はてなキーワード: 大都市とは
◆昨日映画の日だったので、「帰ってきたヒトラー」を見てきました。それ見て思ったこととかEU離脱騒動とかのメモ。まとめなんでネタの新鮮さとかはあんまりないですが。
◆はてなブックマークを眺めると、今回のEU脱退騒動での都市在住エリートの反応を見て「ああ、これはLeaveが勝っても仕方ないわ」と思った人も多いようです。どうも都会のエリートは「田舎者」とまともにコミュニケーションを取ろうとしていない人が多かったように見えました。
ある話題になった(1000ブクマ!)ブログ記事の補足記事(※)で引用されている向こうで話題になったらしいファイナンシャルタイムズの記事に着いたコメント
『(前略)最後におそらく最も重要なことには、私たちが事実に基づかない(post factum)民主主義の時代にいるということ。事実がつくり話に出会った時、オーソン・ウェルズの小説に出てくるようなエイリアンの体に当たった銃弾のように跳ね返され全くもって役立たなかった。マイケル・ゴーブは「イギリス人はエキスパート(専門家)にうんざりしている」と言った。でも、反知性主義が広がったとき、偏狭な考えに結びつかなかったことがあるなら誰か教えてほしい』(引用一部改変)
にも、なにが「重要な事実」なのかを判断するのは自分たちで、そうでないのは「事実に基づかない民主主義」だという意識が裏に透けて見えます。自分の選んだデータを見れば自分と同じ解釈をして同じ結論になるはず。そうならないのは誤解か相手の知性の問題、という発想自体への反省は見えません。
今回のエリート達の騒ぎは自分たちもそれ以上に馬鹿だったということを受け入れられず他人の責任にしていて、地金が出たというかとても見苦しい。「自分たちと違う」人たちが自分たちの生活に(悪)影響を及ぼしてきたことにヒステリーを起こして、相手にレッテルをはって(偏見で)叩きに走ってる姿は同じなのに。
※Brexitが示すのは民主主義の限界(世界級ライフスタイルの作り方)より引用【リンク削除】
◆移民は大都市の方が多いのにRemainが多く、移民の少ない地方の方がLeaveが多いから外国人嫌いの扇動に乗せられたのに違いないという報道が多いですが、当然の話だけれど移民の数がそのまま社会へのインパクトになるわけではありません。特にロンドンのような大都市と田舎では資本が提供する社会システムのインフラが全然違う。
大都市では外国人の社会参加や受け入れのシステムがすでにあるし、そもそも「対人距離を金で買える」んですよね。だから外国人とのつきあいでメリットだけをつまみ食いできる(そしてうまくつきあえるのを自分たちの寛容性や知的能力によるものと錯覚できる)。
対して田舎ではインフラ不足の分を人々の経験知と人間関係で埋めています。なのでここにきしみが出たりコミュニケーションのコストやリスクが上がると生活レベルに直撃する。かれらには「円滑な相互扶助」やそれを支える「社会常識の維持(復旧)」が為替や株式市場より重要な訳です。
対人距離を金で買えない地方に移民の受け入れ負担を求めるなら、それ相応の「しくみ」が要るのではないかと思います。できれば異質な人たちが存在することが上記の環境で利益になるような。
◆今回の結果を反知性主義と評する人たちも多いのですけれど、政治や国際情勢社会問題などの「専門家の予測」が本当に正しいのかを1988年から検討したTetlock氏の研究(※)では、実は専門家の予測判断は(因果が明白な直近の結果を除いて)素人の予測と的中率が変わらないことが示されています。その原因として挙げられているのが自分の視野の過大評価です。実際、今回多くのエリートは「自分に何が見えていないのか」を大きく読み違えました。
※”Expert Political Judgment: How Good Is It? How Can We Know?”(2006)
「自分に何が見えていないのか」「自分の知る正しさはどこまでなら妥当なのか」を認識できていないのはどちらも同じ。それを可視化し共有する「しくみ」はまだありません。自分はこれの実現が集合知研究のゴールの一つだと思っています。ヒトラーを「過去のもの」にできるとしたら、それなんじゃないかなと。
多く読まれる話ってのは、成功か失敗か、はっきりしたストーリーがあるもんだ。
地方にいつづけることが失敗で、大都市に出ることが成功っていうストーリーはわかりやすいだろ?
あるいはその逆のストーリーも注目を浴びる。
俺は東京に出た後に地元に転職した口で、友人との関係性も含めてあなたと近い部分が多いと思うが、俺もあなたもストーリーが割と薄いだろ?だから話題にならんのだろう。
それに、地元の友達との交流や地方での話ってのは、大体が「思い出」に収束しちゃうんだよな。わかりやすい変化や劇的な価値観の転換が少ないから、客観的に見ると「それってあんたの思い出話の域を出ないでしょ」ってなりやすい。
あんまりうまく言えんが、あんたの言いたいことはわかるし、あなたみたいな人と交流したい。
twitterならたくさんいるんだけど、探し方が難しいんだよな。
ままならんよね。
そこは日本有数の大都市で、メインストリートの整備された街並みには、広めの歩道に彫刻が並び、ところどころにベンチもあります。
昼間は空き缶を集めているようです。
夏は夜になるとベンチに横になっているようですが、冬の夜は歩き回っているようです。
いつも独りで黙してる姿しか見たことがありません。
いつみても、彼には周りの世界が視界に入っていないかのように見えました。
ある夏の晩に、ベンチで横になっていた彼に酔っ払いが罵声を浴びせていました。
別に彼が何かをしたわけではありません。
それでも、彼はいつものとおり、世界に自分しか存在していないかのごとく、微動だにせずにベンチに横になっていました。
酔っ払いは連れになだめられて去って行きました。
彼は相変わらず微動だにせずにベンチに横になっていました。
ただ、手が少し動いてお尻を掻いているようでした。
彼はこの生活を何年続けているのだろうか?
地下鉄の駅へ歩きながらそう想っていました。
元増田の言い様にどうも納得がいかないので一席ぶたせてもらう。
なお、個々人が作品から何を見出すかは千差万別であることは認識しているので、この記事を読んで意見を変えろなんて言うつもりはない。
ズートピア世界は、理性によって被食-捕食関係が終わり、共存できるようになったからこそ成立している。
理性の存在は、動物が喋る/二足歩行する/服を着る/文明化してる/etc.と同レベルの、物語における大前提である。
理性/野生の対立軸は本編前にもう終わっているのだ。
もちろん、これは「過去」として本編中でも言及はされるし、“偏見”の大本にもなっているが、この過去そのものが本編中に蘇ったりはしない。
では、元増田が見出した“野生”というのは何か?― それは“偏見”である。
「肉食動物は凶暴で草食動物を襲って食べたがっている」という偏見だ。
そしてこれはズートピアにおいて一貫して存在している、理性/偏見という対立軸の一部なのだ。
「肉食動物は凶暴」なんて、「ウサギは臆病」「キツネはずる賢い」と同種の偏見と言えば分りやすいんじゃないかな。
― 当然さ!でもそれは“野生(という名の「肉食動物への」偏見)”とは別物なんだ。
草食動物だって「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろうって?
― 当然さ!まさに黒幕がそうだったろう?
― あれは薬物による凶暴化さ。野生とは関係ないよ (薬物中毒の人間が暴れてるの見て「野生だ」って言う?)。
「理性は必ずしも野生より優れてはいない」、「理性が善、野生が悪とは限らない」、「理性ばかり肯定的に扱うな。野生にも光を!」。
しかしズートピア世界においては、過去に克服された野生にしろ、偏見としての“野生”にしろ、内容的には「共に暮らす隣人(隣獣?)を襲う」というものだ。
なに? 野生は自然だから善?それは自然主義の誤謬と言うのだ。
元増田は言う。
「ズートピアはユートピアを意識しているはずなのに、ユートピア文学等を踏まえた批判/論評が盛り込まれていない!つまらん!」
さて思い出してほしい。ズートピアはユートピア/ディストピア的な世界だっただろうか?
初期案(肉食動物に電気ショック首輪等々)であれば、これはなるほどユートピア/ディストピア的世界だと言えよう。
映画があって道路があって、スマホもあるし、屋台、車、電車、etc。職業だって警官からお役人、詐欺師もいれば泥棒だっている。
では、我々の世界はユートピア/ディストピア的だろうか?―もちろん答えは「いいえ」だ。
単に、ズートピアは作品の名前であり、都市の名前であり、ZooとUtopiaの合成語である。
ユートピアの俗語的な意味、すなわち“理想郷”的な意味合いは持たせているだろうが、それだけだ。
ぱっと見、理想郷にも思えるような、動物たちの共存する大都市ズートピア。
そこにも現実の、我々人間の世界と同じように偏見があり、差別がある。そういう世界。
タイトルがユートピアのもじりだからって、ユートピア的世界観なわけでなし、なんでわざわざ関係ない批評を盛り込む必要があるのか。(もちろん盛り込んでも良いが)
ズートピアはZooという単語も含んでいるわけだが、動物学(Zoology)の観点からの批評とか盛り込むべきだと思う?私は思わない。それと同じさ。
以下のブログ記事では「野生」の原語(Biology, Biological)について示してある。(全部ではない?)
よく「相手方と共通点を探して親密度を高めましょう」みたいなこと書かれているけど、
とにかく、色んな個人的な関心事がマイノリティなコミュニティに属している。
(日本の)ネットで探してもコミュニティがほとんどない分野ばかり関心があるので
当然ながらリアルに身の回りにいる人たちと共通点がほとんどない。
ようは「変わった趣味を持つ俺カコイイ」という中二病メンタルが治らないからなんだ。
まあ、世界有数の大都市たる東京に逝けば別なんだろうが、俺は北陸の地方都市にいるわけで
久しぶり。元気にしてた?
偶然の出会いだったこともあり、私の口調は妙に馴れ馴れしく、それでいてどことなく余所余所しいものになってしまった。本当はとても驚いていたはずなのに。胸裏を満たした懐かしさと感慨を、薄っぺらい声色で覆い隠してしまった。
唐突に、そして呆気なく別れてしまったあの日から、もうかれこれ十数年。過ぎ去った月日の分だけ大人になったのはあなただけで、私は私のまま、変わらぬ姿のままで、いま再びであなたと向かい合っている。
けれどもあなたは返事をしてくれない。大きなガラスの外壁越しに聞こえてくる小鳥のさえずりだけが、私たちの間をとりなしている。
ふいに私は、今日まで旅をしていたのと口にした。海を渡り、赤茶けた奇岩がそびえる岩石砂漠を仰いだことを。空を飛んで、湖畔に浮かぶ水上の宿で猛烈なスコールに見舞われたことを。多種多様な人々が行き交う大都市の雑踏を前にしたことや、人っ子一人いない秘境の地で一夜を明かしたことまで、流れるように話し続けた。
ただじっと見つめられるだけの沈黙に耐え切れなかったために――そしてきっと互いの知らない時間を少しでも埋め合わせたいがために――語らずにはいられなかったのだ。
どれもこれもが壮大で美しく、圧倒される出来事ばかりだった。おかげで思いがけず国に戻ってきてしまうくらいに疲れてしまったのだと話の終わりに苦笑すると、あなたが腰を下ろしているソファーのスプリングが微かな音を立てたような気がした。
……ねえ、これからどこへ行くの。何か予定はあるの。
訊ねてみても、あなたは決して答えない。口を開く素振りさえ見せてはくれない。
私の衝動は、もしよかったら、と続けかけたところで行くあてを失ってしまう。ぺらぺらとした薄い小声は、今回もあなたの鼓膜を震わせることができなかったのだ。
十数年前と同じ。私の声は、今も昔もあなたの耳には届いてくれない。たった一度きりでさえ。
かなしい。さみしい。くやしい。
思いが溢れてくる。輪郭が滲んで、身体がふやけてしまいそうになる。
けれど、それでもいまは、たとえ僅かな時間だけでもあなたの側に居られるのなら――
私の表を見、裏を見て、少なからずの驚嘆が入り混じった息を漏らしたあなたは、やがて誰に聞かせるでもなくぽつんと一言独り言ちた。
「久しぶりに見たなあ、二千円札」
そうして私を財布に滑り込ませると、ソファーから立ち上がって足早に移動し始めた。程なくして小鳥のさえずりがはっきりと聞こえてくるようになる。春の陽気に誘われたのか、伸びやかな鳴き声は代わる代わるに響いている。突然、少し強く風が吹いたらしい。一瞬止まった靴音の合間を縫うようにして木々のざわめきがざあざあと降り注いできた。
私は再び歩き出したあなたの小気味良い足音を感じ取りながら微睡んでいく。遠くない未来に揺るぎのない別れを予期しながらも、束の間の安らぎに身を委ねてそっと目を閉じた。
中途採用でいい人材が居れば来てほしいが、目を向けてくれる絶対数が少ない。
同じ地域に同職種の仕事がなければ、Uターン希望者で優秀な人でも来てくれれば万々歳だ。
新卒でも基本は一緒。地元に残りたい気持ちのある学生で、いい人に巡り会えたら儲けものという感覚。
まあ現実は厳しい。
「希望の職につけるなら、地元がいい」という人も、実はそれなりにいる。
が、そういう人が地元のその職に就ける会社を受けても採用されず、結局都会に出ていったという例を、俺は何人も知っている。
「条件さえよければ、場所は問わない」と優秀な人材が面接に来る。
が、近隣の大都市にある別の会社と条件を比べられて、結局はそっちに流れてしまう。
こうして、都会に出たい訳ではない人たちまで、大都市に集中することになる。
企業の方は、地元で人材を確保できず、事業を続けることが難しくなる。
そんな現象が起きていると感じる。
去年の今頃に鬱病で会社を辞めた。会社を辞める前、休職してた頃から精神科に通って1年以上抗鬱剤やら眠剤やらの薬を飲んでいた。会社を辞めて収入もないので田舎の実家に帰ってきた。以来1年間無職。実家に帰ってきた直後は一切家を出ずに引きこもり、親とも顔も合わせられず昼夜逆転というか、ずっと布団をかぶって臥せっているような状態だったけど、医者には通い続けていたおかげか、抗鬱剤は今は飲まなくなったし、眠剤の量も減ってきた。まだ眠剤は処方されて飲んでるし、不眠症状も残っているし、もう数ヶ月は無職だろうけど。それでも最近は外に出て散歩もできるようになってきたし、プログラマだったということもあったので、調子のいい日はそれまで扱ったことのない言語の勉強をしている。androidとiPhoneのアプリをリリースしたいと思いながら作っている。
「まずは朝起きて夜になったら寝るという普通のスタイルの生活リズムをおくれるようにしよう」「その次はもっと外に出れるようにしよう」「それが出来たら毎日勉強をしよう」と少しずつ元の生活に戻りつつあるけど、その中で次を考えるとやっぱり不安になる。「その次は」を考えていった先にあるのは再就職だ。再就職のことを考えるとものすごく不安になる。徐々に良くなっていった調子も崩れる。
もう一度プログラマとして働くか、全く別の職種にするのか。まだ決まっていない。そもそもそれを選べる立場にない。自分の今住んでいるところは本当に田舎だ。電車が2,3時間に1本しか走ってない。最寄りのコンビニまでは歩いて1時間。マクドナルドに行くにも電車で2時間はかかるような僻地。求人サイトなどで求人情報は一切情報はヒットしない。ハローワーク以外に雇用を求められるところがない。ハローワークの求人も見てみたけど、プログラマなんて求人は一切ない。よく分からないパートの求人くらい。しかもどれも運転免許必須。運転免許すら持ってない身なので、応募条件にも当てはまらない。
その電車で2時間かかる位遠くてマクドナルドくらいはあるような都市ならプログラマの求人は多少あるみたいだ。それでも普通の転職サイトじゃ求人情報は一切無くてハローワーク頼りだけど。求人情報数が少ないので、時期によっては一切そういう求人がないかもしれない。
そもそもプログラマであれなんであれ、求人があったとして、自分は採用してもらえるのだろうか。三十路で1年以上も無職期間があるような奴を、受け入れてくれるようなところあるんだろうか。しかも鬱病持ちだ。就活する時には「元」鬱病持ちになっているだろうけど、そんなに扱いは変わらないんじゃないだろうか。
東京や大阪のような求人がもっと沢山あるような大都市でも、こんな人間は雇わないんじゃなかろうか。ウソをつこうにも、1年以上の空白期間は誤魔化せない。1年以上かけてプログラミングの勉強してました、と言ってもすぐにバレるだろう。実際プログラミングに費やした時間よりも寝込んでいた時間のが多いし、アプリを実績として提示してもそれに1年以上費やしたであろうと予想できそうなクオリティは見いだせないだろう。結局正直に鬱病で寝込んでましたって言っても、その事実が変わることはないし、言葉は悪いが、いわば「前科者」であることを告白してるのと変わらない。「今は薬も飲んでないんだね、それなら別に問題ないよ」と言ってくれる会社がそうあるのだろうか。若ければまだ可能性はあるかもしれないが、若くもない。卓越した技術・能力があるわけでもない。
精神状態が健全である人たちからみて、こういう自分のような人間はどう映るんだろうか。同僚に前科者がいたらコミュニケーションを取りながら同じプロジェクトに携わるのはやっぱり嫌なんだろうか。マネージャーから見て、部下やチームメンバーに前科者がいることはこいつはいつか逃げるだろうなと思ってしまうような大きなリスク要因と捉えられるのだろうか。採用担当者から見て、前科者なんて絶対すぐに欠勤しだしたり辞めたりしそうだし時間と人件費の無駄だから雇いたくないと思うのだろうか。
30歳で未経験の職種にトライするというのは普通の人でも結構厳しいのではないかと思う。増してや無職期間がかなりある人間、病んでいた人間だったら尚更だろう。だからプログラマとして再就職するほうが、多少の知識と経験はあるのでまだ未経験の職種に突っ込むよりは見込があるのではないかと思っている。個人でサービスとかアプリ作ってみたという実績も見せれれば、焼け石に水かもしれないけど、多少は足しになるかもしれないと思って勉強している次第だけど、焼け石に水にもならないのだろうか。もう前科者という時点でお断りなんだろうか。どういうスキルがあったらその過去を帳消しに、帳消しとは言わないまでも、雇ってもいいレベルになるのだろうか。
普通の人は自分のような人間をどう見ているのか教えてほしい。多分採用の募集要項に「鬱病・パニック障害などの経験ある人はお断りです」なんて正直に書いてあったら炎上するだろうし、「元鬱病大歓迎!」とも書けないだろうし、正直な態度がよく分からない。匿名だから言えるけど、正直前科者はそのまま自殺して社会に戻ろうとしないで欲しいとか、そういうのでいい。みんな本当はそう思ってるならすっぱり諦めがつく。毛沢東の伝記でも参考にして革命を起こすか、首を吊る。とにかくどう思ってるのか知りたい。それを参考にしたい。希望があるならそれにすがるし、正直みんな一緒に働きたいと思わないなら、それでいい。前科者でもこういう人なら、こういうスキルがある人なら一緒に働いてもいいとか雇ってもいいというのがあるなら教えてほしい。
また、実際鬱病だったけど社会復帰できたという人も多分いるだろう。そういう人はどういう経緯で社会復帰が出来たのだろう。若かったから社会復帰できたのか、元々スーパーエンジニアみたいなタイプで技術力が高いから社会復帰できたのか。どうやって社会復帰できたのかを知りたい。切実に知りたい。今の状況の自分に何があれば再就職の可能性は見えてくるのだろうか、教えてほしい。更に良かったら、金策とかも教えてほしい。
正直お金がない。休職中は一人暮らししていた上に給料もなかったので、元々雀の涙ほどの貯金がみるみるうちに減っていった。去年は健康保険や年金に住民税で更に持っていかれた。田舎から大都市に引っ越して就活しようとも、賃貸の初期費用が20万弱はかかるだろうし、いつまでかかるか分からない就活中の生活費もかかるだろうし、万が一就職できたとしてもその会社の給料が月末締め翌月末払いとかだったら就職しても丸々2ヶ月は収入無しの生活になる。それくらいのお金は残っていない。クラウドソーシングで就活前にそれらのお金だけでも稼げれば…と思っても、あんまり稼げなそうだし、そもそも病み上がりの人間がいきなりフリーで何かこなせる気がしないし、コンペとか勝てる気が一切しないし…
http://gothedistance.hatenadiary.jp/entry/2016/02/24/125121
希望があっても頭金がなければ、これまたどうしようもない。お金だけの問題なら、最悪足りない分借りればいいだけかもしれないけど。
はてブロの今週のお題に「元鬱病の人間についてどう思うか」とかやってほしい。もっと過激なお題を出して欲しい。上場したから余計に無理だろうけど。
とにかく、みんな自分のような人間をどう見ているのか、自分のような人間に社会復帰の希望はあるのだろうか、良かったら教えてほしい。希望があるなら、それに届くように出来る限りのことをしたいんだ。
結論を言おう。それは具体的な遊び方のことじゃない。場所のキラキラ感のことなんだよ。言い換えれば、その場所にいる喜び。銀座、吉祥寺、新宿、原宿。どこでも良いけど、東京都心はそこにいるだけで何か楽しい気分にさせてくれる巨大なエンターテイメント装置であり、そして街の細部までどこまでも探求し続けられる奥深さがある。地方都市にはそれがない。表面的にはキラキラしいても底が浅い。すぐに飽きる。また大都市特有の匿名感も魅力だ。たとえば地方都市でちょっと目立つようなこ(たとえばナンパや路上パフォーマンス)とを続けていたら、確実に(悪い意味で)有名人になってしまう。東京ならばそれはない。この懐の深さも遊びをより味わい深いものにしてくれている。