はてなキーワード: 三月とは
三月二十五日(水)
地味な作業が続く。おそらく明日はもっと地味な作業を一日中続けることになる。今のうちに英気を養っておこう。そのため夕食に加えて、香ばしいベーグルを食べた。
COVID-19はどんどん大ごとになってきており、首都の封鎖までまじめに検討されている。気が重いので、ニュースも必要最低限を追うにとどめ、ツイッターでの評論家や素人の議論はほとんど無視している。このままだと、懸念していたとおりに美術館を全部閉めることになってしまうだろう。やはり今週末のうちに出かけておこう。金曜日の職場帰りなら土日の外出自粛にはかぶらないし、バンクシーは横浜市内なので小池都知事の管轄外だ。冗談はさておき、今のうちに気晴らしをしておかないと、今以上の危機の際に平常心を保っていられない。これで図書館まで営業を取りやめられてしまったら、目も当てられない。家にこもって久しぶりにcivilization 6でもやるべきか。
で、ますます風俗どころの話ではなくなってきているが、そもそも自分が本当に行きたいのだとはあまり思っていない。実際に行くよりも、行ったところを空想するほうがずっと好きだということもありうる。性的な自由というか放縦さは、自分の中では無制限の自由のシンボルになっていて、だから仕事中にしんどくなったときに人妻ヘルスで二人のおっぱいを同時にもみもみすることを思い浮かべてやり過ごすのだ。実行したところで自分のようなタイプは、まず初対面の人間二人を前にして、確実にアウェイに感じるだろう。こうやって自分の風俗に対するスタンスをメモしてみると、自分の本当にやりたいことが見えてきてありがたい。
そうだ、金曜日にベトナム料理を食べようとして調べたのだが、bunkamuraのそばにはベトナム料理屋が二件あるらしい。二つともすぐそばの雑居ビルの六階にあるのは面白い偶然だ。食べログの情報を信じるならば片方は日本人好み、もう片方は本格派らしい。本格派のほうが面白そうなので、そちらに向かうとしよう。
それにしても本当に娯楽施設が全面閉鎖になったらどうしようか。ずっとためらっていたアマゾンプライムへの加入も検討してもいいかもしれない。一応docomoユーザーなので、無料券をもらっているのだが、面倒くさがってまだ手続きをしていない。自分は必要がないならやらないという無精者だ。
今思い出したが、今日は職場でランチ会があった。以前はパクチーを名物にしていた店だったのだが、それがつぶれていつの間にかパスタ屋になっていた。期待していたよりも麺がもちもちしていておいしかった。ただ、十数人で押し掛けたのに台所を一人で切り盛りしていて、大変そうだった。普段はそれほどお客さんが来ないのだろうか。
小説の執筆は、日曜日に再開するつもりだ。再開したら、日記をここで書くのも取りやめるかもしれない。
追記。
三月二十六日(木)
起きたときにまたもは片頭痛、加えて吐き気があった。大分収まったが、まだ具合が悪く、ひとまず午前休をもらった。
思い当たる理由は特にない。強いてあげれば、非常に不快なニュースを増田経由で見てしまったことだが、海外の翻訳サイトであり、フェイクニュースである可能性も否定できない。実際カテゴリを見るときわものばかりで、大いに疑わしい。事実だとしても、自分が取れる対処としては特にない。
増田は、自分の感情を整理して公開するにとてもいい場所だと思うが、垂れ流し状態というか、自分の負の感情を吐き出すというか、他人に八つ当たりしているようなトピックもあるので、そうしたものからは適度に距離を置きたい。
三月二十四日(火)
今日は頭痛にならなかったのでよかった。ただ、仕事中に同僚から声をかけらえることが多く、ついぞんざいな対応をしてしまった気がしたので、あとで少しフォローを入れておいた。というか、いつもよりも丁寧に接した(つもりだ)。
帰宅すると思った通りに妹がいない。妹はコロナウイルスのためにテレワークを導入しているのだが、職場まで遠いので普段はそれなりの距離を歩いている。一日に七千歩ほどだそうだ。その分がなくなって運動不足になることを嫌がり、朝はジョギング、夕方にはテニスをしている。それだけの元気が一体どこから来るのか、自分にはよくわからない。自分だったらきっと本を読んで過ごすことだろう。
休みに行く美術館を昨日いろいろと検討したが、ツイッターで出てきた広告によればバンクシーが近所に来るらしいので、そこがいいかもしれない。九月まで開催しているとのことだが、早めにいかないと混むのが目に見えている。しかもチケット制だから、どんどん予約が取りにくくなるはずだ。できたらここ二三週間のうちに行きたい。bunkamuraのほうは金曜日に仕事帰りに行けばいいだろう。エゴ・オブスクラは六月までやっている。焦ることはない。
それよりも、オリンピック延期に伴って、また美術館側が判断を慎重にしてしまい、一度開いた美術館を閉めてしまうのではないかということが心配だ。そういうことも考えられるので、できたら今週の土日に二か所くらいは足を運んでおきたい。で、バンクシーは横浜なので、帰りに有隣堂に寄ってハヤカワSFコンテストや新潮ファンタジー大賞の受賞作、それから漫画を数冊購入することにしよう。久しぶりに図書館を使わずに済ませる。それから、ふとベトナム料理が食べたくなってきたのだが、これは金曜日の仕事帰りに行けばいいだろう。
しかし、これだけ大ごとになってくると、風俗に行く気も萎えてくる。客観的に見てリスクは非常に低いと思うのだが(性病のほうがよほど危険だ)、単純にやる気がなくなってくる。いや、そもそも道徳的に行くべきではないと判断している自分がいて、だから金曜日の帰りは美術館に寄ろうと決断している面もある。そのあとにバニーガールバーかおっぱぶくらいには寄ってしまうかもしれないが(いや、さすがにそんなことはあるまい……)。あとはウイルス潜伏させたまま、祖父母に会って感染させたりしようものなら、とんでもない罪悪感があるだろう。
あと、当分海外は無理だろう。特に欧米方面は人種差別問題がある。不確実な状況が続く中で、犯人探しをしてしまう心理というのは誰にでもあるものだが、わざわざ心がすさんでいるところに足を運ぶこともあるまい。平時であっても、自分が旅行した時は街の人々は概して親切であったが、失礼な態度を取る人間はゼロではなかった。そういう目に合うのも社会勉強なので、いい経験にはなったのだが、留学中の後輩はさぞ大変な思いをしているのだろう。
今日の夜のティータイムはアーモンドクッキーともなか、それからミルクティ。
それにしても、ここで日記を書くの、いつまで続けるんだろう。小説が書けなくなったのでその気晴らしにいいのだが。
頭が痛い。
軽度の片頭痛と目の奥の痛みが定期的にやってくる体質なので仕方がないのだが、原因は寝不足な気がしてならない。昨晩、本格的に意識が飛んだのが朝の三時だったのだから、睡眠時間は当然足りていない。
なんでそんなことになってしまったのかといえば、日曜日に布団にもぐりっぱなしだったからなのは間違いない。一応ジョギングをして身体を動かしはしたのだけれど、朝の七時から正午まで横になっていては体内時計がおかしくなるし、眠れなくなるのも当たり前だ。そろそろ、土日の過ごし方を失恋以前に戻す頃合いだ。
さいわい、コロナウイルスで閉館していた美術館も徐々に営業を再開している。密閉した空間で大勢の人間が近距離で会話をするという条件がそろっていなければ大丈夫なのではないか、みたいな理屈らしい。ひとまず、bunkamuraの超写実絵画か、原美術館のエゴ・オブスクラに足を運んでみようか。正直なところ、超写実絵画はあまり好みではない。ごくごく少数の作品を除けば技巧に走りすぎていて、なぜ異様に細部を再現する表現を選んだのかがあいまいな作品が多いと、勝手に思っているからだ。しかし、もしかしたら自分の好みの作品に出合えるかもしれず、わざわざその可能性を閉ざすこともないだろう。原美術館のほうは森村泰昌の作品を展示しているが、出会ったのは数年前、上野で彼がクラーナハのユディトか誰かに扮していた写真だ。記憶に残っているのだし、自分のアンテナには引っかかる要素があるのかも。気力と体力が金曜日を過ぎても残っていたのなら、久しぶりに行ってみたい。
別に映画を観に行ってもいいし、現に「ミッドサマー」がすごく気になっているのだが、最近心身が本調子ではないため、わざわざ具合が悪くなりそうなものを見に行くリスクを冒すこともないだろう。学生時代の自分はもっと芸術至上主義だった気がするが。わざわざ不快になりそうなものばかり見たがっていた。
ところで、昨日心配していたようには、仕事中にソープランドのことばかり考えてしまうといったことはなかった。だが、寝不足のせいでホルモンが乱れたのか、理由のない不安があった。作業をしているうちに消えたが、規則的な生活を守ることの優先度はもっと高くしていきたい。
この、風俗に行く空想のことを少しばかり恥じている。本当のところ、金曜日の夜はそこに行きたいという思いもないわけではないが、たぶん早く帰りたくなってしまい、そうすることはないだろう。土曜日や日曜日の場合は一度家を出ないといけないのだが、そのハードルも高い。そして、結局行くか行かないかをうだうだしながらベッドの中で過ごしてしまう。馬鹿げている。一発抜いてしまえばそれで収まる話なのに。自分は名前のわからない、匿名の女性に触れたいのではない。なぐさめてほしいのでもない。セックスができるかどうかについてを過剰に恐れているから、自分の男性的機能を確かめたいだけだ。勃起するかどうかが不安なのだ。その不安を抱えたままだと、いざ風俗嬢に対面した時に気分が悪くなってしまうだろう。自分がしたいのはそういうことではないはずだ。完璧な勃起なんて、通常のセックスでも、そうそう見られないのではないか。
本題に戻ると、失恋直後の何も考えられない状態だったからこそ、何の抵抗もなくマットヘルスに行けたのに違いない。情けない声を挙げながら精子を漏らすことができた。でも、本音ではやっぱりちゃんとした恋愛がしたいのだ。ただ、まだ踏み出す勇気が出ないだけだ。失恋から一か月が過ぎて、とりあえず正常に仕事ができる心理状態になっているし、彼女のことを思い出してももうほとんどつらくないので、前に進んでいるのは確かだ。だから、焦らずに夜食のお団子を食べて幸せをかみしめよう。今日のお団子はこしあんのきめが細かくて好きだった。
そうそう、突然だが、同僚と水曜日にランチ会を開くことになった。以前と比べて、他人と雑談するのが苦痛ではなくなってきたのもまた、うれしいことだ。
ところで、ツイッターに移行して以来、こうしてある程度のまとまった文章の形で日記をつける習慣をなくしていたのだが、切れ切れにならない思考の跡が残るのも悪くない。ただ、ツイッターでつぶやいたものとも重なるので、二度手間になっている気がしないでもない。あるいは、最近小説を書けなくなっているので、その代償行為なのかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20200323025005
――ところで、わたしは昔から、最後のスタンザは少し弱いのではないかと思っていたのですが……。
( ・3・) 弱い? 「リング」と「スプリング」とで韻を踏むのはありきたりだとか?
――弱いというよりは、ピンとこないといったほうが正確かもしれません。「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」――これはどういうことなんでしょう。
( ・3・) 彼女のほうが歳上だったんじゃないか? 50歳くらい。
――それはたしかに too late な気がしますが、もし年齢が離れていることが問題なら、彼女が三月生まれであれ、七月生まれであれ、一年のうちで生まれた時期に言及する意味はないはずなんです。
( ・3・) 春に生まれようが夏に生まれようが誤差みたいなものだからな。
( ・3・) ははは、まさか。
――ここに一枚の写真があります。1975年に撮られたものです。
https://twitter.com/kedardo/status/1242030916232339458
( ・3・) ボブ・ディラン、本を読む。
――何という本ですか?
( ・3・) 『クリスタル・マジック』と書いてある。マジックのつづりが変だけど。
――目次には次のような言葉が並んでいます。「ケンタウルスが獅子を狩る」「シャンカラの理論は現実をどう捉えるか」「ハクスリーの知覚の扉」「アジュナチャクラあるいは第三の目」「カバラの諸相」
( ・3・) 神秘主義のロイヤル・ストレート・フラッシュという感じだな。
――星座が何であれば、支配星は何、エレメントは何、という表も載っています。
( ・3・) 本を読め、ただしまともな本を、と釘を刺したばかりだというのに。
――まともな本も読んでいますよ。このころディランはチェーホフやコンラッドに傾倒していたはずです。 [3] [4]
( ・3・) じゃあ『クリスタル・マジック』はたまたま手にとっただけで、内容を真に受けたとまではいえないんじゃないか?
――1974年、コンサート・ツアーを再開した理由を、ディランは次のように語っています。「わたしの惑星系 (my planetary system) において土星が障害となっていた。その状態がしばらく続いていたが、いま土星は別の場所へ移動した」 [5]
――1976年のアルバム『ディザイア』のバック・カヴァーには、タロットが描かれています。
( ・3・) タロット! イタロ・カルヴィーノの『宿命の交わる城』は何年だっけ。ちょっと待って――第一部・第二部の合本が出たのが1973年。英訳は1977年だ。
――1978年のインタヴューでは、占星術を信じているのかと単刀直入に訊かれています。
PLAYBOY: OK, back to less worldly concerns. You don't believe in astrology, do you?
DYLAN: I don't think so.
PLAYBOY: You were quoted recently as having said something about having a Gemini nature.
DYLAN: Well, maybe there are certain characteristics of people who are born under certain signs. But I don't know, I'm not sure how relevant it is.
PLAYBOY: Could it be there's an undiscovered twin or a double to Bob Dylan?
DYLAN: Someplace on the planet, there's a double of me walking around. Could very possibly be. [6]
( ・3・) 信じているかといえば、信じてはいない。星座と人間の気質とのあいだには何か関係があるかもしれないが、どの程度なのかは分からない。――うーん、言質を取られるのを避けているみたいだ。
――もともと質問に率直に答える人ではないのですが。
( ・3・) 思い出した。昔、日本の有名な批評家がイェール大学に文学を教えに行ったんだが、向こうでは占星術が流行っていて、同僚の学者の生年月日がどうのこうのと書いていたっけ。あれも70年代半ばじゃなかったかな。
――期せずして、アメリカにおける神秘主義の流行、というテーマに足を踏み入れてしまいました。
( ・3・) ……引き返そうか。
――「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」の意味をめぐって脇道にそれてしまいましたが、実は、意外なかたちで問題が消滅します。
――いえ、問題自体が消えてなくなってしまうんです。アルバム発表から一年も経たないうちに、歌詞が書き直されて、最後のスタンザは大きく変わります。1975年のライヴ録音を聴いてみましょう。
To know too much for too long a time
She should have caught me in my prime
Instead of going off to sea
And leaving me to meditate
( ・3・) ジェミニを連想させる "she was my twin" も含めて、占星術につながりそうな表現はなくなったな。詩の問題の解決を、人は問題の消滅によってうやむやにする。
――「彼女はわたしの双子だった」も、考えてみれば謎めいた表現です。「本当の恋人だった」と「双子だった」とが置き換え可能かといえば、そうではないと思います。
( ・3・) 歌詞だけじゃなくて、コード進行も旋律も変わっているぞ。
――そうなんです。これまでわれわれが検討してきたことの少なからぬ部分が、このヴァージョンには当てはまらなくなっている。ディランにしてみれば、もう「わたしはそこにはいない」んです。
( ・3・) うなぎみたいなやつだな。
――歌詞の変更は1975年以降も続きます。「彼」と「彼女」とが入れ替わったり――
( ・3・) 体が?
――立場がです。第一スタンザで「孤独を感じ」「まっすぐに歩いていればよかった」と願い、第二スタンザで「夜の熱気に打たれるのを感じ」るのは、「彼」ではなく「彼女」になります。80年代にはさらに全面的な変更があり、90年代には――
( ・3・) もはや原形を留めなくなった?
――いえ、それが――。
( ・3・) それが?
――おおむね元のかたちに戻りました。
( ・3・) ……。
――……。
( ・3・) 「彼女は春に生まれたが、わたしは生まれるのが遅すぎた」も?
( ・3・) 抑圧された占星術の回帰……。なくなったはずの問題の再燃……。まるで人生のようだ。
――これで「運命のひとひねり」は概観できました。全体について何かありますか?
( ・3・) 英語は易しめだったな。
( ・3・) 「彼」と「彼女」との間に何があったのか、曲のなかでは詳しく語られないけど、これは、その、いわゆる一夜の関係というやつなの? [7]
――なぜそう思ったんですか?
――ただ、それだと、彼女がいなくなったときの彼の傷心ぶりや、「指輪をなくしてしまった」のくだりはうまく説明できません。
( ・3・) そうなんだよな。じゃあ、ある程度つきあった恋人たちの最後の夜だったんだろうか。
――第一スタンザに、「体の芯に火花が走るのを感じた」とありますが、これは恋に落ちるときの表現だと思います。まあ、よく知っている相手に対して改めて火花を感じる、という可能性もゼロではありませんが。
( ・3・) すでにつきあっている恋人同士なら、見知らぬホテルの前でまごまごするのも不自然だしな。うーん、こんがらがってきた。一方では、彼と彼女とは一夜の関係に見える。ある日の夕暮れに物語が始まって、翌朝には彼女は姿を消している。その一方、物語の後半では、彼は生涯の伴侶を失った男のように見える。
――常識と観測結果とが矛盾するときは、常識を捨てなければなりません。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、と考えて矛盾が生じるのであれば、そう考えるのをやめればいいんです。
( ・3・) いや、でも、ある日の夕暮れから翌朝までじゃないの? ネオンの輝く見知らぬホテルに長期滞在して、数年後の朝に彼女はいなくなりました、なんていくらなんでも無理があるだろう。
――キュビズムの絵画では、ある対象を複数の視点から捉え、平面のキャンバスに再構成して描きます。
( ・3・) 何を言いだしたんだ急に。
――ある日の夕暮れから翌朝まで、という枠組みのなかに、出会いから別れまでの一切が凝縮されたかたちで描かれているとしたら?
( ・3・) 時間の流れが一律ではなかったということか?
――いいですか、時計の秒針が聞こえてくるのは、彼女がいなくなった後です。それから彼にとっての永遠の現在が始まり、彼女がいた過去は、彼の記憶のなかで遠近法的な奥行きを失うんです。
( ・3・) 時計を一種の仕掛けと見立てて、内在的に解釈するわけか。理屈は通っているかもしれないが、常識を捨てさせるには、まだ十分ではないと思うぞ。
――では、時間の流れが一律であるとは限らないという外在的な傍証を。1978年のインタヴューです。
Everybody agrees that that [Blood on the Tracks] was pretty different, and what's different about it is that there's a code in the lyrics and also there's no sense of time. There's no respect for it: you've got yesterday, today and tomorrow all in the same room, and there's very little that you can't imagine not happening. [8]
( ・3・) おい、詩に暗号が隠されていると言っているぞ。
――その点は保留にしてください。
( ・3・) 時間の意識は失われている。過去、現在、未来が同じ部屋に混在して、想像しえない出来事などほとんどない。
( ・3・) 「運命のひとひねり」の解題ではないんだな?
( ・3・) そうだな、まだ腑に落ちるとまではいかないが、時間の扱いは気に留めておいたほうがよさそうだ。
――はい。実は、キュビズムの絵画や、時間の意識をもちだしたのは、次に聴く曲「タングルド・アップ・イン・ブルー」でも同じ問題がでてくるからなんです。邦題は「ブルーにこんがらがって」。ディランの重要な曲を挙げるとしたら、まず10位以内には入る。人によっては1位かもしれない。というわけで、ウォーム・アップは終了です。次は少し難しくなりますよ。
そのようにして彼らは「タングルド・アップ・イン・ブルー」を聴き、「シェルター・フロム・ザ・ストーム」を聴いた。窓のかたちをした陽だまりが床を移動し、寝ていたストラヴィンスキーの首から下が影に入ってしまった。もう次の曲に進む時間は残っていなかった。デレク・ベイリーのCDを持って帰らなければ、と彼は思った。マイルス・デイヴィスやビル・エヴァンスならいつでも買い直せる。しかしベイリーは品切れのまま再発されないことだってありうるのだ。
「もう帰るのか?」と上司は言った。
「はい。それで、デレク・ベ」
「おまえの家は一戸建てだったな、たしか。陽当たりと風通しは良好か?」
「陽当たり? まあ、それなりには。それで、デ」
「窓からの眺めは?」
「眺め? まあ、壁しか見えないということはありませんが。そ」
「じゃあ、決まりだな」と上司は言い、リムスキー=コルサコフの両脇を後ろから抱えると、目の高さまで持ち上げた。
「新しいパパだよ」
かくして予言は成就し、わたしは持っていったもの以上を持ち帰ることになる。小さなモフモフと、モフモフの当面の生活に必要なモフモフ用品とを。
まずはこの子に、猫としてまっとうな名前をつけよう。このままだと、もし何かの拍子に迷子にでもなったら、「リムスキー=コルサコフ! リムスキー=コルサコフ!」と大声で呼びながら近所を捜し回らなくてはならない。獣医にかかるときだって、きっと問診票に名前を書く欄があるだろう。常軌を逸した飼い主だと警戒され、信頼関係を築くのに支障をきたすかもしれない。
しかし、猫に名前をつけるのは難しい――T・S・エリオットの Old Possum's Book of Practical Cats にもそう書いてある。クラシックの作曲家では大仰すぎる。ジャズ・ミュージシャンではどうだろう。わたしはCDとレコードの棚の前に立ち、名前の候補をピック・アウトしていく。チェット。論外である。マタタビに耽溺してばかりの猫になってしまいそうだ。ドルフィー。才能も人格も申し分ないが、早世の不安がつきまとう。ベイリー。デレク・ベイリーのCDを取り戻すまで、わたしはあとどれだけの道を歩まなくてはならないのだろう。
わたしは気づく。予言は成就していない。少なくとも完全には成就していない。人知を超えた力によって予言はねじ曲げられ、わたしは持っていったもの以上ではなく、持っていったもの以外を持ち帰ったのだ。新しい家の探検を終え、お腹を上にして眠る小さなモフモフよ、おまえのしっぽが曲がっているのも、運命のひとひねりのせいなのか?
[1] 実際にはEより少し高く聴こえる(テープの再生速度を上げているため)。
[2] これ以降、歌詞の引用は2小節ごとに改行を加えている。
[3] Bob Dylan. Chronicles: Volume One. Simon and Schuster, 2004. p. 122.
[4] Sam Shepard. Rolling Thunder Logbook. Da Capo Press, 2004. p. 78.
[5] https://maureenorth.com/1974/01/dylan-rolling-again-newsweek-cover-story/
[6] Interview with Ron Rosenbaum. Playboy, March 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 236.
[7] 草稿では、第三スタンザは以下のように書かれたあと、大きなバツ印がつけられている。"She raised her weary head / And couldn't help but hate / Cashing in on a Simple Twist of Fate." 初めは娼婦として描かれていた点を重視することもできるし、その構想が放棄された点を重視することもできる。
[8] Interview with Jonathan Cott. Rolling Stone, November 16, 1978; reprinted in Bob Dylan: The Essential Interviews. Wenner Books, 2006. p. 260.
三月二十二日(日)
追記。ジョギングをした後、思いのほか疲れた。帰宅した直後には、このままソープに行く余力はあると思っていたのだが、ベッドの上でダラダラしているうちに、どうでもよくなってしまった。
夕食後、まだ近所のドラッグストアがあいていたので、TENGAを二つ購入した。最近、住宅街のど真ん中のドラッグストアでもTENGAを普通に置くようになった。異論はあるだろうけれども、性に対する過度な罪悪感がなくなるのはいいことだ。練習も兼ねてコンドームをしてから挿入してみたのだけれど、途中でローションがなくなってきたせいか、陰茎を引き抜いたら内部にコンドームが残ってしまった。わざわざ取り出すこともないので、そのままゴミ箱にぶち込んだ。袋に詰めないとすぐに生臭くなる。
で、先ほど一発抜いたら、軽度の頭痛が起きた。一度ずきんとしただけなので、気にすることではないのだろうが、二発目をする気がなくなった。
TENGAでは不満足であったこともいくつかある。それは、やっぱり本物の女性の身体とは形が異なっているし、実際の女性を抱きしめた時に、どのような挿入感があるかを再現しきれていないはずだ。素人童貞で、セックスできる頻度は低く、セックスに自信がほとんど持てていないので、いざ彼女と事に及ぼうとしたときに、萎えてしまうのではないかと心配でならない。いろいろと腰を振る練習はするものの、あまり物にこすりつけると膣内射精障害になるそうで、クッションにティッシュをつける方法はやはり勧められないらしい。そういうわけで、やっぱりソープランドに行くしかない気もするのだが、よほど禁欲してからではないと行くつもりになれない。自分がやりたいのは結局風俗嬢と一発やることではなく、自分が膣内に射精できるかどうかの確認なわけで、そう考えると風俗嬢に非常に失礼なことをしようとしているのではないかと疑われる。
自分の行動が不安によって支配されているのならば、実行したところで楽しめないだろう。負の感情を動機としていては、実際に動いた時も不安でならないだろう。行きたくて仕方がない、そんなときのためにソープランドは取っておいたほうがいいのかもしれない。
月曜日からも、また結局ソープに行くべきかどうかを悩みながら、仕事をするのだろうか。
それにしても寝る前のミルクティはおいしい。
三月二十二日(日)
今日こそはジョギングをさぼってソープランドに行こうと思い、7時に起床したのだが、思考が切れ切れで面倒くさく、ぼんやりしていたら正午になっている。昼食を済ませ、シャワーで清潔にし、歯をしっかり磨いて外に出たはいいものの、駅まで歩いたらソープランドで一発抜くことが馬鹿馬鹿しくなってしまった。5日間の禁欲が無駄になるのは業腹だが、今晩は2, 3発抜いておこうか、それとももっと理性が吹っ飛ぶほど精子を溜めてから平日にソープに行くべきか、迷う。
自分は細かいところまで想像ができる。ソープランドの湯船での他愛のない会話、イソジンでの洗浄、中途半端な勃起など。気乗りがしないときにはそうした細部にうんざりし、2週間ほどの禁欲ののちにはその妄想だけで抜ける。性行為そのもので抜かないのはなんだかおかしい。
せっかく禁欲したのに、今日になってなんで萎えてしまったのかを考えると、今日の自分は別に女性の身体に猛烈に触れたくてたまらないわけではないわけではないからだと気づいた。おちんちんをおまんこに入れて動かしたいのではない。おまんこをなめ続けたいのではない。それよりも、彼女ができたときにきちんと勃起するかどうか、そしてうまい角度で挿入できるか、さらには性行為の姿勢を長時間維持できるだけの筋力があるのかが不安で、要するに自分のメンテナンスをしたいらしい。それだったら精巧におまんこをかたどったオナホを使えばいい気がしてきて、面倒くさくなったらしい。それに、初対面の女性と話をして、いきなり勃起するのは自分にはハードルが高い。ソープランドでは多くの人が、前半はマットプレイをしてリラックスするのも、こうしたことが理由なのだろう。いったい、風俗に通う男性のうち、どれほどが純粋に性行為をするためだけに行っているのか。男性の性欲は、とかく戯画化されがちではあるものの、それほど単純なものではないだろう。
さて、7時ごろからずっとソープランドのことばかり考えて時間をつぶしてしまったのだが、帰宅してからはそれほど熱心に空想するつもりになれない。仕事中とか、あるいは躁状態っぽいときには、それこそ日本各地風俗巡りの旅だとか、海外のFKKとか、マカオのサウナとか、乱交パーティーとか、いろんな計画を立てるというか実現させることの恐らくないであろう妄想に浸るのだが、8日以上の海外旅行なんかを考えるとわかるように、計画を立てているときの異様な高揚感と、それをいざ実現しているときの楽しさは性質がまったく違っていて、何かを実行しているときは現実のことだからもろもろの制約や困難があり、それはそれでゲーム的で非常に楽しいのだが、無制限の空想特有の快感はない。そして、楽しいはずのことを実行した後、こんなもんか、と腑に落ちる瞬間、無限ではなく有限の世界に墜落した感じ、現実のものだと認識するあの気分、あれは物悲しくはあるが満足感もあり、嫌いではない。つまるところ、彼女とこういううららかな春の日曜日にだらだらとセックスがしたいのだが、相手がいるからと言っていつでもできるとは限らない。
そういえば、部長同席の昇進祝いの会はつつがなく済んだ。同僚とはプライベートで飲むほどの仲ではない。仲が悪いわけではないし、酒の席の会話は続くのだが、終わると少しほっとしている自分がいる。どちらかといえば聞き役に回っていて、それで気楽にやっている。面白かったのは、自分の馴染みの蕎麦屋が部長もお気に入りで、丸の内の支店に向かう時にはいつも食べているそうだ。それと、近場のラーメン屋に係長がランチを食べに行ったら、社長がすぐ後ろにいたとのことである。ランチの場所は気を付けたほうがよさそうだ。
三月十七日(火)
今朝は猛烈な便意で電車を降りた。昨晩の肉が生焼けだったせいだろうか。それとも、日曜日のシュラスコに含まれていた脂肪分のせいだろうか。下痢というほどではないが軟便気味で、午後にも強烈な便意。とはいえ、一度排泄すれば具合はよくなるし、腹痛もほとんどないので、それほどたちが悪いものではなかったのだろう。昼は大事を取って薬膳カレーにしたが、いつものように唐揚げを添えたので、どこまで胃腸に優しかったかは疑わしい。それにしても、屁と便の区別が肛門の感覚で区別できなかったので、トイレに駆け込んで正解だった。年齢を重ねて肛門による直感が衰えてきているのだろうか。いつ服を汚す羽目になるのかと思うと恐ろしい。
業務中のムラムラは昨日よりも強め。集中力をそぐほどではないが、今晩にでも抜いておきたい程度の欲求である。帰宅時に風俗に寄ってもよかったのかもしれないが、腹具合があまりよくないし、人と話をするのも面倒だ。爪もまだ治っていない。血はもうにじんでいないので絆創膏は巻いていない。
コロナウイルスについてはほとんど心配していない。性病のほうがよっぽどリスクが高いと考えている。とはいえ、余計なことをしないで家にこもっているのが賢明だというのもまた本当なのだろう。増田で日記を書かずに、とっとと抜けばいいのである。
関係ないのだが、最近は土日に時間をつぶすために映画を見ることが減った。別に嫌いになったわけでもないのだが、十年前のように優れたものは何でも見なければいけないという危機感が薄れてしまったらしい。感受性の停滞だろうか。ただ、そうした芸術鑑賞により内面を太らせるよりも、誰かいつくしむべき相手がそろそろ欲しいところだ。自分一人だけの話ではないので、簡単にできる話ではないだろうが。
ところで、今日は業務を遂行する上でのちょっとした工夫を思いついた。明日から少し作業スピードが速まるといい。
あと、新年度が近いのでそろそろ手帳を入手しないといけないが、コロナウイルスのせいで近所の雑貨屋が早めに店じまいをする。同じ手帳が欲しいのだが、職場近くにも置いているだろうか。都内だから何の心配もないだろうが、知らない店をうろつくのも面倒くさい。
別の部署に出した書類については返信なし。特に不満がないので、何も言ってこないのだろう。明日は上司との会食なので、体調を整えておきたい。基本的に祝いの席なので、肩ひじ張る必要はどこにもないし、話しやすい相手なのではあるが、それでも上司は上司なのである。
三月の赤豚のイベントも決行するつもりだったようだが、延期になった
中止ではなく延期だ
会場に何も言われなかったら確実に開催していただろう
4月のイベントも今のところしれっと開催予定であり、なんというか、こう……おまえらほんとに金ないんだな、って…
赤豚などの企業は中止したら返金で死ぬ。返金できないから延期にするしかない
コミケは中止したが最後界隈の会社が大量倒産するのが分かっているので決行するしかない
今年がオリンピックでなければよかったが、ここで五月のコミケを開催しなければ冬まで印刷所は仕事がほぼゼロになり、確実に倒産連鎖する
どう考えてもあの人混みでは韓国の宗教団体みたいな大感染になると思うけど
そうなると印刷所は生き残るかもしれないが、同人界隈事態が死亡するだろうから最終的に日本のオタク業界のターニングポイントになりかねないんだけどどうするんだろう
・超楽観的観測
三月前半はイベント中止などが相次いだが、結果新規の感染者が三月末にはゼロに。国外も新規患者はほぼ発生しない状態になり、コミケも無事開催、オリンピックも開催される
自粛しようが何をしようが新規感染者の増加は止まらず。積極的に検査をするようになった結果今まで適当な死因で誤魔化されていた数々の病気が全部新型コロナウィルスが原因だと判明。東京などの人口過密地帯での感染した場合の推定死亡率は10%を越える。
当然感染者増加は抑えられず、数字上は3月末の時点で感染者10万人、死亡者数5000人超となる。コミケは中止。
4月になり暖かくなっても感染ペースは衰えず、オリンピックは中止にはならないが無観客で開催されることになる。
安倍晋三は事態の収束を以て政権を解散させると約束するが、収束の兆しが見えるのは2020年末頃にやっとであった……
さて、どうなることやら。
『スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼』 「何人も人を殺している凶悪犯ですよ!」(千葉雄大?)
『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』 「目に入らないんだよ!」(大泉洋)
『37セカンズ』 「ママがいなかったらなんにもできないでしょ!!」
『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』 「Look at me! これが本当の私なの!」(レイチェルマクアダムス)
『AI 崩壊』 「いけぇー!!」「〇〇んだ~!!」(大沢たかお)
『前田建設ファンタジー営業部』 上地、高杉両名が何か叫んでいた
『ロング・ショット 僕と彼女のありえない恋』 日本語のボイスオーバーで南海キャンディーズが叫んでいる系
『コンフィデンスマンJP プリンセス編』 「願い下げでぃっ!」長澤まさみ
『映画ドラえもん のび太の新恐竜』 「飛べないんだ!生きていけないんだよ!」(のび太)
『弥生、三月-君を愛した30年-』 「弥生ーー!!」(多分成田凌) 波瑠が明らかに叫んでるシーン但し無音もあり
いつもイライラしてる。
わたしが食べてるのを欲しがるくせにあげたら食べないし、凝ってるのを作っても食べないし、食べるものだけ食べさせてたらすっかり偏食になってしまったし、アレルギーだからそれなりに気をつけなきゃいけないし、お茶碗の汁をこぼすし、汚れたスプーンをテーブルにこすりつけて更に汚すし、汚れよけに敷いているビニールシートと机の間にも汚れをなすりつけるし、汚れた手で服に触るし、食べない食べ物で遊び始めるし、汚れた手でわたしに触るので自分の服まで汚れるし、慣れてはいても頭が毎度沸騰してしまう。
しかも下の子がぐずって、そっちの面倒を見なきゃいけない間にもそういうことばかりする。手が足りない。
2歳だからお利口さんにできないのが当たり前なのはわかってる。
おおらかにかまえなきゃっていつも思ってるけど、せっかくセッティングしたものが破壊されていく光景を見ると脳みそがグワーッて沸騰して、泣きたくなってしまう。
昔は椅子の下にビニールシートひいてたけど、汚れを拭くのが面倒になってきたのでもうしなくなった。
子どもにおおらかにかまえてられる人たち、同じ人間かと思えないくらいすごいと思う。
しんどい。
たまにはではなく毎回こども抜きでごはん食べたい。
毎日三食面倒みなきゃいけないのつらい…
↓追記
もうアカンと思い吐き出しただけのただの愚痴にたくさんのコメントやトラバが来てびっくりしてます
いろんなアイデアや共感のお言葉、本当にありがたい…みんなやさしいな
同じだよと言ってくれる人がたくさんいて、それだけでホッとしました
カーペットは椅子や机の跡をつけたくなくて敷いてたけど、思い切って撤去しようかな。
一時保育は上の子だけ先日初めて利用してみた。
先生はやさしいし、子も思いっきり楽しんでて最高だったけど、キャンセル出て奇跡的に入り込めただけで三月まで予約いっぱいなのですぐには頼れないんだよね。
保育園はわたしの就活、二人の保活、行く予定の幼稚園をどうするかなどの問題があるのでハードル高いけど検討するだけしてみようかなと思った。
トラバでも言われてたけど、わたしみたいな性格だと子どもと距離置いた方がやさしく楽しくできるのかもしれないし。
※夫は休日はできる限りのことをしてくれてるし、ひとり時間も全くないわけではないので湧き出るイライラは自分の性格も大きいんだろうなと思ってる
冬になると鼻の粘膜がヤラれるんだよね。なんかオブラートの切れ端みたいな薄膜がポロポロと鼻から出てきて、鬱陶しいし見た目もよろしくないから外に出る前にティッシュを捻ったやつで鼻の穴をグリグリして一網打尽にするんだけど、夕方頃家に帰ってくるともう鼻の中がなんか突っ張ってるような感覚があって、翌朝にはまた同じことになる。
今年も二週間くらい前からそんな感じになってきて、ああ、冬が来たなと実感した。二月末とか三月上旬くらいになると花粉症のせいで水っぱなが出るようになって、春いっぱいはそれが続く。日常生活に支障が出るから服薬したり点鼻薬を使って鼻水を抑制するんだけど、薬を飲んだ時の喉の渇きとか、点鼻薬の甘苦い感じとか、それが春のイメージ。
花粉症の症状が落ち着いてくると楽になったなと安堵するのだけど、あっという間に梅雨がやってくる。梅雨時期は偏頭痛に頻繁に襲われるから仕事のペースが落ちるし、好きなことにも集中できない。この時期は閃輝暗点もよく見る。
梅雨が過ぎて暑くなってくると、両手の指の側面に汗疱が出てくる。じんわり痒く、つい触ってしまう。放っておくと数日で表皮がガサガサになって、また暫くすると同じ場所に汗疱ができて痛痒くなる。八月上旬くらいになるとそれが落ち着いてきて、ああ真夏なんだなと思う。
暑さの盛りが過ぎて多少過ごしやすくなってくると、一年で唯一目立った不快感のない時期が始まる。まだ薄着で良いし、食べ物も美味しいし、一年で唯一楽しみな季節が秋だ。ここぞとばかりにアチコチに出かけるので、毎年一回くらいは風邪をひく。
そして気付くと鼻の粘膜が乾燥し始めて、また冬がやってきたと思う。冬を乗り越えても次は花粉症が、それに耐えても偏頭痛、その次は汗疱まみれで手がボロボロになって、そのあとでやっと楽になるんだなと考えて、少し憂鬱な気持ちになる。
いつのまにか、四季のほとんどで大したことではない程度とはいえ、何かしら嫌な身体症状が出るようになった。そのうち秋は秋で何かなるんだろうなと薄ら感じていて、そうやって一つずつ大丈夫なことを失っていくのが老いなんだろうなと思う。
それを繰り返すうちに中年から老人になって、周囲の高齢者がそうであるようにただひたすら死を先延ばしにするためによく分からない健康法を試したりアチコチの病院にかかったりする様になるのかな。だとしたらあまり長生きしたくはないな。