はてなキーワード: ステイタスとは
あなたのためにこんなに苦労してるのよと唱えられて育てられた。そのせいか物心ついたときから、存在していること自体がなんだか申し訳なくて、生まれてきてすみませんねって風にずっと過ごしてた。無理して高いものを用意されたりすると、そんなことまでしてくれなくていいのにと思った。その苦労のせいで、こんなにしてあげてるのにお前は!と普段の生活のなかで苛つかれるのが凄く嫌だった。
ところが、大人になってこれまでの全ては親の見栄だったのかもしれないと気づいた。大学の友人達は親と健全な関係を築いていたからだ(少なくとも僕の両親や親戚のそれとは全く異なっていた)。これまで僕に選ばせる形できた道は、親の世間体とか親戚同士の見栄の張り合いとか、そういう事のためだったのかと妙に納得した。僕はそのために生まれてきたんだ。皮肉なことに、大学まで行かせてもらったからこそ気づけたのだけれど。
そんな風に大人になった僕は、親になることに魅力を感じない。むしろ早く役目を終えて眠りたいとさえ思う。バブル真っ只中だった親世代からすれば、自家用車を乗り回し、子供を大学に入れてそこそこの企業に就職させるのがステイタスだったんだろう。でも僕はそれをしたい(させたい)とは思わない。たぶん本当の意味で家族が欲しくなる頃には、もう年齢的に手遅れなんだろうと思っている。
これからも奴等はきっと、結婚はまだか孫はまだかと問うだろう。そして当然のように手厚い介護を要求するだろう。なぜならそれが奴等の価値基準だから。親戚や他所の家と比べて(金銭的な見栄えで)優位に立ちたいのだ。さもしい奴等め。
彼等にとって子供とは彼等の人生を彩るために存在している永遠のアクセサリーだ。でも、アクセサリーはなくても生きていけるだろう?少子化上等くそくらえだ。
初めに言っておくと、私はまあまあのメンヘラでメンタルが弱いのですぐ落ち込んですげー面倒くさくなる。
それでもってレズビアンなんだけど、カミングアウトはできてない。
家庭環境だけど、父はおらん。別居するだけだからと言われて母について行ったら知らんうちに離婚していたらしく今は音信不通。母子家庭。
俗に言う"おこげ"ではない。
会社にゲイをカミングアウトした人がいれば「ゲイの後輩がクッキーくれたよ!」
みたいに、セクシャリティが全然関係ない話なのにその人がゲイであることを話に必ず乗せてくるのね。
思い返せば、母親はQUEENが大好きなので小さい頃からリビングのBGMは大体QUEENだったんだけど、フレディ・マーキュリーの話題はフレディがどれだけすごいかよりも「フレディはゲイでエイズで死んだんだよ」って話が一番多かったから、すごく申し訳ないことに未だにフレディの素晴らしさを感じる前に「フレディはゲイでエイズで死んだんだよな」って一番先に思い浮かんでしまう。もう一種の刷り込み。なんかボヘミアンラプソディ上映したから母未だに言うし。
で、私の話になるんだけど私は自由を求めてミックスバーに入った(二日で辞めた)。
そうしたらそこは自由の場どころか、オカマがオナベがホモが女装のオッサンが自虐して気持ち悪がられたりおこげのステイタスにされたり辛口人生相談に乗ったり下ネタ言ったりするタイプのところだった。
やっぱそゆ場所だとMtFってモテるんだよね。オカマとしてね。
だから姐さん率先して話してた。ホスト崩れのブス男をオカマジョークで笑わせてモエロゼ開けさせた。
すっげぇなって思った。
姐さんはオカマバーのエンターテイナーとして長年にわたり水商売してきた人だから、もう本当にカッコよくて尊敬できたし、私はそういう「オカマバーのキャスト」が本当にすごいと思ってる。トーク力もジョークも抜群にできて人生相談もできて、ショーで歌って踊れる人もいるわけじゃん。
でも、姐さんに「オカマは最初から馬鹿にされてんのよ(だからやりやすいのよ)」って言われたときになんか私はここにいられないって思った。悲しくなってしまった。
何が悲しいって、オカマバーのオカマは最初から馬鹿にされてるっていうことが。当人がそう思ってるってことも。
私はエンターテイナーになれん、レズビアンだからって馬鹿にする奴はうまく引っ張ってモエロゼ入れさせる前に片っ端からぶん殴りたいと思ってしまうと思ってミックスバーを逃げた。一言ことわりを入れたけど、まあ、実質飛んだ。
そんなことがあったから、なんとなく母親に「同じお店に性転換手術も終えて戸籍も女で喋らなければ誰しもが女だと思うようなニューハーフのお姉さんがいるんだけどオカマはハナっから馬鹿にされてるから楽って言われてなんか悲しくなっちゃったんだよね」って言った。(ミックスバーで働いてるとは言ってない)
って言った。
「その人べつに辛くないと思う。割り切って笑わせて馬鹿にする奴の金ふんだくってやるって頭いいじゃん」
って言うから、
おお、そういう考え方もあったかーワシが浅はかだったーって思ったのね。反省したのね自分を。悲しいとか可哀想とか、自分がやられたら死ぬほど辛いからその感情が姐さんにもきっとあるハズとか決めつけちゃったのがもう恥ずかしいと。
でもなんか母親が姐さんを気に入ってカッコいいカッコいいって褒めちぎるから、凄いよねープロってこういうことなんだねーみたいな同調してたら
「オカマとかゲイの人って後がないから、『今稼いどこ!』みたいなサッパリ割り切った思考がカッコいいよね!だから好きなのよ〜」
って言い出した。
え?
ん?
てことは私も後先ないってこと?
だってまあ自分が悲しくなるからあんま言いたくないけど、男×男カップルで住むとするやん。二人ともそれなりに稼ぎのあるサラリーマンだとするやん。そしたら割といい家に住んでいい生活して過ごせると思うの。お金が一番稼げるのってゲイカップルだと思うのね。ゲイじゃないから違ったらごめんなんだけど。
で、どのへんに「後がない」のかを考えたところ、やっぱ子供が生めないところなんだろうなと。
母親は言いたいわけだ。多分だけど
じゃあレズビアンである私も後がないっすね!ハァッ!ジャンジャン稼がないと!!
私の心が虚無になった。
私は母親のことが大好きで大好きで、本当に私より先に死んでほしくない。
何より私の唯一の親。
なんか、一番信頼してた近しい人に見放された気がした。
それからずっと、生きる意味をなくした感じがしてしまっている。
虚無だ。これを虚無って言うんだ…
いっそ毒親で私がものすごく離れたかったら言われた瞬間「ワス遠いところに引っ越すネ」って言えたかもしれない。
でも無理だもん。
大好きなお母さんなんだもん。
大好きなお母さんに否定されたんだ。
車を走らせているとよく見かける。
だからどうした というのが多くの人間の感じるところだと思う。
購入されて使用されるはずもない。
職場でこの件について話してみると「赤ちゃんが乗っているから安全運転をします」
「赤ちゃんが乗っているから煽ったりしないでください」(意味不明)ではないか
車を走らせる以上、安全運転を心がけるのは「当たり前」の話だし、
煽るのだって非常識なことなのだからそこまで過剰に拒絶する必要もない。
BABY IN CARが意味するのは、そういうことではないのだ。と思う。
①「私は既婚者です」
③「私(世帯主の場合)には扶養する家族が居り、養える財力もあります。車もその証拠です」
④「私(メスの場合)は独身者ではないので、ナンパしないでください」
⑤「私(オスの場合)はとにかく童貞ではないので、バカにしないでください」
主立ってこれらの効力を発揮するアイテムとしてBABY IN CAR は存在している。
少子高齢化社会と呼ばれる中、確実に既婚者であることは社会的ステイタスとなっている。
BABY IN CAR を使用することによって、既婚者と独身の差異が今まで以上に際立ってくるのだ。
しかし、恐ろしいことではあるが、不安を解消する方法を見つけた。
むしろ「はあ? 何いってんの?」ってぐらいに鼻で笑われる。
そもそも「オタク文化」という概念すら怪しい。そこにある面白いものでみんなやってる、ってぐらいのノリ。
おそらく「オタクは日陰者、キモい」というのの残り香なんだろう。
むしろネットの面倒くさい政治論壇のほうがオタクをバッシングしてる気配が強く残ってて、若い人間。リアルタイムの学生にはそういう匂いがまったくない。
インターネット老人会ぐらいしか、今の日本でオタクは差別主義者になるんだとか言ってるやつ居ない。
30~50代ぐらいのサブカルブームオウム真理教事件あたりの記憶が残ってる人たち、エヴァ直撃世代ぐらい。
塾の夏期講習に来たおしゃれ女子が「先生コミケって面白いですかー。FGOの本買ってきたら見せてください」とか、そんなノリ。
金髪校則違反をステイタスにしてる少年が、ラブライブサンシャインの国木田花丸Tシャツ着てLVに参加し、「現地行くんでバイトしたい」
とか言う時代になってた。
どんな思想や趣味の集団(グループ)でも、その「思想や趣味」が社会的に一定のステイタスが
築かれた後で、「後から加入して来たフォロワー」には確率的に「まじめクズ」が、まぎれ込みやすい。
「とりあえずどこでもいいから大企業に入りたい」と同じ心性。目的を持たない軽度のサイコパス。
「まじめクズ」は、普段はおとなしい「孤独相」のバッタが特定環境下で突如「群生相」に相変異して
周囲を食べ尽くす『蝗害(こうがい)』のように、匿名環境と特定の炎上案件が交差すると【まじめクズ憲兵隊】と化す。
【まじめクズ憲兵隊】の隊員は、信仰心・忠誠心の深さを自身や周囲の他人に証明するために
過激でイキった「信者行動」をとりやすい。「所属集団の中で存在感を高める」出世=承認欲求だけが生きがいだから。
俗諺(ぞくげん)に『3代目が会社を潰す』という言葉があるが、あれと同じ効果を
えー、悩み相談というのはそれを相談という形で他者に解るように言語化してしまう過程で、すでにその悩みの解法が一目瞭然誰の目にも明らかになってしまうということがまま起こるものでして。
それを他者から見ると「この人はなぜこのように自明なことで悩んでいるんだ?」などと不思議に思われてしまうものですが、一人で悩んでいる間はそにれ気づかないものなんですよね。
で、この場合もまさにそのケースで、きっともう御本人的にも悩みの答えというものはほぼ言わずもがなな状態だろうとは思いますが、一応ご相談へのお答えというものをここに返してみようと思います。
先ず、ご相談の元増田様がなぜ恋人を作らなければならぬと思っておられるのかという点についてですが、これは一読すれば誰もが解るように、
「自分が恋愛というものから落伍しているという烙印を押されることへの不満、あるいはすでに貼り付けられたレッテルを払拭したいという願望」ということに尽きるでしょう。
世間体とかプライドとか言われるものでしょうか、切実な悩みですね。
発端がそのようなものですので、元増田様が交際相手への条件として"自分と同程度の社会的地位及び容姿"を求めるのは、これもまた自然な話だと思います。
世間の目からも己の内的な目からも落伍者の誹りを受けないためには、一定程度の市場価値のある相手でないと困ります。
で、ここからが難しいのですが。元増田様が求めているのはそのような"ステイタス"であるにもかかわらず、ここにさらなる付帯条件がついてきます。
それは「ちゃんとした恋愛らしい恋愛がしたい」ということです。元増田様の表現によるなら「ちゃんとゆっくりお互い中身を知り合ってからちゃんと付き合える」ということになります。
なんということでしょう、元増田様が欲しているのは飽くまで"交際という実績"であるのに、そこに"形式的でない本当の恋愛"という矛盾した制限がかかっているのです。
解ります、
「恋愛のために恋愛するのではなく、真の恋愛(って何?)を演じることが出来るのだということを証明しなければ恋愛出来ないという誹りを免れ得ないのだ」
と考えておられるのは。
しかし、ここで「己のプライドの問題を解決する」という動機と「他人とお互いの中身を知り合ってちゃんと付き合う」という手段は決定的にすれ違っています。
だって元増田様は別に他人の中身になんて興味ありませんし、ここまで詳らかにしてきた貴方の中身を他人に知ってもらうつもりもありはしないのでしょう?
少なくとも貴方がおかきになったこれまでとこれからの中に、他者の中身に対する期待や不安、己の内面を受け入れて欲しいという渇望、のようなものが読み取れる箇所は一箇所としてありません。
持って回った物言いになってしまったので話をまとめると、元増田様は今の所他者を渇望する内的な動機はないが、ちゃんと恋愛出来るのだという証明はしたい。という現状にあります。
そのような中途半端な義務感で恋愛に取り掛かろうとするから良くないのだというのが答えになろうと思います。
学生時代の勉強のことを思い出してください。「なぜ勉強しなければならないのかは正直わからないが、やらないといけないものらしい」というように強制的にやらされるだけだと、
能率は上がりません。これが中途半端な義務感と私が言うところの状態です。
まあ勉強だったら別に能率が上がらないだけで、それでも出来るとは思うのですが、これが恋愛になると相手がいるものです。中途半端な義務感で相手を愛そうとしても、
相手から返ってくるのはやっぱり中途半端な義務感だけ、ということになりますでしょう? それは本意ではないはず。
で結局どうすればいいのかということですが、どうでしょう、ひとつ恋愛というものに対する興味をすっぱり忘れ去ってください。
そうした上で「そういえばかつて私を苦しめたあの恋愛というものは一体何だったんだ?」と、改めて興味を持ってください。
この時貴方にはかつての貴方にはなかった"批評性"というものが備わっています。そしてこの興味の持ち方ならば、
あなたの恋愛に対する興味は誰かに押し付けられたものではありませんから義務感もなく、"自分"と"恋愛"の間に適切な距離感を保ちながら取り組むことが出来るはずです。
とまあ、この処方箋部分はご参考程度に、その前段までの矛盾点の解説で大凡貴方がなぜ"恋愛"に苦しめられているのか、というのはお解りになるはずで、
その解決については自分なりに好きな方法をとってください。良い恋愛が貴方に訪れることをお祈りいたしております。
余談ですが、私はよく人生相談に乗ると相手のことをバカにしていると誤解されることが多いのですが、そのような気持ちは一切ないとここに弁明させていださきます。さようなら。
10年前に心斎橋の婚活パーティで時給815円で司会してたことを思い出すわ−。もっと、悲惨なのは、パーティ開始早々で起きる。たぶん、初めてではない女子の参加。一回はカップルになるとか、いい人見つけたんだと思う。そんな女子の二人組のうちの一人は会場内の男性の顔見た瞬間に、顔が青ざめて。もう一人の子がどうしたの?って顔してた。(常連ばっかでさ。男の方は、ステイタスだったんだけどね。女子の参加料は1500円とかだったよ。男子3000円ぐらいだったかなー。)
どうして、そういう表情になるかなって顔してた。そして、退散されてしまった。
受付で身分証の提示と参加料の支払いを済ませてから会場の内に入れるシステムだった。だから、彼女たちはお金を払ったにも関わらず、出ていったことになる。
どういうことか、カンのいい人って気がつくかもしれない。
たぶんさー、一度交際した相手がいたんじゃないのかなって思う訳よ。訳ありで、別れたかな。。一日2回ぐらいパーティ開催して、2回とも参加する男の人がごろごろいたしなー。いやー、大変大変。あのねー、変なリピーターがいてねー、出会い産業って、ちょっと、色々あるのよー。
婚活パーティーの経費と言うと、基本的に参加者を募るための広告費が大半だった。当時は、フリーペーパーに掲載されているのがメインで今のようにネット広告は、まだまだ、下火の時代だった。また、会場はビジネスホテルの会議室の中で、ロの字型に並べる形だ。
本格的な司会者の人(芸人さんとか、結婚式の司会とか出来る位のレベル)もいるんだろうけど。この時のバイト先は普通の素人がやってたよ。
もちろん、真面目に素敵な人との出会いがあって人生のパートナーを見つける人も数多くいるんだろうけれど、一部、そういう事例もあったなーと。
友達に、アイドルみたいに小顔で可愛くてお洒落ですごく気が利いて話もいつも面白いけどガチヲタでBLを楽しみすぎてるあまり恋愛にも結婚にも興味なくて異性のアプローチも全部断る生活を10年以上続けてる子がいる。
一方、身内のママ友に、オウムの麻原が女体化したみたいな外見で肥満アンド不潔コンボでいつも会話の空気を読めず周りに迷惑かけてるドゥフフ笑いの子持ちがいる。夫の勤め先がそこそこ名が知れている会社であることと、既婚であることがステイタスらしい。
オタクをやめようと思いはじめてきている。
というのも、洋服や化粧、オシャレに対して興味を持ち、色んな事が楽しいと思い始めたら、オタクに対して疑問を持ってしまったから。
アニメとかゲーム、漫画のオタクで、前はキャラをイメージしたアクセサリーを可愛い、普通に使えると思っていたけれど今になっては少し恥しさが残る。
グッズのキャラも一つの絵柄から様々な媒体で売っていて、絵柄同じなのに何でだろうと疑問が残ってしまった。
そのような疑問が色々と積み重なって、オタクに対して疑問を持ってしまった。
その時にふと自分は盲目的にオタクをしていた数十年を思い返してみた。
その時、自分にとってはとても処理出来ない、悲しい事があった。
そこからどんどんと飲まれていくように、恋愛ゲームやオタクグッズなどに手を出していった記憶がある。
私は、集めるのが大好きで、キーホルダーなどビニールに入ったまんま保管が多く、溜まっていく一方だから部屋がとてもじゃないけど見せられない状況。
それが当たり前だった。
物があるのが、現実を考えなくても良く、夢中になれる事があるんだって考えられたからかもしれない。
その時私は、その思い出とプラスで自分に対してのコンプレックスや自信のなさが凄くあって、自分に対して不満で、諦めていて、拗ねてる感じでオタクをやっていた感じがするなあと今更ながらに思う。
顔も良くないし、体型だって太っていて、どうせ私なんてとかそんな感じの。
何故か、その人の闇を感じる時がある。
自分で取り返しがつかない劣等感とかコンプレックスや思い出がある気がする。
言葉の端々にそれを言ったり、言葉で出てる気がするからそれ気にしてるのかなって思う。
それを見つめたくなくてオタクをやってますっていう人が多いのかななんて推測してしまう。
それだけでは、その時の私はオタクやめようかなんて思わなかったと思う。
それを知っている自分がステイタスで、好きなキャラクターのグッズを持っている事で相手に認識させる、相手の気持ちを考えもせず一方的なコミュニケーション、前好きだったアニメの話を全く言葉に出ない所など書いてしまえば多くなってしまうぐらい疑問が多くなってしまった。
高校生の頃、田舎もんはブランドもんを買った買い物袋、ストアバック?っていうの?に運動着とか入れて斜め掛けにするのがステイタスだった。
ブランドもん、っていっても高校生だから当時はヒステリックグラマーとかオリーブ・デ・オリーブとかあとは関西なのでspinsとか、学生にはちょっと高いなくらいの袋が好まれた。
特にオリーブは我々がちょうど大好きで価格もほどほどだけど小遣い程度の高校生には頑張れば手が届く、会いに行けるブランドだった。
めったと買わなかったオリーブだけどたまたま安く売ってたTシャツかなんかを買ったら、その時限定のかわいい袋に入れてもらえた。買ったTシャツより袋がかわいくてやったー明日から学校に持っていこ~!と思ってウキウキ体操着入れて持っていった。
田舎もんのわたし、大慌て。「えっ!!袋ない!!オリーブの袋!!」半泣き。
するとあっ、と後輩が「たぶん、男バレ(男子バレー部)のマネージャーっすよ!さっき見ました!!」と告げ口をくれた。
そしてわたしは「今謝れば許すから、許すうちに謝りに来いって言えや」って真顔で後輩に言った。たかがビニールの袋に。
数時間後、2年生のわたしの教室に男バレのマネージャー二人がきて、泣きながら「ごごごご、ごめんなさぃ、!!ごめんなさぃ、!!」ってビニールのオリーブの袋を持ってきた。
あー、なんてことをしたんだ、と当時その瞬間からくそほど後悔した。すぐ「あっ、いや、いいの!!ごめん!!言い過ぎた!!ごめん!!」って笑って謝った。
ただのビニール袋に対して執着した自分の情けなさ。限定の、とかたかがそんな響きだったのに、しかも執着だけならともかく下らない脅し文句。本人に直接聞いて返してもらえせめて。今でも情けなさナンバーワンエピソードだ。
幸い、男バレのマネージャー二人はとてもいい子だったのでその後もわたしを見ても「こんにちわー!」と挨拶をしてくれて、少し救われた。
故郷には、本当に何もなかった。
遊ぶ場所は友達の家か、外か、イトーヨーカドーか、くらいしか選択肢がなかった。
それは別にいいんだ。自然に囲まれて、それなりに楽しかったから。
しかし、田舎特有の性質なのか、周りにいる子の多くは早熟で、恋愛至上主義だった。
早い子は小学校高学年から、普通の子でも中学生のころには付き合っている人がいるという状態だった。
女子は、ちょっと顔がタイプとか、足が速い等という理由でバンバン告白していた(今でも、あの積極性はすごいと思う)。
部活の帰りに待ち合わせして、男女で手をつないで帰るのがステイタスだったようだ。
友達同士で話す内容は、ほぼ恋愛か、巷で流行っている音楽の話、雑誌に載っているおしゃれの話だった。
私は本が好きだった。星が好きだった。この世界の不思議に興味があった。
でも、そういうことを話すと茶化されてしまったから、ずっと一人で胸の中にしまっておくことにした。
誰かと付き合うこと自体が怖かった。
中学のころは、そのことで散々からかわれた。付き合ったことないって言うとすごく驚かれた。
高校になってちょっと垢抜けたせいか、告白されるようになった。
彼氏がいたことがないのが恥ずかしくて、いい人だなと思った何人かと付き合った。そうして、「過去にいた彼氏の数」を増やしていった。
高校三年生の頃、付き合っているうちに好きになった人にセックスしたいと言われた。
私は拒めなかった。
理由は二つある。
一つは、その人に嫌われたくなかったから。
大学進学のために上京し、東京で暮らすようになってからすごく驚いたのは、
周りにいる人々の多くが、付き合った経験がない、あるいは付き合った経験があってもおそらくセックスはしていないということだ。
そして、中学生の頃に共有したいと強烈に願っていた事柄を話せる人がたくさんいることも、
誰とも付き合わなくても、別に変ではないということも。
見栄のために人と付き合い、処女を捨てたことが今では人生の汚点になっている。
私がこのような恋愛遍歴になってしまったのは、育った環境によるところが大きいだろう。
しかし、もし私がその中でも「人は人、自分は自分だ」と強い意志を持ちつづけることができたなら
後々恥ずかしい思いをすることはなかっただろうとも思う。
ステータスの高いほうが恋愛の手綱を握れて相手をコントロールできる
この場合のステータスというのは一般的な「ステイタス」を指すものではなく
好きになったほうが負けっていう、あの状態のこと。
本当にその通りだなと感じる
私はいつも片想いが多くて、自分に興味のなさそうな相手ばかり好きになってしまう
自分に興味を持って接触してきてくれる人の事はほとんど好きになれない
どうしてなんだろう、これなんとかしないと一生孤独な空回りじゃないか
そんなのは嫌だとおもっていろいろ考えてみたところわかった
私がいつも好きになってふりまわされているのは
自分のことを楽しませてくれる能力が自分よりもはるかに高い相手なのだ
自分はとてもらくちんなのだ、相手はきっと私といてもそんなに楽しくないので
私には興味を持つことはない
でも私は楽しかったので、もっとその楽しい時をくれ、くれ!となる。
一方自分に興味を持ってくる相手はこっちが適当にあしらっていても
そういう人を楽しませるのはカンタンだけど自分はいっこうに楽しくない。
わかったところでどうしようもないけど
相手よりもっと楽しませる事なんてできないし、どうしたらいいのかすらわからない
私が若くて美しい女性なら、ただ横にすわってにこにこしているだけで
じゃあ、ってことで自分の御しやすい同じレベルの相手と付き合って見ても
一部のラディカルフェミニストがピルや緊急避妊薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「生殖の為に、女は有害な行為を受容させられる」「その過程においてコンドーム装着を受け入れさせることは、男への、女による影なる支配力の行使である」という、「男」へのマウント意識があるのではないかと思う。彼らにとって、生殖は選択不可能な苦行であり、反面、男への影響力を駆使するための手段でもある。そこに、産むことも性を謳歌することも万人に与えられた権利である、という意識はない。
一方、リプロダクティブ・ヘルス・ライツの整備に反対する保守層は、女性が人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。しかし、性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊失敗の社会的責任を、男性のみに背負わせる。女を妊娠させたとき、男は責任を取らねばならない。育児・出産によって労働の機会を失う女たちを「養う」ことで、男たちは権力を得る。生殖を巡るパワーゲームを維持するという構図において、彼らの利害は一致する。結果として、リプロダクティブ・ヘルツ・ライツの話題そのものを忌避する社会が完成する。
リプロダクティブ・ヘルツ・ライツを巡る議論においてのみ、本来なら敵同士であるはずの彼らの利害が一致する。この構図は、彼らのプロレスじみた対立が、本質においては「同じ権力構造の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実の証明に他ならない。男性のありとあらゆる性の営みを監視し・支配するラディカル・フェミニズムの主張は、結果として、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。そして、一部のミソジニーをルーツとする保守主義者は、女性の社会進出を嫌う。育児出産が女の手に占有された世界において、女が労働によって金銭的自由を得てしまえば、男たちはパワーゲームに勝てない。男の欲望を受け入れ癒し、子孫を増やし育む機械である女と、女によって欲望を充足され、労働し、財を得て、社会を富ませる機械である男。どちらが権力を握るべきか。彼らの諍いは、どこまで行っても、同じ地点に収束する。
日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、男を肯定し、てのひらで転がし、そして扱き使う「女たち」の、影なる支配によって成り立ってきた。そうして労働力と構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。人は社会に帰属し、「世間」の強制力は空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、どこまで行っても、彼ら自身を苦しめる抑圧から逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチ・フェミニズム」の趨勢は象徴しているように思う。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にするための運動だ。しかし、同時に、男が「自らの意思で」生殖、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくこ権利を得る活動でもある。二者間の合意によってパートナーシップを構築するとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない。そして、純粋な利害関係に基づくパートナーシップが、男性による労働の社会的価値を損なうことはない。出産・育児と労働を天秤に掛けるとき、労働を選択する女性ばかりではないからだ。
一般に、「金のない男」が若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在の日本社会においては、生殖そのもののコストが女性側に一任され、経済的負担は男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。それは合理的帰結に過ぎない。
単独で家族を養うに十分な社会的資本を持たない彼らが、現代社会において異性と関係を結ぶためには、ハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分の社会的な立場を見極める市場観察力、利害の一致する相手を見出し、交渉する主体性と行動力が必要となる。しかし、アンチフェミニズムを標榜する視点において弱者男性の問題が論じられるとき、男女関係における責任問題の現実的側面に目が向けられることはほとんどない。
彼らの世界に、「主体的に選択し、行動し、異性関係を構築する」という選択肢は存在しない。その選択肢を得た個人は、現代社会においてもはや弱者ではないからだ。保守的な男性の世界観においては、「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、世間に従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれる。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代、トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。加えて、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。双方が主体的選択と責任意識を放棄して「規範」によってマウントを取り合う関係性、外的抑圧によって維持された家族関係において、性的抑圧は再生産され続ける。
セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題」であるとき、生殖に関与する両者は、二人の協力者である。
男性側のアクションとしての、コンドームに代表される避妊手段、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用、リスクヘッジとしての緊急避妊薬の存在、性病検査の徹底。生殖に参加する関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、両性にとっての「主体的な生殖の選択」は可能となる。この状況下においては、「全てのセックスはレイプである」という命題は否定される。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。
しかし、この「現実的側面に対して、現実的に議論する」こと、そのものが、世間の一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリーに支配された「女たち」と、家社会、部族社会の論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所と財産と名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避妊薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らはひとの良心や想像力をも支配したがるのと並行して、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごくごく当たり前の幸福を、社会の構成員から取り上げるべきだ、と主張する。生殖の主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶を強制される女性たち"だけではない。男らしさ規範による、自尊心の欠損や経済的な搾取に苦しむ男性もまた救われることになるというのに、である。
リプロダクティブ・ヘルス・ライツを巡る議論は忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニスト」からも「保守主義者」からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズム・リベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである。