はてなキーワード: 確証とは
リアルでこんなことをつぶやいても誰も聞いてくれないし、真剣に語りすぎても異常者扱いされて終わるだけだろうから、ここで書かせてもらいたい。
モテないやつの負け惜しみ、みたいに思われることもあるだろうが、そう思われても仕方がないのは承知である。
ただ、あまりにも感情のやり場がなくてどうしようもないので、せめて吐き出させてもらえたらと思う。
タイトルにも書いたが、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうイベントを経験して一人前……みたいな風潮が本当に苦手だ。
そういう人たちはほんとに幸せそうにしているし、
何より「守るもの」ができたことによって、生活にもハリが出てきている……ような気がする。
ただ、私がその領域にたどり着けるかというと、そんなことは絶対にないだろうなと思う。
悲観でも卑屈でもなく、本気でそう思っている。
もう30年近く生きてきたが、今までまともな交際をした経験はない。
今まで生きてきてこんな調子だし、今更人間なんてそう大きく変わることもないだろう。
だから私は、このまま、残りの人生を独身で生きる覚悟をすでに決めている。
そうした思いを覆すような「運命の出会い」でもあれば気持ちは揺らぐかもしれないが、
そんな実現可能性があるかもわからない話に期待していても仕方がない。
……という話をすると、決まって、「まだ若いんだから諦めるなよ」みたいなありがた~いお言葉をいただくわけだが、
そもそも私は、自分に恋愛ということへの適性がないと思っている。
人間誰しも得手不得手があるというものだし、わざわざ苦手分野で勝負することもないだろう。
私の場合、その「不得手」にあたるのが恋愛だったと、それだけの話だ。
苦手なことで頑張ってもつらいだけだから、私は苦手なことである「恋愛」をしないという決断をしているのに、
それをなぜ周囲は「恋愛したほうが成長できる」とか押し付けてくるのか、理解に苦しむ。
というか、そもそも、恋愛とか結婚とか子育てとか、そういうのって「人として必ず経験しないといけないこと」なのか?
恋愛をすることの目的のひとつは、子供を作って次の世代を育てるということにあるだろう。
近年少子化だなんだと騒がれているが、子供を作って育てる人がいなくなれば、人口が減ってしまう。
だから私も最終的には子供を残して、次の世代につなげなければならないのだろう。
それは当然、建前としてはわかっている。
だが、「次の世代を残す」ということの重みを考えたことがあるか?
私は大して頭がいいわけでもなく、他人と比較して突出した能力があるわけでもない。
金だってそんなに持っているわけでもないし、仕事が忙しくて時間もあまり余裕があるとはいえない状態だ。
そんな私が、「子供」という「一人の人間」をこの世に生まれさせて、
一人前の人間として生涯かけて育ててやれるような気概があるだろうか?
健康な状態で生まれさせて、大病を患うこともなく、健康な生涯を送らせてやることができるだろうか?
そもそも、私が子供を残すこと自体が社会にとって有益なことになり得るのか?
一口に「子供を育てる」といっても、想定されるリスクがあまりにも大きすぎる。
とにかく、不確定要素が多すぎるのだ。
子供が「〇〇をしたい」と言ったときに、お金に余裕がないからと諦めてもらうことになるかもしれない。
子供が「やりたい」と言ったことは支持してやりたいが、それをかなえてやれるだけの力が、私にある保証がないのだ。
もちろんお金以外にも色々要因がある場合は出てくるかもしれないが、それもひっくるめて、私にはそれだけの力量がないと思う。
子供に不自由させたことで、子供に恨まれることだってあるだろう。
そんなとき、子供はこう思うはずだ。「こんな親のところに生まれたくなかった」と。
そんな状況でも、一度生まれてきた以上、生を全うしなければならない。
日本の平均寿命が約80歳らしいので、仮に80年生きると考えたとして、80年も「生きる」ことを強要されるのである。
この私が親であるというハンディキャップを背負いながら、80年。
どうせこの世に生を享けるなら、何一つ不自由なく暮らせる、いい家庭に生まれてほしいと思う。
ただ、私の作るような家庭では、そんな環境などできないのだ。
そのためには、私が出しゃばってはいけないのだ。
私のような不完全な人間が「親」になるということは、
ところが、「子供を残さなくても恋愛はできる」という考えもあるだろう。
運よく誰かと結ばれたとして、子供を作らずにそのまま家庭を築けばいいのかもしれない。そういう夫婦のありかただってあるだろう。
だが、私が恋愛をしようとすること自体が、そもそも私のエゴにすぎないものであると思っている以上、
私は特に裕福なわけでもなければ、大して仕事ができるわけでもない。
私が人間的に魅力がないのは、今まで30年近く、ろくに異性に相手にされなかった事実が物語っている。
そんな私が誰かを好きになったとして、その相手にアタックをしかけたとしよう。
その相手は、「私のような人間から好かれたこと」を喜んでくれるだろうか?
人から好意を持たれることは嬉しいかもしれないが、よりにもよってその相手が「私」なのである。
相手の立場から見たときに、「私」から好かれることが必ずしも嬉しいとは限らない。
ほかに魅力的な人物がいれば、そちらに流れてしまうのは自然なことだ。
運のいいことに、それでもなお、相手が私の好意を了承してくれたとする。
私は好きになった人と結ばれたことで、幸せで居られるかもしれない。
だが、相手は「私に"付き合わされている"」のであって、私の好意を押し付けられている状態だ。
そんな状態で、私のことをずっと好きでいてくれるような保証があるだろうか?
私に「付き合わされる」ことになった相手は、それで幸せなのか?
よく聞くありがたいお言葉に「恋愛すると人間的に成長できる」というものがある。
そのお言葉はある意味では正しいのかもしれないし、そういう意見は否定しない。
ただ、恋愛対象となる「相手」だって「一人の人間」なはずだが、
「恋愛すれば成長できる」のであれば、交際相手という存在は「自分が成長するための踏み台」に過ぎないのか?
恋愛や結婚なんて、自分だけでなく、相手の人生も大きく変えてしまう、大事なイベントだ。
大事なイベントだからこそ失敗は許されないし、合格点は当然100点満点だ。
そんな一大事なのに、「自分が成長したいから」という身勝手な思いだけで、
「私のような存在に人生を狂わされること」を考えたときに、相手からしたら良い気がするものではないだろう。
むしろ、私が好きになった人だからこそ、私のような存在が関わるべきでないとさえ思っている。
私が関わることで、相手を余計に不幸にさせてしまうのではないかと思う。
そもそも、「私が相手を幸せにしてやる」なんて思うこと自体が思い上がりも甚だしいのだ。
「相手の人生を変えることへの責任」を果たしきれる自信がないのだ。
もろもろのイベントに対して、それに伴う責任を果たせる自信がない。
仮に取り組んだとしても中途半端な結果になり、破滅して終わるだけだろう。
ことによっては賠償金とか慰謝料とか、そういう話も出てくるかもしれない。
自分も相手も、次の世代も守るためには、「私が恋愛をしないこと」が最適解になるのだ。
そうすれば、「幸せ」にはなれなくても、「不幸」は少なくとも避けられる。
こういう話をすると、「責任から逃げてるだけだ」とか「そういう責任を果たしてこそだ」とか言われるだろう。
「責任から逃げている」というのは否定しない。実際そうだと思う。
焦って準備も不完全なまま手を出したとして、それで付き合わされる相手や生まれてくる子供が不幸になるだけで、
私が恋愛をしたところで、相手や子供が不幸になる未来が目に見えている。
確かに恋愛や結婚や子育て自体は大変なことだと思うし、その重い責任を果たしている人は本当に立派だと思う。
それを「逃げ」だというならそれで構わない。それで不幸を再生産することのほうが、結果的には不利益だから。
確かに、「なんとかなる」こともあるだろう。
だが、「なんとかなってる」状態で過ごすことを強いられる、交際相手や子供のことはどうなる?
「なんとかなってる」というのは自分の勝手な思い込みであって、実際はそうではないのではないか?
責任が重いことである以上、100%の完成度が求められてしかるべき話だ。
そんなことが「なんとかなる」で許されていいわけがない。そんな状態で生きてても誰も幸せにならないじゃないか。
あと、「子育て世帯にやさしくない社会が悪い!」という論調もあるだろう。
もちろん、それも理由の一つではある。
だが、私はそもそも「子供を育てること」に適性がないと感じているので、
いくらそういう制度がしっかりしていようが、「子供を育てる」ということをする気がそもそもないのだ。
必要とする人への補償はしっかりされるべきだと思うので、その辺の整備はしっかりしていたほうがいいとは思うが、
それは私が「子供を作りたくない」と考えることとは無関係なのだ。
長々と書き連ねたが、まとめるとこうだ。
・私は「恋愛」やそれに付随するもろもろのことに適性がない
・私が下手に恋愛や子育てをしても、相手も子供も、自分さえも不幸にするだけ
それを「逃げ」とか「もったいない」とか言うなら、それはそれで構わない。
ただ、「お前も早く結婚しろよ」とか「子供がいると仕事もハリが出るぞ」みたいに言ってきて、
交際相手とか子供とかを「自分が成長するための道具」としか見ていないような、
そういう言い分にはすごく嫌悪感を覚えるし、腹が立って仕方がない。
私が恋愛とか結婚とか子育てとかをしたいと思ったとして、それはあくまで私のエゴにすぎず、
それに振り回される人たちのことを考えたときに、そんな自分勝手な真似は到底したいと思えない。
頼むから、私が「恋愛をしない」という決断を敢えてして実行していることについて、
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お読みくださってありがとうございます。
「恋愛」とか「結婚」とか、そういう「人生の大きなイベント」に対して、
ただ「自分が成長するための機会」みたいにしか捉えられていないような、
そんな風潮に嫌気がさしているので、日ごろの思いを書かせて頂きました。
なお、「恋愛する奴が憎い」みたいな話がしたいのではなくて、
恋愛とか子育てとかの責任をちゃんと果たされている方のことは、嫌味でも何でもなく本気で尊敬に値すると思っています。
あくまで「私には能力がないから恋愛したくない」という、私個人の話であって、
恋愛といった一連のことを経験できる方を馬鹿にしたりするような意図はございません。
以上です。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。
どうやら5chの言語板では推測を書いてはいけないというどう考えても科学の発展の妨げにしかならないような謎ルールが存在するので、以下、スレに書き込もうと思っていたことをまとめてここに書く。
性癖を性的な癖に言い替えられるような使い方で使っているのはネットかつオタクの文化圏に集中していることは疑いようがないことだと思う。
まずツイッターのbioがそうだ。
これを言ったらツイッターのbioとオタクがどう結び付くのか分からないし視野狭窄としか思えないって言われたけど。
なので他にも例をあげていこう。
cmで有名なシーモアやめちゃコミやrentaよりも蔵書が多い電子書籍サイトだ
・性癖が暴かれる!? 新感覚オフィスラブ!(中略)彼女のヒミツは…「アレ」に人一倍興味があること・・・!?
・性癖ヤバめなオトコに狙われました。
・彼の性癖は歪んでる。~聖母系エリートの悪魔的とろとろ溺愛セックス~
・ひなこは今夜も鷹臣先生を困らせたい おしどり夫婦のナイショの性癖
全て性癖を「性的な癖」と置き換えても成立する文脈で使われている
1000件以上ヒットしたが5件連続でこうなのだから漠然と有意性が感じられるとは思う
全部検証するのは大変骨が折れるので興味がある人がすればいい
また似たような引用方法をしてもくどい感じもするので検索結果のリンクだけ貼っておく
https://www.pixiv.net/tags/%E6%80%A7%E7%99%96/novels
なんか最初のあたりで中国語のものが目立つが、日本語の作品ではやはりそういう性癖の使い方が目立つと思う
・
以下ではなぜこのような性癖の使い方が行われるようになったか推測、かっこよくいえば仮説を書く。
「○○をする性癖がある」があるというのは、一部の国語教師面をした人間からのウザ絡みを避けられるという意味でより無難な書き方をするなら「○○をするのが好き」と言い替えられるだろう。
しかし単に「○○がすき」みたいにというふうに書くとなんか締まりがない感じがしなくはないか?
なんというか名詞の性癖を使うのと比べるとバシッと決まらない感じがするというか、読み手を想定してみればそういった文章は漫然と左から右へと意味内容が流れていくばかりその読み手の頭からするっと抜けてしまうような感じが俺はする。
それに比べて「性癖がある」というのは名詞的な表現だ。その言葉の前で受けている性癖の内容をバシっと捉えて概念化している。
概念化は名詞の効用だと思う。動詞で終わる文章が単に事実や考えを伝えるのに比べると、文章全体ではなく、一つ名詞に読み手の意識が集中される。
名詞が記憶のとっかかりにもなる。そういう意味でも読み手の頭により強く残る。
以前私は「漫画の魅力ってそれが二次元とメタファーされるように」という文を書いて、ここで「そんなメタファーの使い方はしない」というふうに言われた。
しかしこうやって指摘するぐらいの人間はその言わんとすることが伝わっているからこそ、その意味と用法がずれているということに気付けることが指摘の動機となっているはずなのだ。
完璧に正しい用法かの確証はないがおぼろげに自分の伝えたいことにかすっている程度ぐらいの可能性でも感じるなら、少し小難しくてもそういった名詞や特に術語を使うほうが、読み手は「あああのことが言いたいのね」となるのだと思う。
性癖も本来は単に癖と言うのをより生硬にした表現だ。そういう日常的にあまり使われてなかった言葉をあえて使う場合、日常的に使われる言葉が多種多様な場面で使われるためにぱっと読み手の目に入って来てもその言葉だけでは文脈が絞り切れないという意味ではニュートラルに認識されるのに比べれば、そういう言葉は特定のミームというか匂いを帯びやすい。
「性癖」の意味をひとたびずらして「性的な癖」という文脈で使うようになると、もうそういうミームで固定される。
だからそういうミームを共有し合う人間にとっては性癖という言葉を出すだけで、みなまで言わなくても何が言いたいのかなんとなくわかるというか、そういう読解の省エネ的な効果が認められるのだと思う。
とにかく、単に何々が好きというのが読み手に「なんの意味で好きなんだろう」とその実態のより詳しい限定化を課す、すなわちボトムアップ式の理解を課すものだとすれば、性癖と概念で言ってしまえばトップダウン式に何が言いたいのか理解されるという点が便利なのだ。その代償として国語教師面した人間に噛みつかれるリスクを負い得るだけで。
俺がメタファーという言葉を使ったのもそういう効果を狙ったものだ。そもそもメタファー以外に自分の伝えたいことにあてはまる表現が見当たらないって理由も大きかったはずだけども。
(アスペは会話をあまりせず書き言葉が友達だから難しい言葉と思われているもののほうがアスペにとっては身近というのはアスペの悪い癖だ。もちろん俺の「メタファー」は他の定型から見れば理解の浅いずれた使い方なのかもしれないけど、俺にとってはメタファーが理解度という点で使うべき一番ましな言葉だったのだ。そもそも言葉の難しさとは何なのか。たかがカタカナご文字の言葉の難しさをどう規定できるというのか。正も凸も小学生で習う同じぐらいの画数の漢字だが習う時期が全く違う。俺はこれにも納得できないがそれは上記のことに通じる話だと思う。凸が身近な人間にとっては普通の人にとっては正の方がやさしい漢字に思えても、その人にとっては凸の方がやさしいのだ。)
名詞は特技、趣味、性癖というように表とかの項目にするにも都合がいい。
これが一つだけ「性的に好きなこと」とかだったら統一感もない。
角川類語新辞典には「手癖」「尻癖」「酒癖」と○癖という言葉がたくさん載っている。
癖をへきと音読みする言葉は実はそんなに多くないが、それでも日本語、いや日本人の伝統として○+癖という造語法で言葉を作っていく造語意識が背後にあることを伺うことはできる。
基本的に癖の内容を象徴し得るような漢字+癖という組み合わせて作られていることは明らかだ。
酒癖はそのままだし、尻癖は失禁する癖のことで、その現象が起こる場所を示す漢字を使っているという点でちょっとひねっているが、根本はおなじだ。
そんなわけで、もとの性癖は性も癖も似たような意味で使っている漢字を組み合わせた熟語だけども、それとは独立して性的な癖という意味での、酒癖等と同列な「性癖」が今作られるようになっていったとしても、日本人の背後にはそうおう造語意識がずっとあったわけだから、何もおかしくないわけだ。
つまり、両国には地名と両者の国という二つの意味が考えられるがこれらは辞書では別の言葉として別別に立項されているように、あの性癖とこの性癖も辞書で別扱いするべきぐらいに全く別物の言葉なのだというのが私の仮説だ。
よって性癖を性的な癖と言い替えられる文脈で使ったときに「誤用だ」とかいうのは全くずれていて、単なるシノニムとしての衝突に翻弄されているだけなのである。
日本語だとちょっと突拍子なく感じる意見かもしれないが、英語ではスペリングが同じで別の概念として複数立項されている言葉は何も珍しくない(無学かつ個別の事例を覚えてられるほど記憶力よくないので例はあげられないけども)。
それなりに真面目に生きてきた、と思う
融通が効かない性格と言えるかもしれない
小中高と「将来のために、将来楽に暮らせるように、今努力しよう」と頑張ってきた
だけど、志望した学部には入れなかった
それでも、堅実に生きていこうと大学に進学した
大学にはさまざまな人がいた
みんなすごく楽しそうに生きていた
そんな人たちと関わっていくうちに、私はふと気づいてしまった
「将来のために将来のためにって、いつまで努力しなきゃならないの?」って
やりたいことも遊びたい気持ちも抑えて努力してきたけど、結局夢は破れてしまったし
「将来のために」といって今を犠牲にすることに、どれだけの価値があるのか、私には分からなくなってしまった
極め付けはクラスメイトの死だった
私が大学に入ってしばらくした後、高校のクラスメイトが亡くなった
私よりも真面目で能力があって、周りからの人望がある可愛い女の子だった
なんかそれで、どうでも良くなってしまった
報われる確証なんてないのに
今やりたいことを我慢してまで「将来のために」と頑張ることが出来なくなった
社会人になった今は、ほどほどに生きてる
無理のない範囲で、ほどほどに
多分、子供の頃の私が見たら、めちゃくちゃ怒ると思う
「こんなのになるために頑張ってるんじゃない!」って
【前編】
https://anond.hatelabo.jp/20220502223251
次は、私が現場で直接に『畜生』と対峙した際の経験だ。「マジでクソだな」の2つ目になる。
あるアニメの記念すべき回の収録(製作委員会の各社代表が参加。弊社からは私)が終わった後、スタジオの待合室で出版社の人と雑談をしていた。この後で飲み会をする約束を取り付けてから、私が座椅子を立ってトイレに向かう途中の廊下で、それは起こっていた。
男性声優(以下「男」とする。声優と呼ぶだけの価値はない)が、違う事務所の女性声優の手首を掴んで言い寄っていた。男は、自動販売機の近くの壁に女性を押し付けるようにして口説いていた。ご飯に行こうよ、とのこと。女性に逃げ場はないし、顔も近かった。女の敵は権力者だけではない。あらゆる状況において存在する。
私は距離を取って観察していた。考えが誤っている可能性があるからだ。しかし、やはり女性は嫌がっている。顔はこわばり、体は斜めを向いて男と視線を合わせないようにしている。それを確かめて私は、ぐいぐいと2人の方に歩いて行って、声をかけた。
「ちょっといいですか。この子は嫌がってるみたいです。やめた方がいいと思うのですが」
「あ?いやいや……おかしいやろ」
歯切れの悪い言葉とともに男は黙った。お互いに顔は知っているが、話したことはなかった。
返答を待っていると、男が「こっちのことなんで。うちら同士のことなんで関係ないでしょ」と、女性声優を連れて移動しようとした。
私の記憶では、「待て!」と叫んでいる。左手で男を制したはずだ。
「やめろと言ったろ。私がどういう立場の人間かわかってるよな?」
そう言って睨みつけると、男はまた黙った。
「今回に限っては、この子の事務所に報告するだけで済ませる。あなたの事務所には話さない。その子の手を離して、もう帰ってくれ」と彼のための逃げ場を用意したのだが、それでも手を離さなかった。
目いっぱいまで男に近付いて、額の辺りを睨みつけた。「帰れ」とだけ告げて、それでまた男の目を見続けた。
すると、男が女性の手を放した。舌打ちをして玄関の方に移動していった。収録の時は大人しい印象を受けたが、こんな人間だとは思わなかった。
女性を見ると、真下を向いていた。鼻をすする音が聞こえる。顔は前髪で見えなかった。
「マネージャーに報告しないとだめだよ。難しかったら、私が一緒に行ってあげるから」と言うと、「ありがとうございます」とだけ返ってきた。そういうわけで、その場は事なきを得た。
飲み会前のトイレに行った後、出版社の人とスタジオを出る時、その子がマネージャーと一緒にいるのと確認して安堵したのを覚えている。
それで、入口の自動ドアを通り過ぎたところで、ある理由でマネージャーに呼び止められた。以後数か月の間、さっきの声優の子と色々あったのだが……これは別の物語、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
まずは以下のサイトを紹介する。エンタメ作品をレビューするためのサイトだ。
1回で読み切れる量ではないため、後でまとめて読まれるのを推奨する。
https://sakuhindb.com/janime/7_DOKIDOKI_21_20PRECURE/
https://sakuhindb.com/janime/7_Star_20Twinkle_20Pricure/
概要を説明すると、前者はプリキュア暗黒期(2011~2015頃。男児向け作品の出身者がプロデューサーだったのに起因するらしい。確証はない)と呼ばれる作品のひとつだ。後者については、「東映アニメーションが若手女性プロデューサーを大抜擢!」というアニメ雑誌の記事が記憶に残っている。
上のサイト(作品データベース)では、プリキュアシリーズにおいて「非常の悪い」の評価数が多いものがたまに現れる。
ネタバレを回避しながらコメントを紹介していく。『ドキドキ!プリキュア』だと、「主人公が実は一番自己中」「パロディが多く、児童向けとしてふざけている」「赤ん坊になんてことを」といった【作品の感想】を見つけた。
同じく、『スター☆トゥインクルプリキュア』だと、「主人公の声が無理」「追加メンバーの扱いが悪すぎる」「最後のあたりでメインテーマである多様性を否定」といった【作品の感想】があった。ここまではいい。批判というのはあってしかるべきだ。
稀にではあるが、質的に異なる評価やコメントがある。スタッフを誹謗中傷することが目的であり、作品の内容は二の次、三の次といった次元のレビューを見かけることがある。プロデューサーの経歴にやたらと詳しく、シリーズ構成や脚本家が過去にどんなシナリオを作ってきたかを把握している。業界用語もポンポン飛び出す。
こういったレビューは言うまでもない。アニメ業界内部の人間が書いている。「なぜ私じゃなくて、あいつが評価を受けるんだ。なぜあいつが表舞台に立っているんだ!?」という至ってシンプルな理由――妬みや嫉みである。
彼ら彼女らは、特定個人をこき下ろす目的で公共の場にコメントを書き込んでいる。製作スタッフしか知らない内容や、業界人でないと考察できないレベルの内容がつらつらと並んでいるのを見ると、慙愧に堪えない思いをすることがあった。
嫉妬なのだろう。他人が成功することで自らの地位が低下するという思考に由来して、こういった行動が起きる。彼らは悲しい存在だ。他人を蔑んでいる時点で、相手が自分より優れていることを認めている。このように仲間を大事にできない者は組織も大事にしないし、自分すら大事にできないことが多い。
これとは逆に、相手を賞賛するというのは、事実を客観的に把握したうえで仲間を尊重する行為だ。自分=相手=組織、という感覚があるから相手を自然に認め、褒め称えることができる。仲間が成長して賞賛を受けると自分も気持ちいい。そういう原理が働いている。
特に、健全で安定した自尊心(自分に価値があるという意識。誇り。自分は影響力のある、重要な存在だという感覚)をもてるかどうかは、りっぱな価値ある仕事を自己の内部に取りこみ、自己の一部にできるかどうかにかかっている。
完全なる経営(2001/11/30) アブラハム・マズロー (著), 大川 修二 (翻訳) P.25
人間は、精神的に未発達な時期がある。少年期~青年期は特にそうだ。自分はすごいと思いたがり、他人はすごくないと思いたがる。常に上に立っていたい。だが、精神が成長すると、人間を比較することに大した意味はないことがわかる。
エンタメ業界の問題点は、精神的に未発達な人間が多すぎることにある。そういうわけで、公共のインターネット掲示板で、同じ会社の仲間を糾弾するといった行動で鬱憤を晴らそうとする。嘆かわしいとは思うが、あくまで当人の課題であり、私にはどうすることもできない。当人が成長することでしか解決しない。
アニメ業界で活躍していきたいと考える人が、有象無象に足を引っ張られない未来を願っている。私には、そういった人間を相手にし続けてなお、作品作りへの情熱を燃やすだけの『好き』がなかった。
だから、この業界を辞めた。心が限界で、いつしかアニメが好きではなくなっていた。
だから、残業が少ない仕事を選んだ。今はしみじみと会社員兼農家として生きている。
以上でこの日記は終わりだ。一万字もお付き合いいただきありがとう。デリヘルの人ではないから安心してほしい笑
これまで、私を育ててくれた業界に感謝を述べたい。楽しかったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、憎しみを覚えたことも、とにかく多くの経験を与えてくれた。
私はこの業界から去って、田舎で暮らすことを選んだ。けれど、業界に残ったあなた達が、今でも人の心を動かせるだけのコンテンツを作り続けているのを知っている。
最後に、大人の男性向けに春アニメを紹介する。今は5月なので5本を挙げる。
それぞれ400字以内になるよう心がける。順番に意味はない。思いついたものからだ。
放送前は「まだ0話だけど切るわ」という意見がちらほらと散見された。今では覇権枠候補として認識されている。
これ子ども向けだよね?と思っているのなら、はっきりいって違うので、ぜひ3話まで視聴してほしい。音楽好きにはお勧めだ。
作品全体として優れている。P.A.WORKSらしい安定した作風である。
コンセプトも、脚本も、演出も、作画も、キャラクターもすべてが及第点以上だ。
孔明の英子への愛情が見て取れる。彼女の歌を1人でも多くの人間に、世界に届けるために奮戦する姿に胸を打たれる。
2. ダンス・ダンス・ダンスール
バレエが題材だ。
こういう独自性のあるアニメは、面白いかつまらないかの二極になりがちだ。当作品は、もちろん前者である。
作画はかなりOK。人間が動いている感じがするだけでなく、その実際の動きを見ている者がどう視覚するかまで含めて画を描いている。
そういう描写が1話からビュンビュンと飛び出してきて、まさに圧巻だった。
シナリオもいい。作者がどれだけ等身大の中学生を描いているかを垣間見ることができた。リアルだ。あまりにもリアル。あー、昔はこんなんだったな、と感じてしまう。
課金して原作を読んでみたけど、やっぱり原作者(ジョージ朝倉)の実力が違う。レベルが違うとはこのことだ。
スタッフが本気で作っていると断言できる。というか、今季アニメは当たりが多すぎる。最終回まで残り2ヵ月もある。楽しみだ。
これが好きな人は、『ボールルームへようこそ』も楽しめる。
3. であいもん
こういうのでいいんだよ。こういうので。
4. SPY×FAMILY
覇権枠だ。
製作委員会がそれぞれ大量の資金とスタッフを出し合い、平均的なアニメの実に3~5倍以上の予算と時間を使って最高のものを作り上げる。これは、そういう類のコンテンツだ。
WIT STUDIOとCloverWorksの共同作品になる。
(「進撃の巨人」と「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない」の制作会社)
原作者は長年漫画家として活躍しており、ベテランの域に入りつつある。
この『SPY×FAMILY』の漫画原作の序盤は、無理やり感のある脚本運びだ。
あまりにこじつけ的な舞台設定や、シナリオや、キャラの言動が見受けられる。それらは間違いない事実だ。
だが、中盤以降はキャラクターがどんどん生きてくる。
ネタバレはしない主義なので伏せるが、尻上がり的にどんどん面白くなっていく。
このアニメを見続ける価値はある。最初の方だけ我慢すれば、きっと楽しめるようになるだろう。今後の展開をお楽しみに。
ニコ動出身のクリエイターユニット『HoneyWorks』の楽曲のスピンオフアニメ。
ハニワというと、やはり「女性向け」を想起する人がおられるだろう。
これは、男性も楽しめる作りになっている。ハニワは女性メンバーが主体だが、男性も一緒になって創っている。安心してほしい。
主人公はいい子だ。ドジなところにも明るさがあって、人生への本気度があって、好感が持てる。
私が好きな社会心理の本に、「男性はカタログとシチュエーションに萌え、女性は物語と関係性に萌える」という文言がある。
まず、女性向けという観点でいうと上の相関関係は合格点を超えている。細かくは述べないが、人間関係は大変濃いうえに、ドロドロすることもある。
男性向けという観点からは、「シチュエーション」を挙げよう。第3話のMV撮影回において、とある胸糞描写がある。終わりの方で、まさに倍返しとばかりの展開があるのだが、これがまた爽快だった。この回で全話視聴しようと決意した。芹澤優の演技がバッチリはまっていた……。
確証のある話ではなくて、違和感の累積でそう感じるというだけの話なのだけど。
生まれつきの性別は男。恋愛対象は女性。結婚もして子供も二人いる。
普段女装に憧れたりということもなく、外から見ればどう見ても一般的な男性だと思う。
だけど、昔から恋愛観について他の男性と一致するようなことがまずなくて、それがずっともやもやしていた。
女装に憧れたことはないけど、女性的でいたいと憧れたことはある。
それが原因で男性恐怖症になり、同性愛について過敏に反応してしまうようになった。
もしそれがなければ、恋愛対象は男性だったかもしれないと考えることがなくもない。
決定的な理由があるわけではないのでそれ以外にも違和感の累積でしかないのだけど、その一つとしてセックスのときに射精が一番の目的ではないことが他の男性と違うのではないかということに気づいた。
相手が満足したと感じるとそれで心が幸福感で満たされて、たとえ射精前だとしてもそれ以上続けたいという気持ちがなくなってしまうのだ。
そもそも自分がどうというより相手に気持ちよくなって欲しい気持ちが常に勝っている。セックスの動機自体が、相手を気持ちよくさせたいという衝動から来ている。
もちろん自分は女性ではないので、それが女性的かどうかなんてわかりようがないのだが、少なくとも自分が見聞きしている限りでは一般的な男性のセックス観ではないように思えた。
結果として自分はそうではないかもしれないけど、世の中には見た目男性で恋愛対象も女性、性自認も男性なのに実はトランスジェンダーの同性愛者だということに気づかずに、周囲との違和感に苦しんでいる人がいるのではないだろうか。
少なくとも、自分はそうかもしれないという可能性に気づいただけで、他の男性との性に対する価値観や考え方の、断絶に近い違いに対して自分を責めることがなくなってとても楽になった。
そもそも論として、トロッコ問題のような状況って現実にありえるのか?
いや、倫理上の問題を扱うためのモデルってのはわかってるんだ。
ただ、現実的に第3の答えか、金か妥協かで解決できるんじゃなかろうか?
実在しないシチュエーションなら、答えを出すことに意味はないだろう?
トロッコ問題って実際にあるとしたらどんな状況よ?
なるほどな、みんなマジメにありがとうな。
まず大喜利うんぬんなんだけど、俺は技術者だからどうしてもそういう目で見てしまうんよ。でも逆にフェルマーの最終定理も数学だけじゃ解けなかったし、これがAIの問題というのであれば俺は自爆装置に類するモノを搭載して解決もありだと思う。逆説的だけど問題の解法をひとつの学問に限定するのは危険って考えてしまう。だからこそ、コレが杞憂でなくてマジ問題なんだって確証が得たかったんだ。
イジメを例にしてくれたけど、それもある意味金や権力で解決出来なくはないとも取れなくはないしね…弁護士引き連れて札束で全員殴れば解決できるよね?
津波とかボートのやつも見聞きしたけど、なんというか、どちらを選んでも後悔ってのが違うようで…?
自分勝手でスマンのだが、トロッコ問題が含んでいる一人殺すしか無かったって結論出すのが早すぎるってのが気に食わなかったんよ。
それがトロッコ問題2番目の能動的に誰か殺せば5人助かるって設問につながるとはいえさ。
せっかく書いてくれたのに申し訳ない。
ただ、トリアージはハッとさせられた。
今まで原因の方をどんな汚い手を使っても排除すればいいと思ってたけど、限られたリソースで何人救うかっていうのは確かに限界がある。例えば止血テープが5枚あって、1箇所刺された人5人と5箇所刺された人1人で、全員ほっとけば失血死は現実にありそう。
すごく例えが悪いけど、2問目も1人殺して5人に輸血すれば助かるという状況なら理論的にはありえる。(人間的にタブーだが)
今回は色々考えさせられました。
みんな改めてありがとうございました。
増田でも掲示板でもtwitterでも露骨な釣り投稿(嘘松ってそういえばもう死語ですね)を目にしますが、そういうことやる人たちが何故そんなことをしているのか興味があった。あと私の方がもっと上手くやれるんじゃないかと思っていたので、本当に上手くできるか試してみたかった。
投稿を特定されるのが嫌なので具体的には書きませんが、10個ほど各所に分散させつつ釣り投稿をしてみた。
その内ボヤ程度に燃えたのが2件、まあまあ燃えたのが1件でした。
こちらの騙そうとしたポイントや燃えるだろうなと想定したポイントで素直に騙されたり怒ったりする人がものすごく多かったです。
たまに全然内容読めてない人が頓珍漢なこと言ってくるけど、だいたいの人は釣り針に引っかかる。
ごく少数、まともに読んで釣りだと見抜いてくる人がいて、やっぱりわかるんだなあと思いました。
騙そうとしたとおりに騙される人がバカなことを言っているのはけっこう気持ちよかったです。なるほどこれが動機なのかなと。
釣り投稿なので私のパーソナリティは乗っておらず架空の別人格の発言なんですけど、その架空人格まで含めて私の作品、つまり私の一部であり、その架空人格が罵倒されると意外なまでに私自身の心が痛みました。もう釣り投稿はコリゴリです。継続してやれてる人ってやっぱり人としておかしいと思います。
騙そうとするポイント、燃やそうとするポイントを意識していたせいか、ちょっとした言葉の選択や言い回しで釣り投稿が見分けられるようになりました。いや全部を見分けている確証はないですが、かなり高精度で見分けられている自信があります。
もう二度とやりません。