はてなキーワード: 平民とは
ジャンプなんか公式スピンオフを原作のBL描いてた同人誌作家に描かせてるし
加えてその漫画のアニメ担当したアニメーターもBL同人誌を描いてたし
最近では腐女子除霊師オサムみたいなのも恥ずかしげもなくやってるし
不快になるだけだから読んでないがルックバックみたいなのもやってる
もう完全に論外なのですわ
ワイがアニメ・ゲーム業界にいた時からこの人らの倫理観とか社会性ってヤバいなって思ってたけど
アニメ・ゲームは役員と本社の事務方以外は平民かつ高学歴じゃないんだよね
一方、出版大手は問答無用で高学歴。そして倫理観がめちゃくちゃ終わってる
電通みたいに自浄作用もないし二次創作の規約を作るくらいのモラルは見せて欲しいところ
そっか〜じゃあ欧米で日本人が狙われる事件があっても別に気にする必要ないんだね。
欧米人に比べて比較的体格が小さい弱者が狙われただけで別に日本人が狙われたわけじゃないもんね。
弱者が狙われてるだけなんだから日本人に対するヘイトを意識するのは自意識過剰だよね?日本が沈没して欧米で生きていくしかなくなってもやっていけるように頑張る!しかないよね。欧米人よりたくさん頑張って日本人の方が合格点が高い試験に受かって日本人のくせに大学なんか行ってって言われるのに耐えて卒業してもやっと手に入れられるのは欧米人と同じかそれでも下に見られる立場だけど。そうしないといけない劣等民族だもんね?
最初は「大貧民ゲーム」「貧民ゲーム」あるいは「階級闘争ゲーム」などと呼ばれており、おそらく「大貧民」よりも聞こえが良い「大富豪」という呼称が後から使われるようになっていった。
Wikipediaを確認すると、「大富豪」と類似したゲームとして、
などが挙げられている。
このうち「大統領」「グレートダルムチ」「ティチュ」「アーシュロッホ」といった欧米圏のゲームはわりあい新しく、日本の「大富豪」や中国の「闘地主」「鋤大D」から派生したものなので除外できる。
残りの「争上游」「闘地主」「鋤大D」「ティエン・レン」のうち、「大富豪」と関連が深いのはどれなのだろうか?
「大貧民 起源」などでググると以下の記事を見つけることができる。
大貧民のルーツはベトナム戦争にある説『トランプゲーム大全』 - エキサイトニュース(2/4)
日本の大貧民は、“日本起源説も十分あり得ます”が、“ベトナム戦争などを通じて、ベトナムから米軍を経由して伝わった可能性もあります”と書かれている。
この記事で紹介されているのがベトナムの「ティエン・レン」である。
まずはこの記述を取っ掛かりにしていこう。
英語版Wikipediaでルールを見ると、「富豪」「貧民」といった階級がないこと、スートにも強さがあることを除けば、確かに大富豪と似ている。
A standard 52-card deck is used. The ranking of the cards from highest to lowest is: 2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3.
標準的な52枚のトランプを使用する。強いカードから弱いカードへ並べると「2 A K Q J 10 9 8 7 6 5 4 3」となる。
ただし、ベトナム語版のWikipediaを見るとティレン・レンは「1980年代に登場した」らしいので、残念ながら大富豪よりも後発になってしまう。
英語版Wikipediaではティエン・レンの原型となったゲームが挙げられている。
It is derived from Chinese card games Winner, which uses a specially printed deck of cards, and Big Two.
というわけで、次はこの二つを見てみよう。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
また「上位を争う」との名前どおり、大富豪とよく似た「階級」要素が存在している。
この点においてはティエン・レンよりも大富豪に近いと言えるだろう。
争上游の起源についてググってみると、そこから派生した青島の「够級」というゲームについての記事を見つけた。
揭秘青岛够级:起源于沧口广场“争上游” 青报网-青岛日报官网
够级的起源和演变过程有好几种说法,据沧口一带的老“够级”们回忆,它的产生和形成,是在五十年代末到六十年代末的那段时间。那会儿,打扑克已经有了“争上游”的玩法。
「够級」の起源と変遷についてはいくつかの説があるが、滄口地区の古い「够級」のプレーヤーたちが記憶するところによると、1950年代後半から1960年代後半にかけて生まれ、形成されたものであるという。当時、トランプゲームには「争上游」という遊び方が存在していた。
この記述が正しいなら、争上游は大富豪に先行して存在していたことになる。
日本語版Wikipediaを見るかぎり、「階段縛り」と同じ要領で「ストレート縛り」「フラッシュ縛り」「フルハウス縛り」みたいなものがある大富豪、という理解でいいだろうか。
「大老二」の他に「鋤大弟」「鋤大D」といった異称があり、いずれも「2が最も強い」という特徴に由来していると思われる。
「鋤大D」(「鋤大弟」とも書く。「鋤D」とも言う)の名称は広東語に由来する。「D」とはトランプの2のことを言い、広東語の変音で「di2」と発音する(普通の広東語では「弟」は「dai6」)。
大老二の起源は香港にあるらしいが、どのくらいの時期に生まれたのかはわからなかった。
Google Booksで検索してみても80年代以前に遡れないので意外に新しいのか?
最初に「類似のゲーム」として挙げられていたもののうち、最後に残った「闘地主」についても触れておく。
ルールとしては、一人の「地主」とそれ以外の「農民」とに分かれて戦うあたりに特徴がある。
ジョーカーの次に強いのは2であり、3が一番弱い。
という条件はやはり満たしている。
中国の文化大革命における階級闘争では、黒五類や臭老九のひとつに区分された地主の人権を農民が冒すことを権威づけられたという。闘地主の名前はそこから来ている。
という点では、かつて「階級闘争ゲーム」と呼ばれていた大富豪と共通しているようにも思える。
ただし、闘地主自体は文化大革命期に作られたわけではなく、1990年代にネットゲームとして広まったものなので、比較的に新しいゲームと言える。
以上からすると、中国の「争上游」が(とりあえずは)最も古く、それが日本に伝わって大富豪ゲームとなり、あるいはベトナムに伝わってティエン・レンとなった、と考えるのが自然に思える。
ただし、「2」がもっとも強いというルールの起源が「争上游」にあるのかというと(おそらく)そうではなく、そもそも中国のトランプゲームでは全般的に「2」が最強であるようだ。
原先最小的2被規定為最大的牌,有如國家由平民做主,但其實Ace本身就是這個意思。
国家が平民を主とみなすように、最小である「2」が最大のカードと規定されている。実はトランプの「エース」自体が同じ意味を持っている。
この「エースが同じ意味を持っている」という話は以下のとおり。
15世紀後半の時点で、一部のゲームでは「エースが高い役」という民間伝統が存在した。例えばポーカーの前身となったブラグ等である。この昇格(エースが低い役から高い役に変身を遂げた事)が起こったのはフランスのデッキだけでなく、ドイツのデッキを使うゲームでも2のカードを最も高い役のカードとする事が発生した。フランスのデッキでエースを最も高い役のカードとして使用する事は、フランス革命の結果としてより広範囲に受容される所となった。(中略)エースの昇格は、貴族階級(特にルイ16世)の排除と平民の地位の向上を象徴した。
つまりヨーロッパでは、市民革命を象徴させるために「最も弱いカード」を「最も強いカード」とするルールが広まった、ということらしい。
中国でもそれと同じことが起こり、「最も弱い農民(2)が最強の皇帝や資本家(KやA)に勝る」といった発想で「2」がいちばん強くなった、ということか。
なんだか大富豪における「革命」のルールとの相似性が感じられる。
あるいは「スペードの3でジョーカーを返せる」といったローカルルールも想起されるだろうか。
「最も弱いカードが最も強くなる」という現象はさだめて普遍的なものなのだろう。
というわけで、「なぜ大富豪では2がいちばん強いのか?」という問いの答えとしては、
中国のトランプゲームでは一般的に「2」がいちばん強く、それが争上游を通じて大富豪に影響したから
ということになるのではないか。
数々の困難を乗り越えて五輪への出場が叶い、おめでとうございます。
オリンピックは皆様にとって一生に一度のことだと思います。庶民にも多くの「一生に一度」のことがあり、それを今回のコロナ禍で諦めざるを得なかった人が大勢いるのですが、庶民の一生とスポーツエリートたる皆様の一生とは等価値ではなく、当然皆様の一生の方が価値のあるものです。下級国民の逆恨みに負けず頑張ってください。
皆様、オリンピックに人生をかけてこられたのでしょう。飲食店の店主も飲食店の経営に人生をかけてきたわけですが、まあ彼らのような下級国民と世界に誇るアスリートたる皆様とでは人生の価値が根本的に違いますから、皆様の人生の方が政府から優遇されるのも当たり前だと思います。アスリートファーストってやつですね。アスリートの人生は平民のそれより重いのです。
バッハ会長が政府要人から歓迎会を開いていただけるのも喜ばしいことです。世間では新入社員の歓迎会もベテラン社員の送別会も開けていない企業がたくさんあるでしょう。しかし、オリンピックという4年に1度の興行は彼らのような庶民の人生の転換点よりも遥かに重要なのですから、オリンピック関係者が特別扱いを受けるのは至極当然ですね。五輪貴族・スポーツ貴族の皆様には貴族にふさわしい接遇を受ける権利があります。平民が同じ待遇を求めるなどおこがましいにもほどがありますね。
海外からの選手の隔離が簡略化されるのは実に素晴らしい。一時帰国を希望する日本国民は14日間の隔離に耐え、日本への留学を志す留学生に至っては渡航許可すらままならない状態が続いておりますが、母国に帰ってこようとする同胞や日本に憧れ日本について学びに来ようとする未来の知日派よりも、五輪が開催されるならば場所はどこでも構わないというグローバルな意識をお持ちのスポーツ選手の皆様が厚遇されるのはまさにグローバル化時代の象徴といえます。狭量な愛国心にとらわれずグローバリゼーションを目指す決意を感じ取りました。
池江璃花子さん、あなたは白血病という大病からの復活を成し遂げられました。白血病は血液のがんであり、とても重い病気ですが、それを乗り越えたあなたの努力には敬意を表します。コロナ禍で医療崩壊した大阪ではがん病棟が縮小され、がん患者の治療が後回しにされるという事態になりました。五輪後の東京でも同じ事態になる可能性があるのですが、まあ、あなたが同じ病気というだけで他のがん患者のことを心配しないといけない義理はどこにもありませんから、そんな些事はお気になさらず競技に邁進なさってください。治療が間に合わず手遅れになった大勢のがん患者の生命よりも、あなたが持ち帰ってくれるはずのメダルの方がよほど重いのですから。
内村航平さん、何を言おうが世界は変わらないと謙遜されていましたが、あなたのご発言の通り、政治家や組織委の皆様は「できない」じゃなくて「どうやったらできるか」を必死で考えてくださり、こうして五輪の開催に漕ぎ着けることができました。ロックフェスのようなイベントについては「どうやったらできるか」を誰も考えてくれなかったようですが、平民の娯楽よりもスポーツ貴族の皆様のお遊戯会の方が優先順位は高いですから、致し方ないことでしょう。オリンピックをどう開催するかについて頭を悩ますのは国民の神聖なる義務ですが、ロックフェスの開催についてはそんな義務はありませんからね。「国民の皆さんとアスリートが、同じ気持ちでないと、大会はできないのかな」とも弱気なことをおっしゃっておいででしたが、実際には、国民の8割が反対しているにも拘らず大会を開くことはできそうです。アスリートの皆様の決意は国民の意思などというつまらないものよりも重いというアスリートファーストの原則が証明されたのです。どうか誇ってください。
末筆になりますが、とろろ料理などが美味しゅうございますので、旬からは外れますが是非ともお召し上がりいただき、粘り強さを身につけていただきたく存じます。これだけ優遇されてきた皆様ですもの、日本史上最多のメダルを日本にもたらしてくださるのは当然ですよね。
皆様が飛行船ヒンデンブルク号のように大空に雄飛し、かの有名なピエール・セドリック・ボナンのような聡明さを発揮して、豪華客船タイタニック号のような偉業を達成されることを、心よりお祈り申し上げます。
心優しい青年だったわたくしは、お茶会とダンスパーティーによって歪められてしまいましたわ。今なら声を大にして言えますわ。パンが無ければとんかつを食べればいいじゃない
こっちも婚約者奪われてるんだから別にいいと思う。あわよくば消えていただきたい。
むしろなんか避けられてる
楽しいって、何? なんでそんなヘラヘラできるわけ。パパやママに人の痛みを知りなさいって教わらなかった?
毎日自由な時間が8時間以上あるのが許せない。むろん貴族を辞める勇気はない。
他人がいいと言ったものを追いかける方が楽だ。どう見ても俺らよりプペル100回見てるやつの方が幸せそうだろ?ストレスなく生きるコツは正しい判断をすることじゃない。「自分は今正しい判断をしている」と心の底から思い込むことだ。
相対的に自分の価値が上がったように感じる!俺の失敗を目立たなくしてくれてありがとう!
なんですぐ会えないん?
露骨に不機嫌になる人が許せなかった。他人を不快にさせるのが趣味なのかと思っていた。でもある日露骨に不機嫌になってみて気づいた。気持ちいい。それからはもう辞められない。
満寵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将、政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。
目次
1 生涯
1.1 酷吏として出世
1.3 呉との攻防
2 三国志演義
3 脚注
生涯
酷吏として出世
身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。
その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。
楊彪が逮捕された際、荀彧や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。
これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。
官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。
曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。
孫権が国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。
後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。
呉との攻防
曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方面から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年で曹真・夏侯尚・徐晃・張郃・文聘らとともに朱然と交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。
228年、曹休・司馬懿・賈逵が揚州・荊州・豫州・雍州・涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関に三方面から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休が孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿や張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。
同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。
曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。
230年には征東将軍となった。冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。
231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降を偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。
満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。
232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。
233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。
同年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。
234年、孫権は十万の軍勢であると呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢の諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権に呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢であると呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥の魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに曹操と孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。
235年春、孫権は江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵の恩賞とされた。
曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央に召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。
子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれて殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋の時代に尚書・司隷校尉となった。
また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。
んだけど、その他に僕が憎悪している相手をリストアップして共通点を探ってみる
いわゆるネトウヨが嫌い。テキトーなこと言って自国礼賛をしているバカは生きている価値が無い。百田尚樹を愛読してるような奴。あと、歴史修正主義者や余命信者は論外。こいつらは、頭が悪いから大嫌い。
ピラホロごっことかに興じてた、ハン板にたむろってたようなネトウヨが嫌い。あれは、あまりに恥ずかしいだろ。痛々しいオタクとか見たのと同じ嫌悪感が出てくる。
あと、自称ヲチャーとか言ってるやつら。こいつらも同じで、見てて居たたまれないオタクネタとかで偉そうなこと言うからからマジで勘弁して欲しい。銀英伝とか攻殻機動隊を引用したり、身内で位階作って褒めあったりしてるの。あれを良い大人が真顔でやっているというのが、噴飯もの。とにかく存在が恥ずかしい。
もちろんビジウヨも嫌い、平民とか。ほんこんみたいなウヨ芸人はただただ見苦しい、偉そうなこと言う前に学位とれよ。
これは保守系の政治家などにも言えることだけど、さんざん道徳だの愛国心だのエラソーなこと並べ立てておいて、その実、クソみたいな行為に手を染めていたりする連中が特にクソすぎる。ネットでエラソーなこといって配信していたボウズPを名乗る者が、シャブポンプで捕まったりね。今、バッジらしいけど。アホな有権者にはお似合いだ。
まあ、顔出ししてないまとめサイト運営者とかは、まだ許容できる。単なる商売だと割り切れるだけマシ。
死刑賛成論者とか、厳罰主義者が大っ嫌い。あくまで、国家が刑罰を行うのは、その人を更生させて社会復帰させるため。被害者や大衆が、厳罰下してスッキリしても、特に何も得るものが無い。そんな単純なことにも気づかず、自分のクソくだらねぇお気持ちで国家刑罰権を扱おうって言う料簡が全く許し難い。可罰感情というのは、感情に過ぎない。
これは、いわゆる保守系の応報刑信者もそうだけど、性犯罪者に厳罰を求めるフェミ系もそう。国家は、お前らの厳罰オナニーでスッキリするためのズリネタではない。頼むから死んでくれ。
ハーバーマスが大嫌い。こいつが諸悪の根源。思考実験の積み重ねで論理を作ってきたリベラルの系譜にとどめを刺したクソ左翼。社会契約論の自然状態にせよ、ロールズの無知のヴェールにせよ、そんなものが存在しないなんてことは、百も承知。こういう架空の前提の存在を否認したあげく、じゃあお前の判断基準が何かといえば「公共圏」。おいおい、ふざけんなよ。
結局、公共圏なんて吊し上げ大会にしかならないし、それは学生運動で痛い程わかっているはずなのに、自分を持ち上げる学生運動を切って捨てたクソ野郎ハーバーマス。そんで、アイディンティティポリティクスへの道筋もつけた。マジで万死に値する。今の政治的対立の諸悪の根源はこいつ。
単なる多数派の独裁。無批判に伝統を受け入れるだけのゴミ以下の思想。未開の土人やカッペのジジババ、あるいは胡坐をかく無能な貴族を正当化するためだけのカス。消滅した方がいい。
ハーバーマスの最悪の部分とバーク保守主義のマシな部分を合体させたウンコ以上ゲロ以下の何か。サンデルとかありがたがってるバカは三回ぐらい死んだ方がいい。
暴力なしでなんとかできるとかいうのがおこがましい。南米の司法権が及ばないカルテル支配地域とかで暮らしてほしい。管理された暴力のありがたみがわかるだろうよ。
このへんは、まじで許し難い。
2134年11月6日、日本の天皇が崩御した。天皇に子はなく、この日をもって象徴天皇制は廃止、日本は共和制へと移行することになる。
直前の世論調査によれば、皇室の存続を望む者は8割を超えていた。にもかかわらず、皇室は消滅した。それはなぜか。
かつて、20世紀半ばに活躍した政治学者の松下圭一は「大衆天皇制論」という小論を書いている。そのなかで松下は、第二次世界大戦以前の天皇制と戦後のそれとでは、制度を支える心理が大きく変化していることを論じた。すなわち、戦前において畏怖される存在だった天皇は、戦後の人間宣言を経て、愛される天皇へと変化したというのだ。
松下はさらに、愛される皇族の条件として、「平民」として恋愛もする一方、「小市民層の日常的要求の理想」でもあらねばならないとした。つまり、普通の人間であると同時に、優れた人格をもつことが期待されるようになったというのだ。
この観点からすれば、戦後の皇族はみな一様に大変な努力を重ねたと言えるだろう。時折、スキャンダルのようなものが噴出することはあれど、大衆の期待に沿うべく、「理想化された平民」を演じ続けた。
だが、大衆の願望は、皇族が人間として生きていける限度をはるかに越える水準に達した。
それが顕著に表れたのが、結婚をめぐる問題だった。皇族の結婚相手は、大衆の意を受けたメディアから厳しい精査に晒され、わずかでも問題があるなら、苛酷なバッシングの対象になった。
結婚した後も、プレッシャーは続いた。皇室の厳しいしきたりに加えて、男子を生むことを求める強烈なプレッシャーはしばしば女性皇族を精神的に追い詰めた。そして、それによる体調不良までもが、メディアでのバッシングの要因となった。
そのような皇族の有様をみて、いったい誰が我が子を皇族に嫁がせようと思うだろう?
皇族が適齢期に達すると、同年代の名家の子女たちは結婚を急ぎ、間違っても自分が「見染められ」ないよう必死になった。皇族との結婚を決意した者も、「理想化された平民」を求める大衆の餌食となり、やがて消えていった。
保守派は旧宮家の皇籍復帰を叫んでいたが、皇籍離脱から長い年月を経て「理想化された平民」像には遠く及ばない彼らの復帰を大衆は認めなかった。保守派とて「理想化された平民」像から逸脱する皇族を必死で叩いていたのであり、いわば自業自得であるとも言えた。
あれ? ここはどこ?
そっか……あたし……死んじゃったんだ……
ふわふわしたところで神様っぽい人から説明を受けてたような気がするけど、あたし自身もふわふわしてたから何も覚えていない。
気が付いたら、なーろっぱ風の街並みの中にいた。
部屋着姿なのが恥ずかしい。
「あのーちょっとお聞きしたいんですけど……」
娘たちと一緒に見たアニメや暇つぶしに読んでいた漫画とかでなんとなく異世界のセオリーはわかってる。ほんとになんとなくだけど。
こういう時は果物やさんっぽいおじさんが優しい。
「ひょっとしてお貴族様ですか?」
「そーかい。変わった服着てるからてっきり変わり者の貴族が来たのかと思ったぜ。で、なんだ? 聞きたい事って。客じゃねーのか?」
「出来たら、そこの美味しそうな果物を幾つか頂きたいところですけど、多分お金がないんですよね」
「財布を忘れたのか?」
「ええまあ(現実世界に忘れたというか、神様から貰い忘れたというか。神様がお金くれたのかどうかはわからないけど)」
「で?」
「ええと、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「ああ、多少はな」
やっぱり親切な方でした。顔は怖いけど。
「あの、お金もないので宿も取れないのですけど、こういう時ってどうしたらいいんでしょうか?」
「まあ、そうなりますね」
「そこをまっすぐ行って(中略)ギルドがある。ねえちゃんでもなにがしかの仕事はあると思うぜ」
お礼を言って、ギルドに行くことにした。
彼氏がニューヨーク州司法試験を目指していて、受かったら結婚しよう、と話していた。
犬も飼っているので、早めに言わなくちゃなと思い、昨日の夕飯時に「あと1~2年で家を出たい」と伝えた。困るとか言われるかと思いきや、あっさり「いいよ」と言ってくれた。
ホッとしたのもつかの間、「アレと結婚するの?」と懐疑的な口調で問われる。
「そうだよ」というと、「否定はしないけど、認めてはいない」と冷たく言われる。冷や汗が出た。
その後も「結納金はほしいの?」と聞かれるので考えてないというと、「あれはロクな男じゃない」「臣民も納得しない」といわれる。食べ物がのどを通らなくなった。
「結納の儀をするのが夢だった、あっでももし結婚式挙げるとか言っても出ないからね」
「増田のためにこの家も残しておこうと思ってたのにね」
色々言われたが何も返せずうんうんと無表情でうなづくのが精いっぱいだった。
夕食後すぐ自室にこもり、めちゃくちゃ泣いた。
申し訳なさと衣着せぬ物言いの失礼さに対する憤怒と、いろいろな感情が入り乱れた涙だった。
メンヘラちゃんの作者のお母さんみたいに、祝福してくれると勝手に思っていた。
ちょっと前にみた増田みたいに、娘が平民の彼氏連れて帰ってきて、普通に受け入れてくれる親がいるものだと思っていた。
ヤフーニュースやツイッターの皇族関係ニュースへのコメントで見るような、理解のない親、それがうちの親だとは思っていなかった。
否定しないといいながら恨みつらみめっちゃいうじゃん。否定してるじゃん。自分は嫁入りして何不自由無い生活したくせに私の男の好みには文句言うじゃん。
これでもうちの母親は偏見無いと自分では思ってるから厄介。街中でペアルックしてるおじさん見て私にヒソヒソ話しかけてくるくせに。その話を聞かされた私はどんな顔をすればいいんですか?
今日は仕事なのでカタカタキーボードをたたきながら昨日のことをおもいだして涙が出そうになるのをこらえる(ちょっと出ちゃった)。