「家族葬」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 家族葬とは

2021-12-28

anond:20211228145427

それができたらいいんだけどね。

格安家族葬にさえ香典返しが存在するわけで

2021-12-25

ひとりのおばあさんがクリスマスに死んだ。

そのおばあさんはクリスマスに生まれクリスマスに死んだ。

生前からそれが口癖でもあった。

わたしクリスマスに生まれたけど、死ぬときクリスマス死ぬと思う。

何かと予言いたことを言ってそれがよく当たる人だった。

これから日本は貧しくなる一方なんだからそれをよく考えてから動きなさい。

そんなことを日本凋落がここまでとは予想されていなかったバブル崩壊の頃から言ってたらしい。

の子はなかなか結婚しないけど〇〇才には結婚するからそれほど心配しなくてもいい。

孫の顔を見せるために母と一緒に訪れた帰りに、やっぱり当たったよね、

と母にそのことを言われるまで忘れかけていた中学生の頃のエピソードだったが確かにそのとおりになった。

斎場が思いもしないような場所なので、2度聞き直した。

時節柄、家族葬でとばかり思っていたから余計にだ。

まりに不相応な場所に思えたから尋ねようとしたら先回りして母が答えた。

お前らが物心ついた頃にはあれだったけれど、

ひいおばあさんは〇〇で〇〇だから〇〇していてる関係

たくさん人が来るからさな会場では出来ないのよ。

マジか!?あのババアそんなんだったの!?

そういえばかなり薄っすらだけど、曾祖母ちゃんの家で遊んでたとき

おつきの人に何人も囲まれたおじいが来ていたことが記憶に残ってる。

へーそうなのかあ、親類のことだからって何でもわかってるわけではないんだねえ。

でも何で教えてくれなかったのだろうか?

絶対に言うなと言われていたから。

けど、死んだら葬式場所のことで理由を聞かれるからそのときには教えていい、と言ったらしい。

嘘みたいな話過ぎて怖い。

あいいや。

とりあえずメリークリスマス、バアちゃん。すごくきれいな顔してるよ。

2021-11-28

第7章 自我がヤバそうでまだヤバくないがちょっとヤバイちゃん

前回 https://anond.hatelabo.jp/20211127202908

40にして避妊せず

50にして我が子の孤立を知る

60にして将来を疑う

70にして夫を見届ける

80にして

私が働きだしてから数年後のある日、父が死んだ。

仕事からの帰り道、電車に乗っていると突然親からメールが入った。

倒れたらしい。

ひとまず職場上司に連絡を取り、数日ほど休めるかを確認した。

「お前が居なくても案外仕事は回るからぶっちゃけお前の仕事ってどれも頭数合わせだし必須じゃないんだわ」

オブラートに包みきれていない言葉の隙間からチクチクとした苦味が心に残ったことだけを覚えている。

現実を突きつけようとすれば自然とそうならざるを得なかっただけなのかも知れない。

どうにも使いにくかった有給を折角だからと多めに申請して、私は実家へと帰っていった。

親が倒れたと言われても、そもそも倒れる理由特に思い当たらなかった。

それは私の個人的な気まずさから年に1度顔を合わせるかどうかだったからなのもあるし、父が元々身体があまり丈夫でなく合うたびに新しい体調不良パターンを聞かされてて慣れてしまっていからだ。

年々、折れかけた柳のような弱々しい老人となっており、生と死の境界にはとっくに立っていたのだろう。

戻ったときには父は死んでいた。

突然死である

珍しいことではないらしい。

それから数日、母親はずっと泣いていた。

私は少しだけ泣いた。

まれてきたことや育ち方のよくなかったことへの後ろめたさから来る涙だった。

父の死を前にしても、私の両親に対する感覚はそこから変化することが出来ていなかった。

前々から両親のどちらかが死んだときのための準備は進められており、母のスマホに入っていたスマホメモどおりに進めるだけで準備は滞りなかった。

葬儀家族葬

規模も小さめにした。

顔と名前が一致しない親戚たちに片っ端から声をかける元気は私にはなかったし、母はやかまし場所が苦手だった。

祖父母葬儀をやった馴染みの葬儀屋に頼むと話はレールの上をトロトロと進むように簡単軌道に乗った。

父・母の兄弟だけを呼んだが、彼らの子供、私の従兄弟が誰も子持ちだったので意外と人数は多くなった。

彼らとは彼らの結婚式から先、顔を合わせてない者もいた。

初めて見る姪の不審そうな顔を見て、自分が幼少期に曽祖父葬儀に参加したときはこういう顔だったのだろうと思い出す。

それと同じ程に、今、自分とこの子達には距離があるのだと理解した。

最近はどこも親戚づきあいが薄くなってきたというのは非常に結構だが、元々血の繋がりを遠ざけがちだった自分などはいよいよ親類の中にあっても限りなく透明に近い存在へとなっていた。

年が3つ下の従兄弟結婚してから5年ほど、いい加減自分もいい年齢だが、誰も「結婚は?」と聞かなかった。

理解されていると安心すれば良いのか、気を使われていると感謝すれば良いのか。

父の死から10年、私はいつか転職を、出来ればクリエイティブプログラマー辺りで……と思いながらもダラダラと同じ仕事を続けていた。

役職はいまだについていない。

私より遅く入った高卒の人でも、センス人間力根本的に上だと感じた人は既に係長になっていた。

父が死んでからは好きにやっていた母だったが、いよいよ様々なもの曖昧になりつつある。

私は私自身の面倒を見るのでいっぱいいっぱいだし、母も同じような人間だったので「母が駄目になった時、どうにかする方法はないね」とたまに相談している。

流石に気がかりなので年1だった里帰りが最近半年未満の周期になっている。

私が働き出した頃、両親が気にかけて遊びに行くと言っていたとき気持ちがわかる。

この感情責任感の枠組みに入れるのが一番似合っているのだろう。

実家に寄るといつも母と同じような話題になる。

最近老人ホームもいい感じらしいけど、やっぱり知らない人と集団生活ってのはね」

そうなのだ

我々の血は、集団生活には馴染めないのだ。

その血を昔は呪いだとと思ったが、今はそのおかげで辛うじて母と繋がっているとも思う。

何故繋がっているべきなのか、これもやはり、責任なのだろう。

絆という漢字は、家畜を繋ぐための縄を意味する言葉として産まれたらしい。




この連載は取り敢えずこれで終わり。

オチは?って言われても困る。

2021-10-02

anond:20211002225233

高齢化葬儀需要が高まっているからな。葬儀社の株上がってるんじゃね?

近所の看板に、「安い、早い、家族葬」とかい看板あって時代を感じたわ

2021-09-04

葬式をやること自体マナー違反

せっかくの貴重な休みだってのに、このクソ暑い中、わざわざ外に出ないといけねえし、足りない用品を買わないといけねえ

なにが「冠婚葬祭マナー」だ、何がふくさ紫色

今回の葬式でのあらゆるマナー違反によって生じた、参列者全員の不快感を合わせても、俺がこのクソ葬式に参加しないといけないということで受けた不快感の足元にも及ばねえよ

他人不快にさせないのがマナーだろ

葬式がこのご時世にオープン形式でやられたことで、俺はもうとんでもなく不快になったよ

ということは、葬式のものマナー違反じゃん

まったく参列したいなんて思ってないのに、行かないと人でなしみたいになるから、行かざるを得ない それが葬式じゃん

皆わかってるはずだろ

じゃあ家族葬しろ

家族葬じゃない方法を選ぶのはマナー違反でしょ

2021-06-28

これって本当なの?

2021-06-27

2年ぶりくらいに仕事以外で外出したんだよ・・・

葬儀あんしん価格」「家族葬・30万円」とか「葬式が安い」看板20本くらい見て

とても憂鬱になったわ。あと「お部屋片づけます」という業者さんの店舗も見た。お年寄り孤独死して、

とりあえず遺品片づけて葬儀するみたいな需要ふえてるんだろうなぁ

2021-04-04

俳優田中邦衛さん死去 88歳「北の国から」などで存在感


2021年4月2日 22時10

テレビドラマ北の国から」や「新選組!」、映画学校」など、数々の作品存在感のある役柄を演じて親しまれた俳優田中邦衛さんが、先月24日、老衰のため亡くなりました。88歳でした。

田中邦衛さんは昭和7年岐阜県で生まれ昭和30年劇団俳優座」の養成所に入りました。

昭和32年に「純愛物語」で映画デビューし、昭和36年から始まった映画若大将シリーズでは加山雄三さん演じる主人公若大将」のライバル青大将」の役を演じて、存在感あふれるコミカルな演技で人気を集めました。

その後も、映画化もされた民放の人気ドラマ若者たち」で両親を亡くした5人きょうだい長男の役を演じたほか、ヤクザ映画の「網走番外地シリーズや「仁義なき戦いシリーズでは、悪役としても存在感を見せるなど、幅広い役柄を演じました。

中でも、昭和56年に始まった民放ドラマ北の国から」のシリーズでは、北海道富良野市大自然の中で息子と娘の成長を見守る寡黙な父親の役を20年以上にわたって演じ、温かみのある演技で幅広い年代視聴者をひきつけました。

また、平成5年に公開された山田洋次監督映画学校」では夜間学校に通う中年男性を熱演し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しました。

このほか、平成16年NHK大河ドラマ新選組!」では近藤勇養父、周斎の役を演じ、平成17年NHKスペシャルで放送された終戦60年企画ドラマ「象列車がやってきた」では戦時中動物園で象を守り続けた飼育員を演じました。

平成11年紫綬褒章平成18年には旭日小綬章を受章しています

田中さんは、平成22年に公開された映画最後の忠臣蔵」に出演し、平成24年に亡くなった俳優地井武男さんのお別れの会に姿を見せていましたが、その後、俳優活動から遠ざかっていました。

家族によりますと、田中さんは先月24日、老衰のため、家族に見守られながら息を引き取ったということです。

葬儀家族葬の形ですでに執り行われ、お別れの会などの予定はないということです。

札幌市民

田中邦衛さんの死去について、30代の会社員男性は「大往生ではないでしょうか。北海道といえば『北の国から』。『北の国から』といえば田中邦衛さんだというイメージです」と話していました。

また、50代の女性は「とても有名な方なので残念です。それほど年をとられていたなんて、知らなかったので驚いています」と話していました。

倉本聰さん「気持ちの中に大きな穴」

田中邦衛さんが出演した民放ドラマ北の国から」を手がけた脚本家倉本聰さんは「気持ちの中に大きな穴があきましたね。とにかく人間的にも友人的にも無二の人です」と心境を語りました。

また、このドラマでの配役について「さまざまな候補者がいてその中で誰がいちばん情けないんだろうという議論になって、邦さんになった」と明かしたうえで、「ドラマを通じてとても演技が成長していったと思う。彼の芝居は、本人はとても悲劇的なのに端から見ているとなんともおかしくなる。これが彼の神髄だと思う。情けなさの中に詩がある」と評しました。

そして「邦さんは亡くなったけれど、僕の中で、彼が演じた五郎は厳然と富良野で生きています。またあしたスーパーに行くと、『先生』なんて言われて肩をたたかれるような気がします」と田中さんをしのんでいました。

加山雄三さん「今は何もことばにならない」

映画若大将シリーズ田中邦衛さんと共演した加山雄三さんは自身ホームページコメントを発表し「ショックです。邦さんに連絡をとりたくてとりたくて、ずっと気になってて、不思議なことに、2日前若大将DVDで邦さんの姿を見たばかりだったんだよ。信じられない。今は何もことばにならない。寂しいよ本当に寂しい。邦さん本当にありがとう」とつづりました。

山田洋次監督「一緒にいるだけで楽しい気持ちに」

田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、田中さんが出演した映画学校」の山田洋次監督は「田中邦衛さんへ 善良が服を着て歩いているような人だった。一緒にいるだけで楽しい気持ちになるようなすてきな人だった。あん俳優が、あん日本人いたことを誇りに思う」とコメントしています

役所広司さん「本当にすばらしい俳優さん」

田中邦衛さんが亡くなったことを受けて、映画最後の忠臣蔵」で共演するなど長年親交のあった俳優役所広司さんは「邦衛さんには大変お世話になりました。ここ数年ずっとお元気なのか気がかりでした。スタッフにもキャストにも愛された、本当にすばらしい俳優さんでした。覚悟はしていましたが、悲しいです。邦さん、お疲れ様でした」というコメントを寄せました。

吉岡秀隆さんと中嶋朋子さんがコメント

田中邦衛さんが亡くなったことについて、民放ドラマ北の国から」の共演者コメントを発表しました。

息子の役を演じた俳優吉岡秀隆さんは「いつか、この日が来ることを心のどこかで覚悟しておりました。今は邦衛さんの笑顔しか思い浮かびません。自分覚悟の小ささとあなたの大きな優しさに涙しかありません」とコメントを寄せました。

また、娘の役を演じた俳優中嶋朋子さんは「幼い頃から、今まで、何も変わることなく、人として、深く接してくださいました。田中邦衛さんという存在出会い、見守っていただけたことは、かけがえのない宝ものです。役者として、人として、大切なものをたくさん教えていただきました。本当に本当に感謝でいっぱいです。大好きです。出会う人をみんな幸せにしてしま少年のように無邪気な笑顔ばかりが胸に浮かびます天国でも、たくさんの人を幸せにしてくださいねありがとうありがとうありがとう」とコメントしています

2021-03-31

生きるのって辛い

私は20代女、公務員だが休職中。復職絶望的だろうと医師から見解。診断はADHD気分変調症。そして回避性パーソナリティ障害

休職とは関係ないが持病で脳血管疾患(難病)とハウスダストアレルギーと成人アトピーがある。

両親や親戚はおらず、精神障害を持つ年の離れた兄がいる。

まり詳しく書くと身バレが怖いが、時々辛くなって自分語りをしたくなる。

正直現状めちゃくちゃに生きずらい。薬がないとまともに生活を遅れないが、目に見える形の障害がないため健常者として生活を無理やり送ってきた。くそ長いけど私の人生を知ってください。

まず小学校中学年まではそれなりの生活を送ってきた。一軒家で両親健在。収入はそれなり。

問題子どもへの愛がなかったことくらい。衣食住に金をかけてもらえず、幼稚園のころから同じ下着をずっと着ていたり、朝食は8枚切りの食パン半分だったり(朝食が出るだけ良いかもしれない)したが、その年頃の子どもは家庭内世界の全てなのでそれが当たり前だった。

父親仕事ほとんど帰らず家は母親の天下だった。帰宅すると宿題をやった後、母親マッサージ。兄が帰ってきたら交代して、両親が買ってきた教材をやる。母親の機嫌を損ねるとヒステリックに怒られたあと無視され、ご飯を抜かれる。テストの結果が100点以外でも似たようなことになる。たまに甘えたくなり母親に近づくと「ウザいから近寄るな」と突き飛ばされる。触れ合った記憶は機嫌が良い時に耳掃除をしてくれたことくらいしかない。なので父親が帰ってきたとき必死父親に甘えていた。母親はそれを冷ややかな目で見ていた。

両親は外聞を気にするタイプだったので、私たち下着ボロボロでも服はそれなりに綺麗なものを着せられていた。外での母は優しかったが、そこではしゃぎすぎると帰ってから調子に乗るな」と怒鳴られ叩かれる。いつも母親の顔色を伺っていた。

ある日の夜、私は全身麻痺を起こして倒れた。前々から半身麻痺の症状が出ていたが、両親に話してもまともに取り合ってもらえなかった。私は救急車を呼んで欲しいとお願いしたが、「救急車を呼ぶと近所で噂になる」という理由拒否された。結局麻痺が収まら呂律も回らなくなり、父親の車で救急病院に連れていかれた。1週間ほど入院したが、病院生活がとても楽しかたことを覚えている。

半年後に手術をする予定ですすめていたところ、母親くも膜下出血で倒れる。私の病気母親から遺伝だった。この際、母親我が家貯金を全額実家横流ししていたことが発覚して両親が離婚する。私たちは両親のどちらにつくか選ばされたが、こんな状態父親以外選べるはずもなく兄妹ともに父親について行く。手術は無事に終わった。

父親と兄と3人で暮らすことになり、平和になるかと思えば、父親母親と似たような人間だった。特に父親プライドが高く、少しの意見も口答えも許さなかった。まだ小学生だった私には生きるためにも父親の顔色を伺いながら生活を送るしか無かった。やはりテストの点は満点しか許されなかったし、褒める時は「俺の娘は他のバカとは違う」貶す時は「こんなの俺の前に出して恥ずかしくないのか」と常に父親が中心の声掛けをされた。そのうちテスト学校で捨ててくるようになったが気が付かれなかった。週に1回父親と家の掃除をやり、週に2回父親に連れられて買い物に出かける。父親は「年頃の娘と仲の良い父親」像に固執しており、出かけることを拒否したり、外で不満を口に出すと家に帰ってから怒鳴り散らされた。少し抵抗するような態度をとれば「俺にそんな態度とっていいとおもっているのか」と怒鳴られ、物をぶちまけられて脅された。この頃には自己主張ができなくなっていた。おまけに父親は娘を育てる知識がなく、極少ないナプキンしか買って貰えずしょっちゅう服や寝具を血まみれにしたし、ブラも買って貰えず膨らんできた胸が目立つのが嫌だった。生理ショーツや胸パット付き下着存在もこの頃は知らなかった。

兄は父親に反抗し帰宅が遅く、部屋に閉じこもりがちだった。父親は兄に興味がないようで成績以外で構うことがなかった。だが、お金ほとんど渡していなかったようなので兄の生活は苦しかったと思う。(進学校バイト禁止だった)父親からは兄の愚痴を聞かされ、兄から父親愚痴を聞かされた。

父親地域の人との関わりを嫌い、学校行事にも一切顔を出さなかった。保護者ありきの授業参観運動会はとても惨めな気持ちになって辛かった。周りに頼ることは恥ずかしいことだと教えこまれ、誰にも何も言えなかった。自己主張ができない私は友だちも少なく、地域との繋がりも希薄で家が世界の全てのようなものだった。中学生の時は部員との交流はあったが、土日に友だちと遊ぶことに父親が良い顔をせず深い仲にはならなかった。小学校高学年のころいじめあい学校行きたくない父親に打ち明けたが、「ゲームを買ってやるから行け」と言われてちゃんと行った。ゲームは年に1回誕生日にだけ買って貰えるものだったので、いじめに耐えるだけで新しいゲームができるならそれでよかった。これ以降父親になにか相談することはなくなる。

中学生になった私はADHD特性が顕著に現れるようになった。遅刻したくないのに遅刻してしまう、授業に集中したいができない等のストレスから解離症状が出るようになり、色々な場面で意識を失うようになった。他にも色々と要因はあった(父親洗濯を正しく行えず体操服がいつも生臭かったり)(家庭内でも意識を失うようになり起きていられなかったり)で不登校気味になっていった。その頃には父親学校に行かないことに文句を言わなくなっていた。それだけはありがたかった。

そんな最中父親会社をクビになる。私が中学生の時のことだ。パワハラモラハラサボりが原因だ。父親会社営業本部長で実質No.2(本人談)だったが、母親離婚してからどんどん帰宅時間が早くなっていった。職場まで車で2時間かかるのに最終的には朝は9時に家を出て、17時半には帰宅していた。あまりにも出勤時間が短いので大丈夫なのか聞いたことがあるが、営業先に口裏を合わせてもらって出張扱いにしているらしかった。とんでもないことだがさらに、「俺は他のやつらより効率よく仕事をしているから早く帰っても問題ない」と言っていた。今思うと頭がおかしいとしか思えない。そして女性社員気持ち悪いメッセージを送り、新人愚痴を言いふらす……典型的なとんでもパワハラクソ上司だった。そんなだったので部下から告発を受け会社を即日クビになったのだ。本人は「不当な解雇だ。裁判を起こせば俺が勝つ」と何度も言っていたが、自分に非があることはわかっていたのだろう。裁判は1度も起こさなかった。

クビになったタイミングが悪く家を立替えた直後だったため、収入必要だった父親コンビニ店長をやると言い出した。しかし、コンビニ経営するには連帯責任者としてもう一人人員必要になる。父親には友人が一人もいなかったし、親戚も一人もいない。そのため、他社に内定が決まっていた成人したての兄を連帯責任者として引っ張りこんだのだ。今まで見たことがないくら必死拒否をする兄を力で脅して内定辞退させ、結局二人でコンビニ経営することになった。

その後研修のため2週間家を空けるとの事で、私は児童養護施設一時的に預けられた。そこで、我が家生活が異常だったことを知る。皆が好きなように時間を過ごし、ルールをこっそりやぶって笑いあったり、ご飯がまずいと文句を言ったりのんびり団欒を過ごしたりする。私はそこで初めて家庭の温かみを感じた(違うかもしれないが)、家庭の会話に温度を感じたのが初めてだったのだ。予定は2週間だったが、直前で兄が家出をしたため結局1ヶ月をそこで過ごした。兄は警察保護され、父親研修を受け、私は最終日に家に帰りたくないと大泣きした。そしてコンビニ経営スタートする。

そこから半年ほど私は廃棄のコンビニ弁当だけで生活をした。父親と兄はローテーションでひたすら無休で働いていた。生活リズムはめちゃくちゃだった。兄は父親への反抗で風呂に入らず出勤したりしていた。4日風呂に入っていない兄は汚くて臭くて嫌だった。これでコンビニ接客してるのは今考えてもやばい。私は父親に捨てられることが怖くて、反抗はできなかった。食器を並べる時、父親の箸を少し崩して置くのが小さな抵抗だった。父親メニエール病発症していたがそれでも休むことはなかった。「このままじゃ破綻すると思う」と声をかけても「私への誕生日プレゼントとして休みを取ってほしい」と声をかけても「俺の仕事に口出しするな」と怒鳴られ物を投げられて終わった。いつか父親死ぬだろうなと思った。死んだ。

中2の冬のある日。父親が死んでいた。

その頃の私は起きられている時に父親学校に送迎してもらっていた。その日もいつも通り学校へ乗せていって貰おうと思っていたが、寝室に父親がいない。トイレにもリビングにもいない。家中探してもいない。けど、外に車はある。そうして車を覗きに行くと、眠るように死んだ父がいた。最初普通に眠っているのかと思ったが、こんなに寒いのに白い息が出ていなかったため何かがおかしいと思った。大声で何度も父親に呼びかけるがピクリとも動かない。何度も何度も呼びかけても動かなくて混乱した私は中学校の先生電話をかけた。

それからはあっという間で先生が来て、警察が来て、救急車も一応来て、警察の人に「恐らく煉炭を使用した一酸化炭素中毒による自殺事件性はない」と説明を受けた。兄はコンビニに出勤していたので、事情聴取は私が受けた。警察の人に色々教えて貰って、家族葬の予約をとって父親を骨にした。

父親のために生きていたようなものなのに捨てられたんだなぁと思った。私と兄はみっともなくあがいて生きてまでどうにかしてあげたい存在ではなかったんだなって。

この時から私の内側の時間は止まっている気がする。

ちなみに母親は、父親の死を知り家に押し入って来て、殊勝な態度で「また一緒に暮らしたい」と言ってきた。どの口がと断るのだが断った途端に豹変し、ズカズカと家の奥へ踏み込んで家探しをして貴金属を持ち去っていった。

兄は対人恐怖症で私以外とまともに会話ができないので、来客や自治体等の対応は今も昔も私がしている状態だ。

なんか思い出してつらくなってきた。

この後のことは簡単説明する

・しばらく兄妹で生活する

精神科入院する(半年ほど)

退院と同時に児童養護施設入り(中3)

・入れ違いで兄が入院

高校進学。兄、就職

・兄が家事できず家がゴミ屋敷になる

・またも解離症状が出るも施設から理解がない

施設に馴染めず入院から退院

・安定して通学できず単位が危うくなるも担任先生サポートでなんとか進学

ADHDの診断を受けるがやはり施設から理解がない

・薬でなんとか通学できるようになる

公務員を目指す

・なんとか内定をもらい高校卒業する

施設を出て家に戻る(ゴミ屋敷)

公務員就職

パワハラやら元々の特性やらでぐちゃぐちゃになり休職

半年くらいの入院生活人生で1番楽しかった。

ゴミ屋敷支援員の方々の協力で脱却した。別に綺麗ではないけれど。

休職して半年ほど経つけれどいまだに無気力で何も出来ない。人とのコミュニケーションが怖いし、他人を信用できない。体調が良くなっても性格が、性格が良くなっても、特性人生邪魔をする。

目の前のことに必死すぎて友達ほとんどいないままここまで来てしまった。というか人の頼り方がわからなくて信頼関係が誰とも築けない。誰と話しても気を張ってしまう。相手不快にさせないようにと顔色を伺ってしまうし、自分自分を大切にできない。

兄は給料が少ないことと友達がいないことを度々気にしながらも、趣味ゲーム息抜きしながらなんだかんだ楽しそうに生きている。今はウマ娘にハマっているようだ。よく私に育成の楽しさを語ってくれる。

現状生きてれば良し、面倒なことは後回しで良くも悪くも細かいことは気にしない性格なのだ。私もそうなれたら良いのだが。

なんか今まで色々、色々あったけど社会に出たら一人の人間しかない。親ガチャの失敗のせいにしたいけど、毒親持ちでも立派にやってる人はたくさんいて、自分を褒めてなんてあげられない。

これからどうしたらいいのかビジョンも何も浮かばないよ。死ぬのは怖いから生きたいけど、生きるのは辛いよ。

2021-02-26

「あたたかくなってきたので人が死ぬ話をしよう」

記憶が完全に薄れてしまう前に、弟の誕生日なので、時効と嘯いて、書き留めます

その日は、自動車教習の実技最終試験の日でした。

から教習所に向かい、どうにか車を運転し終え、「まあ多分受かっただろ」と思いながら確認したスマホには、親からの「家の鍵持ってる?」「なかったら裏の鍵開いてるから」「昼適当に食べて」といったようなLINEが届いていた記憶があります

「何かあったのかな」と思いつつも、家の鍵は持っていたのでそう返しておきました。

ちなみに実技試験ちゃん合格していました。

合格をその日のうちに伝えられたかはよく覚えていませんが、とにかく昼頃には終わっていたため、家に帰りました。家には誰もおらず、親に電話をすることにしました。

「■■(弟)、死んじゃった」

涙声で伝えられたその情報に、まず出たのは驚きでした。現実において

「え??????????本当????????マジで????????????????????」

ぐらいの勢いで叫んだのは、後にも先にもここぐらいでしょう、というような混乱でした。

弟は、私が寮にいる間に、突然家出をし、自殺未遂をし、保護されたあと病院施設に入り、メンタルケアを受け、進学も家から遠く離れた施設から通える高校に行って、また自殺未遂をしたりしていました。その間弟は、家族を完全にシャットアウトしており、1年半の間誰も会えていませんでした。

自殺未遂をしていたこから、それが成功したんだな、ということは簡単に察することができるはずなのですが、私は「次会ったとき『よう……5年ぶりだな……』って一言目に言お」などと考えていたぐらいには弟の死への願望を非現実的に捉えており、まさか本当に成功させるとは思ってもいませんでした。

なので、正直なところ「マジかよあの野郎ッ やりやがった」ぐらいの気持ちで報告を聞いていました。

親は「帰りはいつになるかわからない」というので、まあそれはそうと思いつつ、電話を切り、家に常備してあるパスタを食べました。パスタはいつも通り美味しかったので、美味しいなぁ、と思いました。

薄情な兄だと思われるでしょうが、1年半前以前から私はほとんど寮におり、弟と会うのは帰省した時の食卓ぐらいでした。弟は部活をしており、土日も練習するため学校に出ていたからです。そのため、「昔よく遊んだが、最近会っていなかった遠い親戚が死んだらしい」程度の質感でした。薄情ですね。

お昼を食べたあとは、前からたかった時をかける少女アニメを見ました。正直なところ特に面白くもなく、内容が記憶にありません。ただし、流石に内心ではそれなりにショックを受けておりまともに見られていなかった可能性もあるかと、内容を調べてみました。しかし、やはりつまらなそうでした。

(今回はつまらなかったわけですが)、美味しいご飯を食べることも、面白作品を摂ることも、生きている人間特権です。

実は死んでもそれらはできるのかもしれませんが、本筋から逸れてしまうのでやめます。ただし、死ぬことで人間活動に付随する空間の縛りがなくなるなら、死んだ方が楽しそうですね。

ともかく、それができなくなるのはもったいない選択だなぁ、と思いながら親の帰りを待っていました。

ゆっくり人生をしていけば違った世界を見られたかもしれないのに、その可能性を排除して不可逆の選択を選んだのは、私には理解できないことでした。得られたかもしれない幸せ放棄しているから。

ただまぁ、私はまだ人生幸せを感じる余地はあると思っているから、なんとなく幸せになれそうな方向を探して生きています。全力で死ぬよりなんとなく生きる方が簡単なので。

から、全力で死ぬ決断を下せた弟は、ある意味ですごいなぁとも思っています

から知ったことですが、弟の財布に入っていたレシートには死ぬ前日のものがあり、そこではたくさんのお菓子が買われていました。弟にとっては、それが世界で一番幸せな時に近づくための手段だったのかもしれません。最期の晩餐がそれであることを私は可哀想とは思いません。もったいないと思います

親が帰って来たのは17時半とかで、まあまあ早かったなと思いました。記憶は朧げですが、遺体は布団に包まれていた気がします。それを車から下ろすときに足を持ったのですが、まだ温かく、しか感触は確かに〝終わっていた〟ので「肉の塊だな」と思いました。死体に触るのはもちろん初めてでした。

仏壇のある部屋に遺体を置き、改めてそれを見ると、首には縄か何かで頸った跡がくっきりと残っており、顎の辺りまでが紫色に染まっていました。服装私服だったか既に死装束だったかいまいち覚えていません。私がファッションに興味がないからでしょう。ましてや死んでから洒落しても何もないです。

親は泣いてるし、同居している祖母ももちろん泣いていました。私は涙も出てこないし、なんなら別に悲しくもなく、「へー死んだんだ」ぐらいの兄としては最悪な所感を以てその場にいました。流石に酷すぎるだろ、とも思いますが、勝手に死んだ弟如きのために感情を曲げて自分に嘘をつくのは嫌でした。

整理してて思ったんですが、マジで弟のことほんとになんとも思ってないですね。ぶっちゃけ弟のことはあんまりきじゃなかったです。ポケモンカードの強カード全部捨てられたり、買った本勝手に読まれしかも折り目つけて返されたり、DSソフト勝手にやられたり、いろいろありました。悪い思い出が。

ただ、一度距離感をとって、年をとって、互いに価値観確立して、その上でゆっくり話せば、あのときの最悪な話も思い出話になると漠然と思っていました。私は、自殺未遂も含めた弟の哲学について知りたかったし、弟が何を考えていたのか知りたかった。

それももったいないな、と思います

遺書はなく、スマホデータは消されており、わずかにカウンセラーさんと弟の友達から漏れでる情報によると、「自分に生きている価値はない」「消えるしかない」などと考えていたらしいです。

それはつまらない考え方だ、と私は思うのですが、それに至るまでの積もる話も、私は何も知りません。

独りで考えて、独りで完結して、そんな生き方自分もするのでしょうがさらに独りで死を実行して独りで死ぬのは、流石にどこかネジが外れていたような感じはしています。私が寮にいる間に、いろいろとあったようです。実は私のことも恨んでいるのかもしれません。私には私のことしかわかりません。

弟は朝を食べたあと、9時ぐらいに首を吊り、そのまま1時間ぐらい発見されなかったようです。春休みだったので無理もないですね、見つけた施設の人はさぞ驚いたと思います事故物件作りやがって……と私は思いました。

しかもどうやら発見時は舌が口から出ていたらしく、なかなかグロみがあったそう。

私が教官監視されながら車を走らせているときに、弟の生命活動が終わっていたのは、後から知るとちょっと面白いなと思いました。何が面白いのかは自分にも説明できませんが、「世界のどこかで人が死んでいる」という実感なのかもしれません。解像度が高くなって、知らない感覚を知れたという。

もう記憶があまりないです。呆然としすぎての方ではなく、興味がない方の記憶の無さだと思います。親の親戚も来て、もう片方の祖父祖母も来て、皆泣いていて、自分は二階でいつも通りインターネットをしていました。それこそが私の正しさでした。

葬儀家族葬で、これは本当に何も覚えていません。

あっという間に出棺の日が来たらしいです。棺には、一つの他愛もないメッセージを書いた紙を入れました。「また会おうぜ」、みたいなやつです。

火葬場に向かう川沿いの道に、満開の桜が並木となって咲き誇っていました。親がずっと覚えておこうと言いました。私もあれは確かに綺麗だと思いました。

いよいよ焼くときになって、最後に何か、というタイミングで、親が膝から崩れ落ちすがり付いて哭いているのを見て、弟に「何やってんだよ」という気持ちが沸きました。

結局私は今まで泣けていません。これからもないかもしれません。

ともかく、人が一人死んだ、そういうお話でした。

2021-01-15

anond:20210114104835

https://anond.hatelabo.jp/20210114104835

自分も昨年末祖母を見送った。

リモート葬儀というものは知らず、やる/やらないの二択で考えたが、知っていたら真剣検討したと思う。

悩み、葬儀はみなで集まったが、感染リスクを恐れながら日数がたち、その心配がほぼなくなってから、ようやく祖母との思い出などを考えられるようになった。

友人の職場人間で、家族葬から平気だろうと集まったら、高齢の会葬者からコロナで死者がでて、一族みな自宅待機、という具体的な事例があった。そして職場での事後対応顛末も聞いていたからだ。

リモート葬儀は、非常に現実的な策ではないだろうか。

一方、親族の反応は、言葉通りに受け取るべきでないように思う。

自分ITエンジニアであり、高齢者の多い施設に設置し、顧客操作する端末をつくったことがある。

すると、当たり前に情報機器を使いこなす世代からは、想像もつかないトラブル、破損が頻繁する。

そして、トラブルの主は、かなりの確率で怒り、機械化、IT化を非難する。

ITが分からず、カッコ悪くて若手に聞くにも聞けず、という高齢者が、

恥をかかされた、勝手がわるかったのを、

人のせいにしたくて言っているケースが非常に多いように感じる。

IT虚業どうこうという言葉も、

ついていけてない自分、そして遅れて勉強しようともしない自分を、

正当化するためのツールになる。

仏法を大して知らずに語るも然り。

問題があったとすれば、リモート葬儀したこと、ではなくて、

勝手の悪い思いをさせないように、説明するのが少し足りなかったことだろうか。

ただ、突然の葬儀で、仕方ないとは思いますが。

さて、ではどうしたらよいだろう。

始まる縁があれば終わる縁もある、という僧侶お話もごもっとも。

僕ならそうするかも。

ただ、お母さんの気持ち、今までの付き合いを考えると、

親族に言われたことを受け流す度量をもって、

49日など、どっかで軽くフォローするほうが穏当かな?

仏法は疎いので、偉そうなことはいえませんが。

次の世代人間が、

故人の関係者親族とはいえ自分とは違う考え方の人たちを集め、

その調整を経験するのも葬儀の意義では。

そこで、リモート開催という、この厄災下に則した調整、決断をされたと思います

本当にお疲れ様でした。

祖父様のご冥福をお祈り申し上げます

2021-01-14

anond:20210114171220

聞きかじった話だからあやふやだけど、仏教目的ひとつが「見送った人の心を整える」だったような。

自分も去年家族を見送った(因みに家族葬)けど、心が千々に乱れそうになる度にその事を思い出して正気に戻れた。

上のお坊様増田投稿を読んで改めて自分も救われた。

投稿してくれて元増田とお坊様増田、有難うございます

そして増田は心を整えるためのお葬式がかえって傷を深めるのは本末転倒なので

とにかく温かくして、美味しいものを食べて、ご両親共々少しでも元気になってほしい。

増田判断は正しかったと思う。親戚一同感染リスクを避けられて本当によかった。

そもそもコロナで亡くなった人を棺すら開けられないまま直葬したら信心足りないなんて理屈おかしいんだし。

でもどうしても気になるなら、四十九日法要の報告がてら親戚に直筆の手紙を書くのはおすすめ

弔意に感謝して、でもお葬式平時のように出来なくて申し訳なかったと。

年寄りには直筆の手紙が一番効く。

そこまでして尚文句言う親戚はもうしょうがない。

とにかくお疲れ様でした。

一日も早く増田とご両親が心穏やかに過ごせるようになりますように。

anond:20210114104835

祖父の意に反するけど家族葬にしてコロナ収まった後の何回忌かを大きくやればいいんじゃない?

葬式なんて生きてる人間の為にやるもんだし、それで人間関係壊したくなかったら尚更や。

でも金出さんくせに口だけ出す親戚なんぞ切っても問題ないやろ

2021-01-01

ショックだ

今日、裏の家の奥さんが亡くなったって地区当番の人から連絡があった。

こんな時期なので家族葬香典辞退で参列することはないのですが、子供中学生)が同級生で、挨拶程度の言葉は交わしていたので。

2020-10-27

葬式エプロン

旦那祖母が亡くなった。自分20代で、大人になってから葬儀に参列した経験がない。旦那の両親からは数日後に葬儀を行うので、もし仕事が休めるなら参列してほしいと言われたのでもちろん参列することにした。そして田舎自分の両親に、取り急ぎ祖母が亡くなった旨を伝えた。

そこから父親の勢いがすごかった。

今日何してるの?仕事休みなさい。◯◯君(旦那)は?出張中?今すぐ取りやめて、二人で実家に向かいなさい。◯◯君が戻ってくるのに時間がかかるだろうから、まずは一人で喪服とエプロンを持って実家に行って、泊まり込みでお手伝いしなさい。嫁として働いて。身内が亡くなったら仕事より葬儀を優先するのが一般常識だよ。他人事だと思うなよ。」

色々と言いたいことはあったが、今回は家族葬らしくて葬儀社の人がやってくれるし、参列するだけで良いと言われたとだけ伝えた。その後もごちゃごちゃ言われて納得していないようだったが、仕事があるからと言って終わった。

身内が亡くなったら嫁が仕事休んでエプロン持って駆け付ける?ww時代錯誤も甚だしいwwと思ってネットで見てみたら、今でもちゃんとした大きな葬式では普通にやるものなんだね。

ちゃんとした大きな葬式、一生やらなくていいと助かるんだけどな。嫁に仕事を休ませて手伝わせないとできない葬式なんてやらない方がいいよ。

最近流行っている家族葬とか一日葬とかは、仕事全部投げ出して駆け付けるような価値観だんだんみんな無くなってきたからできたんだなあと痛感した。

お前は嫁なんだから全部投げ捨てて家のことを優先しろ!っていう価値観が、女性社会進出を妨げてきたんだなーーーいまさらながら父親と縁切りたい。

2020-10-19

いまだに信じられないんだけど、昨日親戚の七回忌に家に行った帰りに飛び降り現場を見てそのあとすぐLINEで母の幼馴染で前の会社上司コロナで亡くなったとメッセージが入った。そのあと予定していたか渋谷に行ったけど、なんかいつもならカップルばかりで嫌だなと思ってるはずなのに無だった。母は今日わりと元気良く出社していった。割り切るのはやすぎん?と思ったけど、母の方が親しいのに私の方が気落ちしててなんか自分クズなのかと思ってしまった。上司旦那さんにうつされたらしく、それが家族うつり持病があったからあっという間にICUだったらしい。母は7月あたりに連絡したけど返信はなく、ただ素麺が送られてきたと。詳しく聞くと1か月くらい来なくなっていて、ある日突然朝会で言われたらしい。母はメールもLINEもしたけど返信なし。リモートだったか上司会社の人とは接触していないけど・・・ちょうど、親戚の家に寄る前に上司さんの名前を出したのどんなタイミングだよって・・・悪口も多く善人ってわけじゃなく毛嫌いする人もいたけど、私は好きだったし殺しても死なないように見えたのに。嘘みたい。家族葬だったらしいし実感もない。どうしよう。これからもっとコロナで大変になるから今のうちにGOTOとかいろんなところ行こうと思っていたけど、どうしよう。

2020-07-15

anond:20200715193810

東京差別というより人が集まる事や地方間の移動を避けるためだね

今は葬儀社もコロナ対策に非常に気を配っていて、家族葬やごく小規模に済ませるようすすめられるよ

東京近郊でも葬祭場近くの駅前に会場への案内係が立つことが少なくなったの気づいてる?

2020-05-03

anond:20200503162155

家族葬デメリットで「死んだことを知った親の知り合いが数年後になっても線香あげに来てうざい」ってのがなかったか

コロナ後にそれが待ってるぞ多分

2020-04-22

おばあちゃんが死にそう 【追記】亡くなりました

少し気持ちが落ち着いたから今書く。亡くなった後だと書けないだろうから

おばあちゃんが大好きだった。長男教のジジイと違って自分に優しかった。両親共働きで寂しいときに遊んでくれたのはおばあちゃんだけだった。お手玉したり神経衰弱したりしてた。料理も作ってくれた。

おばあちゃんは常に癇癪起こしてるジジイの横にいて諌めてたりしてた。おばあちゃんジジイより先に老人ホームに入ったんだけど、ジジイしょっちゅう会いに行ってた。その時にジジイがおばあちゃん好きだったってようやくわかった。

おばあちゃん幸せだったのかな。田舎農家に嫁がされていびられるは夫は癇癪持ちフォローしなくちゃいけないわ、孫は一人も結婚しないままだわ…「孫が結婚するまで死ねない」って言っててすごく長生きしたのに本当にすみません兄弟全員モテないんです。

老人ホームに週一で面会行って親戚の人含めたら週三で面会行っててすごく元気だったんだけど、コロナのせいで面会行けなくなって元気なくなったみたいで入院になった。入院中も一切会えなかった。

今日にとうとうってことで電話きてようやく面会に行けたけどもう話せなかった。でも電話より実際は元気だからーってノリですぐ帰されたのに夜にまた電話かかって本当にヤバイことになった。会いに行ったけど常にアラーム鳴ってた。

悲しいことに生きてるおばあちゃんに会いたい人達は皆高齢だったり免疫低下する薬飲んでたりで、この時期に病院には来れない人しかいなかったから誰も面会に来ない。

親もコロナにかかってるかもしれないので病院迷惑かけられないから泊まれないで帰った。葬式するにしても超家族葬になる。家はど田舎から葬式盛大にやる地域だしジジイの時もめっちゃ大変だったけどジジイは喜んでるだろうなとは思った。

面会もされず、葬式にも人が来ないっておばあちゃん寂しいだろうな。本当にごめんなさい。

でもコロナにかかってたら葬式どころか最後の面会もなかったし、そもそも医療崩壊起きてるのかみたいなときコロナでもない90代を入院受け入れしてもらえるか疑問なので恵まれてたのかもしれない。コロナ家族亡くした人達に本当に悪いけど、そう考えなきゃおばあちゃんが可哀相すぎて嫌になる。ごめんなさい。おばあちゃんがそんなこと考えてるわけないから完全に自分エゴです。ごめんなさい。

書いてて辛くなったけど本当に死なないでほしい。コロナ終息するまで生きてほしい。親戚苦手だけどお通夜葬式も49日も一周忌も頑張るから迷惑じゃないから。100歳まで生きてよ。

本当にコロナさない。寿命だろうがなんだろうか知るか。おばあちゃん本当にごめんなさい。

9:45追記

葬儀の手配が終わりました。本当はこれを書いた30分後には容態が急変して病院に呼び出しされてたので、すぐ消そうかと思ったら1ブクマついてて残してました。今落ち着いて見たら優しい言葉たくさんついていてびっくりです。ありがとうございます

おばあちゃん増田やってるなんて言ったこともちろんなかったけど笑 今日はおばあちゃんにたくさん言葉もらったよって話しかけてみます

親父はおばあちゃんはあえてコロナの時期に亡くなったのかもよと言っていました。気を使う人だったので、家族葬だったり親戚呼ばなくていいこのタイミングを選んだのかも、と。そうかなー?

最後にすごくしょうもないことを書くんですが、葬儀屋さんが一番コロナ事情通なんですね。斎場同じなのは聞きたくなかった…

2020-04-04

おばあちゃん入院した

老人ホームに入ってるおばあちゃんなんだけど、今まで自分達と親戚含めて週3くらいで会いに行ってた。でもコロナの影響で面会がずっと出来なくなって元気がなくなって、今日コロナじゃない理由入院になった。入院後もコロナのせいで面会が出来ないから親だけ会いに行ってたけど個室だしダメかもだって。更にもし亡くなっても超家族葬

コロナ患ったわけじゃないのにコロナのせいでいろいろ酷い…なんだよ…

2020-02-08

anond:20200208132000

古いワープロとか、筆で書いた一覧が、爺さんの家にはあった。。

盆と正月に会っている親戚...結婚式に呼んだ人とかかぁなぁー。

かに家族葬ありかも。病気になったら70代はあっという間だ。  

anond:20200208132000

たくさん人呼ぶと大変だから、「呼ぶ人がわからなかった」という体で家族葬しておいたらいいと思います

2020-01-08

https://anond.hatelabo.jp/20200108055029

近年ほとんど家族葬になってきてるんで大手葬儀社は経営が苦しいんですよね。

家族葬メインの小規模な葬儀社もたくさんできていてそちらに顧客を奪われたりしていますし。

なので、たまにこういう生前顔の広い方が亡くなって一般葬をするとなると、

大手はここが稼ぎ時だと言わんばかりになりふり構わず営業仕掛けてきて

隙あらばオプション増し増しにして最大の利益をひねり出そうとするのですよ。

少々ぼったくられることになったってそんなことを気にしている余裕のない遺族がほとんどですしね。

小さいけれども信頼できる葬儀社が地域には必ずありますので、時間のあるうちに探しておくのがよいと思います

2019-10-10

anond:20191010113509

それな

現役世代じゃなくて既にもう親世代から希薄化が始まってるんだよな

そのかわり「葬式家族葬で十分」って言われとるが

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん