はてなキーワード: 資質とは
歌:ふつう
顔:まぁまぁ
人気:一部の作品内でだけ
みたいな声優がソロデビューしていくのは語るまでもなく愚である
その点沼倉愛美は人気こそ限定的な気はするものの全てにおいて合格点
という気はするのだがまだ成功するソロデビューなのかいまいちまだ分からない
インタビュー記事を読んだが本人がこれからどんなソロ活動にしたいかというコンセプト、欲が伝わってこないものだった
昨今のソロデビューで本人の色が出ていて上手くいっている、と感じるのはや花澤さん、すみぺ、スフィアの4人、ギリギリのラインでまれいたそやみもりんといった所ではやみんはシロクロまだつかない段階だろうか
本人の器を見極める周囲の大人の眼がしっかりしているから上手くいった、という好例が花澤さんあたりだろう
すみぺは本人のキャラクターと周りが合致している最高な例だ、あんなのチーとである
つい先日移籍する前のキタエリについては本人がやりたいことをやれていたのかアルバムもすばらしい出来だった
そういう意味で沼倉愛美は能力は優秀だが本人のアーティスト資質、適正があまりないからソロデビューはないんだろうな、と諦めていた
ステージ上では非常に優等生なのだけど本人の内にある表現欲とでも言うのか、蓄積してきたものが薄いような気がしてならない
みかこしなんかもこれに近いので周囲の大人がしっかりしていないとダメになるタイプだろう
歌が上手くてダンスもできる、という素材を平凡な王道アニソンで食いつぶすのはもったいない気はするが本人にやりたいことがなければ仕方ないんだろうな、とファンの一人としてなんだかモヤモヤとする
随分昔に書いた気がする。
まぁ前に書きこんだ時は、10年以上付き合ってた彼氏がいたんだけど、別れた。
なんだかんだで連絡取らなかったら自然消滅。でもあんまり落ち込んだりしなかった。喧嘩のひとつもすれば良かったかもしれない。
親の紹介で正社員になったけど、今年いっぱいで辞めると思う。5年半は長かった。すこし休みたい。
幸い貯金はすこしはあるので、2、3カ月ぼんやり過ごしてもいいな。
43で無職で彼氏なしになるわけだけど、それはそれで、いいかもしれない。ご飯一緒に食べてくれる人もいない訳じゃないし。
身の振り方考えないといけないが、海外旅行に行った後は、派遣に戻ってのんびりやろうかと…。甘いかもしれないが、メンタルの病気持ちなんで、人と比べて遅れを取ってるし、人並みの人生歩めないのは仕方ないのかな…。でも社員の資質がないのに会社にしがみつくのは、お互いに不幸だと思う。正直耐えられないから。
妹の嫁ぎ先に引きこもりがいる
結婚して2年、当初こそは改善するのに協力しよう、という気持ちもあったのだが
変わらない現状に半ば諦めも感じている
妹はまだがんばっているので、水を差すようなことは言えないが
怠けているとかじゃないんだよな、きっと
努力で変えられるものならもっと早くに変えてたんだ、誰だって普通から外れたくはない
やりたくてもできなかったんだよな
そういう自分だって、リーダーシップが足りない・後輩に気軽に話しかけろと何度言われてもできない
きっとそれと似たようなもんなんだと思う
そりゃ変われたらいいけどさ
なんかわかんないけど難しいんだよ
広い括りでは障碍と言ってもいいんだと思う
それでもがんばってみるけどさ
例の前田敦子からメールが~という記事だが、その社内では何種類かのアイドルを騙るメールを送りまくっていて、一番規模が大きかったのはジャニーズタレントを装う部隊だった。
「事務所には内緒でメールしてます松潤です」といって、オバサマを転がしまくる。
タレント本人、二人の交際を正式に認めるために業界を奔走するマネージャ-、お前に松潤と付き合う資質が本当にあるのかと問い詰める事務所の上層部、という具合に、ポイントを消費させるために何役も架空の人物から連絡をしまくっていた。
資金が減ることでポイントを買い控えるようになり、松潤とのゴールインを諦めそうになったところに、追い打ちをかける「ウン億もらってください富豪」からのメール。これでとどめ。(「ウン億"円"」のように、単位をハッキリ記すことはするなと指示されたなそういえば。5000万あげますとか、1億受け取ってくださいとか)
愛する松潤と結ばれるためと正気を失っているところに、ウン億円もらえるならという甘い誘いにのせられ、旦那の金をどんどんつぎ込んでいく。
騙されていた人は、既婚者で、子持ちが多かったように思う。子供は可愛くて仕方がないのだけど夫のことが死ぬほど憎くて、はやく離婚して潤くんと結ばれたいょって。
自撮りの写メとか送ってくるオバサマの熱心さ(画像添付は多くポイント消費する)が、こわかった。
前田敦子とか女性タレントを装うやり方ではぜんっぜん(全体の5%もいないと思う)引っかからなかったんだけど、見出しがああなっているのは、ジャニーズ配慮かなにかなんだろうか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.nikkei.com/article/DGXLZO07909200S6A001C1TJC000/
ブコメでは年齢採用をやめよとかいう頭お花畑なコメントが上位に来ているが、
「採用する300人のうちに経験者が含まれていれば芽を摘むことになる」というコメントに答えることにする。
経費削減について理解していれば、これもまた経費削減策の一環であることは理解できるはずだ。それと同時に、お花畑な回答もしなくなる。
採用する300人の中に、経験者を含めるのは、当然である。ヤフーがやろうとしてるのは、「300人全員が経験者でも構わない」というスタンスである。そしてこの取組みはそれなりに成功するだろう。
ヤフーぐらいの企業であれば、転職の募集をすれば人材が掃いて捨てるほど募集がかかる。これはどれもが新卒よりは優秀な人材である場合が多い。
しかし、予算が決まってるのでホイホイと多めに採用はできない。なぜなら、採用する枠は新卒に割かれているからだ。
合理的な企業であれば、そんな馬鹿な雇用環境に付き合う理由はないだろうし、ヤフーはただ合理的な判断に基づいただけである。
なぜこの国は募集かければ腐るほど人材が集まる企業で新卒採用をしているんだろうか。そいつらの専門性が活かせるならわかるが、そうでない場合が圧倒的だ(特に文系。)
これは大抵の人間が言っていることだが、今の大学は多すぎる。職業訓練校に変えてしまえばすべての企業にメリットがある。すべての企業にメリットがあるということは、すべての国民にメリットがあるということであり、すべての国民にメリットがあるということは国家にとってメリットがあるということであり、やらない理由はないはずだ。
デメリットももちろんある。研究の受け皿は少なくなる。しかし考えてみてほしい。F欄の研究者が具体的に何を為した?どんな論文を書いてどれだけ引用された?
研究の裾野は広い方がいいと言うが、F欄を放置して、研究未満、論文未満の人間を放置して、裾野を維持するなどとは笑わせるぞ。
そういうやつもどんどん放り出せるように、改めねばならない。
それで日本から研究者がいなくなるなら、結果的にそうなってしまったなら、私はそれでもかまわない。そうなる前に手を打てなかった国家、大学の無策であり、可能性ある日本人は国外でどうとでもやるだろう。
話が逸れたが、この結果若者の失業率が上がると言うなら、上がってしまえばいいと思う。能力のない人間は程度問題にせよ雇う価値がないのが社会人である。
いつの時代も無能な若者だが、それは社会人になるまでに使える人材になれなかったやつが悪い。これからはそうすべきだ。
何かになりたいと言うなら、そうなる前にその資質を備えてから来るのが当然である。金に汚い人間が政治家になろうとして「明日からクリーンになりまーす」と言って誰が支持するだろうか。
若者よ、働きたければ使える人材になれ。歯車になれ。使えないなら万年深夜バイトで死ぬ覚悟を決めろ。
お前の強みは何だ?若いときは誰でもある。強みでも何でもない。資格は?普通自動車免許は都市圏でも最低限だよね?
東大を出たから何だというのだ。ネコ文二だろ、レイプ犯の同類め!今から頭踏みつけにしてやるから土下座しろ。
ソーシャルフォビアについて考える。
話題になりがちなのはLGBTフォビアで、LGBTは政治活動をしてLGBTフォビアの撤廃を求めている。しかし次のとおり、なぜLGBTフォビアだけが取り上げられるのかについては疑問がある。
第1に、数こそ不明だが、特定の属性に対するフォビアには様々なものがある。アンドロフォビアやジャイノフォビアもあれば、ストレートフォビアや低学歴フォビア、低身長フォビアや、日本人フォビア、血液型によるフォビアなどというものもないとはいえない。逆に言えば、フォビアの対象になりうる要素は、多かれ少なかれ、誰でも持っている。
第2に、女性恐怖症を含むフォビアとは、治療が可能な恐怖症なのか、本人の資質として放置するべきものなのかが明らかでない。治療方法が存在していても、医師らが患者に対するフォビアを持っているために解決しにくいということも考えられる。
第3に、つまり、LGBT派自体が異性愛者フォビアではないかという疑問がある。LGBTの人がトランスフォビアやホモフォビアである場合もあるという。
第4に、LGBT差別撤廃活動が偽旗である場合も考えられる。政治家などがLGBT派を利用し、LGBTフォビア撤廃を主張するのは、実質的には、多数派の異性愛者に罪悪感を与えるとともに「差別撤廃に取り組む意識の高い人間」として自己正当化を図る目的に過ぎないかもしれない。そうした政治家は、もしフォビアの治療方法があっても、表に出そうとはしないだろう。
なお子供に対する性差別は深刻だ。現代では性別を知って中絶することができる。例えば一般的に女の胎児のほうが中絶されやすかったり、児童ポルノ被害に遭いやすいとすれば、それこそ深刻なジャイノフォビアだ。結局女は、LGBTや低学歴でなくとも差別を受けやすいということだ。
自分はWebサービスを自社開発するような会社でしか働いたことがないのだが、たまに、SIer出身のエンジニアに会ってびっくりする。
技術力がヤバ過ぎるの一言に尽きるのだが、そもそも思想が全く違う。
これは今までの経験上SIer出身エンジニアの100%そうだった。パフォーマンスをまったく気にしない。クエリーをループ内で発行しまくってたり、事もあろうにレビューで指摘され、こう書いたほうが見やすいなんてわけのわからんことを言われた。
他にも必要ない処理を大量に入れて、今後何か改修が入った時に、手直ししなくていいからって、パフォーマンス犠牲にしてまでやらなくてもいいことをやる必要ないだろ?まさにSIer思想!!
やつらはWEBアプリケーションを業務系アプリケーションでも開発しているつもりなのか??
仮に大規模の高負荷案件の経験があったとしてもサーバー数台でさばけるような処理も無駄にサーバーボコボコ立てて回避してたんだろうか?おまえらの技術力が低すぎて運用コストが無駄に高く付くわ。
自分が面接官だったら採用時に高負荷のサービス開発経験と手法を絶対問う。
ほんと、これ何なん?おまえの自信はどこからきてるの?
WEBならパフォーマンスだけでなく、セキュリティーだって、自動化に伴う生産性向上だってプログラマーだって知っておかなくてはいけない情報は多岐に渡るんだ。
インフラの知識もないといろんなところで弊害が起きる。なぜなら単調なシステムしか設計できないからな。
それお前の趣味やんってことが多すぎ。つうかパフォーマンスも考慮できないド底辺エンジニアのお前がレビューするな。
説明不要。その技術が何を目的として存在しているかわかっていない。使うだけで満足している。いやいや、そういう使い方するものじゃないし、成果もあがってないよね?って何度思ったことか。SIer人間はそもそもエンジニアとしての資質とか、論理思考が欠落している。新しい技術を使うことが目的になっている奴って多いよなー。
面接官が糞すぎるから。面接官がSIer出身だともう最悪。面接する奴が糞だから糞して寄ってこない。その会社には。
どれだけ優秀な人材に逃げられたことか。。。
そうかな?
女に本能的に嫌われる女って端的に言えば
知性が感じられないのにエロい女なんじゃない?
女性が思う「エロい」じゃなくて純粋に男性目線から「エロい」と思われる資質をもともと持ってる女ってのはものすごく女に嫌われる傾向があると思う。
同じ「エロい」でもそこに知性があったり教養的な裏付けがあると比較的女性から尊敬されてる気がする。
そんで知性がないのにエロい人の特徴として
1.抵抗なく媚びることができる
2.本人は隠してるつもりでも体型や顔つきがエロい
といったことが挙げられる。
そういうナチュラルエロな女が「私ってモテなくて」とか「男性が怖いんです」とか言うとますます周囲の女性の嫉妬や怒りを掻き立てるという構造。
建築系は両極端だよ。
その日の日当全部飲んだりパチンコに使う職人が居る一方で、いい仕事して金貯めてお客さん取っていく親方みたいな感じで。
保険未加入も同じ。その日暮らしのバカは使いきって保険や年金どころか税金も払ってない。
あと、ガラ出しや下手間で浮浪者レベルの人間も雇うからね。そういうのは人間じゃないと思ってる。
時間辺りの単価はむしろ職人の方が高い。1人工8時間で3万~5万が普通で、突貫や特殊な作業だと日当10万も普通に有る。
知り合いの型枠工や鉄筋工なんて、今マジで凄いよ。ピンで年収2000万近く有るってさ。儲かって仕方ないっていうから税理士と司法書士紹介したわ。
高卒の離職率ってバカが上げすぎだと思うね。非正規、ブラック、飲食なんかに入ったバカが後先考えずにやめてるだけ。
先ず、上の方の内容は一部誤解を生むと思いますので、訂正をかねて。
一般世間から観る「主催者」というのは、コンサートを運営している業者・アーティスト事務所・・それらひっくるめられ「全般」として解釈されている場合と
チケット販売やコンサート運営業者・・即ちプロモーターを指して言われる場合と混在していると思われますが、上の方が書かれているように
「主催者=コンサートプロモーター」とするのが正しいでしょう。厳密に言うならば、アーティスト事務所は主催名義ではなく「企画制作」という枠組みに入る場合が多く、
契約内容の如何はあるものの、現場は主にプロモーターが取り仕切り、アーティスト事務所は基本的に前面に立たないので、尚更プロモーターが主催者と捉えるのが適切と思います。
その上で。
>コンサートプロモーターと言う会社は、別にチケットが高騰してファンが困ってるかどうかなんて気にする必然性がありません
これは正しくないというか、粗い言い方であり誤解を生んでしまうと思います。
確かに完売が目標にありますから、一枚でも多くのチケットを売りたいし、売れることに尽力するのがプロモーターの仕事です。
プロモーター毎で年間抱えるライヴ興行は異なるものの、多くの催事を擁しており、これも各々異なるものの、全体の中で容易に売り切れるライヴはそんなに多くない・・
多少の程度にかかわらず「残券」が発生するライヴの方が寧ろ大半を占めるだろうと思います。
そんな中で、瞬殺完売のように短時間短期間で売り切れるものは楽ですし、逆に言えば人気のあるとされる代物ほど、何かの関係で売り残しが出てしまうことを避けたい・・
だからこそ、言葉はよくないですが「さっさと売り切ってしまいたい」という潜在的な欲求がある。
その意味では「売り主体」となり、売ってしまった後のチケットの動向など関与していられず、それを込めて「ファンが困るかは気にする必然性がない」、
つまり購入者より自分ら優先・・という言い方や解釈になっていると捉えられます。
しかし、あくまでもそのライヴ一本のみで捉え、極端な話その一本が終わればおしまいといった、個別だけで観れば“売りっぱなし”でいいかもしれませんが、
総じてアーティストの次回以降の開催にまで影響を及ぼすものですし、そのプロモーターは特段の事由がない限り次も仕事を請け負いたい(開催したい)はずなので、
顧客を蔑ろにすることは次回の販売へと影響をもたらすことに繋がり、「ファンが困ることを気にしない」姿勢はプロモーターの評判は勿論、
アーティストサイドの評判や評価、即ちタレント活動そのものに向いてしまい、悪影響を及ぼすこととなります。
なので一本だけ、個別のみに特化して単純に言ってしまえば上の方のような解釈になってしまいますが、実際そんなことはない・・
全国津々浦々大小のプロモーターがいますので、そのような資質にあるプロモーターは存在していて不思議はありません。
ですが、一本のライヴはタレント活動という長いスパンの中の「点」であって、プロモーションという側面で観れば既存ファンを維持しながら
広範の世代や新規ファンへと拡大したいという目的がありますから、「繋いでいく」以上、繋げていく以上プロモーターに拠るファンの動向は、
プロモーションとして請け負うことを本分にしているプロモーターであれば決し無視出来ず、ファンを蔑ろにしていいとは思っていないはずです。
もしそのような質の悪いプロモーターがいたなら、それはプロモーターではなく「イベント屋(請け負った催事をこなすだけの仕事)」の資質、体質にある企業と思います。
よって、多く買ってくれる転売屋は、チケットの売り上げだけ観れば結果的に“助かっている”側面は確かにある。
しかし現在の高騰市場の拡大は、タレントプロモーションを担っているという意識にプロモーターがあるなら、総体的にはやはり問題だと思っている・・
正しくは、益々無視できなくなって来たと認識しているはずです。
尚、意見広告にプロモーター名が入っていないのは、単に協会名に集約しているに過ぎないということで、
「名前を載せていない=各プロモーターが積極的に同意していないから」 とするのはあまりにもミスリードを誘う不適正な解釈でしょう。
シンゴジラが絶賛されてるけど、こいつら本当に庵野作品見てんの?って不思議になる。
見ててもオタクの義務感で、本当は庵野作品を好きじゃないんだろう。
あんなのリアル感のあるポルノでしかない。映画は社会実験の場じゃないし、庵野の資質も社会派の方面ではない。
そもそも批判の大半があそこはリアルじゃなかったみたいな、写実的であることが前提の批判で、写実的であることそのものの是非を問うものは一つもなかった。
エヴァの新劇場版では3作目のQが一番すばらしかった。あれにこそ庵野の才能が詰まっている。
観客を突き放し、不安にさせ、しかし目を離すことができない。そのまま突っ走る。それがエヴァQであり、庵野作品の醍醐味だろう。
そう言う意味でシンゴジラも前半は面白いのだが、後半はひたすら都合の良いストーリーテリングに収束してしまう。
で、シンゴジラを絶賛してる人たちもそのストーリーがいかによくできているかしか言わない。そんなのはどれだけうまくできていてもポルノでしかないのに。
シンゴジラが好きな人は庵野作品を本質的に好きじゃないのだろうし、だからこそ雇われ監督で作家性をセーブしたシンゴジラを絶賛してしまうのだろう。
前回『【新共通テスト記述式】氏岡真弓氏による朝日新聞の記事を批判する』という記事で、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏の署名記事について批判した。
その要点は、氏岡氏の記事が、国立大学協会入試委員会の対応に関して、(意図的にせよ結果的にせよ)明らかな印象操作を行い、「新共通テストの記述式試験を大学側が採点する」という方法が極めて問題の多い案であるという事実を十分に報じないまま、この方法の採用を後押ししてしまっているという点にある。
いくつかのコメントに飛ばし記事であるとか文科省側のリークというような話が出ていたし、私自身もその可能性はあると考えている。
しかし、その一方で、私は文科省も国立大学協会も正しく状況をレクチャしたにも関わらず氏岡氏自身が(意図的か無意識かはともかく)内容や方向性の間違った記事を書いた可能性、つまり氏岡氏の持っていた見解やバイアスや資質の問題が今回のような記事を書いてしまった原因である可能性も留保している。
これらの点を詳らかにするためにも、氏岡氏は自分自身の言葉で今回の記事に関する経緯を説明してほしいと考えている。
今回私が批判したいのは、8月19日付朝日新聞4面に掲載された『<解説>大学に負担、利用未知数 新テスト記述案』という記事である。
前回の内容は記事化の経緯に関する点であり、氏岡真弓氏に非があることは明らかであると(少なくとも私には)感じられる問題だったが、今回はもう少し論争的な部分を批判したい。
はじめに結論をかけば、
氏岡真弓氏は今回の新共通テストに関する問題特に採点方法の問題を論じる/解説するにあたって、この問題に関する十分な見識を欠いているのではないかということだ。
私が特に重要視している記事の記述は次の2つの記述に集約されている。
この問題を論じるにあたって、国立大学協会入試委員会の提出した論点整理や文科省の有識者会議=高大接続システム改革会議の出した最終報告は役に立つ。
私の批判の要点は、氏岡氏はこの記述の中で、記述式問題において何を問うかという点に関する検討・理解を十分に行わないまま独自解釈を述べていないか、ということである。
特に、「文章を理解し説明する設問」と「自分の考えを書く問題」とを明確に区別した書き方をし、大学側が採点する方法を採ることにより、後者が可能になったと断定している点である。
国公立大学の二次試験の国語で問われている問題はおおむね前者にあたり、文章の記述の内容把握や根拠説明を要求するものになっている。
一方小論文試験や国公立でも非常に僅かだが一部の大学(2016年度だと例えば滋賀県立大・静岡大・首都大学東京・島根大など。ほかにもあるかもしれない。)の国語の試験には、課題文の内容理解を踏まえる形で「あなたの考えを述べよ」という「自分の考えを書く問題」が出題されている。
では、新共通テストの記述式問題で本当に後者のような問題を出すことが想定されているのだろうか。
国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。(p.54)
とあり、ここにみられる「自分の考えを形成し」という語句は一見氏岡氏の記述に合致しているように見えるかもしれない。しかし、これは、例えば選択肢を選ぶのではなく自分の言葉で説明することを指していると通常は解釈するように思う。
実際、
「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題については、現在、国立大学の二次試験で行われているような解答の自由度の高い記述式ではなく、設問で一定の条件を設定し、それを踏まえて結論や結論に至るプロセス等を解答させる「条件付記述式」を中心に作問を行うことにより、問うべき能力の評価と採点等テスト実施に当たっての課題の解決の両立を目指す。(p.56)
と述べられていることを見落としてはいけない。最終報告のp.75に掲載されている図も見落とすべきではない。
つまり、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」は、創造性・独創性・芸術性の評価も含む問題であり「個別入試になじむ」と整理されている。
仮に大学が採点することになるからといって、この整理を放り出して、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」を出題するとか、
「自分の考えを書く問題」を出題すると述べるのは、議論の成果である最終報告よりも明確に一歩踏み込んだ記述になっていると言わざるを得ない。
では国立大学協会の「論点整理」ではどのように記載されているだろうか。
解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大することである。また、設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる。
ここでいう「解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大する」という記述には、氏岡氏の言うような「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」という趣旨を読むことはできないと私は考える。
というのも、ここでいう「出題の多様性」という文章は、前半にある次の記述を受けてのものだからだ。
全国共通試験への記述式・論述式問題の導入は、多肢選択問題では測ることのできない能力を評価するための大改革であり、適切にその能力を評価するためには相当数の問題が課されるべきである。また、評価すべき能力が個々の設問の中に構造化されるわけであり、その観点からは、短文記述式(40-50 字)設問のみでは、改革の主旨に沿った十分な評価を行うことができないと言わざるを得ない。解答文字数を含めて出題の多様性が出来るだけ拡大されることが望ましい。短文記述式のみでは早晩パターン化し入試技術化する危惧もあり、持続可能性の観点からも、同様のことがいえる。
これは、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題」を出題するべきというよりは、文字数は40-50字の短文記述よりは長めで、個数は多めにするべきということである。個数を多めにというのは扱う内容の多様性を確保せよといっているように私には見える。50万人が共通して受験するテストの場合、題材が1つだけだとどうしても能力よりもその話題になにがしかの知見があるかどうかなどの運の要素も出てきてしまう。十分な量の問題と十分な長さの解答要求をすることでしか「適切に能力を評価」することはできないだろうと言っているように見える。ここには、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」というような観点は入っていない。氏岡氏の記述は国立大学協会の「論点整理」の文脈からもはみ出していると考える。
また高大接続システム改革会議の最終報告の参考資料2には、今回の新共通テストの問題例が掲載されている。(ただし、あくまでも何を問いたいかを例示するためで直接試験で出題できる問題として掲載しているわけではないという注釈付き。)この中の「国語」の問題では、交通事故の発生件数・負傷者数・死者数の年度変化を示すグラフを掲げ、「交通事故の死者数が他よりも早く,平成2年(1990年)以降減少傾向になっていること」の理由について考えさせている。要求しているのは、資料から読み取れる内容の記述や自分の主張を裏付けるためにはどのような資料を見ればよいかを記述させることである。これは、「自分の考えを述べる」問題ではないことは明らかである。
「出題の幅」とはどういう意味なのかはっきりしない。最初に取り上げた4面の解説記事の記述にもあるが、「自由記述」「本格的な記述」のような書きぶりにも現れているように、言葉の選び方が不用意で十分に検討したと思われない。
しかし一方で、氏岡氏の名誉のために、次のことは指摘しておくべきだろう。
読売新聞が8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で次のように記述している。
国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。
これも国大協が大学側が採点するという案を提示したという問題のある記述をしているのだが、それ以上に、国大協が「200字~300字程度の記述式が導入できると想定」などという「論点整理」には全く書かれていない話を登場させている点に注目したい。
「40-50字の短文解答式」ではまずいという議論から、いきなり「200字~300字程度の記述式」というところへ直接は結び付かない。
上の最終報告にある問題例は、40字以内と80字以上100字以内の設問である。通常、短文解答式ではないものを、という点でみれば、いきなり200字~300字となるのではなく、80字~100字程度の文字数ということを考えるのが自然ではないだろうか?
また国公立の二次試験を見ても、単独で200~300字の記述を要求する大学はむしろ珍しく、東大でさえ最大文字数の問でさえ100字~120字で述べさせる問題である。
もちろんこの「200字~300字」というのが、たとえば小問3個での合計解答文字数というなら話は違ってくる。(1個の大問全体での記述量が500~600字程度ということは珍しくない。)読売記事がそのあたりの正確さを欠く記事になっていることは批判されるべきだ。
といったことだ。
しかしどれであったとしても、氏岡氏の記事は、高大接続システム改革会議の最終報告からは乖離しているし、現状の国公立二次試験での国語の出題状況などについても十分把握しているとも言い難い。また19日時点では取材していなかったのかもしれないが、国立大学協会の「論点整理」とも乖離している。こうした点からも、署名記事を書いた氏岡氏はいったいどういう経緯と解釈でこの解説記事を書いたのか説明するべきだと私は考える。
実は、国立大学協会の論点整理の中には、次のような記述もあることを付け加えたい。
そもそも、記述式・論述式問題に評価すべき能力をいかに構造化できるかは、根源的な課題である。評価すべき能力の構造化があって初めて、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーの中に、記述式・論述式問題を適切に位置づけることができる。しかしながら、国立大学全体にも大学入試センターにも、そのための知識やノウハウの蓄積は未だ十分ではない。平成 32 年度実施に向けて能力の構造化に向けた記述式・論述式問題設計の理論構築、体系化が喫緊の課題といえる。国大協としても、過去の各国立大学の個別試験における記述式・論述式問題に関する実績を調査・分析することなど、この課題に積極的に取り組んでいきたい。
これは、どのような形式で何を問うかということについて、決して十分な知見があるわけではないことを述べており、すなわちこ(「学力の三要素」といった抽象論ではなく)具体的な設計レベルでみれば、新共通テストにおける記述式問題の形式や内容についていまだに十分合意が取れているとは言えない現状を示している。にも関わらず、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」とか「大学が採点を担う国立大学側の独自案が具体化すれば、入試改革は実現に大きく近づく」などと断定する氏岡氏の記述に私は強い不信感を抱かずにはいられない。
自らの見識や知恵を凝縮し、数時間でそれを獲得できる形に加工することは彼らによる思いやりでもあるだろう。
しかし、他者の救いを必要としている弱っている人たちにとって、文章で提供するのは悪手だったりする。
精神的に弱っている人は、エネルギーを費やすこと自体が難しくなっている。
おまけに表現方法が多様になってきた昨今では、文字に対する抵抗感を持つ人の割合はかなり多くなっている。
この現状では、せっかくの名文をもって人を救おうにも、それが達成される見込みは薄くなってしまう。
執筆に勤しむものはそれに慣れているため、活字に対する抵抗感が少ないのでそれに気づきにくい。
コラムニストがイラストを多用するのは、文章という抵抗感を薄める手段としてはかなり効果的だろう。
自らの文章力のみに注視するのではなく、そうしたそもそもの目的を達成する手段を模索することも、これからの執筆者には求められる資質となると私は考える。
力づくではないけど、彼女の本意でなく僕のおちんちんを彼女のおまんこにいれたい、
「ごめんねどうしてもがまんできなかったんだごめんねすきですごめんね」とか言いたい。
それは妄想でいいんだけど、いい歳の彼女にそんなこと言えるわけもなく、当たり前だ。
こうゆうとき、自分fr「ホモが自分に同じように言ってきたらどうか」と被害者側になってみる。
有り得ない。
だけどさっき、何回か回数を重ねなくても、彼女のことが好きだからそうしたいんだし、
少なくとも僕は彼女とずっといてもいい、いられるだろうと最初から思っていた。
彼女が僕を好きになる可能性が無いわけではない。僕は彼女に好かれるための行動をするだろう。
2016年現在の日本では(おそらくアメリカと西欧諸国でも)、知識階級においては、基本的には知性のある人はリベラルの立場をとりがちだと思われているように思う。つまり
と考えている。ここでP(A|B)とは、「BであるときAの確率」を意味する。上の式は、知性があるならリベラルの立場をとる確率が高いと言っているわけだ。
これを事実だとしよう。
さて、だとすると、ベイズの定理により
P(知性がある|リベラル) ∝ P(リベラル|知性がある)P(知性がある)
P(知性がある|保守) ∝ P(保守|知性がある)P(知性がある)
が成立する。ここで、P(知性がある)が一定だとするならば、P(リベラル|知性がある) > P(保守|知性がある)より、
が成立する。すなわち、リベラルな立場にいたりリベラルな発言をしているならその人物は、保守の立場にいるものよりも知性があるのである。
したがって、保守の立場にいる小池百合子よりも、リベラルな立場にある鳥越俊太郎の方が知性があると言える。
ここで注意すべきなのは、このように一般ピーポーは属人的な事前確率(すなわちP(知性))を考慮しない傾向が一般にある(俗に言う「主語の大きい話をする」傾向がある)ため、
がある上では、本人の資質に限らず、P(知性がある|リベラル)は、P(知性がある|保守)よりも一般に高く見積もられる傾向があるということである。実際にはP(知性がある)は、単純な周辺確率分布ではなく、本人の資質との結合確率として現れるはずである(導出略)。
つまり、同じようなレベルの知性であってもリベラルな発言をしていると、そのレベルの知性で保守的発言をしているよりも知的に優れていると誤って評価されるということだ。また、その評価に安住する危険性も高いだろう。
すなわち、実を言うと
P(知性がある|リベラル∩世間的評価が高い) < P(知性がある|保守∩世間的評価が高い)
と思われるのである(多分こう書くと、世間的評価が高いから知性が高いって言えるのかなどと噛みつかれるだろうが、あくまで式表現として提示しているのである)。同じくらいの知性があると評価されているなら、保守よりもリベラルの人間の方が真の知性レベルは低いのではないか。
今回鳥越俊太郎の件はこの点をまざまざと明らかにし、やはり意思決定にベイズ的思考を投入しなければならない必要性を強く感じさせた。鳥越俊太郎はリベラルな発言をしてはいたものの、「鳥越俊太郎には知性がある」という事前確率は著しく低かったというべきだ。一般的評価はリベラルの立場のいる人間について甘めに働くため、これまで世間的に評判が良かったとしてもリベラルの立場の人間についてはより厳しく本人の知性を見極めなければならなかった。ということであろう。
岡田さんが敵前逃亡したというが、鳥越俊太郎のあそこまでのバカぶりを見せられた後では同情する面もあろう。上の式展開により、「基本的には知性のある人はリベラルの立場をとりがちだと思われている」ような社会においては、保守である自民党よりも、リベラルである民進党の方が候補者選びに苦労することは、決して岡田さんが悪いというよりもこの社会における必然であることが数学的に確認された。
(なんちゃってね)