全然理屈が整理できず論理も通ってないまま」「文化の盗用」みたいな大雑把なバズワードだよりで発表するなと。
自分が整理する気ないだけなのに「問題は複雑で~」とか言って投げっぱなすなと。
口での会話なら頭の回転とか語彙力とかでその場で上手く出てこないってのはある、それは酌量しますよ
でも文で発表してるのにお気持ちそのままボヤボヤ思考そのままで論理がなんにも通ってないのは甘えだと思うんですよ。
私は表面的にはちょっと口汚いけど、それなりに礼儀正しく書いてるんですよ。
お前のその整理されてないお気持ちや全くまとまってない思考をそのまま他人様に見せるなと。
つうか、よくそんな脳内がゴミ屋敷のような状態のまま生きていけるな、気持ち悪くねえのかなってバカを見るたび思います。
oka_mailer 知らない事ばかりだった。こういう背景を理解しないで「文化の盗用」に文句つけても話にならんわな。
2020/07/31
これ全く栄養の無いスナック菓子みたいなコメントですけどこれが1位なんですよ。
誓ってもいいですけど、こんな無内容なこと書くの、別に何もわかってないし、何も理解してないし、
そもそも読んだもの咀嚼して自分なりに考えるということすらしていないんですよ?
全然脳細胞動いてないけど、なんか殊勝で感心な態度に見せるテンプレートを使ってるだけ。
そして同じぐらいのレベルの人たちが「立派な人だ!」って☆を付けてトップにするわけ。
「うーん、もんだいはふくざつなんだ!」「しんしなたいどがだいじだ!」
全員なんにも考えてない。
考えること頑張る前に、”殊勝に見える仕草"だけ身に着けたんだね。
ゾンビみたいだよね。
こう挑発しても誰一人として意気地を見せないですよ。
ponpon_qonqon おまえも反論できてないじゃん。
私は「こいつらは何を主張してるのかすら不明」と言ってんのに反論出来てるわけないじゃん。
1.一行目と二行目繋がってなくない?
2.その押し付けについて、「ガキが給食中黙って会話出来るように手話を学びましょう」って話がどう関係してくるの?
あの小学校のガキが手話でコロナ飛散を防ぐと(そこまで上達すると思えないけど)、聾者が口話法手話を押し付けられて混乱するの?
なかなかにすごいバタフライエフェクトだけどそれちゃんと検討してから発表してる?
3.あんたのその主張はかなりチョウチョが飛び回ってるけど、少なくとも一つの反論可能な主張ではある。
元のカッキー氏やさらに大元の文化人類学者氏はそういう一定の主張すらちゃんとやってなくて、何が何だか全く分からない。
「文化の盗用」というコンテンツ不明のバズワードで威嚇し、そのワードの定義は何だと聞かれると怒るという糞仕草をいい加減にしてほしい。
maruX 全く持って分かる気がないくせに、自分に分からせろ自分が分からなければお前の主張は論理的でないという良く見るやつじゃん。「ガキ」呼びといいあらゆる方向に敬意がない酷い増田。
2020/08/01
どうダメなのかこれだけ粘着長文書いて説明する人間に「分かる気がないくせに」ィ?
失礼ながら、どんな話題についてもあなたよりは真剣に分かろうとして読んでると思うよ。
maruX 2020/08/01
意味わかんね~~~~ ふわっふわ。
でもこういう「何となく殊勝な感じに見える態度」を取ることにだけは長けてる感じがすごい伝わってくるよね。
何故直接聞いたらいかんのですか?簡単に聞けるツールと環境があるのに。
聾者様に失礼だぞみたいな話?
この「なんで?」はしーらいおにんぐに当たるんですかね?
ちゃんと根拠と思考を持って発言してる人ならノータイムノー負担で答えられるようなことしか聞いてないんだけど。
これぐらいが不当な問い詰めだと感じる人は自分の脳のフローを見直した方がいいと思うんよ。
otihateten3510 なげーよ。
なげーなすまん。
それならそう書いてくれりゃいいと思うけどね。(もちろんその危惧の妥当性は検討するし怪しすぎたら突っ込むけど)
そういう風に何かをはっきり書くこともなんか避けてねえ?
rci 聾者よりも健聴者の数が圧倒的に多いから、でしょ。そのせいで、本来は聾者のものがどうしても健聴者に乗っ取られがちになるということが、この増田はなぜわからないのだろう。
2020/08/01 リスト
健聴の手話利用者が聾の手話利用者を上回るなんてまるで考えづらいねというのがまず一点。
そんでカッキーさんはあなたのようにはいってません。抑圧の歴史があるせいで聞こえない人が卑屈になってしまいがいなのが問題だといってます。(手話人口が逆転するなんて仮定は荒唐無稽なので採用しなかったのかもね)
ただ、想像力が足りない。圧倒的に足りない。
言論統制って何なのか。言論統制に近いけど言論統制でないものの例示とか出来る?
それは言論統制じゃなくて「言葉使うの禁止」って状況下ではない?
言論統制という概念についての把握がガバガバだからそうなるんだよ。
同上
たとえば聾者なんか手話のひとつひとつが言葉であり概念なんだぜ
だから思考する時は頭の中で手話がボンボンボンて組み合わされていく
(これって健常者とどういう違いが出ると思う?)
聾者のギャングが同じ聾者を手話で恐喝してたなんて事件もあった
そういうニュースとかエピソードとかをちゃんとたくさん知ってるのか、
そしてそれを聞いた時読んだ時に面白いと感じたり考えたりしたのか
ある国で食べ物注文するときに手の甲向けて2本指立てたらものすごい侮辱のサインだった、とか
チャットがオーケーなら全然言論統制でも言葉の禁止でもなくね?
一体どういう社会なの?
その制定に至った思想や経緯についてはそれなりに筋の通った設定が求められる
君はそこをちゃんと考えられてないんじゃない?
(というかそういうのを考えるのが好きじゃないんじゃない?普段からそういう妄想してないんじゃない?)
国民を統制したいならジェスチャーより先にチャットなんか規制されるはずでは?
規制する側が何をしたいのかはちゃんと作者が考えないと駄目じゃない?
・言いたい事もいえない世の中ポイズン
・最終的に人間同士関わらなくなりそう
それだけ?
いわゆる馬鹿というのはどっちも出来てない
思考が常にぼんやりしていて思考のツールである概念の精度もガタガタ
自分の面白いと思うことの知識をどこまでも吸収していることと(自発的に)
そこからいろんな概念を抜き出して整理したり組み合わせたりする妄想で遊ぶこと(自発的に)だと思うので
毎年ろくに内容もみていないし、なんなら見たい番組が潰れるので裏番組(というと語弊すごい)を見ることが多い。
正直言うとこの番組は嫌いだ。
24時間もスタッフを稼働させ、現場が常に動いているライブ番組だからか、出演者の態度や放送ミス、ロケーション取りに必死になりすぎて周囲の生活を妨害するなど、諸々行動に隙がありすぎる。
毎年毎年、ネットで炎上レベルで拡散されるのにニュースには美点だけ出てくるあたり、気持ち悪いを通り越してもはや怖い。
(問題の場面は全く見ておらずSNSで流れてきただけの知識しかないが、今年の放送事故についてはいくつか大々的に言及されるべきことがあると思う)
身体的、社会的弱者を晒し者にし、「頑張っている」と謎の応援とやらをするのも意味不明過ぎてもはやギャグでしかない。
そんなことするくらいなら1時間でもいいからその枠でアドベンチャーワールドのパンダに密着した特集を組んでくれたほうがわたしは嬉しい。パンダはかわいい。
ダウン症の女の子が踊ったり、聾者が楽器を演奏したり、なんの偏見もなくドキュメンタリーとして見れば称賛できる内容かもしれないが、この番組を通し健常者と一緒にしているところを見て楽しいとは思えないし、称賛できない。健常者であるタレントも、見る限り理解があるとは思えないのもわりと問題ではあると思うが。
これがエンターテイメントだというのなら、昭和さながらに裸の女がでてくる下品なコメディ番組のほうが断然エンターテイメントである。
印象操作と視聴率のためとしか思えないジャニーズタレント、アイドルグループの起用も大人の事情がありありと見えて気分が悪い。
オタクなら崇拝対象が映れば見るし、ユーザーによっては、見かけだけでも崇拝対象が「良いこと」をしていたら誉めちぎり持ち上げるだろう。アイドルやジャニーズのオタクならほぼ間違いなく制作側の思惑に乗ってくれる。少なくとも番組を見て、感想を世間にばら蒔いてくれるはずだ。
視聴率確保とあわよくば好印象をばらまく一石二鳥、本当にずるい仕組みだと思う。それに負けないくらいに炎上しているのもすごいと思うが。
テレビに限らず、この手法はかなり昔から使われていると思うので、もやはこの点にについては、これ以上の批判をする気も起きない。
なぜ放送するのか、という疑問について「純粋に金になるから」以外の回答を見いだせない程度には、わたしはひねくれている。
明日から、この番組を振り返り美点を称えるニュースが一日中流れ続けるのだろう。この番組は既存の帯番組を潰してまで放送し、美点だと称えられるだけの価値ある番組なのか、批判される点のない完璧なエンターテイメント番組なのか。
ちょっと前に飲食だかの店員がめんどくせーとか言って炎上してたよね。
サラリーマンですけど、この社会の中で事業を営ませていただいている限りは社会的弱者に対しても配慮が必要で、それはその人達のためっていうか、自分(や家族)だっていつ障害者になるかなんてわからないんだから、優しい社会ってのは結局自分のためなんやでってのはわかってる。
でもね、ちょっと込み入ったサービス業でして、説明にめちゃくちゃ時間がかかるのよ。テンプレ用意すればいいわけじゃないのね。お客さんによって必要なサービスと説明は違うんだよ。
もちろんね、ちゃんとやりましたよ。ただね、めちゃくちゃ残業になりました。正直辛い。
もちろんまた来ていただきたいですよ。大事なお客様ですから。でも、ちょっと辛いなとは思ってしまう部分もあるのよ。
どうすりゃいいんだろう。
ノートの文字がかすれて消えそうだからここに置いておく(一応ネタバレ注意)。
二人の子供から二人の大人へ。最終章「Adulthood」をクリアした。
あの出来後のと翌朝。二人でインスタントの朝食を食べ登校する。二人で登校したことで Hanako は注目を浴びてしまい逃亡してしまった。
学校をサボって公園を歩き考え続ける Hisao。考えていたことは二人の間の壁について。昨夜の出来事があったといえども二人の間には互いを理解することを妨げている壁がある。Hisao は Hanako と話をしてその壁を壊したかった。後ろから声をかけられる "H...Hisao"。
Hanako も外出をして公園に来ていた。Hisao の前から逃れて、結局出会ってしまう。とうとう Hanako 自身の気持ちを尋ねる Hisao。Hanako の返答は彼の思い込みを打ち砕くものだった。
あの夜の出来事は Hisao の大切な人になりたかったから、他の人より私を見て欲しかったから、庇護の対象ではなくて一人の女性として扱って欲しかったから。Hanako の告白は Hisao を強く動揺させた。そして告白をした彼女自身も、そんな自分に対して嫌な女だと自覚していた。
"Was... I wrong?"
もちろん彼女は悪くないと思う Hisao だが言葉が出てこない。Hanako の告白は続く。家事の前までは少ないけれど友達がいて周りとちゃんとやれていたこと。大火傷を負ってからは全てが変わったこと。周りからの反応で深く傷ついたこと。傷つくことを拒否するために人と関わることを止めたこと。自分が消えてしまえばいいと分かっていたが、人との関わりを止める方がより簡単だったこと。Yamaku 学園に行けば再び社会との接点を見つけられるかと思ったこと。そして Lilly に出会ったこと。Lilly と出会って友達になれたけど、Lilly は Hanako ができないことをなんでもできてやっぱり自分は useless だと思い知らされたこと。そして Hisao に出会ったこと。Hisao も Lilly と同じで Yuko と簡単に仲良くなれたりして、自分はすぐ不要なものとして切り捨てられてしまうと思ったこと。それは嫌だったこと。誕生日は世界中の人が疑いもなく正しくて幸せだと思い込んでいるので、useless な自分はとてもつらかったこと。朝、ベッドで寝ている Hisao を見て、やっぱり自分は切り捨てられてしまうと思ったこと。
そんな Hanako に Hisao は衝撃を受ける。今までか弱くて自分が庇護しなければと思い込んでいた Hanako は守られたいと願う子供ではなかった。
語り終えて下を向く Hanako に対して Hisao は振り絞って語りかける。
Hanako がパニックを起こした時心配したこと。寮の自室に閉じこもった時は彼女に拒絶されているのではないかと感じたこと。それからいろいろ考えたこと。
そう言う Hisao に対して Hanako は思わず叫ぶ "I wasn't rejecting you!"。
Hanako がつらくて悲しくて Hisao を押しのけてしまった時も Hisao は彼女を捕まえていてくれたこと。そんな Hisao や Lilly 達の重荷にはなりたくなかったこと。それは Hanako の心からの叫びだった。
二人の間にあった壁は崩れた。壁を崩すのに痛みがともなったがとうとう二人は正面から向き合った。
Hisao は続ける。心臓の異常が発覚した時とても怖かったこと。社会から切り離されて Yamaku へ来て自分の人生が一度壊れたこと。でも Hanako と出会って一緒に過ごして友達になって再び自分を取り戻したこと。そして失ったからこと Hanako と気持ちを通じあわせられたのだと。
ずっとずっと自分は useless だと信じていた Hanako はこの言葉を聞いて座り込んで泣き出した。そしていっぱいメチャクチャにしてごめんなさいと謝る。Hisao は彼女を抱きしめてそんなことは言わなくていいという。
そして自分は useless なのにと言おうとする Hanako に
"You're my firend, Hanako! You're... No, you're more than that. I love you, Hanako."
泣き続ける Hanako に Hisao は寄り添う。Hanako はずっと自分は必要な人間だと言って欲しかったと泣く。
ようやく泣き止んだ Hanako に Hisao はいい天気だからこのままクラスをサボろうと提案する。でも……と迷う Hanako に対して大丈夫謝ればいいだけだよと言う Hisao。そんなことができないと拒否する Hanako。だが Hanako はやれる、絶対できるし、力が必要なら自分を頼ってと言う Hisao。そして二人は同じ道を歩いているんだから互いに助け合うのは当然なんだと言う。
公園を抜けて商店街を歩く二人。互いにたがいを横目で見つめながら歩く。なにかを思案しているように見える Hanako に何を考えているのかを聞く Hisao。立ち止まり一心な表情で Hisao に答える。Hisao に私からあげることができることがあると思う。でもそれにはすごく長い時間がかかると思う。だから恥ずかしいけれど、これが最初の小さな贈り物。
Hanako は Hisao の肩に両手を置き、ゆっくり顔を近づけた……
(Fin.)
Hanako 編は図書館から始まる。図書館で見かけた Hanako は夢中で本を読んでいた。クラスメイトだと思い出した Hisao は同じ本好きとして Hanako に話しかけるが、全力で逃げられる。
Lilly と出会い再び Hanako と Hisao 。 Hisao - Hanako - Lilly と三人の生活が回り始める。
基本的に仲良くなる→逃げる→もっと仲良くなるというのが Hanako 編。
彼女の逃避は後半になるにしたがってより深刻さを増す。
1. Lilly
Hanako の一番の友人。より正しくは唯一(Yuuko も一応友人だが)の友人。目が見えないのでよく Hanako が買い物に付き合う。
優美な身のこなしでありハイソな雰囲気を持つ。実際言葉遣いがとても丁寧。外見もスコティッシュハーフであり金髪アンド碧眼アンド長身でスタイルがいい。
Hisao と Hanako の隣のクラスで class represent を勤めており、Hanako と異なり交友関係も広い。
Hanako は Lilly のそんな万能っぷりを頼り、あごがれ、そして対照的な自分に対して無力感を抱いている。 Lilly にとって自分は価値のない人間だし彼女の重荷にはなりたくないと思っている。
Lilly は、 Hanako は守ってあげなくてはならないけれど、このままでは Hanako にとって良くないとも感じている。
Lilly は Hisao が現れたことで、 Hanako に良い影響が起こることを願っている。
2. Hisao
つい数ヶ月前まで健常者だったが、突然心臓病を発症しそれまでの社会から切り離される。そんな彼為のために両親は障碍児のための学校 Yamaku 学園に転校させる。見慣れない disable (盲目、手足の欠損、聾啞)にはじめは驚いたり疎外感を感じたりしたが、それぞれのユニークな個性を知るにつれて(足を使ってすごい絵を描く Rin、義足なのにものすごく足が速い陸上部のエース Emi、目が見えないが深い洞察力を持ちできないこととできることの違いを見せてくれる Lilly、聾者だが生徒会長を務める Shizune) disable について理解をしていく。
やがて Hanako、Lilly と仲良くなりともにボードゲームをしたり、お茶をしたり、誕生日会を開く仲となる。そしていつしか Hisao は Hanako の力になりたい、守ってあげたいと思うようになった。
しかし Lilly が家の用事でスコットランドに滞在している間、 Hanako の誕生日が来て、 Hanako の態度が急変する。順調に Hanako と friend-ship を築けていると思っていた矢先に Hanako は教室から姿を消し、自室に閉じこもる。 Hanako との関係が壊れるのを心配する Hisao だがどうすることもできない。 Hanako が姿を消してから Hisao はこれまでのことについて初めて考え始めた。そしてこれからのことについて自分が取るべき道を探し始めた。
自室から外へ出てきた Hanako だが、 Hisao は相変わらず彼女と自分の間に壁があるのを感じてしまう。なんとか Hanako に彼女のことを理解したいと願っていることを伝えようとして、 Hisao は自分の胸の傷を彼女にさらす。自分も傷を負っているから Hanako は独りではないと伝える。
Hisao の傷に触れた Hanako 。また一つ二人の絆が深まったように感じた。
数日後、図書館で勉強していた Hisao 。やってきた Hanako に、 Hanako が自室にこもっていた間ずっと考えていた彼女の過去について教えて欲しい、と Hisao は言った。ずいぶんとためらったがとうとう Hanako は真剣な表情で語り始めた。
多くの生徒が下校をして静かな校舎の中を二人で歩きながら、 Hanako は昔の火事について Hisao に語り始めた。深夜に突然火が出たこと、熱から逃れようとして体を丸めて小さくなっていたこと、彼女の両親が彼女に覆いかぶさって守ってくれたこと、体の半分だけ助かったこと。
二人はいつしか Hanako の寮の部屋まで来ていた。入室を躊躇する Hisao に対して Hanako はドアの鍵を閉めてと言い、カーテンを閉じる。そして大きく息を吸い、覚悟を決めると、ブラウスやブラジャーを順番に脱ぎ落した。 Hisao が彼女に傷(心臓手術)を見せたように彼女も傷(火傷)を見せたのだ。
そんなことをする必要は無いと言う Hisao だが、 Hanako はこれが私だからと傷を見せる。そして二人は......
(二人のプレイの後、息も絶え絶えな Hisao は心臓発作の兆候を感じていたところがリアルだった)
はじめは Hanako を守ろうとしていた Hisao だが、結局それは間違いだった。
守るというのは守る人間と守られるべき人間の関係だ。その関係は非対称であり、守る者は守られる者に対して優位な力を持つ。
3. Hanako
出会いはひどいものだった。話しかけられて、自分の空間に入られて、そして目が合ってしまった。
"I..."
"I...I..."
"Ivegottogodosomething!"
Hanako 編に入ると Hide and Seek (かくれんぼ)という Act がある。彼女と親しくなるということは Lilly や Yuuko そして彼女自身の中に隠れている Hanako を見つけ出すことだ。いろんな彼女がいる。
Life of Pie を読みふける Hanako 、チェスを好む Hanako 、ドールが好きな Hanako 、 Lilly とお茶を飲むのが好きな Hanako 、外へ出る時は顔が隠れるように大きなキャスケットを被ること、火傷の痕を隠すために左側を歩くこと。
何を書いているのだろう。まとまって体系だったことを書かなくては。
Katawa Shoujo とは disable である人々が able であることに焦点を当てた作品だ。例えば Emi は両足が膝より下がないのに、競技用義足で誰よりも早く走れるし、 Shizune は聾唖者であるがクラス委員と生徒会長を務めあげる才媛だし、 Rin は両腕が無いのにもかかわらず足で見事な絵を描く。そして Hanako の親友の Lilly は、全盲を苦ともせずクラス委員であり友人も多い社交的な女性だ。
皆ハンディキャップをかかえながらできないことを嘆くのではなく、できることで生活を組み立てている。
それでは Hanako の disable と able は何なのか。実は Hanako には先にあげたヒロイン達のような disability は無い。右半身に皮膚がひきつれるひどい火傷の痕が残るが五体満足であり、他のヒロイン達のような明快なハンディキャップは無い。では Hanako の able は何か。目が見えること?耳が聞こえること?意外と足が早いこと?両腕があること?そう Hanako の able とはそれだけなのだ。 Lilly しか友人はいないし、他人の視線が怖くてたびたび授業を逃げ出すし、人から話しかけられると赤面してしどろもどろになる。 Hanako とまともに会話できるのは Lilly と Yuuko 、Lilly の姉 Akira、そして Hisao のみだ。Hanako の disable とは able の裏返し、彼女は肉体的に able ではあれど精神的に disable なのだ。
どのヒロインも多かれ少なかれ悩みや心の傷はあるが、 Hanako は突出して深く、彼女のストーリーは見えない心の傷とその象徴である人目を惹く火傷の痕をメインテーマとして進む。
Hanako は過去のトラウマ(フラッシュバックに襲われて痙攣するレベル)のせいで、火傷の痕を見られることをひどく嫌がり恐る。そのため、普段は髪の毛で顔の半分を多い、人目が多い場所に行く時は大きな帽子を被りLilly の左側で小さくなり、顔の右側にある火傷の痕への視線を遮ろうとする。彼女が心を落ち着かせることができるのは、親しい友人と部外者が来ないところでひと時を過ごすことだけだ。悲しいことに、自分の部屋では外部からの侵入者を防ぐことはできても、彼女を苦しめる悲しい思い出が甦るのは防げないのだ。
彼女の disable は他のヒロイン達が外見上のものに対して内面的なものだ。その disable の根本の大火傷が彼女の全てを変えた。親を奪い家を奪い社会を奪った。そしてそれは主人公の Hisao との共通点だった。disable が二人の出発点だった。
「Disable」で Katawa-Shoujo のテーマとは disable の中の able であると説明した。そして Hanako は disability を持たない代わりに able が disable になっていることを例をあげて紹介した。ここからはそんな Hanako の数少ない able から彼女の内と外を考察する。
Hanako と初めて言葉を交わしたのは図書館でだった。図書館は Hanako にとってクラスからの逃避先であり、本は現実からの逃避先だった。そして読書は Hisao との共通の趣味であった。
本編の中で特徴的であるのだが、物語が進み Hisao と Hanako が仲良くなるにつれて、 Hanako が図書室へ逃避する回数が減少する。 Hisao たちと外へ出たりして内から外への変化が見られる。しかし図書館に来る描写はあるので、本から卒業したというわけではない。本は逃避先から趣味になったというべきだろう。
振り返ると Hisao と Hanako が交友を深めるのはゲームを通してだった。空き部屋でチェスをすることで友達になり、パブでビリヤードを遊ぶことで Hanako の意外と子供っぽい内面を知り、アンティークスタイルのチェスセットを贈ることで喜ぶ顔を見た。
いつも Hanako は感情を顔に出さず、自分から積極的に出ることもない。Shizune & Misha につつかれても困ってちぢこまるだけだし、知らない人に話しかけられると逃げるし、人に何かを協力してもらうこともできず独りで作業をする。
しかしゲームで遊ぶときの Hanako はかすかに笑み、時には自信を持って駒を動かす。その普段とはちがう姿は Hanako の本来の気質---人見知りだけど、活発で、遊びに夢中になれて、ちょっと子供っぽい性格が浮かび上がる。
Katawa-Shoujo では多くの登場人物は高校生だ。高校生というのは肉体的には大人であり精神的にはまだ子供であるという、大人と子供の狭間の期間である。そのためシナリオでも子供から大人への成長を軸とする。 Hanako 編では最終章が「Adulthook」である通り、 Hanako そして Hisao が大人への一歩を歩み出すことがエンディングを通して描かれる。
「大人になる」にはいろいろな意味がある。例えば成人することは社会的地位を手に入れるということだし、親元を離れたことに対して「大人だ」と使われることもある。それでは Hanako と Hisao の場合はどのような意味で「大人になった(子供を卒業)」のか。これには Hanako 編の主題である体と心が深く関係する。
よく知られた「大人になる」として男女ともに性交を経験することがある。Hanako 編においてもこの意味で二人は大人になった。共に痛みを経験し( Hanako は処女喪失。 Hisao は軽い心臓発作)一夜を明かしたことで二人は次のステージにシフトしたかに見えた。しかし後に分かることだが、二人は未だに子供のままの関係だった。
子供(children)という言葉は、作中で直接しかも Hanako の言葉として現れる。
```
"All I ever was to you was... a useless person. Just someone... to protect. Someone like... a child."
```
小さい頃に火傷の原因となった火事により社会と切り離され、そのまま子供のまま育った Hanako は、 Hisao に庇護が必要な対象(=子供)としてではなく友人以上の人として見て欲しかったから自分の傷を全て見せたという子供のような思いを告白する。 Hisao はこの告白を聞いて自分が全く Hanako のことを理解していなかったことを痛感する。 Hanako の外面的性格ばかり見ていて Hanako がどう感じているかを考えていなかったこと。
しかし Hisao が自分の病気のことその心情を同じように告白したことで、二人は互いに理解し合えることを確信した。そして自分か相手かでしか考えられなかった二人は、自分と相手を同じ道の上の存在として考えられるようになった。
Hanako 編では心をもって「大人になる」ことが提示される。
Hanako は声をあげて泣くことで子供時代に別れを告げた。そして大人の最初の一歩としてラストシーンの最初のギフト(てれる)を Hisao に送った。
Hanako のことを語るには子供と成長についてが欠かせない。
子供の頃の Hanako は人見知りするけど純粋で好奇心が強い子だったのだろう。しかし火事で人生を曲げられ、社会から切断され、その気持ちのまま体だけ成長した。自分の生きる意味を見失い、自分を守るため人と関わることを止め、ただ耐えていた。
Hanako が語る言葉に裏はない。 Hanako の世界は見たままの世界だ。トラウマのフラッシュバックに襲われたときには自分を責める自分の声を周囲に放射するけれど、それが嫌だから鬱の期間は自室にこもる。
フツウならばたとえ Hisao がテキストとノートを机に広げていたとしても、勉強より Hanako とのやり取りを優先すると気づくだろう。また茶目っ気のある性格ならばそのことをからかうように勉強しているじゃないというだろう。でも Hanako は見たままを見るのだ(But...)。
成長という言葉を使ったが、作中では Change が使われていた。 You can change という具合に。
変わること、変わるものはいつも Hanako の周りの世界だった(ムービーをみよ)。世界はすごい速さで動き続け彼女はその流れに乗れなかった。しかし Lilly と Hisao に出会ったことで、自分でも自覚しないうちに彼女は変わっていた。授業を逃げなくなったこと、自分から話しかけるようになったこと、きわめつけは Hisao を電話でお茶に誘ったことだろう。そして何より彼女の気持ち「友達では嫌」。
"If... if you're not busy... I-I was wondering if y-you would... l-like to... m---"
噛みっかみである。)
エンディングで Hisao は Hanako に変われると保証する。このとき Hanako もいつしか自分が変わっていたことに気づいたのだろう。
知らない人も多いかもしれないが、日本の30以上の地方自治体で成立している。先日大阪市でも成立した。
(https://www.jfd.or.jp/sgh/joreimap)
ここまで多くの地方自治体がこういった条例を作っているのなら、国が手話言語法を制定してしまえばいいじゃないかと思う方もいるかもしれないが、国がやってくれないのである。
一部の聴覚障害者や関係者が制定運動をしているのだけれど、なかなか実現しない。
仕方ないので、地方から国を動かしたろということで2013年に鳥取県が制定したのである。それから全国に手話言語条例が乱立し、世はまさに手話言語条例戦国時代!状態になったのである。
とりあえず手話言語条例がどのようなものかを理解したければ、実際に条文をよんでみるのが一番だと思う。原典アタック。
最近はいろんな手話言語条例が成立したので変わったものもあるが、ベーシックな原点の鳥取県手話言語条例でいいかな。
http://www.pref.tottori.lg.jp/222957.htm
23条しかないので、全文を読むのにも大して時間はかからない。法律に出てくるような難しい言い回しもないので簡単に理解できる。
最近は変わった手話言語条例を制定しよう(京都市の観光客向けの手話言語条例とか)としているところもあるみたいだが、基本は大体この鳥取県の条例と似たようなもんである。
結局のところ、総合的に見て各地の手話言語条例に書いてあることの基本をおおざっぱにまとめると以下の2点のようになる。
②手話を普及させることで聴覚障害者やその関係者等の暮らしをよりよくする
(具体的には、鳥取県の例でいえば手話通訳者を育成したり関連の事業者をサポートしたり県民のための手話講座を開いてみたり小学校で手話を教えてみたりしているようである。)
こうして見ると、①はあくまでも理念的なものであって、この条例の本質は②にあるのだろうと思う人が多いだろうと思う。少なくも鳥取県のケースはそのようになっている。
しかし、一部の聴覚障害者にとっては①、つまり手話を言語として認めてもらうことは②と同等、あるいはそれ以上に大事なことで、彼らの人生にとって極めて重要なことであると考えている。
「手話が言語であると条例や法で認められたとしたって何が変わるのか?どうでもよくないか?」そう考える人もいるだろう。
しかし、そのことを考えるにあたって、まずは手話というものについて掘り下げなければならない。これは非常に厄介な問題なのだけれど、がんばって簡潔に説明してみる。
手話というものは世界中にある。アメリカであればアメリカの手話があり、韓国は韓国の手話、そして日本にも日本の手話がある。
ここまでは普通の言語と変わらない…のだが、日本の手話は少なくとも2種類のものがある。(もちろん方言とかではなくて)
A日本手話 と B日本語対応手話 である。どう違うのか。説明する。
Aの日本手話は一言でいえば、「日本語とは異なる、一つの独立した言語」であるといえる。
私は言語学には疎いので言語の定義もよくわからないが、重要なのは独自の文法を持っているということだろう。
手話の文法の具体的な説明は難しいが、まぁ英語に似ていると思う。
日本語の「私は 手話を 勉強 しています」という文を無理やり日本手話にしてみると、「私 勉強 している なに? 手話 です」とかそんな感じ。
実際にはこれを踏まえてこまかい表情や首の動き、眉の動きなんかも文法の一要素としてあるようで、日本語をしゃべる人間にとってはややこしいし難しいしわかりにくい。
手話言語学とか文化人類学とかで研究されているので、興味のある方はそこらへんの本でも読んでみるといいかもしれない。
とにかく、日本手話というのは聾者と呼ばれる人が使う独立した言語なのだ。日本語とは違う言語。これが重要。テストに出るぞーレベル。
そして、Bの日本対応手話はどうか。「日本語の文法に手話の単語をあてはめただけのもの」とでもいえばいいだろうか。
こちらは日本語でしゃべるのに合わせて手話の単語を出せばいいので簡単に習得できる。
日本語で「私は 手話を 勉強 しています」と口で言うときにそれぞれの単語のところでその手話をだせばおしまい。表情や首の動きもいらない。楽ちん。
この手話は日本語の文法ありきのものであって、独自の文法を持たない。言語学をよく知らなくても、それでは独立した一つの言語ではないということはなんとなくわかるだろう。
むしろ、これは言語というよりは筆談やノートテイクのようなコミュニケーション補助のためのものと解したほうがいいかもしれない。
大学の手話サークルとかはだいたいたぶんこっち。Aの日本手話をやっているところもあるのかもしれないが、そちらは難しいので手話を勉強しようと思うと最初はこれを使うことになるだろう。
聴覚障害者の中でも軽度のものだったり、聾学校ではなく普通学校に通っていた人や中途失聴者は日本語の会話(口話)の補助としてこれを使う人が多い(と思う)。
ただし、この二つはきれいに分かれているわけではない。二つが混ざり合うこともある。
けれど、この二つは対立関係のような部分もある。Aの日本手話の話者によってはBの日本対応手話はまがい物である!という人もいる。
これを巡ってはかなり論争があるというかめんどくさい感じに聴覚障害者の中(聾者対難聴中途失聴)で内ゲバっちゃってる。ここでは書かないけど。
とにかく、大事なことは手話の中でも日本手話というのは独立した言語であるということである。
私は言語学も文化人類学もまったく勉強したことはないが、言語というのは文化と密接な結びつきがあるというのは間違いないだろう。
そして、上に挙げたAの日本手話という言語は「ろう文化」というものを形成する。そしてそのような文化圏にいる人は自らを「聾者」と名乗る。
逆にそうした文化圏に入らないような聴覚障害者を「難聴者」と呼ぶ、あるいは自称することがある。
(「聾者」「難聴者」の定義は不安定で人によっては違うのだけれど、とにかくここではこのように理解しておく)
それでは、この「ろう文化」と聾者はこれまでの歴史においてどのように扱われてきたか。
結論からいうとひどいものだった。マイノリティとして抑圧されてきた。
特に酷い例でいえば、彼らは日本手話という自らの言語を奪われることもあったのである。
細かいところはここに載っているが、(http://www.d-b.ne.jp/d-angels/sub4-3.html)
日本の社会において日本手話は役にたたない、要らないということで聾学校で手話が禁止され、口話(残存張力と唇の読み取りで頑張るだけ)を強制されたのである。
その結果、上手に喋ることができるようになり、聞こえるようになった聴覚障害者がたくさん出てきたかというとそうではない。良い効果はあまり得られなかったのである。
それどころか、生徒は学校で自らの言語をつかうことを禁止されたことに苦しむことになる。
手話を使えば手っ取り早く友達と楽しく会話ができるのに、不慣れで不自由な口話を強制される…。
そしてこの抑圧は当時の生徒に大きな悲しみと怒りを植え付けることになる。
そして、この抑圧が彼らを固く結束させる。自らの誇りある言語、日本手話を守ろうと。
もうおわかりになると思うが、このような歴史の中でマイノリティとして抑圧されてきた事実に対する憤り、それこそが手話言語法制定運動の原点である。
いまいちわからないなら例を考えてみよう。例えば日本語が禁止されたとしたら。
敗戦直後にGHQが学校で「ジャパニーズは言語としてダメ!これからは君たちはイングリッシュをしゃべるんだ!ジャパニーズ禁止!」とか教える。
そんな感じだろうか。だいぶちがう気もするけれど。まぁ、でもすごく不快だよね。
(日本手話はマイノリティだったという点で日本語とは異なるので不適切な例だろうと思う。)
そんなことが実現したとは思えないけれど、とにかく大事なのは自分たちの言語が奪われるというのはその言語の文化に属する人間のアイデンティティにとっては大いなる損失になるということである。
某ゲームでも「人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。『国語』こそが、我々の『祖国』だ。」なんて言葉が出てきたしね(ルーマニアかどっかの思想家の言葉らしいけれど)。
手話言語条例・法というのはそうしたろう文化に属するもののアイデンティティの名誉の復活を意味するものでもある。
だからこそ、手話を言語として認めてもらうこと、それ自体に大きな意義があるのである。
まず、手話言語条例の「手話」というのが何を指すのかという点で微妙である。
例外はあるけれど、基本的にどこの条例も手話というものがAの日本手話だと明記していない。
これは各自治体が二つの違いを理解していないということではない。
二つの違いを理解した上でBの日本対応手話を使う難聴者に配慮しているという形になっている。
上にも書いたけれど、この二つは対立関係にあってものすごくこじれている。
だから、片方だけを優遇してしまわないようにするという形にしている。
ちなみに、例外としては、埼玉県朝霞市の「日本手話言語条例」で、こちらは日本手話と明記している
https://www.city.asaka.lg.jp/uploaded/attachment/29886.pdf(pdf注意)
『第2条 この条例において「日本手話」とは、手、指、体、顔の部位等の動きにより文法を表現し、日本語とは異なる文法体系を有する言語のことをいう。』
という風に定義している。
しかし、こういった条例というのは、私の知る限りここしかない。
もっといえば、聴覚障害者自身でさえどうして手話言語条例を制定しようとするのか、そこの目的が人によってぶれている。
実をいうと、聴覚障害者の中で日本手話を使うろう文化圏に属する人間は少ない。多くは難聴者と呼ばれる人間だと言われている。
当然だが、こうした人たちは手話言語条例を「生活がよくなればいいな」ぐらいにしか捉えていない。
そして、聾者の中でも若い人は上述した日本手話の歴史に疎い人も多いので、中にはも「生活がよくなればいいな」くらいにしか捉えていない人もいる。
もちろん、それが悪いわけではない。ただ、本来の目的からずれ始めているのだ。
そして、結局のところ、世間(聞こえるひとたち)での受け取られ方というのはつまりだいたいこんな感じだ。
「手話言語条例?これで聴覚障害者たちの生活がよくなればいいね!」とかそんな感じである。
この受け取り方がまずいとは思わない、思わないけれど少し浅いというか、これでいいのだろうか。
聴覚障害者について知る機会もあまりないのだから仕方ないだろうとは思う。けれどもやっとするところである。
というわけで、長くなったけれど手話言語条例・法について書いてみた。
何かの参考になればいいかな。
「現代のベートーヴェン」、佐村河内守。聾者を装い、別人に作曲をさせたものを自分が作曲したと偽って、収入を得ていた男。
彼を取り扱う記事は一様に彼に批判的である。それは尤もなことだ。なぜなら彼は詐術的手法で収入を得たのだから。彼が間違った人間であることは、自明であろう。矯正しなければならないだろう。
しかし、彼の詐術を通用させたこの社会は、間違っているのだろうか。もう二度と「現代のベートーヴェン」を生んではいけないのだろうか。私はそう考えない。
彼が聾者であるからと考えて、CDを買った人があるかもしれない。その購入者を一様に「音楽的センスがなく、コピーだけで買う偽善者」などと考えていいのだろうか。答えは、NOだろう。新垣氏の作曲した曲が素晴らしいかはさておいて、「聾者が作曲した」というコピーで買うことが、「偽善的」であるとは思えない。障害者は、このような芸術的分野であるにしろ、あるいは他の製造現場などであるにしろ、必ずしも就職が容易であるとは言えない。生活保護の受給者の内、3分の1は障害者であるといわれるほどである。その様な彼らの取り組み、あるいは発表に対して、支援の気持ちを表すのは、むしろ障害者の就労支援にとっても、国民意識の啓発にとっても、よいことなのではないかと考えられる。
彼を取り上げたメディアに対しても同じようなことが言える。障害者をまったく我々と関わりのないところに生きていると考えないで、芸術家として向きあった。そのことは決して糾弾すべきことではない。また、見破れなかったことも、彼の人格を尊重し、彼の言葉を重んじたならば、それも仕方のないこと。
この「現代のベートーヴェン」問題は、ひとえに彼、佐村河内氏と、新垣氏によってなされたことであって、彼を生み出した社会を責めるべきではないと思うのである。
理系の人間の「僕はオボとは違う」宣言と、似非サッカーファンの「僕はレッズサポとは違う」宣言は醜悪の一言である。
聾者は上記の二種類の人間のような宣言をあちこちで行わなかった。
それは何故だろうか?
それは、あのような宣言が全く無意味であると知っているからである。
マイノリティの生きている世界に「説得」の概念は無い。もしくはあっても非常に小さい。
「説明すればわかってもらえる」などという幻想をマイノリティはとっくに捨てているからである。
そしてまた、「僕はあいつとは違う」という宣言は、自分自身を生き辛くするということも知っている。
「僕はあいつとは違う」とわざわざ言う人間は、「連帯責任」を内面化している証拠でもある。
「連帯責任」という言葉は普通のことをできない障害者にとっては心に突き刺さるものである。
であるから、障害者は連帯責任の概念を意識的にも無意識的にも捨てている。
そんなことを考えていたら生きてはいけないのだ。
障害者にとって、「僕とあいつは違う」のは当たり前なのである。だからゴーチが騒ぎになっときも、
聾者はいちいち「僕とゴーチは違うから~」などという情けない弁明をしていないのである。
ところが今回この「連帯責任」の内面化を露呈したのが、はてサの方々である。
レッズサポがあの横断幕を出したことは、日本のサッカーファン全体が罪を負うべきであり、
Jリーグサポーター全員が重く受け止めねばならないとはてサは主張する。
そんなアホな話はない。レッズのアホがアホなことをしたのだから他チームのサポーターは喜ぶべきである。
「韓国人お断り」なんて雑誌で表明してるのは浦和レッズだけであり、そんな馬鹿なことやって自爆してれば世話ないのである。
浦和レッズサポーターと他チームのサポーターは友達ではない。ライバルである。優勝と残留を争っている。
レッズの失敗は我々の喜びである。レッズはDQNを上手くコントロールできてなかったからこんな騒ぎになったのである。
それを、普段スポーツを見ていないはてサがノコノコとやって来て、「スポーツに政治を持ち込むな!」だの「スポーツに憎悪を持ち込むな!」
などのキレイゴトを言い、「サッカーファンも連帯責任だよね・・・恥ずかしい・・・」「他チームのサポーターも同罪だよね・・・恥ずかしい・・・」
と、お得意の「恥ずかしい恥ずかしいオナニー」を始めるのだ。
冗談ではない。レッズサポーターの罪をなんで我々が引き受けなければいけないのだ。Jリーグのチームのほとんどに韓国人や北朝鮮人・在日朝鮮人が居て、
日々そういう選手を必死で応援しているのに、なんで我々が責められなければならないのだ。
今回のはてサの奔走ぶりは、戦時中に近所を陰湿に監視していた、戦争に協力する主婦と何も変わらない。ファシストである。
はてサはレッズサポーターの心ばかりを責めている。態度や誠意ばかりを問題にしている。だがそれで差別問題は解決するのだろうか?私は不思議でならない。
レッズサポが「ごめんなさい・・・」と言いながらも心の中ではアッカンベーしてたらどうするのだろう?
私は、「あいつが○○をしているから止めさせる」という考えを持っている。
だがはてサはどうであろうか?「あいつが○○と考えているから止めさせる」という行動様式である。
というやり方は、「朝鮮人が井戸に毒を入れたに違いない!朝鮮人は連帯責任だ!」
ただ、私がお気に入りに入れている左派の方々はスポーツの世界をきちんと知っているので、
レッズのゴール裏にいる人間の心や存在を糾弾しても何も始まらないことを知っているのである。
私は今回のはてサの「連帯責任」戦法は悪手だと思うし、欧米では全く通用しないものであるとも思っている。
我々もそろそろ、「話を聞くべき左派」を選別するときが来ている。
(文:masudamaster)
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