はてなキーワード: 地名とは
ロシア語の固有名詞、カタカナで書くときに色々表記揺れがあって紛らわしいよね! 表記揺れが起きる原因をまとめといたから、参考にしてね!
これは純粋に日本語内部の問題だから一番わかりやすいね! БладимирВладимирを「ウラジーミル」と書くか「ヴラジーミル」と書くか、Иванを「イヴァン」と書くか「イワン」と書くか、という単純な話だから、好みに合う方を選んでね!
強勢の置かれた母音は長く強く読まれるんだけど、この母音を棒引き(ー)で表現するか否かが問題だね! これはだいたい慣用によって決まっているけど(「イワーン」じゃなくて「イワン」、「ウラジミル」じゃなくて「ウラジーミル」)、別に慣用じゃない表記を使うことは自由だし見慣れない語だとフィーリングで決めたりするから表記揺れが生じる余地があるよ!
ыは日本語では書き表せない音なんだ! でもどうしてもカタカナにしないといけないときがあるよね! そういうときに表記が揺れちゃうんだね! Кадыровは「カディロフ」でも「カドィロフ」でも間違ってないよ! どのみち正確な日本語表記は無理なんだし! でも「カドイロフ」はさすがにどうかと思うな! めんどくさいのが形容詞の語尾で-ныйみたいな形になってるときだね! 「~ヌィ」だと語末のйを無視してるみたいで居心地が悪いし、「~ヌィイ」だと煩雑だし、「~ヌイ」だとなんかыっぽくないよね! こういうときは多少正確さを犠牲にしても日本人にとって一番簡単な表記を選んでおくのがいいよ! だからВерныйは「ヴェールヌイ」でСовременныйは「ソヴレメンヌイ」なんだね! でも別に「ヴェールヌィイ」でも間違いじゃないよ!
ロシア語では強勢の置かれないоは「ア」みたいに発音されるよ! Москваは実際には「マスクヴァー」みたいに聞こえるけど、日本語では綴り通りの「モスクワ」で定着してるよ! っていうか日本語表記では反映しないのが慣用になってるね! Достоевскийは「ダスタイェーフスキー」じゃなくて「ドストエフスキー」、Чеховは「チェーハフ」じゃなくて「チェーホフ」って書くことになってるね! ただし例外的に、Спасибоは「スパシーボ」じゃなくて「スパシーバ」、Хорошоは「ホロショー」じゃなくて「ハラショー」で定着してるよ! でももちろん発音を優先して「ア」って書いてもいいよ!
ロシア語のеは「エ」というより「イェ」であって、теは「テ」というより「チェ」、деは「デ」というより「ジェ」のように聞こえるよ! 強勢があると特に! 逆に強勢がないときは母音が弱く読まれて「チ」みたいに聞こえたりするよ! だからЕкатеринаを「エカテリーナ」とするか「エカチェリーナ」とするかで揺れるよ! まあ実際に聞いてみると「イカチリーナ」みたいに聞こえるような気がするんだけどそんなふうに書くわけにもいかないからね!
еと同じで、тиは「ティ」じゃなくて「チ」、диは「ディ」じゃなくて「ジ」みたいに発音されるよ! なんなら由来を重視して「ヂ」でもいいよ! だからПутинは「プティン」じゃなくて「プーチン」なんだね! БладимирВладимирが「ウラディミル」じゃなくて「ウラジーミル」なのもそういうことだね! まあ別に「ヴラヂーミル」でもいいんだけど! ただ「ティ」や「ディ」に聞こえなくもないところがややこしいところかな! でもやっぱり基本的には「チ」や「ジ」って書いとくのがいいと思うよ!
шは日本語のシャ行の子音で、чはチャ行の子音なんだけど、後ろに母音を伴わないときになんて表記するかが問題だね! 「シュ」と書くか「シ」と書くか、「チュ」と書くか「チ」と書くかってことだね! Эйзенштейнは「エイゼンシュテイン」と「エイゼンシテイン」のどっちでも間違ってないよ! なんなら「エイゼンシチェイン」でも間違いじゃないよ! もう理屈はわかるよね!
語末だと濁る子音の濁りが消えたりするよ! でも表記するときには反映されないね! Петербургは「ペテルブルク」じゃなくて「ペテルブルグ」って書くことになってるよ! ドイツ語の地名は「アウクスブルクハンブルク」みたいに書くことになってるのに不思議だね! たまに「ペテルブルク」って書いちゃう人がいるけどあんま好ましくないね! なんでかというと上で書いたような発音の法則があるから実際の発音に即して書こうとすると「ピチルブールク」みたいな表記になっちゃうんだよね! 「ペテルブルク」だと中途半端なんだね! 発音に忠実に書くのはめんどくさいから綴り通りに日本語にした方がマシだね!
ёは形の上ではеに似てるけど、読み方は「ヨー」だから全然違うね! でも、大人のロシア人は読み書きするときにいちいちёとеを書き分けたりしないんだ! 日本人が「これははんこです」を正しく発音できるのと一緒だね! Аксеновを「アクセノフ」って書いた新聞社があったけど、もちろん正しい綴りはАксёновだから「アクショーノフ」だね! このへん、慣れれば「これってёじゃね?」という目星をつけられるようになるよ!
そして、この文字が表記揺れを引き起こすこともあるんだ! Фёдорは「フョードル」って読むんだけど、たまに「ヒョードル」って書かれたりするよ! もちろん「フョードル」の方が正確なんだけど、「フョ」は日本人には発音が難しいから「ヒョードル」でも構わないと思うよ!
ロシア語のьは軟音符っていうんだよ! この文字自体は発音しないんだ! じゃあ何に使うかというと、前に置かれた硬い子音を軟らかい子音にする(口蓋化する)ために使うよ! 日本の慣用表記だと、軟らかくなった子音はイ段で表記されることが多いんだ! たとえばл「ル」に軟音符がついてльになると「リ」になるんだね! そしてこの文字は、ほとんどすべてのローマ字表記法で’の記号を当てることになってるんだ! でも、論文とかじゃなくて新聞とかの通俗的な表記だと、この’が落とされちゃうことがすごい多いんだよね!
たとえば、большевикиっていう単語をきちんとローマ字にしようと思ったらbol’shevikiになるはずなんだけど、実際はbolshevikiって書かれることがすごく多いんだよね! ロシア語を読める人なら「ボリシェヴィキ」って書くのが正しいってわかるんだけど、ロシア語を知らない人は「ボルシェヴィキ」って書きたくなっちゃうかもしれないね!
そしてこれが語末や子音の前に来ると表記揺れを引き起こすことがあるんだ! -ньという綴りが語末や子音の前に来ると、「ン」と「ニ」の中間っぽく聞こえるよ! だからКазаньは「カザン」とも「カザニ」とも書かれるんだね! ポーランド語のGdańskが「グダンスク」とも「グダニスク」とも書かれるのと同じ理屈だよ!
хは喉の奥から出す「フ」の音だよ! 日本語のハ行とは発音の仕方が違うけど、どの行に聞こえるかと言われるとハ行が一番適切なんじゃないかな? 袴田茂樹先生の妹さんはИрина Хакамадаだし! でもこれ、日本でよく使われるローマ字表記だとkhになるんだ! それに引きずられてカ行で表記されちゃうことがあるけど、間違いだね! ハ行で表記しようね!
яって文字はよく見るけど、何て読むか知ってるかな? そうだね、「ヤー」って読むんだね! でも、これをローマ字に直そうとしたらどうなるかな? 実は、ロシア語のローマ字表記にはいくつかの種類があるんだけど、それらの表記によってяをどう表記するかが違うんだね! イギリスでよく使われるローマ字表記だとyaだけど、アメリカの議会図書館式だとiaになり、そして国際式表記だとjaになるんだ! そうだね、ロシア語を知らない日本人がローマ字表記だけ見ると読み方を間違える余地があるんだね!
たとえば、Настяっていう女の子の愛称は「ナースチャ」って読むんだけど、議会図書館式でローマ字に直すとNastiaになるんだよね! ロシア語を知らない人からすると「ナスティア」にしか見えないよね! 綴りの後半部分はti-aじゃなくてt-iaで切れてるんだけど、そんなの普通わかんないよね! Надяは「ナージャ」って読むんだけど、ローマ字でNadiaって書かれると「ナディア」って表記したくなっちゃうよね! 違うアニメになっちゃうね!
さらにさらに、ローマ字に直すときにяの表記が誤魔化されちゃうことがあるよ! この文字は女の人の名前の語尾によく使われるんだ! たとえば英語の「メアリ」に当たるロシア語の名前はМарияで、日本語だと「マリヤ」って書かれることが多いね! でも、ローマ字にするときにMariaって書かれることがすごい多いんだ! たぶんMariiaやMarijaやMariyaだとわかりづらいと思ったんだろうね! けどMariaって書かれるとロシア語を知らない人は「マリア」って書いちゃうんだよね! Лидияも本当は「リージヤ」なんだけど、Lidiaってローマ字表記に引きずられて「リディア」って書かれることが多いね!
複数の間違いが組み合わさることが多いのがТатьянаだよ! これは女の子の名前で、素直に読み下せば「タチヤナ」になるよ! 議会図書館式に忠実に転写するならTat’ianaになるんだ! 真ん中の部分はt’-iaで切れるんだね! ’がついたことでtが軟音化して「チ」、iaで「ヤー」だね! でも’が省略されていると、iaが「ヤー」だと知らない人は、Tatianaを「タチアナ」って書いちゃうんだ! ひどい場合には「タティアナ」なんて表記されたりするね! そうだね、ti-aで切れると勘違いしてるんだね!
Литвякを「リトヴァク」って書いてある本があるんだけどさすがにちょっと許せないかな! どうやれば「リトヴァク」になるのかな!? もちろん「リトヴャク」が正しいよ! 「ヴャ」は発音しにくいっていうなら「リトビャク」って書いておくといいよ! 「何百」を発音できない日本人はいないよね!
じゃあみんな、юはなんて読むか知ってるかな? そうだね、「ユー」だね! でもこれもяと同じで、yuとかiuとかjuとか色んなやり方でローマ字表記されるよ! だからたまにiuっていうローマ字に引きずられて「イウ」と書いちゃう人がいるんだ! 気をつけようね!
ロシア語は強勢の位置がすごい大事なんだけど、間違えて書かれることがあるんだ! БладимирВладимирは「ウラジーミル」なんだけど、「ウラジミール」って書く人がたまにいるね! チェコ語ならVladimírだから「ウラジミール」でいいんだけどね! 父称のВладимировнаも「ウラジミーロヴナ」じゃなくて「ウラジーミロヴナ」だからね!
たまにロシア風のキャラクタの名前として「イゴール」っていうのを見かけるけど、これは複数の間違いの複合だね! Игорьはロシアの男の人の名前だけど、厳密にローマ字に直すとIgor’になるんだ! そこから’を抜いてIgorにした上で強勢の位置を間違えると「イゴール」になるんだね! もちろん「イーゴリ」が正しいよ!
いくつかの理由があるよ!
これ、つまるところ英語の名詞をカタカナで書こうとするときの苦労と一緒だね! そういえば英語も「発音に忠実な表記を諦めて綴り通りに表記することにしている」場合がすごく多いよね! Bostonは「バッスン」じゃなくて「ボストン」、Donaldは「ダナー」じゃなくて「ドナルド」って書かれるよね! そういう意味では英語とロシア語って似てるね! オラ英語に親近感湧いてきたぞ!
Fateのサーヴァントとか、あんまりメジャーじゃない方の表記ゆれ名使ったりしてる印象があるが、検索避けみたいなこと一応気にしてんのかなと思ったりする。
奈須きのこそこまで考えてないと思うよ!
ま……マジだ! めっちゃ恥ずかしい! ごめん! 気づかなかった! 訂正しといた! 教えてくれてありがとう! Владимировнаの部分は正しく書いてたからそれで許して!
言い訳すると、ローマ字対応のキーボードでキリル文字打ってるから、ボーッとしてるとつい目の前のBってキーを押しちゃうんだ! でもそれを押すとБが出てきちゃうんだ! 稀によくある!
アウクスブルクは煩雑な発音とつづりとの中間点・妥協案的表記であるので,その直後に「ペテルブルクは中途半端でダメ」とか言われれると増田お前自己矛盾してんぞって顔になった。
ごめんね! 正直「~ブルク」ってつく地名なら何でも良かっただけなんだ! よく知らない言語について迂闊なこと言うもんじゃないね! 「ハンブルク」に直してみたけど、これならどうかな?
二十三時過ぎ、ホテルを出て近所にある和食さとへ向かった。道中、大通りをまたぐ信号を待つ間に何となく周りに目を向けると左方のフェンスに簡易な近隣の地図が括られている。近くに池がいくつもあるようだ。興味を惹かれたので食後に出向くことにした。地図を眺めつつ待つも一向に信号が変わらない。押しボタン式だった。ボタンを押ししばらく待つがやはり青にならない。車の通りが収まっていたので無視して渡った。
和食さとでは刺身と天ぷらといくらかの小鉢のついたようなセットを食ったが大して美味くもなく、胸焼けに似たような妙な不快感が残った。
店を出て先の地図の記憶を頼りに池を目指す。時折地図アプリを参照しつつ最寄りの池を目指すとすぐに着いた。四方を柵で囲まれ、セメントで岸を固められた、実用を旨とした何の風情もない水たまりだった。過度な期待をしていたわけでもないので、特段失望もなくしばらく柵に肘をついて暗いばかりの水面を眺めた。
次の池を探して再び地図アプリを開く。目についたのは一つの長方形の区画で、短辺に平行に三等分すると、端の三分の一が池で、残りは陸になっており、碁盤の目に道が走っている。また道の周囲が緑色で表されていることから樹木が茂っていることが窺われる。最も目を惹くのは池の中央に浮かぶ円形の陸で、そこへは陸から小路が一本延びている。いかなる場所だろうかと地図をよく見れば霊園だという。深夜に何の縁もない自分が訪ねるのも罰当たりな気がしたけれども、近隣の住民に迷惑のないよう静かに立ち入る分には問題ないだろうと自分を納得させ墓地へと向かう。
その区画の境界まで着いたが周囲にはフェンスが張り巡らされており入れない。どこかに切れ目はないかと沿って歩くうち、フェンスに括られた地名表示板を見つけた。ここは月輪(つきのわ)だという。
この名前に触発されて月を見る。今夜は多少雲がかかっているけれども月は八分以上満ち、月明かりを確かに感じる。この優れた月の晩に月輪で池と共に月を眺めるのは非常にふさわしい気がして、池への期待が一層高まった。しかし一向にフェンスの切れ目は見つからず結局フェンスに沿って立つ人家に突き当たってしまった。どうにか入れないか迂回路を探すが地図を見る限り確実に入ることのできそうな場所はあれど、霊園を跨いだ対角側にあり遠い。そこまで行くのは面倒だが、諦めるのも早い気がして、回り道しつつ再びフェンス沿いへと歩き戻るうち気づけば他の池の近辺まで来ていた。その池の名を見ると月輪大池とあり、名前から言ってこちらの池の方がよっぽど立派そうなので、霊園の方はやめ、こちらの池に向かうことにした。
その池は名に違わぬ立派な池で、近くまで寄ると鳥居が目に入った。その上部に掲げられた文字を見れば龍王神社だという。龍と池という組み合わせが不穏で、気味は悪いが入って見ることにした。鳥居をくぐると白い石の敷き詰められた参道が長く伸び、道の両脇には石灯籠が一列ずつ密に立ち並び、周囲の闇の中でそれらのみが微光を発するように浮き上がっている。それは幽玄さを感じさせるものではあれど古典的な怪談の舞台のようでもあり、すっと背筋が寒くなる思いがした。足を踏み出すと砂利は一歩一歩が僅かに沈みこむほどに厚く、粉を纏う玉砂利を踏んだときのあの軋む感覚が足の裏を伝わった。参道を歩む途中振り返ると、石灯籠の列が遥かに見え、正面を向き直るとやはり前方にも石灯籠に縁取られた道が長く続く。私は明らかに恐怖を感じた。それでも時折振り返りつつ歩みを進めた。
やがて参道が果て、二つ目の鳥居に辿り着いた。それをくぐり、二、三歩進み周囲を見渡す。正面には拝殿があり、周囲は薄く木々で覆われており暗いが、左方の木立の隙間からはわずかに月明かりが漏れ、その先に池が垣間見える。目が慣れるまで待とうと立ち止まって周囲を見ていると、突然右方から微かにふうふうと浅く早い吐息のような音が聞こえた。慌ててそちらに目を向けるが何もいない。そこには背の低い茂みがあり、その陰に何らかの獣でもいる可能性は否定できないものの、茂みの大きさからいってあまりありそうもない。微かな音だったから幻聴かもしれない。ともかくしばらくその方向を睨んだ後、気にしないことにした。
正面の拝殿に参拝し、木立の隙間から池の方へ抜けようとそちらに向かうと、途中に小さな社があった。そこにも参拝した後、岸へと抜けた。月輪大池は非常に大きく、正面を向くと視界に収まらないほどの横幅がある。奥行きは向こう岸一帯が闇に融けているためはっきりとはしないが、その先にある人家のシルエットの大きさから推するに、それほど深い訳ではないだろう。それでも立派な池だ。月は私の背面にあり先ほどよりもやや濃く雲に覆われ、ぼやけていた。月と池を同時に眺められないのは残念ではあるがしばらくそこに佇み、交互に見た。そろそろ戻ろうと思いつつ、ふと脇に目を遣ると池を跨いで石灯籠の列が見えた。またあの道を行くと思うと気が進まない。「行きはよいよい・・・」などとふざけて呟き、気を紛らわせつつ帰路につく決心を先延ばしにしながら周りを見渡していると岸に沿って道が伸びているのに気が付いた。先を覗くとずっと続いており、先には低い丘とその上には東屋が見える。そちらから抜けることにした。
東屋まで行くと、隣接して高いフェンスで囲まれた芝生のグラウンドがあった。無論人はいない。グラウンドへ入りずんずんと歩く。微風が吹き抜けている。中央辺りで芝生に触れると僅かに湿り気を含んでいるが濡れるほどではない。尻をついて座り、月を眺める。月は一層雲に覆われ今や輪郭も寸断され最早奇形の灯が天に浮かんでいるばかりだ。明瞭に見えたならばどれだけいいだろうと思いつつ、眺めているとしかしこの月も美しく見えて来、私は今更になって朧月なる観念を再発見したのだった(*1)。普段酒を飲まないけれども、この時ばかりはあたりめでもつまみながら飲めたらどれだけ気分がいいだろうかと感じた。準備をしてまた来るのを心に決めた。
ひとしきり眺めた後、地図で帰り道を探す。グラウンドの逆側から抜け、道路を下りつつ戻る道を見つけた。グラウンドを抜けると、公衆便所があり煌々と光を放っていた。少し尿意はあったがまだ余裕があるためそのまま過ぎた。淡々とホテルへと向かう。
しばらく歩いたのち尿意が強まってきた。近くに便所が無いため立ち小便も考えるが違法なので出来る限りは避けたい。しかし同時に私が立ち小便をしたところで、ばれる筈もなく誰が咎めることができるだろうかという不敵な気分もあった。歩き続けるうち住宅地の間に公園を見つけた。それは家屋の列と列の間に取り残された三日月状の領域に造られた小さな公園で簡易な遊具が並んでいる。ここの公衆便所を使おうと外縁に沿って歩きつつ中を伺うが見つけられない。どうやら無いらしい。私は憤慨した。便所のない公園などありふれていることは承知しているけれども、わざわざ今現れなくてもいいだろうと怒りが湧き、本来ならば便所のあってしかるべき空白に、あてつけに尿を撒いてやろうかと考えたが、この静寂の中放尿すればそれなりに音が響くに違いなく、周囲の住人に聞かれることを考えると不安になり止した。私の尿意は限界近くまで高まっていた。地図アプリを見るとまだ二十分以上は歩かなくてはならない。どう考えてもホテルまでもつとは思えないが、ともかく足を進めると、見覚えのある道に出た。行きに通った道だ。記憶を辿ればこの先は道路や建物が立ち並ぶばかりで立ち小便できるような茂みはない。一度足を止める。地図アプリを見るとすぐ右に行けば公園があることが分かったので、歩道脇の草むらを横切り、駐車場を過ぎ、公園へと向かう。この公園は先のとは異なり、庭園やら広い芝生やらがある大規模な公園だった。どこに便所がありそうか見当もつかないが、ひとまず建物が目についたのでそこへ向かった。しかしそこには施錠された建物があるのみで便所は見当たらない。建物に挟まれた道の奥へ行くと芝生が敷いてあり、奥に池、周囲には植え込みがある。この植え込みの陰で済まそうかと考えながら歩いているとある看板が目に入った。曰く、「山の神池では釣りをしないでください」。なんという名前だろうか。信仰心のない私でも山の神を冠する池で立ち小便をするのは流石に気が引けた。道を戻る。もう限界が近く、考える余裕もない。諦念が私を支配した。自らの限界、ただそればかりのためにどんな平行世界においても便所の存在しないような場所を私は尿で汚すのだと、敗北感を感じつつ、間近の立ち小便に都合のいい場所を探して歩くうち、左手に蔦で上方が覆われたプレハブが現れ、「公衆」の文字が目に入った。慌ててその文字の続きを追うと、蔦で部分的に隠れているけれども確かに「トイレ」の文字が続いていた。降って湧いたような都合のいい便所に驚いたが、ありがたく使うことにした。入り口のドアには窓がついており中は真暗だ。スライドドアを開き、中をスマートフォンのライトで照らすが照明のスイッチは見つからない。もしや時間帯によっては電気がつかないのだろうかと不安を感じるも、これ以上我慢できないので闇の中でも済ませるつもりで足を進めるとカチとスイッチの入る音がし、灯りがついた。人感センサーがついていたようだ。無事に用を足した。非常な安堵を感じ、軽快な気分でホテルへと帰った。
風呂に入るなどしつつ明日のことを考えた。出来れば龍王神社を改めて太陽の下で見たい。しかしすでに四時近くになっている。明日のチェックアウトは十一時までで、今から寝るとなるとぎりぎりまで眠ることになるだろう。午後のバイトを考えると十二時頃には瀬田を出なくてはならず、一時間で往復するのは不可能なので恐らくは無理だろうと諦め半分で床に就いた。
翌朝九時過ぎに目が覚めた。まだ眠気はあり、もう一寝入りしようとするも寝付けない。それならばということで、龍王神社を見に行くことにした。
日の光の下では龍王神社はありふれた田舎の神社だった。あの幽玄さを湛えていた石灯籠は改めて見れば妙に小綺麗でそれ故安っぽさを感じさせるもので、大粒の玉砂利に思えた敷石は粒が大きめのバラスに過ぎなかった。しかし歩き心地さえ違って感じるのは不思議だ。昨日は沈み込むようにさえ感じたのが今や普通の砂利道と変わらない。あれだけ長く感じた参道も晴天の下では容易に見渡すことのできる程度のものだった。再び拝殿とその脇の社を拝み、木立を抜けて池の岸へ出る。昨日は闇に融けていた向こう岸も、今や明らかに見え、昨日よりもずっと小さな池に見える。しかし僅かに波打ちつつ光を反射する湖面は凡庸ではあれど清々しく、美しくはあった。
(*1 実際には朧月は春の月に対してのみ言うらしい。)
道を歩いていると、車に轢かれたり人に踏まれたりして虫が潰れて死んでいるのをよく見かける。
そういうのを見ると、たぶんみんな「うわあ」と感じると思う。
俺も思う。
俺の「うわあ」だが、おそらく他の人より5倍くらい大きい気がする。5うわあだ。出社途中に見てしまったりすると、歩いている間中、頭の中がそのことで重苦しい感じでいっぱいになる。
死ぬこと自体はしかたがないが、別にそんな死に方じゃなくてもいい。
そういうわけで、まだ生きているやつは誰かに踏まれる前に俺が拾って植込みとか土の上とかに放りこまれることになる。
自己満足だ。死ぬなら俺の見てないとこで死んでくれ、ということでしかない。とにかく拾って放る。
カナブンも拾うしセミも拾う。カマキリも羽のもげた蝶も拾う。カエルも拾う(虫じゃないけど)。デカい芋虫とかはさすがに無理。
夏になると多いのはミミズで、ミミズはマジで悲惨だ。地中が暑いから表に出てきてら、逃げ込んだはずのアスファルトの方がはるかに高温で焼かれてしまう。
のたくるたびに、まるで「えっ…」と混乱しているように見える。「えっ、おかしいな。熱っ。えっ、おかしいな」という感じ。直接は触れないので木の枝とかに引っ掛けて土の上にどかす。
セミの幼虫とかもたまに死んでいる。抜け殻としてよく見かける透明なやつじゃなくて、羽化するために土から出てきた中身が黒く詰まってるやつだ。
何年も地中にいて、成虫になるために出てきたら潰されて死ぬのか、と思う。
実際のところ、何かの本で読んだが、昆虫には感覚はあっても俺たちのような「心」はないらしい。
だから、体が致命的に潰されても、別に怖かったり悲しかったりはしないのかもしれない。
セミの幼虫が羽化を目の前にして死ぬのだって、人間の目線でそれを大事なステップとして強調してしまうだけで、セミ自身は何も考えていないだろう。何もかも、人間の感傷に過ぎないんだろうな、と思いながら、俺は路上でウロウロしているコフキコガネとかをつまんで土の上に投げてる。
俺は30過ぎで子供がいない。だから、このまま持たない可能性も割とあるが、別に持たないと決心してるわけでもないので、いつかできるかもしれない。
外で小さい子供を見かけるとき、たまに、このぐらいの息子や娘がいたらどういう感じかな、と妄想してみる。
そいつは俺の周りをチョロチョロしながら、路上のありとあらゆるものに興味を示す。生きている虫とか木の実とかなんかの枝とか。その中には、潰れて死んだ虫もあるだろう。
そいつが俺に何か聞いてくるのが怖い。「なんでこの虫は死んでるの?」
なんでって、誰かに踏まれたからだよ。生き物はそうやって死ぬこともあるんだよ。
とは言えない。妄想に妄想を重ねてしまうが、その質問の奥に、もっと手に負えないものが潜んでいることへの恐怖がある。
「僕/私もいつかこうやって死ぬかもしれないの?」「こうやって死ぬかもしれないのに、僕/私は生まれたの?」
路上で潰れて死ぬ虫を見て感傷的になる前に、この世の色んな場所で、「暴力」によって生き物が抗うこともできず死んでいる。
食用の家畜とか、紛争地帯での殺人とか(この二つを同列で扱っているわけではない。念のため)。
「なんで動物は殺して食べてもいいの?」「なんで○○(適当な地名)では人と人が殺し合っているの?」
かなり困るが、そこには答えるためのフォーマットもある。
要は人間が生きていくために根本的に抱えている利己性、ということだと思っている。そんな答えの中に屠殺される家畜への感謝とか、諸外国の歴史とかを織り込めば、一応回答にはなる(正しいかどうかは別として)。
でも、この虫みたいに、いつか何の理由もなく暴力にさらされて死ぬかもしれないのに、お父さんは僕/私を生んだのか、という質問には答えがない。
なんかの宗教に入ってればよかったなあ。困るなあ、と思いながら、子供もいないのに、肩を落としながら今日は散歩をしていた。別にそれでも、俺はぜってえ子供持たねえ、とならないのはいい加減というか、少し恐ろしい話な気もするんだな。
東京に新しく出来た商業施設ミヤシタパークの渋谷横丁内にある近畿食堂が、大阪・京都・兵庫あたりの食べ物を雑にまとめたうえに、冷房の効いたキラキラのビルで「鶴橋ホルモン串」と「西成酎ハイ」をウリにしてるのは、割と全方位に向けた無礼さと失礼さを感じるんですよね。 pic.twitter.com/AbS5PquenF— あしやまひろこ (@hiroko_TB) August 14, 2020
物事は身近でないとわからないといいますが、釜ヶ崎を含む地名「西成」を冠した酎ハイを、渋谷区がホームレスを排斥した公園跡地に民間委託して在京デベロッパーが建設した、高級ブランドショップも入る複合施設で提供するのを見て、やっと「文化盗用」を実感したんですよ。https://t.co/PjnbPwklVx— あしやまひろこ (@hiroko_TB) August 15, 2020
実物見ないとということで、ミヤシタパークで「西成酎ハイ」(499円!!)頼んだんですが、マジでなにコレでした。
難波屋の酎ハイみたいなスタイルですけど、東京都港区のホッピー社が製造する割材と焼酎の組み合わせ。ひどい。
(ていうか今は西成でも普通はサーバから出すじゃんっていう) pic.twitter.com/Xr3GtgIj8d— あしやまひろこ (@hiroko_TB) August 15, 2020
先⽇⾦曜ロードーショーで『打ち上げ花⽕、下から⾒るか?横から⾒るか?』を初めて観て、これがなぜ世間で酷評されているのかが私にはわからなかった。この作品に与えらえた不当な評価を少しでも覆すことはできないだろうか、インターネットの⼤海の中に⼀艘でも肯定的な感想を加えられないだろうか、と思いここに駄⽂を書こうと思う。
誰かに伝えるメディアを持たない私が、おそらく一番⼈⽬に触れる場所、⽅法として本来の⽤途とは違う、この場所、はてな匿名ダイアリーをお借りすることをご容赦いただきたい。
私がインターネット上で⾒た感想、この作品の⽋点としてあげられるものは⼤きく5つに分類される。
・主⼈公に対して都合の良すぎる物語
私は映画化された⼩説、ドラマ化されたアニメ、現代化された古典作品、どれにおいても原作が最も優れた作品だと思っているからだ。また以下の考察はすべてアニメ映画を元にしている。
⽣徒が先⽣同級⽣等に対してセクハラを行うことは、若いからと⾔って許されることではない。実際の教育現場で現在⽣徒たちがどのような発⾔をしているのかは学徒でなくなった私にはわからないが、実態とは関係なくそれを映画館という⼤衆の場で晒すということを、フィクションであるならばこそ考慮しなければならない。
上記は台詞による登場⼈物間で⾏われるセクハラである。そしてもう1つ、映像を通して⾏われる観客へのセクハラも問題だ。それは必要のないシーンでの性描写である。もちろん場合によってそれが必要とされるシーンも存在する。主⼈公である中学⽣男⼦が、ヒロインの揺れるスカートに⽬を奪われることはあるだろうし、後述する都合のいいヒロインは主⼈公の意のままに動くことも肯定される。
しかし、ヒロインが部屋の中で着替えるために下着になるシーン。これは物語にとってこの作品にとって必要だろうか。ローアングルでスカートの中をのぞくシーン、これを誰が求めているのだろうか。せっかく⼈格を与えられて動きだした登場⼈物を、お⼈形遊びによって再び創作物へと叩き落す⾏為は、この作品に限らず、こうした作品においてあまりにも散⾒される。これは私が多くのアニメを観るのが好きでない理由でもあり、⼤衆映画として成功するジブリなどのアニメ映画作品と、ただのアニメとの⼤きな境界でもあると私は考えている。
これは主⼈公が新たなストーリーを始める、過去を巻き戻す、ようにみえる、際に起こる、映像の揺れ、歪みを指す。はっきり⾔って邪魔である。主⼈公の既視感の整合を表現しているのだが、この作品中都合3回も繰り返すのだから、いい加減主⼈公も慣れてくれ。初めの1回で観客は慣れている。この表現の過剰さ、強弱の無さがこの作品をやや分り⾟くしている要因であると私は思う。
以上3点においてこの作品を酷評し、つまらないと思っている⽅はもう少し我慢してこの駄⽂を読んでいただけないだろうか。これから4つ⽬について反論し、5つ⽬のわからなかったという⽅のために私なりにこの作品を解説したいと思う。
好きな⼥の⼦が夏休みの間に転校することを知った、主⼈公はその最後の1⽇を⼀緒に過ごすために、うまくいかなかったこと、失敗したことを、もしあの時こうしていればと、何度もうまくいくまで繰り返す。
確かにこの作品は都合の良すぎる物語である。主⼈公は意のままに時を戻すことができ、ヒロインはいつの間にか主⼈公を好きになる。この作品にはハラハラドキドキという⼭場、⾼揚感が⼀切ない。壁にぶつかっても努⼒無しに乗り越えてしまえば、観客たちは何のカタルシスも得られない。感情移⼊も出来ない。
しかしここに⼤きな誤解がある。この作品はタイムリープものではない。主⼈公は好きなように時を戻すという能⼒は与えられていない。彼は主⼈公だからといって特別な能⼒を⼿にしたわけではない。私たち観客も皆持っている能⼒を使って物語を作っている。それは「もしも」である。
この作品はすべて主人公の妄想である。実際に時を戻しているわけでも、本当のヒロインが主⼈公のことを好きになったわけでもない。ただ妄想の世界で主⼈公が願った通りに物語が進⾏しているだけなのだ。すべてが都合良くいくのはこれが理由だ。
⼀般に妄想で物語を終えることは、くだらない、夢オチかよ、などと⾔われるが、この作品においてはそれが許される。なぜならくだらない妄想への批判こそがこの作品の根幹であり、テーマであるからだ。
単⼑直⼊にこの作品を述べると、
【好きな⼥の⼦が⾃分を好きになってくれない現実を受け⽌められずに、妄想の中で⾃分のことを好きな彼⼥を作り上げる、という思春期の愚⾏】
を丁寧に描いた作品である。原作が、恋愛と友情との天秤を主題に据え主⼈公に⼩学⽣を置いたのに対し、思春期の始まりである中学⽣を主⼈公としたのはここに意味がある。
ではどこまでが現実でどこからが妄想なのだろうか。いつからヒロインは主⼈公に都合良くなっていったのだろうか。この作品の現実はこうである。
主⼈公を差し向けるという形でライバルに振られたヒロインは、親に無理やり⼿を引かれて引っ越す。それを⾒た主⼈公はライバルを殴る。新学期が始まり、先⽣が名簿を読み上げる。そこに転校したヒロインの名前はなく、主⼈公は学校に⾏っていない。
つまり「もしライバルに⽔泳で勝っていたら」からラストシーン⼿前までがすべて妄想である。
妄想であるという根拠は後述するとして、この作品をわかりにくく、かつ魅⼒的にしている謎について先に解説していきたい。
ヒロインは花畑で主⼈公に何を語ったのか。そして主⼈公はなぜライバルを殴ったのかである。
このシーンを境に妄想が始まっているので、妄想の動機、この物語において最も⼤事な出来事であるといっても過⾔ではない。
この物語の中で唯⼀、意図的に観客に隠されているシーンがある。それはライバルの代わりにヒロインを病院へと迎えに⾏った主⼈公と、ヒロインとの会話である。
「なんで島⽥くん(主⼈公)が勝つと思ったかわかる?」
その後に続く台詞は省略され、次のシーンではヒロインは主⼈公から⾛り去ってしまう。これを聞いたことで主⼈公はライバルへと怒り、結果として殴ることになる。ではその内容はどのようなものであっただろうか。
ヒロインがライバルにプールで告⽩をし、花⽕を⾒に⾏こうと誘ったこと。しかし振られてしまったこと。再婚で転校しなければならないこと。そのために「家出」をしたいこと。その後の妄想の種となる部分を聞いたのは間違いないだろう。ただそれだけではないのは明確である。それだけのことなら省略する意味がないからだ。
ここで妄想前後のライバルの変化について注⽬したい。プールで勝ったライバルは、主⼈公がヒロインを好きなことを知っていて、それを応援している。主⼈公とヒロインが⼆⼈きりになるようくだらない理由をつけ、また逆に⾃分とヒロインが2⼈きりにならないよう振舞っている。しかし、プールで負けた彼の態度は⼀変する。主⼈公とヒロインが2⼈きりでいることに苛⽴ち、主⼈公への不満を露⾻に表す。後者は主⼈公の妄想をもとに作られているということは重要な点だ。妄想後にプールで負けたライバルは妄想前にプールで負けた主⼈公と同⼀なのである。
ライバルは⾃分へと向けられているヒロインの好意に気付いていたのではないだろうか。しかし、⾃分はヒロインのことを、少なくとも主⼈公がヒロインを想うよりは、好きではなく、告⽩されても振ると決めていた。なぜならそれに対して主⼈公が苛⽴ち、ライバルへ不満を持つことをわかっていたから。そしてライバルがそのように思っていることを、ヒロインも察知していたのだろう。それが上述の発⾔「(主⼈公)が勝つと思った」につながっている。
転校前に最後の思い出が欲しかったヒロインは、ライバルへの告⽩を決意する。その結果はライバルが⼿を抜くという形で、主⼈公の勝利という形で、実際に想いを伝えることなく、判明する予定だった。しかし、実際には主⼈公のアクシデントによってライバルが勝ち、主⼈公の⼝からヒロインは⾃分がライバルから振られたことを告げられる。
そのことを聞いた主⼈公は、親に⼿を引かれるヒロインが「助けて」と⾔った相⼿が本当は⾃分ではなかったこと、ライバルのヒロインへの適当な態度に対して怒り、ライバルに殴りかかったのだ。
そして主⼈公の妄想が始まる。もしあの時⽔泳で勝っていたら、ヒロインがライバルに振られることはなかったのではないか。ヒロインを助けるのは⾃分だったのではないだろうか。ヒロインは⾃分に対して告⽩してくれたのではないか。
妄想であり、ヒロインは⾃分のことが好きではないとわかっているから、花⽕⼤会へは誘われるものの、告⽩は⽔の⾳にかき消されて主⼈公の⽿へは届かない。
この告白のシーンは主人公自身だけでなく、観客をもごまかし誤認識させている。プールで勝った方を誘うと言うヒロインの言葉をそのまま信じてしまえば、主人公が勝ったことをヒロインが喜んでいるかのように、まるで現実では主人公のことが好きだったのに負けてしまったから不機嫌になったかのように誤解してしまう。制作者は上述した会話の意図的な省略により、ここで主人公と共謀して観客を妄想の中に引き摺り込んでいるのだ。
妄想が進むにつれて、主人公はヒロインを自分の都合の良いものへと作り替えていく。「家出」であったはずのヒロインの⼩さな反抗は「駆け落ち」へと変わり、浴⾐から⽩いワンピースへと⾐装が変わる。
主⼈公は⼀度は変な花⽕の形を⾒てこれが妄想であると気付くものの、妄想の中のヒロインに2⼈でいられるならどっちでもいいと⾔われ、世界を好きなように変え始める。海の上を⾛る電⾞、レンズに囲まれた世界。
「これは典道くん(主⼈公)がつくった世界なんだね」
世界のおかしさを気にする主⼈公に対し、同じおかしな存在である妄想のヒロインは世界をおかしいとは気にしない。その後主⼈公の望み通りにキスをしたヒロインは
「次会えるのはどんな世界かな?」
という⾔葉を残していなくなってしまう。
そして主⼈公は妄想の世界から抜け出せないまま、現実が始まる。主⼈公が今も妄想の世界を渡り歩いているのかは明らかにされずに物語は終わってしまう。
上記の論の根拠となる、妄想の開始位置を示す手掛かりは3つある。
1つ⽬は⾵⼒発電のプロペラの回転方向である。現実では時計周りに対し、妄想が始まると反時計回りに回り始める。おかしな世界になってからはプロペラが回転を止め、妄想世界が破綻すると再び時計回りに動き始める。
2つ⽬は「茂下(もしも)」という駅名、町名である。駅舎や標識などで度々映り込むこの地名は、現実世界では⼀度も登場しない。
そして3つ⽬、ヒロインの表情である。同じシーン、プールサイドでの告⽩で比較するとその差が顕著であるが、現実のヒロインは感情を顔に出さないのに対し、妄想のヒロインは常に笑顔で表情が豊かである。これこそがこの世界は主人公の妄想である明確な根拠と言える。今⽬をつむり、頭の中にあなたの好きな⼈を思い浮かべて欲しい、おそらく彼、彼⼥はあなたに対して微笑みかけているはずだ。
『打ち上げ花⽕、下から見るか?横から見るか?』は、誰しもが思春期の始め、クラスメイト、芸能⼈、またはアイドル等々を相⼿に、通ってきた道、妄想という愚行を再体験させる、素晴らしい⻘春映画だ。もちろんこれは私なりの解釈であり、皆さん⼀⼈⼀⼈の考えを否定するものではない。ただ私のこの⽂章を読んでいただいた⽅が⼀⼈でも、もう⼀度この作品を観返そうという気持ちになって頂けたのなら、幸いである。
自分の知識ベースで書く。この辺日本だと混同されてるというかそんな感じがするので。あと、間違いは結構あると思う。
マオリはNZの原住民だ。当初ニュージーランドはオランダ人が見つけた。オランダにジーランドという場所がある。そこにちなんでつけられた。
ただ、上陸するなりマオリの襲撃を受けて犠牲者を出しつつにげ帰った。
その後に来たのはイギリス人入植者。今のウェリントンのあたりから上陸したらしい。
マオリとイギリス人入植者の間でいざこざがあり、マオリ戦争という全面戦争的なことをしてイギリス人入植者の勝利、ワイタンギ条約を締結して、イギリスの支配下に入った。
当時南島は寒すぎてマオリがいなかったので、イギリスは南島はかんたんに占領できたらしい。
ワイタンギ条約では、英語とマオリ語の翻訳がきちんとできてなくて、確か統治と管理の誤訳からかマオリは、統治権はマオリに残されたと思って条約に納得したこと、マオリの部族が多すぎて全部族との合意が取れる前に条約が締結されてしまったという問題があり、未だに解決していない。というかNZがこの辺の問題に対応し始めたのが割と最近のことだ。
おかげで一部部族は今もニュージーランドはマオリの国であって外国人は出ていくべき、車、家、財産はお前らが勝手に持ち込んだんだから我らが黙ってもらってもモンクは言えない、と言う人らもいるとかいないとか。
ニュージーランドではマオリ語は公用語であり、ニュースでは必ずキアオラ、というし、公的な記者会見ではマオリ語でなにかいう。学校の入学式のようなイベントではその土地のマオリの族長が来て歓迎の儀式をする、ということもやる。国歌の一番はマオリ語、2番は英語だ。
オーストラリアのアボリジニは黒人の風貌でありながら金髪という特徴がある不思議な民族だ。中部オーストラリアに行くと今も血の濃いアボリジニがいる。
大陸北西部には彼らの聖域のような領域があり、地図には立ち入らないようにとか、相当偉い族長の許可がないと入れないとかそんなような警告が書かれている。多分なんの装備もなくそのへんに行ったら途中で遭難してしまうと思う。
オーストラリアはもとはイギリスの流刑地であり、アボリジニは、イギリス人入植者たちの奴隷やハンティングの対象にされてしまった。タスマニア島にアボリジニがいないのは、入植者たちがひとり残らず殺してしまったからだそうだ。
都市部のアボリジニたちは混血が進んでおり、どうやら純血のアボリジニはもういないらしい。中部オーストラリアで薮の向こうからひょこっとアボリジニ一家が出てくるのを見たことがある。
アボリジニたちはひたすら迫害を受けたあと、今度は同化政策の対象になった。生まれたばかりのアボリジニを両親から取り上げて白人家庭に育てさせる、ということをした。
白人家庭で育てて白人の価値観を身に着けさせて名誉白人にしてあげよう、ナイスアイデア!ということかな。余計なお世話だったのは言うまでもないが、政府がそれをやってしまった。
確か2010年くらいの当時のオーストラリア首相がこのことについて謝罪をしたが、マスコミからは非難轟々だった。あの腰抜けふざけんな、頭下げるとかねーよ、という論調だった。
オーストラリアではアボリジニに対する生活保護がかなり手厚いらしく、学校にいかなくても、仕事しなくても食うに困らないそうだ。
その結果、酒とドラッグに溺れるアボリジニも多いらしく、治安を悪くしている、という皮肉な状態にもなっている。
アボリジニ語という言い方かは知らないが、カンガルーというのがアボリジニの言葉で「お前の言ってることの意味がわからない」というのは有名な話だ。
オーストラリアがアボリジニの伝統や文化に敬意を示し始めたのが2000年以降くらいで、エアーズロックをウルルと呼ぶようになったのもその一つだ。最近やっとウルルに登るのが完全に禁止された。
オーストラリアは今でも白豪主義があるので、一部白人は白人以外いなくなれと思っているが、良識的な大多数の人たちからは厄介で困ったやつだなあと言う目で見られている。
10年くらい前のエディトリアルかなんかで、こっちの大学にいる某国の女性たちは、永住権のためにオーストラリア人との間で妊娠狙いのどうしようもない奴ら、とかひどい書かれ方してたのをみたし、そういう記事が発行されてるので、まぁ、そういう人はそこかしこにいると思っていいかもしれない。
景気がいいときと悪いときに特に白豪主義が強く出る印象がある。
アボリジニとマオリに共通しているのは彼らの言葉の発音がなんだか日本語によく似ていることだと感じている。
両国に行くと、アボリジニ語の地名、マオリ語の地名がそこかしこにある。
ニュージーランド最北端にあるケープ・レインガは、マオリ族の死者の魂が旅立つ場所などと言われているし、ウルルには女性が出産するための洞窟があったりする。
これらの民族のことを意識しながら両国を見てみても面白いかもしれない。
両国の国旗は恐ろしく似ていて、オーストラリアに気を使ったニュージーランドが国旗を変えようとして候補をいくつか選定、国民投票の直前でキャンセルするというおちゃめなことをしたが、国旗の成立は実はニュージーランドが先ということはあまり語られなかった。
目からビームを出すキウイと言う国旗案がなにげに支持を集めていたので、そういうのりの国でもある。
オーストラリアとニュージーランドの間では結構緊密な仲になっており、軍隊はANZACというオーストラリアニュージーランド連合軍という形をとっていて、第一次世界大戦でのガリポリの戦いで活躍した。おかげでトルコ人からはすこぶる評判が悪い。
オーストラリアはたまにだけどニュージーランドをオーストラリアの州にしてはどうかという人が現れる。
ニューサウスウェールズ、ビクトリア、クイーンズランド、南オーストラリア、西オーストラリア、ノーザンテリトリー、タスマニアにつぐ第8の州にしたいらしいがいつもいうだけで終わる。
あと、ごく最近、ニュージーランドが定義上大陸ということがわかった。大陸棚が凄まじく広く、その面積がグリーンランドを超えるらしい。これによって大陸というのは、グリーンランドより大きな島、という定義を学んだ人は多いと思う。でも大陸棚を含んでいい、というのはなんかインチキ臭いなと思っている。
ピッコマで色々読んでるけど、基本的に人名を全部日本名にして、
確かに人名なんかは助かる部分もあって、中国人名はともかく韓国人名は全部カタカナだから、キャラが増えるとすぐ誰が誰だか分からなくなってしまうんだが、
人名以外は正直やりすぎな感がある。
絵は一部ローカライズされてて、お札なんかを円にする努力は凄いけど、車は左ハンドルで右側通行だし(セリフと絵で手足の左右が逆になってる作品もあったんで、ひょっとしたら左右反転させる所までやってる作品もあるのかもだけど)
どっから見ても中国にしか見えない都会で仙術修行してるくせに全員日本人名だし、
有名和食料理店でチマチョゴリ着て焼肉と韓国茶出しながら味噌と醤油について語ってたりとか、自衛隊で戦友が戦死した経験談とか、どー考えても無理な所まで日本に寄せ過ぎて逆に違和感バリバリなんだが。
「地名の粒度」としてはその通りなんだけど、東京は規模がでかすぎるので、都心の駅ひとつひとつに対して市街地が成立してしまう
「○○区××」の粒度でしかないのに、「△△町」あるいは「□□市」と同じぐらいのパワーを持つ
知らねえんだよてめえらの住んでるところのローカル地名なんかよお
日本人なら全員山手線各駅の街についてザックリ知ってると思ってんのか?
知らねえよ
池袋は金玉袋の町で新宿は地面がジュクジュク、田園調布の田園、超深いw 渋谷名物シブイヤベース、八王子には王子が8人、くたばれ!
まず俺が東京のクソどうでもいい地名、粒度で言えば立江とか羽ノ浦とか土崎とか川尻とか、何?どこ?って感じの、市ですらねえようなのの名前を知っていること、知らざるを得なかったことがおかしいんだよ
気持ちわりいしゃべり方の東京人がテレビで延々クソどうでもいいローカル地名をさも当然のような顔で垂れ流しやがったせいで俺ははじめて東京に行ったときあたり中知ってる地名ばっかりでびっくりしたんだよ
つか東京だけじゃねえんだよな 関東の人間はとにかく傲慢、表情がキモい、口調が嫌、性格が悪い、センスが悪い 最悪
ニコタマ、川崎、横浜、あと何だ、知らねえけどとにかくいろんな地名を知ってて当たり前って態度で語ってくるその姿、許せん
そんでさあ鹿児島ってどんなとこなの?とか言ってくんだよな 殺すぞ・てめえの街には何があるんだ・俺は知らねえぞ・知っていてやらねえぞ
東京近郊に生まれておきながら弱者ヅラする人間もウザすぎる 都心まで2時間かかるよ〜wではない、俺は飛行機に乗らねえといけねえんだよ都心によ、つか人生で2回しか行ったことねえんだよ東京、嫌な街だ、滅んで欲しい
テレビつけてさあ、「皆さんにも是非おすすめのスイーツ」つってるその店の所在がまあ東京なんですわ ここは東京じゃねえの まあそりゃマドリードでもモンテビデオでもうまい店があるなら紹介はするんだろうけどさ、そういう紹介ってどこかリモートな感じというか、慎みがあるというか、世界にはこんなところもあるんです、行けたらいいですね、っていう、憧憬にも似た感情の篭ったものじゃない
東京の店の紹介は下品なんだよ、当たり前に週末いける、なんなら今から行っても間に合いますよ、ここで紹介しちゃったからには明日から行列かもね!そういう俗っぽさが滲み出てくんだよな しかもそれを全国ネットでやっちゃったりしてもう恥を知れ!!!!死ね!!!!!!
知らねえんだよ1000kmも離れた街のベーカリーのパンが美味いからなんなんだよ買えねえんだよ一生いかねえよそんなとこ女将の人柄がいいからなんなんだ嫌味かぶっ殺すぞ
全国ネットどころか全世界ネットのところでいち都市のローカルネタを知ってて当然の前提知識みたいな扱いにするな ホンマにゴミ
「どこにでもある」とか言って関東にはすげえ数あるけどこの辺には全然ないチェーン店の名前出されるとガチで叫びそうになる お前のどこでもドアは関東圏でしか使えなさそうですね 俺は謙虚さを知ってるから「どこでも」の意味も正しく理解できる
東京・神奈川・埼玉は俺にとって不倶戴天の敵でありそこ出身の奴がいたら本能的に嫌ってしまう
生まれついての貴族かつその自覚がないようなやつばっかりで最悪
トンキンなんて言葉があるが、ありゃペキンに失礼だぜ 東京なんかと一緒にされちゃあ可哀想だ 東京は東京って呼ぶしかないんだよ それ以下の存在はないんだからねえ
(追記)
テレビは持ってないぞ!
そして憎悪をかき立てられる
つかテレビだけじゃなくてネットもダメつってんだろ DPZとか好きだけど、東京ネタが出てくるたびにキレ気味になってんだ俺は