はてなキーワード: 有用とは
学校で教える科目に三角関数が必要なのか、簿記は、プログラムは、ダンスは義務教育に追加すべきか。そういうエントリーが目端に映る今日このごろ。確かに今の学校教育には何かが不足しているような気がしないでもないし、過剰な教育によってあらゆる部分が中途半端になっているような気もする。
そう考えているとふと気づいた。そもそも「勉強のやり方を教える」という授業が不足しているのではないだろうか。
習ったことを忘れないようにするためには忘却曲線の知識が必要だ。学校側でも復習はさせているがそれだけでは時間が足らない。生徒たちの自発的な学習は必要不可欠だ。そうでないなら皆テストで100点を取っているはずだが小学校ですらケアレス以外の理由で酷い点を取る生徒がいる。彼らに予習や復習をさせる必要がある。だけど彼らはやらない。何故か、その重要性に気づいていないからだ。
予習複数の重要性を教えるのに「頑張りなさい」だけでは絶対に説得しきれない。そんなのは教える力のない教師の泣き言にしか聞こえないだろう。だがここで生徒と教師が脳科学の知識を共有したらどうなるだろうか?学校から帰ってきて10分勉強するだけで将来の勉強や居残りの時間が何時間も減少すると知ったら。確かにそこまでやっても勉強しない生徒はいるだろう。だが脳科学の知識を身に付けることで正しい学習方法に目覚める生徒も少なからずいるはずだ。
また長期的な学習スケジュールを立てることの有用性も教えるべきだろう。期日までに勉強が必要な量の概算を出す、それをカレンダーに振り分ける、学習の進行具合を記録して軌道修正をする、学習してきた記録を見て学習した事自体を誇らしく感じる。大学受験を終える頃には大部分の学生は自分でコレが出来るようになるのかもしれない。だがこれはもっと早いうちに身につけた方がいい技能、知識だ。大人になっても身につけていないなんて事になったらそりゃもう大変だ。これも隔週や月に1度でいいから生徒に方法論と有用性を教えて、それが身についているか確認をすべきだ。小学生にはまだ早いかもしれないが、高校受験を見据えた中学生には絶対に教えるべきだ。
既に学校では個々の教師が自主的にそういう話をしているという反論もあるだろう。だが、それはあくまで学校教育全体の管理から離れた教師側の自発的な活動でしかない。そういう授業をする時間を儲けるべきなのだ。くだらない総合的学習の時間とやらでも削れば教える時間は出来るはずだ。むしろ総合的な学習として「勉強・学習・努力・生活の仕方の基礎」を教えるカリキュラムを組むべきなのではないだろうか?学校が本来教えるべき物は学ぶという姿勢そのものなのではないだろうかと私は思う。学ぶという姿勢を身に付けるためには学び方を知ることは非常に重要なはずだ。
これは、友人に友人の元カノが会に来るという事が伝わっている前提だな。誰々が来るという事は伝えてあるとは書かれていないが、仮に伝えられていたとしよう。この状態でなんで欠席しないのかな?判断できないのかね。
増田の顔を立てて参加したとして、後から「少し考慮してほしい」だなんて批難するのかよ。他の友達に会いたいから来たとしても、この言い方は無いな。自分の過去を棚に上げた発言だ。気持ちにケリつけて来いよという話だ。こんな事、大人ならみんなやってるはずなんだが。言ったとしても「元カノいるし気まずいから次は少人数で集まらない?」くらいだな。
トラバした貴方は友達もいない人なの?ああ、それか区切りのつけられないストーカー見習いなのかな。
なーんて書いてみたが、友人の発言を受けて「寂しくなってしまった」とかいうどうしようもない結論にたどり着いている元増田もどうかと思う。恐らくトラックバッカーの貴方が思っているほど、有用な気付きを得ていないぞ。
元増田の書いた文はブクマカのようにも受け取れるし、トラバした貴方のようにも受け取れる。それに、友人はもっと軽い口調で言ったのかもしれない。いまいち判定できないな。まあそうなるとブクマカとしてトラックバッカーの貴方に言える事はただひとつ。
「とりあえず、みんなでご飯でもどうですか?」
やれることはAとBという複数の概念を組み合わせてCという新しい概念を作り出すこと。
小保方氏の場合は、その作り出したはずの新しい概念自体が偽り(詐欺)なのが明白だった。
仮に詐欺でなかったのなら有用であることは確かだったから、あれほどの大騒ぎになった。
一方、佐野氏は作り出した概念が偽りであるかどうかは見る人によって判断が異なる。
色を変えたり位置を変えたりしただけでも新しい要素を加えたという見方もできるし、そうでない見方もできる。
シンプルな構造である場合は特に、真似るつもりがなくても何らかの先行事例に似てしまう可能性が否定できない。
仮に詐欺的な行為がされていたとしても、それが明白とまではいえないということだ。
しかし、元々の発端を思い出してみれば分かることだが、佐野氏のオリンピックロゴのデザインは誰もが満足して受け入れるものではなかった。
つまり、佐野氏の生み出したデザインのについては元々、新規性が問題でなのではなく、それが優れていてるかどうかが疑われていたのだ。
ただ、優れているか否かの評価よりも新規性があるかないかという判断のほうが簡単にできる。で、あら探しが加速した結果が現在の状況なのだろう。
ベルギーの美術館の件から蟻の一穴のように噴き出したというのも否定できないが、あれを探し出したきっかけは「オリンピックロゴが気に入らなかった」からであって、逆ではない。
ただ、事がここまで暴露されてしまうと、どういう形で落ち着くのか想像できない。
少なくてもオリンピックロゴは撤回されるまで騒動は続くだろうし、佐野氏は…下手な事にならなければいいけど。
「デザイン業界がパクリの巣だ」という断罪をする人もいるだろうが、そのパクリの一番の被害者はパクられたデザイナーなのだから、その決着は業界内でどうにかするしかない。いずれにせよ、デザイナーは当分、戦々恐々として怯えながら仕事するしかないのだろう。
チヤホヤされたくて仕方ないから時折増田書きまくってどれか1つ当たれーとか2chやツイッターで釣り書き込みしていっぱい反応帰ってきたーとかやってるんだけどすぐに虚しくなるんだよね。
結局俺のこの「チヤホヤされたい」って気持ちは「自分の存在を人に認められたい」って部分から来ていて、その本質は自己の有用性を証明したいっていう欲求なのよ。
だからそれが真に満たされるには自分の有用性が証明されていると自他が強く感じられる環境に身を置くことじゃないと駄目な訳で。
つまり人にとって役に立つ行為でチヤホヤされて、その状態がある程度の期間維持されて初めて「俺は有用な人間だ。僕はここにいてもいいんだ」「おめでとう」「おめでとう」「おめっとさん」「めでたいな」「ペンペーン」になるんだよね。
だからさ、こうやって目先の人目を惹こうと足掻く行為は文字通り無駄な足掻きに過ぎないんだよね。
その時間を人の役に立てるようになるための訓練に使った方が絶対いいというか、そもそも仕事の休み時間にこんな事してないで次の仕事やそのまた次の仕事の事考えてた方がよっぽど有用性証明の近道というかね。
というわけで増田とか2chとか卒業したいんだけど中々出来ないんだなぁこれが。
なんでだろうね。
がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。
それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。
そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。
「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判を封殺することができる。
関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品を作りました。
アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。
うちの社員は毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給も会社です。
しかし、その結果として、クソみたいな映画やマンガや曲や小説やプロダクツが生産されてしまった場合はどうなのだろう。
Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物を批判する権利はないのか。
Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。
Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。
問いに対する答えはこうである。
A2. もちろん関係ある。
神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビのマラソンを思い出してみよう。
人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用な経験となるから」ではない。
ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。
真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。
俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。
Aさんが2時間かけて作った最高品質のプロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値を市場価値や世間的な評価に反映させるべきだ。
なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。
効率や品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。
がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。
考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体がドラマで、製品に組み込まれているんだよ。
だからがんばりへの評価と製品への評価を切り離すべきではない。
そろそろ大学院入試シーズンなので,聞かれそうな質問をまとめてみた.
質問は大きく分けて2種類ある.コンテキストに強く依存した質問と,テンプレ質問だ.
このうち,後者は仮に試験官が一切話を聞いていなかったとしてもできる質問だ.時間を掛ければ対策はできる.
よっぽど試験官の頭が良くない限りはテンプレ質問ばかり来るから,
テンプレ質問の準備をしておけば院試は恐れることはない.試験範囲が決まった筆記試験のようなものだ.
また,コンテキスト依存の質問も発表内容のみからできる質問と,そうではない質問に分けることができる.
『「手法にはナイーブベイズ法,決定木,SVMがあり,そのうちSVMを採用する」
とおっしゃっていましたが,なぜ他の手法を採用しなかったのですか?』
穴のない発表をすることは難しいので(試験官がちゃんと話を聞いていれば)
この手の類いの質問はよく来る.
論理的に行われる質問は,論理を押さえておけば容易に対策できる.
つまり,
あたりを押さえておけばいい.
例に挙げた質問に対しては,他の手法を採用しない理由,SVMを採用する積極的な理由を
きちんと答えられればOKだ.
これは試験官がその領域に対する知識を持っていて,かつ突っ込みどころがあるときに来る質問だ.
質問の種類としては一番対策が困難だが,これを綺麗に返すことができれば評価はうなぎ登り.
例えば,『「機械学習にSVMを利用する」とおっしゃいましたが,
ニューラルネットワークなど別の手法はご検討されなかったのでしょうか』
といった質問だ.もちろん検討しているけれど時間の都合上紹介しなかったという
雰囲気を出しつつ,隠しスライドでも出しながら説明すれば良い.
この質問に関しては,ひたすら基礎勉強・サーベイをして知識を身に付けるしかない.
時間がないのであれば不勉強を悔いつつ,このような質問が来ないように誘導しよう.
こういう質問だらけになることはまずないが,現実はそうではない.
逆に言えば,誰もが思いつくようなこのような質問に
うまく答えられない場合は評価はかなり低くなってしまうだろう.
いつでも明確な回答ができるように準備しよう.
上記新規性・有用性の変形だが,こちらの方がやや難しいことがある.
志望研究科が学際的な場合,特に前者の質問にはかなり困るけれど,
何となくそれっぽいことを答えよう.
時間が短い場合,これらを全て押さえた十分な発表を行うことは難しい.
ただし,これらについてはいつ聞かれてもいいように,
発表には使わなくてもスライドは用意しよう.
修士の院試であればどうせ研究は終わっていないのだから,絵空事を答えればいい.
このような質問をする人は大抵何もわかっていないので,何を答えても納得してくれる.
読んで無くてもタイトルを5本くらいは挙げて,
それらしい説明をしよう.
院試なんてものは通過儀礼なので適当に流せばいいと思うけれど,
これらの質問は学会その他にも応用できるので日頃から考えておくと良い.
また加減が難しいところではあるけれど,例えば先行研究を一切説明しないなどのように
あえて穴を作っておいて質問をそこに誘導するという手法もある.
明かな穴がある発表をしたことのマイナス評価を上回る場合は有効だ.
学位審査や院試といった場においては狙ってもいいかもしれないが,
今から5年ほど前、大学受験を1年半後に控えた頃、高校2年生夏、自分の人生について真剣に考えた。
その時期自分の成績はかなり悪かった。
中学受験でそこそこのレベルの中高一貫校に入り込んだこともあって、周りは受験一択で皆熱心に勉強していた。
小学校時代友達との遊びを何度も断っては半ば親に監視されながら勉強を続けていたストレスから中学時代はひたすら遊び呆けていて、その時期の積み重ねが全くない状態で高校数学や高校英語を前にして何も出来ずにいた。
手も足も出ないという状態は心に強い負荷をかける。
その上、まだ高校生ということもあり余計なプライドの高さからか、いまさら中学時代の勉強を必死になって取り返そうという気にもならないでいた。
周りがやる気を見せる中で着実に勉強から遠のいていく、その温度差が少しずつ自分を集団から引き剥がしていった。
それでも体は周囲の人間と同じ場所にあるので同じように生活をしていく。
彼らがどの大学を受けるのか、自らの将来をどうしたいのかを決める時が来て、自分も同じようにその未来を想像していった。
闇しか無かった。
勉強が出来なくなって急に周囲と離れ始めたのではなく、もっと前から周囲に溶け込めずに居た。
異物であった。
そんな自分が社会に馴染む方法は有用性を証明し続けることだけだったのに。
その頃の自分は学生の本分を全うすることも出来ず、本分から離れた学生同士でつるむ仲間も居なかった。
虚無。
何も無かった。
自分が今何者であるのか自覚する内に、自分の存在が少しずつ地面から離れていくのを感じた。
ゆっくりと宇宙の向こう側へと流れていき、虚空の中へと消えた。
何も思いつかなかった。
何を想像しても異分子である自分がそこにいる姿は薄らぼけた影にしかならない。
どう生きていけばいいのか思いつかない者に残された手段は死ぬことだけ。
そうして自分は真剣に自分の将来を考えた結果として、死ぬことを選んだ。
だから待つことにした。
そうして歩き始めた。
死ぬにふさわしいだけの惨めさを求めて人生の分岐路を何度も誤った方向に曲がり続けた。
それが愚かだったのはよく分かっている。
だけど考えて道を選べば更にドツボにハマることも知っていた。
だからそのまま進み続けた。
そして今ここにいる。
どうすればいいのだろうか。
誰かに救って欲しい。
英語力は中学レベルでかまわない。むしろ、低めのほうがいいのかもしれない。英語をスラスラ読める人がやっても作業っぽくなるだけかも。
何か適当な短篇集か、小説に興味がなかったらノンフィクション(これも短い話のつまったやつがある)、とにかく自分の興味のある分野の洋書を一冊選べ。なるべくなら読んだことのない、訳されたことのない未知の文章がいい。知っている作家の知らない作品。知らない作家の知らない作品。なんなら技術書や教科書でもいい。別に興味のない分野でもいい。おまえの問題だ。なんでもいいが、比較的短いもののコレクションがいいかもな。
おおまかなあらすじを適時メモにとって、気になったフレーズや一文をまるごと仮訳しろ。
最初の段落からして何の話をしているのか理解できない? あたりまえだ。小説ってのはそういうもんだ。最後まで読んだら、八割とはいかなくても六割くらいはわかる。それでいい。
どうしてもわからない単語や熟語があれば、辞書で調べろ。グーグル検索がいいかもしれない。辞書にはない俗語もわかるかもしれない。固有名詞には画像検索を有効活用しろ。
時間は当然かかる。安心しろ。試験じゃないから、わからないところを調べる時間はたっぷりある。脱線もあるだろう。目的を見失っていつのまにかwikipediaを熟読するだけになることもあるだろう。それでいい。ゆっくり読め。途中で投げ出したり飽きるのも自由だ。
時間はびっくりするほど早くすぎていく。
とりあえず根気がつづいたとして、一話分読み終わるころにはあらすじメモの山ができているはずだ。
ここまででだいたいのストーリーを把握できる。
もっとも、そのストーリーが合ってるかどうかの保証はできない。どうでもいい。よしんば間違っていたところで誰の害になるわけでもない。気にするな。
ちょっとした達成感だ。
あらすじを清書すると一定の満足感が芽生えて、別に逐一訳さなくてもいいか、という気分になってくる。
その気分に流されるのもいい。
誰も強制はしない。
イングリッシュ・ハイになってまだまだテンションうほほーいですぞ〜って人間だけ全文訳せばいい。
全文訳すと、とりあえず、ブツとして成果が残る。
成果は他人の目に晒したくなるのが人情だが、ちょっとまて。よほど古い文章でないかぎり、うっかりネットで公開すると権利者からクレームのつくおそれがある。気をつけろ。
とはいえ、ちょっとした物好きの友達に読ませるくらいは多分オーケーだ。
もっとも文学の密輸業者きどりで友達や家族にブツを渡したところで読んでくれるとはかぎらない、というか、まず読まれない。くじけるな。素人が訳したクソみてえな文章を読まされる身にもなれ。おもいやりが大事だ。他人に読ませるなら、ちゃんと読みやすいように推敲するのを忘れずにな。めんどうくさい? なら読ませなければいい。
さて、とりあえずおまえは未翻訳の文章を一話訳した。おまえはささやかながら、文化に貢献した気になる。実際はささやかな功績すらなく、完全な自己満足にすぎない。その感覚が大事だ。気分が大切だ。
おまえは次の話を訳する気分だろうか。
そうじゃないならその本を投げ捨てて別の暇つぶしを見つけよう。それか、また別の洋書をみつけてまた最初の一話だけ訳すのもいい。歌の歌詞でもいいな。
繰り返していけば、大雑把なメモがきにしろ、清書した全訳にしろ、ブツが積み重なる。
ペーパーの重量あるいはデータの容量の蓄積に反して、おまえの英語力はたいして上達しないかもしれない。
あるいはまったく上達しない。
■所要時間
2~3時間で読める
馬鹿でも読めるように情報量を少なくしているので、さくさく読める
■あらすじ
潜在的に常に女を求めている男と潜在的に常に男を求めている女の間でいかに知り合ってからスムーズにHまでもっていくかの話
誰に対しても使えるテクニックを紹介しているわけではなく、あくまでナンパされたら付いて行くような女用テクニック
■対象読者
彼女(将来の嫁候補)を作りたい人には不向き。多少は参考になる部分もある
リア充の女は読んで納得する部分も多いかもしれないけど、非モテ女は読んでも不快になるだけだから決して読んではいけない
■登場人物
若干いけ好かない感じだが、そこさえ気にしなければ
■効果
以下繰り返しの内容になるが、
彼女が欲しい人向けでは決してないが、無理にでも女性慣れする機会が欲しいとかであれば役には立つかも
SEXがしたいという1点のみであれば、風俗のほうがコスパはいい(食事代、時間、心の消耗など)
恋愛(ベッドに行くまで)の過程を楽しみたいという人にはそれなりに有用な最低限知っておくべき内容が書かれてあると思う
■感想
内容はそこまで深くないけど、とにかく読みやすいし、自分はそこそこ楽しめた
自分は最初からやくざ映画とか不良マンガを見るみたいな感覚で自分には縁のない世界の話を体験するって感じで読んだけど、なるほどな!とか納得する部分は結構あった
書いてある理屈はだいたい他でも書かれてる内容で目新しいことはないけど、ストーリー仕立てだからすーっと入ってくる
ただ情報量を(おそらく)わざと少なくしているので、そこまで大したことは書いていない
ブコメの
woodnotexx お友達だからブクマ、お友達だから褒めちぎる、お友達じゃないからこき下ろす、・・・そういうのをコミュ力って言うらしいですよ あとで読む
これ、全然違うでしょ。
単に金になるから。
まあ、そういう意味では社会における「コミュ力」により近い。特にイシキタカイ系の。
で、一番の問題はステマに通じるものだけど、良いものでなくても自分にフィードバックさせるためだけに相手を「褒める」こと。
それによって、他の人が騙されること。
今問題になってる某オリンピックのロゴを考えたデザイナーとかも、デザイナー同士で賞をあげ合う、と言う互助会。
http://ryotaroneko.ti-da.net/e7828075.html
それによって、知らない人達は「〜賞受賞者!」ということで凄い人だ、と勘違いする。
http://d-lounge.jp/blog/2014/09/7565
の様に、特定の新人賞を採ってると申し込み条件に入るのに、その本賞をとっても条件に入らない、という、明らかな意図的な物もある(今話題の人は新人賞をとってる)
この様に、いくら内輪で何らかの賞をあげあったり褒めあったりしても
外から見るとそれがまるで一般化されたもの、として見られることもある。
もちろん、はてブは一つのコメントでは誰だかわからない人がコメントしてるだけなので余り意味は無いが、
これが10人、数十人となっていくうちに、それだけの人が同じように褒めてるなら内容も正しいに違いない、素晴らしい物に違いない、と思ってしまう人もたくさんいる。
いまやお母さんどころかお祖母ちゃんでさえスマホを使うようになった時代だ。
逆に小学生でも持ってる。
一方でそれらに関する教育は一切ない。
だからこそ「ネイティブ広告」といった人を騙す様な手段が流行ってるのだ。
広告業界の人間は「PR」と書いておけば問題ない、書いてないネイティブ広告は悪だ、みたいな正義ぶってる阿呆もいるが、
「PR」と隅に書いてあったら広告だ、と認識出来る人間が実際のスマホユーザーのどれだけ居るか。
さらに言えば「広告」と大きく書いてあったとしても、その記事部分を見て「広告記事だ」と理解できる人間だって恐らく半数も居ないだろう。
なぜなら彼らは「広告記事」という存在自体を知らないのだから。
はてブを使うような人たちはそのような最下層の人よりは一歩進んだ人出はあると思うが、やはり大半は取捨選択をできる様な人ではない。
TwitterやFacebookに比べればまだましな傾向はあるが、ユーザーが膨れるにつれその傾向は薄れつつある。
それは仕方ないことではあるが、はてブ側のシステムとしてなんとか出来ないものか?
一つ出来るコトとしては、やはりブコメ数にカウントしない(新着、ホットエントリーに入れない)"ブックマークコメント"を作ることだろう。
ユーザーの中にはこれをホットエントリーに上げたくない、でも一言言わないと気がすまない、と言う人が多数いる。
また、上にもあるように、ホットエントリーに入って全てが賞賛コメントだと見た人が疑いを全く持たなくなってしまう。
そんな時に、明らかな反論や、正しい指摘があると、こちらとしても、あ、やっぱりこの記事はおかしかったんだ、あ、この部分やっぱり間違ってるよね、
とか、さらに間違いの指摘部分を自分で調べて、逆にやっぱり正しいとか、やっぱり間違ってるとか考えることも出来る。
が、反論コメントをブックマーク数にカウントしてホットエントリーに入れるのは明らかに間違っている。(本来、そのような間違った内容を否定するためのコメントなのに逆に広めるのに役立ってしまう)
なので、ブックマークの機能として、「あとで読む」とかそんな機能を追加してるひまがあったら、
「このブックマークはカウントしない」と言う機能を入れて欲しい。
「いいね」の代わりの「ダメだね」、というネガティブなカウントを導入するのが理想的だが、
これをすると、今度は逆にアンチによる攻撃の的になる可能性もあるのでネガティブカウントは危険かもしれない。
一方で、単にカウントに入れないだけであれば、少なくともそれ程詳しくない人から見れば、
賞賛コメントの数が減るわけではないし、一方で間違ってる、という訂正コメントを躊躇することなく入れられる。
はてなさん、ほんと、これ導入できませんかね?
みんな大好きPostgreSQL。
複数DBマルチテナントシステムを構築するなら忘れてはいけないコネクションプーリング。
大量コネクションを扱うなら都度forkやpre-fork式ではちょっと辛い、イベントベースが好ましい。
もうお分かりですね。pgbouncer1.6の話題です。
PostgreSQL界隈では有名なコネクションプーリングの実装が2つあります。 pgpool-II と pgbouncer。
ざっくり言うと高機能の pgpool-II に対して、軽量・大規模向けの pgbouncer という棲み分けがあると言えるでしょう。
pgpool-II は最近は日本の トレジャーデータ社の Prestogres ( https://github.com/treasure-data/prestogres ) という痺れるようなプロジェクトのベースとして採用されていることで名前を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。
pgbouncer は少し古いですが LastFM( http://www.lastfm.jp/user/Russ/journal/2008/02/21/zd_postgres_connection_pools:_pgpool_vs._pgbouncer )の事例が有名でしょう。Instagram も使ってますネ。
pgbouncerは現行のバージョンは1.5系で、最新は1.5.5です。1.6系は8月1日にリリースされ、複数DBマルチテナントシステムに向けた大規模な機能強化が行われています。
この1.6系では複数DBマルチテナントシステム開発者にとって嬉しい機能がたくさん搭載される予定です。本番運用に投入する前に一足お先にリリースノートを読んで夢を感じましょう。
本バージョン、2013年ぐらいからリリースノートは準備されているのにさっぱりリリースされなくて関係者をやきもきさせていました。(想像)
本記事では以下のリリースノートをもとにザックリ読み解いたものです。
http://pgbouncer.github.io/2015/08/pgbouncer-1-6/
・接続ユーザーやパスワードハッシュをDBからロードできるようになった
・プーリングモードの設定をデータベース毎、ユーザー毎に設定できるようになった
・データベース毎、ユーザー毎にコネクションの最大接続数を制御できるようになった
・新しいコネクション確立を避けるための DISABLE/ENABLE コマンドが追加された
・新しい推奨のDNSバックエンド c-ares が追加された
・設定ファイルに include ディレクティブを追加した
新しく以下のパラメータが追加された
1.5までのpgbouncerは userlist.txt というテキストに静的に接続ユーザを書かなければいけませんでした。
これは動的に接続先ユーザーが増えるようなマルチテナントシステムを構築するのに不向きという事です。
タイトルがすべてを物語ってます。柔軟にできますねぇ('∀`)
ただ、私にはちょっと有用な利用シーンが思いつかなかったです。
たとえば分析用ユーザーではトランザクションなんて使わないので statement モードにしてコネクションの消費を抑えたりできるという事でしょうか。
max_db_connections と max_user_connections という設定が追加されます。
テナント毎にユーザーを分けているような複数DBマルチテナントシステムにとって必須といえる機能です。
特定のユーザーのリクエストにコネクションをすべて占有されてしまい、他のユーザーにサービスできないという事態を避けることができるようになるでしょう。
特定のデータベースの新しいコネクション確立を抑止・再開することができます。
c-ares は名前解決の非同期化を行うためのライブラリです。c-aresは名前解決をブロックしないし、いろいろな方式の名前解決に対応している唯一のプロダクトとのこと。
名前解決をブロッキングしてしまうようではpgbouncerのような大規模向けシステムでは役に立たないのだというpgbouncerの強い意志を感じる。
というか、ドキュメントを見る限り pgbouncer は名前解決にかなりこだわりを持っているらしい。それだけそこが重要ということでしょう
(個人的には困ったことがないのでそこまでだわる理由はよくわからない。)。
UNIXドメインソケットで接続しているクライアントと、TCPまたはUNIXドメインソケットで接続しているサーバーでremote_pidを取得できるようになりました。
tcp serverの場合、pid はキャンセルキーから取得できる。(?ドキュメントから意味が読み取れず)
キャンセルキーとは何でしょうね。ちょっとリリースノートからは判断できませんでした。
pg_cancel_backend とかに使えるPIDだよという事なのでしょうか。
DBの数なんてもはや何台あるかわからない。ホスト名の解決はもはやDNSで行っておるよという皆様にとって必須の機能。
…なのでしょうが、ちょっとこの機能が必要となるようなシステムとはどんなものなのか、私も未経験なのでよくわからないです。
この設定は application_name_add_host=on にすることで有効となる。
今や接続元アプリケーション名がWebだとかBatchだとか区別できるだけで問題が解決するような時代ではない。
どのホスト(ポート)レベルで区別しないと。という事なんだろう。
「おお、Webサーバーから死ぬほど重いクエリが飛んでる、今すぐ調べないと!で、どのWebサーバーよ?100台あるんだぜ」みたいなときに助かりますね。
設定ファイルが大規模化してくると、切り出して整理したいという要望はどうしてもでてくるもの。
データベース毎、ユーザー毎に設定できる項目が増えてきたので必要になったという事でしょう。
以降はバグフィックスとかクリーンアップだとかで自分はあまり興味がないので各自読むように。
本番運用に突撃するPostgreSQL界の猛者の報告待ってます。
昔に思ったこと。
客先常駐のレガシープロジェクトの維持開発に10年くらい従事した。
優しい先輩がいた。けどその人、優しいばっかで他人に強く言うことができない人だった。いいひとってマンガとかドラマとかあったけど、もういいひとの典型。出身地のお国柄なのか性格なのか育ちがいいのか、とにかく他人に敵意を向けるようなことは決してない人だった。
顧客にコンサル上がりの賢しいイケメンがいた。彼は何かある度に、オーバーアクションで先輩を呼びつけ”説教”した。実際学歴高かったし頭も良かったと思う。けど彼のその行動は純粋な理論というよりは感情的だと思ったし、なんというかポーズだと思った。自分はこんなに賢いんですよ、下請けがバカなんで教育してんですよ、自分は有用な人間です的なポーズ。
先輩はすごく人に気を使う人だけど、バカでは決してなかった。資格も上位の資格をいっぱい取ってる。忙しい業務状況でだ。がんばってたと思う。
私はそんな先輩になついていた。とはいえ、私も賢しいポーズしたがりなので、かわいらしい後輩では決してなかったと思うけど。
客先常駐のレガシープロジェクトの維持開発は、納期にしても要員にしてもいろいろ厳しい。なんかあるとつまづき、困難な状況に陥る。
そんなとき。心の中でつい思った。”○○さん(先輩)がもっとしっかりしてくれたら、こんなことにはならなかったのに”。
・・・責めるべき問題は他にいろいろあったと思うのに。プロマネにしても社内営業(上司)にしても、火事プロジェクトの責任というならそちらを責めるべきだろうに。自分は心の中で先輩を責めた。
いいひとな先輩にむかついて、怒りの矛先を向けて納得した自分がいた。
就活中の東大生です。他大の人達と友達としては触れ合う機会はあったのだが実際にディスカッションなどをする機会はあまり無かった者です。
これまで「学歴なんて関係ないよ」と周囲に吹聴していた私も、他大生の現実を目の当たりにするにつれ学歴ってやっぱりフィルターとして割と有用なんだなって思いはじめました。
東大には頭良いなあと感心する人もいますが、ほとんどの人は凡人だなあと感じます。そのせいもあり「東大生だからって凄くないよ」と地元の友達などには言っていたのですが、いざ就活で例えばMARCHレベルの学生なんかとディスカッションをしてみると彼らのあまりもの論理性の無さや議論のできなさ、頭の悪さに愕然としました。早慶レベルでも高い割合でヤバいやつがいます。いわゆるクラッシャー。
東大生大したことないと思っていたけれど、まず「普通に話ができる」というだけでこれは財産なのだと思いました。増田や2chなどをご覧になっても分かる通り、この世には「普通に話ができる」人間がいかに少ないことか。
なので、ときには科学的に採用された過去の公式や定数が、再検証や新たな発見で書き換えられたりするわけです。
だから、今の科学の常識が将来には「間違い」と言われるかもしれない。ただ、今わかっている範囲でも、それなりに妥当で有用で世の中がそれなりにうまく回るから、みんな科学に割と頼っているわけですよ。それで、たとえば現代医学が頼りないと思っている人のなかには、民間療法などを試したりもする(ただ、一部の宗教みたく、信じることの強制は原則的にしてこないですね。白い眼で見られたりはするけど)。
民主主義だって「民主主義なんてクソだが、ほかにマシなものがないからやっている」と、英国チャーチル首相が50年以上前に話したことですが、民主主義のやりかた自体にも議会制から全員参加までいろいろありそれぞれ利点弱点があるし、民主主義自体が正しいとどこかから認証されているから採用されているのではないですよ。