はてなキーワード: 勝手とは
背景
トゥワレグ人は昔はサハラ奴隷貿易をやっていて黒人を奴隷にしていた
ちなみにトゥワレグ内の奴隷階級(ハラティン・ベラ・イクランなど地域によって名称が異なる)は自由民と同数~2倍超とも言われる
黒人を奴隷階級として差別しているわけだから、当然マリやニジェール国内では他の民族(黒人)と対立している
2010年代にはリビアの政権崩壊により傭兵だったトゥワレグ人が無職のチンピラとなり大量に帰還
さらにアルカイダ系やイスラム国系のテロリストも侵入し、トゥワレグ人反乱軍と結託して黒人虐殺を開始
マリ政府はフランス軍にトゥワレグ人反乱軍を掃討してもらうが、全く役に立たない
激怒したマリ国軍がクーデターを起こしロシアのワグネル(現在はアフリカ部隊と改名)と組んでテロリスト討伐の成果を上げつつあった
ロシア軍がアフリカで善行を働いていることを憎悪した黒人差別主義者のウクライナ軍がマリに侵略
トゥワレグ人反乱軍を勝手に支援してマリ軍兵士600人を捕虜とし、火あぶり・生き埋め・食人などの方法で処刑
いや何様なんだよ接客業辞めろ。これはマジで接客向いていないからその仕事辞めた方が良いと思う。お引きこもってオナニーでもしてろ。互いにとって良くない。その程度のコミュニケーションにすら嫌悪を感じるのに何故接客業やってるんだ。他にもっと向いている職種あるだろ。こういうのがダメな人が接客業に向いてないってのは事実だと思う。こういう客は絶対いるし続けると擦り減る一方じゃん。だってこれからも同じことが何度もあると思うけど、我慢して接客業するの?俺はハッキリ言って向いてないと思う。別の仕事のほうが精神が楽だろこれが嫌かどうかで接客業というかコミュニケーション向いているか別れる気がする。たいした人格じゃないからこんな事にいちいち反応するのでは? 接客向いて無さそう。コミュ障が過ぎる。他人のどうでもいい発言を受け流せない人なんだろうな。生きてるだけで毎日嫌なこと、不快なことだらけでヘトヘトになりそう。違う日には同じ口で「いらないの一言だけ言う人が嫌だった。人扱いされてないと思った」って言ってそう。望んで不幸になりに行ってるように見えてしまうけど、本人にはどうしようもないのだろう。この程度でイラつく人が接客業やってるのは怖い。知り合いがこんなことを言ってたら距離取るわ。接客業向いてないアピールいらんて。この程度で嫌とか言ってたら人生何もできないだろいちいち気にしすぎだ。マンボウかよ。デリケートすぎるだろ。人のやることなすこと◯◯アピールって言い出す人がこういうこと言いそうで今現在嫌な気分です。
理由言っても言わなくても「はーい、承知しましたー。◯◯円になりますー」とか言えばいいだけじゃないの?「要る」「要らない」以外の発言はノイズとして処理すればいいだけ。質問してるのに無視する奴よりはマシだろ?お前の丁度いいなんてこっちは知らんし。まぁ、ノイズだよね。他人の出すノイズは許せない。自分の為の必要な情報以外は出すなってのは、ちと社会性がないよ。今の時代、こういうこと言うと「スモールトークができない人=コミュニケーション能力が低い人」という烙印を押されるよ。そんなに嫌か?人生生きづらそう。お互いもっとおおらかに生きようよ。いちいち理由言う必要ないのは分かるけど、わかりましたーで軽く流せばいいだけなのに、わざわざSNSに書くって時間の無駄&余計に疲れないんか?
そういうの飲み屋のネタとしてなら成立するが、本気だとしたら人間力低いと見做され見下される。これ以上傷つかないよう接客業をやめたほうがいいんじゃないかと思う人は非人間的か?モンスターASD自己中店員だ。そう尋ねる理由は特定条件でそういう鳴き声を発するように職場で命じられているからが唯一の理由かもしれないし、以外の理由かもしれないし、客も個別店員の事情なぞ知らんがな。
喋りたいんだから喋らせてやれよ、それが接客業っつーもんなんだから。この人はいちいち100%全部自分の中に入れるから大変なんだわ。スルー力を見につけろよと。 「そうですか」で終わりのことにいちいち反応せんでよろしい。他人は変えられないから自分が変わるしかないの典型例。勝手に嫌な気持ちになるのは損でしかない。生きるのつらそう。
手で食えっていうのか!とか言ってくる訳じゃないし気にしなきゃいいだけでは?
まあネットでたまに見かける「店員に顔を覚えられたら店変えちゃうくらい嫌」な客と相性がよさそうな店員さんだ。接客業をルーチンワークだと思ってると、決まったこと以外が嫌なのかな。店員も無駄な動きを一切しないのかな。不寛容が極まっている感がある。自分もかつては子供だったことを忘れたのかな。どうでもいいことでお気持ち表明する繊細くんがネットに多すぎる。
しかもなんで嫌だったのか説明がないのでモヤる。こういうツイート (ポスト) すごく嫌だ。こういう主張見ると、本当に多くの人が心を病んでいるんだなと感じる。こんなことを「すごく」嫌だと思う人は先天的か後天的か知らんがキャパなくなってるんだろうな。
コミュニケーションが嫌なのに客が店員にありがとうとお礼を言うのが良しとされる風潮はおかしい。どちらも距離を詰める行為ではないか。"コンビニ接客なんぞに自分の大事な人格を使いたくない"客も同じだよ。キモくて金のないオッサンのくせに、コミュニケーションしようとしてくんな!ってことでしょう?横浜流星みたいな若くてイケメンの客だったら「そうなんですか~!ありがとうございます」(にこ~)だろうよ。
この人は関西、特に大阪に住まないことをオススメする。このレベルで無理なら関西で接客業とか卒倒するんじゃないかな?おばちゃんとか天気なんてざらでツレなの?レベルの会話繰り出してくるぞ!知らんけど。客の”いちいち説明”部分がツッコミ待ちの可能性すらあるから、無機質な人にはストレスマッハでしょう。内面まで効率的なオペレーションに最適化されてしまうことのない人生経験積んだおじちゃんおばちゃん店員に当たるとほっとするよね。ほな、さいなら。他人とのコミュニケーションに一切コストを払いたくないって人とは友達になりたくない。
つくづく男ってイージーだな
こうやって女の容姿を中傷して自尊心を削れば、女の方が勝手に手間隙かけて容姿を整えてくれる
男女逆だったら男は被害者面して逆ギレするだけだもんな(例「清潔感はルッキズムだ!!」)
小学生の時、少し体毛が目立っている女の子がからかわれ号泣。お母さんに相談しても「小学生がムダ毛なんか気にするな」と言われたらしく困ってた - Togetter [トゥギャッター]
と、ブックマーク
[B! 教育] 小学生の時、少し体毛が目立っている女の子がからかわれ号泣。お母さんに相談しても「小学生がムダ毛なんか気にするな」と言われたらしく困ってた
を眺めていて、ちょっとどうなの?と思うコメントが結構あるなあ、という印象。
一応、自分の前提を書いておく。
○身体的特徴、ここでは体毛の濃さをからかう奴は、きっちり叱られて、今後言わないように教育すべき
○一方、「子どもたちのコミュニティーで、身体的特徴をからかう子が一人もおらず、全てを個性として尊重する」というのは、超理想状態であり、少なくとも今後50年での実現は難しいだろう
○身体的特徴に対するからかいをかわすために、子どもでも安全かみそりで剃毛するのは全然ありだと思う
○からかわれている子に「からかわれても気にするな」と言うだけで済ますのは、ちょっとリスクが高い
@umeumammy
小学生の頃 男子より毛深かった私。いじめも辛いのに母に相談したら「子供のくせにそんなん気にするほうが悪い!」と強く叱られて更に辛かったな。
○子どもに医療脱毛やエステ脱毛をするのは、早いと思う。けれど、もし「脱毛をさせてくれないなら、からかわれることに精神がもたない」というなら、検討しなくちゃいけないかも……
じゃ、途中までだけど、ぶった切るね。
dogdogfactory でも子どもって変なことをすごく気にしたりもするからなあ。自分は、唇ってよく見たら気持ち悪いなっておもって一時期なるべく唇を隠すようにしてた。そういうのは「気にするな」としか言いようなくない?
毛は安全かみそりで剃れば、子どもでも安全に剃れるもの。一方、唇の形状を変えるにはメスを肌に入れる必要があるから、別物でしょう。
「男子」がどの程度の範囲を指すかは分からないが、少なくとも「昔より」処理する男子は多くなっている。「昔より」を欠落させたのは落ち度だが、風説の流布とまで言えるかどうか。
TakamoriTarou 他人にそういう言葉を投げつけるな、って方向の話が出てこないのがなんとも。処理してる子こそが次の加害者になりがちなので、内情は勝手にすればいいけどそっちはちゃんとしてほしい
「他人にそういう言葉を投げつけるな、って方向の話」は、当たり前過ぎて出ないだけ。
下のgaumashさんともども、何か勝手に、処理している子が次の加害者になることを心配しているけれど、それこそ風説の流布なのでは?
ちっちゃい時だから人目を気にするんだよ。自分一人ではどうあがいても生きられないのだから(人間の大人も、一人では生きていけないけれど、より切実に感じているという度合いでね)。
gaumash 『処理してない人を見るとイラっとする』ってコメントがあるように、一部はすでに加害者になってそうなんだよなぁ…自分が苦労したから、で他人にも押し付けるのはよろしくない
「モジャ公」とからかっていた男子自身が、ボーボーであることへのいらだちであり(注:からかっていた男子と、ボーボーの男子は恐らく別。主語が大きい)、別に体毛を処理しない女性へのいらだちではないと思う。
tetsuya_m 俺が小中学生だった時(つまり昭和)の頃ですら、女子にそんなこと言ったら駄目という配慮はしてたけどそういうこと言うアホ男子もいた気がする。本来はアホ男子が叱られるべき案件
叱られるのは当然なの。
きっかけのポストに戻ると、それでも言う奴はいるし、言われて傷つくなら、その子が脱毛(剃毛)したいと思うのも、しょうがない(自然だ)と思う。その思いを、親から「小学生がムダ毛なんか気にするな」なんて否定されたら、悲しいよね。
nenesan0102 この手の話で、揶揄うのって男子ばっかり。人の身体特徴をネタにするなと徹底的に教育してほしいんだが
女の子だって、男子を揶揄していたよ。ソースは俺。でも、たぶん男女問わず「まあ、女子からのからかいもあったよね」とは思うはず。さすがに「男子ばっかり」とはならない。
nabe81 体毛処理させた後に「顔が男みたい」って言われたら子供に寄り添って整形させるの?子どものくせには言い方ダメだが、大人が対応すべきは茶化した方で美容を推進する事じゃないだろ
全くミラーリングできていない。何で安全かみそりで処理できる体毛と、顔にメスを入れる整形を一緒にしてるの?
「大人が対応すべきは茶化した方で美容を推進する事じゃないだろ」は、前者は当たり前のことなの。一方、子どもが気になることで、簡易(安価)に対応できるなら、対症療法的にやってもいいだろ。痴漢に置き換えれば分かるでしょ?「対応すべきは痴漢を罰し、撲滅することであり、女性専用車両を導入する事じゃないだろ」って言ったら、「いやいや」って思わない?俺は思うよ。女性専用車両は受忍できる男性差別として、女性に車内でわいせつ行為をする男性がいなくなるという理想状態になるまで、残してほしい。
女性専用車両って、「女性に車内でわいせつな行為をしたい」という、痴漢(クズ)の価値観があって(価値観の存在に合わせて)できている制度だけど、それを否定するということなのかな?
クソ下らん感情なんだけど
こういうのは大抵サブカルチックになって
年齢が上がって「格好つけ」が難しくなると
30代になってオタクを続けられなくなったとか勝手に語りだすタイプ
総じてクソ
バカなりに飲み込めねェこともあるんだよな
制度そのもののメリットもよく分かってねえんだが、「強制じゃない」って言うし、ただお上から勝手に番号が振られるだけだっつーから、ほんならまあ好きにしとくれや、くらいに思ってたんだ
これまではな
どんだけ「今マイナンバーカード作ればポイント還元!」って言われてもよォ、バカだからカード作ったところで何に使うんだと思って作らなかったし、必要な場面がなかったからずっと個人番号通知書のまま放置してた
そしたらよ、健康保険証廃止だっつーじゃねーか。おいおい、話がちげーよって!
任意だっつーから、これまでほっといたんだぜ。でも、健康保険証にまで食い込んできやがったら、そんなん、マイナンバーカードを持ってない人間が明確に”不合理”になるじゃねーか
そりゃよ?カードがなくても、資格なんちゃら証とかいうので、これまで通り病院にかかれるって言うけどよ。オレぁ昔、病院の事務バイトをしてたことがあってよう。”イレギュラー”の患者の処理がどれだけ面倒か、そこそこ分かってるつもりでさあ。今、マイナンバー所持率って7割くらいだろ。ほんで、これからそれが当たり前になるわけだろ。”持ってない”患者、スゲー迷惑になるじゃん。オレぁバカだけど、他人に迷惑かけてまでデケー顔はできねーんだ
そいでここにきて、免許証一体化?おいおい、勘弁してくれよ。しかもしれっと現行免許証の更新料が上がってんじゃねーか。これまた持ってない人間が”不合理”、っつーより不利になる話だよな
オレぁ納得がいかねえんだ。「任意」「強制じゃない」って話だったろ?なんでいつの間にか、生活の基盤にまで侵食してきてんだ?
重要な根幹にしたいんだったら、最初から言ってくれたらよかったんだ。「全国民共に共通のカード持たせたい」ってよ。そしたらバカなオレは「まあお上が言うなら…」って飲み込んで、カードでもなんでも作ってたってもんよ
オレは納得いかねえよ。どうしても
ペニをないつでも仕舞えるようになりなよ それがエロくないエロすぎない…
自分も元々1stアタックで砕けてたし、キモがられてもいたはず
今思えばエロすぎた
ガツガツしててもモテるやつも多かったから、ペニが常に悪いというわけでもなく、あふれ出る性欲とペニ力のバランスが悪かったり、相手との相性が悪かったりなんだろう
小学生~中2ぐらいまでは女の子と仲良くできるほうだった(今思い返せば。当時は無意識)のはペニが小さかったからかも
運よく相性良い女の子見つかって、そのこと一生添い遂げようとしていた時期はモテたというのとは違うが、ペニ隠しが出来ていて異性と普通に話したり、ご飯行ったりできた
浮気が大嫌いなので、こっちに彼女いない時期でも、相手が夫(恋人)帯者の場合は自然に接することが出来た
モテるでしょ? とか、別れたら付き合ってよ、とか酷い時は出会うのが遅すぎたねって勝手に泣かれたり
んで、じゃあモテるようになったのか? と言われたら全然そうではなくて、おっぱい揉みたい(本音のところは吸いたい)オーラやペニ半勃ち状態を察知されて引かれる
それに気づいてからは、女性を接する際に煩悩に負けそうになったら念仏を唱えるようになった
女性経験がないので、まずはそれを積まなければいけないのだが、そこに至れないというケースのいくらかは、ペニ隠しで回避できるだろう
子持ち側からすると、こういう友達助かる。ふと空いた時間とかに連絡して暇してる可能性が高いから。父でない俺を思い出させてくれるから。
お前が自分から勝手に抱え込んだストレスの息抜きに他人を利用するなクズが
子無しは子持ち様のインフラじゃない
承認欲求を主成分とする平成後期〜令和のオタクインターネットが芯まで染み込んだ、媚びと話題性こそ正義とするクリエイティビティの墓場のような感性に目眩すら覚える。
20世紀カップヌードルや、NO BORDERのような尖ったCMを作っていた日清はどこへ行ってしまったのだろうか。
今の日清CMの感性でFREEDOMをやったらしぐれういがキャラデ担当で、推し活に悩む未来の大学生の話とかになるのかねぇ…バズネタのパロディやネットミームを織り交ぜながら、ギャグシーンでは作画が大川ぶくぶの絵柄になったりして。
それで、たまに渋いネタも仕込んで、Z世代以上の年齢層にも訴求するSFネタで媚びてきたり。ガンダムとか、エヴァとか、カウボーイビバップとか、電脳コイルとか。
はぁーやだやだ。
うるせえ。指図するな。俺は反AIだが、
いちいち森羅万象に批判してられるかよ。そうやって煽ればオタクがお
びき出されると思うなよ。だいたい、そのX(Twitter)の投稿を知っている奴なんて
いるのかよ。お前の中で勝手に炎上している扱いになっているけど、ただお前がそうし
むけているだけだろ。実際は誰も相手にしてねーだろ。
正確に言えば、私の関心を俗世に繋ぎとめておく軛として配偶者より適当な仕組みがこの社会に存在しないんだ。
心底では他人に関心がなくて、素面では他人と対等の付き合いしか信じることができないからしがらみとしての結婚が必要なんだ。
結婚でなくてもいいが、しがらみが。
あなたがたの言いたいことはこうだ。他人に興味がない社会的欠陥動物が無理して結婚など目指すな。一理ある。
結婚に向かない人というか、一人でいることが最も心地よく、もしかすると周りにとっても善であるような性質の人間がいることは承知しているし、私もそのようであるという自覚がある。
だが同時に、いみじくも『最強伝説黒沢』でゲストキャラのおっさんが独白するように、人間は強制されてかろうじてまともだ。私もそのようであるという自覚がある。
人間に目指すことができるのはせいぜい短期的な報酬だけだ。長期的な野心を抱く人間も短期目標の積み重ねそれ自体を報酬として野心を維持しながら長期目標を目指すのであって、我々はそういう作業ができる人間のことを解決力とか実行力があるとか呼んでいる。
私はまとまったカネを要する種類の欲をまったく持たないので、短期的に私が心地よいようにするとあまりにも失う社会性の量が過大になってしまう。後に社会に復帰するのに必要な弾性ごと失うほどに。
もし社会性を完全に捨て去った私が幸福の最大値を目指すなら、私のすべき行動は今すぐ退職して生活保護費を申請し、読書と惰眠、自慰、あるいはPCで完結する創作趣味に明け暮れながら自殺までの時間を気ままに遅延することになる。
今現在の私が不本意にもそのような理想的生活状況にないのは、既にして私は本当には一人ではないからだ。
カネを必要としていない私が曲りなりにも職に就いているのは、あえて両親を泣かせたくはないというのと、学生時代に得た数少ない友人との付き合いに負い目を作りたくないという気分が理由のおおよそになる。
資産を持たず、浮世を捨てたほうが心地よいと信じているのにそうしないのは、数少ない私が気にかける人がもし困窮したときに私が伸ばせる手がなくなるからという、いうなれば不安のためだ。
これは災害的、ポアソン的なイベントに対する備えのようなもので、「その時」に至るまでの報酬は何もない。
マメな友達付き合いというのも好まないから、本当にない。ただ生活の荒野があるだけだ。この空白地帯を超える術をしがらみの慣性力のほかに私は知らない。
ところで、ここまでの話に配偶者は登場しなかった。既にいる私の気にかける人たちが目的であり、同時にしがらみであったからだ。
次に私が恐れているのは?いずれ私が生活に摩耗する間に彼らの存在が後者として機能しなくなったのに、前者としてのみ残ってしまうような事態を恐れている。
私は多分、両親や友人を無視することを容易に合理化できる。自己都合で私を生み落とした両親がどうなっても究極的には自業自得だし、対等な立場であるべき友人の人生にお節介であまり立ち入るべきでもない。
とはいえ自分の内心についての予断はロクなものではなく、いざその時を迎えて、実際に私が不幸ではないかどうかは、したい賭けではない。今はそういう判断をしている。
いや、あなたがたの言いたいことは分かる。互いに迷惑をかけるのが健全な人間関係だと。
しかしながら、互酬的なフェアネスを想像することは難しい。私が物理的に距離の遠い彼らに対して望むことなどほとんど何もないから。
書いてるうちに気づいたがつまり、どこかで生きている友人に対して、勝手に幸せになってほしいと勝手に思っているという事態が私の友人関係の内実なのではないか。それはどうなんだろうか。
ともかく私は両親には義理と友情を感じているが、おそらく愛してはいない。友人に抱く情はいくぶん愛かもしれないが、強いしがらみを望んではいない。
必然的に私は物質的にはフェアでありつつ、同時にその枠の外に置くことのできる一方的で独善的な、強い愛の対象を求めざるを得ない。私の言語では独善的なものだけを愛と呼んでいるといったほうが近いかもしれない。
思うに、それは観念的なものではどうしても強度が不足していて、臭気芬々たる、不愉快極まる肉の質量でなければ私のような凡人を長く捕らえておくことは難しいんだろう。
今いる友人たちをそのようなものに貶めるよりは、いずれそのようになるものと思って新たな人との付き合いを求める方が、かろうじて私は我慢ができるはずだと今は考えている。現実的な相手とのすり合わせ可能性を踏まえても。
ハタチあたりの頃に私は人に対して愛しているといった言葉遣いをしたことが一度だけあるが、それさえもやっとネットの友人で顔も知らぬ半回り上の男を相手にしてのことでだ。
彼はこの世に数少ない愛すべき人たちが肉のある人間であることが残念でならないといつも考えていて、私もまったく同意見だった。
現在の彼は私が単に気にかける友人のひとりで、ここ数年私はアプリで知り合った女性の一人と習慣として会話を続けている。アプリ自体は疲れたのでやめた。
お互い遠くに住んでいるわけではないと知りながら、半年に一度のペースを超えては会う気にもならず、焦点のぼけた会話の中から彼女の趣味のよさを探そうとしている。そんなのをずっとやっているだけで精一杯なんだ。
しがらみを追い求めるふりをしながら、回避的にしがらみから逃げ続けているわけで、傍目には奇行としか言いようがない。
私が同じところで回って何も進んでいかずとも爪は伸びるし身体が衰えるのを感じる。今夏には低い視力がまた落ちていたが、道行く他人の顔をよく見ずに済むように矯正視力は0.6で止めた。
分裂した私の間でいたちごっこを続けつつ、結局は騙しだまし、私が死ぬまで私の延命を続けるようなおもしろくもない羽目になるような予感がしている。現実はひどい。
いうて東大物理卒だって色んな人がいる程度に、某名門音大のヴァイオリンと言ったって色んな人がいて当たり前。
加えて今回はn=5という、n=1に毛が生えた程度の話だ。
しかも「他の音大だって同じようなもんだよ」と言われそうな反面、自分が知る某名門音大卒の誰も彼もが共通する弾き方ということで、そこの学校の校風なのか?と思い、筆を執った次第。
ちなみにこの5人は全員女性、うち2人が自分が過去に習っていた先生である。
ということで前置きはこれくらいにして、某名門音大ヴァイオリン卒の演奏者に共通して感じたこと、それも正直ネガティブに感じたことを挙げてみる。
前提として、ヴァイオリンは元々イタリアの民族楽器だが、ヨーロッパに広まる過程で、ヴィオッティというイタリアの作曲家兼ヴァイオリン奏者が、フランスのトルテという職人に依頼して、弓だけ後付で改良したという経緯がある。
つまり現在のヴァイオリンはイタリア発祥かつ、弓だけフランスで近代化された形で普及していると(だから今でもイタリア製のヴァイオリン本体と、フランス製の弓にプレミアが付く)。
このうち問題になるのが弓。フランスで近代化される前の、元々のヴァイオリンの弓には何かと演奏上の制約が多く、一番のハンデは、腕の筋力で弓を弦に押し付けたが最後、弓が倒れてしまい演奏できないことだ。
結果、ヴァイオリンには以下の奏法があり、奏者はこのどちらかを出発点にしている。
で、これまで会った某名門音大の人らは全員2番目の弾き方。要は抜けのない音を出発点に、弾く音楽に合わせて音を抜こうと工夫する演奏。
それでキレイかつ素敵な音になっていれば、あとはもう好みの問題なんだが、筆者を含む1番目の弾き方をデフォルトにしている人間からすると、「そこでそんなビブラートはかからなくね?」とか、違和感を感じる瞬間がそれなりにあったり。
それから、ロマン派や近現代のやたら難しい曲をめっちゃ上手に弾くのに、古典派の代表的作曲家であり、難易度的にはそこまで難しくないはずのモーツァルトを苦手とする人が多いのも大きな特徴。
しかしながら1番目の弾き方をデフォルトにしている人間は「モーツァルトをまともに弾けない人が、ロマン派以降のメンコンとかブルッフとか弾けるわけないじゃん」
と思っているので、この逆転現象を見るにつけ、「それ、ヴァイオリン弾けたことになるのか??」と疑問に感じることしきり。
基本的に、表現の細やかさと演奏の正確さは比例するのが普通なはず。つまり大味な表現だと音程も外れ気味で発音もあまりきれいじゃなかったりする。
逆に言えば、音程なんて表現が細やかになっていけば勝手に合ってくる。このままじゃ繊細な表現を実現できない!→実現できるくらい音程が正確に合わなきゃ気が済まない!という感じで修正されるから。
その一番素敵な例が、完全独学で名手レベルまでのし上がったギタリストだろう。彼らの表現に、義務感でやらされて正確さを獲得したような音は皆無だ。ハートに突き動かされて精緻を極めた音だけが、そこにある。
表現したいフレーズが完全に線になっていて、その線に然るべき音程の音がはめ込まれている感じ。
「そんなにざっくりな表現で、そこまで音程が合うはずないんだけどな、どうなってんだ??」
なんでそんな、音程だけ全力で合わせたような音で弾くんだろう?というか、なんでそんな演奏で問題ないと思うんだろう??
それよりは表現も正確さも拙いけど、ヴァイオリンが好きという気持ちが音にはみ出たような、一生懸命弾いている演奏のほうが自分は好きだったり。
実はここまで書いた音大以外にも、弦の名門かつ指揮の名門と言われる音大がある。
そっちの音大では、上で書いた傾向を比較的持たない人が多いと言われる。
しかも草創期に在学していたOBOGが、常設ではないが世界的に評価されている、いわば祝祭オーケストラを結成したこともあるレベル。
そこでコンミスを務め、海外で教授をやっていた女流ヴァイオリニスト(故人)曰く
「〇〇先生(その音大の創設者)に教わったことは、世界中のどこでも通用した」
この言葉は非常に重い。
まあ、自分が今更音大に行く可能性なんて、入るまでの大変さはもちろん卒業した後どうすんの?という問題も踏まえて万に一つもない。
しかし、もし今後音大に入れるチャンスが巡ってきたなら、どうせ入るならそこに入りたいなーと妄想するくらいには興味あったり。
windows11にデフォで入ってるやつ
知らない間に勝手にアップデートが入って強制終了されてるとかある
昔はWindowsUpdateを簡単に止めれてそうすれば勝手に再起動されてるはほぼなかった
最近は使ってるツール側で自動バックアップしてくれてるからあまり影響受けなくなって気にしてなかったけど、
大学2〜3年頃からだったか、ソナチネのたけしに憧れてマジで白シャツスラックスしか着なくなった。菊次郎の夏だったかも。
海沿いで腰掛けてボーッと波を眺めたり、繁華街を練り歩いたりしながら無限に主人公ぶってた。
ヨウジかギャルソンが良かったけど、サイズが合わなかった。ユニクロのスラックスは夏でも快適だ。
同じ格好しかしないからコーディネートの幅は磨かれなかった代わりに、シルエットや丈に異常なこだわりを持つようになった。
オタクが服に興味を持つとそうなるのかもしれない。求める先は異性や他人からのウケではなく。おれの場合はきっかけの時点でもうオタクっぽい。
モサい頭のチビガリだし、たけしのとっぽさにはきっと程遠かった。日中から手ぶらでうろつく姿は変な高校生みたいだったと思う。「主人公」は鞄を持たない。
と思ってた。
最近スタイルというのはもっと必然的なものなんじゃないかって思う。
炭鉱夫はデニムを。軍人は迷彩を。スケーターは動きやすいルーズな服を。オタク少年はママが買ってきたちょっと古いセンスの服を。
そこに演出はなく、その人を取り巻く環境が、生き様が服へと現れる。その自然体こそがスタイルなのではないか。
カートコバーンの真似をしてボロい服を着るのはグランジなのか?なんて語り尽くされた話だ。
スタイルは自分から喧伝せずとも周りが勝手に見出していく。そこには服飾というより精神性としてのかっこよさがある。
ザッカーバーグやジョブズが同じ服ばかり着るのも、彼らの忙しない日々を描くスタイルだ。それをノームコアと囃し立てて、こだわってない風の服をわざわざこだわって選んでもコスプレでしかない。
オタク君の服ってこういうのばっかり、的な揶揄だってベクトルは違えど本質的には賞賛と変わりないのかもしれない。
じゃあおれにとっての環境とは何か。「時代」というのは一つの環境ではないのか。
自我を持って着せ替え人形やコスプレをやるよりもむしろ、服にさほどこだわりのない人が流行に巻き込まれる着る服にこそスタイルがあるのかもしれない。
Twitter(a.k.a 𝕏)で、時代ごとの流行りの比較イラストや写真みたいなのがたまに流れてくる。ファッションは巡るって言説を添えて。
古めの映画を観てても、ジーンズ履いてスタジャンのポットに手を突っ込む若者が妙にかっこよく見える。「その時代の若者」というスタイルが。自分にそういう時期がなかったのがなんか寂しいし、ちょっとコンプレックスですらある。
この際スタイルとかどうでもよくて、能動的なミーハーでもなんでもその時代らしい若者の姿に染まりたいという気持ちがある。
2ch脳拗らせてミーハーを小馬鹿にしてた反動が来たのかも。何なら今だってサンバ履いてゆるいパンツ履いてる連中を若干小馬鹿にしてるけど。いつか自分もそれに倣わなかった悔やむ時が来るのかもしれない。
あの頃もたけしぶってる場合ではなく、若者らしく時代に染まっていれば良かったかな。
と思ったけど、冷静に考えたらそれ以前は「その時代の若者」であった時期もちゃんとあったな。
スラッとしたシルエットにと言われていた筈が、今や掌返して頭でっかちになるとか言われてオワコン扱いを受ける黒スキニーをちゃんと履いていたではないか。1460に捩じ込んで。流行りは3ホールだったけど。チェスターコートも着てた。
げんじファッションの黎明期だ。あれ下半身だけパンクスみたいで面白いな。
服にも強いこだわりは無かったし、自我がないからこその「スタイル」があった。
ミーハー心でyeezyも持ってたしな。QNTM。アレ今でも普通にかっこいいと思う。ブーム末期な上に履きおろさずに売っちゃったけど。
beatsのヘッドホンとかGIATNTSのチャリもかっこいいなと思ってた。まとめサイトの受け売りで情弱向けのゴミ音質とかルック車とか小馬鹿にしつつ、割と欲しかった。
知事は続けるべき
自分の思う形の納得や満足を誠実に追い求めて、情熱と喜びの実感があればそれは手に入る気がする。悟りなんか開きたくもない。
そこに理屈なんてなくて、それ自体が心のなかで自明に存在する。哲学のタームや遡及的な論理の補強なんて必要ない。
強いて言えば脳みそがそういう形をしてるのかもしれない。それは価値判断の問いを事実の領域にまで移すのかもしれない。
ならば脳みそをちょちょっと操作すれば幸福はいとも簡単に手に入るのではないか。
例えば薬を打てば、苦しい日々の末に自分の音楽がバズって人々の耳に届いた瞬間と同じ幸せが手に入るかもしれない。それも時間をかけず、苦しみもなく。その喜びの大きさは知らんし、そんな事が可能になるのかは分からんけど。
チートを使ったってゲームは面白いだろと思うおれでも、何故かそれに対しては強い抵抗を覚える。
少なくともおれの世界観では、自分の思う幸せを実現している人間は全て人生の勝ち組だ。
仕事終わりにサウナでサッパリする。マンガの連載を勝ち取る。日々仲間と音楽をやる。大金持ちになる。ギャンブルに熱狂する。大事業を成し遂げる。好きな人と結婚する。道端の石を凝視して悦に入る。
個人的な憧れの度合いに差はあれど、そこに妥協なき満足と納得があれば全て美しい生き方だ。
最も強い権限を握るジャッジは各々の頭の中にいる。自己完結的な満足に限らず、他人を必要とする感情が尊いと判断するのもそいつの裁量次第だ。
でもそいつをだまくらかして幸せを脳から直接引き出すのは許しがたい外法に思えてならない。他人がそれを選ぶかどうかは知らんし勝手だけれど、少なくとも自分は嫌だ。
そこだけは正攻法でなければいけない。人からスッた金で買い物はしても、直接万引きしようとは思わないかのように。
色々考えたけれど、結局それはおれが「自然派」だからのような気がした。
おれは自然派を滅茶苦茶バカにしている。ヒュームの法則なんて知らずともその内容くらいは分かるだろ。
自然主義の誤謬的なアレ以外に、「天然」をありがたがるのも。
味の素フォビアとか。自分の味覚もよく分からず、美味しんぼか何かの受け売りで美食の何たるかを語ってるんだと思ってる。
当人は本当に不快な味に感じていたり痺れを覚えるのかもしれんけど。その感覚を共有する術は不確かな言葉以外に存在しない。おれは思い込みが激しいだけの間抜けだと思ってる。根拠はない。
そんな自分にも自然派めいた所があるかもしれないというのは認めておきたい。理屈に先んじて存在するその感覚を。
もっと言えば、意志や価値や納得なんてものは脳が生み出すただの現象に過ぎない、という考えの時点でちょっと抵抗はある。なにか人間の意志の神秘性を信じていたい気持ちがある。オカルト属性もあった。
まあそっちは別に元々バカにもしてなければ、自分と無縁だとも思ってないけど。何かを信じて幸せになれるならそれは意味のあることだし、そんな事は誰だってやってる。
更に不思議な事に、鬱病とかへの療法として向精神薬を飲むのは外法認定されない。
意志や幸福を神聖視していても、負の感情はそうでないのかもしれない。
幸せのための避け難いコストとしてやむを得ず感じる事はあっても、それ自体は無意味で不快な産業廃棄物と断じているのかもしれない。そこだけは仏陀と意見が一致する。
自分の望みを実現すると喜べるのは苦労の末というスパイスがあるからではなく、それが心から求められたものだからなのだと思う。
細かい事を考えると、「嫌い」の基準そのものはまた別のような気がする。幸福を出力する「好き」と対をなす感覚として、自分の嫌いもに嘘をつきたくはない。
あんやと
自分の所有物勝手に撮られた(ただし特定されない範囲? 特定はされてまうか)写真vs同じ構図で持ち主が撮ったものだとかなり僅差になって、
元ネタありのイラストvs←を元にした元ネタの持ち主が撮った写真 とかだとなどという明日には忘れてるようなことを考えたい時間帯だっただけです