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2023-11-22

anond:20231122171133

もう一人の親に頼めないのか?

いないなら次回来なければ担任と話を進めると親に事前に話を通しておこう。

増田の親がそうか分からないが、子供自分の手元から巣立っていくことを邪魔する事例はある。

(事前に約束していた入学金や学費反故にするとか、決まっていた就職先に断りの電話勝手に入れるとか)

狂った理由三者面談をすっぽかされた

三者面談があったんですよ。

高二の大事な時期。進路決めて色々やるんですよ。話題は多いんですよ。

親が来ねえ。

担任と「今日だよね?」「仕事が忙しいのかな?」みたいな話をコショコショやりながら待つけど来ねえ。

次の面談も予定に入ってるから無限に待てるわけじゃない。連絡入れても返信もない。

しょうがいからまた日程決めようってことになって、無駄時間を過ごして帰るわけじゃないですか。

親、いる。

家にいる。

何ならスマホ見てる。

今日三者面談だったよね?」「うん」

「覚えてた?」「うん」

「なんで来なかったの」「なんかぁ…三者面談のこと考えてたら色々心配になってぇ…」

「色々って?」「進路とかぁ…これからのこととかぁ…」

(その心配払拭するために三者面談があるのでは?)

「それでぇ、不安だったからぁ…保険資料請求やってた」

!?!?!?!?!?!??!!?!?

三者面談<<<<<<<<<<<<保険資料請求 …ってコト!?

三者面談は来週に延期になりました。次は来いよ。

少子化最前線を、崩壊する幼稚園から見てみよう

東京圏とある自治体少子化事情がエグい。

前提として、

東京圏では出生数が多い我が自治体ではあるが、毎年10%以上出生数が下がり続けている。

②数十の幼稚園があるが、次々と廃園していっている。

そもそも子どもの多くは保育園に行ってしまい、2歳3歳まで家庭で育てるのは少数派である

フェイクも入れてあります

それでは、子どもの取り合いになった幼稚園事情を見ていこう。

経営者が過剰保育に走る

 子ども入園してもらうために、まずは教育アピールする。

体操リトミックはもちろん、習字フラッシュカード、果てや武術まで多彩である

手厚い保育を担任1人にほぼ押し付けて、先生負担はどんどん増えている模様

2延長保育の長期化

 保育園に負けないように預かり時間を長くする。ただし、保育園は18時までは基本的に延長料金がかからないが、幼稚園で延長保育を18時まで使うと1日で1000円近くかかるので勝負にならない。

 

 3お弁当選択

 幼稚園のネックの一つに手作り弁当制度がある。

ただ今時お母さんの手作り弁当毎日持ってきてと言うと、心象が悪いので仕出し弁当選択できるようになる。

ただ冷たくて辛い仕出し弁当子どもの受けが悪く廃棄が大量に。

昼食直後にお腹が空いたという子どもが出る始末。

4先生の大量退職

 数年ごとに正規先生が半分近く辞める。

残っているのは経験の浅い先生ばかりで、行事でも遅々として段取りの悪さが目立ってしまう。

行事が不評だと園長先生の機嫌が悪くなり、先生たちがこっぴどく怒られる。

子ども怪我も多発して、先生保護者に謝りっぱなし。

経営からは、子ども怪我担任が見れていないからだと責められる。

そしてどんどん辞めていく。

少ないパイを奪い合うと、どこも過剰サービスから負担増、大量退職悪循環が止まらない。

こうやって保育施設はどんどん淘汰されていくのだろうね

2023-11-21

なんとなく思い出す居なくなった先生たちのこと

小学生の頃、スラッとしててすごくかっこいい40歳くらいのおじさん先生がいた

学校は片田舎僻地、周りはもっさりとした小太り教師ばかりだったし、その先生は目立っていた。

私が卒業してすぐくらいのころ、バイク事故で半身不随で寝たきりになってしまったと聞いた。

小5のころの担任は、自分中学生の時、地方新聞のお悔やみ欄に名前が出ていて亡くなったのを知った。享年56歳だったのを覚えている。料理が好きで、若い頃は料理人になりたかったと言っていたことを思い出した。

妹が小2のころの担任はまだ教師になって数年の若い教師で、美人かつパワフルでもあり子供から人気だったが、妹が卒業する前くらいに休職し、30歳で病死した。

大学の時になんとなく受けていた講義先生は、亡くなる一週間前まで普通に講義をしていたが急死してしまった。

2023-11-20

anond:20231120120834

しっかり元増田自身言語化できてるから必要ないとおもうんだけど一応増田ブクマカにはわからない人が多そうだから解説しておくね

1・高校2年生 クラスメイトに対して

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

まず前提として担任が十分配慮した言い方で情報をあたえている。Aも元増田もおなじ情報しかない。

しかしAはBどころか元増田のこともよく理解していないのに「同じ部活」といううわべの情報だけをみて「こいつなら知っているだろう」と情報をとろうとした。

さらに「理由を知っていますか?」ではなく「なんで?」という聞きかたをした。

忖度要求する日本人では「なんで」は聞きようによっては相手をキツく責める・叱るいいかたになる。

cf.強姦されたならなんで助けを求めなかったの」

(この尋ね方は高確率で本気で理由を細かく言語化してほしいのではなく興味本位二次レイプになりますもっと丁寧な聞き方をしろ

それをためらいなくつかうAは元増田をかなり見くびっているので元増田は怒った。

 

2・高校3年生 母親

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

解説不要。ただもし受かったら親御さんはすぐに入学金を用意しなければいけないので

あらあら、それならいそいで多額の現金用意しなきゃね」のつもりでそういう失言ちゃう人だったのかもしれないとは思う。だとしてもだいぶキツめのコミュ障親ですね

 

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

おめでとうございますは祝の言葉なのになんで呪いをつなげるんだというのは一般的礼儀だとおもう。

相手は身内のなれ合いのつもりでやってるとおもうけどかなりのマウントしかけている。

しかしたら今は18歳で成人だから20を新しく何と呼べばいいんだ→短絡的に老人と出たのかもしれないが、普通に昔でいう青年とか成年でよかったのでは?

 

1.3は同年齢の友人のわりにかなり言動が幼いのだが、元増田はかなり精神年齢が高い(バイトとかしてそう)。

そういう人が一緒にいる学校では距離をとることで自衛する必要がある。

特に3は20でもこの幼さなので、

この増田で憎まれている「ツイフェミ」や「ウヨ・サヨ」「反ワク」のような「うっかり言動」をSNSでやってしまって炎上する可能性が高い。

なんで私きらわれちゃうんだろう?のまま生きていくのではないだろうか。

逆に元増田リアルだとみくびられやす激怒しても伝わらない柔和タイプなのかもしれないが即ブロック遮断できるSNS親和性が高い。

とはいえ増田なんかにきてもしょうがないやでとも思う。

anond:20231120120834

中学時代激怒三選。

相手はいずれも同じ教師である

ラグビー部顧問で、いわゆるジョック的なタイプで、文化系(いわゆるナード)な生徒を馬鹿にしていた。

 

1.絵を描くのが趣味だったのだが、ある日の休み時間

迂闊にもお絵かきノートを机の上に放置して席を外してしまった。

席に戻ると、件の教師子飼いの生徒が勝手に俺のノートを開いて笑っている。

ちょっと勝手に見ないでくださいよ!」と抗議すると、

「なんだこりゃw俺の5歳の娘の方が絵が上手いなw」と言い放った。

俺は激怒した。

 

2.体育祭クラスリレーか何かで、ラグビー部の生徒が走っていて、

クラス友達と「頑張れ〜!」と声援を送っていた。 

すると別のクラス担任だったその教師は、

「お前らみたいなもんが偉そうに頑張れとか言うな」

と言い放った。

俺は激怒した。

 

3.担当教科の授業中、他の教師悪口を言っていた。

「○○先生?あのブスのおばちゃんだろ?」みたいな。

曲がりなりにも教育者として口に出すべきでないことも分からないのか。

俺は激怒した。

 

なお、いずれも心の中で激怒したものの直接的に教師に反抗する度胸はなく、

「こんな程度の低い人間がいるなら教師にだけは絶対にならない」と心に誓ったのであった

なお、程度の低い人間はどこにでもいる模様。

激怒三選

1・高校2年生 クラスメイトに対して

長らく不登校だったクラスメイトBが退学した時のこと。

私とBは部活が同じだったが、Bは不登校になったタイミング部活にも来なくなっていた。別に仲が良くもなかったので特に連絡は取りあっておらず、いないなーとだけ思っていた(個人競技なのでいなくても困らない)

ある日のホームルームで、Bの退学が告げられた。

担任は「Bは学校に来るのが難しくなって、別の方法勉強をする決断をした」というような説明をした。

それまで同学年に退学者がいなかったのでクラスはざわついた。ホームルームが終わると、クラスメイトAが私の元にやってきた。

「B辞めるんだ、なんで?」

Aと私は仲が良いわけではない。グループ学習でお喋りはするが休日は遊びに行かないくらいの関係性だ。

その程度の人間が、情報を取る時だけ、私に声をかけた。

私は激怒した。

2・高校3年生 母親

大学進学をすることになった。

志望校は堂々のD判定。だが入試形態ひとつだけ入れそうなルートがあり、私はそのルート選択した。

そのルート二次試験まで試験があるが、一次試験突破率が低めな代わりに、二次試験合格率が90%を超えており「一次さえ受かればまず受かる」と三者面談では言われた。

三者面談では同様に「この方法で落ちたら、正直この大学は厳しい」とも言われていた。

そして一次試験合格発表で、私は受かった。

帰宅して早々に母に合格を告げたところ、即座に「でも二次で落ちるんでしょ?」と言われた。

合格の報告をして、真っ先に出る言葉がそれ?

私は激怒した。

3・20歳誕生日 友人

20歳誕生日に「お誕生日おめでとうございます。これでお前も老人の仲間入りだなw」とメッセージがあった。

そのメッセージを送ってきたのは同い年の友人で、友人の誕生日に私は肉を奢ったはずだが。

そもそも友人は既に20歳なので、自分を棚上げして私を老人呼ばわりしているわけだが。

私は激怒した。

いかがでしょうか。皆さんも激怒してみては?

2023-11-17

anond:20231117182420

13歳で担任と付き合って20歳結婚とか結構事例は平成前期からあるみたいだし、別にからそういう感じじゃない。TL漫画とかでもよくあるシチュだし

2023-11-16

anond:20231116235155

で、ワイみたいなんが「これってアレやんなぁ弘兼憲史マンガ家庭訪問に来た担任母親が振る舞った手作りオハギ先生は持って帰ったんやけど生徒がたまたまおつかいで後をつける形になったら先生が道端にオハギぜんぶ棄ててた、ていうヤツが元ネタやろ?」ってクソレスするんよな

つのまにか

つのまにか高校球児と同い年になっていた

甲子園の光の下で野球をしてるあいつらと同い年になった

つのまにか大学生になっていた

おれが生まれたクソ田舎から大学に行ったあの娘と同い年になった

つのまにか高校球児に頑張れと思っていた

親戚の兄ちゃん野球をやめた同い年になった

つのまにか就職していた

母が高校卒業して就職して3年目で仕事を覚えて楽しかったんだと思い出を語っていたその頃と同い年になった

つのまにか仕事が辛くなった

父がじいちゃんから事業を受け継いでキツかった頃と同い年になった

つのまにか同級生から結婚式の招待状が届くようになった

なんと同級生は愛しあう人ができたらしい

つのまにかなんとか金を得て一人で生活できるようになった

小学校5年の担任音楽先生ハゲを気にしていた彼と同い年になった

つのまにかアラサーになった

想像では子供がひとりかふたりいて家を買って楽しい家庭を築いていたころと同い年になった

年賀状子供が生まれましたと報告があった

俺が想像したような幸せな家庭を築くやつがいるんだと思った

つのまにか妹に子供が生まれて俺ははれておじさんになった

いまも独身おっちゃんが俺を高校まで車で送ってくれた頃のおっちゃんと同い年になった

つのまにか俺は孤独だった

コロナがあった

きついがたまの息抜きに一緒に酒を飲もうと言ってくれる上司単身赴任で俺のワンルームの隣に住んでいた

上司と一緒に狭い焼鳥屋に飲みに行ったら上司大学同級生がいた

50を越えてもう定年が近いらしい

上司便所に行ったタイミング上司同級生から「うちに娘がいるんだけど」

つのまにか結婚していた

来年には娘が生まれ

2023-11-14

小学校RTA

授業参観は終わりがけに行って子供の顔見て終わり

役員決めは積極的立候補して「決まったので帰ります

担任との面談ハイハイ言ってすぐ帰る

2023-11-10

anond:20231110091553

小学校でも「ベースボール型」という授業カリキュラムがあって使うのは金属バットだぞ

女性教諭が振った金属バットが頭に当たる、女子児童は2年半たった今も頭痛教諭書類送検

https://www.yomiuri.co.jp/national/20211111-OYT1T50192/

市教委によると、教諭は当時、担任していた学級の体育の授業で、台に載せたボールを打つ「ティーボール」の指導をしており、手本としてバットを振ったという。

2023-11-08

ネット民はこの女性教師にごめんなさいできるの?

いじめ自殺した生徒に「明日から研修楽しみましょうね」と書いた担任教師、実は偏向報道被害にあった良い先生だった模様

http://jin115.com/archives/52088728.html

自殺した生徒とのやりとりの一部が切り抜かれ、鬼畜女教師誹謗中傷された教師に、ネット民はごめんなさいできるの?

問題のやり取りにも「先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もう少し頑張ってみますとあるわけなんだが

つーか、「死ぬ場所決まってる」に対してなんて返せばよかったの?死ぬなって?それで思いとどまるなら自殺なんてこの世からなくなってるわ

あぁとりあえず前向きになったんだなと判断しての返事だろうに

鬱は治りかけの時が危なくて自殺やすいらしいから、女教師がとどめを刺したとも言えないだろうに

草津の件でフェミ謝罪求めるなら、この件でも叩いたネット民謝罪しなくちゃいけないよね

2023-11-07

anond:20231107223138

ワイが小学生の頃担任年賀状に「年賀状ありがとう」って書いて返事したら

冬休み明けに教室で「ありがとうございます」にしろと怒鳴られまくったやで

2023-11-03

小学校の好きだったところ

増田出身小学校はいわゆる校庭(グラウンド)とは別に裏庭があった

裏庭には田んぼ、畑、ちょっとした雑木林飼育小屋ちょっとした池、テニスコート1面があった

 

田んぼ…6年生が先生監督下で田植えから収穫までやってた。収穫したお米は他のお米と合わせて学校行事おにぎりにして食べてた。おにぎりを作るのは朝っぱらから集められたPTAの親御さんたちだったので、大人になってから振り返ると楽しかったのと想像し得る親御さんの大変さとでちょっと複雑な気持ちになる

 

畑…4〜6年生が色んな野菜を育てていた。5年生の時はさつまいも栽培して、秋になったら1年生の子グループを作って雑木林落ち葉焼き芋をした。時間内だと全ての芋に火が通らなくて、しっかり焼けた甘い芋はみんな1年生に食べさせて自分たち微妙な芋を頑張って齧った。自分たちの芋は美味しくなかったが、1年生が美味しそうに芋を食べてたので少なくとも増田は充足感を覚えていた。この畑では教頭先生スイカを育てていて、夏になると休み時間に全校児童先生たち皆でこのスイカを食べた。夏の暑い日に外で食べたスイカは甘くて瑞々しくて美味しかった。教頭先生学芸会の時に正体がモロバレしてる謎のヒーローになる楽しい人だった(やればできる!の人みたいな明るさがあった)

 

ちょっとした雑木林…裏庭の端に色んな木が植えられていた。枇杷とか桑とかの果樹も生えていて、実がなったら食べてOKだったので一学期の終わり頃の時期は雑木林が人気スポットだった。この雑木林の向こう側が工事業者敷地だったせいか、捨てられたと思しきトラロープとかホースの切れっ端が転がってることがあった。5年生の時に学年の皆でこの雑木林の隅に生えてた一番大きな木と上記の廃材で秘密基地を作った(担任先生が掛け合ってくれて年度末には片付けることと他学年の子が来ても受け入れることを条件に校長先生許可してもらった)。廃材で作った適当すぎるブランコを勢いよく漕いだ増田は勢い余りすぎてすっ飛んでビターーーン!と地面に自分を叩きつけたことがあるけど今も元気に生きてる

 

飼育小屋うさぎニワトリがいて、4年生が当番制で世話をしていた。ニワトリの卵は当番の子が貰ってOKだった。増田ニワトリの卵を貰った時はさっさとTKGにして食べたのだが、これは増田きょうだいが当番をしていた時に卵を貰ってきたのを勿体ながっていつまでも食べずに残していた結果、いざ食べようと卵を割ったらヒヨコになりかけたやつが出てきた事件から学んだつもりの行動であった

 

ちょっとした池…でかめ金魚と鯉がいた。たまに野生か野良動物に魚がやられてしまうことがあって校務員さんが残念そうにその話をしていたが、小3の増田はその話を聞いた2分後くらいにはセミの抜け殻を集めて池を縁取る石の上に並べたりしていた

 

テニスコートテニスコートではあったが在校中にネットが張られたのを見たことがない。休み時間鬼ごっこ会場か教頭先生スイカ振る舞う会場にしか使われてなかった

 

政令指定都市ベッドタウンな町の公立小学校での思い出

小学校は本当に楽しかった。裏庭も好きだったけど、ちっちゃい丘みたいなのがある校庭も、閲覧席の陽当りがいい図書室も好きだった。卒業式でめちゃくちゃ泣くくらい楽しい学校生活だった

時々思い出して、あの頃はよかったな〜とノスタルジーに浸ってはもう戻れない思い出の世界なのだとちょっぴり寂しくなったりしてる

2023-11-01

弱者男性自分失恋、あるいはミソジニー、あるいは女性恐怖症である事の原点

中学2年の時に同じクラス結構仲が良い女子が居た。

席替えで3回連続くらいで近い席になったか10休み給食の時は結構喋ってたし、

部活休みの時なんかに放課後一緒に遊びに行った事もあった。

気が合って、話しててすごく楽しかったし、自惚れかもしれないがその子楽しいと思っててくれたと思う。

俺はその女子の事が好きになった。


だけどその子は他クラスDQN寄りのイケメンが好きだって言ってて、

「面識あるの?」って聞いたら「出身小学校も違うし話した事無いけど」って言ってて。

なんかそれが凄いショックって言うか、結局顔かよみたいな。

俺はその子と一緒に居て楽しいから、仲が良いから、好きになったのに、

その女子にとっての価値判断基準って言うのは仲が良いとかそういうのじゃないんだなあって。

まあ、よくある話なんだと思うけど、中学の頃なんか自分の周りが世界の全てみたいなところがあったか結構衝撃的で、

結局こんなんじゃ生きててもしょうがなくない?みたいな思考になって、全てが怠くなって学校に行けなくなった。不登校になった。

それくらいショックで辛かった。

(ちなみに当時、自分担任教師と異常に折り合いが悪かったので、親とか学校への説明は「担任ダルいから行かない」で押し通した)


今思うとこれが人生初の失恋であり女性恐怖症でありミソジニー思考である原体験なのかなーと思う。

で、不登校でダラダラしてると、妙にポジティブな感じになって

「まあ、あいつはあんな感じだったけど、世の中ああいう冷たい女ばっかりじゃないだろうし、というかむしろあんドライな奴少数派だろうし、高校生になればきっと楽しくて気の合う彼女が出来るさ」

なんて考えて、中学3年になったタイミング学校に復帰し、その後高校浪人大学就職人生を進めたわけだが…。


だけど、大人になってからTwitter(現:X)なんかで、女性の「初対面で友達枠と恋人枠どちらに入れるか決まってて、友達枠の男から告白されると引く」とか、

恋愛対象外の友達の男から告白されるとぬいぐるみからペニスが生えてきたような衝撃を受ける」みたいな言説が盛んになされていて、

しろあの時のあの女子感覚って女性の中でのマジョリティだって気付いて女性恐怖症的なミソジニーが爆発しつつある。

女性にとって仲が良いとか一緒に居て楽しいとかそういうのはマジでどうでも良くて、結局顔とか金とかしか見てないんだなって。

その血も涙もない感性が本気で怖いし、資本主義優生思想に脳を焼かれ過ぎてる感覚が人として嫌気がさして、正直自分の中でミソジニー的な意識が芽生えている。


男はそんな事無いじゃん?

まあネットだと露悪的な書き込みの方がウケるから女は顔とパイオツが全てとか言ってるけどさ、

ブスでも仲が良ければ好きになるのが男だし、友達として一緒にゲームとかして遊んでその流れでセックスっていうのに憧れてる男は相当数いる。

自身もその後の人生で好きになった子って全員友達で、一緒に遊んだり話したりして楽しいなって思えた子だけで、

もちろんクラスや学年にはその子よりも顔面偏差値が高い、所謂「学年一の美人」なんかも居たわけだけど、

そういう美人でも友達じゃなかったら別に好きとかには全くならなかったな。


個人の話から外れて男全体の傾向で見ても、例えばアイドルなんかでも高嶺の花の韓国アイドルよりもAKBとかの方が人気なのは接触イベントコミュニケーションを重視した方が男に刺さるって理由だろうし、

握手会なんかで会話を重ねて「仲が良い」と男に思わせる事が男から好意と金を引き出せる証左になっている。

(無論、それを「仲が良い」と思うのは完全なる認知の誤認ではあるが)

最近人気のVtuberも要はゲームしながらダラダラと雑談をする「友達ムーブ」が男の性欲に一番刺さるから人気なのだろうと思う。


まあ男って日本だけで7000万人?とかいるわけだから、そりゃシビアな男も1000万人くらいは居るんかもしれんけど、

傾向的には男の方が情に弱いと思ってて、俺はその中でもかなりウェットな性格をしていると思うんだけど、

そういう俺から見たら女性って本当に冷血ドライで怖いし、性格とか仲のよさじゃなくてスペック容姿で全てを決める感じが本当に下劣だなって思う。

そういうのも俺が不細工からそう感じるだけで、イケメン側だったとしたらそんな事一切感じないんだろうが、

からといって「お前が不細工なのが悪い」なんて言われたら反発したくもなる。不細工何が悪いねん。悪いのは顔だけで全部決めとるお前やろが。

2023-10-30

当事者でもないのに許せないもの

私は"普通の日本人的"宗教観もつ家庭に生まれ友達の家が聖教新聞をとっていた、以外に新興宗教とも関わり合いのないまま大きくなった(その家も別に勧誘してきてない)が、熱烈に宗教アンチである新興宗教はもちろん、既存宗教も本当はこの世になくてもよいと思っている。例の銃撃事件のずっと前からそうで、あの事件のあとからはより思想が強くなった。

そのようにこじらせた原因は、大学生ときに知り合った私がとても信頼をおく人が宗教2世由来で宗教を憎んでいる人間だったからだとずっと思っていた。彼の苦しみに私は同期して、私も憎むようになったのだと思っていた。

ただ、よく思い返すと高校生の時点で今の私の思想ほとんど固まっていた。高校には新興宗教を進行した結果教室担任の置いた合格祈願の御札を嫌がる教師がいたが、その光景を見ながら「どちらも悪だよな」と思っていたことをふと思い出した。

そうなると、なぜそんな思想になったのかますますからなくなる。あのころ宗教を持って私に攻撃してくる人はいなかったし、正月お盆クリスマスも"普通の日本人"としての関わり、過ごしてきた。アンチになる前の段階で、どうして宗教というものについて好き嫌い結論がでるまで考えようと思ったのかすら思い出せない。

ところで、私は女性であるが、ずっとフェミニズム的な男性のことを「偽物」だと思ってきた。私自身は「フェミニスト」とも「アンチフェミ」とも言えない思想だが、世の女性が受ける問題について、当事者性がない人間が本気で取り組まないだろうと思っているからだ。当事者でもない属性に心から配慮しているとはどうしても思えなくて、こいつらは心の奥底では女を舐めていて、「こうすれば信頼を得られる」と考えた末のムーブだと推測していた。

でも、よく考えると私はずっと当事者性のないものについて真剣に考えてきた人生だった。そうであれば、あの男性の中にも本気で自分ではない属性幸せを考えている人がいるのかもしれない。それは私が女性から、というフェミニズム観点ではなく、私の思考の、人生肯定になるかもしれないと思うからである

anond:20231029203433

15年くらい前だけど、家庭訪問とき担任先生から"私は臨時採用残業できませんから宿題も見れないので出せません"って言われた

仕方ないねって思った

2023-10-28

自分用まとめ

 

ハルコママ:ハルコが4年間いじめ被害を隠していたことに動揺。学校相談

ハルコパパ:育児にあまり関わってこなかったことを反省問題解決に向けて動く

ハルコ:辛抱強く情に厚い。りいちゃんと親しくなったことが取り巻きの不興を買い、いじめ対象

ユタハルコ弟

りいちゃん容姿も育ちも性格もいい強者女児取り巻き暴走を止められず悩む。大人に不信感を持つ

サキコ:自称ハルコの親友。りいちゃんが嫌い。弱者女児ハルコと交代でいじめターゲットになる

サキコママ:弱者女性アスペかも

ふうちゃんライムちゃん:りいちゃんファンネルサキコとはりいちゃんからハルコを遠ざけたいという利害が一致。りいちゃんハルコに離間策を講じる。

山野先生ハルコ達の担任。いつも笑顔

草田先生:2年生の時の担任サキコママに詰められて病み、離職

 

https://togetter.com/li/2248615

2023-10-25

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

中学受験をしてない人生経験してみたかった

docomo配信サービス配信されている、とあるアイドルオーディションサバイバル番組にどハマりしてずっと見ている。過去シリーズまで追って、そこからデビューしたアイドルを推すほどハマっている。

そんな番組出会ってしまたことをきっかけに、自分人生について、過去に無いくらい考えて悔やんで分析して、を繰り返している。

両親のことは大好きだ。

奨学金なんて必要いくらいの収入があった父親専業主婦毎日「おかえり」と言ってくれる母親、3食おいしいご飯、たまの家族旅行、何一つ不自由なく育ててもらった。

中学入って以降は、私のやりたいことが私の成長に繋がるのならばと、できる限りを尽くしてやらせてもらった。

ガチャかい言葉だって必要ないほど恵まれ環境で育った。


でも、自分のことはびっくりするほど好きじゃない。

顔とかスタイルとか容姿ではなくて、人としての中身の問題だ。

根暗で、卑屈で、俯瞰してて、ひねくれていて、粘着質で、冷めていて、僻みがちな中身の問題だ。

絶対に生まれた時からこんなんだったわけじゃない。

少なくともまだ年齢の数字が1桁だったときは、明るくてよくしゃべる、放課後毎日遊びに行くような友達の多い子だったと思う。

それなのに変わってしまったのは自分の中で明確なターニングポイントがあって、それが「中学受験」だったと思っている。

身バレしたらしたで仕方ない。

ずっと抱えてきた贅沢な息苦しさを誰かに聞いてほしい。

から話す私の生い立ちがとんでもなく恵まれていることなんてわかってる。今から話す全てがとんでもなく甘いことなんてわかってる。無いものねだりの高望だってことだってわかってる。だから、この長くてまとまりのない文章をもし読んでくれるのであれば、この親不孝ものが、甘ったれが、クズが、って、思う存分バカにして反面教師にして笑ってほしい。


物心ついたときから、歌ったり踊ったり楽器演奏したりするのが大好きだった。

私の通っていた郊外幼稚園にはたしか必須クラブ活動があって、年少さんのときは親の意向で「お作法クラブ」に入れられた。お着物を着てお茶の飲み方を教わったり毛筆書道を並んで書いたり、素敵なことなんだけれど、3歳の私は幼いながらにかなり堅苦しさを感じていた。

クラスで一番仲の良かったおともだちがバレエクラブに入っているのがとても羨ましかった。ことあるごとに私もバレエクラブがいい、来年は変えて!と主張し続け、年中になった時には晴れてバレエクラブに入れてもらえたが、年長に上がった段階ではなぜかもとのお作法クラブに戻されていた。

幼稚園の3年間はクラブ活動とは別で習い事をしていた。英会話教室と、今は無きn田チャイルドアカデミー(n=7)だ。英会話教室は5歳になっても何のために何をやっているのかわからなかったのと、言葉先生に通じないのとでかなりストレスを感じていたと思う。

n田は、英会話教室なんかよりもはるかに何のために何をやっているのかわからなかったのと、毎日課される難解な宿題プリントと、自分習い事をどういうふうにおともだちに説明すれば伝わるのかがわからなさすぎて、何が何だかよくわからないまま終えた。

ピアノバレエを習っているおともだちがそれはそれは羨ましかった。


小学校に上がるタイミング関東の割と都会な地域引っ越した。その地域から無理なく通える範囲に高偏差値私立中高一貫校が2つもあり(以下A中学•B中学、A中学のほうがレベルが高い)、どうやら親はその学区の良さに惹かれてその地域に引っ越すことを決めたようだった。

n田の難解な宿題プリントはなぜか小学生に上がってからも続いた。学校宿題とは別で、毎日ノルマを課されていた。新しい学校で持ち前の明るさを発揮し、近所に友達もたくさんできて、遊びたい盛りだった低学年の私には、異常に難しい問題を怒られながら泣きながらこなすのは相当な苦行だった。

小学2年生になってからは、年に2,3回、大手中学受験塾のオープンテストを受けるようになった。気づいたら申し込まれていて、気づいたら受験票があって、気づいたら当日その塾に連れて行かれて謎のテストを解いている、そんな状態だった。n田の毎日プリントのおかげか、成績は相当良かった。

あなたはこれからA中学を目指すのよ、みんなと同じ隣の中学校にはいけないの。地元中学校に行くのはちょっとばかなのよ。と言われる(刷り込まれる)ようになる。

地域お祭りに行った時にステージで見た、小学生ダンスチームの発表がとてもかっこよく見えて、釘付けになった。家に帰ってから親にそのことを話し、「私もダンスやってみたい、習い事したい」とお願いをしたら、「5年生くらいになったらいいよ」と言われ、私はその言葉を信じて3年待ってみることにした。

風呂オリジナルの歌を歌ってみたり、適当な踊りを作ってみたり、自分カリスマアイドルとしてデビューするような妄想をしていたのもこの時期だったと思う。

小学3年生になってもオープンテストは言われるがままに受け続け、2月には「新4年生」としてついに入塾していた。ちょうどこの頃、近くの高校中高一貫ではない、以下C高校)の合唱部が私の小学校演奏会をしに来てくれて、その演奏の素晴らしさに感動し、ほのかにC高校に行きたい!という思いが芽生えた。


4年生になり、中学受験がはじまった。目標はA中学県内屈指の進学校を目指して塾通いが始まった。事前の数年間のオープンテストの結果、クラスは一番上になり、受験が終わるまでクラスが落ちることは一回も無かった。

自体はとても楽しかった。10数年経った今でも連絡を取り合うような大事な仲間もできたし、なにより当時は小学生にして他校に友達がいるという事実が誇らしかった。


常になにがなんだかわからないままテストを受け続けてついに始まった中学受験生活だったが、私の意識は常に「親に怒られるから仕方なく勉強している」だった。

今までは存在しなかった授業ごとの予習•復習の行程、難しい問題で躓き、とくに算数強敵だった。ほんとうに難しかった。

からなくて、理解できなくて、私の勉強のあまりの進度の遅さに怒られ、毎日のように殴られ、教科書を破られ、ノートを破られ、こっそり楽しんでいたニンテンドーDSliteは見つかって真っ二つに折られ、悔しさと意味のわからなさに泣き叫び、近所から苦情が入り、さらに怒られ、テストの点が悪いとため息をつかれ、そんな日々が3年間続いた。

受験直前にはもう燃え尽きていて、自習と嘘をついてショッピングモールに出かけたりもしていた。当然バレて、さらに怒られた。口も悪くなったし、このあたりから私も何かあるとすぐキレてしまうような難しい性格になった。


学校環境も少し問題だった。

小学4年生ともなるとだんだん人間味を帯びてくる。ヒソヒソ話や悪口友達グループ化が激化する。塾に行くようになってからは遊びに行くことも減り、放課後も付き合いがあるような友達も減った。

塾に行くようになったことで、授業中の発言普段言動に対して「いい子ぶってんじゃねーよ」「頭いいからって偉そうにしないでくれる?」と言われるようになった。

自分問題があるんだと思い、明るかったのが嘘のようにあまりさな子どもになった。実際何かしら偉そうに聞こえるような言動はあったんだと思う。

5,6年生のときクラス3分の1が中学受験をしている子たちだった。

学年の受験生がほぼ固められているにもかかわらず、次の担任中学受験に対する理解がまるで無かったので、日記帳を1日見開き1ページ書くという宿題毎日出た。

大体の日はそれにプラスしてワークなどがあった。当然、学校宿題の量と塾の与復習の両立に苦戦した。家ではそれが原因でさらに怒られた。

周りの受験生も学校宿題が大変と愚痴をこぼしていたので、私だけじゃないと知って安心した。

クラスで私を仲間はずれにした女子のことを陰で女王様揶揄っていたら、誰かにそれを担任にチクられ、授業をひとつ潰してまで説教された。

泣いて謝り許しを乞うまで説教は終わらなかった。世の中には私の味方なんていないんだと思った。

そういえば、2年生だったあのときから待ちに待っていた5年生になったので、めちゃくちゃダメ元で親に「ダンス、習わせてくれるんだよね…?」と聞いたら、何わけわかんないこと言ってんの勉強に集中しなさいと一蹴された。

中学受験中にダンスなんてやってる場合じゃないのはわかってはいたけど、それはそれでつらかった。

頭打ちの成績、勉強に対するやる気の無さ、新しいクラスでできた友達とも遊びたい、そんないろいろな要因が重なって、家庭内でも勉強をしたがらない私に対する怒鳴り声は常に飛んでいた。

怒られない日の方が珍しかった。

自分の気力、体力、学力には到底合わない高いレベルの内容には正直ついていけていなかった。

当然勉強は嫌いになった。少し理解できない問題が続くとなんでそんなにできないのと怒られ顔を引っ叩かれ毎日泣いて、ある日勇気を出して「受験をやめたい」と言ってみた。

親にはA中学B中学に行くとこんなにいいことがあるんだよお前の将来の選択肢が広がっていい大学にもいけるしいいところに就職できるんだよ、それはみんなは高校受験競争率が高い中やることだから中学のうちにやっておいた方がいいんだぞ、それでもお前は受験をやめるのかと言われたが、私はある日にはC高校に行きたいと自分意思で思ったんだから高校受験でそこを目指したいんだと強い意志を持って受験をやめる選択をした。

地元中学に行く奴はバカと言われて育って来たので少しプライドが許せなさそうだったが、それよりもこの受験生活が、「私のため」の名のもとに暴言暴力の飛び交うこの異常な家庭が嫌だったので、受験をやめる決断をできたことにほっとしていた。

後日優しい口調の親に丸めまれ、なぜか受験は続行することとなった。正直どうしてこうなったのか何も覚えていない。

結局中学受験は完遂し、A中学は落ち、B中学そもそも受験せず、家からは少し遠い第3志望のD中学入学することになった。

B中学よりはレベルの高い進学校だったので、A中学に落ちたことによってプライドが傷つくこともそこまでなかった。

中学に上がり、かねてより部活というものに、特に運動部に憧れがあったので、そのまま運動系部活に入った。

チアリーディング部はあったが、正直ヒップホップ系ダンスがやりたかったのと、小学生の時にあてられた記憶女子集団が完全に苦手になってしまったので、チアリーディング部には入らなかった。

これが「初めて自分で何かを選択できた瞬間」だった。

毎日練習が楽しくてヘトヘトになって帰ると、勉強する体力とやる気なんて残っていなかった。

最初地頭で乗り切っていた定期試験だんだん順位が落ちていき、高校に上がってから留年スレスレ彷徨うこととなった。

中学受験で完全に捻くれた性格が災いし、人間関係の構築は部活以外では皆無であった。

内向的になりかけていた自分性格さら内向的になり、何重にも殻に閉じこもるようになった。

順調に過ごす周りの同級生を見て、どうしてこの子達は同じ壮絶な受験経験しているはずなのにこんなに真っ直ぐで明るいのだろうと疑問に思っていた。

中高一貫校性質上、入学早々にやらかすとそこから卒業までは取り返しがつかなかったので、本当に部活の仲間以外の友達はいないに等しかった。

進学校勉強についていけないことと友達のいないストレスが相まって、学校の授業は休んだり遅刻したりすることが多かった。それでも部活時間には必ず練習場に行って、毎日練習には参加した。その甲斐あって、部活の方は最終的には目標だった県の上位層に食い込むことができた。

家庭では大学受験を見据えろとか勉強しろとかは一切言われなくなった。

流石に留年が危ぶまれた時は進級できるくらいにはなってくれとは言われたが、それくらいだった。希望ではないもの進学校に入れることができた満足と、あと妹の中学受験が始まっていたのも一因だったと思う。

結果的に妹は黙々と学習を重ね国内トップレベル中学入学したし、私は大学受験勉強を相当サボりつつも、運良く上位校と呼ばれるような私立大学のよくわからない学部に現役で合格した。

私の中学受験生活が酷すぎたぶん、妹には重い重い期待がかかっていてプレッシャーだったと思う。妹は妹で家庭でもあまり感情を出さずおとなしくして親の言うことを素直に聞いているように見えた。

姉のふり見て我がふり直せ、だったんだろう。

申し訳ないことをしたと思っているし、やはり我が家中学受験なんて向いてない家庭だと思っている。


半年に一回くらい、ボイストレーニング無料体験に申し込んで、無料体験レッスンだけ受講したことが何回かあった。ボーカリストオーディションとか受けてみたいなと思い調べることもあったが、一回も応募したことはなかった。



そして今、私は大学生をしている。

持ち前の勉強嫌いを発揮していくつかの単位を落としながら、中高でやっていた運動は続けながら、アカペラサークルミュージカルサークル所属してステージに立ってみたこともあった。

お金が想定よりかかったり、思ったよりも本気で音楽に向き合う人がいないいわゆる形だけのサークルだったりで、どちらもすぐ辞めてしまった。

そして、とある前世持ち練習生の存在きっかけに、冒頭に書いた某アイドルオーディションサバイバル番組配信に辿りついた。

が、その番組や前シリーズやそこからデビューしたグループを見ていくうちに、自分と同年代の子達がデビューに向けて取り組むのを見ていくうちに、何か動悸がするような、焦るような気持ちが抑えられなくなっていた。

大きいステージに立っているアイドルを見ていると涙が出てくる。

私もそっちに行きたいって。

アイドルを目指していたなんて言えるほどの努力は一切していないけど、ステージ表現して人の心を掴むということに対する強い憧れはずっと持っていて、悔しさがこみ上げてきて。

私の好きなアイドル10年を超えるダンス歴で、とにかくいろんなステージに立っていろんなオーディションを受けて大きな挫折も味わって、そんな長い下積みの末やっとデビューした。

その人が「小学生の時にダンスを習い始めて、そのおかげで内気だったのが明るい性格になった」とたびたび話していて、でもそれを聞くたびにすこし胸が苦しくなる。


中学受験じゃなくて、ダンスだったら?

私は音楽が好きで、自分で何かを表現たかったという気持ち絶対にずっとあって、それを無理に抑えてこなかったら?

中学受験の時のあの地獄のような家庭環境が無かったら、ダンスというずっとやりたかたことで自己表現ができていたら、もっとまっすぐな明るい子だったのではないか

小学校からダンスや歌を本格的にやらせてもらっていたら、私もあの番組ステージに立てたのではないか

私の勉強嫌いは完全に中学受験からきているわけで、それが無かったら別に高校受験からでもこの大学に入ることはできたんじゃなかろうか。勉強自発的にできるようになって、もっと良いところに行けてた可能性もあったんじゃなかろうか。逆も然りだけど。

今考えたらあの習い事クラブ活動も全部親の決めたもので、私の意思なんてこれっぽっちもなくて、全てが勉強につながるようなもので、だから今の私は勉強がとてもとでも嫌いだし、大学生になった今でも勉強自分のためではなくて新卒大卒獲得のためにやらされるものだと心の底では思っている。

中学受験の時の生活は今考えたら虐待だったね本当にごめんねと親は言ってくるけれども、明るかった小学3年生以前の私の性格はもう帰ってこない。

元の形の記憶を失うほどにねじれて拗れてズタズタになってしまったあの時の私から変われる気配なんてない。今から明るく優しい子になんてなれない。

家庭内でたまに言い方がきついと怒られそれがきっかけで大きな喧嘩になることもあるけれど、あの多感な時期に毎日怒られ怒鳴られ殴られ続けて親の口調が移らないわけない。私の口調と親の口調はびっくりするほどそっくりだ。


全部、中学受験のせいだと思ってしまう。


私のために全力でサポートしてくれたんだと思う。でも別に中学受験させてくれなんて頼んでなかった。あんな怒鳴り声と泣き叫ぶ声と暴力の絶えない家にしてくれなんて頼んでなかった。あんなんなるなら、地元中学でもよかった。


やりたいことなんて何もできなかったし私の話なんて微塵も聞いてくれなかったなと思ってしまう。


それでも、ここまで育ててくれて、私のことを考えて人生設計の手助けをしてくれて、中高大10年間の私立学費を惜しみなく出してくれた親には本当に感謝している。本当に恵まれた家庭で何ひとつ不自由なく育ったと思う。


それに、本当にダンスや歌がやりたかったなら、中学に上がったタイミング部活に入らずに、今度こそダンスを習わせてほしいボイトレに通いたいと親を説得することだってできたはずだ。そうしなかった段階でそこまで本気じゃなかったんだと思う。このことに気づいて、初めてあ

2023-10-24

こないだ聞いた最悪の悪口

いま九州某所に住んでるんだけど、電車内で高校生らしき集団担任と思われる教員の陰口で「北海道の熊を殺すなとか朝から市役所電話してそうw」と言ってて、子供ってマジで残酷なことを口にするんだなと

2023-10-20

我が子が不登校の子プリントなどを毎日届けさせられている

家が近いからという理由なんだけど、はっきり言ってそこまで近くない、車で行ってもいいかなぐらいの距離。まあ人によっては歩くかもだけど。

息子にはもう届けなくていいよと言っているのだが、特に辞めるつもりはないようだ。

そんなある日、学校側にもうやめてくれと言った時、担任が一回に届けるにつき100円息子に支払っていることがわかった。

から息子もやめたがらなかったのだ。小遣い稼ぎである

双方納得しているようなのでこれ以上は特に何もいうつもりはないが、なんで教員が届けるなり、向こうの不登校児の親が取りに行くなりしないんだ。

私がもし不登校の親だったら申し訳なくてかなわん。

まぁまともな親なら不登校になんてなりはしないだろうが。

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