はてなキーワード: 脳天気とは
そうだな、どこから話そうか。
ありふれた人生の一部分ってやつさ。
ただそれぞれが複雑に絡み合い、事態は進展していく。
いや、正確には進展しない。届きさえしない。
絵に書いたようなハッピーエンドであれ、
救いのないバッドエンドであれ、
そう信じていただろう?
だが、ラストほんの3秒までなんの問題もなかったこのストーリーは、
突然にその悲劇的な幕切れを俺に予感させた。
そう思うのは脳天気なアメリカ人か、でなければ育ちのいいお坊ちゃまだ。
むしろ家の中に入った瞬間、始まったのさ。
3秒は3時間にも感じられ、わずか数メートルがフルマラソン42.195kmのように感じられる。
そして物語は突然に終わりを告げる。
俺は自宅でうんこを漏らした。
実際は兵庫県に限っても7日朝まで断続的に大雨となった。
自分は赤坂自民亭や宴会ツイートそのものよりも(*5)、5日23:45の「山を越えた」ツイートに問題があると思う。これは大雨のタイミングで宴会を開いてしまったための言い訳ツイートと思われるが、保身のために事実を捻じ曲げ(しかし事実誤認については秘書に責任転嫁しつつ)地元住民を危険に晒しかねない極めて悪質な言動だった。
1. https://www.jma.go.jp/jma/press/1807/05b/2018070514.html
2. https://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/nishy03/status/1014857016441954305
3. https://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/nishy03/status/1014883044308615169
4. https://www.mod.go.jp/j/press/news/2018/07/06d.html
5. 最大限擁護すると、5日22:02の時点であのように脳天気なツイートをしてしまったのは、出席してくださった安倍首相におべっかを使いたいため必要以上にのぼせ上がってしまったのだと思われる。実際一年後の2019年9月、内閣改造において西村氏は見事経済再生担当大臣に抜擢されている。
ここ数日、「育児衝撃画像」というタグがツイッターで盛り上がってる。
最初にこのタグがついたツイートを見たときウッとなったのに、見るのをやめられない。
私の親は自分の子供の写真を平気で他人に渡してしまう人間だった。
近所の人や知り合い程度の人でも、「子供さんかわいいねえ」なんて言われたら喜んで写真をあげてしまう。悪気無く。
だから全然知らない人が私の写真を持っていることがたまにあった。話したこともないような人から、大きくなったね、なんて突然声を掛けられ写真を見せられる。正月にしか会わない親戚のおじさんの財布から私の写真が出てきたりする。
地元の飲食店のコルクボードに張ってある写真が、全裸で水遊びをしている私と弟だと気づいたときは血の気が引いた。
両親がよく飲みに行く店で、店主のおじさんとおばさんとも話したことがあったが、その日から嫌いになった。
中学生の時にこっそりその写真を外して持ち帰ったが何も言われなかった。コルクボードには他にもたくさん知らない人間の写真があったから気づかなかったのかもしれない。
でも私と弟の裸が今まで他の客に晒されていたのかと思うと吐き気がする。
その写真は燃やしたけど、他にも私が気づかないところで私の写真が知らない誰かの視線に晒されてなんやかんや言われているんだろうか、とずっと考えていた。
写真をあげるのやめてほしい、と親に言い続け、カメラにも徹底的に視線を背けるようにして、ようやくやめてくれるようになった。
「写真が恥ずかしい年頃になったんだね」なんて脳天気なことを言われて、この人たちは本当に分からないんだ、とびっくりした。親は私を愛しているかもしれないけど理解することはできないんだと知った。
親元を離れた今でも、この写真は他の人間に見せられても大丈夫だ、と思う写真しか親に送れない。
ツイッターに流れている写真の子供たちが大きくなって、自我もなく防ぎようがない写真をインターネットなんて開かれた場所に晒されていたことを知ったらどうなってしまうんだろう。
特に子供の裸の写真を公開垢で修正もなく堂々と載せている親なんか、衝動的にリプしそうになる。削除してくれ、と勝手にその子の未来を騙ってしまいたくなる。
子供の人権が全て親に握られていることがわかってしまって辛い。
このタグがついた一連のツイートを見ながら、あの頃カメラに無防備な笑顔を向けていた幼い自分を哀れに思った。
大人になってよかったなあ。
「デバイスは人間そのもの」そんなこと、1960年代から言われてる話で、今さら得意げに言うほどのことじゃない。曰く、進歩した技術は人間の身体の拡張である、技術と人間を対立的に捉えるのではなく融合的に捉えるべき、そりゃそうだよ。現代人なら、ネットで繋がってない人間関係とかもはや想像の外の話だろ。
だから俺が言ってるのは、「ソレ」はそんな特別なことじゃねえんだぜ、って話だよ。「ソレ」が開く未来を脳天気に想像する暇があったら、「ソレ」がどんな地獄を生みかねないかということも同じくらい想像しておくべきだ。でないと、将来あんたら科学の徒はまとめて地獄行きだぜ。「人類を滅亡に導いた罪」ってな。
自ジャンルで肩身が狭い。
頻繁に荒れるからです。オタクたちが。公式相手に。それが怖い。
とはいってもこれオタク側がヤバイ人たちなのかっていうとそんなことはなくて、ごく普通にコンテンツを楽しみたかったごく普通のオタクなんですよね。
だから怖がってるのはたぶん私と、もしかしたらいるかもしれない私と似たようなタイプの人だけだろうなあ、という話。
先に言っておくとこれは自分語りというか感情整理なので一介のオタクの日記にミリも関心がない人は読んでもおそらく時間の無駄です。
自ジャンル。具体名は伏せますが、読む人が読んだら一瞬でわかってしまう気がします。
数年ほど続いてるジャンルで、原作はCDです。アニメ化もしたし舞台化もしました。人口が今どれくらいいるのかはわかりませんが、まあたぶんそれなりにいるのかなあ……私が思ってるよりは知名度が高いのかも、と時折思います。
で、このコンテンツ。まあやり方が下手くそで……こりゃ怒り買ってもしょうがないぞとちょいちょい思うんですよ。
クリエイター側というか、キャラとか声優さんとかストーリーとか役者さんとかイラストレーターさんとか曲を作る方々とか、そういう人たちは全部素敵なんですけど、如何せん公式のやり方が心配になるくらい下手なんですよ。
大事なことを何故か公式からアナウンスしないことが本当に多い。しても遅い。発売予定とかね……大事だと思うんですけど……遅れるなら諸事情で遅れていますって一言いうだけで落ち着く人、そこそこいると思うんです。それがないから……偉い人から口止めでもされてるんですか……?と思うくらいにはその辺の話をしない……かといって公式ツイッターが動いていないかというとそんなこともなく、企画とかコラボカフェとかの話は意気揚々としてるから……偉い人から口止めでもされてるんですか……?と思う……
あと二次元と2.5次元の混線が多い。これ、私は全然平気なんですけど苦手な人はほんとに絶対無理だと思うので……やめてあげたほうがいいんじゃないかなあ……と常々思います……それでキレてる人定期的にお見かけしますよ……
他にも多分いろいろあるんでしょうね。対応面とか……脚本の解釈問題とか……私はそこまではわかりませんが……ただ公式として些か不誠実だな、と思うことは確かにあります。どうかなあ……と思うことは。
あるんですけど、思うところというほどのものがあるかっていうと、ない。
これはどちらかというと個人的な性格とか、こういったコンテンツとの付き合い方の問題なんだと思います。
私は公式に甘いタイプのオタクです。喜怒哀楽の怒の感情がたぶん比較的希薄で、なんていうか、自分のことなのでやや乱暴な言い方をすると、無責任なファンです。
公式が正直客観的(になったつもり)で見ても問題が多いことを認識した上で、はあそうですか、くらいの感情しかない。
平和に生きていたいんですね。植物のようにと言うべきか。穏やかでありたい。そのほうが楽なので。
だから、感情をはっきり吐露しているオタクを見ていると、胃がキリキリするし、怖い。
これほんとに向こうには非はないんです、正直正当な怒りだと思います。でも怖い。
怒っている人がとにかく苦手です。その対象が自分の知っているもので、自分が許容しているものだとなお胃が痛い。
本当に何も気にしてないオタクなんです。
発売が遅れようと。その間は別のジャンルにいたり、一応文を書いたりしてるのでのんびり書いてみたり、それこそ公式ツイだとか、企画系の新規絵や安定して動き続けてる舞台を楽しんでみたり。のびのびやっています。
でも、公式に思うところがある人というのはたぶん、そこそこいる。(観測範囲が狭いのでなんとも言えませんが)
原作が動かないのに派生のものや舞台版は動いてることを複雑に思う人。
派生や舞台も好きだけど、原作が動いてないのに……と思うと素直に喜べないという人。
初期にあった設定がいつの間にかなかったことになっていることを疑問に思う人。
いろんな人がいますし、どれもおかしなものでは無いと思っています。
ほとんど何も気にしてない私のほうが妙なのかもしれない、と思うくらいには。
それでも推しがいるから離れられない、という人もそこそこ見かけました。推しを人質に取られている、と。
言わんとしていることはわかります。でも怖い。
自分と違うものを恐れるという心理があります。それに近いのかもしれない。頭で理解しているつもりでも、反射的になんでそんなに怒るんだろう、って思ってしまう。
物言いが過激というか、些か攻撃的な言葉を使う人が一番苦手です。だめってわけじゃないです!Twitterなんだから好きにつぶやいていいんです、企業でもあるまいし。匿名で何事か言ってる人間のことなんてないものとしてカウントしたほうがいいです。
言い方が不謹慎で非常に申し訳ないのですが、こういうコンテンツのことで体調崩すレベルで怒ったり嘆いたりできる人、すごいな……と思います。あのほんとに揶揄する意図はなくて、感情が豊かだな……と思って……
二次創作をやっているひとは少なからず気が狂っているといいますが、まあそれは確かにそうだろうなと思います。
私も一応は書き手の端くれなので、ツイッターにも二次創作をやっている人は多い。で、たぶんそういう人って、コンテンツについてめちゃくちゃ考えてるんですよ。
(ROM専の人がそうではないということではないですし、書き手が必ずそうというつもりもないです。現に私はそのあたりがとてもゆるい書き手なので……)
コンテンツのことが好きだから、コンテンツの先行きを憂いているから、好きという気持ちが公式への怒りとか、悔しさとか、悲しさに変わってしまうのかな、と思っています。
私はそういうのがない。出てきたものをわーいって言いながら素直に楽しんで、何もないときは何も言わない。それだけ。コンテンツのことはシンプルに好きだなってそれだけだし、公式への感情はそれ以上は特にない。
グッズとか買うのだってただ欲しいからでしかない。応援したいからとか続いてほしいからみたいな殊勝な理由はない。だからお金がどこに流れてるのかなんて気にしたこともない。
設定のブレもそれほど気にならない。これおいしいな、と思うとこだけ適当に拾って食べてる。
要は、私が勝手に肩身が狭いような気がしているっていうだけなんです。被害妄想みたいなもの。
みんないろんな思いを抱えてるのに、脳天気にゆるく楽しんでるのなんか悪いなあ、と思うことがある、それだけ。
別に自分ないし相手のスタンスが嫌なわけじゃなくて、向き合い方はひとりひとりにあるんだからそれはそれでいいんじゃん?と思っていますが、それはそれとして周りが怒ってる中ひとりで普通にしてるのはちょっと心苦しい。
かといって無理に抱いてもない感情に同調するのはどう考えても不毛でしかない。
結果的に、どうでもいいようなことを呟いたり静観したり、という形に落ち着いていく。
とはいえ怒りの感情を眺めていると私は辛くなってくるタイプなので、結果TLからは足が遠のく。
不当なものではないよなあと認識できるからこそ辛いんですよね。同調できないから。同調することが必ずしも是ではないけれども。
モノが出なかろうが何しようが私は別にまあいつか出たらいいなと思うし死んだらその時はその時よね、みたいな感じなんですけど、ただオタクたちがそれで荒れるのを見ているのがただキツい。
そういう意味で、少なくとも公式とファンの間はそこまで荒れないジャンルのこと、たまに羨ましくなります。
でもやめてなんて絶対に言えない。そういうのは自由なので。十中八九ないと思いますがこれ見てやめようとか思ったりしないでください。責任持てないので。
自分のこととはいえこの辺はなかなか変えられないし正直あんまり変える気もないし、まして他の人に関してはもっとそうなので、たぶん公式がちゃんとなるか私の飽きが来るかまでは今の姿勢を取り続けるんだと思います。
おわり。
優生思想の話とは少しずれるが
世の安易に「ナチスを擁護するオレ格好いい斬新画期的」と思ってる人には一言したい
絶対に自分をその優秀な人間に分類される側だとか脳天気に思ってるだろ?
で、ナチス時代のドイツではユダヤ人や非アーリア人は嫌な思いをしたけど
世間の大多数の普通のゲルマン系ドイツ人はみんな幸福だったとか思ってるだろ
ところがどっこい
世の中は「純血のゲルマン人は神/ユダヤ人はゴミクソ」とかいう
単純な二分法では割り切れず、大量の「白でもない黒でもない中間」がいるわけ
善良なドイツ人が皆お互いに
「お前、祖父の代までさかのぼったら純血のアーリア人じゃないだろ?」
「お前こそ、曾祖父の代までさかのぼったら純血のアーリア人じゃないだろ?」
「お前こそ5代さかのぼったら同上」
一生懸命に「理想的なゲルマン人」の骨格に合致しているかどうか
顔の額の広さや顎の広さをミリ単位で測って競い合うようになった
なまじ、ある一種類のみが優等、逆にこれは劣等なんて基準を作ると
際限なくこーいう相互疑心暗鬼で「こっちが優等」争いになるわけ
「みんな違ってみんな良い」などという綺麗事は言わぬw
小説が読めて正当に評価できるプロパーなら知っているだろうけど、芸術性の高い小説はいかにつまらない小説を上手く書けるかを競っているようなところがあり、そうした小説が大衆的な評価を得られないのは当たり前だし憤るようなことでもない。
それが分かってない時点でこの増田も、文学界隈で議論されて来たような「小説の価値」を全く理解できていないスノッブにしか見えない。
増田は上手い小説が正当に評価されと欲しいと言っているが、そのわりには上手い下手の基準が曖昧で、上手さの基準が違うジャンル小説をひとまとめにして語っている。
何が上手さかをちゃんと言語化し、これが基準だよと指し示す。国語ができるかを口にするなら、目的の為、それぐらいはできてしかるべきではないだろうか。
もっとも、後半の仮説を読むと察するのだが、この増田は表向きの目的よりも別の目的、あるイデオロギーに囚われているのがわかる。
それは、良い小説や良い表現を読むことにより立派な人物になれる、という人格形成の神話だ。
こうした読者にとって、読んでいる小説と人格や知性は比例する(しなければならない)ので、悪い小説や下手な文章を評価するのは単に評価のものさしが違うのではなく、小説を読まないような読者だということになる。
そのような読者を分析してみせ、自身の完成した人間性を披露したがる文芸スノッブは多い。しかし、この程度のありきたりな分析はほとんど自己紹介のようなものである。
要するにそれぐらいの藁人形相手でなければ、まともに誇れないような知性を現しているにすぎないからだ。
増田は「評論が読めるのか」などと煽っているが、こういう連中こそまともに評論を読んだことがあるのだろうか? 非常に疑わしい。
名の通った評論家の本を読んでいくだけで、文学という制度に自覚的かつ批判的な本に何冊も目を通すことになり、この程度の脳天気な小説観など出てこようはずも無いのである。
団塊世代が読んだであろう本(吉本隆明、高橋和巳、三島由紀夫、等々)は読んだけど、団塊世代の人生経験自体は書いてねえぞw
それよか、黒澤明とか野村芳太郎とかの1960年代の現代劇映画観てると、当時の世相が反映されてる、劇中に汚い貧乏人ごろごろ出てくるね
いっとくが、ウルトラマンとかはあえて未来的な風景を強調してるからな
あと加山雄三や植木等の映画はわざとハッピーで明るい享楽的な作風を意識して作ってる
本を読めとか勉強しろとかうるさいけど、貴殿が言う、団塊世代は1人残らず苦労知らずでひたすらハッピーで脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な作品名を挙げて欲しい
学生運動を批判的に描いた作品(たとえば1960年代に書かれた倉橋由美子の現代劇小説とか)では、全共闘の学生がいかにも脳天気な甘ったれのように描かれている、その手の描写はよく見た
しかし、俺は最初から「団塊の大多数は高卒中卒・農家とか工場労働者とか」と述べている
それら非大卒まで一切、苦労知らずでひたすらハッピーで脳天気で夢見がちだったということを裏づける、具体的な資料を作品名とか作家名とか挙げて欲しい
『プーと大人になった僕』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
これは100点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、この100点は大傑作という意味ではない(300点とかありえる)んだけど、ごちそうさまでした、わしゃぁあ満足です。という意味で良作だというのはたしか。損しません。
まあ、家族向けとかカップル向けかと言えば、実はそんなことはなくて、一人で見に行けよおい、しかも社会人がいけよ、っていうのはあるので万民向けとはいい難いんすけどね。この映画は、だって、学生にはわからなさすぎでしょ。
ざっくりいうと「おとなになって社会人となり企業戦士として毎日ブラックな労働をしているクリストファー・ロビン。仕事と家族の間で板挟み。人生の迷子になっちゃった。プーさんといっしょに正しい人生を探そう」みたいなあらすじ&テーマであって、それは予想通りだったし、そして予想を満たして十分以上な脚本完成度です。テーマや物語性(増田はここを中心として映画を見ちゃうタイプです。趣味合わない人は申し訳ない)でいえば、非常に満足でした。
がー。そのてんに関してはー。満足だったのでー、逆に満足であったがゆえにー。脇へうっちゃっておいてー。この映画のー。感想についてはー。別の部分をー。述べたいとー。おもいまーす。
映画冒頭部分では、まだ「100エーカーの森」でくまのぷーさんと遊んでいた頃のクリストファー・ロビン(ショタ)が登場するんですが、もうね、これがね、非常にこうファビュラスっていうか尊いわけですよ。華奢な白人少年が四分丈の(日本で言う半ズボンよりは少し長いけど膝上の)ズボンから、少し筋張ったくらいの細っい脚をね。伸ばしてね。みどり豊かな森の中をバスケットを持って歩く姿がね。素晴らしいわけです。
シーンはクリストファー・ロビンが寄宿学校へ向かうその直前。楽しく美しく永遠だと思われていた「森でのプーさんとの日々」が終わるちょうどその時。作中では「お別れをいう日(Day to say goodbye)」と描かれるその日なわけですよ。
クリストファー・ロビンは楽しい田舎暮らしから、厳しく抑圧的な寄宿学校へ入らなきゃいけない。それは大人への第一歩で、もう今までのように日々をただ日々として楽しく過ごせる時間は終わってしまった。それをクリストファー・ロビン本人もわかってるんですよ。もう自分はゆったり時間を過ごせない、これからは時間に追われて毎日何かをしなきゃいけない、大人になるからもう仕方ないんだって、諦観してるんですよ。
その「子供としての最後の日」。100エーカーの森で、プーさんとピグレットやティーガーたち森の仲間でパーティーをして楽しく過ごしたその後、森を見下ろす高台の丸太ベンチに座ったクリストファー・ロビンとプーさんの二人は、こてんと肩を寄せ合い夕日に向かってずっと座ってるんですよ。
そこで「ぼくのことをわすれちゃうの?」と鼻にかかった声で尋ねるプーにたいして、ショタ(大事なのでもう一度いう)美少年のクリストファー・ロビンが、優しくて、それでいて困ったような表情で「プーのおばかさん」って言うんですよ。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「おばかさん」ですよ。もうね、水銀灯の牙城にいちどの跳躍で飛び込む偉大なシーンですよ。もちろん画面は映画でありフルカラーなわけですけれど、この夕暮れは追憶と郷愁の甘さを伴ってセピアにさえ見えるわけですよ。つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。
あっという間に幼少期、少年期、青年期を過ごしたクリストファー・ロビン。寄宿学校で父の訃報に接して、社会に出て、将来妻になるべき女性イヴリンと出会い、求愛して結婚し、子供を作り、出兵(たぶん第二次世界大戦)して、なんとかロンドンに帰ってきて、就職して仕事に打ち込む中年になってるんですよ。
大企業のカバン製造部門の責任者となったクリストファー・ロビンは、会社上層部からこの部門の効率化(予算削減)を求められていて、その要求は−20%。リストラ待ったなしの状況で、大事な部下を切り捨てるかどうかの瀬戸際の日々を送り、その結果として休日も家族との時間も奪われているわけですよ。妻からは「もう何年も笑顔を見ていない」と言われ大事な娘のマデリンからは失望されて、でも、家族を守るために部門を守るために、家族旅行への参加をキャンセルしてまで働かなきゃならんわけです。
予定されてた旅行にイヴリンとマデリンの妻子を送り出して、週末も缶詰で仕事しなきゃと追い詰められたロンドンのアパルトメントのクリストファー・ロビンのもとになぜかプーさんが現れて助けを求める、というのがこの映画の第二の開幕です。
懐かしい友プーに出会ったクリストファー・ロビンは彼の頼み(行方不明になってしまった仲間たちを探してほしい)を叶えるために(どっちかっていうと大都会ロンドンにおいては厄介なお荷物のプーさんを森に帰すために)、郊外の美しい故郷に戻ろうとします。そこでプーさんとクリストファー・ロビンは一緒に旅をするわけですけれど、相変わらずふわふわ夢みたいなことを言う(まあぬいぐるみなので当たり前だけど)プーさんの脳天気っぷりに、時間が黄金よりも貴重になってしまったブラックカンパニーソルジャーマシーンのクリストファー・ロビンはいらつくわけですよ。プーさんがベタベタのはちみつで汚してしまった廊下を掃除している間にも、刻一刻とリストラのタイム期限が迫ってるわけで。「なにもしないをすればいい」とか「ゆっくりすればいい」とかいうプーさんの言動が癪に障るのは、まあ、仕方ないです。
送り届けた「100エーカーの森」で、とうとうクリストファー・ロビンは切れちゃうわけっすね。
「ぼくはもう昔のぼくとは違う」とプーに突きつけてしまう。その時の表情がね、もうね、良い。
良いよね。
良い。
失意のぷーさんは「従業員を捨てなきゃならない(リストラ)」というクリストファー・ロビンに「もしかしてぼくも捨てたの?」と聞いちゃうわけです。
それに対してクリストファー・ロビンは「捨てたんだよ」と答える。
この時の表情も、良いのです。
「ソレ」をいっちゃったら相手が傷つく以上に自分も傷ついちゃうのを自覚していて、それでも言ってしまったクリストファー・ロビンの、ナイーヴな表情が尊いわけです。おっさんのくせに。イケオジつぇえな。
この時クリストファー・ロビンは「いいやプーは特別な友達だから捨てるわけないじゃないか」と適当に言うこともできたわけです。でも、それは事実じゃないわけですよ。現実として30年以上プーさんを忘れていたわけだし、放置していたし、それは客観的にって捨てたと言われても当然なわけですよ。そういう現実を糊塗して「捨てるわけない」とクリストファー・ロビンは言えなかった。特別な友達だからこそ、そこで嘘はつけず、自分も相手も傷つけるのなんてわかっていたけれど、「捨てたんだよ」と答えるしかなかったわけですよ。
40代になったクリストファー・ロビンはもうおっさんなわけですけれど、ロンドン紳士然としたイケオジなんですね。その彼がいろんな現実や言葉を飲み込んで、意地っ張りにも露悪的な「捨てたんだ」って告げるそれが、もうね。
ほんと。
尊い。
わかるか人民どもこの尊さが? 「捨てたんだ」ですよ。そんでもってさらに終盤になってね、途方に暮れて懺悔をするようにつぶやく「ぼく迷子になっちゃった」ですよ。いつも迷子になったプーさんを探しては連れ帰る、森の英雄だったショタロビンが、社会人になって人生の迷子になっちゃったわけです。大事で大事で何よりも大事な娘を守るために頑張ってるはずなのに当の娘にがっかりさせて心配させて、もう何が正しいんだかよくわからなくなっちゃったわけですよ。大人になったクリストファー・ロビンにこそぬいぐるみのプーは必要なわけです。
つまり何がいいたいかって言うとクリストファー・ロビンが尊い。
抜けてるから補足
それで好きな限定SSRと交換できるだけ!200万円でカード1枚!
「iPhoneXに対応(横幅が伸びてちゃんと全画面になる)」と言っておきながら
今時このゲームを本気で良ゲーだと擁護しているのは頭お花畑の信者しかいない。
セルランでマウント取りたい奴が他コンテンツを煽ってヘイトばかり集める。
今まで愚痴垢に留まっていた不満が表垢でも出てくるようになった。
それを「雰囲気を悪くするな」と封殺する、ろくに真剣でもない脳天気な信者たち。
最悪の環境だよ。
どんな感じか知りたいならTwitterで調べてみて欲しい。
自殺する(自分の生命を自己決定で終了させる)のは自由権の一部だというのは同意するけれど、公共の福祉のために人権の一部が制止されることなんてよくあることだろ。そもそも、赤ちゃんがこの世に生まれるにあたって「あなたを産んでいいですか?」「はい」なんて意思確認がされたなんてケースを聞いたことが無い。社会の都合でこの世に産み落とされて、社会維持のために労働の義務を与えられて、生きているのが俺たちだよ。それに疑問を持ってテロリストにならないように、思想教育をしつつ適度に快楽や充足を得られるように社会は設計されてる。真夏日にビールを飲むとかね。
つまりは社会を維持するために個々人の自由を一定レベルで禁止しているんだよ。ただそれだけのことにすぎない。増田はサンクコストって脳天気に言うけれど、自殺を禁止して労働を強制すれば育成&教育の社会コストは失われないで済むわけで、自由化する理由にはなってないよね。自由化するにしたってもっと社会にダメージを与えない部分から、飴玉として自由化されていくわけだよ。
ブラ対策・・・非童貞をきどり「ブラも外しちゃおっか!」と優しく語りかけ、相手に外させる
ラブホ対策・・・非童貞をきどり「ラブホってシステムもマチマチじゃん?」と脳天気に話しかけ「へ~、このラブホ、こんな感じなのね!」と明るく振る舞う
「痛い!」対策・・・非童貞をきどり「めんごめんご」と優しく謝り、チュッとキスをして、ペッティングに再トライ。それでもだめなら、ミニぺぺを使う
早漏対策・・・非童貞をきどり「お前との相性が良すぎる~~~~!!」と絶叫し「ちょい休んで2回戦だ!」と明るく振る舞う
遅漏対策・・・非童貞をきどり「ふ~、お前が気持ちよかったら、俺はイケなくてもかまわない。一緒にいるだけで嬉しいんだ」と遠目タバコ
今時結婚ってしてもしなくてもいい風潮だけど、私に限っては結婚して世界がめちゃくちゃ変わったので、そっと吐き出していく。
元々、社会での生きづらさはやばかった。
学生時代は苛められるか無視されるかの安定ぼっち、うんと好意的な人が多いときには面白がってもらえたけど、でも自分が喋ると周りの空気が止まる感じはずっとあった。
皆が笑うタイミングで笑えないし、まともな受け答えも未だにわからん。
幸い勉強は人並みにできたし、まあヤンキーからは程遠いまじめちゃんなので、割と堅いところに就職できた。
家族の中でもちょっと浮いてはいたけど、一応家族として寛げる空間はあった。
社会人になって一人暮らしすると、もうなんていうか、コミュニティの中で浮いてるのを自分で受け止めるしかない。
やらかして、周りが優しくアハハーと笑ってくれても、でももう自分の中では羞恥と後悔でうわあああってなって、帰ってきたら真っ暗な部屋。
どこに出かけても、ちょっと薄笑いを浮かべて見られているような感覚。
それを笑い飛ばせない孤独。
早めに家庭を持たなきゃ死ぬと思った。
というか、ぶっちゃけ30までに結婚できなかったら本気で死のうと思ってた。
当時はまだ婚活って言葉は一般的じゃなかったけど、お見合いパーティーとか知人の紹介とか出会い系サイトとか使いまくった。
合コンもしたけど、浮きすぎて引き立て役にしかならなくて、集団の中で自分を魅力的に見せる能力がないことに気がついたので、途中からは一対一で話せるものだけに絞った。
それでも全然成果でなくて、親や周りからはいつ結婚すんの?従姉妹のなんとかちゃんもう子供いるのよ?ていうか彼氏くらいつくりなさいよアハハーみたいな脳天気えぐりプレッシャーを浴びつつ、なんかもう半泣きで婚活した。
7年に及ぶ婚活で、相手は唯一私と付き合うことにOKをくれた男性だった。
付き合うことになってからは非常に速やかに結婚することになって、今は子供もいる。
なんていうか、今までの珍獣扱いから、人間扱いに変わったとでも言えばいいのか。
配偶者がいて子育て中で働いてる、ただこれだけの属性で、すごくまともな人扱いをされるようになった。
何かと見下し発言の多かった先輩は接触してこなくなったし、彼氏自慢の電話がしつこかった同級生は音信不通になった。
でもって、なんかちゃんとした扱いをしてもらえるようになった。
いや、これは私の勘違いで思い込みなのかもしれないけど、例えば駅でぶつかられても、舌打ちじゃなくてスミマセン、とちゃんと言われたり、お店でお会計の間違いを指摘してもため息をつかれなくなった。
職場の飲み会でモテない変人として槍玉に挙げられることもなくなったし、同僚は子育て情報を教えてくれる。
なんか、なんかほんと、世界が優しくなった気がする。
私はそういう社会にいるのだと思う。
既婚で子供がいて、真面目に働いている、という属性は分かりやすく評価される世界。
その世界で、独身でもいい、一人で気高く生きていけるという潔さは、私の中のどこにもなかった。
夫に、どうして付き合ってくれたのか聞いてみたことがある。
コミュ障丸出しなのに、必死すぎてなんか放っておけなかった、ということだった。
とりあえず、死なずに済んで、今こうして生きていられて幸せだ。
だいぶ症状が軽くなってきたので増田に投稿するぐらいの元気はあるけど、かといって明日はどうなのかわからん
もうね、鬱病の症状って倦怠感&倦怠感に尽きるの
性格もわりかし脳天気で職場環境もそう悪くなかった俺でさえ鬱病を発症したんだから、みんなも油断しないほうがいいよ
会社にいるときは普通なんだけど、家に持って帰った仕事がとにかく片付かない
帰宅した途端にどっと疲れが襲ってきて頭も身体もやけに重ったるい
でも眠いかというとそうでもない
ちょうど30になったばかりだったから、「俺もそろそろ歳かな~アハハ」ぐらいにしか受け止めてなかったんだけど、日を追うごとに倦怠感は増す一方
ついには日中仕事するときもだいぶ気合を入れてやらないと身体も頭も動いてくれなくなった
休みの日なんかも、小説を読むのが好きだったのに字を追っても内容が全然頭に入ってこない
漫画を読むのもなんかつらい
かろうじてテレビは見てられるけどぼーっとしてるせいで内容がほとんど記憶に残らない
さすがにこりゃなんかおかしいなと感じて上司に減俸を受け入れるから仕事量減らしてくれませんかと申し出たら、まず病院に行ってみることを勧められた
最初に足を運んだ近所の内科ではいまいち原因不明で、そこで勧められたのが心療内科の受診だった
会社を辞めるつもりはなく幸い理解もしてもらえたので今はパート勤務にしてもらって働きながら治療中
だいぶ回復はしてきたけど、相変わらず倦怠感はあるし、頭の働きは鈍めだ。記憶力も落ちたまま
記憶力低下の原因はなんとなく自己分析できていて、とにかく無感動になってしまったのが大きいと思う
心が動くことが減ってしまったせいで、日々の出来事が印象に残らないのだ
ときおり心が麻痺したようになるときがあって、そういうときは頭の中がとにかく無で、あの瞬間なら目の前で親が死んでも何とも感じないだろうなと思えてしまう
今日は仕事が休みの日だったのだけど、ベランダの鉢植えを動かしたらそれだけでやけに疲れてしまった
※追記
性格的なものと一応働けてることもあって、心の病にありがちな不安感はあまりない。
あれもしたいこれもしたいと思ってはいるのだが