はてなキーワード: 戒名とは
葬祭ビジネスなんてろくでもない。
「罰があたる!」「戒名にこれぐらい出さないと恥ずかしい!」「他の人はもっと寄付してくれてますよ!」
などと脅したり人を馬鹿にしてコンプレックスを刺激したりして今まで儲けてきた。
ほんと、高い壺を売る連中と根っこは変わりませんよ。
仏教界も高級車でキャバクラ通いをするような坊主を表立って批判しませんし、そういった汚れた体質も人々の仏教離れを進めている。
いちばんおぞましいのは仏教信仰が強い地域で葬式を行わないと村八分にされるという恐れですね。
そういう意味では仏教はオウム真理教などのカルト宗教と有害性はさほど変わらなくなる。異教徒への人権侵害を是とする姿勢なのですからね。
節子、それおくり名やない、戒名や!
どうしてまあまあ真面目に書いてるものより、適当な内容でそこそこクオリティで書いたもののが当たるんだ。さっぱりわかんねえや。
クトゥルフ神話TRPGがやりたい。ルルブは買ったけどCoCを知っててやってくれる友人は別売りでした。興味ある〜とだけ言ってくれる友人はいるにはいるけど、きっと興味あるだけでさしてやりたいとは思ってないだろう。
でも寂しいので布教する。うるせえなぁといい加減思われてるだろうなあ。難しい。都会に住んでればツイッターの相互さんに会うなり、あるのか知らないけど掲示板とかで募集するなりすればある程度集まってくれるだろうし、会いやすい。 CoC知ってる人の人数がそもそも少ない。世知辛いなあ。
宇宙葬ってのを知ってから、ものすごく心惹かれてる。いいなあ。
わたしが死んだらそれにしてほしい。通夜も葬式もいらない(と言ったら怒られる?かもだから、やるなら必要最小限で)。別に綺麗な花大量に飾ってくれなくていいし、特に熱心に宗教信じてるわけでもないからお経とか戒名とかもいらないし、墓もいいです。
そのかわり宇宙葬してほしい。ただむちゃくちゃ費用がかかるらしいね。そりゃあそうか。ロケットに乗っけて宇宙まで持ってくんだもん。持ってった後宇宙船ごと爆破でもするのか、誰かが丁寧に投げてくれるのかはさっぱり分からないけど、どっちにせよ宇宙まで持ってかなきゃなんだから。
書いてて改めて気になって、ささっと調べてみたら、わたしが気になった深宇宙とやらまで行ける「宇宙探検プラン」は200万近くかかるらしい。数字に弱いから読み間違えてるかもだけど、とりあえずメチャクチャに金がかかることは分かった。これなら普通に葬式してくれって言った方が安く上がるね。わはは。
いいなあ。宇宙ってすごく、心惹かれる。かといって「宇宙飛行士になって行ってみよう!」とか「大学や研究機関で研究してみよう!」という気はさらさらない。ただぼんやり、星や月を見てると、ああ、いいなあって思う。
旅行に行くと、自分の知らない土地ってこんなにもあるんだなあと改めて思う。自分の地元であれば、ここの角を曲がればこの店で、ここには友人の誰々の家があって、って分かるけど。日本内ですら自分の地元が分かるのが精一杯なのに、こんなに広いんだなあって思う。話が大きくなりすぎる上感覚的な話になって表現が難しくなるからここで割愛するけど、宇宙はそれよりもっともっと広くて……。
いや、広いのかすらもわからない。もしかしたら太陽系の外は案外適当に設定された世界で、実は宇宙というのはただの実験用の空間なのかもしれない。ありきたりな台詞だけれども、この世界や宇宙に比べたらいかに自分が小さい存在なのかと思う。
数百年や数千年後は、もしかしたら宇宙旅行が簡単にできる時代になっているんだろうか。人間の知り得ないことなんてなくなってしまっているんだろうか。それとも、数百年数千年後なんて存在しないんだろうか。
考えるとキリがない。
プラネタリウムなんかに行きたくなったけれど、田舎なので土日しか営業してない。し、機材はわたしが子供の頃から同じだろうからおそらく10年以上は前のもの。微妙なところだなあ。
再婚同士。
私的には、夫の信仰は尊重するけど、和して同ぜず。そんな感じ。夫もそれで良いと云っていた。……直前まで。
話は遡るけれど、義母の本葬のとき夫の息子(成人済み。私とは血縁も縁組もない)に、「正宗ですか?」って聞かれた。
普通、成人済みで家も出て行った息子が、父親の再婚相手(の実家)の宗教なんか、いちいち確認しないと思う……。正直ドン引きだったけど、葬儀の忙しさで正直すぐにそんなことはすっかり忘れてた。
それを思い出したのが、姑一周忌の直前。数十分前。
なので、
「お義母さんの形見分けとか、お義姉さん(夫の姉。僧侶の妻)からいろいろお手紙が来てたみたいだけど、私は信徒ではないから、お数珠とかは宗教的なものは受け取れないし、生前の縁も薄かったから、何もいただく気はないよ」
って話した。ついでに、
「私は信徒じゃないし、入信する気もない。お弔いだから参列するし、お経も一緒にあげるけど、信徒さんかって誰かに聞かれたら否定するよ。それは解ってね」
とも話した。
そうしたら夫が、
「ご受戒だけ受けて、戒名は貰ってないって今回は誤魔化す。戒名ないとうちのお墓に入れないから」
とか云う。
ねえ、それおかしくない?
何で宗教とかで、嘘つかなきゃいけないのよ?
別に妻が信徒じゃなくったっていいから、入籍したんじゃないの?
入籍して5年。ずっとそう思われてきたってことか?
なんかもうとにかく許せない。
もし今土下座で許しを請われても。頭蓋骨粉砕して【いとしきみこと】するまで、踵落としするレベル。
姉が僧侶の妻だからって、自分の再婚相手の宗教まで日蓮正宗にしなきゃなんねーのかよ。冗談じゃねーよ。
結婚前にお互い尊重するって約束したのは嘘かこの野郎。騙してやがったのか糞野郎。
だいたい、嘘で受戒だの戒名だのって、本当の信仰心を持って日蓮正宗の信徒やってる方に対し、すっごく失礼だろ。
何の落ち度もない真面目な信徒さん(夫にしてみりゃお仲間さんだ)に対して、私が無礼な振る舞いをすることになると、何故気づかないんだよ!
一人の信徒が(しかも僧侶の身内とか、信心の持ちようがかなりディープな人間)、非信徒に対しそれをやるってことは、日蓮正宗全体として、嘘OKってことと受け取るぞこのド腐れ野郎。例え方便ってやつでもな!
離婚を考える程ではないんだけど、信頼感がマイナスになってしまった。
この1か月、言葉にも態度にも出さないようにしてるけど、本当に辛い。
仏壇ブチ壊したくなる。
死なないと生きてる価値も見出せないとか
いつかできるかもしれないセックスにつぎ込んだ金の分だけ
欲求は満たせないだろうけどそのかわり戒名みたいなもんがもらえるじゃん
ランクがAだとかSだとか
スマホでアイドルに愛されてる度合いを100万とか200万で買えるものって感じじゃない?
買い方が一括じゃなくて自立分割で一口100円のいくらでも買えみたいか形なだけでさ
フェラーリよりもデミオのほうが乗り心地はいいし役立つけどなんか意味わかんないけどフェラーリかうわけじゃん
たいしてはしりもしないのに何千万とかいうお金だしましたステータスをだれかに洗礼名として
与えて欲しいんじゃないかなと思うよ
私自身がそうなのであまり意識したことがなかったし、一応伝統ある日本の宗教だとも思っていたのだけれど。
最近たまたま友人とその家族とそういう話をする機会があって、自分の出自としてうちは神道で~と
流れであまり深く考えずにそう話をしたのだけど、えっ、神道って何?という反応をされて戸惑った。
お寺が仏教で神社が神道ですよ、と説明したのだが、あまりピンと来ていないようだった。
そういえば周りにうちも神道だよ、なんて人に出会ったことがなかったなと思い、
サンプルが少ないのでそのおうちの教育が、ということもあるのかもしれないけど、
反応ありがとうございます。いくつか補足と返信をさせていただきます。
1. トラバもしたのですが、うちは
というわりとガッツリ神道の家なのですが、そういう人って少ないんでしょうか?ということでした。
広義の神道の信者は確かに多いと思います。みんな神社行きますし、神社本庁の信徒は1億人くらいいるらしいです。
2. お墓はよくわからないのですが、「~家奥津城」と書いてあったと思います。
葬儀で神主さんが祝詞を読んだときも「おくつきのみや・・・」みたいなことを言ってました。
うちはまさにこれでした。
他のコメントも全て読ませていただいてますが、やはりそういう家庭はそれほど多くないのでは、との意見が多いようです。
大変参考になりました。
昨日、祖父(享年93)の四十九日の法要があって、久々に実家に帰った。
法要が終わり、宴会場で食事をしているとき、和尚が眼鏡をずらして大泣きしだしてギョッとした。
そのあと、腰を上げて本家のおじさんと机越しに握手して、「もううち寺の味方は増田本家さんだけや...」
みたいなことを言って、肩を抱き合ってて、とにかく普通の雰囲気ではなかった。
そんな中、増田家が父に代替わりし、お布施の額が激減。すごく心細くなったという。
今回の祖父の葬儀では、父は2人しか坊主を呼ばなかったというのが「信じられない!」そう。
増田本家のおじさんは、常日頃から増田分家(集落に20軒くらいある)に対して
寺にお布施をするよう呼び掛けていて、
「うちは跡取りが婿でこのへんの人とは交流が乏しいから将来が心配だ」
本家のおじさんが和尚の立場に寄り添うような話をしたら、感極まって
「ああ、私より先に増田本家さんが亡くなってまったら、うちの寺はどうなるんだ」
と不安になって涙が出た、と。
食事に出席した分家のひとたちも、和尚の話を聞いてなんか笑ってるし、
「和尚さま、しかたがないなあww」みたいな感じで、その発言を許してる。誰も咎めることなく。
祖父は、私たちが子どものころ、朝夕お寺にお参りしてお墓掃除をする人物として集落でも有名だった。
お寺は、わたしと兄の集団登校の集合場所だったので、朝のお参りは、子供の見送りのついでだった。
寺までの道中、祖父から「あの和尚さまは偉い人なんだよ。礼儀正しくするんやよ」って言われていたので、
わたしも兄も、祖父の言いつけ通り、和尚を「和尚さま」と呼び、
そんなかんじで、祖父から尊敬するように教えられていた和尚から、この仕打ちかよ。
祖父は生前、この和尚から、「あなたはもう徳が十分だから、戒名のランクを上げなさい」と助言されていたらしい。
だがこの祖父は、なにかの機会ごとに2-3年に1回は、
「戒名のランクは絶対に上げてはいけない。一度戒名のランクを上げると、
子ども・孫にその経済的な負担を強いることになるから、絶対に上げてはいけない。
生きている間だけ世話してくれればいい」と言っていた。
「おまえらのお布施の額が少ないから不安になって泣けてしまった」みたいなこといわれないかんのだ。
いや、言いたいなら言ってもいいけど、本家ともなにしゃべってtもいいけど
二重に三重にどん引いた。
この間、生まれて初めて葬式に行ってきたのだけど色々初めての新鮮な経験をしたので、思ったところをなんのとりとめもなくつらつらと書き連ねてみたいと思う。
初めての葬式は母方の祖父の葬式だった。まあ葬式といってもそんな盛大なものではなくて、近い者たちだけで行う火葬式だった。祖父は半年前ほどに末期ガンで寿命宣告を受けていて、その死自体には何の驚きもなく、正直「やっとか……」という感じだった。というのも、祖父は数年前からいわゆるボケが始まっていて、祖母やたまに家を訪ねた母ともケンカばかりしていた。そして更にガンを患って入退院を繰り返し、同居して介護していた祖母は疲弊しきっていた。素直に死を嘆き悲しむ事ができるような祖父は、はるか記憶の彼方に埋もれていた。そんな状況だったから、なんだかとても薄情に聞こえるかもしれないが、自分にとってはその死の報せで特に悲しむということもなく、「これでやっとみんな楽になるんだな」という感想が一番だった。
そんなわけで、大した感慨とある種の現実味もないまま葬儀当日を迎えた。車で数十分の距離にある市営の小奇麗な火葬場は小高い丘の上にあった。火葬場に着くと早々に祖父の棺が運ばれてきた。自分達は炉の前で「最期のお別れ」をすることとなった。母が用意した白い薔薇と今朝書いたばかりの祖父への手紙を棺に入れた。狭い棺のなかで花に囲まれる祖父はまるでただ眠っているだけで、今にも起き出しそうに見えた。いよいよ炉の扉が開かれ祖父の棺がほの暗いその中へと消えていった。炉の扉が閉ざされて火が入ると付き添っていた僧侶が木魚を叩きながら経を唱え始めた。その瞬間、いきなり涙が溢れそうになり必死でこらえた。自分でも何故こうなったかわからなかった。ただその場の雰囲気に飲まれたのか、何か自分の奥底に眠っていた感情とやらが溢れたのかもしれない。その後、亡骸を焼ききるには一時間ほどかかるらしく、待合室で数少ない親戚との久々のささやかな会話をしながらその終わりを待っていた。
その間に先程の経を唱えた僧侶が来て祖父の戒名の説明をしていた。ちなみにこの僧侶へは、式全体のパック料金には含まれないお布施を直接渡すことになっていた。そのお布施の額も決まっていて、値段によって僧侶の人数だのが明確に決められていた。旧来の檀家制度に比べてみればある意味良心的なのかもしれないが、「ビジネスだなぁ……」としみじみ感じてしまった。しかし僧侶というのは大したもので、丁寧に戒名の由来を説明する姿や祖母や母の質問や相談に真摯に答える姿は、金銭の授受によって成立し提供されている一種の「サービス」であることを一切感じさせず、その清い心の底から自分達に同情と共感を向けてくれているように思えた。自分はここで初めて本当の意味での宗教の存在意義を見出したのかもしれない。ミッション系の大学に通っているので、講義で宗教の必要性や重要さ(キリスト教に関わらず)は訥々と説かれていたはずなのだが、懐疑的なところもあった。しかし、渡された戒名を眺めながら言った「これでじいちゃんもきっと向こうで喜んでるね」という祖母のありきたりのようにも思える台詞は、その疑念を実感を伴って払拭するような体験としては十分だった。
そして放送で祖父の名前が呼ばれ時が来たことを知らせた。その時自分は緊張していた。それはある叔父の言葉がきっかけだった。「じゃあお前たち、骨を拾うのも初めてってことだな」。それは自分達姉弟が葬儀に出席するのが初めてという話題に端を発し知らせられた衝撃の事実(自分にとっては)だった。その時は、骨は焼かれた後は影も形もないほど粉々になり、そのまま骨壷へ収められていくものだと勝手に勘違いしていていたので、まさか形が残っている骨を自らの手で拾わなくてはいけないとは夢にも思っていなかった。「あんまり形が残ってたらやだなあ……」などと考えながらいよいよ先程の炉の前に着いた。炉が開き、台車がゆっくりとこちらに向かってくる。その台車の上には軽石のような、なにか鉱石のようにも見える白い物体が載っていた。半ば逸らしていた目を向けよく見てみると、たしかに人の骨格をうっすらと思い起こさせる形をしていた。初めて人骨を目にしたが思ったより衝撃はなかった。二人一組になっていよいよ骨を拾い骨壷に入れる。自分の番になり、姉と一緒に恐る恐る遺骨を長い鉄製の箸でつかみ骨壷に入れた。一斉に骨を離した瞬間、骨壷のなかから乾いた音がした。もちろん骨はいくつもあるので、残りは火葬場の職員が手慣れた手つきで骨壷に収めていく。その時に「こちらは大腿骨です」とか骨の部位をいちいち説明してくるのだが、「そんなん言われても『へえ、これが大腿骨なんだ! 』以外どう思えっちゅうねん」と心のなかでツッコミを入れていたところ、母が「こんなに丈夫そうで、骨格は立派だったんだね」などと言い出し祖母もそれに同調し、「まさかこんな形で故人を偲ぶイベントが葬式にあるとは……」と少し興味深く感じてしまった。その後も骨は骨壷に収められ着々と骨壷の中身はかさを増していくのだが、途中で「どう考えても骨が骨壷に収まりきらないぞ……」とその場に居た皆が感づき始めた頃、不意に、「このままでは収まりきらないのでお骨を少し砕きますね」という声がかかった。その刹那、その職員は箸でバリバリと骨を砕き始めた。それはもう容赦なくだった。粉になった遺骨をさらさらと骨壷に収めていくぐらいだろうと考えていた自分にとっては、かなり印象的な光景になった。一緒に骨を入れた姉と終わった後に「あんなにバリバリ砕くとはねえ~」と少し笑いあった。式を終えた帰りの車内で骨壷を抱えながら「お父さんもこんな中に収まっちゃった」という祖母の気が抜けたような言葉には、何とも言えない寂寥の念を感じさせた。
なんだかんだ書いてきたけど、結局人が身近な人の死をどう認識して受け入れていくのか、そのプロセスのために何が必要なのか、とかそういったことが伝統的な儀式の中には組み込まれてるんだな、という当たり前のことを認識させられた。戒名とかそのために何万も金払うのとか無駄だろwとか思ってなくもなかったけど、単なる損得勘定では考えられないこともあるということも分かった。そして終わってみるといろんなことを学んだ気がした。どうでもいいけど遺骨はさらさらの粉になって出てくるって勘違い、小さい子供が魚は切り身で海を泳いでると思う勘違いと似てるなって思った。ほんとにどうでもいいな。おわり。
大好きなじーちゃんが死んだ。
息を引き取ったのは先週だったけど、葬儀場の予約が取れなくて、結局今週末まで自宅で安置する事になってる。
ばーちゃんが認知症ってこともあって、同居してるおじさんもずっと見てられないってことで、孫の俺が泊まり込みで世話してる。
認知症っていっても、徘徊するとかそういうレベルではなく、数分前、数時間前、数日前の記憶が全くなくなる程度のものだけど、
葬儀に使う写真やら、毎日来る親戚への対応やら、戒名やら、墓地やら、事務的な準備でおじさんのサポートをしている。
私の母はもともとヒステリー持ち?というかADHDぎみの所があり、ここ数年は伯父と認知症の祖母と3人で揉めていた。
冷静に話しをまとめられるのは私だけだということで、毎回仲裁役というか、方針決定や意思決定をしているのだけれども、
今回もその仲裁役として、孫である私が毎日世話することとなっている。
父親は長くから海外勤務で別居状態が10年以上続いているため、サポートは期待できない。
母が葬式の準備や認知症の祖母の対処で、伯父、祖母で怒鳴りあいになるたび、仲裁してたのだが、今日、遂に私が切れてしまった。
もちろん母親のヒステリーに拍車をかける結果になり、いい歳して母親に頭をグーパンで殴られてしまった。
伯父の仲裁もあり、落ち着いて皆で話し合ったが、相変わらずばーちゃんは意味のわからないことを言っているし、
母親は、私は何も悪くない。私は何もできない人間なのに家族であるお前が優しくしてくれないのは酷い という主張。
落ち着いたあと、思ってること話せって言われたから、
母がヒステリー起こすと、私が幼い頃母が包丁を持ち出した事が思い出されて、辛いと伝えた。そしたら、
私だって、受験期のお前に殴られた事あるから、それでチャラにしろと言い返された。
うーん、反抗期の子供の態度と、小学校低学年生に包丁持ち出すのって、イーブンなのかなーとか思ったけど、言い返せなかった。
明日も来るのかと聞かれ、
じーちゃんの為だけにも、俺は投げ出さない
と呟いたら、
私の為ではないの?と泣く始末。
もう理解不能。
仕事も行けず、俺もストレスがたまってきてしまっていて、なんか書き出さないと落ち着けないから書いてみた。
読み返してみたけど、結局は、大変だったんだねって言って欲しいかまってちゃん丸出しだし、自分クソだなってなってる。
母親も母親で辛いはずなのに、それをカバーしてあげなきゃいけないんだろうなーとか思ったりするけど、
なかなか、難しい。
今日は一旦帰宅することになったけど、明日もばーちゃんの面倒で揉めるだろうし、事務仕事残ってるし、
母親に、逃げ出したと言われるのが嫌だしなー
平成28年3月14日、特別養護老人ホームに入所していた認知症の叔母さん(父方)が亡くなりました。齢90歳。
叔母さんからみて、兄の子である私がひとりでこの叔母に関する全てを執り行ない、総額42,360円の支出のみで完璧に満足のできる葬儀が出来ました。
本日様々な手続きを含めて全てが終わったので記録として書いておきます。
もしかすると家族葬の費用をかけずに行いたい方には参考となるかも(?)しれません。
隣接した岐阜県に私は現在居住しています(実家には車で高速道を使って約2時間30分の距離)。
老人ホームに居たのは私の父の妹で、結婚はしていましたが旦那は既に他界、子供は居ませんでした。
旦那の両親も兄弟も他界して、その旦那の兄弟には子供が居る模様(不明)。
叔母の兄弟は3人。上から順に姉(他界)、私の父(他界)、叔母。他界した姉さんには女1人と男4人の子供がいます。叔母さんから見て、その5人は私と同じく姪とか甥にあたるわけですが、今も健在。 姪とか甥は全部で6人居てそのうち1人が私というわけです(私が最年少)。
叔母は旦那の他界後に体調を崩して富山県内の老人ホームに入所しましたが、その時に保証人となっていたのが私の父でした。
父の他界後は母が時々面会に行っていましたが、母は高齢で運転免許もないので、私が父の後を引き継ぐ形で叔母の保証人になっていました。
入所後は月に1回くらい母と私で施設に面会に行く程度。従兄弟や友人が面会に来たという話は施設の職員の方に聞いてもほぼ皆無。
そんな叔母さんが「食事を充分に摂れなくなった」と施設から連絡を受けたのが今月の初め。
施設に行くと、「食事が自分で摂れなくなったので"胃ろう"にしますか?それとも"点滴処置"を希望されますか?またはこのまま看取り介護に移行しますか?」と選択を迫られることに。
"胃ろう"なんて造っちゃったらまた数年生存してしまうかもしれません。それで元気になるのであればいいのですけど、既に認知症が悪化していて先はありません。点滴したとしても数週間生存が延びるだけです。施設の順番待ちの方も沢山いますし、これ以上税金が叔母さんに使われるのはかなり躊躇われます。
「看取り介護にしてください」と、迷わず伝えました。この時点で全て自分の責任と判断で進めることにします。
さて、ここで叔母さんの余命はあと2週間程度であろうと推測。そうなると近いうちに葬儀の準備が必要となります。
以前私の父が亡くなったときには普通に葬儀を行いましたので150万円ほどかかりましたが、叔母さんは長く施設に入っていましたし、面会者も私と母以外に全くいませんでしたから家族葬で充分です。なお、叔母さんは認知症でありながらも面会毎に「私が死んでも葬式は要らないからね」といつも言っていたのですけども。
まずはネットで検索してみます。業者を使うと直葬(火葬のみ)で10.8万円とかのプランもありましたが、叔母さんが以前から檀家であるお寺が存在していることを聞いていましたし、せめてそちらのお坊さんにお経だけは読んでもらおうと考えました。
(激安のプランって結局「霊安室別レンタル時間料金」とか、「搬送は10km以内でそれ以上は激割り増し料金」だとか、「エンゼルケアは完全別料金」とかどんどん高額にならざるを得ないシステムなので要注意です)
次にネット検索で棺を購入します。直葬セット6点セット(棺(折りたたみ式)、白布団、仏衣、骨壷6寸、骨箱、顔あて布)というものが送料込み27,600円。早速注文して実家に送ってもらいました。amazonでも18,000円とかで棺が売っていましたが(笑)、実家に大きな棺をそのまま何日も置いておくのも嫌でしたのでそちらの折りたたみ式のものを選択。
その後は私も普通に職場で仕事をしていましたが、「叔母さんが亡くなったら自分が喪主となる予定ですのでその時はすぐに休暇ください!」と職場ではアピールをしておきました。
そして、3月14日17時すぎ、施設から「亡くなられました」と電話がかかってきました。私のスイッチが入ります。
すぐに実家近くのレンタカー屋さんに電話し、ハイエースバンを予約。死亡から24時間は火葬することが出来ないため、その翌日17時ではすでに火葬場は時間外となります。ですので、火葬はさらに次の日になるはずだと判断して48時間借りることにしました。
車で帰宅途中にレンタカー屋さんに直行、実家に帰ったときはすでに21時を廻っていました。
借りたハイエースバンに届いていた棺一式を載せ、母と一緒に老人ホームに向かいます。
ところで、以前父が亡くなったときに家族の前で葬儀屋さんが身体を拭いたり仏衣を着せたりするのを私は見ていたのですが、当時その行為にものすごく違和感を感じていましたので、次に自分が執り行う葬儀の場合は全部自分ひとりでエンゼルケア(死後の処置・湯灌)や納棺を行おうと心に決めていました。
22時頃に施設に到着。職員の方に「私がエンゼルケアをしますので部屋は私一人にしてください!」と宣言し、「葬儀屋さんは呼ばれないのですかっ?!」と職員さんに驚かれつつ、エンゼルケア中は母にも外で待機してもらいます。
叔母さんはずっと食べていなかったので排泄物はほとんどないはず。身体を拭き、準備しておいた紙おむつを履かせました。あとは購入した白装束を着せて手を組み、数珠を持たせます。
お化粧もしてあげました。アイラインを引き、チークを入れてリップも塗ります。
叔母さん、とても可愛くなりました。お化粧なんて施設入所してからしていないもんね。
亡くなってはいますが、ちゃんとお話をしながらお世話出来たことが私にはとても満足でした。
痩せて小さな方なのでなんとかお姫様抱っこで棺に収めます。「終わりました!」施設職員の方々に手伝ってもらい、棺をハイエースバンに載せます。法的には死亡診断書があれば車に載せたままどこに移動してもOK。
荷物は後日取りに行くことを伝えて実家に帰宅。ホントは棺を一時家に入れてあげたいところですが、私一人の力で棺を移動させることは到底無理なので、そのまま毛布を棺に被せてハイエースバンを霊安室の代わりとさせてもらいます(汗)。
寒い時期だからよかったのですが、夏だったらドライアイスの購入が必要ですね。
翌日、朝一で市役所に行って死亡届を提出し、火葬許可証を発行してもらいます。次の日の午前10時に火葬予約が取れました。
早速、叔母さん本人が檀家だというお寺に行って、お坊さんにお経を読んで頂くためのお願いをします。
「叔母さんが昨日亡くなられました。明日10時から火葬します。お骨になったら都合のいい日にこちらのお寺に持ってきますので、その時にお経を読んでいただくことは出来ますか?大変失礼かもしれませんが、お布施の予算は3万円です!」
あらかじめお布施の予算をお坊さんに宣言してしまう私も私だと思いますけども、どこまでやってもらえるのかが全く解りませんし、あとで揉めないためにも仕方がありません。
住職のお坊さん、その唐突なお願いと内容に大変驚き、しばらく唸って考えていましたが、「わかりました。それでは、明日直接火葬場に出向きますので、お葬式としてのお経をそこで読ませて頂きます。お骨になったら、骨壺を持ってもう一度お寺に来てください。」と提案していただきました。
これでお坊さんの手配ができました。本来、枕お経(?)と言って火葬前にお経を読むこともあるようですが、お葬式としてそこで読むのは初めてとのこと。
ここまでで、この日に行う調整は全て終了です。老人ホームに挨拶に行くと、施設長さん(高齢の女性です)が応接室に通してくれました。
昨日からのお話をしたところこれまた大変驚かれ、「私もそうやって家族にやってもらいたいわ!」と感動されました。何でも、今の人達は全部業者(要は他人ってことです)にお金を払ってやってもらうのが普通で、「昔はそういうことは全部家族でやったのよ・・」と全てお金で解決して他人事のように進めてしまう現状を嘆いていらっしゃったのが凄く印象的でした。
帰宅して翌日の葬儀のための喪服を母と準備。ここで叔母さんは亡くなってから2日目ですけども、ハイエースバン霊安室にはあと1晩活躍してもらうことにします(汗)。
翌日、母と一緒に棺を載せたハイエースバンで火葬場に行きます。寒い時期なので、ドライアイスがなくとも車内に全く臭いはしませんでした。
火葬場の玄関に車を横付けし、火葬場の職員さんを見つけて「棺を降ろすのを手伝って頂けますか?」とお願いします。職員さん、承諾はしていただいたものの、何か怪訝な表情。
「葬儀業者の方?」と聞かれて「いいえ。家族です。自分で持ち込みました」と言ったところまた大層驚かれて「経験があるのですか?」「いえ、全くありません。何事も初めてですから教えてください」と答えるとさらに周囲の職員皆驚いている様子(←なぜそこまで毎回毎回皆さん驚くのか未だに全く解っていない私)。
そういうやりとりをしているうちに、お坊さんが15分前に到着。棺の前でお葬式(告別式)としてのお経を読んで頂きました。お経がめちゃ早口です(笑)。内容はわかりませんけど、それなりのお経だったのだと思います。10時ピッタリに読経終了。さすがプロですね。
火葬が終了するのは11時50分とのことだったので、それまでの時間を利用して、棺を降ろして空になったハイエースバンで老人ホームに向かい、残っていた荷物を引き取りに行きました。
お礼やら挨拶をして11時30分に火葬場に戻ると、職員さんが既に玄関先で待っていて「もう終わりましたので収骨に来てください」とのこと。
収骨は別室で行なわれます。通販で購入した6寸の骨壺は全骨収骨にはピッタリの大きさでした。骨箱に壺を収めてお寺に向かいます。
お寺に着くと、そのまま壇上に上げてお経を読んで頂きました。15分くらいでしょうか。檀家ってことで、壺に戒名?を書いて頂き、そのままお骨は預かってもらうことになりました。もしも拒否されたら散骨でもしようかと考えていましたけども。
「これで全部終わりました」とお茶を出されて母と一緒に一安心。(お坊さんが関わったのは車での移動を含めて約1時間程度)
住職に「今までこのような葬式をされたことはありますか?」と聞いてみると、「以前1回だけ、身よりの無い人に対してお経だけというのはしたことがありますが、こういうのは初めてです」とのこと。うん、そうなのですね。よほど珍しいのですね・・、まあいっか。
お約束どおり3万円の入ったお布施の袋を渡し、お礼を言って今度は近くのリサイクルショップに先ほど施設から回収した大量の衣服やキャビネット家具等の荷物を持ち込みます。「全部置いて行きますが、お金要りませんので処分もいいでしょうか?」との条件で交渉成立。
そのまま帰りにレンタカー屋さんに寄ってハイエースバンを返却。母と歩いて実家に帰ります。途中でお昼ご飯。
さて、火葬の手続きで前日に市役所に行ったとき、年金手帳や国民健康保険証等の返却等は除籍謄本が出来る1週間後でないと事務処理は無理だと聞いていましたので、私はここで一旦仕事のために岐阜の自宅に戻ります。
葬儀を執り行った連絡を先の5人の従兄弟に通知します。以下の内容でハガキを送付しました。
……………………………………………………………………………………………
叔母 ○○ ○○儀 かねてから特別養護老人ホームにて療養中でございましたが
ここに謹んでご通知申し上げます
葬儀におきましては 故人の生前の意志により 誠に勝手ながら家族のみにて執り行いました
本来ならば早速申し上げるべき処でございましたが ご通知が遅れましたことを お赦しください
生前中賜りましたご厚誼に心より御礼申し上げ 失礼ながら 書中をもってお知らせ申しあげます
〒○○ ○○-○○
○○ ○○
喪主 ○○ ○○
……………………………………………………………………………………………
一週間後、休暇をとって実家に戻り、市役所と年金事務所に行きます。この年金の手続きを行うため、あらかじめ私の居住地で自分の住民票(家族全員)、戸籍抄本を取得しておきます(これがないと叔母との関係を証明できない)。
また、生計同一関係に関する申立書(遺族年金・未支給・一時金)※配偶者・子以外が請求するとき っていう書式が必要となります。直系家族ではないので、関係があったということを第3者が証明するためです。理由は「毎月面会して日用品などを援助していました」とかでいいみたい。証明には老人ホームの施設長さんの名前と印が必要だったので、FAXしてあらかじめ返送をお願いしておきました。
市役所で取得するのが叔母の住民票の除票、叔母の除籍謄本、私の父の除籍謄本。返還するのが叔母の後期高齢者医療被保険者証(国民健康保険証)。これを返すと葬儀費用として3万円が支給されますので、棺とレンタカーの領収証を提出します。あとは介護保険の保険証や障害者手帳、印鑑登録証なども返却。自分の預金口座を通知します。
次いで年金事務所に行き、叔母の住民票の除票、叔母の除籍謄本、父の除籍謄本、私の住民票(全員)、私の戸籍抄本と準備しておいた生計同一関係に関する申立書を提出。これだけ揃わないと、叔母との関係を証明できないとのこと(謄本等に祖父母の名前が書いてあることで関係を確認)。ここでも自分の預金口座を通知します。
叔母が亡くなるまでの1ヶ月程度の年金が支給されるのですが、凍結されてしまった叔母の口座では入金できないため、私の預金口座にしないといけないのです。
ちなみに、こんなこともあるだろうと以前叔母の口座はネットから操作できるようにしておいたので、残っていたわずかな預金は凍結前に私の口座に振り替え済みなのでした(笑)。
これで叔母さんの葬儀と様々な手続き全てが終了しました。実際に私が動いたのは亡くなった日の夕方から葬儀終了までの2.5日間の間と、1週間後に市役所等の手続きに使った1日間の計3.5日間のみ。
直葬セット6点セット 27,600円
合計 72,360円、市から葬儀費用30.000円が支給されるので、
葬儀支出総費用は 42,360円 ←後日支払われる日割りの年金支給分で完全に相殺される予定
そして最後に 叔母さんのご冥福を心からお祈りして終了させていただきます。
合掌
最近年寄りが増えすぎて若者に回る金が減っており、日本の未来がどんどん塞がっていく閉塞モードになっている
ここは姨捨山で社会のフレッシュさを保っていた日本のうるわしい伝統にたちかえり、年寄りが楽に死ねるように環境を整えなければならない
年齢で開始を決めると現在のように猫も杓子も長生きするようになったら増える一方だ。しかもその対策で支給開始年齢をちょっとづつわけのわからない基準でズラしたりすることになる。支給目前で先延ばしされると当の老人にも不公平感がつのってしまう。そこで国勢調査の人口比で上から数パーセントになるように支給開始年齢を決定する。支給する老人の数が減れば現役世代が支払う年金の額も小さくなり、年金納付もはかどる。
老人医療費を無料にするから老人が病院に押し寄せ、長生きしてしまう。さすがに問題になり老人からも医療費をとるようになったが、一割とかでは手ぬるい。一気に六割負担にし、病院に行きにくくすれば、老人の数も事故や病気で減りやすくなる。老人医療費が減れば、現役世代が支払う国保料も安くなる。
3 安楽死解禁
それでも医療の発達でなかなか死ねない老人もいるだろう。ピンピンして長生きならうれしいが、寝たきりで長生きしトイレも風呂も人の手を借りねばならないのは生き恥を晒すようなものだ。そこで安楽死を解禁する。といっても毒薬をつかって殺す手段を整備するのはあまりよろしくない。昔は寝たきりになった老人はしばらく放置しておけば勝手に死んでいた。これをシステマティックにしよう。寝たきりになった老人が安楽死を選択すると、即身仏ホームに送られる。即身仏ホームでは段階的に食事を減らし、断食に持っていき、気持ちよく餓死できるようにする。即身仏ホームで死んだ人は、宗派によってはいい戒名をもらえる。
「好きなバンドにお金を落とそう!」という風潮が苦手 - サササササーカス・ディディディディディスコ
上記記事を読んで、そういえば…と思い出したことがあるんで書いておく。
(別にお寺とお布施とか戒名高すぎィ!みたいな話は出てこない。申し訳ない)
「好きなバンドのためにお金を使おう」といって、ファンならなんでもかんでも買うような同調圧力はどうなの? という話だと理解している。
基本的に私は、その趣旨に同感の立場であり、音楽だけではなくあらゆるサブカルチャーに共通の問題だと感じている。
「好きなものが継続してほしいから金を出すんだ」というスタンスが間違っているとも決して思わないし、
実際そういうお金の使い方をするファンのおかげで生き延びている作り手やコンテンツはいくらもあるだろう。
しかし、そういった「お布施」的な金の使い方の先に、「作り手と消費者の馴れ合い」があり、
さらにその先に待っているのは、なつかしの「男性との交際が発覚し、丸坊主になって動画をアップしたアイドル」の姿ではないかと思っている。
上記記事の裏返しにあるのは、
「そのモノ(音源、グッズ)の魅力如何にかかわらず、その人(作り手)のためにお金を支払う」という態度だ。
これは、たとえば「推しアイドルを選挙で上位に上らせるため、同じCDを何枚も購入する」という、一時期盛んに喧伝されたAKBファンの姿と重なる。
同じシングルを何枚も購入するというのは当然、そのモノの価値のためではなく、その先にある人のためである。
作り手が、「消費者はこのモノにお金を払うのではない。この人のためにお金を払うのだ」と思った瞬間、
そこにはモノをすっとばした「私のこと好きだったら、払ってくれるよね?」「もちろん君のことが好きだもん、払うよ」の馴れ合いの関係が生まれるのではないか。
その、「作り手と消費者の馴れ合い」が最悪の形で出たのが、例の「AKBの一人がスキャンダル→丸坊主で謝罪」だったと思っている。
あの時は随分騒がれたが、いちばん唖然としたのは、あのあとの秋元康の言葉だった。
明文化して「恋愛をしないこと」と定めた規約はない、のだという(実際には契約書があったとかなかったとか言う話もあるが、ともかく秋元康自身はそういっている)。
しかしながら、AKBのアイドルたちは恋愛が発覚すると、脱退したり、他グループに「左遷」されたり、研究生に「降格」されたりしている。
そしてそれを、消費者も、アイドルたち自身も、当然の事態として受け止めている。
消費者たちはCDという「モノ」に対してお金を支払っていない。
まったく同じたくさんのCDという「モノ」には、支払ったお金分の価値を感じていないのだから、それ以外の「対価」を求める。
その対価こそが、「俺たちのために彼女は『普通の女性』ではなく『アイドル』でいてくれる」「彼女は処女であり特定の男と恋愛などしない」というものだ。
私は、アイドルファンが、アイドルに恋人がいてほしくないと願うことを否定しない。
「誰にでもあって当然の感情」ではないが、「そうなってもおかしくない感情」であるとは思う。
だから「スキャンダルがあったからファンをやめる」のも、アイドル側が「商売的な戦略として恋人がいない体裁を繕う」のも否定しない。
だがしかし、金を出したからといって、消費者が「私生活においても恋愛しちゃいけませんと言える権」を買えるか、
といったら、それは、絶対に、まちがっていると思う。
そんな商取引は成立しようがないし成立してはならない。ただの責任を薄めた人身売買だ。
だが、AKBに関しては、その商売が成立しているかのような錯覚を、消費者にもアイドルたち自身にも与えていた。
その対価を提供できなくなった者=スキャンダルのあった者に、「左遷」「降格」「脱退」といった実際的な処分を与えることによって。
これこそが、消費者と作り手の「馴れ合い」が行き着く、最悪の形だ。
作り手は消費者が求める「本当の対価」を知っていた。
そして、CDにお金を払っている形式をとりながら、それ以外の――本来ならば差し出してはならない――対価を、暗黙裡に差し出していたのだ。
モノにお金を払ってもらうことを放棄し、人にお金を払ってもらう結果、その人の自由や私生活や主体性を差し出すしかなくなったのだ。
そして、「お金を受け取るだけの対価」を失ったアイドルは自ら丸坊主になった。
彼女はライブをこなし、CDで歌っているだけでは、お金をもらえない。
彼女が恐れたのは、ファンが減って選挙の順位が下がって、という、正当な資本主義的淘汰ではない。
もっと根本的に、AKBであることとは私生活を対価として差し出すことであり、
それを怠ったことが発覚したら、AKBの一員としてやっていく資格を持たない。そう、彼女自身が考えたゆえの事件ではなかったか。
「モノ」ではなく「コンテンツを生み出す人」にお金を支払うというのは一見理想的な消費行動だ。
アイドルも、消費者が先に言ったような「対価」を求めるのでなく、アイドルと言う「夢」に対してお金を支払うのなら、彼女は坊主にならずにすんだだろう。
「俺たちが支えている」「俺たちの金こそが彼女のためになる」という幻想。
しかし、実際には、消費者たちは「夢」だけでは満足せずに「対価」を求める。
「(金を出した自分の)理想どおりであれ」と求める権利である。
わたしの、理想どおりの存在であってくれ。理想どおりの作品を作ってくれ。
そして、金を出して支えてきたわたしには、「それを求める正当な権利がある」……という、幻想。
それが幻想ですめばいいのだが、AKBの例のように、作り手の側がその求められる「対価(=消費者にとっての理想)」を鋭敏に察知し、積極的に提供しようとしたならば。
そのとき、「馴れ合い」はたちまち対価という名の鎖になって、作り手を縛るだろう。丸坊主になったアイドルのように。
そして、ファンに対して真面目で真摯な作り手ほど、その傾向は高くなる、…かも、しれない。
対価のための「消費者の理想」ばかりが追い求められ、「作り手の主体性」は死んでゆくんじゃないだろうか。
勿論、すべての人が、「それ以外の対価を求める」といういわば暗黒面に落ちるとは思っていない。
はてブで上がってたこのページを見て、俺も最近爺さんが亡くなった時に葬儀のお手伝いをしたので忘備録がてら書いてみる。