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はてなキーワード: 本質とは

2024-08-27

anond:20240827195203

これこれ。

性の話になった途端フェミって頭が知的障害レベルになるやつ

ビザ不法就労って問題本質から目を背けて買春が悪い だから全ての問題は男のせいって責任転嫁すればオッケーと思い込めちゃう1bit脳なとこ

買春違法売春無罪だってその国が定義してるなら好きにしろって話でしかないんだけど、

それと独立してる不法就労現実問題責任転嫁できると思い込んでる

anond:20240826214121

これは妻が100%悪い。

ブコメもリプも全員わかってない。

妻は自分不都合な真実を色々隠している。

問題本質エアコンの設定温度だ。今から解説する。

夫の気持ちを考える一番のヒントとなるセリフは、実は飯の熱さじゃない。

LINE

涼しいところで」

だ。

そう、増田の家は夫にとって暑いのだ。帰ってきても全然快適じゃないのだ。

献立を見る限り健康志向で、一日中在宅テレワークの妻なのだ

エアコンの設定温度が低いはずがない。

夫は暑がりなのだエアコンキンキンに冷えててほしいはずだが、

家はむしろ普通温度設定より暑いはずだ(おそらく27~28℃)

夫は気を使って妻に合わせているのだ、完全に。

何より、空間が冷えてれば熱い料理はそんなに不快ではないのだ。


第二に「あせも」だ。

よく考えろ、一番あせもができるタイミングはいつだ?

寝てる時だ。夫は毎日毎日不快暑い家で寝汗をかいて寝ているのだ。

起きている間はいくら大汗をかこうと拭くなり着替えるなり対策はいくらでもできるのだ。

そして妻は、夫があせもができてるのに、まだエアコン温度を下げないのだ。

夫はなぜ帰らずにホテルに泊まったのか?

号泣した気恥ずかしさもあっただろうが、

夫は何よりキンキン涼しい部屋で寝たかったのだ。

間違いない。妻を気づかえる優しい夫なのだ、怒りが持続するはずないのだ。


こんな気象のせいにする自分本位の妻には一生わからないだろう。

暑がりにとって、エアコンの設定温度死活問題なのだ

世の中は、強冷房派と弱冷房派はなぜか、

必ず問答無用で弱冷房派が勝つようになっているが、冗談じゃない。

暑がりは暑いのをただ我慢してるだけなのだ

寒がりは寒いのを我慢しないのに。


そんなように妻はエアコンの設定温度について全く譲歩しなかったうえに、

夕飯で熱いものを出しやがったのだ。

だって号泣するよ、自分が情けなくて。

夫の気持ちはこうだよ。

お前、俺が暑がりで、あせもができても我慢してるの知ってるよな?

それでもエアコン温度はお前に合わせてるよな?

それでもお前は、こんなエアコンが効いてない部屋で、冬に食うようなものを俺に出すのか?

お前、俺の気持ちなんか全く大切にする気ないよな?

念の為いっておくが「そもそも飯作ってくれるだけありがたがれ」派は去れ。

なぜなら増田自身がそれを問題にしてない以上、それは個別問題しかないのだ)


そりゃー爆発するよ、なあ増田

お前、ほんとはわかってるよな。

「本当に」自分が悪いって。

でもお前は頭がいいから、

巧妙に自分に対する同情ラインを残す書き方をしたよな、なあ?


「夏が暑いのが悪い」?

事情を鑑みれば「太陽が眩しかたから人を殺した」レベル関係ない言い訳だよ。

笑っちゃったよ。

お前、週の半分はエアコンの設定温度20℃にして、自分は長袖着て毛布かけて暮らせよ。

それが夫婦負担として平等だろ?

anond:20240827072857

こうやって聞きかじりのアホが自分でも知ったかぶって雑に語ってネットミーム化するという

「雑に扱われることに当事者が何もできない構造」こそ差別本質だね。

かつてオタクロリコン犯罪者という扱いを当のオタクが半ば諦めて受け入れていたみたいに

2024-08-26

会話が面白くない男性女性からの関心がゼロになりがち

関心というのは恋愛感情以外も含んだもの

 

俺は会話が面白くない自覚がある。

基本ローテンションだし他の人にあまり関心がないので、スキルとしての会話はできるが盛り上がったりはかなりしにくい。

 

コミュ障自覚もある。というか、実際もともとすごいコミュ障だった。

今は周りからそんな評価をもらうことはまったくないし、むしろコミュニケーションがしっかり取れると言ってもらえるが、今も本質は変わってないと思ってる。

あとしっかりコミュニケーション取れるのと、面白コミュニケーションが取れるとかは別だし…。

 

そんな自分だが見た目は割りといいほうらしく、社会人になってからファッションも好きになって恋愛経験豊富学生時代は上位カーストのように見えるようだ。

職場も完全カジュアルアクセサリーだって自由からプライベートビジネスに関わらずそう見られるようになった。

でもな、もともとクラスの端っこで本を読むような陰キャだったんだよ。

 

新しいコミュニティに入ると、女性から結構キラキラした視線が飛んでくる。

視線には敏感なほうではあるんだ。

素敵な人かな?仲良くなったらどんな感じなのかな?みたいな視線だ。

これを数ヶ月〜半年ほど維持できたら、むこうが好きになってくれるんだと思う。

学生時代からモテる友人も多いかたから、そうなってるのをいっぱい見てきた。

 

でもなあ、残念ながら素敵な人間ではないんだ。

仲良くなってもそんな変わらないし、むしろ無口になったりもする。

人にそこまで関心がないから優しさ的にも微妙だろうし。

ローテンションだし返しもうまくないか相手も喋りやすいわけでもない。

 

そのうち、特に女性は、自分に関心がなくなっていく。

視線が明らかに変わるんだ。

話を振っても反応がタンパクになっていったり、話を振られる頻度が減ったり。

 

コミュニケーション力が高かったり人柄がすごく良かったりすれば、好感度時間に比して上がっていき、つまらない話でも反応よく聞いてもらえる。

好循環だ。

 

逆に好感度を上げていけない人は時間に比して評価が下がっていき、相手の関心のある話や面白い話をしてもつまらない話をしたときと同じ感じになる。

悪循環だ。これが俺。

 

女性の全員がそうとは言わないが、大部分はこんな感じだと思う。

 

一方で男性は話がつまらなくても結構相手をしてくれる。

男性は許容幅が広いように思う。同性だからか?

 

あと、女性男性に楽しませてもらおうという姿勢が強い感じを受ける。

相手に楽しんでもらう、喜んでもらうみたいなホスピタリティは、コミュニケーションにおいては基本的男性のもののような気がしているんだ。

 

そういうホスピタリティ、俺は殆どないや。

特に会話はすごく好きな相手でも厳しいなあ。

2024-08-25

フラッシュバックを供養する

山梨国立小に通っていた

午後に体育の授業があった

私は直前で体操着を忘れたことに気づき保健室で借りてから遅れてグラウンドへ向かった

グラウンドでは、生徒たちが体育座りで集合、先生説明を受けているところだった

ハードル走の授業だった

私も座ろうとしたら、先生

「今から◯◯さんに、ハードルのお手本を見せてもらいます」と言い出して

わたしびっくり

遅れた罰、という意味合いもあったのか

私はハードルを何本も倒しながら、のろのろ、みっともないフォームで50mを走り切った

元々運動に自信はなかった

走り終えたあとの先生苦笑いと、生徒たちの微妙な表情

はい拍手!の掛け声

今思えばこんなにみじめな拍手もないだろ

のしょーもない出来事が、記憶の底からフラッシュバックしてしまった

遅れてすいませーん!って明るく言えばよかったのかな?てへへ失敗しちゃった、、って愛嬌が発達してたら良かったな

から暗い人間で、世渡りが下手だった。発達障害の気はあるのかも

今は身なりを綺麗にして、明るい振る舞いも多少できるようになったし、

運良くそこそこの会社に勤めることができた

でも表面を整えたところで、私の本質はあの頃から変わっていないと感じる

小学校中学校もしんどかった

のびのび通いたかったな

すべての子どもが健やかに幸せでありますようにと願う

anond:20240825135042

なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動実態がないもの運動責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。

「問い直してない」論法は、レッテル貼りに使いやすい。

ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメ作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)

須藤にわか氏が作品擁護する姿勢理解できる。

この部分は論理的に接合しておらず困惑した。

運動実態がない云々はにわかや増田独自理解だよね?北村氏が言っていないことを問い直してもそれこそ意味がないと思うが。

「問い直す」の意味は、運動に対してではなく、単に作品単体として見た際に監督が「問い直す」対象から男性白人中心主義が抜け落ちているということでは?

かつ、男性白人中心主義が「問い直す」対象から抜け落ちているのは事実であるし、多数の先行研究でもそれを指摘されているのに、それらを素人批評根拠もなく断じているお前はどこの大先生なの?レッテル貼りとまで言うのならその論拠を示してほしい。

北村紗衣と須藤にわか論点はずれているが、共通問題あぶり出している

太田出版Webマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。

私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。

発端となった元連載の内容

まず連載の企画趣旨は以下の通り

映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載

北村紗衣氏の主な論点は以下の通り

①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった

自分アメリカン・ニュー・シネマが好きではない

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった

④ニュー・ハリウッド反体制的な要素と、あからさまな暴力セックス表現が主な特徴として挙げられる

アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流

⑥『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画

北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨みえる。

須藤にわか氏の異議

これに対して、須藤にわか氏の主張は以下の通り。

①「あからさまな暴力セックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている

アメリカン・ニューシネマフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー

アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない

④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える

⑤ニューシネマは「暴力セックス」の映画ではない

⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー

⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評カテゴリー自体差別的

北村氏の反論

須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかやすくまとまっている

①New Hollywoodの特徴のひとつセックス暴力があげられるのは当たり前

②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている

③広く使われているジャンル用語勝手に変更しない

論点のズレ

須藤にわか氏の明確な誤り

須藤にわか氏は

例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリー自分で見て「このカテゴリーには黒人映画女性主人公映画が入ってないか差別的」だと言っている

と述べているが、これは明らかに違っていて、

北村氏がいうように、

決めたのは私じゃなくて今までの批評

まり北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ

ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズのものに反発している。

北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張であるそもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的カテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しか知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である

(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)

さらなる食い違い

須藤氏は北村氏の姿勢について、

「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。

と言っており、

北村氏は

「(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー」なんだから批判されて当然ですよね?

という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象範囲が違うようだ。

須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーのものであると同時に、カテゴリーに含まれ作品群も含まれると私は解釈した。

須藤にわか氏の論の本質と、北村紗衣氏の指摘

須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。

60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力セックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。

そのくせに、結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ。

これに対して須藤氏は、

だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動実態がないもの運動責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。

アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評カテゴリー自体差別的

この点、北村氏も、

>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性主人公にした物語代表作として受容され、研究白人男性監督だけを対象としてきたこはいたるところで指摘されています<<

と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があることは認識しているように見える。

まり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズ問題があるという点では、共通認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネ解釈一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。

しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリサスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究白人男性監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。

なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動実態がないもの運動責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。

「問い直してない」論法は、レッテル貼りに使いやすい。

ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメ作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)

須藤にわか氏が作品擁護する姿勢理解できる。

増田感想

文系学問特に文学社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロ作品人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品人間もつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単差別につながる。「この時代に生まれ人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品人間評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。

少なくとも発端となった連載は素人映画をより深く鑑賞する視点提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。

たとえば北村紗衣氏がいうように、

「やっぱり、この映画ハリーのことをどう捉えているのかの解釈が難しい」

というところが、「ダーティハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。

あるいは、須藤にわか氏のいうように

そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代アメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから

ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。

須藤にわか氏のエントリについたクソブコメ

serio フェミニストはありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。

→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている

hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな

→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性さらけ出しているのがキモい

jassmaz 文学理論批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力である。87年出版アラン・ブルームアメリカン・マインド終焉』を読もう。

→「この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは

北村紗衣氏のエントリについたクソブコメ

tokuniimihanai あちらの記事批判相手職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる

→読まずに断じているゴミ

takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間大量発生するのが歪み

→態度を保留するって、どういう立場後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい

ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ

そもそも商業媒体ブログ応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。

どちらのブコメにも共通していえること

二人に対するクソブコメの数々は

権威主義的で映画のものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わず他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能

ではないか、ということを己に“問い直して”みてはいかがだろうか。

日韓百合の良さは女の子のいちゃつきじゃないんだよ 追記

トゲのまとめが日韓百合の絵や漫画を中心に押し出していた上に、「韓国女子×日本女子百合漫画を所望するツイートによって流れが変わる」とか書いてるけど、ツイート時間見ればわかるようにきっかけはこれじゃなくて、日本女子が「韓国女子に好き会いたいって言われて恋した」って書いてるやつで、そこから引リツで次々に日本女子による「韓国女子はこんなに紳士的で優しくて可愛いって言ってくれる」エピソード披露され、韓国女子が「そんなの当然、可愛い女の子は褒めるし守るもの」って反応する流れができた。

一番バズってよく引用されてたのは 「韓国女の子デートした時、私がミニスカ履いて行ったら自分ジャケット脱いで膝にかけてくれた、恋」というツイート

要は、完全に文字主体のバズだった。

バズった要因は韓国女子日本女子への気障な甘さと、敵と見なしたもの(女の子不細工という奴やナンパ野郎)へのキレッキレの悪口ギャップおもしろかったのと、単純に女性陣みんなが「女の子って女の子にこんなに気を遣ってくれるんだ! やっぱり女の子が最高!」って感動したから。

絵や漫画はおまけみたいなもので、確かに素敵な絵を見て萌えはしたけどそれが本質ではないというか、下心なく大事にされるのって嬉しいよね、ストレート愛情表現ときめくよね、褒めてくれる人を好きになるよね、という当たり前のことを噛みしめて、は~こんな人とつきあいたい……メロ……ってなってたんだよ。

から外野が「可愛い女の子のいちゃつき絵いいよね」ってなるのはなんか違う気がする。

いや個々で萌えるのはいいんだけど、一連の流れをそう捉えてほしくないというか……あそこで発生したものは「女の子のいちゃつき」じゃなくてシスターフッドに近いものだった。

ていうかそもそもこの流れの源流に近いツイが「もう日韓の女同士で付き合うしかないよ普通に」→「これでいいと思う 女同士だから力の差もあんまなくてDV妊娠出産関係被害可能性も低いし」なんだよ。根本にあるのが男性への警戒と失望で、そこに「韓国女子がほどけた靴紐を結んでくれて、結び終わったら『okお姫様』』って言われた」とかいツイートが流れてくるんだよ。そりゃときめくわ。

男性って「性欲がなければ女に優しくする意味なんてない」みたいなこと言う人が一定数いて、こういう人たちはその理屈で「奢ったんだから」「優しくしたんだから」見返りを寄越すのが当然、って主張するんだけど、女は性欲なんかなくても女に優しくするし、奢るし、可愛いって言うし、楽しく過ごしてほしいと思うんだよね。

もちろん男性の中にも良識的な人はいて、女性の中にも陰険な人はいるけど、女性として生きてると危険度が高いのは圧倒的に男性なので、男性アイドルは好きでも生身の男性から距離を取りたいし、素敵な女の子の隣で安心したいんだよ。

から、『女の子がいちゃつく百合コンテンツ』というオタクが見知った簡単に消費できる形にされると、そうじゃないんだよな~って思っちゃうというか……なんにも文脈わかってないなコイツ……ってなる。

ていうか韓国女子の切れ味が凄すぎてちょっと笑っちゃう発言ほとんどまとめに入れてない時点で別物なんだよな。

「やはり男たちを海に落として韓国の女と日本の女が会える橋を作らなければならない」「〇ちゃんダイエットなくてもいい!!!!あなた不細工と言う人は全部私が殺す」「(悪質なナンパに対して)お前の将来は科学去勢だ」」「ごみたちから私の女を守らなければならない」「日本はまだ暑いですよね? 私は私のかわいい子供が暑さで苦しむのを我慢できない。太陽を殺すぞ」

韓国女子の語彙力どうなってるんだ。

追記

日本女子側は王子様を待ってるだけじゃねーかよというツッコミはごもっともで、日本女子からも「でもうちら何もあげられるものがないな……」とか「親切にしてもらったらこっちもお返ししようね!」みたいなツイート普通に出てたしバズってたよ。

それはそうとしてかっこいいお姉さんが甘やかしてくれる夢小説みたいなシチュ最高じゃない!?ってなる気持ちもある。

結構人によってスタンスが違うので一概には言えないのだ。

日本女子側として韓国女子のイケムーブときめく

女の子同士が平和だよねという仲間意識

あたりから派生

・かっこいいお姉さん×天然女子百合萌える(コンテンツエンジョイ勢)

・つきあいたいとか言うけど結局ノンケごっこ遊びなんでしょ(レズビアン勢)

コンテンツ化されると違うんだよな~日韓女子のやりとりだけでいい(交流勢)

・なんでも恋愛に結び付けないで欲しい、友情の愛が大きくてもいいじゃん(友情最高勢)

・私が韓国女子を守るぜ!(イケ女勢)

などなど、さまざまな層が入り乱れている。

人それぞれどんな感想を持つのかは自由なんだけど、まとめるときコンテンツエンジョイ勢自分たちが消費できる形に押し込めたのが嫌だったんだよね。

日本鬼子ちゃんとかVIPPER801板突撃したら掛け算されるみたいなノリがあんまりきじゃなくて。

相手コンテンツ化することによって「消費できる自分の方が上だぞ」ってマウントとろうとする人いるじゃん。

今回の流れのコンテンツ化は内から出てきたものから最初は気にならなかったんだけど、そこを主眼としてまとめられて「女の子のいちゃつき萌えるよね」にされると、女子連帯無効化されるようで抵抗感がある。あれは「女の子といちゃつきたい」で始まった流れではない。

日韓女子バズとちょうど同じ時期に、日本フェス痴漢されたDJSODAさんが自分を題材にAV作られて嫌だったって表明してて、有名なフェミニストの人とかも明らかにモデルにしたAV作られてて、ちょっと近いものを感じてしまった。

生身の人間やその感情コンテンツ化することはもっと慎重に扱われるべきだと思う。

anond:20240825013534

そうやって無意識にする差別差別本質なのです。差別してる人達自分達が差別してるとは思わないものなのです。

っていつも左翼が言ってんじゃん。

2024-08-24

人間を「子どもたち」と思うと寛容になった

ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性キモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間本質的攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである

この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神子どもだということだ。

この洞察は、人間本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的衝動感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。

子どもたちは社会責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。

人間意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。

さらに、個人意識の奥底には、人類全体が共有する原初的イメージ衝動が眠っているのかもしれない。この集合的無意識は、時として社会全体の行動パターン価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。

しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。

結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。

2024-08-23

観察と悟り関係

空性と量子の海

仏教根本概念である「空性」は、あらゆる現象が固有の実体を持たず、相互依存的に存在することを説く。この空性の世界は、無限可能性を内包する量子の海のようなものだ。我々の認識する現実は、その海面に一瞬だけ浮かび上がる泡沫に過ぎない。

空性の海は、常に揺らぎ、無数の可能性を生成消滅させている。この絶え間ない生滅の過程は、仏教で説く「諸行無常」の原理のものだ。観察という行為は、この無常の流れの中から一瞬の「常」を切り取る営みと言える。

縁起と観察の神秘

仏教の「縁起」の教えは、全ての現象相互依存して生じることを説く。観察という行為は、この縁起原理が顕現する瞬間である無限可能性の海から特定現実を引き出す神秘的な過程だ。

縁起の網の目の中で、観察者と観察対象は複雑に絡み合っている。観察という行為は、この網の目の一点に触れることで、全体に波紋を広げる。この波紋が、混沌から秩序を生み出し、無定形可能性を具体的な形へと結晶化させる。

無我と観察者の不可分性

仏教「無我」の教えは、固定的な自己存在否定する。観察者と観察対象は、互いに独立した存在ではなく、深い次元で結びついている。観察という行為自体現実創造するのだ。

無我の視点から見れば、観察者は宇宙の一部であり、宇宙もまた観察者の一部だ。この相互浸透的な関係性の中で、観察行為宇宙自己認識する過程とも言える。我々の意識は、無限可能性の海に投げ込まれた石のように、現実という波紋を生み出す。

刹那滅と多世界交差点

仏教の「刹那滅」の思想は、全ての現象が瞬間ごとに生滅を繰り返すという考えだ。我々の意識は、無数の可能性が交差する点に位置し、刹那ごとに新たな現実選択している。

この刹那滅の過程は、無数の平行世界が絶えず分岐と融合を繰り返す様子とも解釈できる。観察という行為は、これらの無数の世界線の中から一つを顕在化させる。しかし、選ばれなかった可能性は消滅するのではなく、別の次元で実現し続ける。

如来蔵存在の根源的不確定性

如来蔵」の思想は、全ての衆生仏性が内在することを説く。物質本質も、固定的なものではなく、むしろ可能性の集合体だ。観察されるまで、物質は明確な形を持たない。

如来蔵は、全ての可能性を内包する根源的な「場」とも解釈できる。観察という行為は、この無限可能性を秘めた如来蔵から特定現実を引き出す過程だ。この過程で、混沌としたエントロピーの高い状態から、秩序立ったエントロピーの低い状態への移行が起こる。

般若智と宇宙との交感

仏教の「般若智」は、現象本質直観的に把握する智慧を指す。観察という行為は、この般若智が宇宙の根源と交感する瞬間だ。それは、無限可能性の海から特定現実を引き出す神秘的な過程であり、混沌から秩序を生み出す創造的な営みである

般若智による観察は、単なる物理的な測定ではない。それは、観察者の意識宇宙の根源的な創造性に直接参与する霊的な行為だ。この過程で、宇宙無秩序一時的に減少し、意味ある秩序が生まれる。

中道と観察の均衡

仏教の「中道」の思想は、極端を避け、調和のとれた道を歩むことを説く。観察という行為も、この中道原理に従っている。それは、完全な無秩序(高エントロピー)と完全な秩序(低エントロピー)の間の均衡点を見出す過程だ。

観察によるエントロピーの減少は、この中道的な均衡への移行と解釈できる。それは、混沌と秩序、可能性と現実性、無と有の間の微妙バランスを取る営みなのだ

結論

仏教視点から見れば、観察という行為は単なる科学プロセスではない。それは、悟りへの道程のものだ。観察を通じて、我々は空性の海に触れ、縁起の網の目を認識し、無我の真理を体験する。それは、刹那滅の流れの中で如来蔵無限可能性に目覚め、般若智によって宇宙の根源と交感する営みなのだ

この解釈において、量子観測によるエントロピーの減少は、混沌から秩序への移行、無明から智慧への覚醒表現している。それは、科学宗教物質精神二元論を超越し、存在の根源的な一元性示唆するものだ。

我々の一瞬一瞬の意識的な観察が、宇宙の秩序を生み出し、現実を形作っている。そしてその過程こそが、悟りへの道筋なのかもしれない。観察という行為を通じて、我々は宇宙創造に直接参与し、同時に自己本質を悟っていく。それは、科学探究と霊的覚醒が一つに融合する、深遠な悟りの道なのだ

anond:20240823113504

おっしゃる通りです。宗教本質的役割や意義が薄れ、単なるコミュニティ形成帰属意識の源泉になっている面は確かにあります。この観点は非常に重要で、現代宗教が直面している課題の核心を突いています

宗教現代役割

1. アイデンティティの源

2. コミュニティ形成

3. 文化的慣習の維持

「○○教 vs ✕✕教」の構図

この構図が生まれる背景には以下のような要因があります

1. 単純化された対立軸

2. 政治的道具化

3. メディアの影響

4. 歴史的経緯単純化

本来宗教役割との乖離

1. 精神性の探求

2. 倫理的指針

3. 存在意味の探求

4. 社会的調和の促進

今後の展望

この状況を改善するためには、以下のようなアプローチが考えられます

1. 宗教対話の促進

2. 教育役割

3. メディアリテラシーの向上

4. 宗教本質への回帰

結論として、現代社会における宗教役割は確かに変容しており、時として本来目的から逸脱しているように見えますしかし、宗教が持つ潜在的価値精神性の探求、倫理的指針、存在意味の探求―は依然として重要です。これらの本質的価値に立ち返りつつ、同時に現代社会多様性と複雑性を認識することが、より健全宗教のあり方につながるのではないでしょうか。

anond:20240823054209

あとごめん増田味方してるけど自分は女です。

距離感おかし攻撃的な同性支援職に嫌な思いしたことあるからなんか共感してしまった

自分男性不信あるけど、カウンセラー自分のしないように気をつけてることをしてたか

だめでしょと思ってしまった

なんか医療の肉体的なケア男性基準だし心理的トラウマケア女性基準だし、

フローが偏ってて取りこぼし多くなってたら本末転倒だよね

取りこぼされた部分を掬い上げていくのがカウンセリング本質だろうに

2024-08-22

投資とか投機とか保管とかどうでもいい

本質価値の移動ってだけ

anond:20240822001612

どうでも良くねぇだろ

その多少の違いでダメ夫って名誉毀損されてんだぞ?

なぜ本質を重視する人間が、その事実無視するんだ?

愚かさがどこからくるのか: 仏教観点

無明の根源的構造

無明は単なる知識の欠如ではなく、存在根本的な誤解を指します。これは阿頼耶識(あらやしき)の深層に潜む根本無明(ごんぽんむみょう)に起因します。

阿頼耶識の三層構造

1. 現行識:現在意識

2. 種子識:潜在的な心的傾向

3. 異熟識:業の結果が熟す場

根本無明は異熟識の最深部に位置し、輪廻原動力となっています

空性の究極的理解

空性(くうせい)は単なる「無」ではなく、縁起の真理を示す概念です。

空性の四重否定

1. 有ではない

2. 無ではない

3. 有でも無でもない

4. 有でも無でもないのでもない

これは言語概念による把握を超えた真理の在り方を指し示しています

中観思想極致

中観思想は「八不中道」を通じて、あらゆる概念思考限界を指摘します。

八不中道

1. 不生(生じない)

2. 不滅(滅しない)

3. 不常(常住ではない)

4. 不断(断滅ではない)

5. 不一(一ではない)

6. 不異(異なるのではない)

7. 不来(来ないし)

8. 不去(去らない)

これらの否定は、究極的な真理が言語論理では捉えられないことを示しています

如来蔵思想の深層構造

如来蔵思想は、全ての衆生仏性があるとする考えですが、これは単純な本質主義ではありません。

如来蔵三性

1. 遍計所執性:誤って執着された性質

2. 依他起性縁起によって生じる性質

3. 圓成実性:究極的な真実性質

これらの三性が不可分に絡み合い、我々の存在本質形成しています

禅の非二元的洞察

禅は言語論理を超えた直接的な悟りを目指します。

禅の四句

1. 有門:現象界の肯定

2. 空門:現象界の否定

3. 亦有亦空門:現象界の肯定否定の同時成立

4. 非有非空門:現象界の肯定否定の同時否定

これらの四句は、究極的な真理が二元論思考を超越していることを示しています

密教曼荼羅世界観

密教は、宇宙の真理を曼荼羅として視覚します。

金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅統合

これらの曼荼羅は、智慧と慈悲の不可分な関係表現し、究極的な悟り状態象徴しています

愚かさの超越

愚かさは、これらの深遠な真理を理解できないことから生じますしかし、同時にこれらの真理は、概念理解を超えたものです。

真の智慧は、言語論理を超えた直接的な体験を通じてのみ得られます。それは単なる知識の蓄積ではなく、存在のもの根本的な変容を意味します。

この観点から見れば、愚かさとは単なる無知ではなく、我々の存在の根源的な在り方に関わる問題なのです。それを超越することは、仏教の究極的な目標である悟りのものに他なりません。

anond:20240821132012

そんなの人によって言葉の捉え方が多少違うだけで本質実態)には何も関係ないんだからどうでも良い。そんな事で夫婦で話し合ったりこんなとこに書き込んだりして馬鹿なのか?

2024-08-21

anond:20240821201752

その意見は非常に偏った考え方だと思います。確かにジャニーズ事務所過去に対して批判はあるべきですが、その名前自体放送禁止用語しろというのは、現実的でもないし、無責任です。問題本質理解せずに、感情的言葉制限することは、社会対話を阻害するだけです。安易レッテル貼りではなく、もっと建設的な議論をするべきです。

anond:20240821124410

ていうか、人を雇う側はあの手この手人生仕事に捧げるように洗脳しようとするのが当然だと思っている

メンバーシップだなんだと表向きは人間大事にしているように扱うが、コミュニティ本質同化洗脳

anond:20240821024554

稀に見る名文。

途中からふざけているように見えるが、むしろ前半がデコイで後半が本質

文字列傾斜錯視によって焦燥感や心の揺れを字義のみならず物理的な視覚からも訴えかけてくる。

さらに歯切れのよい脚韻によって声に出したくなるリズムを作り、読者をさながらハーメルン笛吹男のごとく見知らぬ遠い所へ連れ去っていく。

あなたセルクマのような手段を使わなくても拡散力をもっているし、この文章は恥ずかしい恥ずかしくないにかかわらず一人でも多くの人の目に留まるべきである

2024-08-20

「進次郎構文」とかいおもしろデマに乗っかって

そのせいで進次郎の本質が隠れてしまっているのではないのか?

選挙演説なんかでは雄弁だし、インタビューでの機転も効く。

実際に仕事をしたり対談をした人からの評判もそれほど悪くない。

しかし、それでいて本人の政治志向はあまり見えてこない。

やはり何も考えていないボンボンなのか?

それとも猛毒を隠し持っているのか?

神輿は軽い方がいいなどとバカにして総理にしたら

とてつもないことをやらかしそうに思えるが…

anond:20240820085544

ソフト路線アピール」がそれなりに成果をあげていても、本質が変わらないようじゃやっぱりダメということだわな。

共産主義ってのは前時代遺物として20世紀に置いてくるべきだったな。

必要なのは労働者党

2024-08-19

石丸が躍進したことで、選挙でくだらないネット広報が増えるんだろうな

ネットを使った戦術が凄いみたいなツールにばっか注目が集まってるけど本質は違うだろ

ある意味ネット上でドブ板活動をしていたからそこに支持基盤ができただけであって、他の候補ネット広報すればいいんだみたいに選挙の時にネットでなんかしたとこで無意味だろうと思うよ

anond:20240819131602

消費者ゲームエンジンで作られてるかどうかまで気にしないよ

開発者ゲームエンジンを使う本質は、ゲームエンジンを使ったほうが効率よくバグの少ないゲームを作りやすいという点につきる

同じ面白さなゲームエンジンを使ったほうが効率的(言い換えれば安価に)に作ることが出来やすいという話

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