はてなキーワード: マシューとは
他人に迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリアの混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所が日本にないのは残念だ。何も混浴にしろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。
さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである。
以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。
有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性の壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマのビキニには漫画「テルマエ・ロマエ」からも言及があった)。つまり、絵画の水浴図で誰もが全裸なのは、西洋の画家の猥褻な妄想ではない。
水着の歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場で女性がガウン上のものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫のシャーロック・ホームズ「ライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物は全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M. フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性に悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。
ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝の反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代のビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外の観光案内に、トップレスの女性の写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツ・オーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。
また、一部のスポーツ施設では、男性が全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本のCFNM系エロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きである(リンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。
なお、女性の水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に、生理時の衛生管理の問題もあったそうである。
ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較的最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴の歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年に自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉がイギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。
この時期はVictorian Sports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国が世界をリードする国家的運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランドの英文学史の本にも載っている。
海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である。
https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear
上記の記事によれば、女性がオリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年のストックホルムでのこと。競泳水着の歴史は、ここから語られるべきだろう。
初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太ももの露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである。
ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。
1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性の水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着の流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんのハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。
そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードのボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。
つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどしの一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房の露出があるのでリンクは控える)。エッチなマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。
https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/
https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg
これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である。江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。
昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物をしまうことで、取りすぎることを防ぐそうである。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html
たぶん、女性のふんどしの使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか。団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SMは不勉強なもので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。
考えてみれば、自分はふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。
https://nyakapoko.github.io/post/10_engeki/
この記事、読み飛ばしてしまっているひとも多いと思うので、私の解釈で完結にまとめると、
2 演劇は他業種よりもクリティカルなダメージを負っている。他よりも援助が必要である。
3 専門分野ではないことについての言及を正確にするのはコストがかかる。
4 そのコストをケチって発言してもいいよね。だって困ってるんだし。
ということです。
だったら専門分野外のことについてワザワザ語らなければよいのではないか?
4を是とすれば、そのコストを聞き手、もしくは放言された当事者が負わなければいけないことがわからないのか。
そして、まさに現状がそれである、ということがわからないのか。
と思うところはたくさんですが、それより書きたいことがあります。
ただ酔っぱらっているのでしっかり書ききることができるのか少し不安です。
また、わたし自身、演劇についてたいして詳しくありません。なにぶん映像畑の分野なのでご了承ください。
まあ、そのコストをケチって発言してもいいよね。だってもやもやしてるんだし。
まず上のブログにある、演劇のコアの部分とは何かというと、観客との共犯関係なのですが、
これがライブで、そして観客の息遣いを感じられる距離でないと不可能であるという意見です。
これには一理あります。が、これが実際に“演劇”のコアなのか。
映画というのは、映像をつかってナラティブ(わかりやすく「物語る」と言い換えましょう)をすることと定義できますが映画狂から見れば、そうではありません。
(「いや映画は光と影で構成される芸術だ」という方もいらっしゃるでしょうが、今回はその定義を映像に渡してやって、映画の定義は狭くとらえます)
映画を観るというのは映画館で観る、もしくは”複数の観客がいる映像を主体とする場”で映画を観ることを、『映画を観る』と言います。
なぜなら、映画というのは観客と製作者との共犯関係にある芸術だからです。
例えば時代劇で、主人公と敵が刀に手を伸ばします。この画を1分間続けるとどうでしょうか、
映画館であれば観客は緊迫します。きっと固唾をのむことでしょう。
しかし、これスマートフォンのストリームだったらどうでしょうか。ダブルタップの15秒スキップかもしれません。
一緒に固唾をのむ観客がいない分、気持ち半分かもしれません。
映画と演劇は記録されたもの記憶されるものの違いがありますが、
観客との共犯関係で表現を強固にするのは、映画も演劇も変わりありません。
ブログではとても卑怯にも演劇とビデオという比較で書いていますが、
また映像芸術の中には特殊な上映形態をもって作品とするものもあります。
劇場でないと成り立たないのが演劇の特殊性とか馬鹿みたいなこと言っていますが。
むしろ、ライブで修正の効かない分、映画はどのように共犯関係を生み出すか、研究に研究を重ねております。
高級な映画(半分皮肉ですが)においては、視線誘導のため、まばたき一つ計算して撮影、編集しているわけです。
私は普段、何かの映画について話すとき、『映画そのもの』と、観客と生み出す共犯関係=『映画体験』をそれぞれ分けて話します。
演劇についても同じことが言えるのではないでしょうか。
上のブログの筆者が語るのは演劇体験についてです、これは確かに演劇を構成する一要素ですが、演劇そのものを単体としてみた場合に、
つまり、戯曲を演者がその身体性をもって物語るという行為についてですが、これはいったいそんなにも弱いものなのでしょうか?
身体というものには限界がありますが、その身体によって生み出される力強さというのは確かにあります。
現代舞踏なんてものはその身体という籠を生かした表現なわけでしょう。これは弱いものですか?
それを使って物語る。素晴らしいことじゃないですか。
演劇をライブで配信する。そこにはカメラがありスイッチャーがある。
ということは、それでもって映画体験の応用で演劇体験を、十分でなくても再現することはできませんか?
例えばブロードウェイの映像化なんてのは、セットを映像用に用意しカメラをかなり寄せて撮っているわけですが、
それでもあれを映画という人はいないでしょう、演劇であるという認識はしっかり与えることはできるわけです。
また演劇体験的なるものが本質になっているというので言えば、お笑いはどうでしょうか?
スポーツ選手のインタビューではよく魅せる試合なんてことが言われます。
それでも彼らは中継を行います。過去の試合の映像を販売します。
そういったことがもう何十年も前から行われている現代で、演劇は演劇体験なくして存在しないなんて本気でいってますか?
また演劇は映像にすると映画に食われてしまうなんて言ってますが、馬鹿じゃないのとしか思えません。
演劇はその身体に物語を預けていますが、映画は光と影に預けています。
映画の根本は影絵芝居といってもいいでしょう、影絵芝居は演劇に似ていますが、
影絵は物理的なものでなく、その像をうまく使えば、表現に限界はありません。
映画はその売れ筋として、マーケティング的に役者に頼ってることはあっても、大本の表現のベースとして役者や演技があるわけではありません。
勘違いしないでください。役者はあくまで影と光をフィルムに焼き付けるための遮蔽物にしかすぎません。
例えば先ほどのブロードウェイは演劇としましたが、ドッグヴィルはどうでしょうか?やはりドッグヴィル映画でしょう。
それはそれぞれ、映画として作られ、アニメとして作られたからに違いありません。
演劇として作られた映像が、映画に負けるだとか、勝つだとか、そういうことは絶対にありません。
演劇というのは、映画というより、むしろスポーツや音楽ライブの側なんですよ。
マシューボーンのなんちゃらと、タイガースの試合をまとめた奴と、ラッドピローズのライブ映像は一般の人からみたら同じ枠なんです。
で、それが映画と競り合ってるなんて印象はないです。初めから勝負なんて存在しないんです。
はっきりいってしまえばスポーツが無観客配信でなりたつというなら、演劇だって成り立ちます。
それが成り立たないというのは、おそらく上の文書にもある、演劇体験こそ演劇の本質であるという転換が原因じゃないでしょうか?
https://www.deepl.com/translator
ボローニャ - socials から科学的基礎があるし、ボローニャ、サンドロ ジャンニーニの Rizzoli の権威ある医師によって広がっている、おそらく resolutive、コロナウイルスについての良いニュースが来ます。1989年からボローニャ大学整形外科・外傷学・物理医学教授、リッツォーリ整形外科研究所クリニックI院長、歩行分析研究所所長、ヨーロッパのプロジェクトや国内・国際研究プログラムのパートナー、国内・国際会議での600以上の発表、Science Citation Index誌での400以上の記事の著者など、非常に優秀なカリキュラムを持っています。彼のメッセージは大きな希望を与えてくれます。読んでみましょう。
"過剰に見えるのは嫌だけど、コロナウイルスの致死率の原因は証明されたと思う。祝福されたマシューだけが、150床のベッドに2人の循環器科医がいて、大変な努力をして心エコー検査をしていて、1人は私です。恐ろしい疲労感!しかし、何人かの人が想定していたものの中で、確信が持てなかったものが、今では最初のデータを持っています。人は全身性静脈血栓塞栓症のために心肺蘇生術に入るが、そのほとんどは肺疾患である。この場合は、まず血栓塞栓症を溶解しなければならないので、蘇生や挿管は意味がありません。血液が届かない肺を換気しても意味がない!?実際には、10人中9人が死んでいます。問題は呼吸器ではなく循環器だからだ!致命的なのは肺炎じゃなくて静脈血栓症だ!
なぜ血栓を形成するのか?なぜなら、学校の教科書にあるように、炎症は複雑ではあるがよく知られた病態生理学的メカニズムを介して血栓症を誘発するからである。それで?科学的な文献、特に中国の文献が3月中旬まで言っていたことに反して、抗炎症剤を使ってはいけないということになっていました。今、イタリアでは抗炎症剤や抗生物質が使われ(インフルエンザのように)、入院者が減っています。40歳でも高熱が出たのは10日から15日くらいで、きちんと治療していないと死亡する人が多い。ここでは、炎症がすべてを破壊し、血栓の形成のための地面を準備しました。 なぜなら、一番の問題はウイルスではなく、ウイルスが入ってきた細胞を破壊する免疫反応だからです。実際、関節リウマチの患者さんは一人もCOVID病棟に入ったことがありません! なぜなら、強力な抗炎症作用のあるコルチゾンを作っているからです!
そのため、イタリアでは入院が減り、自宅で治療する病気になりつつあります。自宅で上手に治療することで、入院だけでなく、血栓のリスクも回避できます。 心エコーでもミクロエンボリズムのサインがぼやけているので、なかなか理解できませんでした。しかし、この週末、最初の50人の患者のデータを、呼吸が悪い人とそうでない人とで比較してみると、非常にはっきりとした状況が見えてきました。私の場合は、遊びに戻って営業再開してもいいですよ。隔離施設を経由して すぐには無理だ しかし、これらのデータを公開する時間です。ワクチーノは静かに来ることができます。アメリカや他の州では、抗炎症剤を使用しないことを求める科学的文献に従うことは大失敗です イタリアより酷い。数ユーロで買える古い薬だ"
もう15年前になるだろうか、高校時代に、友人達と24時間映画をぶっ続けでみるという企画を開いた。
マクロス+にAKIRA、マトリックスやターミネーター、レオンにセブン、キラーコンドームにエビボクサー。
他にもあったけど、みんな有名どころを選んでた気がする。
その中で自分はガメラ対深海怪獣ジグラとへドラをチョイスした。
あと個人的に見たかった赤毛のアンのマシューが銀行ぶっ潰れてショック死する巻。
当時、ガンダムにはまってたんだけど、何故か幼少期に昭和ガメラとゴジラ観てたのを思い出し、みんなと観たくなった。
でも、自分の選んだ映画を上映してる時、俺を残してみんな一人残らず爆睡した…
どうしてかけがえのない思い出なのに、今まで思い出すことも話すこともなかったのだろう…
赤毛のアンはみんな観てくれたけど、ジグラが上映されると共に、みんな寝た。
キラーコンドームも、エビボクサーも、マクロス+も起きてたのに、ジグラはみんな寝た。
柿の種食べながら一人で観たジグラは面白かった。ジグラ終わってから一人、へドラを観た、面白かった。
みんなにタオルケットをかけてガルドがゴーストに突っ込むシーンを何度か見返した。
アイルビーバックのシーンはカッコいいなあと思って、見返した。
キラーコンドームのチンチンかじられるシーンは強烈だなあと…思い返した。
そういえば、自分の選んだ映画を上映スケジュールのどこに入れるかで悩んでたな…
思い出しただけなのに、古傷をえぐられたような痛みがある。
当時の自分に逆シャアやイデオンでもチョイスしておくんだと言ってあげたい。
一人で観たジグラは辛かった。
英国での事例の顛末を読んでから、東洋経済オンラインのJSONよろしく児相をバッサリ断罪するコラムをご覧ください。
児童虐待死事件が起きた時に児童保護関係の職員を無闇に非難すると果たしてどのような顛末になるのか、イギリスの事例です
マシュー・サイド 『失敗の科学』第5章「犯人探し」バイアス より
https://twitter.com/yuiseki/status/1005274185034186754
https://toyokeizai.net/articles/-/224517
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『「かわいそうだ!なぜ救えなかった!」という電話が香川県の児童相談所や本課にバンバンかかっています』『その対応に追われることで、今、保護が必要な子どもたちへの対応ができにくくなっている』
https://togetter.com/li/1235452
B:the Beginning A.I.C.O. -Incarnation- ReLIFE 完結編 (14話~) ソードガイ 装刀凱 The Animation うさぎのマシュー ケッケロケー グラゼニ テレビ野郎 ナナーナ レディスポ
ゲゲゲの鬼太郎 第6期
デュエル・マスターズ! ベイブレードバースト 超(ゼツ) わしも(WASIMO) 第5シリーズ 忍たま乱太郎 第26シリーズ 少年アシベ GO!GO!ゴマちゃん 第3シリーズ 東京喰種 トーキョーグール:re おじゃる丸 第21シリーズ ねこねこ日本史 第3シリーズ 妖怪人間ベム-HUMANOID MONSTER BEM- & 俺たちゃ妖怪人間G イナズマイレブン アレスの天秤 あはれ!名作くん 第3期 信長の忍び~姉川・石山篇~ (第3期) 僕のヒーローアカデミア 第3期 MAJOR(メジャー) 2nd あまんちゅ!~あどばんす~ (第2期) 鬼灯の冷徹 第弐期 その弐 こねこのチー ポンポンらー大旅行 食戟のソーマ 餐ノ皿 -遠月列車篇- ハイスクールDxD HERO (第4期) ポンコツクエスト~魔王と派遣の魔物たち~ シーズン5 妖怪ウォッチ シャドウサイド
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ニル・アドミラリの天秤 立花館To Lieあんぐる こみっくがーるず レイトン ミステリー探偵社~カトリーのナゾトキファイル~ ラストピリオド-終わりなき螺旋の物語- 異世界居酒屋~古都アイテーリアの居酒屋のぶ~
甘い懲罰~私は看守専用ペット~ キャプテン翼 新作 ありすorありす 多田くんは恋をしない あっくんとカノジョ デビルズライン 踏切時間
切りすぎたと思ったんだが……元々アニメが多すぎるだけだわ……
なんでこんなあるの
全部見てる人とか流石にもういないだろ
1999年のSF映画、『マトリックス』とその続編についても批評家の意見は一致していない。『マトリックス』は人類を救う救世主となる白人のコンピューターハッカー、ネオ(キアヌ・リーブス)が主役の映画である[16]。マシュー・ヒューイは彼の著書、The White Savior Filmの中で、「コンピューターシミュレーテッドリアリティの外側の多文化的な景観に入り込んだ白人の主人公が彼の恩寵を通じて、今にも起りそうな災害から非白人の人々を救い始めなければならない。」と記している[17]。ハーナンとヴェラは著書、Screen Saviors: Hoiiywood Fiction of Whitenesssで『マトリックス』を人種が異なる援助者のチームを持つ白人の救世主という近頃の白人の救世主の物語の「最新作」として分類している。彼らは、「その映画の潜在的な白人の人種差別主義の批判は、黒人のキャラクターのモーフィアスやオラクル、モーフィアスの仲間のタンクやドーザーなどの白人の救世主であるネオに仕える弟子たちなどの神話のプロットによって否定される[18]。」 アディリフ・ナマはこれに対して、著書、Black Space: Imagining Race in Science Fiction Filmでモーフィアスとオラクルの重要な任務について「概して、その探求は白人の救世主によってもたらされた任務よりも、黒人の男性や女性によってもたらされた任務のように見える。その黒人のキャラクターは簡単に読み解くと、ブラック・パワー運動や公民権運動の象徴的で文化的な試金石や、それらの残余である[19]。」
ただしすべてものの90%はクズである。ご存知スタージョンの法則である。
「邦画はクソ!」というあなたに見て欲しい日本映画黄金期の名作 - シロッコ手習鑑
http://sirocco.hatenablog.com/entry/Japanese-Movie
1行で要約すると
「邦画はクソ、つまらない」という人は日本映画黄金期の名作見てないんじゃないの?「七人の侍」おすすめ。
通常であれば、うんうん「七人の侍」いいよね。黒澤映画の基本だよね。で済ませていたところだが、
>面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。
という一文がどうにもひっかかったのでここにキーボードを執った次第。
邦画について検索すると「邦画はクソ」という結果が出てくるらしく、その一例として示されたまとめサイトの
でも現代人が「邦画クソ」という場合、この前見に行った邦画がつまらなかった、ハリウッド大作と比べると
どうしても全米が泣けない、原作改変しすぎて新規ファンの流入もないし原作ファン激おこだし誰得なの?
マンガ実写化に文句言うのはカッコ悪いってカッコつけるために言ってるんじゃねえよこちとらカッコ気に
してられないほど必死なんだよ。
みたいな文脈だと思うんだよね。もっと良い新作邦画を作ってくれよ、の裏返しの邦画クソ。
まずいものを食べてまずかった、という生の声。味噌汁がしょっぱいので盛り上がらなかった、とかね。
そこへ評価が確定している過去の名作を見ればいいのに、とアントワネットばりにケーキを薦められても違くない?
オールタイムベストにランクインしている名作を見るランキング型消費では、「君の名は。」「シン・ゴジラ」が
ブームだからと見に行くのと大差ない、いやむしろ悪いんじゃないか。
新作を見て評価するのは、きさんがやらねば誰がやる?
>面白いという保証のない現代映画をみるなら映画黄金期の名作を見るのをオススメします。
新作映画は見てみるまで面白いかどうかわからない。評判はあっても時間の審級を経てはいない。
それでも、新作を見る人がいるからこそ映画は作り続けられる。回転資金がなくなれば味噌汁さえも作れなくなり作品数は減る。
最初のスタージョンの法則に戻る。名作は幾多の駄作の屍の山の上にわずかに咲く花だ。
山が小さくなれば名作のド壌も枯れてしまう。
新作見るより過去の名作を見ればいいのには、映画興行の否定だ。
邦画の良さを紹介するために邦画を殺したら本末転倒ではないか。
1.で大体言いたいことは終わった。あとは重箱の隅です。
当時の娯楽の王様である映画作品が数多く作られていた50年代60年代が日本映画黄金期なのには異論はない。
しかし、その後テレビの隆盛、レンタルビデオの登場など、作品数・入場者数が減っていくには理由があり
単に数が下だから今は暗黒期、だから黄金期のを見ようという論は雑である。
物価の上昇はあるが、観客動員数や映画館の数は最盛期より減っているにもかかわらず興行収入上位には
現代の作品ばかり並んでいる。現代だって捨てたもんじゃないよ。上位=名作とは言わない。
では黄金期に多く作られた中でどれほどの作品が今に伝えられているのか。直木三十五の作品は読み継がれているだろうか。
名作とされるものしか今に至るまで残らないから黄金期はより素晴らしく見え、洋画もヒットが見込める
現代邦画は、ダメなものも全部さらけだされているから相対的に90%クズ感が増してしまう。
上澄みと生データを比べたら勝ち目無いよね。観る側向けにはこの点クギをさしたい。
だが、過去の名作を踏まえた上で今映画を作っている方々には、なんで見えてる地雷そびえ立つクソを作りあげてしまうのか。
味噌汁のミソとクソを間違えてはいないか。映画評論してきた経験は製作の現場には役立てられないのか。
金と時間が許せば名画座に毎日入り浸って映画漬けの日々を送り何百本のノルマを果たして蓮見ゼミに潜り込むんだ。
という夢の前提条件も今ではhuluなりNetflixなりで自宅に居ながらにして叶えられる。
しかし大スクリーンで一時停止も巻き戻しもなく集中して見る体験は映画館でしか味わえない。
「七人の侍」が公開された1954年、「ゴジラ」と「君の名は」も公開されていた。
奇しくも今年、その系譜を継ぐ「シン・ゴジラ」「君の名は。」が、それぞれ好評を得ながらヒットしている。
「シン・ゴジラ」「君の名は。」が新作としてかかるのは今しかない。
1968年の五月革命のパリが舞台。パリ留学中のアメリカ人青年マシューは
シネマテーク抗議デモを通じて知り合ったテオとイザベルの家に転がり込み……。
邦画でなくてすまんね。
インターステラーとかさ、身近の女の子はだいたい途中から付いていけなくなったっていってた
あれ女にはさっぱり分からんそうだな
じっくり聞いてみると、娘の映像を見るマシューマコノヒーの場面は確かにうるっときたけど、
相対性理論だのブラックホールだの5次元だのがまったく分からないらしく、「ストーリーがよくわからなかった」って言ってたよ
まあ女の子ってそうなのかもなあって思ってひとつひとつ説明していったんだけど、結局釈然としない様子で
アメリカの連邦最高裁判所が今月26日、同性婚を認める判断を示したそうだ。現代社会の風潮ではいずれ認められるだろうと思っていたが、随分と早いな、というのが当初の印象。これで同性婚が当たり前、という風潮が全世界的に加速するのだろう。アメリカの文化的影響力の大きいオーストラリアなどの英米圏、それから欧州、そして日本や韓国、台湾などへも波及して、同性婚が当たり前になっていくのだろう。
これは、人権尊重という点ではいいことなのだろう。だが、西欧型社会の存続という面で言えば悪い知らせじゃないのか。現代の西洋社会の終焉の始まりの一つとなるのではないかしらん。個々の人権を認めた西欧社会の安定した政治システムは、あと100年のうちに終焉を迎え、中世的な世の中へと変わっていくのではないか、という予感がする。
そもそも同性婚の法律上の許可を同性愛者が求める理由は、そこに配偶者特権があるからだ。異性婚の配偶者には、いくつもの特権が付与されてきた。すなわち財産権、税制控除などの経済的特権や、家族間の問題には他人が口出しを出来ないといった排他的特権、養子を引き取って育てる権利などなど。これを同性婚者にも拡大しなければならない、というのが米国連邦裁判所の趣旨だ。
だが、男女の一夫一婦制を基本とした夫婦以外にも、様々な強固な人間同士のつながりがある。一夫多妻制はよく知られている。それ以外に、数人の男女で暮らしている共同体もあれば、兄弟で暮らしている家族もある。今後高齢の独身者が増える日本では、同性の高齢独身者同士が寄り添って擬似家族的に暮らす人々も多くなるだろう。なぜその中で、夫婦だけを特別に扱わねばならないのか。たとえば『赤毛のアン』を育てた兄のマシューと妹のマニラの二人のような兄妹に対して、夫婦と同じ特権を与えない理由があるのだろうか? 性的な愛情を基本とした2人の関係を、友情だとか兄弟愛だとかを基本とした人間関係よりも尊重しなければならない、というのは少々無理があるのではないか?
それに人々はやがて気づくだろう。同性婚者家族に拡大された特権は、やがて様々な人間関係の共同体にも拡大されるようになる。特権が拡大しすぎた社会では、やがて特権自体の意味がなくなる。その先に待っているのは、誰もが夫婦に伝統的に課せられてきた義務を果たさない社会なんじゃないか。
ローマ帝国が終焉した理由として、ローマの市民権が付与されすぎて、特権が薄まり、ローマ市民たちが納税と戦闘の義務を果たそうとする意欲を失った結果、ゲルマンの蛮族の侵入を招いた、という説がある。お隣の中国大陸の清が滅びたのも、八旗に所属する支配階級である旗人に、モンゴル人や漢人を加えるようになり、旗人の人口が増えすぎて社会の弱体化を招いたことが原因だとも言われている。特権者が権力を失ううちに、義務を果たさなくなるのは世の中の習いであり、共同体の屋台骨が義務を果たさなくなったら、その社会は崩壊するのが世の常だ。
人間は不平等感に我慢できないから、権力者と自分は同じ価値があると思う人々は権力者の権力を奪おうと試みる。人間は優しい生き物だから、特権を与えられていた人々は、世代を重ねるうちに良心の呵責に怯えて、周囲に特権を与え始める。しかし「権利なき者に義務もなし」という言葉の通り、権利を与えられる人々が拡大すればするほど、その権利の意味は薄れ、大切にされなくなる。
西欧型社会の基軸である夫婦に伝統的に与えられてきた権力が失われると、やがて夫婦に課せられてきた子育てや相互扶養などの義務を人々はバカバカしく思うようになるだろう。そのときに、今の西欧型社会は崩壊するんじゃないだろうか。
米下院議会公聴会でタリバン研究の教授がアルカィーダとの繋がりを証言
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中国には新彊ウィグル自治区の独立をめざすETIM(東トルキスタン・イスラム運動),TIP(トルキスタン・イスラム党)のほかにも中国からの分離独立を狙う過激セクトがあって、「それぞれが地下組織として新彊ウィグル自治区のなかに潜伏し、テロの機会を窺っている」とタリバン研究家のワリド・ファレズ国防大学教授が、米議会公聴会で証言していたことが分かった。
ワリド教授に拠れば、イスラム“聖戦”の中核「アルカィーダ」は、新彊ウィグル自治区の若者をリクルートして、軍事キャンプで訓練し、テロ活動の実践のため、遠くチェチェン、アフリカの角などへ派遣している。
実際にパキスタンに送られたイスラム兵士には多くのウィグル人がいる、という。
ETIMを「テロリスト」と指定したのは中国、カザフスタン、パキスタン、米国、そして国連である。
02年にキルギスで殺害された中国人外交官も、北京はETIMの仕業と睨んでいる。
かれらは新彊ウィグル自治区の独立だけのために闘っているのではなく、チェ・ゲバラの永久革命のようにイスラム聖戦の大儀のためにはチェチェンであれ、アフガニスタンであれ、世界どこへでもテロ戦争の闘いに出かける。
武器は密かに密輸ルートで陸揚げされ、彼らを手引きするシンパ、資金援助をする胴元、イスラムの連帯は世界的な絆がある。
02年に米国務省がだした報告ではETIMの指導者=ハッサン・マシュームは1999年にアル・カィーダの首魁=ビン・ラディンと面会した形跡があり、兵士の訓練の他に軍事金の要請を申し出た。
すぐに実際の兵士をビン・ラディンは新彊ウィグル自治区へ送り込んだという。
ほかにETIMと連携するTIP(トルキスタン・イスラム党)の存在が確認されており、北京五輪前に爆弾事件をおこしたのは、このグループだという。