はてなキーワード: 「嵐」とは
小笠原諸島が日本に返還された1968年頃から漁師たちの間で普及し始めた。まもなく島内の一般住民も日常的に使用するようになり、「ギョサン」という愛称で呼ばれるようになった。その後、島を訪れる人たちの間でも小笠原名物として知られるようになり、小笠原ギョサンのユニークさに目をつけて紹介したテレビ番組『出没!アド街ック天国』小笠原編(テレビ東京、2000年6月放送)など、マスメディアでも紹介されるようになった。
日本各地で普通に売られていたものの、安さと丈夫さが取り柄の実用性重視だったこの履き物が、お洒落アイテムとして本土に紹介されたのは2002年頃のことである。関西地区のダイバーズショップが本土では最初にギョサンを取り扱った。アイドルグループ「嵐」の大野智がテレビ番組の企画で着用した影響もあったためか、女性客を中心に売れ行きが伸びている[2]。グアムでの販売も試みられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A7%E3%82%B5%E3%83%B3
ギョサンは、安価な一体整形の樹脂製ビーチサンダルに対する小笠原諸島独自の呼称。
名前の由来は「漁業(従事者の履く)サンダル」や「漁協(で売っている)サンダル」の略である。
素材はプラスチックでできている。
鼻緒とソールが一体成型されているため非常に丈夫で、鼻緒が抜けることがないのが特徴である。
水を使う場所での使用を想定して設計されており、タイルなどの上でも滑りにくい。
元々は茶色系しかなかったが、2018年時点ではラメ入りや蓄光素材製を含めて60種類程度に増えている。マリンスポーツ愛好者らにも普及しており、パラオなど海外でも「PEARL GYOSAN」の商品名で売られている[1]。
小笠原諸島が日本に返還された1968年頃から漁師たちの間で普及し始めた。まもなく島内の一般住民も日常的に使用するようになり、「ギョサン」という愛称で呼ばれるようになった。その後、島を訪れる人たちの間でも小笠原名物として知られるようになり、小笠原ギョサンのユニークさに目をつけて紹介したテレビ番組『出没!アド街ック天国』小笠原編(テレビ東京、2000年6月放送)など、マスメディアでも紹介されるようになった。
日本各地で普通に売られていたものの、安さと丈夫さが取り柄の実用性重視だったこの履き物が、お洒落アイテムとして本土に紹介されたのは2002年頃のことである。関西地区のダイバーズショップが本土では最初にギョサンを取り扱った。アイドルグループ「嵐」の大野智がテレビ番組の企画で着用した影響もあったためか、女性客を中心に売れ行きが伸びている[2]。グアムでの販売も試みられている。
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嵐も粗品もかまいたちも詳しくはないが一般程度には知ってるし、どちらかと言えば好きだ。
ここで言いたいのはそういうことじゃない。言葉としての話だ。一般名詞が薄っぺらい固有名詞になるなよ。
嵐と聞いて思い浮かぶのはstormであれよ。「粗品」は景品の安いタオルに巻かれた紙に書いてある奴だろ。もしかして今どきの小中学生は妖怪としてのかまいたちを知らないのか?
一般名詞から一般名詞としての役割を奪うなよ。最近の歌もそう。マリーゴールド、パプリカ、ドライフラワー⋅⋅⋅
ただ自分の中で許せるのもあるんだけど知名度とかデカさで決まってるっぽい。例えば「ゆず」は気に食わないけど「KISS」はOK、みたいな。
アイドルグループ「嵐」が2020年いっぱいで活動を休止する。最後のテレビ歌唱は12月31日の「紅白歌合戦」だろう。
おそらく「紅白」で披露するメドレーにはNHKの「NHK2020ソング」キャンペーンとタイアップしていた「カイト」も含まれるはずだ。
本来ならば7月24日に東京オリンピックが開幕し様々な種目の試合結果に世間が一喜一憂しているはずであった。
嵐が7月29日に発売した「カイト」はオリンピックを初めとするNHKの各所キャンペーンで大々的に使用される意図があったことは明白だ。
また嵐自身の活動休止という事情を踏んで、20年以上に及ぶその活動の総決算、ファンへの忘れ形見として製作陣やリスナーはこの「カイト」を据えてもいた。
そして国家総力を挙げた一大イベントのアンセムと日本のトップアイドルの記念碑を兼ねたこの楽曲をトータルプロデュースし制作したのは、これまた稀代のカリスマとして君臨しているシンガーソングライター米津玄師である。
まあ、ここまでは周知され切った事柄であり別段僕が説明する必要もないのだが、日本という国の2020年という時代を背負うことを予め定められたこの激重プロジェクトに「カイト」はどのように応えようとしたのか僕なりに感想を書き連ねた。
米津は前年にもNHKのタイアップソングとして「パプリカ」の書き下ろしとプロデュースを行っている。
結果として「パプリカ」は2019年を代表するヒットソングとなったが、その一要因として歌唱グループであるFoorinの愛らしさと無邪気なダンスがあげられる。
バズヒットの現代において「パプリカ」も例にもれずそのダンスを真似するムーブメントが起きた。「パプリカ」がEテレで繰り返し流されたことやFoorinメンバーと同年代である小学生が親近感を覚えたことも相まって、運動会の催しとして「パプリカ」のダンスを披露する小学校が続出したことはこのヒットの象徴的出来事であった。
おそらく「カイト」のキャンペーンはこの流れを踏襲していた。「パプリカ」と同じように運動会で使用される想定はもちろんとして、「パプリカ」に親しんだ子どもたちの門出を激励する卒業ソングとしても使われることをNHKサイドは期待していたように見える。
ともすれば「高度な技術を持っていない素人でも合唱や伴奏がそこまで難しくない曲を」という注文が米津側に与えられたはずだ。現に「パプリカ」にせよ「カイト」にせよ歌唱音域は1オクターブ半以内にコンパクトに収まっている。コードもところどころ4和音がでてくるものの実際に演奏すればわかるとおり、転回系を利用すればほとんどコードフォームを変えることない上に指の移動も少なくスムーズな運びとなり難易度の高くない造りになっている。
(そうはいっても「パプリカ」の”晴れた空に種をまこう”のノンダイアトニックコード、「カイト」における”高く飛んでいくカイト”の激しい跳躍やサビでの拍の取り方など、個性的な米津節に我々は始め戸惑うのだが)
また学校教育の場での合唱曲として「カイト」を見たときコーラスワークの絶妙な塩梅は見事。基本ユニゾンだが、要所要所で二宮が3度上、松潤が1オクターブ下を歌っている。嵐はユニゾン主体だが大野がメイン、桜井がラップ、二宮が上ハモ、松潤が下ハモ、相葉がファルセットという役割分担がありアレンジしだいでは主メロとは別フレーズを歌うらしく、このメンバー構成を活かしたようだ。なにより飽きが来ないよう工夫しつつもそれを不特定多数の素人が寄せ集められて歌ったとしても収集がつく程度の複雑さに収めているのがいい。ブルーノマーズプロデュースの「Whenever You Call」ではブルーノ自身も加わりふんだんにコーラスを織り交ぜ比較的高レベルなパフォーマンスを見せていたが、とっつくやすさで比べると格段に「カイト」が勝っていた。
なぜ米津玄師はカイトというモチーフで曲を書いたのか。未来を切り開くポジティブさや成長のイメージとして飛翔体をモチーフに据える曲はあまたとあるがなぜ凧なのか。
同じくNHKのテレビ番組とタイアップしヒットした「地上の星」や「365日の紙飛行機」も飛翔するものから見た世界を歌っている。
これらと「カイト」の大きな違いはカイトは出発地点と着地地点が同一であるということである。
「地上の星」は上空を見渡すことのできる渡り鳥を超人的な視座をもった存在として捉え、それに動乱する世界を切り抜ける道筋を教えてくれと訴える曲である。「365日の紙飛行機」は惰性で飛ぶしかない紙飛行機を世相に揉まれる人の人生に準え愚直に一日一日を丁寧に過ごすことを説いた曲である。どちらも世界は常に変動的なものであり人は同じ環境に居続けられないという前提がありそれを踏まえてリスナーの冒険心を鼓舞する内容なのだ。
対照的に「カイト」におけるカイトは作中では常に同一のものとして描写されているため変化がない。そもそもカイトは糸で繋がれているため自由に飛んでいけない物体である。
さらに面白いのはこのカイトは最初から空に浮かんでいるということだ。”小さな頃に見た”からの冒頭4フレーズは、かつて”憧れた未来”は別世界の一番星の横に鎮座しているようだったとその様をカイトに例えて”ぎゅっと強く握りしめていた糸”というフレーズで夢に邁進していたことを説明している。それが二番に入ると成長した今では”カイト”や”憧れていた未来”は”とても古く小さい姿”で”右ポケット”に忍ばせておく程度のものになってしまったと幻滅に近い感情を吐露する。そして大サビでそれでもこの小さいカイトが嵐のように厳しい世間を生き抜く指標であり心の拠り所であることを告白する。
つまりカイトとは未来に向かって邁進する人間そのものの象徴ではなく彼らの先進の当たる親や先輩といった人々なのである。この曲が巧みなのはカイトを地上から見上げる立場であった主人公もまた今は後進から憧れを背負ったカイトであるという双方向性を示している点だ。
カイトへの郷愁や憧れを語りつつもサビでは”君の夢よ叶えと願う”。大サビに至っては”嵐の中を”からの2フレーズでカイトの先に焦がれた自身の憧れを歌いつつ、続く”悲しみを超えて”からは人々の模範となるカイトの先からの視点に移る。何よりすごいのは憧れを一身に集め自身の悲しみすら超越して前に進んでいけと言った直後に”糸の繋がった先まで”帰ろうと優しく口添えしているところだ。
人は絶えず不安や孤独に苛まれる瀬戸際で生きている。そんなきりきりした思いを汲んで「幼年期に自分を形成した、自分が無邪気でいられた場所や人はカイトの手綱を握る人のように自分の足元にある」「自分がカイトとなってもカイトを揚げる側だった頃の場所はなくならない」と安心感を与える文句を曲のハイライトに持ってくる米津玄師の慈悲深さや度量の広さには舌を巻くし、米津玄師がこの時代に指示される所以を垣間見た気がする。
「パプリカ」と「カイト」には”らるらりら”や”一番星”など共通するワードが散見される。また「パプリカ」出だしのキーはA、「カイト」出だしのキーはEであり下属調の関係となり、DかD#かの違い以外は殆ど同じ調である。サビでは短3度下のメジャーキー、つまり平行調の同主調に移るという同じパターンの転調を両曲とも行っている。
これは「パプリカ」と「カイト」は同じ世界観にあり同じ事象を取り扱っているとみていいのではないだろうか。「パプリカ」も先人から思いを受け取ることや後進に託していくことについて語った曲であり、幼少期のシンボルとしてAやEのキーが設定されそこからの成長として短3度下への転調があると。
そう考えれば「パプリカ」内でミステリアスな”誰か”や”あなた”の存在、また”パプリカ”という言葉の意味も合点がいく。「カイト」の世界に照らし合わせればこの”あなた”は自分たちが進む道を作り上げたこれまでの先人たちや自分たちが歩む先の未来にいる自分自身のことだと見なすことができる。
パプリカとピーマンには明確な違いはない。ただ主観的に派手な色味であることや比較的甘味があること等で区別されている。ピーマンが実像の象徴とすれば、パプリカは子どもが憧れる華やかな夢のようなものなのだ。そしてパプリカの花言葉は「同情」「憐み」「君を忘れない」である。僕の解釈では”パプリカ”もまた子どもや次世代を見守りかつて子どもだった自分に郷愁を寄せる歌である。
よって「パプリカ」はサビにおいて、”花が咲いたら”つまり夢が叶えばその立場で私欲を満たすような「実になる期間」をすっ飛ばして後進育成のために種を蒔くことを誓い、自分の描いた夢が自分が憧れた上の世代に伝わっていてほしいと願っている。
「カイト」が下世代への決意を固める歌であれば「パプリカ」は上世代に向けた誓いを告げている。
「パプリカ」の”会いに行くよ”から始まるCメロは、憧れの先人がいる「カイトの先」の次元まで自分もたどり着いてみせるという宣誓なのだ。そして「パプリカ」の宣誓に対し「カイト」は”君の夢よ叶えと願う”と励ましのアンサーを告げている。
これに加えて5人組の子役集団であるFoorinと、ローティーンから20年以上活動を続ける5人で構成される嵐という、歌い手自身の対比や世代間の違いにも意識して両曲が制作されたとまでいうのははたして考えすぎだろうか。
「カイト」という曲は「パプリカ」の続編であり無邪気に夢を語っていた子どものその後を捉えた曲なのだと思う。荒れ狂う嵐のなかで傷つくことがあっても、かつての空を見上げていた自分のように下から羨望の眼差しを向ける子どものためにメッセージを発信し続ける姿を描写し、「パプリカ」から託された”らるらりら”がしっかり自分たちに届き溢れ出していると返答している。
そしてそんな自分を見守ってくれた親の様な存在や友人や”あなた”が投げかけてくれた思いは不変で誰でもそこに甘えたっていいと働きづめの同世代も励ます。
様々な期待を抱え自分を追い込みながら高みを目指すトップアスリートや人気絶頂のアイドルが抱えるドラマテックな感傷のみならず、信条のもと日々頑張る人々や未来に向かって前進する若者なら誰でも共感できる叙情が「カイト」にはある。
この物語は徳島の実家から独立しニコニコ動画からトップクリエイターへと様々な場面や人々を経ながら飛躍していった米津玄師自身にも当てはまる。
ジャニーズではデビュー以前で持ち歌のないJrメンバーがコンサートやテレビ番組で歌唱する場合披露されるのはもっぱら先輩の曲だ。このレパートリーには今は活動していないグループや退所した者の曲も含まれる。歌い継ぐことをテーマにした「カイト」をジャニーズJrが歌うときそこには確実に嵐のメンバーの幻影が守護霊のように現れる。この先何があろうとジャニーズが存在する限り嵐という存在が薄れていくことはないのだ。
オリンピックというドラマに加えるエッセンスや嵐というアイドルグループのメモリアル的な意味合いをしっかりクリアしながら、普遍的な人間の感情を見事に描写しただけでもとてつもないが、それでもなお米津玄師が作家性は微塵も薄らいでいないことでその才能の大きさを再確認させられた。ただの合唱向けのバラードとして割り切れないエッジがこの曲には確かにあって、そういう細やかなセンスが米津玄師足らしめているのだなと唸ってしまった。そしてそれだけの才能の上に立ちながらこの曲を自分のものにしている嵐のタレント性にも感心してしまった。
2001年の2月、ジャニーズ好きの友人に見せてもらったビデオ(ザ少年倶楽部)で嵐を知ってハマった。
ジャニーズのJの字も知らない、「キンキどっちが好き?」って聞かれて「魚?」って答えるくらい無知だった。
そこから少ない小遣いやり繰りしてCDやアイドル誌買ったり、頑張ってバイトしてファンクラブ入ってライブ行って楽しんでた。
同級生に好きな芸能人を聞かれて「嵐」って答えると大抵「嵐って何?」「あ、なんかジャニーズにそういうグループいた気がする」
アイドル誌持ってって見せると大概センターにいたメンバーを指さして「この人がリーダー?」って言われてた。それは松潤です。
流行りもの好き女子中高生の知名度がクソの頃からの嵐ファン。アリーナの後ろの座席が埋まらない頃から嵐ファン。
真夜中の嵐でファンの自宅に夜中忍び込んでた頃からの嵐ファン(番組に鍵を送るファンもどうかと思うけど、実際行かせる企画作るスタッフもどうなの)
Cの嵐!でリーダーがクレーマーに土下座してた頃からの嵐ファン。Dの嵐!のコーナーAの嵐!(実験コーナー)で生ゴミ揚げて食べてた頃からの嵐ファン。
犬の着ぐるみ来て2時間番組(好評?だったのか単発かと思いきや2回目もあった)(犬の着ぐるみでライブもしてた)
白Tシャツにハサミ入れて両乳首こんにちは。ストッキング被って木彫り呼ばわり。楽屋に合宿みたいに布団引いてイタリアの大砲ってカメラに向けて尻を付き出す。
アングラ寄りの体当たりアイドルグループ嵐。当時、嵐にはいっぱい楽しませていただきました。
通達が来て「今まで使っていた会員番号(6ケタ)の前に、今後は00を付けてください(8ケタ)」の時点で「おや?」となった。
やっと行けたと思ったら会場の規模はドームになっててペラい衣装は派手になっててセットの豪華さがヤバかった。
テレビで目にする機会が増え、いろんなファンが増えたなって体感した。自分の周囲も嵐を認識しだして、何回かライブDVDを貸したこともある。
ネット上で見掛けるファンには今までの熱心な層に加え、ライト層、アンチ層が増えた感じ。アンチは人気の証拠みたいなもんだから構わなかった。
でも、熱心を超えた盲目的なファンは正直、気持ち悪かった。あと、タレントや芸人に無闇に持ち上げられすぎているのが気持ち悪い。
どんな言動しても奇声を上げるように褒め称えるのみ。彼らは可愛い赤ちゃんや幼児じゃないんだよ。
そういう立ち位置になったんだな、というのは理解しているけど、多分自分の中でアングラ寄りだった頃の感覚が抜けていないせいか、違和感が物凄い。
完全に自分の問題だと思うけど、気持ち悪い。嵐を見ると漏れなくそれらが付いてくるから、いつからか距離を取るようになっていた。
嵐メンバーのみで見ると、交わしてる会話とかコメントとかでアングラ寄り時代の残り香を感じるし、かといって昔のまま変わらずいて欲しいとかもなく、
SNS解禁とか新しい事に取り組んでるのも頑張ってほしいって思うから、嫌いになったわけじゃ無いとは思う。
ただ積極的に見に行くことは減った。見に行くと、漏れなく気持ち悪いが付いてくるから。
今の自分はたぶん嵐ファンなんだけど。ちょっと自信なくなってきたな。
コロナで色々制限掛かってしまったけれど嵐にはグループ休止までやりたいことやって駆け抜けてほしいし、個々での活動になっても応援したい。
元増田の言わんとしているところは解るが
「商業映画への出演」と、「BL作家として作品を発表する」では枠の数が段違いなので同列に語るのはちょっと無理があるのではないか
もう10年以上前になるが、TV番組でジャニーズアイドル(確か「嵐」だったと思う)数名と、当時の人気女性声優数名(確か白石涼子さんがいたと思う)が語り合うというコーナーを見た事がある
声優側が「専業声優でない顔出し芸能人がアニメのメイン級の役を演じるのはぶっちゃけ私達の仕事が減って困る」と主張すると、
ジャニーズアイドル側は「でも専業歌手でない声優さんがCD出しまくってるじゃない」と反論し、そこで痛み分けのような形で議論は終わっていた
それを視聴していた私は「いや枠の数が違うだろ」と思ったのを、今思い出した
昨日の音楽の日、とにかく最高だった。
と言うのもここ最近、テレビやネット配信でそこそこ長い尺のメドレーをやってくれることは確かに増えたんだが、基本Love so sweetやhappinessと言った認知度の高い曲。
つまりは万人受け狙いの定番曲を含んだメドレーが多く、別に嫌いなわけじゃないんだけど、ファンとしてはなんだかなぁと言う気持ちが否めないまま12/31へ向かっていた。
そんな中、昨日大トリで出てきた嵐。
どうせ定番曲とReborn、そしてカイトだろうなぁ…と勝手に予測を立ててたんだが、それが良い意味で裏切られた。
「ハダシの未来」「PIKA★★NCHI DOUBLE」「カイト」
思わず声が出た。
え、PIKA★★NCHI DOUBLEやってくれるんですか?マジですか?え?
こんなとこに常駐してる人間だから涙腺なんてものは枯れ果て、年中水不足のような状態なんだけど、女がむやみやたらに発狂したりする感情がこの時初めて理解出来た。
PIKA★★NCHI DOUBLEはファン人気が非常に高いシングル曲。
しかし同時に嵐の中で一番″売れなかった″暗黒時代の象徴でもある曲(それでも14万枚売れてるんだけど)
勿論ファン人気が高いだけあってライブでもそこそこやってくれた曲ではあるんだけど、外周回ってお手振りやファンサ用の曲にほぼなっていて、まともなパフォーマンスを見れる機会は少なくなっていた。
そんな″名曲″をまさかこの2020年にテレビで、しかもダンスパフォ付きでやってくれるとは…
ファン向けの曲であればYouTubeとかのネットでやるのが主流なんだろうけど、ここに来てテレビで、しかも一音楽番組の大トリでやってくれることに本当に感動した。
なんかもうそれだけで最近あった嫌なこととか全部吹っ飛んだし、一曲が齎すパワーってすげぇんだなぁと。
「限られた愛と時間を両手に抱きしめる」
「せめて今日だけは消えないで」
こんなの今歌われたらグッと来ちゃうよね。
淡く儚い青春を歌った曲が、今はこうして活動休止へのカウントダウンとリンクする。
なんて良い曲なんだろうと再認識出来たと共に、コロナ禍だろうと最後までグループとしての「嵐」を応援しようと心に決めた。
たとえ今だけと分かっていてもね。
逆風に揉まれた岡村隆史に“救いの神”!?「紅白の総合司会に内定」証言を入手(2018年11月9日 15:40)
https://www.asagei.com/excerpt/115694
「『紅白』といえば、2013年に放送された朝ドラの『あまちゃん』など自局のヒット番組とのコラボ企画はお手のもの。昨年の内村の総合司会起用も、同局のコント番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』での実績を買われた格好です。そして、今年は人気番組の『チコちゃんに叱られる!』にレギュラー出演しているナイナイの岡村隆史がすでに内定していますよ」(スポーツ紙芸能デスク)
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紅白総合司会に2年連続で内村光良さん(2018.11.9 15:41)
https://www.sankei.com/entertainments/news/181109/ent1811090011-n1.html
NHKは9日、大みそかに放送される「第69回紅白歌合戦」の司会者を発表した。総合司会は2年連続でお笑いコンビ、ウッチャンナンチャンの内村光良さん(54)と、桑子真帆アナウンサー(31)に決定。紅組司会は女優の広瀬すずさん(20)、白組司会は人気グループ「嵐」の櫻井翔さん(36)が務める。
キャッシュが残ってる> http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:blIvDuDYfZoJ:chaiy.hatenablog.com/entry/2016/12/27/221556+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
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正直、迷った。この記事を公開するべきか、しないべきか。決して読んでいて気持ちのいいものではないし、ただの一個人の勝手な意見だから。でも、心にしまっておくのも限度がある。私の周りでも似たような意見を持つ人が多く見られた。どうせなら言いたいことは全てはき出してから新年を迎えたい。
この記事は「今の嵐は嫌い、昔の嵐は好き」というほぼアンチ化しているファン卒業間近の私が今の嵐について書いたものである。嵐大好き!という方は気分を害される可能性がありますのでご注意下さい。
私はグループ内での信頼や絆、目標、価値観、考え、そして思いを知るのがとにかく好きだ。その為、よくテキスト重視で雑誌を買ったりする。
どんなに大きな壁が待ち受けていようとも決して諦めず傷だらけになりながらも頂点を目指す、そんな人間味のあるグループに惹かれる。
また、ライブの演出や構成が好きな分拘りも強いし、ここはもっとこうした方がいいんじゃないかと気になる事があればすぐさま友人と語り合うほどだ。メンバーの発した言葉や行動に不快を覚えれば叩く事だってある。それほど性格も口も悪い。
これから綴る文章はそんな私の個人的な意見にすぎない。共感を求める訳でもなく、喧嘩を売るつもりもない。どう思うかは自由だ。ただ、近年思っていることをこの場に書き留めておきたい。
私は昔の嵐が好きだ。詳しく言えば10周年前後の2007~2012年。この頃が好きなファンも多いだろう。
1999年にデビューした嵐。当時5人中3人が辞めたかったと話している。チケットが売れずに悩んだり、自分がどこに向かっているのか分からなくなったり。これからの嵐について深夜遅くまで語り明かした日もある。嵐という立場の自分に大きな葛藤を抱き、悩み、苦しみ、藻掻き続けた5人は「トップになる」というひとつの夢を掲げ這い上がってきた。その小さな努力の積み重ねが形となり、2008年頃、抜群の歌唱力とトーク力を兼ね備えた親しみやすいグループとして世の中に浸透していった。
そんな嵐のことをメディアは「仲がいい」と表現した。確かに5人の仲の良さは大変微笑ましいもので、歌っている時に目を合わせて笑ったり、ふざけ合ったり悪戯をして楽しんだり。その反面やる時はやる。ファンの為に真剣に仕事に取り組むその姿はかっこいいとしかいえなかった。
嵐はアットホームな関係性で見ていて和やかな、穏やかな気持ちになるグループだ。さりげない気遣いや思いやりを持ち、5人でいることへの感謝の気持ちを忘れずに仕事をしている。お互いがお互いを必要として「嵐」であることを誇りに思っているのだ。
その純粋な思いは5人のイメージや才能を圧倒的に開花させ、国民的アイドルとまで上り詰めた。
ライブが出来る喜びや有り難さを実感しながら作り上げる嵐のコンサートは誰が見ても幸せな空間といえるものだった。一緒に楽しんで一緒に笑顔になる。きめるところはきめ、魅せるところは魅せる。何しろ飽きさせない、つまらないと思わせない。グループとしてうまくバランスがとれていたせいもあり心の底から楽しいと思えたライブができあがっていたのだろう。
しかし、近年の嵐はどうも違う。こればっかりはどうしても挑発的な言い方になってしまうがいくつか例をあげて話したい。
まず一つとして仕事に対してのやる気のなさが取り上げられる。これは特に最近になって目立つようになってきた。リハが始まる直前まであぐらをかき、スタッフに「次○○(曲名)やる?」と聞かれても「やらない」と即答。これは本人達の気分もあるだろうから仕方が無いのかもしれない。
また、一部のメンバーに限るが、収録中にも関わらず寝ていたり、頬杖をついて人の話を聞いていたり。それを他のタレントに注意され頬杖はやめても指をトントンすることから苛立っている様子が伝わった。
二つ目は態度。クランクアップした役者さんに向けて花束を投げて渡したり、ゲストの前でもだらっとした格好で座っている姿が映っている。そんな行動を一部のファンは可愛いといっているが私はそうは思わない。少なくとも花束を投げて渡すというのは非常識にも程があると思う。それでも可愛いという人は自分がその渡された役者の立場になってみて考えてほしい。
三つ目は失言。「金いらない」「いつになったら飽きるの?」「チケット争奪戦が楽しみ」分かっている。バラエティだからふざけて言ってるだろう事も、ウケを狙って言ってるであろう事も。そんなこと分かっている。けど金いらない発言は流石にいらっときた。ファンは夢を買っているのだ。歌って踊って夢を見させてくれるアイドルが好きで、応援したくてお金を払っているというのに。そんなこと言うんだったら仕事なんてしなきゃいい。申し訳ないがそう思った。
また、去年に続き今年もコンサートという場でファンにガチ切れ。そんなに言いたいことがあるんだったらいっそのことはっきり言ってほしいものだ。今の嵐はいちいち文句をつけなきゃやってられないのか。
挙げ句の果てには散々今までファンと呼んでいたのをついには客扱いされるようになってしまった。これは四つ目の点として「近年のコンサート」の話にもなるのだが、私たちファンは彼らを明るく照らし、演出の一部になり、一緒にステージを作り上げる。確かにそうだ。だが、私としては一緒に楽しみたい。例として言えば2010年、11年の「Scene~君と僕の見ている風景」や「BeautifulWould」があげられるだろう。会場が国立というせいもあるかもしれないが同じ歩幅で、同じ距離感で、同じ方向を向いていたあの頃は本当に良かった。誰が見ても楽しいと思えるコンサートになっていて彼らと気持ちを共有して見ている景色が同じだった。それが私は嬉しかった。
けれど今、私はあの頃のようには思えない。ペンライトの演出が年々パワーアップしていってるのはいいが少々拘りすぎではないか?演出に頼りすぎていないか?制御ライトの制御を強制されてる気がしてあまり好ましくない。2014年のデジタリアンで使用されたファンライトに到ってはただ演出の為だけに作られたようなものだ。だってあれ、光が嵐に向けられてるんだもの。ステージにいる者だけが見れる、つまり映像映えするように、ということなんだろう。だからファンライト(ファン=ライト)なのかもしれない。
このようなことから、私は嵐がどこを目指しているのか段々分からなくなってきていた。以前よりファンを大切にしていないと感じる人も中にはいるのではないだろうか。
更に近年の嵐について調べあげ、具体例をあげたいと思う。
・どんだけ売り上げ伸ばしたいねん
今回のアルバム発売後、事務所から通常版購入特典として「嵐から皆様へ感謝の気持ちをご用意させていただきました」というアナウンスがあった。なぜ初回を購入した人には送られず通常なのか。それは売り上げ向上の為なのだ。
実を言うと最新のアルバム、シングル共に売り上げが落ちている現状である。
◆嵐1stアルバム~現在「Are You Happy?」までの売上数
◆嵐シングル 2015年「Sakura」~現在「Power of the Paradise」までの売上数
原因としては昨年と今期のメンバーによる熱愛報道、ライブの内容、CD・DVDを買う需要制、また年齢が年齢の為、若手グループに担降りしているのが主な理由だと考えられる。先ほど書いた通り、失言の多さややる気の無さが気になって離れた人もいるだろう。
そんなこんなで今事務所は売り上げを伸ばす為に必死になっているのだ。何としてでも今までの売り上げ数に並んでおきたい、そんな概念があるように見える。だから発売から一ヶ月以上たっていても新たな「嵐クローバー」というキャラクター&CMを作り宣伝し続けていたようだ。
更には現在行っているライブのMCにてほぼ全公演でアルバムを買ったか買ってないか、買ってないなら是非お買い求め下さいと、まるでセリフのように呼びかけている。上からの指示で言っているのか本人がただネタとして言っているのか分からないが、何としてでも売りたい、そういう風に捉えられる。
11月のVS嵐にて「もう一度見たい名場面集」という企画があった。そこに第二位としてハワイで5人だけで語り合った回がランクインした。確かに素晴らしい回だった。15周年を迎えた今の彼らが本音で話し合う、それは私にとっても凄く好きな内容で、当時思っていたことや、もし嵐になっていなかったらなど5人の気持ちを知れて嬉しかった。
だがしかし、もうハワイネタはいいんじゃないだろうか。「辞めたかった」そう打ち明けられた時の2人の顔。気付いていただろうか。とても哀しい目をしていた。あんな顔、もう二度と見たくない。嵐で頑張っていこうと決意した2人にとっては、突然突きつけられた衝撃の言葉に動揺を隠せなかったのであろう。
そして、名場面集第一位はメンバー同士のキスシーンだった。何故これが一位なのか投票した人に伺いたい。赤さんが「俺らのファンきも(笑)」と思っていてもおかしくない。いや、思っただろうな、きっと。
去年のドーム公演にてある女性アイドルグループを招待し、その子達に向かってファンサービスをしていたという目撃情報がファンの間で話題になった。その公演はDVD化され、ファンサービスをする様子も映り込んでいる。これに対してファンは双方に激怒したのであった。
そして先週のドーム公演にはあるメンバーと共演した女優さんが来ていた。勿論そちらも満点のファンサービスを振る舞っていた。
毎回嵐のコンサートは招待客が多いので有名だ。共演者、関係者、更にはメンバーが連れてきている人も入っている。招待客にはファンサービスするくせに肝心のファンにはスルー。一部ではビジネスコンサートなんて言われている。共演者を見るよりも、何倍もの倍率の中やっとの思いで当選して、年に一度会えるか会えないかのプラチナチケットを手に入れてここまで会いに来たファンを見るべきではないのか。ファンサービスするべきではないのか。誰の為に行っているコンサートなんだろう。
・今更銀テの話
アリーナツアーでも話に上がったそうだが、先日のコンサートにてファンが銀テ取りに夢中になっていると「銀テじゃなくて俺ら見てよ」「取りすぎ」「1個でいいだろ」という発言があった。今更何を言ってるんだ。いちいちつっこむ私も私だが銀テ取るのも取らないのも客の勝手だろう。以前「銀テにロゴ入れ始めたのは全部客に取らせて掃除を短縮している」というのを聞いたことがある。それを取るなと?逆に銀テ発射されても誰一人取らずに嵐を見てたら。想像するとあまりにもシュールすぎる。ファンを見ないくせに俺らを見ろと。もう少しファンとちゃんと向き合って欲しい。
・回りくどいぜ兄さん
何でもかんでも遠回しに説教してくる。
例えば。「どうせネットでばらされるなら先にセットリスト公表しちゃおうか」つまり、ネタバレすんなよ、と言いたいんだろう。ならそう言ってくれればいい。某グループはファンに「楽しみが無くなるのは嫌だからツアーのネタバレは禁止」とちゃんと呼びかけている。だからファンは守ってる。何故嫌みっぽく煽ってくる。はっきり言えばいいのでは。
・調子乗りすぎ、自慢しすぎ
メンバーが特定されてしまうが、やたらと「第39回」と推してくる。正直言ってしつこい。受賞したからっていい気になりすぎじゃないか?前回の受賞者は自慢もせず何度もその話をあげることは無かったのに。
嵐のコンサートに行ったというと誰もが凄いね!という返事が返ってくる。私の職場では「宝くじ当てるのと同じくらいだよね?!」なんて言ってくる。確かに嵐のコンサートは入手困難な超プラチナチケットといわれる程大人気だ。現在の嵐ファンクラブ人数は200万超え。数字だけ見ると爆発的な人気を誇っているように見えるがこの中には退会した人も含まれている為、実際はどのくらいの人数がいるのか気になる。
肝心のコンサート内容は簡単に言えば「アルバム曲+定番曲(感謝カンゲキ、Love so sweet、Oh yeah辺り)+制御ペンライト=嵐のコンサート」となっている。ただ演出が凄い、それだけ。以前の楽しさはどこに消えたんだろう。いつもと同じ曲、同じ順番、更に説教付き。演出に頼らず、一度素で勝負したらどうだろうか。
・本当に仲が良いのか
例えば2010年「君と僕の見ている風景」特典映像の強化合宿。私はこの映像が大好きだ。ロケバスで自由に話す5人。寝るところをじゃんけんして決める5人。赤さん一人だけ皆と並んでないのが寂しくて結局一緒に並んで寝ちゃう5人。着地するときに支え合う5人。くだらないことで笑い合う5人。楽しそうにレコーディングする5人。私にとって手放せない大切な1枚だ。
その頃と比べると今は本当に仲が良いのか疑ってしまう。カットという言葉がかかれば真顔、無言。前はこんなんじゃなかった。勿論大人になったせいもあると思うが5人集まることが「仕事化」している気がして。いや、仕事ではあるんだけど。それぞれに壁が出来ている気がする。嵐はお互いに気を使っている、だから揉め事が生まれないなんて言ってたけど果たしてそれでいいのだろうか?気を遣ってると自分の気持ち、意見が押しつぶされるのでは。本当に思ってること、言いたいことが言えないのでは。こればっかりは私は一般人だし嵐でないのでわからないが。何にせよ、今の嵐でちゃんと話し合った方が良いと思う。このままじゃバラバラになっていく。
去年のツアーにて「なんだよ、原点回帰しただろ」「原点回帰の意味知ってるか?」等。そして今年はアンコールの声が小さいと怒られ「いつも出てくると思われても」なんて言われ、面白かったから笑ったのに「は?」とキレられる。
今の彼らはアンコールで出てきて当たり前、という風に思っているところがある。それに、しようがしないが、これも客の勝手だろう。アンコールするほどの価値がないと思ったらしない。この間の公演でもWアンコールを用意してたにも関わらずアンコールの声が無かった為、それにて終了となった。どうせ客としか扱ってないのなら、アンコールがどうとか、声が小さいとか、セトリがどうとか文句言わないでほしい。
他にも書きたいことは山ほどある。これでもかというくらい、次から次へと言いたいことが出てくる。
アイドルは人気になればなるほど、提供してくれるものと、こちらが求めているものに誤差が生じてくる。求められている事全部に耳を傾けるのはとても難しい事だ。
それに、嵐は世間に美化されすぎた。「嵐」の○○が好きで、「嵐」の○○だから使われて。正直、名前の頭に「嵐」をつけなきゃ誰なのか分からない。誰もが皆コンサートに行きたがるけど、結局は「嵐のコンサートに行った」「嵐に会った」そういう肩書きが欲しいだけなのでは。
もう疲れた。
どうして説教されなきゃいけないんだろう。どうして楽しいはずのコンサートで涙が出るんだろう。哀しくなるんだろう。
どうしてもやもやしたまま帰らなきゃいけないんだろう。
こんな思いをする為にファンになったんじゃない。ただ、あの頃のまま一緒に歩いていきたかったのに。ペンの指す方向に、先陣切って歩いて行くあなたたちについていこうと思えたからついてきたのに。あなたたちが見せてくれる夢を見たくて買ったのに。
どうして。どうしてこんなにつらいんだろう。
苦しい。
変わってほしくなかった。
変わらずにいてほしかった。
ちゃんと愛してほしかった。
でも。もう既に心は決まっている。
さよならまであと少し。
どっちも「嵐」として、人々は荒天対策した。
「風速17.2m以上の熱帯低気圧」
また風速上は該当しても、温帯低気圧は「単なる低気圧」とされた。
人々の意識の中でも、各種の制度上も、「台風対策」が組み込まれた。
その実力(?)に拘らず、「雑魚のような弱小温帯低気圧と同じジャンルにカテゴライズ」されてしまった。
なので、人々も、温帯低気圧起因の「嵐」に対して「警戒する行動習慣」が根付いていないし、
また行政や企業も、そのような場合の行動マニュアルをあまり持ち合わせていない。
台風が接近する場合は、いろいろ報道されるので、人々は警戒するが、
温帯低気圧の場合、いくら「爆弾低気圧」と俗称しても、朝のニュースがトップ扱いにしても、
人々はピンと来ない。
今朝、会社の女性に対して「爆弾低気圧の話題」を振ったところ、
3割程度の女性は「知らない」と回答した。
低気圧情報、と聞いても「ピンと来なかった」のであろう。
つまり、嵐をもたらす強力低気圧のうち、熱帯低気圧だけ「台風」と別名称で
カテゴライズして、一方の温帯低気圧をカテゴライズせずに「雑魚低気圧と同じ扱いにした」、
その弊害が出ている。
「爆弾低気圧には、別途呼称を用意しておくべきだ」と主張しているが、
政治家やマスコミなどの社会的強者が利用しているだけってのが実態なのに、最近、女子供の文化やイケメンが流行ってきたから、自分らが社会の支配権を握ったんだとか勘違いしている一部の若者がうざいったりゃありゃしない。しかも言ってもたいてい理解しないからどうしようもない。大体、日本の政治風土で、女子供やイケメンが実権握るとか、天地がひっくり返ってもありえないのにね。いい加減、アニヲタや女やイケメンは体よく利用されているっていう現実に気づけよ。例えば「嵐」だってどうみてもイケメンじゃない奴をイケメンということにして、やんわりとイケメン崇拝者を馬鹿にしているだろ。
http://anond.hatelabo.jp/20100803003221
"イラスト、もしくはそのキャラに関係ない単語がタグに使われている"ことが問題なのだ。
元増田が例に出した「雨」「嵐」は、原作で使われている用語がイラストの分類のためにタグに使われているだけだから問題ない。
(検索の邪魔に思う人もいるかもしれないが、ならば絞り込み検索をすればいいだけの話)
ヘタリアジャンルでは言葉遊びのつもりなのか、キャラには直接関係ない単語を使い、やたら二人組やグループのためのタグを作りたがる人がいるようだ。
例)お花夫婦(しかもこれが指すのは男キャラ二人組)、鯨組、ひよこナイフ、など
口では「国名タグを使うのは不謹慎だからor検索の邪魔になるからダメ」と言っておきながら、検索の邪魔になるような一般名詞タグを付けているのはおかしいのではないか、と思った人が今回あの提言イラストを上げたのではないかと思う。
また、そういった内輪にしかわからないルールを作り上げてしまうと、ライト層が参加しにくくなってしまい(そういう狙いもあるのかもしれないが)、余計に内輪だけで盛り上がるようになってしまう。
このジャンルに限った話ではないが、腐女子の多いジャンルはローカルルールが往々にして錦の御旗のごとく掲げられている。
時にはpixivやウェブなどのルール・規約よりも権威が高い。
そしてそのルールに反すれば、タグなどで"注意"され、無視し続けていれば八分にされたり、最悪の場合ヲチスレに晒される。
彼女たちの目的は"自分たちだけが楽しむ場を作る"ことであって"隠れる"ことではない。頭隠して尻隠さずというか、「隠れてこっそりやってるのよ」というポーズが取れればそれでいいのだ。
その結果が複雑怪奇なタグたち、サムネ対策のための無駄に容量を食う巨大爪楊枝画像・2Pしかない漫画などなどのローカルルールなのである。
http://anond.hatelabo.jp/20100715094622
以前書いたものが2週間ほどしていきなり謎の注目を(ごく一部に)浴びていた。何がおきたし。
ちょっと面白かったので眺めていたら、もっと面白いものを見つけた。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=12260621
まさに「ありもしない魔法のシステム」を信じている人間の言葉である。それを悪いとは言わないが、明らかにすむ世界が違う人間の言うことだなあ、と感じる。
とりあえず「嵐」「雨」といった単語を使ってはいけないのであれば、多分某有名少年漫画雑誌に連載中のマフィアを題材にした某漫画の二次創作は検索結果に表示されてしまうので不可能になる。というどうでもいいことを言ってみる。(漫画やゲームでありがちな「属性」に天候の名称が使われているため。嵐と雨はまさに該当の属性に当てはまる)
……ひょっとしたら、某ジャンルの絵を探していた人間が「変なもの」が見つかって腹いせに書いた記事ではないか、と一瞬ゲスパーをしてしまったりもしたのだが、いい加減自分の気に食わないものを見つけると騒ぎ立てるおかしな人達に毒されすぎている。
(さらにどうでもいいが、天候としての「嵐」以外にグループとしての「嵐」もあるが、ピクペディア?には「嵐(グループ)」というタグではなく「嵐」でアイドルグループ「のみ」登録されているあたり、本来の単語の意味が説明されている悪天候よりよほど「その天候に関する絵を捜している人」に不快で失礼であるはずだが、そんな話は聞いた事がない。
アイドルグループが良くてヘタリアが駄目なのは、差別ではないのだろうか。国の擬人化なら当然、なのだろうか。不快に思う人数の問題で差別するのは失礼な気がするのだが。)
ネットの世界では、元々は不快なものから身を守るためには自身で対策をするのが基本だったように思っている。
それが私の狭いコミュニティの中限定ではないかと言われるとその可能性は否定できないのだが、ネットが元は技術者の住まう場所だったことを考えたらそう遠くもないと考えているのだが、どうなんだろうか。
実際のところはともかくとしても、今現在の現実としては、人に頼るよりも自分で対策をした方がよっぽど楽であり、健康的でもある。
他人の行動はコントロールできずとも、自分の行動はある程度コントロールできるからだ。手綱をとりやすいものを操作したほうが早い。単純なことだ。
マイナス検索をしろ、というのは驕りでもなんでもない。寧ろ自分が何かを調べるためにその程度の手間すら裂けないような人間は「物を調べる」という行動の意味を分かっていない。ネットを使うとストレスが溜まるだけなのでやめた方がいい。心の平穏の為に。
本来、何かを調べることはもっとずっと手間のかかることなのだ。むしろ今の検索システムの便利さこそ異常である。あれだけ便利なものが使えるのに、多少別の物が出てきたくらいで大騒ぎする奴は一度近所の図書館で司書の手助け無しに目的の本を探しに行けばいい。まあそれでもよっぽど簡単な部類だが。
マイナス検索をすることが相手にそこまで負担であるというなら、タグをいちいち直したり、新たなタグを普及させるのにかかる手間はどれほどかかると思っているのか。
たった数文字検索欄に入力する手間を惜しんで、相手には一月かかっても対処しきれないような手間を押し付けているそちらの方がよほど高慢だろう。
この絵なのか記事なのか分からないものを投稿した人物が探していた「雨」や「嵐」は、いったいどのようなイラストを探してのことだったのか。
もしゲスパー通りの絵を探していたなら、そうでなくとも求めたものが例えばゲームや漫画に関わるものであったなら、一般名詞を使うなという話になりそうで嫌なドキドキ感がある。
ヘタリア以外で、自分が探していないイラストだって検索に少なからず出たはずだ。なぜヘタリアだけなのか。
そもそも、ヘタリアタグを付けることですら本来は自由であるはずである。必ず特定のタグをつけないといけない理由は無い。
ただ、その方がラベリングとして相手にも自分にも有用に働く場合が多いから、個人的にはジャンルタグをつけることは推奨する。お互いを尊重するとは、そういうことだ。
ヘタリアタグだけだとAPHのタグがついているものが出る?ならばとっととAPHも一緒によければいいだけである。まあでもヘタリアジャンルは妙なタグがついて検索の邪魔をしている場合があることは否定しない。
相手が「ヘタリア」だという理由で、過剰な反応をしてはいないだろうか。相手が「厨が多い」と言われるジャンルであれば何をしてもいいわけではない。
マナー違反である絵がごろごろしていたなら別だが、これを書いた人間が言っているのはただ「求めていたものと違う絵が出てきた」だけで、「公共のマナーに反する絵が出てきた」ではない。
公共のマナーに反する絵が出てきたなら思う存分自重を主張すればいい。ただの個人の好みの問題であるなら、それこそそこまで求める必要はないだろう。だが、仮に公共ryであるのなら、そもそも主張するべき内容が間違っている。
「単語を一つ放り込んだだけで都合のいい結果だけが出てくるような魔法のシステムはない」。
何度でも言ってやる。そんなものはない。この先よっぽど文明が進化したらどうにかなるかもしれない。でも、少なくとも今の子の世界には無い。ましてやPIXIVの貧弱な検索機能では不可能だ。
ネットの世界でいきなり不快な物に遭遇することなど当たり前なのだ。サムネがNGと言うならもうそれはPIXIVを使わないほうがいい。
「危険なもの」がごろごろしている世界に自ら飛び込んだのはあなたなのだ。
文句があるなら、もう運営に検索機能の高性能化を働きかけたほうがいいと思う。
ぐだぐだと俺ルールを広めようとするよりよっぽど前向きだし、検索機能が改善されれば自分以外の多くの人間にメリットがある。
ジャンル外の人間だが、別に関係ないイラストが山ほどでようと不快にはならない。ただ、自分のジャンルよりも盛り上がっている別ジャンルを見ると羨ましくはなる。
だが、このような謎マナーを見るといらいらする。仮に「あなたのそれは私を不快にするので検索避けしてください」などと言ったらどのような反応をされるのだろう。
まあ、私にはそんな我侭なことを言う資格はないのでそんなことは言わない。私が勝手に見に行っていらいらしているだけである。
(まとまっていなかった部分を一部手直し。ただし直したあともまとまってはいない。所詮便所のラクガキである。)