はてなキーワード: カルヴァンとは
バッテリーで詰まって攻略情報のお世話になる事に。置きものはもう一回取れたのか。
っつーか4階の女ボス、ハーレムの鍵を持っててもお構いなしに出て来て毎回ハーレムの鍵を落とす。なんなのあの人。一個でいいよ。狩り場への近道に立ちふさがってるから、毎回倒さなければならず、ハーレムの鍵がどんどん増える。もはやハーレムの鍵束と言っていい。
なお本作はハーレムガードを含めてサフォケーションが効く相手が多い。4Fでぶっちぎりに強くてまともに戦ったら勝てないナイトゴーントの群れも、サフォケーションで消え去る。
お供はエビ娘以外はサフォケーションで一掃。エビ娘はデッドリーエアで3匹中2匹は倒したが、残り一匹のエビ娘を倒すためだけに数ターン費やした。強いなこのボスと取り巻き。あと1レベル上げればニュークリアブラスト打てるようになれてたから、そうしたほうが良かったかな。
っつーか、酸の呪いひどい。欠けた大地の偽エンディングと同じで、またしても第2パーティを編成する羽目に。
っつーかこのシナリオ、ネタなのか何なのかわからんアイテムが多すぎて気持ち悪い。単にネット上にあまりまとまった攻略情報がないからという理由もあるだろうが、装備しても意味があるのか無いのか分からないアイテムがやたらに出てくる。防御力の無い兜とか。何なんだ一体。
ゲイが祝福されない云々はともかく、
資本主義はキリスト教のプロテスタンティズムから生まれたとも考えられている
宗教改革におけるカルヴァンの思想は、より徹底した聖書中心主義であり、神は絶対的な権威をもち、人間の原罪はキリストの福音によってのみ救われるというものであった。その神による救済は「予(あらかじ)め定められている」であり、それを定めるのは絶対の権限を持つ神だけである、したがって「人間はすべて平等に創られてはいない。永遠の生命にあずかるもの、永遠の劫罰に喘ぐのも、すべて前もって定められている」とした。そのような人間がどのようにして神への絶対的服従を示すことができるかというと、現世の天職を与えられたものとして務めることでしかできない、と説いた。このようなカルヴァン派の信仰は西ヨーロッパの商工業者(中産階級)に支持されていった。そしてこの西ヨーロッパの商工業者の中から、近代社会を出現させる資本主義が生まれてきた。→『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
いずれにせよ、神は最初から私を救うか救わないかという正解を持っているが、それは私が死んで答え合わせがあるのであって、
私が死ぬまで正解は分からない、正解はCMのあとではなく死んだあとである
だからこそ、目の前の仕事を全うするしかないし、仕事がないとしても人生を謳歌するしかないとさえ私は考えている
その、仕事を全うする、人生を楽しむ、といったことも神は最初から計画されていることだし、
もっと広く考えるならば、この世界のすべてが神が計画されていることである
つまり、自由意志があるようで自由意志がないわけであるが、個々人にとってそれはどうでもいいことなのである
なぜなら、我々人は、神様が何をお考えになっているのか、知りようがないからである
そして、それを知ることができるのはイエス・キリストのみであり、それ以外の預言者は偽の預言者である
人は神様が何をお考えになり、これからどうされようとしているのか、知る方法はないはずだからである
だから、別にキリスト教を信仰しろ、信心深くあれ、不信心は許さん、とはまったく私は思わないが、
人は機械ではなく、ロジックのみで動作するわけではなく、必ずしも論理的、科学的思考が正しいとも言えない存在であり、
特別な信仰はなくても、頭のどこかに神というか、なにか見えないものを信じる必要性さえあるように私は考える
水木しげる氏の、見えないものを信じる、にも似ているように私は思っている
キリスト教や宗教を悪と考える人たちがこの世界に多く存在することも事実である
しかし、本当に宗教が必要ないのか、人の心に平安を与える唯物論的ではない何かが必要ないのか、
個々人がそれぞれ考えておく必要があるように思う
そういえば庵野氏の昔のインタビューの中に、今の庵野氏の心情とは大きく異なっている可能性はあるが、
「飽食の時代だから心の問題を描いた」みたいな発言があったが、
たしかにそれはある側面では正しく、それがオウム真理教のような終末思想のカルトを多く生み出した
しかし、当時の庵野氏が言う、飽食の時代でなければ明日食べるもののことだけ考えるから心は問題にならない、
これは本当だろうか
もちろん、明日食べるもののことだけしか考えられなくはなるだろう、自分もそうなるだろう
しかし、エヴァで例えるなら、その極限的な状態でシンジにとってのゲンドウが死ぬ、シンジにとっての周囲の人たちが死ぬ、
でも、自分が生きてるからそれでいいや、みたいに思えるものだろうか
たしかに他人に対して思い入れがない、思い入れがない他人であればそうかもしれない
極限的な状態であれば、食料のために親が子を食べる、子が親を食べる、人が人を食べる、殺し合い奪い合う、
そういうことが起こっても不思議はない
しかし、人であるならば、どこかで我に返ったとき考えてしまうのではないだろうか
これでいいのか、何か間違っていないか、
そういった考えが人にあるからこそ、道具を発明したり、農業を発明してきたのではなかったのか
もし、人がそうでないのであれば、今でも殺し合い奪い合っているはずである
しかし、そうならなかったのはなぜなのか?
悲しいことだが、大切な人が無残な死を迎えても、これも神様がご計画されていたことである
神様の役割は、お賽銭のような賄賂をもらって人の願いを叶えることではないし、
すべての人類一人一人が不自由なく幸せになることでもないからである
逆に考えても、すべての人が幸福な世界なんてありえないとしか思えないわけで
あくまで個人的な解釈だが、まず聖書は寄せ集めの書物という考え方もあるわけで、
キリスト教の中にも聖書は無謬であり絶対的に正しいという考え方と、
いや、聖書にも間違いがある、本質的には神が絶対であり神を信じることである、という考えもある
だから、あくまで個人的な解釈だが、自分としてはキリスト教的に、
ゲイであれノンケであれ関係なく、すべての人たちが救済されるか救済されないか、という問題を抱えており、
それは神様が最初から決めているわけであるが、我々人は死ぬまでそれは分からないのである
だからこそ、一日一日を大切に生きていくしか、人にはそれぐらいしかできないのである
人は思い上がりやすく、この世界を宇宙をすべて悟ったつもりになりがちである
鋼の錬金術師のフラスコの中の小人ではないが、神に思い上がるな、と言われるまで人は自らの思い上がりに気が付かない
そして、人は基本的に怠惰であり、その思い上がりからも歴史的にも多くの悲劇を生み出してきた
神を信じなくてもいいが、自らが思い上がっていないか、常々肝に銘じておく必要があるように思う
ただそこで解せなかったことがあった
服育っていうのかな?アルマーニみたいな高級な服を着せたほうが良いと当の校長も言っていたそうだ
http://www.huffingtonpost.jp/2018/02/07/principalletter_a_23355613/
"...安価な服のなかには、途上国等の貧困問題、ものによっては児童労働の問題も横たわっている。チョコレートなども同様だ。こういうことも含めて、社会や総合などの授業で扱うことができれば、服も立派な教材である。"
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20180210-00081460/
これは違うだろうと思った。何がって?
"児童の権利条約"は1990年成立で、1994年に日本も批准している
これは義務教育中の労働の禁止や、危険な労働、酷使をしないことが謳われている
子供って従順だから親の都合や雇用主の都合に従ってしまうから。
アルマーニなどの紳士服の縫製も南部で児童がやっていることがある(あった)と。
当時は服飾ブランドではアルマーニ、ダナキャラン、カルヴァンクライン、ベネトンそんなブランドの名前が挙がっていた。
今はアルマーニのようなハイファッションだけでなく、H&M、ユニクロなどファストファッションの名前もあがる
鉱業、コーヒー、カカオマスなどアフリカ、南米などにもスポットライトが当たる
国際NGO ヒューマンライツウォッチ(主に戦乱地域の窮状報道のことで耳にするNGOかも)による
アウトソース先の工場リストや、労働の権利や児童労働に関する質問に回答しないようだ
http://features.hrw.org/features/HRW_2015_reports/Cambodia_Garment_Workers/index.html
それに我がユニクロも人権のことではしばしば吊るし上げられているしグローバルブランドはどっちもどっちな気もする
ただ言えるのは泰明小学校の制服が仮に採寸地と縫製地が近い方がいいからということで日本国内生産かもしれない。
もしくは国内の制服専門メーカーにアウトソースしているかもしれない。
しかしグローバルブランドは仮にアウトソースしてようがサプライチェーン全てを管理する必要があり
グローバルブランドは労働者の権利や賃金が低く据え置かれている国や地域で生産しようとする動きはずっと変わらない。
それを知った方が服育になるでしょう、そう思った
聖母マリア・十二使徒・パリサイ派・イスカリオテのユダ・十字架刑・キリストの復活・マグダラのマリア・タルソのパウロ・新約聖書・ローマ教会・コンスタンティノープル教会・アレクサンドリア教会・ローマ教皇・カノッサの屈辱・十字軍・ラテン帝国・ヴァチカン市国・カトリック・プロテスタント・免罪符・マルチンルター・カルヴァン・イエズス会・フランシスコザビエル・コンキスタドール・ピサロ・正教会・東ローマ帝国・ロシア帝国・イコン・英国国教会・コプト教・異端・魔女裁判・ジャンヌダルク・グノーシス主義・ ナグ・ハマディ文書・トマスの福音書・マニ教・ネストリウス派・景教・カタリ派・モルモン教・エホバの証人
カルヴァンクラインもめがねを作るのか。おおいやしき商業主義よ。
私が美味しんぼ海原雄山風めがねセリフを作っても無意味なのだな
「主(あるじ)、このメガネはまじりっけなしの本物のメガネか?そうだというのなら、教えてもらおうメガネっ子とはなんだ?メガネっ子の定義は何だ?メガネをかけていればメガネっ子か?目が悪ければすべてメガネっ子なのか?さらにメガネっ子というがコンタクトレンズのCMの前半だけメガネをかけている者たちはメガネっ子ではないのか?また古来より少女漫画でいわれているところのメガネをとったら美人という女はメガネっ子なのか?それがメガネっ子の元祖であるなら、われわれもそうしてメガネを外したメガネっ子を愛すべきではないのか?またインドにはナンやチャパティといったパンがある。それらと一緒に食べるのがメガネっ子の正しいあり方なのではないのか?」