はてなキーワード: 消費社会とは
日本のあらゆる面が「ミーハー」化しているけど、これって要するにポケモンショックならぬサブカルショックなのではないか。2011年からのつるべ落としの右傾化で、しかしまともだった時代の惰性で文化的だった日本人のうち、マイルドヤンキー未満の弱者を熱狂したのが、ミーハー文化だった。
2000年代当時は低俗さの象徴だったミーハーが、たぶんファミコン世代にとっては、団塊ジュニア世代にとっての「ガラケー」みたいな存在になっていて、要するにそいつらが人口が多く中年化して世の中に影響を大きく及ぼす中で、俺ら第一次サブカル世代すらも巻き込まれている流れが、これなんじゃないかと。
クールジャパンがこうまでおかしくなったのも部活動みたいな年齢主義の産物だったろうし、今のサブカルにふと「ヤンキー用語」が出てくるというのも、その流れを汲んだものだと思う。当然、そういうサブカルを好んでいるのも、オタクではない人たちだよね。ギャル文化や不良文化に青春をささげた。
彼らの「ツケ」を清算すべき時なんじゃないかな。そのミーハー世代、2000年代ってオタクでいえば電車男ブーム以降のサブカルの脱アングラ化と第三次サブカルの時代なんだけど、ミーハーの狭い都市部の小さなせせこましいサービスの中に閉ざした疑似オタク文化とは次元が違うんだよ。
本物のサブカルはパソコン的なグローバルスタンダードの規格に準じたものを用いて国境を取っ払って地球規模の共同体の構築を追求し、クールジャパンになったけど、「サブカルは疎いがミーハーに没頭したチンケな日本人」がいま早期老害化してる姿が、(ポスト)ヤンキーやギャルのうざったさだ。
なので彼らの消費者感と没歴史的感じが、まさに問題になっているゆとり・さとり世代にそっくりなのもしょうがないと思うし、こういうものを黒歴史にさっさと追いやることが、今のオタクやエリートがやるべき作業ではないかなとも思うんだ。
とにかく、本来であれば日本にはそのような文化嗜好そのものがなかった、ポスト消費社会、21世紀の象徴ともいえる「ポスト消費文化」というものが、20世紀の文化や2000年代の方がよほどかっこよく見えるレベルに間抜けさをプンプン醸し出していて、それを助長する側にいるのは、ほんとにどうかと。
思いつく順に列挙すると、
(1) 今の人生がとにかくつらくて、悩みを解決する処方箋が欲しかった。
(2) ジブリ作品、フィンチャー作品、『資本論』を観たり読んだりしたせいで(+周囲の人間を見ていて)、消費社会・競争社会の価値観に疑問を持った。それ以外の価値観が欲しかった。
(3) 本屋で偶然、内村鑑三(高校日本史で不敬事件の当事者として出てくる)の聖書注釈に出会ってこれが分かりやすかった。
(4) ニーチェとドストエフスキーを読んだせいで、神を否定するとヤバいことになると漠然と思っていた。
(5) マクグラスの『科学と宗教』を読んだことで、現在の科学水準でもキリスト教を否定し去ることはできないということが分かった。
(6) 何より、読んでみたら聖書の一節一節が心に刺さりまくった。
辺りかな。
[追記]
(8) (4)と関連するけど、植松聖の事件を見て、「結局重度障害者が生きる意味(≠殺してはいけない理由)はあるのか」という問いについて、神なしではうまく答えられないことに気付いた(異論はあるだろうが)。
いろいろあってキリスト教徒になりました。
んで気づいたんですけど、日本人って無宗教の人が多いじゃないですか(主語がでかいですか、すいません)。
そうすると、拝金主義とか消費社会に対する批判に触れる機会が文学や映画ぐらいしか無いんですよね。
小説ならバルザックとかトルストイ、漫画なら岡崎京子とか青木雄二、映画ならフィンチャーとか。あとはまぁマルクスですか。
でもこれらって大人になってからじゃないと読めないじゃないですか。岡崎京子とかナニワ金融道は子どものころに読んでるかもしれないですけど、その根底に消費社会・拝金主義批判がある(岡崎京子ならたぶんゴダールの影響、青木雄二なら自身の経験に加えてマルクスの影響)って気付ける小学生ってなかなかいないと思うんです。
拝金主義や消費社会批判に幼いころから触れないもんだから、金こそ全てみたいな価値観が蔓延しやすくて、よくないと思うんです。増田に毎日投稿される労働者の苦悩みたいなの見てると切に思います。
その点聖書って子どもでもよく分かる話で「金が全てじゃないんだよ」って教えてくれるんで、いいと思います。どうですか増田見てるお父さん方(布教)。
そういやこの前、カイジを読んだ学生で、利根川の演説に感動したって言ってる人がいました。利根川さんはその思想に基づいて行動した結果、焼き土下座させられてるんですけど、いいんですかね。
もしかしてテーマっていうものを勘違いしてない? いや勘違いは言いすぎかもしれないけど、自分で範囲を狭めすぎてない? ケチをつけたいんじゃなくて、もったいないと映画は娯楽派の自分としては思います。なのでテーマ部分の内容について余計なおせっかいなどを書いてみる。
まず、映画に限らず、テーマっていうのは観客・読者が自身で見つけ出すもので、○○をテーマにした映画だからそのテーマを楽しまなくちゃ理解しなくちゃダメ! て法はない。
そして物語作品は何もワンテーマ・ワンアイディアに限定して作られてるわけじゃないのだから、見出しうるテーマは多様に潜在している。だからもっと自由に好きなように観ればいいのでは?
初代ゴジラなんて設定からして明確に反戦・反核がテーマなんだけど、街を破壊し人々を殺戮するゴジラを観客が応援することは間違ってない。いや矛盾してるし間違ってるかもしれないけど、それでかまわないっしょ。
例えばゴーン・ガールを楽しんだ独身の自分からすると、あれは結婚生活の話としてではなく性別すら関係なく「他人をコントロールしたがる人」の邪悪さの話、人間に対する興味の話としてみてた。羊たちの沈黙や冷たい熱帯魚みたいにある種のヒーロー・アイドル映画的な楽しみ方というか。もちろんこの見方を強要するわけじゃないよ。
そもそも作品におけるテーマ至上主義は行き過ぎると、不謹慎・不道徳な作品をそれに理由に批判することになる。ファイト・クラブはテロリスト肯定の話で許せない!とかにいっちゃうわけ。そりゃテーマで善し悪しを決めるんだからそういう視点にもなりかねないよね。そうやってテーマを中心に考えると、結局はテーマの正誤を考えることになってしまう。ゴーン・ガールが結婚生活の話だから面白くない、という考え方で、ネタバレまで検索しながら作品を探してるともしかして結局はそういうところに行き着いてしまうのではないかなあ、と。
もちろん内容が思い出せないとかつまらなかったのは好みの問題なので仕方ない。けどそこで(メインで扱われていると思われる)テーマが切実でないから意味がない作品、と考えを限定する方向に向かうのは結局は行き詰まりなんじゃないの、ということね。例えば増田的な見方で考えれば、他人の人生まで消費し着飾った自分を演出するゴーン・ガールの主人公は究極の反消費社会・反資本主義の反面教師と捉える余地もあるのに、自分でそれをオミットしちゃっているのではとか、お節介ながら思ったりしました。(こんなこじつけはやろうと思えばいくらでもなんにでもできるのであまり意味はないかもしれないけど)
自分にとって切実なテーマを追い求めるのは重要なことだろうけど、それ以前に物語はテーマを語る説教じゃなくて物語そのものを楽しむものなんだから、優先順位を変えた方が楽なんじゃないかと思う。
もう虚構の物語に興味が持てなくなってるとかだったら仕方ないけど、ネタバレを検索して映画を探すくらいだからまだ物語自体を欲求してるんだろうから、どうせならたくさん楽しめた方がいいんじゃないかなあと思うわけです。そうじゃないなら、嫌味ではなく素直に実用的な情報を得る方がいいんじゃないかと思います。
自分の場合、(純粋娯楽映画を除き)テーマを正確に理解できて、そのテーマが自分にとって切実であれば1回観ただけでも忘れない。
例を挙げると、反消費社会・反資本主義を描いた『ファイト・クラブ』はかなり詳細に思い出せる。他方、観ても何だかよく分からなかったタルコフスキー『鏡』とか、(自分にとって現状とくに切実ではない)結婚をテーマにした『ゴーン・ガール』はほとんど思い出せない。
自分も昔、映画1000本観るぞ!と息巻いていたが、だんだんテーマが自分にとって切実じゃないと観る意味がないなぁと感じ始めてきて、そんなに観なくなった。気になる映画についてはネタバレとテーマを調べて、自分にとって切実かどうかを判断して観るようにしている。
おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、ある種の自意識ギャップなんじゃねーかと思ったんだよ。
思うに俺らは俺らが思うほど、経済的な価値が、無い。例えば、いま、年収700万円もらってる奴は、ホントのところの人材価値は年収500くらいで、400のやつは250とか、そんなものがせいぜいなんじゃないかな。
じゃあ、なんでいま+αで700とかもらえてるその差額は何なのかと言えば、それは、景気とか、為替をはじめとした国際的な需給の関係とかの、ブースト効果だ。要するに補助魔法であって実力じゃない。しかし、その+αが例えば国債発行を原資として政府の借金をもとに発注された公的事業にまでさかのぼるのであれば、まさにブースであって「国民の給与を上げるために上昇」でしかないんじゃないかな。
もちろん、経済のセオリーとして、人材も市場で取引される商材のひとつなので「正しい価格」なんてものがないのはわかってる。買い手と売り手の交渉によって売買価格が、売買の瞬間幻想のように発生するだけだ。しかし、その原理原則通りにやると、グローバリゼーションの中で、日本の労働市場が国際的な労働市場に連結してしまう。いやもう一部はしてるよな。電話オペとか、海外と仕事の取り合いなわけで駆逐されかけなんだし。
まあ、とにかく、「日本人の実力本位で評価した時の経済的な人材価値」と「今日本人が実際にもらってる給与」の間に、ギャップがあると思うんだよ。そのギャップの原資は、日本が世界有数の経済的大国だってあるマネーのスケールメリットであるとか、信用という形で貯金された日本のブランドイメージだとか、一族経営を続けてきた企業の内部留保であるとか、政府の海外資産や国債発行だ。
そしてさらに言及すると「今日本人が実際にもらってる給与」と「日本人がもらいたい額」にもギャップがある。
さらにさらに「日本人が、自分たちが享受出来て当然だと思う生活レベル」と「今手持ちの現金で遅れる生活レベル」にもギャップがある。
おれら(日本の国民)がいまなんだかもやもやと息苦しさを感じるのは、つまり、これらのギャップが原因じゃねえかなあ。
つまりさ、たとえばの話でしたは一例なんだけど
Aさんの場合
国際的に見た時Aさんのやっている労働の価値を円で表した場合:年収250万円相当
Aさんが「俺はこれくらいもらえるべきだ」と内心思ってる金額:500万円欲しい
Aさんが「年収400万円の生活ってこれくらいあって当然だろ」と思ってるライフスタイル:実際には600万円必要
――つまり、こういう状況があってさ、そういう色んな脳内と現実のギャップが「俺は苦しい」っていう感覚に結実してるんじゃねえかなあ。
それは例えば政府ががんばって、Aさんの年収を500万にしたとことで、解決しないし、そも現実としては、Aさんの給与は250万円に向かって落下していくだろう。この落下は、どちらかといえば正常化に近いとすら、言える。
日本人の言う「貧乏だから結婚できない」も、上のような生活感覚を基盤にしてると思うんだよ。「結婚するためにはこういう経済状況じゃないとダメだ」みたいなさ。現実には、そんなことはあり得ない。貧乏人だって結婚してる人はいるし、貧困国だって子供は膿まれてる。それに対して「子供の教育には金がかかるだろ」って反論がまさに上のギャップに根差してて、「日本の格や全体状況を考えれば、子ども全部を大学に行かせるなんてのが、自意識過剰で身の程を越えてる」んじゃないかなと思うんだよ。
この問題は、経済そのものというよりも、文化とか風潮とか、もっと露骨に言っちゃうと、マスコミの維持しようとしている「普通の日本人の生活」みたいな消費社会像にかかわる問題なんじゃないのかなあ。
まぁ楽しめた。全26話の内、8話までで戦国編が終わったのが評価できた。これをかたらないとなぜハルが魔法少女になったか充分に語り得ず、かといって原作があれだけの分量を費やした戦国編である。バランスをどう取るか気がかりだったが、ここは制作指揮を執った田町ボラギノール監督の『ぱらりんぴっく!』以来の豊富な経験が十二分に活かされた結果と言えるだろう。ただし、平塚為広と大谷刑部との絡みは安直に過ぎると思う。田町ボラギノール監督がかつて制作した『都立尾久の原公園のたたかい!』のキャラ「パシフィック種村」と「パラリンピック吉岡」との情愛の構造のトレースであり、なんらの新規性がないにも拘わらず、人気を得るための安直な策と思しい。この構造は為広と刑部との間に何らの検討も経ずトレースされた。これらはもう受け手が嘗められているとしか思えない。「お前らはこれで楽しいんだろ? え? ほれほれ」という馬立コーラック監督の意図がすけすけである。ここは助監督の木村氏にも頑張ってほしかったが、最近は岐阜県揖斐川郡にある自分の農場の管理が忙しいらしい。
9話から最終話にかけてが原作の通称「大正SF編」に該当する。アニメ第1期で語られた明治41年の初デート。これがハルを魔法少女として目覚めさせる直接の経験になったわけだが、そもそも成美女子英語学校時代の勉学や課外授業と言った、争乱に巻き込まれる以前の牧歌的な部分こそがアニメ第一期の醍醐味かつ要旨であった。「大正SF編」では田町監督が好むスチームパンクの要領を原作に累加し、ハルの激動たる活動を描いた。これが本作。もうおわかりかと思うが私は「第1部のノリが良かった! なにこのノリ! 付いていけないよ!」という意見に真っ向から反対したい。第1期が文学への淡い目覚めであり、その後当然闘争への情熱が生まれてくるのは原作を読んでいれば自明なわけで、1期のノリが変わるのは当然だ。作品とハルの生涯を見渡せばこれは当然のはず。昨今のアニメのノリにたまたま第1期がたまたま、たまたまである。合致したに過ぎない。最近のアニメに絆されてるんじゃねえよ。ばーか。
「大正SF」編では後述するが声優の田端エリザベスの演技が相俟って、独特のケミカルさを醸成していた。一般に「大正ロマン」+「スチームパンク」はかなり親和性がありSF界でも常套手段とも言える組み合わせである。ここに長い歴史を持つ魔法少女モノを組み込もうとしたとき田町ボラギノール氏にとっては、師匠である大谷江戸仕草氏の影響を受けたことが役に立ったと私はにらんでいる。60年代の草創期に活躍した大谷江戸仕草氏の功績は今更贅言する必要性も(とくにこの増田界隈では)なかろうが、特に「ハル」の一連の成果には、氏のアニメにおける第三作目「モリソン号じけん!」がかなり直接に関係しているように思える。あまり界隈でもこの指摘はなされていないと思うので、まあ皆さんには自明と思いますが一応・・・。
さっきも書いたけど上中里マリアンヌの演技最高ー! もう大好き。主人公のハルの魅力を充分に発揮しているうえに、かわいい陰獣の「ウンゲツィーファー」も彼女がやってるんだぜ。もうたまらんうー。せーの! 「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」「たまらんうー。」
恋人役「燕尾服仮面」こと奥村の声優西荻窪松庵の演技もまた良かった。松庵の思想上の師である都立家政ドトールの1932年ベルリンでの演技を彷彿とさせるシーンがあった。おわかりかと思うけど19話の例のシーンね。
友人の市川房枝役の声優保谷ビアンキも妖艶な演技が光った。市川房枝って公式でも眼鏡がずれているんだけれど(wikipediaでも見てほしい)、それをアニメでも反映させていて、保谷はその眼鏡がずれているという演技をしているところが印象に残りました。最近揖斐川郡でハウス栽培やっているそうです。岐阜の。っていうか俺あんま声優詳しくねーや。
正直残念だったのが魔法詠唱シーンの作画だ。ハルが本を開いて中空に浮かせて詠唱するというお決まりのシーン。ここに全く気合いが入っていない。ハルが水晶槍の呪文をパージしてマテリアルタスク化するロマネスク技を出したシーンあっただろ。12話だったか? あそこで監督や、あるいは原作者の十返舎一九も多分想定していたことだと思うが、あそこのモチーフは一般にイメージされるフェミニズムの観点からだけでは捉えられない。このアニメを見る際には岩波の『日本のフェミニズム』全編を通読してからにしたほうが望ましいと半分冗談でwikiに書かれているけれど、これは実際マジだとおもう。あのシーンではむしろ参政権の獲得と戦争との関係がクローズアップされているのであって、フェミニズムへの外的要因(ここでは太平洋戦争・・・というか総力戦体制というべきか。この辺りは突っ込むと難しいからこれ以上は無理だー誰か解説してくれ。)が問題なわけだ。で、あの作画である。作画誰かは知らないけれどそういう文脈が必ずしも現場に伝わらなかったのではないか。25話のハルが友人の奥むめおの101才の誕生日をタイムワープして祝うシーン。これも輻輳するフェミニズムのイメージに作画が全くついて行っていない印象を受ける。ここも、参政権から出発し、翼賛体制との関わりから、さらに高度経済成長を経てバブルという消費社会を経験しかつ男女雇用機会均等法が出たあと、というハルの至らなかった(生きられなかった時代の)地平を魔法で見に行く、というのが大魔法の骨子になっていたと思う。これにたいしてあの70年代初期を思わせる「リブ」で作画されちゃあ適わねえ。ハルまだいきてんじゃねーか。
結局ハルは原作では婚約者からもらった指輪をマレーシアのビナツボ火山に捨てに行ったわけだ。いわゆる夫婦別姓という現代的問題を魔法でどう解決するのかが楽しみです。文句も沢山書きましたが、基本的にこのシリーズには期待しています。制作会社の「オベリスク護国寺」の益々のご発展を祈っています。
芸術って自分たちが住んでる時代、社会がどういう価値観を持っているか。を、
だから、現代の絵とラスコーの洞窟壁画とか、昔の絵画とか比べてもあんまり意味ないと思う。
それができないよりはできる方が有利なのは確かだけど、別に必須ってわけでもない。
サッカーやるなら足が速い方が有利ぐらいのものだと思うんだよね。
ウォーホルの価値って、いち早く現代の大量消費社会、世界の均質化を表現して見せたことだと思うし、
ベラスケスを理解するのに、封建社会とキリスト教の関係を理解せずには語れないだろうし、
印象派は近代的な市民社会、個人の自由とか人権という概念抜きにはありえなかっただろう。
芸術家が時代を越えた、万人が感動できる究極の美を目指してるというのは幻想だと思うんだよ。
日本だと芸術は個々人が心の赴くままに見て、素直に感動を受け止めればいいとか、
送られたランドセルはどこへ行くって?
捨てるんだよ
ただ捨てるだけじゃない
裁断して捨てるんだよ
施設の子どもたちが泣きながら「えぐぅ」「えぐぅぅ」って言いながら小さな手に無骨な洋裁ばさみをもって「本革製品硬くて切れないよう……」とかいいながらも新品で一回も使用したことのないランドセルをズタズタに切り裂いて捨てるんだよ
そうじゃないとこの消費社会で景気上昇なんて達成できないよ購入してすぐさま廃棄しなきゃ
ミニマリストはその思想上身の回りのアイテムを最小化してシンプルなライフを送りたいわけだしこれくらいしないと経済や文明の利得にありつくのはフェアじゃないんだ
つまり大量消費とミニマルライフを両立するために施設にランドセルを送りいたいけな少年少女にランドセルを切り刻ませる必要があるんだよ
■本文。
今年上半期の美少女ゲーム業界を見渡すと、市場の拡大に伴う、保守化の流れに向かいつつある感がある。これは、おたく業界全体が内包している問題ではあるのだが、正直な所、拡大する市場を追いかけるのは既に辛くなっている。個人的にも、久々に行った秋葉原で、ギャル絵の洪水に立ち眩みがしたのも確かだ。
さて、コンシューマ市場は肥大したが故に、一般性の高さが必然となっていった。例えば、ドリームキャストの失敗は、古くからのセガファンが放つ、マニアックな重力から作り手の側が脱する事ができなかったが故の悲劇とも言えるのだが、一般性ばかりを追い求める状況は、作り手の側にも不満が蓄積されていく。
その、取り残された創作性を実現させる場所として、美少女ゲーム業界が成立したという背景がある。実際、筆者が一番面白かったのはDOSからWINDOWSへ移行する過渡期で、けったいな野心作が多く出た時期だったのだが、その後、市場として、成長・拡大すると、やはり、メディアミックスなど、資本主義的な視線が入り込んできた。
そして、今の美少女ゲーム業界は、昨年来からのレーベル数の増加と、タイトル数の増加と反比例するように、ゲームのジャンルの多様性が失われる傾向が生まれている。タイトル数の増加の背景に、発売サイクルの短期化があり、制作期間の短縮に伴い、システムやシナリオの練り込みが薄れている作品も多い。バグなどの不具合の発生が日常茶飯事になっていて、インターネット上での差分ファイルの配布が流行している現状に至っては、もはや何をいわんかや、という感じでもある。
不幸中の幸い、筆者はそういうゲームにあまり遭遇したことはないのだが、シナリオの練り込みが足りない上に、一時間程度で終わるゲームの為に一万近い金を出すのは、効率が悪いよなあ、という心境は間違いなくあるだろうと思われる。また、メイドものや恋愛ゲームがタイトル数の半分以上を占めるという状況では、やる気そのものが起きなくなってくるのは事実だ。
まあ、メディアミックスを基盤とした企業複合体のシステムに組み込まれた大手では、実験的な企画はほとんど通らないという話もあるし、一獲千金を狙う中小メーカーも、安全パイの企画しか通さない所が増えた。市場が拡大すればするほど、ジャンルが逆に淘汰されていくというのは、当然と見るか、皮肉と思うべきなのだろうか……。
このような、メーカー側の風潮と相互作用しているであろう、ユーザー側の意識についても、前回、「オブジェクト嗜好」と指摘したように、非常に即物的な傾向を示している。キャラクターの消費サイクルが非常に早くなっているため、自己の内面においての批評的な掘り下げが生まれなくなったのだ。
既に、ゲーム誌の編集者すら、全体を把握しきれない程、美少女キャラクターが氾濫している現在の市場状況では、その心性に惚れ込むのではなく、快楽的な記号の組み合わせだけで、売れ線のキャラクターが成り立ってしまう。あまりにも多い選択肢に対峙した時、人間というのは表層的で直接的な視覚イメージを優先してしまうからだ。
ところが、快楽的な記号を積み重ねれば積み重ねるほど、どんどんキャラクターはフリークス化していくし、リアルな少女像から離れれば離れるほど、逆説的にキャラクターがイノセンスを獲得して、ユーザーはヒーリングされる……といった構図になっているのだろう。多分。
何故、おたくのセックス観がリアルな肉体から遠く離れなければならないのかを考えると、それだけでこのコラムの3回分になってしまう位に深くて浅い問題なのだが、やはり、日本の特殊なフェミニズム環境が背景に存在しているような気がしてならない。これほどまでに、二次元の美少女を消費しなければならない、内的な問題とはいったい何なのかについては、また改めて書くとしても、これらの背景に、戦後日本の構築した、過剰な消費社会のターゲットが若者のみに向けられ、若さの素晴らしさや、青春の幻想をメディアが強調しつづけた蓄積の結果であると思われる。その副作用として、「オブジェクト嗜好」も含めた、おたくの奇妙な性嗜好が構成されているようにも思う。
これは、日本独自のフェミニズム的なものに対する、無意識下での抵抗と位置づける事もできるし、その中で形成された美少女概念と現実のズレが生み出した現象ともいえる。現に、美少女ゲームにおけるヒロイン像の大半が、十代中盤の保守的な少女に設定されているのは、当たり前と言えば当たり前だが、不自然といえば不自然でもある。だが、少なくとも、筆者はこの状況を全面肯定できるほど、気楽にはっちゃけられないのだ。
しかし、同じおたくの枠に括られているとはいえ、メタ的なものやフェミニズム的な表現を賛美するサブカル好きなおたくと、ひたすら癒しを求めて空想世界に依存し続ける昔気質なおたくは、明らかに正反対の方向を向いているし、それ故に、前号の本誌「オタク定点観測」にもあったが、双方の感情的な対立も表面化している。だが、前者には普遍化させようという意志が欠けているし、後者には相対化する視点が欠けているので、おそらく、どこまで行っても歩み寄ることはないだろう。
まあ、自分のことは棚に上げるが、本誌のコラム陣もまた、サブカル否定・おたく保守の傾向が強すぎるようにも思うし、最近はあらゆる所で極端な対立が起きるので、さすがにどちらかに与して云々という気持ちも無くなってしまったのだが、おたくという言葉が生まれて、15年の歳月が経ち、その括りだけでは収まりきれない時代になっているのだろう。美少女まんがはそれぞれのニーズに応えようとして、遂に80誌を超えようかという所まで肥大してしまったが、ならば、美少女ゲームはどうなっていくのだろうか?
加えるならば、前回の原稿を書いている時にインターネット上でぶつかった、萌え派と泣き派の思想的対立というのも、拡大する市場と、それに伴う価値観の拡散に伴う混乱、そして、批評軸の喪失といった状況が、結果、ユーザーの思想を脆弱にしてしまったという意味では、分かりやすい例だと思う。
快楽記号が多くてキャラクターに萌えられるから良いゲームだ、とか、心の琴線に触れて泣けるから、良いゲームだ、というのは、はっきり言って、どちらも同じ穴のムジナだし、良いゲームかどうかを決めるのを、一元的な価値観のみに拠って決めること自体が、ゲームの本質を歪めているようにも思うのだ。そして、作り手の側も、「時代がそれを求めている」とかいう言葉で、その表層的な状況をそのまま受け入れているようでは……なんだか、ヒヨコが先か、タマゴが先か、といった話になってきたのだが、もう、この世界は良い方向へ向かうことは絶対にない、と言わざるを得ない。これは、鬱のせいばかりじゃないと思うし、美少女ゲームに限った話でもないのだ。
批評軸の無い世界は自由に限りなく拡散していくのだろう。だけども、空洞化した世界には秩序は生まれないし、結局、内面の闇から逃げる為に、無意味な祭りを繰り返すのだろう。そして、絶望と祭りを行ったり来たりする筆者の心は、まるで墓場と酒場を行ったり来たりする沢田研二のような気分なのだ。ダバダバダバダ(意味不明)。
■暑くて憂鬱な夏の総括。
なんか、またゲームの話をしなかったなあ、このコラム。最初は普通にゲーム評をやるつもりだったんだけど、すっかり別物になりつつあります。ごめん。しかし、ゲームのことを書くと、褒めても褒め方が気に食わないと文句付けられるらしいので、いっそ全く書かない方がいいのかも知れない。まあ、これは某メーカーの広報誌と化した、とあるコンシューマ系ゲーム雑誌で書いている友達の台詞なので、美少女ゲーム誌では、そんな事はないと僕は信じているけどねっ☆
デフォルトのフィルターはあまり使えないから、abp_jp.txt( https://raw.githubusercontent.com/k2jp/abp-japanese-filters/master/abp_jp.txt )とabp_jp_element_hiding.txt( https://raw.githubusercontent.com/k2jp/abp-japanese-filters/master/abp_jp_element_hiding.txt )を追加するのをおすすめする。
トラッキング、ウェジェット、広告をある程度抑止できるChrome拡張。
Twitter、はてな関係のウィジェットだけブロックリストから外し、FBの(・∀・)イイネ!!だけブチ殺せる粋なアドオン。
パソコンの広告は比較的簡単にブロックできるけど、モバイルは難しい。
率直に言えば、これから書く対処法は気休め程度にしかならない。
だから、僕らを操っている広告への"聖戦"にそれほど興味がない人は、ここから先のエントリーは読まなくていい。
広告、トラッキング、ウェジェットをブロックするiPhoneアプリ。脱獄不要。
前出の『Adblock Plus』のAndroid版。
以前はGoogle PlayにあったのだけどBANされてしまった。
今は有志が野良アプリをアップデートして聖戦を続けている( https://adblockplus.org/en/android-install )
無数に存在するWeb広告ブローカー一社一社に「Cookie勝手に見んなボケ氏ね」とリクエストすることもできる( http://matome.naver.jp/odai/2136295595828806701 )
大変。でも現状ではどうにもならない。電博が支配するマスとは違う。ステークホルダーがあまりにも多い。
実は私、無料Webメディアで食ってる。だからこんなエントリー書くのは自分の首しめることになる。
構わない。
もう疲れたんだよ。ユーザーの属性、トラフィックの解析、ページをどこまでスクロールしたかまで分析する。
FBがパラメータいじってユーザーもてあそんだことニュースになったけど、似たようなことはどこでもやってる。
広告と大量消費社会のワンセットは、資本主義社会にとって必要悪なのだと思う。システムを維持するには仕方がないことなのだろう。
でも、だからと言って唯々諾々と広告が命令する通り消費にふけこんで良いのだろうか。僕らは消費者である前に人間だ。なんとしても人間性だけは護持しなければならないと思うのは僕だけだろうか。