はてなキーワード: 恩恵とは
みんな「女」が自由意志を剥奪されるっていうありえない仮定をしてるけど、普通に女性は自由意志を持ち続ける前提にして、そこにシステムがどう貢献できるか考えればいいんです
たとえば金と権力はあるけどそれ以外どう見ても魅力のない男に美女が寄っていくパターンが世の中にはありますね?あれは脅迫されてるとかでなければ自由意志でしょう
たとえ人格的・肉体的魅力がカスでも、トロフィー的魅力があれば選択肢に入れてもいいと考えるタイプの人間は存在するものです
ところで金とか地位とか名誉とか特権というものはまさに「お上がシステムとして与えられるもの」です
さすがに弱者男性に金や地位を与えたら強者男性になるだけなのでやるべきでないでしょうが、何か代替になるような概念を公共事業として創出することができれば、あとは市場原理に基づいて自然に人々が流れていくと期待できます
たとえば障害者介助のボランティアを行えば道徳的な学生とみなされ進学・就職で有利になるように、弱者男性と結婚すれば進歩的な女性であるとみなされ様々な優遇を受けられるようにするというのはどうでしょう?
優遇の内容は金銭的援助でも公務員試験の評価ポイント加点でも選挙権2倍でもなんでもいいので各自適当に考えてください
もちろん強制ではないので自由恋愛のメリットとのトレードオフで好きな方を選べばよいし、恩恵を失ってもいいなら離婚も可能とします
多くの人は自由恋愛の方を選ぶでしょうが、「私のスキルでは他にいい職もないし、安月給でも働けるだけまだマシか」と判断する人が世の中にはいるように、「私のスペックでは幸せな結婚できないし、公募結婚して社会貢献実績を得るのもひとつの手か」と判断する人が集まっても不思議ではありません
http://www.kcsf.co.jp/contact/zajonc.html
つまり、接触回数を増やすことは、あくまでも「警戒心がなくなる」だけであって、相手に信頼されたり好意を抱かれるためには、接触回数以外の何らか努力が必要だということを忘れてはいけません。
https://www.profuture.co.jp/mk/column/10207
しかし、ファーストインプレッションで強い嫌悪感を抱かせてしまった場合は、接触の回数が増えれば増えるほど悪い印象が強くなっていきます。
https://moteoji.com/blog/reality/5505/
出会いの場で、2人きりで会う約束を取り付けた後は、第一印象の良し悪しが成否を左右します。具体的には、会った瞬間から15分程度の間で勝敗の7〜8割は決まります。
現実の人間関係においては単純接触効果と言うのが絶対的に良い効果だけを持つわけではなく、状況によっては悪い効果を与えるものであると分かる。
総合して考えると「会った瞬間から15分程度の間で『単純接触効果』が裏目に出る人間がいる」ことになる。
こういった人間が所謂「モテないという資質」を持っている人間なのだろう。
単純接触効果の影響によって運命の相手と出会ったり、生涯をともにしたりする人たちがいる一方で「モテないという資質」を持っているが故にその恩恵にあずかれない人間もいる。
すなわち
となるのではないか
---
なんてことを書くのに色々ググっていたらブライダル系の広告が出るようになってしまった
どうしてくれる
弱者男性の気持ちを理解するには就職氷河期の就活をイメージするのが近い。それも貧困や病気や毒親が原因で良いとは言えない学歴しか得られなかった就活生。
自分なりにさんざん努力して、多くの企業にアプローチしてもまったく選ばれない。
まともな就職はほぼあきらめている。それはいい。でも、少なくとも選ぶ側は蔑んだ態度を取らないでほしい。圧迫面接や失礼な態度は不快だ。「え?そんな低学歴を我が社にあてがえってw?ありえない」みたいなことは思っても口に出すな。
解決が難しいのは十分わかっているのでそこまでは望まない。せめてそういう弱者がいること、自分なりにできる努力はしており必ずしも自己責任100パーセントではないことをわかってほしい。
ただ、就職難と違って景気が良くなっても弱者男性問題は好転しないんだけどね。
選ぶ側(女性、企業)と選ばれる側(弱者男性、就活生)との圧倒的な非対称性と、選ばれる側の苦境や低スペが自分の責任ばかりではない、という例え話だったんだが、伝わりにくかったか。すまん。貧困や病気や毒親は比喩ではなく実際に弱者男性を生む原因になってると思う。
うん。だからこそ、女性でも(弱者男性の感じてる)理不尽さ、徒労感、つらさが理解しやすいかと思ったんだけど書き方が悪かったね。
追記2
え?これが女をあてがえ論に見えるの?書いていないことを読み取られるのは心外だなあ。じゃあ解説するね。
次の文では自分が仕事(配偶者)を獲得できないのはわかっているし、誰かから仕事が与えられることまでは望まない、と書いている。
解決が難しいのは十分わかっているのでそこまでは望まない。
次の文では、立場の非対称性に乗じて失礼な態度をとらないでほしいという主張だ。こっちが言ってもいない「あてがえ」を攻撃の理由にするなということ。獲得したいなあと望むことと、あてがえと主張することの違いわかる?
でも、少なくとも選ぶ側は蔑んだ態度を取らないでほしい。
「え?そんな低学歴を我が社にあてがえってw?ありえない」みたいなことは思っても口に出すな。
つらいのは、
で勝ち目のある競争に参加できなかったこと。負け戦に強制的に参加させられること。それによって蔑まれること。勝ち目のない低スぺになった原因は上記以外にも人それぞれあるけど、無職(非モテ)はつらい原因ではなく、つらいものを抱えた結果であること。
そして「あてがえ論」などとこちらが言ってもいないレッテルを貼って、本来の貧困や病気や毒親などの原因の原因に誰も目を向けないこと。新卒カードを持っている(男である)から強者だって言われても恩恵受けたことないし。
要は、今の段階では一足飛びに解決を望んではいない。弱者性を認めて声に耳をかたむけてほしい、こちらが感じている理不尽さ、徒労感、つらさがどういう種類のものなのか知ってほしいだけだ。
解決が難しいのは十分わかっているのでそこまでは望まない。せめてそういう弱者がいること、自分なりにできる努力はしており必ずしも自己責任100パーセントではないことをわかってほしい。
追記3
これ非モテ女性も同じじゃね?って話でいうと、これまで日本では異性とパートナーになるには、ほとんどの場合男性から女性へのアプローチだったということを考えてほしい。告られる回数の非対称性。それで、普通レベル以下の男性が人生において何度も経験するこちらからアプローチしては女性にジャッジされ拒否される状況のように、女性が自分から何度もアプローチをする状況が何かあるかというとそれが就活くらいかと思ったので。
勝ち目がないとわかっているアプローチを自分から何度も仕掛けないといけない徒労感が似てるんじゃないかと。
まあマッチングアプリとかで異性にアプローチする女性も増えてきたし、みずからアプローチする婚活に疲弊した女性もいるとは思う。
従来型の待ってても男性が全然寄ってこない、あるいはクズ男しか来ない非モテ女性の苦しみは、苦痛の大きさは同等だと思うしそれはそれで同情に値するけど、徒労感などの方向性が違うと思ってる。
車椅子で駅に行った記事と言及コメを読んで、今までの価値観が変わった。
バリアフリーもセーフティーネットも助け合いも重要だし、障害があっても怪我や病でも変わらず暮らせる社会は理想だ。
目が見えないらしい人が歩道の端で行ったり来たりしていた時に声をかけた事もあるし
ひとりひとりが助け合えればと思っていたが、下に引用するコメントを読んでいくうちに自分は間違っていたという気持ちが強くなっていった。
佐川・抜け首・なん on Twitter: "「当時としては、ワガママとされ、暴力的とされ、迷惑とされ、非常識とされ、だけどその騒ぎのおかげで後輩達が恩恵を受けている」 私はいつも「川崎バス闘争」を思い出す。 公共交通機関に「車椅子の人を一人で乗せろ」として、「闘争」があったのだ。
ID:yas-mal 「落とし所」を決める権利が、誰かにあると思ってるの? あの人が「私はこれでいい」って満足しても、日本中の車椅子を使ってる人が満足するとは限らない。だから、「差別ゼロ」しか答えはない。交渉じゃない。
求めれば求めるだけ無限に提供されるリソースなんか存在しないのに、交渉も無くどうやって物事を進めるつもりなんだ?
どんな権利の行使にも誰かの同意や協力が必要なのに何を言ってるんだ?
ID:zyzy 我儘で暴力的で迷惑で非常識だからと言って世の中を良く変えられるとは限らないが、繰り返せば変えられる。そして我儘でも暴力的でも迷惑でも非常識でないものが世の中を良くしたことは一度もないのだ。一度も。
ID:B2igwzEE 現実主義者に現実そのものを変える力はないという毎度おなじみかつ当たり前の話。今の当たり前の現実を作ったのは、かつて非常識・非現実的だととがめられた人たちだったりするんだけどね
なぜこんな事を平気で書けるのだろう?
様々な困難にチャレンジした先人達を非常識や非現実的と表現するなら理解できる。
そんなチャレンジを実現するには、平穏な社会を支える、そこで生活を営む一人一人の存在が不可欠だ。
だが、今回の行為はそれと同列のことか?自分は全くそう思わない。
ID:sewerrat 支持する。こういう「言論マッチョ」こそが精神的自由を重視する真のリベラルだと思う。皆が自身の持つ人権で理論武装して言論で殴り合うことで適切な均衡点が見つかる。「思いやり」みたいなヌルい世界じゃない(笑)
人手の無い所に行って、100Kgはある電動車椅子を階段で運ぶよう強く求めた。
設備や制度の不備を指摘すれば良かった。SNSでも、JRや省庁への公開質問状でも可能だった。
バリアフリーを求めるのは良い、制度の不備を指摘するのも良い。どんどんやった方がいい。
「思いやり」みたいなヌルい世界じゃない(笑)って凄い台詞だ。
これは障害を持つ人間の権利だから、思いやりではなく健常者が協力するのは義務だということか?
確かに権利を認めると、その権利を行使させたり守ったりする義務が発生する。
障害者を助けるコストは事実上納税の義務として課せられているが、障害者だけにかかるコストではないし、社会全体に必要なコストだと思っていた。
はてな界隈において、たまに話題に上がる「転勤したくないのに辞令が来た」「転勤したくないから辞める」の問題について考えてみた。
転勤とは、東京や大阪などの大都市に勤めているエリート社員達を、人材に乏しい地方支社に「応援」として送り込むことだと思う。
大都市に勤めているエリート社員達にとってはたまったものではないかもしれない。
しかし地方支社からすれば大都市の優秀な人材を受け入れることになる「恩恵」なんだよね。
地方支社を活性化するためには、人事制度を使って大都市の人材を無理矢理にでも地方支社に送り込まなければならない。
「地方分権は重要政策である」「地方分権はすぐにやるべきだ」と言っているはてな界隈の人たちに聞いてみたいことがある。
本気で地方分権を進めるということは、大都市に住んでいる都市住民を(半ば)無理矢理にでも強制的に移住させる必要がある。
去年2020年に、東京に本社機能を置いていたパソナグループという会社が兵庫県の淡路島に本社を移転させるというニュースが話題になった。
これこそまさに地方分権の正しい在り方なんだろうけど、はてな界隈の人たちは歓迎していなかったように思えた。
まず☆5のウマを用意します。
次にスピードパワー根性のどれかだけで青因子を3×6用意します。そのうち3×2がパワーだと安定します。
スキルが乏しいならトレーニングを考えずにスキル枠、スキルが既に十分なら桐生院を入れます。
中距離以上ならスタミナが要求されるレースまでに走る距離の1/10まで振ります。スキルptが余りまくる未来が編成の時点で見えてるなら代わりに回復スキルに振るのでもいいです。
賢さは体力調整の風任せでいいです。
あとは手癖でやってきゃなんとかなります。
意識すべき大前提として、根性育成はスピード×根性による最高速保障をどこまで伸ばせるかが勝負で、最終的に両方SやSSを目指します。
「簡単に言うけど無理じゃん」と思う人は諦めてください。
根性というステータスはとっかすると凶悪、特化できないなら他を上げるべきというピーキーね代物です。
☆ 1ウマやSRや無凸まみれのデッキで真似をすれぱ、強さの恩恵を受ける前に育成が終了します。
旨味のあるゾーンまでを生き延びるためには基礎ステータスが必須で、その苦労に見合うものを手にするには強いデッキと因子が不可欠です。
4月1日。
Twitterではこの日になると、毎年新社会人へのメッセージが何人もの社会人から送られる。
かくいう私も数年前、そのメッセージを受け取り、しゃんと胸を張って桜が咲く中晴れて社会人となった一人だ。
今だって会社は辞めてない。新卒で入った会社になんだかんだ勤めている。
新人時代の私は、ものすごく仕事に前向きだった。新人研修も、おそらく同期の誰よりも必死だった。
認めてもらいたくて、努力した成果を褒めてもらいたくて。
就活中の一つの軸が、「仕事を通して存在意義を高めたい」だった。学生時代の私は今以上に生きることに後ろ向きだったのだ。友達も特別多いわけではないし、恋愛もうまく行ってないし(恋人いない歴=年齢だった)、周りの大学生と違って全然楽しい人生を送っていない。とにかく大学卒業付近の私は自分の生きている意味を見失っていた。
だからこそ、仕事しかもう私には残っていないと思っていた。仕事で成果を残せば、優秀な人間になれれば、自分が生きている意味が見えてくるはずだと、私は藁にもすがる思いで社会人デビューを果たしたのだ。
新人時代は、正直ぬるいと思う。わからなくても、失敗しても、「新人だから」と言って許されるから。勿論怒られるには怒られるけど、呆れられはしない。次から気をつければいいからね、頑張ってと最後にはエールが贈られる。頑張ったら頑張った分だけ、褒められる。
新人時代は成長具合が最も如実な1年だと思う。スポンジのような吸収力、なによりも周りからの「新人だから」という先入観のおかげ。私ももちろんその恩恵を受けた。
ところが、新人時代を終えた途端、「もう新人じゃないからね」と突然突き放される。なにも新人時代に全ての業務や知識を学べているわけでもないのに。
3年目以降になると、「何でこんなことも分からないの?」という周りからの視線がうっすらと感じられる。経験してないからに決まっているのに。
私は新人時代が終わった後も、しばらくはやる気に満ち溢れていた。少しでも周りから認められたくて、自分なりに努力をした。早く仕事を終えるだとか、周りのタスクを引き受けるだとか、とにかく自分にできることはひたすらにやってきた。
でも、そのやる気は続かなかった。
どれだけ成果を残せたとて、数回のミスやらで評価が下がることを何度も経験したから。
「ここで頑張ってたのに、ここの部分が甘かったね〜」といった感じで、悪い部分を指摘された。
私はその部分の改善を試みたが、改善された部分は以降殆ど触れられず、新しい私の欠点ばかりが掘り下げられた。その繰り返しだった。
自分の努力が足りないのだと、自分は何をやっても駄目なのだと、私はどんどん自分を追い詰めた。だから、とある過酷な環境での仕事を行なった時、自分の身体のSOSをとことん無視した。「ここで無理だと言ったらそれは逃げだ」「逃げたら私は2度と自分を好きになれない」などと言って、必死に毎日仕事をした。何もないのに泣けてくる、イライラしてしょうがない、そんな感情的にぐちゃぐちゃの状態だった。
身体を壊してから、自分を少しは大切にするようにはなったが、やはり仕事で認められたい、という気持ちは完全になくなってはいない。
「仕事をどれだけ優先すればいいのか」。
この数年、たくさん努力しても、褒めてくれたり認めてくれる人はほとんどいなかった(私が気づいてなかっただけかもしれないが)。
身体も壊したし、適当に仕事をしてもある程度は給料がもらえるわけだし、もう別に頑張らなくてもいいんじゃないかと思う。私も流石に疲れた。
Twitterやらでよく見る新社会人へのメッセージは、まさしくこの考え方によく似ている気がする。「頑張りすぎなくていい、逃げてもいい。仕事のことはそこまで重視するな」と。
でも、思う。
そういったアドバイスをする社会人や、周りの人たちは、なんだかんだ仕事を頑張ってきているから今の自分があるのだと。
昇進して、自分の存在を認めてもらっているからこそ、そんなことが言えるのではないかと。
私みたいに途中で逃げてしまったら、もうその人たちのところには辿り着けないのではないだろうか?
どれだけ大変でも、「楽しい」と言って仕事をする人間も一定数いる。彼らはキラキラしている。一度逃げた私とは比べ物にならない輝きだ。
一度きりの人生、楽しく生きたい。
でもその楽しさに仕事がどれだけ必要なのか、本当にわからない。こうやって考えることすら辞めたいのに、まだまだ社会人生活は続く。
ただ一つわかるのは、数年前に社会人デビューを迎えた私が今の私を見たら、きっとショックで立ち直れないだろうということ。
こんなに悩み事だらけになるなんて、思ってなかったよね。不甲斐なくてごめん。
約1年のテレワークを経て、弊社は引き続きテレワーク。安心したというのが率直な気持ちだ。
同僚は悪い人ではないけど、自分は度々のスモールトークに疲れてしまう気質。社内チャットぐらいのやりとりの方が気持ちが楽だ。
家でラジオを流しながら仕事をして、気分転換にストレッチをしたり窓をあけて換気したり、とにかく気ままにやれるのがいい。
身体的に支障がないのは、自宅にまあまあなワーキングチェアがあったおかげかもしれない。
仕事量は少し減ったような気がする。ここ1年で残業ほとんどしてない。その点だけは業界が先行き不安ではある。
自分は朝弱くていつもギリギリの出社になるので、もう何年も朝ご飯は抜いていた。
テレワークになってから、通勤時間を朝ごはん時間にあてられるようになった。
ヨーグルトにちょっとだけシリアルを入れたものとか、果物だけとか、ちょっとだけ食べるようになった。それだけで心も健康になれた。
コーヒーも朝から豆をひいてたっぷり入れて午前中にごくごく飲む。最高。
ランチの時間になると近所のキッチンカーやテイクアウトのお店までいく。
散歩がてらコーヒー屋さんまで足を伸ばして食後のコーヒーを買う。
夕飯はもちろん自炊。以前まではよく仕事帰りにすき家とか食べちゃってたので自炊できて本当嬉しい。
時々愚痴ったり、ラジオに合わせてきままに歌ってみたりして良い気分転換になる。
仕事が終わると一緒にスーパーへ行ってからおじいさんは調理場へ、おばあさんは洗濯へ(もしくは掃除へ)みたいな感じで過ごすので日々QOLがブチあがる。
コロナのせいで仕事に余裕が出たこと、同居人がいること、部屋がワンルームではないこと、もともとインドア派で人付き合いが苦手なこと、が良く作用してくれた。
Googleには、世界中から超優秀な人材が集まっている。彼らは高い給料をもらい、ホワイトな労働条件と自由な職場環境のもとで、クリエティビティ溢れる仕事をしている。
インターネットが人を幸福にしたかはさておき、Googleのお陰で世の中は確実に便利になり、世界中の人々がその恩恵に預かっている。
Googleは時代に追いついているどころか、Googleが時代を作り出す存在である。
とここまで書いたのは、想像に過ぎない。実際はGoogleの労働環境について何も知らない。Google製の検索エンジンを使って持つようなったイメージに過ぎない。
とはいえ、だ。霞ヶ関と比べればGoogleが”進んでいる”のは確実だ。
霞ヶ関は、日本でも優秀な頭脳の持ち主が集まる場所である。しかし、そこで働く官僚たちは日本随一の長時間労働の元、ヘロヘロフラフラ私生活を犠牲にして、時には薬物をキメながらなんとか仕事している。彼らは過労死ラインなどとうの昔に振り切っている。
ご存知の通り日本の行政は縦割りで、割られた縦には強い強い縦社会がある。例え黒でも上が白と言えば白と言わざるを得ない。自分には黒く見えても、何度計算しても黒だと出てしまうとしても、上の言うことが絶対なら、見るだけ計算するだけ考えるだけ無駄である。やる気があればあるほど苦しい環境だ。そうして日本一の優秀な頭脳はドブに捨てられる。
こうしたクソのような環境を変えたいと変えて欲しいと願ってきた人は、霞ヶ関だけでなく日本全国どこにでもいるだろう。しかし、依然として、もう何十年も変わらない日々が続いている。
問題を認識しながら解決する力を持たないのである。組織としてはまさに終わっている。ガチガチに凝り固まって錆び付いてほとんど動かなくなっている。そこにイバラのように既得利権が絡みついている。
Googleは違う。Googleでは少なくとも昼寝が許されている。縦の人間関係に囚われない自由な意見交換を重んじているし、社員にはきちんと余暇の時間が与えられているはすだ。ニュースを読めば、Googleは常に自社の生産性について調査し、改善しようとし続けていることが伺える。日本が何とかしようと言い続けるだけで何もしなかった何十年もの間にGoogleは世界最大の企業にまで成長した。
霞ヶ関がGoogleのようになる日は、来るだろうか?常に旧態のやり方を疑い続け、あれこれ変化を加えてみては結果をモニタリングし、労働環境をアップデートしていくような組織になれるだろうか?完全にGoogleのような環境になることは不可能だとしても、ほんの少しでも近づくことはできるのだろうか?
逆に、こうも考える。Googleが霞が関のように凝り固まって、利権に飢えて保守化し、そのまま生産性を失って緩やかに衰退していくことはあるのだろうか?Googleが霞が関になる日はあるのだろうか?Googleもいつかこうなるさと冷笑する余地が我々には残されているのだろうか?
この前の地震と違って、宮城県に津波注意報が出たので、、発災後に宮城県沿岸部から避難することになった。
実際に車を走らせると、内陸部に向かう道路は渋滞続きで、揺れを感じてから30分後くらいは、のろが車で埋まっていた。
その後も、場所によって車が密集して動けないみたいな状況はあって、川一本挟んだ向こう岸の風景が、とても危機的に感じられた。
少し内陸に入ったガソリンスタンドは混雑しているところもあり、3.11発災後の風景を思いだした。
子供の頃に見かけた覚えは無いのだが、駄菓子屋トークや「だがしかし」などで愛されっぷりは垣間見ていた。
引っ越し先のスーパーで売っていて、おおこれが、と買ってみた。フォークは売り場に置いてあったので、気分を味わいたくてもらってきた。
開けてまず、ギリギリまで入っていて面食らう。値段は下げたいが満足させたい思いが溢れそう。
においがチープでふふってなりつつ湯を注ぐ。あ、これ「ベビースターラーメンってお湯に入れるとラーメンになるんだぜ!」って聞いて想像した麺だ。よくある平たい麺とは違って、まんまるで食べ応えがある。
スープが思ったより本格的で驚く。チープなにおいはどこからきたんだってくらい、ちゃんととんこつ。ゴマがいい。嬉しい。
想像よりしっかりした味で、見た目よりしっかりした量で、なんかすごい。子供のための企業努力の恩恵に預かってしまって良いのかという気持ちはありつつ、たまに湧くカップ麺欲はこれで満たせそう。
今ではすっかり常備して、フォークで蓋を留めたりなんかしている。待ちながらサイトを見て、ほぼベビースターとこれだけの会社なのかー、とか、チキンラーメンよりも先に即席麺を作ったのかー、とかを知ったりもした。
僕はずっと女が羨ましかった。
普段は「女」なんて言い方はしない。「女の人」だ。
小さい頃から、「女の人は大事にしないといけない」「女の人は守らないといけない」という教育を受け、
漫画や小説の中でも「女子供だけは守らないといけない」と、男たちは苦難に身を投げ入れていった。
女の子は周囲から可愛い可愛いと持て囃され、大人たちはみんな女の子に優しかった。
クラスの女子とケンカをした時も、僕が一方的に悪いことになった。いつも頭を下げたのは僕だった。
どのサークルでも、どのグループでも、女の人はウェルカムだった。男はなんとなく放置された。
女の人同士もお互いを可愛いと褒め合い、仲良くしていた。
社会人になってからもそれは変わらず、みんな女の人には甘かった。
だからせめて僕だけは絶対に甘い顔はしないように、男の人にも女の人にも変わらず接した。
そうすると◯◯さんは怖いと言われた。
何か問題が起こると、決まって女の人はナーバスになり、ナーバスにならない僕の方が苦心惨憺を強いられた。
結婚した人たちは女の子が欲しいと言い、ペットを買う人たちもメスの方が大人しくて良いらしい。
人工妊娠ができるようになると、女性だけいれば良くて、男は要らなくなるそうだ。
そうしてずっと、男は要らないと言われ続けて生きていた。常に余り物としての振る舞いが身についた。
僕も女になりたいなあと思いながら生きてきた。
それなのに、最近のインターネットではずっと「女は虐げられている」「男は加害者だ」と言われている。
頭では分かっている。
制度的に男性に有利なものは撤廃しないといけないし、守られていない女性の権利は守られないといけない。
当たり前の平等は、当たり前に与えられるべきだ。
それでもたまに、「なんでお前らの甘えに付き合わないといけないんだ」という気持ちがよぎる。
僕はここまで自分の足で立つ努力をしてきたのに、それをしようとせずに男を非難する言論を聞くたびに、女が嫌いになっていく。
頭では分かっている。
女性みんながそうではなく、その人がそうなだけ。
目立つ女の人が恩恵を受けていただけで、多くの人は普通に努力して生きてきた。
目立つ女の人も、そのことでたくさん苦労をしている。
頭では分かっているけれど。
僕も鮮やかな春色の服を着て、
仕事で軽んじられたら理詰めで言い負かし、
殴られたら指を噛みちぎり、
殺されそうになったら死ぬ気で刺し違え、
現在、レジェンドレースの登場により今まで主流とされているスピード賢さ編成の脆さが明らかとなっている。
レジェンドレースが実装されるまでウマ娘の遊び方は”どれだけ評価の高いウマ娘を作れるか”。これに尽きた
そこで目をつけられたのがスピード賢さ編成だった。 ウマ娘の評価査定はどうやらSステータスの査定が非常に高く、Aランクの目安としてSステ2つに金特3つほどあれば大体Aランクに到達することができた。
そしてこの”Sステ2つ”という目標を達成するのに最も楽だったのがスピード賢さ編成だったのだ。
Aランクを目指す上で当然URA優勝はしておきたい。つまり育成目標含め育成中のレースには当然勝つ必要があるのだが、スピード賢さでもそれくらいのハードルならクリアできるのが決定打となった。(チームレース、レジェンドレースでは通用しなくなってしまうのだが)
賢さによる体力回復とそれによる圧倒的な練習量は大幅にAランクウマ娘へのハードルを下げ、人々はこぞってスピード賢さ編成でウマ娘を育成した。
そして今回のレジェンドレースでこれの脆弱性が露呈した、、、というわけだ
そもそも、ウマ娘のゲーム性質上得意練習を被せる恩恵がデカすぎるため、あげたいステータスには2つ以上はそれに対応したサポを置きたいのだ。
そのため、6枚編成という都合上3極編成を目指すならサポカを2-2-2で分けるパターンが思いつくだろうが、これではそれぞれの練習場所での回数が絶対的に少なくなってしまい、練習場所のレベルも上げられないためステータスの伸びが悪くなってしまう。
そこで注目したいのが、ウマ娘固有の”ステータス上昇率”だ。 これは忘れていたり、そもそも知らない人もいるかもしれないが、育成ウマ娘はそれぞれステータス上昇率バフを持っている。 基本20%と10%の上昇ステータスの二つで、スペシャルウィークならスタミナに20、賢さに10%のバフがついている。
何が言いたいかというと、スピード+”20%上昇のついてるステータスがサブで上がる練習”の2極編成で三極ウマ娘を目指すということだ。
先のスペシャルウィークの例でいうと、スタミナがサブで上がる練習はパワー練習なので、スピード、パワー編成で育成するということだ。
これのメリットは三極編成と違って練習場所が2つで良いため練習場所レベルがすぐに上がることと、編成自体は二極でいいため友情トレーニングが重なりステータスが伸ばしやすい点だ。
いくらパワー練習であがるスタミナがそこまで多くないとは言っても、パワー練習のレベルが5まで行き、かつステータス上昇率がかかっていれば下手なスタミナ練習よりよっぽどスタミナは上がる。
さすがにスピードパワーよりはステータスは伸びないので、そこは因子で補っていく必要はある。が、2-2-2の三極編成よりはよっぽど簡単に三極ウマ娘が作れる。
ここまでスピードパワー編成で説明してきたが、最初に言った通り、
スピード+”20%上昇のついてるステータスがサブで上がる練習”の2極編成
なので、根性20%アップがあるウマ娘ならスピードスタミナ編成でもいい。 パワー20%アップならパワーがサブで上がる練習はスピードなので、まあスピード多めに編成してあとはスパクリが強いしスピードスタミナ編成でもいいのではないだろうか
https://anond.hatelabo.jp/20210316232303
この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな
だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由と表現の自由のどっちが強いかって憲法上定義されてるのかな?されてなさそー
じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお
しかも「憲法は政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民がキリスト教の教義をポリコレ文脈で批判する際に信教の自由を忖度してるって事は嘘だったって事だよな
おおー。だとすると憲法上定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民がポリコレ的批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成るな
表現の自由とポリコレがコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈の批判はそれが表現の自由を侵害しないか、している場合は侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しかも信教の自由を侵害する際と同じ強度で)
更に信教の自由はポリコレ的規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん
→当事者以外による表現に対するポリコレ文脈の批判も同様と言えそうだな、これは大きい
→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現を教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな
あと教義で定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?
なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能な解釈変更を行っていない教皇は同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ
・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗の自由は確保されてる等
→表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ的批判は無意味になりそうだな
一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教の教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?
ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社や私企業のコンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会の公共性はこれらを上回るのでは?
だとすれば「公共の場」である教会において改宗の自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレが無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね
・実害は無い
→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者の同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?
実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る
更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、
今回の教皇庁の発表が信者の差別を助長するという二次被害の懸念をも信教の自由でキャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由でキャンセルできるだろう
(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定がそもそも疑わしいのだが)
→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現の修正を迫るポリコレは同じ理由で拒否できるという事だから
聖書を修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現は修正できない事に成るが・・・・流石にこの理由は無いか
聖書の修正が信教の自由を侵害するから?いや、それも微妙だな、修正が信教の自由を侵害するというロジックが無い
本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや
・批判を諦めているだけ
→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・・