道を歩いていると、車に轢かれたり人に踏まれたりして虫が潰れて死んでいるのをよく見かける。
そういうのを見ると、たぶんみんな「うわあ」と感じると思う。
俺も思う。
俺の「うわあ」だが、おそらく他の人より5倍くらい大きい気がする。5うわあだ。出社途中に見てしまったりすると、歩いている間中、頭の中がそのことで重苦しい感じでいっぱいになる。
死ぬこと自体はしかたがないが、別にそんな死に方じゃなくてもいい。
そういうわけで、まだ生きているやつは誰かに踏まれる前に俺が拾って植込みとか土の上とかに放りこまれることになる。
自己満足だ。死ぬなら俺の見てないとこで死んでくれ、ということでしかない。とにかく拾って放る。
カナブンも拾うしセミも拾う。カマキリも羽のもげた蝶も拾う。カエルも拾う(虫じゃないけど)。デカい芋虫とかはさすがに無理。
夏になると多いのはミミズで、ミミズはマジで悲惨だ。地中が暑いから表に出てきてら、逃げ込んだはずのアスファルトの方がはるかに高温で焼かれてしまう。
のたくるたびに、まるで「えっ…」と混乱しているように見える。「えっ、おかしいな。熱っ。えっ、おかしいな」という感じ。直接は触れないので木の枝とかに引っ掛けて土の上にどかす。
セミの幼虫とかもたまに死んでいる。抜け殻としてよく見かける透明なやつじゃなくて、羽化するために土から出てきた中身が黒く詰まってるやつだ。
何年も地中にいて、成虫になるために出てきたら潰されて死ぬのか、と思う。
実際のところ、何かの本で読んだが、昆虫には感覚はあっても俺たちのような「心」はないらしい。
だから、体が致命的に潰されても、別に怖かったり悲しかったりはしないのかもしれない。
セミの幼虫が羽化を目の前にして死ぬのだって、人間の目線でそれを大事なステップとして強調してしまうだけで、セミ自身は何も考えていないだろう。何もかも、人間の感傷に過ぎないんだろうな、と思いながら、俺は路上でウロウロしているコフキコガネとかをつまんで土の上に投げてる。
俺は30過ぎで子供がいない。だから、このまま持たない可能性も割とあるが、別に持たないと決心してるわけでもないので、いつかできるかもしれない。
外で小さい子供を見かけるとき、たまに、このぐらいの息子や娘がいたらどういう感じかな、と妄想してみる。
そいつは俺の周りをチョロチョロしながら、路上のありとあらゆるものに興味を示す。生きている虫とか木の実とかなんかの枝とか。その中には、潰れて死んだ虫もあるだろう。
そいつが俺に何か聞いてくるのが怖い。「なんでこの虫は死んでるの?」
なんでって、誰かに踏まれたからだよ。生き物はそうやって死ぬこともあるんだよ。
とは言えない。妄想に妄想を重ねてしまうが、その質問の奥に、もっと手に負えないものが潜んでいることへの恐怖がある。
「僕/私もいつかこうやって死ぬかもしれないの?」「こうやって死ぬかもしれないのに、僕/私は生まれたの?」
路上で潰れて死ぬ虫を見て感傷的になる前に、この世の色んな場所で、「暴力」によって生き物が抗うこともできず死んでいる。
食用の家畜とか、紛争地帯での殺人とか(この二つを同列で扱っているわけではない。念のため)。
「なんで動物は殺して食べてもいいの?」「なんで○○(適当な地名)では人と人が殺し合っているの?」
かなり困るが、そこには答えるためのフォーマットもある。
要は人間が生きていくために根本的に抱えている利己性、ということだと思っている。そんな答えの中に屠殺される家畜への感謝とか、諸外国の歴史とかを織り込めば、一応回答にはなる(正しいかどうかは別として)。
でも、この虫みたいに、いつか何の理由もなく暴力にさらされて死ぬかもしれないのに、お父さんは僕/私を生んだのか、という質問には答えがない。
なんかの宗教に入ってればよかったなあ。困るなあ、と思いながら、子供もいないのに、肩を落としながら今日は散歩をしていた。別にそれでも、俺はぜってえ子供持たねえ、とならないのはいい加減というか、少し恐ろしい話な気もするんだな。
いい人そう