はてなキーワード: 登場人物とは
(8月発売のガイドブックには載ってない)
コロナを描くのだろうか、それとも描かないのか
A案 パラレルワールド(新型コロナのない世界で2020年9月のパラ前後)
twitterに書くかどこに書くか悩んだけど、こんなところがあったのを思い出したのでここで書きます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b84fcb1580d7cadd4c3564ede34e36c4c3ceb744
民家に侵入して現金を盗んだとして、警視庁捜査3課は、窃盗と住居侵入の疑いで、東京都港区六本木、「虎の門病院」の研修医、○○○○被告(31)=別の窃盗罪などで起訴=を再逮捕した。逮捕は3回目。調べに対し、「以前、登場人物が黒装束で泥棒する映画を見て刺激を受けて、盗みを始めた」などと容疑を認めている。
仲の良かった友人が逮捕されました。
この記事を見て、最初は悲しく、なぜこんなことをやったのか怒りとやるせなさが込み上げてきました。
彼とは京都にある中高時代の同じ部活で知り合い、それ以来仲のいい友人(と少なくとも自分は認識して)でした。
中学時代は陸上部と文化系の部活を掛け持ちしていて、高校時代は文化系の部活に入っていました。当時から医者になりたい!という話を聞いていて、内部進学せずに2浪して金沢大学の医学部に合格したという話を聞いたときはとても嬉しかったのを今でも覚えています。
後に自分が金沢に住むことになったときは金沢の片町でサシ飲みしたり、同じ部活の友人たち一緒に飲んだり旅行したこともあります。
私は次に彼と会ったときに何を話せばいいんでしょうか?
また彼の就職祝いで2017年2月に富山を旅行しましたが、報道によるとそのときにはすでに犯罪者だったようです。
当時彼はどういう心境だったのか、何を考えていたのか、当時に戻れるなら自分は何が出来たのか…
追記1
https://mainichi.jp/articles/20220113/k00/00m/040/073000c
「「大学生のころ、黒装束の登場人物が窃盗を繰り返す映画を見て刺激を受けた。好奇心で一度やったらうまくいき、高揚感が忘れられなくなった。仕事のストレスもあった」と供述しているという。」
「アンソロジー」っていうけど同人誌ではなく、商業BL雑誌。雑誌の雰囲気は少年漫画・青年漫画風味でストーリー重視・エロ少なめ……らしい。BLにしては、ということかも。ちなみに出版社はフランス書院。だからといってハーレクイン的なラブロマンス色があるわけではないけど。
古代中国のような世界観。「鴆」という鳥の獣人みたいな生物を飼育するのが一種の金持ちの道楽となっている。鴆は食べ物によって羽根の色が変わる。鴆のオーナー達は鴆の羽根色を競わせるのだ。鴆を飼育する人のことを「鴆飼(ジェンスー)」と呼ぶ。
本作のカップリングは、ティェンラン(鴆であり鴆飼でもある)×リュイ(人間の若者で盗賊)。
私は途中から読んだので全体のストーリーをいまいちわかっていないんだけど、今回のお話は、なんかリュイが昔の盗賊仲間を売って逆襲されそうになってるとこらしい。
手練のプロ作家の作品! って感じですごく読みやすい。絵も綺麗。ストーリーはたぶん感動とか衝撃というよりは「無難な感じ」だ。アートだ。熱烈に惹かれるというよりはコレクション欲をかきたてられるというか。単行本出たら買おうかなぁー。
大人気BL小説家・凪良ゆう先生の同名小説が原作。主人公はゲイ男性を専門に狙う詐欺師。パパ活のようなことをしては男から金を巻き上げている。
そもそも凪良先生は物語で読ませる作家というよりは文体で読ませる作家。そういう作家さんの作品を原作としても、やっぱり最大の魅力「地の文」が消えてしまうので、なんだかなぁーと。
漫画を描いた人は人気のBL漫画家らしいけど、別に……うん。繊細な画面とかなんとか宣伝されているのを見たけど、私は画面が白いなとしか思わない。でも面白そうではある、原作小説が。まあ、小説のメディアミックスっていうのは、大体引き算だよなぁ。
高校生主人公の学園もの。特に秀でた所のない佑征が、幼なじみで何でも小器用にこなしてしまう天才肌の樹を好きだけど好きと言えずに悶々としたりツンツンしたりする。少女漫画風味隠れゲイの苦悩話。カプの左右不明。今回は子供時代の回想メイン。
よくある話だなと。でも月並少女漫画みたいな作風の漫画は意外と求められているもだろうか。去年は『コントラスト』(itz)がヒットしていたことだし。たぶん、好きな人は好きなんだろう。
獣医師が知り合いの親切なおばちゃんに頼まれて、町外れに蟄居している少年を診察しに行く。少年は全身の皮膚が鱗化して角まで生えるという奇病に罹っている。獣医師はなんとか少年を診察しようとするが、少年は人間不審を拗らせており、患部を見せることすらしたがらない。診察するのしないので揉めている最中。
自称宇宙からの侵略者で人語を操る猫が、穂堤(ほづつみ)と今市(いまぢ)と犬のチャヅケの住む家に転がり込んでくる。その日常。今回はほづつみといまぢが致している所を宇宙猫のサンが覗き見して、なんだかんだ揉める。なお、サンは宇宙猫だけれど、虚を衝かれたかのような顔つきをしている訳ではない。
ああ、オチはやっぱりそうなるんだ……w
オメガバース設定作品。αだったはずの主人公・悠生は何故かバース性がΩに転換してしまう。成績優秀で親の期待に添えていたはずが、一転して無能の産むだけが取り柄の人扱いに。そして悠生は彼を見初めた男・恭悟に金で買われてしまう。以来、悠生は恭悟に服従状態。恭悟は悠生の心からの笑顔が見たくて、有名進学高校への転入を勧めるが……。
ちょっと昔の男女格差をごりごりに風刺したような内容で、精神にかなりクる。『82年生まれ キム・ジヨン』みたいに、細かいところで心をポキポキ折ってくるような。そしてレディコミみたいにねちねちドロドロしてる。
攻めでαの恭悟が無自覚に強者の傲慢から悠生に復学を勧めておきつつ、嫉妬に駆られてあっさりと梯子を外す、その態度の豹変がとてもリアルだ。もうやめて、それはただのDVよ!
はぁ、つらい……。つい読んじゃったけど、私はこういう類の悲愴感をBLには求めていないかなとも思う。
もはや男女カップリングではここまで時代錯誤なネタは迂闊に描けないから、オメガバース設定が表現の駆け込み寺みたいな役を果たしているのかなという気もする。
戦闘用サイボーグのイーサンが生身の人間のミハイルに恋をしちゃう話。
普通に恋愛してるなぁ……。連載開始当初は、なんかもっとこうシビアでストーリー重視のハードボイルドが始まるのかなと思ったら全然。かわいいミハイルにイーサンが惚れてしまい油液が飛ぶ(←言葉通りの意味)BLだった。
一回ミハイルが死にそうになったくらいで、特別な事件が起こる訳でもない。もっぱらイーサンが「これが恋……?」と動揺しているだけである。だが正直、あまり萌えはないかな。そういえば、ミハイルってイーサンのこと好きなの?
サイコパス過ぎて人の世には居場所のないマコトちゃんが、悪魔Jを召喚して魔界に行き、悪魔に生まれ変わって無双する話?
悪魔は人に名前を忘れられると消えてしまうらしく、マコトはJが孤立するよう根回しをし、彼を弱体化させる。今回は久しぶりにマコトがJのもとを訪問するところ。
連載の半分も読んでいないせいでストーリーや登場人物の関係性をいまいち把握出来ていないという私の個人的事情を差っ引いても、何を言っているのかよくわからない台詞がいくつかあるような?
とにかく、マコトとJによる激しい心理戦が繰り広げられていることだけはわかった。愛憎が入り交じるというよりかは愛情表現がおかしい二人なのか。
旅人のオルは城塞都市ペルオテに着くやいなや荷物を盗まれ、無一文の身元不明人なってしまう。そんな彼は娼館の下働きとなり、娼夫・アコニとなんかあれな感じになる。
ストーリーがよく分からないので、1話の試し読み数ページを読んでやっとオルの境遇を理解した。この人が主人公だったのか……。てっきりアコニさんが主人公なのかと。今回もまあよく分からないけど、ねこみみ獣人達は娼館にいる方がマシみたいな設定なのだろうか?
主人公でアルバイトの子が勤め先のオーナーに惚れて、そのオーナーって人が胡散臭いレベルのスパダリなのだが、主人公と付き合っているのかいないのか微妙なセフレ関係っぽい付き合いをするから主人公が病んじゃって、でもスパダリはスパダリパワー全開で主人公をよしよしいい子いい子してくれるって話。
ありがとうベルガモット&サニーデイありがとう! タイトルだけはなんか好きだった!!
高校教師の佐田は見た目性格ともに非の打ち所のないイケメンで、同僚や生徒からの人気が高い。そんな彼はある夜、不慮の事故に遭う。次に目を覚ました時には手術台の上で、科学者の間宮が側についていた。間宮によれば、佐田は一度死んだところを間宮の手によって蘇生させられたが、ゾンビのようなものとして生まれ変わったのだという。
間宮家で始まる、ゾンビと猿のような人間とリアル猿の、二人と一匹暮らし。
思いがけず萌えとラブに全力投球な本作。第1話のシリアスでダークな雰囲気から行き着いたのがここなの? たのしい大人の修学旅行なの!? 唐突なようでいて自然な流れで旅行して、ちょっと揉めたり仲直りしたりお互いに理解を深め合ったり、でも片想いは片想いのままだったり、心理描写がすごい。リアル。
これまでの朝田ねむい先生の作品は恋愛色の薄い作品が多かったのだけれども、まさかゾンビ物で究極のラブストーリーを描いてしまうとは。
https://anond.hatelabo.jp/20220113151632
すまんけど、私は表紙見ただけで回れ右だな。エロ売り作家は基本読まない。いうてBLなんかエロばっかりじゃないかいと言われるかもしれないし、実際エロばっかりなのだが、表紙であからさまに「ある種のエロしかないです」と主張してるような作品は、読んでも気分悪くなるので読まないです。
俺はイニシャルDのかな。
なんか登場人物の作画にまったく感情移入できないうえに、やってることがクルマで高速道路や峠登るだの迷惑運転。濡れた女乗せて走るだのDQNか自殺志願者かってことばかり。
劇場版で無限列車編を見た時からちょっと違和感が強くなってきた。
ちょっとまえによくあったラノベのアニメ化したみたいな店舗の悪さで見てられない。
マンガで読んだときはあれほど感動した無限列車編だが劇場版で見た時は全然感情移入できなくて白けてしまった。
なんかそういう目で見てみると、ufotableのアニメの絵ってそこまですごくない気がしてくるから不思議。
実際は、ufotableは頑張ってる。ちゃんと絵で語ってくれてる。
なのので、そこまで登場人物がしゃべらなければ済むだけの話がする。
まあ鬼滅の刃のマンガは後半になって作者の技量がものすごいことになっていて
このちぐはぐ感は鍛冶師の里編までだと思えば耐えられるか…。
マンガ本編でも、無限列車編を除いて鍛冶師の里編まではそこまで面白いとは思ってなかった。
面白いくらい読解力がない人が多くて結構びびってるというか、むしろ俺の描写が悪すぎるのかって思うくらい勘違いして捉える人が多くて焦る時がある
例えばAという登場人物がある事柄に関して勘違いされるようなことをしてるのを登場人物Bが見かけて勘違いする、みたいな描写
勘違いされるようなことをしてるだけであって実際にそのようなことはしてないんだけど、本気でそういうことをしていると捉えるみたいな
いや文字に起こすと十分わかり辛いな
とにかく見たまんまをそのまんま
俺の描き方が悪いのか?
読んでるやつの捉え方が悪いのか?
文章力は最低限でいい。それはクリアできてる。なんならそこらの底辺WEB小説よりもしっかりしてるぐらいだ。
昔何作か小説書いたこともある自分よりも上手だ。ちゃんと推敲したら平均点は貰えるだろう。ちなみに自分はA~E評価で、よくてB、大体がC、たまにDだ。読み手によって変わるからわけがわからない。
そして今もそうだが、増田に長文書くときは大体酔っぱらってるし推敲しないので、そこそこの数のブクマが付いてしまった時は大体文章が下手だと指摘される、最近はそういうもんだと思って気にしなくなった
と、前置きはともかく
小説を書くにあたって、やり方は極論すれば二択だ。
準備するか否かだ。
実際はまったく準備しないことはほぼあり得ないので、どれだけ準備するか、どの段階で見切り発車するかのバランスというか割合だ。
準備というのは脳内準備とメモ等に設定やら色々を書くというプロットづくりなどの準備に分かれる
プロットを準備するか、否かなのだ。(ここでいうプロットには筋書以外にも世界観等の設定やキャラ設定も含む。厳密な意味は知らない。
そして大体の人はプロットを準備するだろう。(稀にというか、結構な頻度でなんのメモも書かずに書ける人も居る。プロレベルになると割合は下がるが、超人気作家レベルでもプロット作らないって人は結構居る。
話がそれた。
テーマとかはどうでもいいんです。
・登場人物
・大体の話の流れ
・どんな世界か(現代劇とかナーロッパだと考えずに済む)。他に色々
これを書く。
書かなければ小説を書き始められない人は書いた方がいい。書かなくてもどんどん執筆できるなら書かなくてもいい。クオリティ上げたいとか行き詰った時に思い出せばいい
で、困ったことに、プロットに何をどれだけ細かくあるいは粗く書く必要があるか? というのは人によって異なる。
どこで誰と誰が何をしてどうなるレベルをざっくりでいい人も居れば、会話の流れや一挙手一投足レベルで細かく決めておかないと進まない人も居る。
まずはそれを探り当てなければならない。
あとは妄想力。
これを思い浮かべる。奇をてらった書き出しなんて狙わなくていい。後からなんとでも修正できる。
妄想するのだ。そしたら、机に座るところが思い浮かぶかもしれないし、疲れて仕事から帰ってきた瞬間が浮かぶかもしれない。小説を書こうとしてワードなりなんなりを開いて打鍵できない状況かもしれない。
それをそのまま書けばいい。
「私は机に向かった。」でも、「今日も誰も居ない部屋に帰ってきた。」でも「一向に頭の一文が思いつかない」でもいい。
それの繰り返しだ。
妄想だ。頭の中でシーンを思い浮かべる。主人公視点でも神視点でも構わない。混在してもOKだ。書くときに統一すればいい、しなくてもいい。そんなの気にするのは何作か書き上げたり、もっとうまくなりたいと思った時でいい。
要約すると、
・プロットの量、細かさは自分に合ったものを探しましょう。(書けないなら書けるところまで細かく分解して量を増やしましょう)
これだけ。
それでも、書けないなら小説書いた経験のある人に相談するか、知り合いに居ないなら探せばネットでサポートしてくれるサービスが数千円であるのでそういうのを利用するのも検討したらよい
余計なおせっかいだろうけど、みんな難しく考えすぎてるので殴り書かせていただいた。
だいたい小説書くのに挫折するのは、初めからクオリティの高いものを書こうとしすぎるか、見切り発車しすぎてるかのどっちだと思う。
この手の批判は「説明台詞はダメ」にせよ「心情台詞はダメ」にせよ「作者の思想を登場人物に語らせるな」にせよ
実際に言うべきことは「やるならうまくやれ」でしかないんだよな。
婚活したくない
・パーティは高いし参加者はガチャ。7,8人と10分弱話して5000円。
高くて疲れるのはコストだからまだいいとして、たいして条件のいい女がいなくても、パーティで競わされると一番条件のいい女をゲットしたくなるし、それを他の男にもっていかれると普通に悔しい。
マスクで顔が隠れてるから、なんとかマッチングしても、外してみたら全然タイプじゃないなんてこともあり
・マッチングサイトは反応なしやお断りが大多数、お断りは「一応送っとくか」程度の女にされてもなんかむかつくし、反応なしは単純に無礼で待ってる時間が嫌。
おまけにあってみたら顔が写真と違うこともある。
女を奪い合う男側にしても年収爆盛りしたりしてる不誠実な男と競わされるのがキツい。
・結婚相談所も入会金だ活動費用だで平気で2桁万円が吹き飛ぶのがキツい。情報や写真の信頼性は増すが、高くて疲れるしゲットできるまでフラれつづけるには変わらず、婚活パーティより全体的に苦痛が多そう。
・今の生活より生活レベルを落とすのは耐えられない。生活のアップデートの一貫として世帯年収を増やしたり登場人物を追加していきたいのが主。
・子供は特に考えていないができてしまったら仕方ないと思う。ただ、それは完全に親のエゴなので、産むなら不自由ない環境や容姿を与えてやらないと貧困の再生産になる。
自分が受けた親からの投資と同じぐらいかけられないなら産むべきではないと思う。
・なので女側にも共働き、同程度の年収を望むが、女は自分の年収より高い男を選ぶ傾向にあるようで難しい(相談所の人間に聞いたところ、自分より年収の低い男は「尊敬できない」と思われるのだという)
・年収のある女を探す場合必然的に歳はかなり上になるようだが、容姿や肉体の価値は加齢に応じて低減していくので、結婚をしてまでその価値が低い状態の女を確保しておくのはデメリット。
あの程度の価値の女としか結婚できなかったのか、と他者に思われるのもきついし、結婚相手でマウントをとられる要素はできるだけなくしたい。
・同程度の年収かつ共働き前提で、かつ容姿の価値が高い状態の相手なら結婚しても(万一子供ができても)いいかなと思うのだが、なかなか難しい。
朝起きたら「結婚して良かった」と思える程度の容姿の女が横にいて、金銭的にも不自由なく生活できて初めて、現在と同程度に幸せになれるのだと思う。
かといって非婚を選ぶこともしたくない
・非婚化が進んでいるといっても結婚できている人間は周囲にも世間にもたくさんいるので、「結婚できなかったやつ」と思われたくもない。
・現在の生活はそれなりに気に入っているが、何かすごく熱中したり名を遺せている分野があるわけでもないので、非婚を選んでまでやりたいことというのもない。
・趣味なども基本一人で行うものなので、結婚しないと他人とのつながりがなくなり、近いうちに孤立するのは予測できる。しかし、それをよしとできるほど完全に人間とのかかわりを遮断して生きていけるとも思えない。
・今はそれなりに良い生活を一人で送っているが、それが一生続くことが幸せであるとも断言できるほどではない。
こうして書いていると結婚すべきではないタイプの人間だとも思う
・女を条件でしか見ていない、手段としてしか見ていないという指摘があるだろうが、おそらくその通りで、「何もかもを投げ出して自己犠牲にしてでもつなぎ止めたい」と思うほどの相手に出会ったことがない。
・そもそも男女問わず、そこまで強い感情や興味を他人に抱いたことがない。
・このままだと結婚しても幸せにはなれないだろうとも思うが、しかし結婚しなかったとしても幸せになれないだろうことに変わりはなく、ならせめて他人からは幸せに見える程度の体裁は確保しておきたい。
・結婚すべき人間でないから結婚しなかったとして、それで結婚できた人間ほど他者や世間は自分を認めてくれないと思う。
その他気になること
・自分にしか関心がない、というのは一般的でないのかもしれない。もしかしたら、他者の人格や人となりに興味を持ったり魅力を感じたりすることが一般的なのだろうか。
そう考えると、結婚できないのは条件面で負けているというよりは、人間関係構築のスキルが育っていないからだといえる。が、今更どうしろというのか。
・女が自分より年収の高い男しか愛せないというのは、要は「獲物をとってきたり他の部族と戦って自己犠牲してくれるオスを選ぶ」ということなのだろう。自己犠牲を強いることが男性の性的搾取とどこかで見たが、実際そうだと思う。
・共働きをしたくない女もまだいると聞いてウワーとなるが、共働きしないといけないのは女の年収を低く据え置きしている社会のせいであって、その責任をなぜ俺が引き受けなければならないのか。
・婚活系のサービスは結婚したい男女から搾取しているように感じてしまい辟易する。機会や情報を提供される価値はあるとは思っているのだが、にしても高いしつかれる。
・趣味で結婚相手を探せば、と言われたこともあるが、女に対して彼氏がいるか等の情報をそれとなく聞き出すのも大変だし、他の男よりサークル内で優位に立って自分をアピールしたり、人間関係のパワーゲームをやるのも非常に面倒。
・ここまで出てきた「他者」とか「世間」は、本当のところ自分に内在する規範意識やプライドだという自覚はある。だからどうって話なのだけど。
総合して
・他人に興味がないこと
どれを解消するにせよかなりの時間がかかる。その間にどんどん年をとり外見も衰え、周囲にはもっと高年収の競争相手が増えて、自分の条件は相対的に悪くなっていくことは想像に難くない。
質の悪いことに、婚活には終わりがない。試験や就活のように、あなたはこのレベルなのでここでおしまい、と決めてくれる存在がいない。
山路薫という官能小説作家がいる。主に1990年代に活動していた人でここ10年かもっと、作品を発表していないと思う。北海道出身だが、少なくとも活動後期は京都に居た。中でも京都を舞台にした作品が印象的だった。ヒロインは京言葉、あるいは丁寧な言葉を話す。
宇治薫という官能小説作家がいる。2007年にデビューした人で、3作ほど書いてそれっきりになっている。京都在住。ヒロインは京言葉を話す。
さぁ、と言うことで二人は同一人物なのか?と結構頭を巡らせた。結論は出ないが、違うのではないかという方に傾いている。山路薫は「造り酒屋」とか「陶芸家」といった古風な家に嫁いでくる女、嫁いできた女という主題が目を引いた(違う作風もある)。そういった環境を比較的落ち着いた筆致で書くことが出来た人だと思う。ようするに舞台設定がうまく、描き上げた舞台にヒロインを据えてみせた。使う言葉も、長年文筆の世界に居たことをうかがわせる。一方で宇治薫が描く小説の舞台は狭い。3作中2作は小さな家庭の中の話に終始する。また、読んだ範囲で山路薫は女性の胸の触り心地をきちんと書いていたが、宇治薫はその点がなおざりになっている印象が強い。
はて、悩むほどの事なのか?
宇治薫というペンネームは明らかに源氏物語宇治十帖の登場人物、薫からとっている。一方の山路薫だが、源氏物語の二次創作『山路の露』を思わせる。この作品も主人公は薫である。
偶然なのかなぁ。怪しいなぁ。
ストーリーはさておいて
メインキャラクター以外に、いろんな人がサブのキャラクターデザインを請け負っていて、故みなもと太郎キャラデザなんてのもいてさ
顔のカタチはもちろん、等身サイズまでバラバラな登場人物が同じ画面に収まってるのが好きだったんだよね
ゲストキャラクターが主人公たちとキャラクターデザインの等身から顔のサイズから全く違うのはよくあることで
(主人公の顔かたちすら話数によって違うのもよくあることで)
そこに違和感を感じることもなかった
それからしばらくして、21世紀にオタク文化がメジャーカルチャーみたいな顔するようになって以降なんだけども、
たぶん作画崩壊をネットで叩く文化が蔓延したあたりからじゃないかと思うんだけども
ひとつのアニメシリーズの中で、ある一定の整合性でキャラクターデザインを統一し整えるのが当たり前、それが進歩、それが進化、
それこそがアニメ・コミックの技術の成熟、みたいな論調が、気がつけば自明視されるようになってたんだよね
メインキャラクターたちとは全く異なる、みなもと太郎キャラなんかが当たり前のように同一画面内に並んでてさ、すごく嬉しかったのよ
俺はこういう、リアルもデフォルメもごった煮の「マンガ」が好きなんだよなって
大江戸ロケットにしたって、メインキャラクターは流行りの絵柄なわけだけど、
サブキャラクターとの差によって「差別」が生じてるのかといえば、そんなこたないんだ
それぞれの方法でそれぞれのキャラクターの自己主張がデザインに込められてる
キャラデザってそういうもんだよって染み入ったりしてたんだよ、当時
俺みたいのからするとね、「リアルなデザインのオッサンの絵」と「典型的な美少女の絵」って、並列の存在なんだよ
(もっと言えば、様々な方向にデフォルメきいたキャラデザが混ざってても全くアリなのよ)
「美少女はもっとリアルに寄せるべき」とか言われると、「は? なんでそんな<絵の多様性を奪う>こと言うの?」 ってなるのよ
今の「典型的な美少女の絵」ですら10年もしたら全く違う絵に変化してるのに
そのキャラクターデザインのバリエーションの多様さを奪ってまで「写実的」じゃなきゃいけないってなんなの?
じゃあ実写見とけよ
俺は、いろんな作家の、いろんなキャラクターデザインの、それぞれの感性による、多種多様な「美少女」を見たいよ
声優ユニットというものに多くを期待しすぎじゃないのか? 比較対象に出ているようなラブライブ等のコンテンツ主導型のものとは盛り上げ方や続け方が根本的に違うだろう。
そもそも、声優が「中の人」としてじゃなく「生身の人間」として芸能活動していくものは何と言うか、どうしても出た所がピークで、細々と狭く小さいコミュニティになっていかざるを得ないんだよ。
俺自身は90年代半ばからゼロ年代初頭まで、ユニットではないが声優の飯塚雅弓さんを推していた(推すなんて言葉は当時なかったが)。ポケモンのカスミ役などでそのユニークな声質に魅了されたからだ。
中部圏から微弱な電波を捉えて文化放送などのラジオを聞いていたし、CDアルバムやシングルも5作分くらいは追っていた、ライブにも行ったりしたが、そもそも声優というものには旬がある。
大御所と呼ばれるような人になれば例外だが、普通はいずれ本職(と我々が思っていたはず)のアニメ声優のお仕事ではほとんど見られなくなって、それ以外の多様な活動でお見かけするようになる、そういう存在だ。
これは今も昔も変わらず、声優は声優だけで食い続けることが出来ないからこそ、個人やユニット活動を通して可能性を探りつつ、ファン(というか太客)の動線が途切れることがないよう維持するものなんだよ。
太客は周りがどう移り変わっても家族のように常連でい続けてくれるものだし、そうでない大半のファンは自身の生活の移り変わりを経るうちに自然と離れていくものだ。
最近は音楽主体の芸能活動をするにしてもアイドル的に売り出す人や、そもそも声優ではないがアニメ系アーティストとして名前を売る人などが出てきて、「アニメ系人材の出口戦略」も多様化しているが、本質的には変わらない。パトロンシステムのようなものだ。
とにかく「生身の人間」を追うからには、そういった小さく狭い路地に入り込んでいくことは避けられないわけで、そういうディープな路地に潜っていくことに楽しさを感じる人のためのものだ。
ハイウェイを疾走する周りの旬なコンテンツと見比べてキョロキョロしていたらどうしたって見劣りするし、本来比べるものでもない。付き合っていく胆力が相応に求められる部類の趣味だろう。
一方で俺自身も10年代半ばには、旬モノにハマったりもした。音ゲー好き繋がりでリリース初期のスクフェスに触れたことで、ラブライブ(μ's)にどっぷり浸かっていた時期もある。
ライブも行ったし、ファイナルライブもライブビューイングだが目の当たりにした。そこで分かったことがある。
ラブライブという作品は、「区切りをつける」ことをコンテンツ展開の一環として非常に意識していた。こういうことは作品主導型だからこそ出来るアプローチだろう。
アニメ側のキャラ達が作中で人気絶頂になっていくのと連動して、リアル側の同名ユニットもSSAに東京ドームとハコをどんどん広げ紅白にも出て、という奇跡的なリンクを起こした。
そしてアニメ側のキャラたちが作中でグループを「終わりにする」と宣言したのと同じように、リアル側も人気絶頂のうちに解散ライブをした。
アニメ作品自体は登場人物とキャストを変えてシリーズ化していき、μ'sは名実ともにレジェンド扱いになっている。
アイドルとしては一種の理想的形態である一方、商業的にはもったいない、後続シリーズに乗り換える気持ちがついていかない、というファンの声も当然あった。
ここで「アイドル」というものが如何に難儀かが浮き上がってくるだろう。アイドルである以上、成り上がって華々しい何かを残していく骨太さを求められる。
一方で従来の声優アーティストのような在り方には、個人の才能をどうにか花開かせて行き先を探していく、芸術家的な長い道のりがあるわけだ。
声優アイドルユニットというものは、この2つのベクトルの違う生き方を同時に求められるアクロバティックな立ち位置で、競争の中で誕生してしまった茨の道だと思う。
作品と結びついているのならば、例えばミルキィホームズのように、コンテンツの寿命に伴ってリアルグループも解散することができる。
ラブライブのように、シリーズ化という形で太く短い生命を打ち上げ花火のように散らしていくこともできる。
けれど「本人」として活動しているものはそのへんの扱いが難しい。その背後にあるものが作品のような一過性のコンテンツではなく、一人の人間の人生だから。
付き合う人間側が、本質的にはアイドルオタクで好きになったのがたまたま声優さんだったのか、
本質的にはアニメ・ゲームオタクで、作品性にあてられてあくまで演者としての声優さんを好きになったのか。
後者だった場合、声優さんがもはや声優ではなくなっても追うことができるのか、できないけど熱がある時期だけ追っていたいのかに自覚的になるべきだろう。
俺はやはり後者でアニメ・ゲーム体験への感動が主軸にある人間だから、個人に対しては敬意や愛着こそあれどあまり深入りすることはなくなった。
でも最近は、ましゅまいれっしゅ!のようにアニメの外側でもキャラの形で楽しませてくれるコンテンツがあったり、
それこそVtuberのようにキャラのガワで個性をエンタメ化してくれるモノがあったりして、個人とキャラの境界が曖昧になっているのは感じる。
いい時代であるとも言えるし、受け手の精神力が試される場面が増えているとも言える。
どんな形であれ、多様な道が存在するようになったのは基本的に良いことだろう。
いち消費者である俺に、その道の先にあるものの是非などを語る資格はないが、今の所は楽しみ方を見いだせているので、楽観視している。
原神の推しキャラであるあの子の声優さんが、演技が違うもののよーく聞くとDMMのあのウン十億かけたブラゲーで主役のあの子を演じていたことに今更気づいたり。
キャラの性格的にはそこまでツボではないけどなんか好きだなーと感じていた原因はこれかっていうね。
そしてまた別の流行ってないがめちゃくちゃ可愛らしいDMMのご飯系ブラゲにも出演されていて、絵師がおう氏のキュートな立ち絵で、振り回され系の可愛らしいボイスでどストライクな演技をされていることを発見したり。
名義が違うのであんまり大きな声で言えないが、界隈を掘っているとアイマス系などで耳に馴染んだ方々の声もちょくちょく聞こえてきて楽しい。誰かがDMM沼に引きずり込んでるのか?
また逆に、表では活動されてないっぽいんだが若手っぽいこっち系の有望な声優さんも僅かながら発掘できたり、同人音声で有名だった人がゲーム畑に降りてきてたり。
はたまた売れっ子声優さんがDLsiteで続々とアダルトではないASMRを発表してたりと、アニメ・ゲーム軸の声オタ(≠声優オタ)な自分からすると最近は楽しいことばかりだ。
最近、小説やアニメを観終わると喪失感のような悲しい気持ちになる。どうしてこのような気持ちになるのか、頭の中で考えるだけでは答えが出ないので、日記にして言語化してみたいと思う。
まず考えられるのは、完結したか否かに関わらず、物語がひと段落してしまってもう見られなくなってしまう事への絶望だ。これは誰もが経験したことのある感情であると思う。完結した場合はもう続きを読むことができないし、公式から新しい供給がない限り、その世界の続きを見ることはできない。「続きが読みたい」という気持ちから二次創作を読み漁ったり、あるいは自分で書くという人もいるだろう。
しかし自分が最近感じている感情はこれとは違うように思える。絶望というよりは切なさ。自分が感じる喪失感は、物語の世界に深く没入しているほど強くなりやすい。傍観者であるはずの自分が、その世界の登場人物になった感覚。この感覚が続いている間は現実世界の時間が止まっているような気さえする。この感覚のまま物語が終わったらどうなるのか。おそらく、自分だけ物語の世界から追い出され、キャラクターは物語が終わってもそのまま日常を歩んでいくのだろう。この感覚が物語を読んだ後の喪失感の正体なのだろうか?それはわからないが一先ず仮の結論は出たのでこの日記は終わりにする。