はてなキーワード: 実践とは
なぜ教習所の教官はあんなにイライラしているのか、甚だ不思議でしょうがなかった。
昨日自動車のハンドルを握ったばかりの頃に、「基本的なことが出来てないんだよ!」と怒鳴られたことがあり、「あたりめえだろ」と、率直な感想を抱いた。
その日の夜、
で検索したところ、非常にストレスが溜まりやすい仕事だとの口コミがまとめサイトで拾えた。
なんでも、「交通マナーや運転方法などの、自分からしたら常識のことを、毎日毎日若造相手に同じことばかり教え続ける。病んで当然」みたいな理由らしい。
素人の危なっかしい運転に同情させられてハラハラするとか、高速教習で寿命が縮まる思いをするとかなら納得できる。なにせ命の危機だ。気が立つのもさもありなん。
だが、『自分からしたら常識なことを教える』のも、『それを何度も何度も教え続ける』のも、それらは何がどうなってストレッサーとしてはたらくのか、まったく理解できない。
相手は知らないから教えを乞うために教習所に来ているのだし、同時に教えられる人数に限界がある以上は同じことを話すハメになるのもしょうがないだろう。
いや、『しょうがない』という表現もふさわしくない。妥協の意味合いなど介在し得ない。そもそもストレスに感じることがおかしいのだから。
同一人物に対して、同一内容の教導を複数回行わなければならないにしても、その怒りは不当なものである。
何せ相手からすればその指導内容は「知らない」のだ。初見だろうが再度だろうが、知らないものを実践しようがない。無知と忘却になんの違いがあろうか。
「あれこれそうしてって何回も言ってるでしょ!?」とヒステリーを起こしていたので、(祖母が何を忘れて、どういういきさつで怒っていたのか詳しくは覚えていないが)
「忘れたこと責めたら聞きづらくなるんだから、そんなにがなり立てたらだめだよ」と諭したところ、
「だって同じこと何回も何回も聞いてくるんだよ!?おばあちゃん、もうボケてるわ!」と憤慨していた。
よしんばボケていたとして、ボケている相手に「ボケている人間の症状を出すな!」と責めてどうなるのか。理解しかねる。
「別に同じこと聞かれてもいいじゃん」と言うと、「あんたは気が長いねえ……」とため息交じりに返された。
5年くらい二次でBL小説書いてるけど、読まれるのは「明るいorほのぼの」「ラブラブ」「わかりやすい」作品だな〜と感じてるよ(あとは全年齢よりR-18のほうがブクマ増えやすい)。
恋愛要素が薄かったり、暗かったりしても高評価をもらえるのはガチで上手い人だけ。もしくはフォロワーを多く抱えてるような、その人自体にファンがいる人。
あと字書きが忘れがちなのは、二次創作以外の小説を普段から読んでる人は少ないってこと。小説を日常的に読まない人の場合、長い文章ってだけで「あーめんどくさっ」てなるんだよね。難読漢字や難しい言い回しが多いのは論外。読みながら「この漢字なんて読むの?」「これってどういう意味?」ってなったら興ざめだからね。
目に見える形で評価されたいなら「読み手が読みたいと思うもの」を想像して書いてみたらいいんじゃないかな。すでに実践してるけど……って話なら、単純に文章が下手かストーリーがおもしろくないかのどっちかだと思うよ。
今から本の話をしますので、「ほーん」と思いながら見てください。(推敲後追記:本の話より自分語りが多くなってしまいました。)
自分は公立高校の教員を10年ほど続けています。最初の数年は比較的、学力の高い高校に勤務していました。中学段階での学力を輪切りにする入試で入学してくるので多少の上下はありつつも、中学校で上位30%〜15%の生徒が入学してくる学校でした。大学入試でいえば関関同立レベルに1/3程度の生徒が入学し、半数以上が産近甲龍に合格するような学校でした。(国公立はほとんどいません)
その後、異動した今の勤務校はいわゆる「生徒指導に課題のある学校」です。立地的なことや設立の経緯から、様々な背景を持つ生徒が多く在籍しています。ほぼ毎日のように生徒指導上の案件が発生し、停学を含めた懲戒案件も年間に50件以上起こります。
生徒の多くは中学校段階、あるいは小学校段階で「問題のある生徒(家庭)」としてリストアップされ、「高校に行くなら〇〇高校(本校)しかない」と言われて進学してきた生徒です。実例は挙げにくいですが、「金八先生」や「GTO」、「クローズ」をイメージすれば近いです。
勤務する中で最初は前任校との違いに翻弄されましたが、よくよく考えればその「違い」は当たり前で、今、目の前にいる生徒に対して必要な事を考えながら働いています。
在籍する生徒の多くは発達に何かしらの課題を抱えていて、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、ASD(自閉スペクトラム症)の診断を持つ生徒もいます。診断があれば、個人内絶対評価などの合理的配慮も行っています。
ただ、生徒の大部分は診断されていない、あるいは診断が出ない生徒です。しかし、それでも支援を要する生徒はたくさんいます。いわゆる「しんどい子」です。
「しんどい子」を前にした時、我々教員は大体2つのパターンに分類されます。①「しんどさ」に寄り添いすぎて甘々になる教員②「しんどさ」を理解せずに厳しさを押し付ける教員です。①に関しては「課題を多く抱えているのだから優しくしてあげれば良い」②に関しては「教員の言う事は全て正しい、言う事を聞けないのはおかしい」というように両極端になります。
教員の人間性やスキルにもよりますが、どちらにせよ「課題を多く持つ生徒を少しでも伸ばす」という視点に欠けてるなぁと思いながら過ごしています。
確かに、「しんどい子」を前にした時どうすればいいかわからないことは沢山あります。原因もわからない事が多く(発達上の課題に関しての理由はほとんどわかりません)、対処方法もわかりません。
そんなこんなでモヤモヤしながら勤務を続けて数年目ですが、2年前に「ケーキの切れない非行少年たち」という本に出会いました。この本は〜児童精神科医である著者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。 〜(出典:Amazon)という内容です。
この「境界知能 IQ70〜84」の人々が、我々の目の前にいる生徒の多くに当てはまると感じました。そして、この本から多くの気づきを得て、生徒との関わりを変化させてきました。
この「ケーキの切れない非行少年たち」の続編として「どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 」が出版されました。
この本です。紹介したいのは。学校教員や、対人の仕事をしている人、自分の子どもが「しんどい」保護者に読んで欲しいと思います。
特に教員の人には高学力の学校に勤務していても、いつかその様な生徒を前にするかもしれません。あるいは、こちらが気づいてないだけでそんな子を指導しているかもしれません。
我々(一般的な大人)には理解できない世界(環境という意味ではなく、認知力の不足による)で過ごしている子どもは多くいます。ですが、我々はそのことに気がつかず、気が付いても対応の仕方がわかりません。そうして、そのことに少なからず絶望し、他者との関わり方が歪む子どもがいるのは事実です。
しかし、おそらく多くの大人は(少なくとも教員である私は)目の前にいる子どもが「今の自分」よりも良くなり少しでも明日に希望を持って生きていくことを望んでいます。
正当化を避けるために、あえて言えば私自身も生徒指導の困難さから、いつも正解の指導ができているとは思いません。正直な所、自分の人間性に合わないことや、スキルに見合わない事、どうしようもない事が毎日起こります。
しかしながら、場当たり的な甘やかすだけの指導や、有無を言わせず従わせるだけの指導を超えた支援を考え続けたいと思っています。そうすることで「生き辛さ」を抱える人が減っていけばいいなぁ。と思いながら教員という仕事を続けています。
長くなりましたが、少しでも興味がでれば「どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 」を読んでみてください。
本家本流フェミニストと見做されている上野千鶴子が「ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。」と発言してる
当たり前の事だし何一つ悪い事は言ってないじゃん
モテない女の場合、言われるまでもなく二次元や芸能人に推しを作るなり生産的な趣味を楽しむなりして
平和に滅びていこうとしているし
わざわざ男に関わって性犯罪を犯そうなんて発想そのものがないし
上野千鶴子のその発言を見てもだから何?既に実践してるしそんなの当たり前じゃん、としか思わないんだが
なんで「弱者男性」になると「俺には女を孕ませて俺の遺伝子を残す資格がある」みたいに歪んだ考えに取り憑かれちゃうの?
もう一度言う。
派手ないじめはなかったけどほんのり自分を取り巻く空気が変で、とにかくしんどくて、当時は学校自体が無理だった。
アラフォーの今となっては再言語化も難しいけど、多分自分の持つ発達障害も原因の一つだった(その頃は知らなかった)。
空気が変、というのも自分だけが感じていたコミュ障の居心地の悪さだったかも知れない。
行かなくなった当初は親ともかなり揉めたし、ギクシャクしたし、泣かせもしたし自分も泣いた。
自分の場合、成績は悪くなかった。どちらかと言うと上位に入るほうだった。国語が得意でトップ争いするくらいだった。
それもあって、親との話し合いで「自分の気持ちや考えを伝える」ということが比較的でき、悶着は半年くらいで収まった。
学校と距離ができ、時間が経って、今では「普通の高校生活やってみたい」と笑い話にできる。
一番の後悔は、学校に行かなくなってから勉強から離れてしまったことだ。
正直な話、日常生活において中学校以上で習ったことを使う機会はそれほどない。
ただ、知っているのと知らないのでは生活の質に雲泥の差がある。知らない人は「雲」のほうの質も知らない。
日常で問題が起こったとき、解決方法の選択肢を多く出せるのは大抵の場合より「知っている」人のほうだ。もちろん例外はある。
人間は工業製品ではないので個体差が大きく、学校という場が合わない人もいる。いじめがあったり現場での問題も多い。
だから学校に行かないという手段自体は否定されるべきじゃないと思う。
ただ、勉強はしたほうがいい。
学校でやるようなことだけはやれという意味ではなく、「あらゆることから学ぶ意識を持ってほしい」という意味で。
もちろん教科書的な勉強も、未来の選択肢の維持のためにしたほうがいい。
でもそれよりもやってほしいのは世の中を学ぶことだ。
この世にはどんな問題があるのか、その解決には何が必要なのか、そのためにはどんなことを知って実践すればいいのか。
自分が将来したいことがあるとして、例えそれが一見「勉強」とは関わりのないことでも、絶対に先々必要になる。
学ばなくてもある程度はできるかも知れないけど、質のいい結果を出そうと思ったら勉強は不可欠になる。
薄っぺらい表面上のアウトプットは簡単に飽きられるし、代替できるものだからだ。
誰かが「勉強なんて役に立たない」と言ったところでその人が人生に責任を持ってくれるわけじゃない。
特に若い頃は、甘言に惑わされやすい。自分もそうだった。楽なほうに流れる言い訳を常に探していた。
そしていい年になった今、時間の無駄遣いをしたことを猛烈に後悔している。
勉強なんていつからでもできる、それはそうだし自分も今勉強中だ。
それでも、若いときの無限とも思える時間と行動力と未来への無根拠な希望があれば、もっとずっとたくさんのことを
学べたはずだと思う。
しかもそのころ、親は元気だった。そう、歳を取ると親が弱ってくる。それを助ける手段も、選択肢は多いほうがいい。
でもできる限りの不登校生が、自分の楽しいことと勉強を両方やって、生活リズムを適度に保ち、そこそこ運動して、
沢山本を読んで、映画を観て、気の合う友だちを作ったり色んな経験をして、健康に過ごしてほしいと思う。
さすがに紙製の袋の比率を上げさせるとか、もっと良い代替案あったろ・・・
いまはプラと木製材料の合成袋とかあるし、国民の意識変革という目的ならそっちのほうがはるかに効果あったろ・・・
プラ製が減ることでバガス製が安くなることを期待していたのだが・・・
人の動きをダイレクトに変える政策だということにどこまで気づいていたのか・・・
人の動きをまず変えるんじゃなくて、素材とかシステムの変更が先だろ・・・
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2105/18/news029.html
ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった。
違う所があるとすれば、降霊セミナーにはハマってなかった代わりにうちの母親は気功や波動整体も大好きだったぐらいかな。
あと西洋医学は悪だ!思想にハマった時は病院行かせてもらえなくて病気拗らせた結果10年経った今でも後遺症が残ってる。最悪だ。
本人が勝手に趣味でハマる分には構わないが、自分たちにまで影響があるし控えめかつ直球に申し上げて早く死んでくれないかなと思っている。
さておき、なんでおばさんはスピリチュアルにハマるんだろう?って思ってたんだけど、多分共通しているのは「自己肯定感がボロボロ」って所だと思う。
〇〇くんママと斎藤ひとりさんの話題で盛り上がっちゃったの~なんてやってた時期もあったから、おばさんの中で一定数陥るものなのだろう。
そう言った人たちをサンプルとして集めて主な特徴はこう、
・専業主婦である (共働きの家庭も周囲に少なくなかった中、スピリチュアルママはパートすらしてない事が多かった。)
・夫がある程度出世している (社長や重役、医者家系の人だった事が多かった。うちの父もそうである。)
・子どもの能力が高い事が多い気がする (スピリチュアルママを持つ同級生は皆クラスでも上位の成績優秀だった。難関私立中学に進んだ子もいる。これは鶏と卵どっちだか分からないが……。)
何が言いたいかと言うと、家族など周囲はそれなりの成功を収めている中で、本人そのものは一切の凡人であるという点である。
「すごい人の夫」や「優秀な子のママ」ではあるのだが、本人そのものにはこれといって特徴がなく、誰か別の人間との関係の上でしかそのアイデンティティを見出せない。
こういった所から「自分も凄い人でいなければいけない、そうなりたい」という劣等感でも生じるのだろうか。少なくとも自分の周囲にはスピリチュアルママにはこういう人が多かった。
それに関しては言えばスピリチュアルは彼女たちにとってかなり都合がいい。
皆が知らないものを、自分だけが知っている (まあ、エビデンスが不確かだから知られてないだけなのだが)
皆は誤解してるかもしれないけど、私だけ真実を知ってるのよ (まあ、頭の良い人の理論に言いくるめられているだけなのだが)
そんな自分ってすごい優秀かもしれない!(まあ、まともな人から見ればバカな金づるだと思われてるだけなのだが)
という、こういう流れだよね。
彼女たちの何がかわいそうって、ちょっとやそっとのスピリチュアルじゃ満たされもしないって事だ。
だからどんどん次のものに手を出すけど、それでも心が埋まらなくてもがいてる。
だってスピリチュアルは自己肯定感を得られそうで、実はもたらす効果そのものは全く真逆だから。人からの評価はまず地に落ちるし、結局代替してるだけで最初に別にあった本当に欲しいものは手に入らないまま。
だからうちの母親も一生このままなんだと思うんだけど、凄く惨めで痛々しく、可哀相。これ以上評判が落ちる前に早く死ねるといいねと思ってる。
こういう心理状況で成り立ってるのは少し前から分かっていたので、母親の事めちゃくちゃ褒めちぎってた時期が3年ぐらいあった。そしたら脱却できるんじゃないかと期待して。
でもダメだった。どんなにいい所を探して褒めても返って来る言葉は「うるさい、〇〇さんの講演の動画を見るから話しかけるな。」だった。
こういう動画とかもそれっぽく「愛が~」とか言うけど、本人は一切実践出来てない。実際の内容より、動画を見て知者になった気分になる方が彼女にとってはよほど重要だからだ。
ウイルスを濾し取ることについてはウイルスのサイズ的に相当難しいのがわかるし、隙間を作らないマスクのしかたも素人が常時実践するのは難しい。
科学リテラシーというのは科学の知識をもって合理的になるか疑わしくないかを判断する知識・教養であってそのベースは権威主義ではない
自分の知っている理屈や知識に基づいて合理的かおかしくないかを判断する土壌のことを指す
実生活で実践していくとなると科学リテラシーを様々な領域で保持できる人間はほとんどいないため、疎い領域・科学リテラシーが低い人間がそれを擬似的に実践するために権威主義的に行動してるに過ぎない
つまり我々は科学リテラシーを育て判断できる知識・教養を持った方が良いが、膨大な範囲からなる労力と知識がいるため完璧な科学リテラシーを備えた人間になることは現実的でないため、自分の代わりにその領域の科学リテラシーが高いと思われる人間を盲目的に頼ってるだけである
余裕があれば自分で勉強して理解できる領域を生涯を費やして拡大し続けるのが賢人だ
大多数の凡人にはそこまでの余裕がないため、自分よりその領域に詳しいと思われる専門家を頼るというショートカットを実践してるだけに過ぎん
「権威」という言葉に納得できないのであれば、われわれは、ある話題について、誰を、どの程度まで信じることができるか、という「実践感覚」を持って生活していると言い換えてもよいだろうか。
われわれは義務教育の教科書に書かれていることは概ね正しいと認識している。義務教育で教える内容はいわゆる「定説」として確立されたものであり、すでに複数の専門家による批判・検証を経て正統な保守本流の知識としての共通認識が成立したものであると理解しているためだ。初等教育過程で学ぶ知識の体系はほぼ権威による学びである。もちろん理科であれば実験をおこなうことによって、社会科であればフィールドワークを行うことによって、学んだことを経験によって確認する機会は設けられている。しかし学ぶ知識のすべてについてそのような検証を行うわけではない。教えられる知識が検証可能であることを示し正当性を担保するためと、検証する方法論を学ぶためである。
われわれは新聞やTVというメディアの情報が概ね信頼できることを知っている。しかし100%信頼できないことも知っている。各メディアごとに信頼度は異なり、同じメディアの中でも話題や分野によって信頼度が異なるという感覚も持っている。BBCやCNNのいうことは信頼できるがスプートニクや大紀元はトンデモだとか、岩波書店の出す書籍の内容は信頼できるが幻冬社の本は紙くずだとか、われわれはこのような無数の相場感覚、実践感覚を日々の生活で養いつつ、またそれを以って触れる情報の真偽のグラデーションを判断しているのだ。ここで見落とすべきでないのはそれら相場感覚、実践感覚はあくまでも「感覚」であって客観的基準ではないということである。
元増田への反論に論文査読や再現可能性、反証可能性を持ち出すのは筋違いの議論である。それらは原理的な主張としては正しい。しかしわれわれは全ての情報についてそのような判断をしているわけではない。例えば「SARS-CoV-2は空気感染する」という言説を聞いた時、それを主張する論文に当たり、誰が書いたものか、査読は誰が行ったか、それぞれの研究者の業績等を調べて真偽度を判定するというのは「原理的には」可能である。しかしそのようなことをあらゆる情報について行うことは余程の暇人でなければやっていられない。多くの場合はその分野の権威とみなされる研究者が論文に信頼性があると判断した(あるいは信頼性がないと判断した)という事実をもって自身の判断の参考にするだろう。すなわち権威による判断である。
初等教育で学ぶ知識の体系に照らして真偽を判断するということは可能であろう。しかし初等教育で学ぶ知識の体系というのは権威による学びであったことを忘れるべきではない。その知識の体系全てについて実験などによる経験として検証したと主張できる人は少ないだろう。(あとで、検証することが原理的に可能であるとしても)我々はそのように<権威によって>「定説」として与えられたものをもとに真偽を判断し、その真偽の判断が他の人の言説にどのように現れるかを以ってその人に対する信頼度を評価し、その信頼度においてその人の言説に現れた事象の真偽を評価するのである。そのような信頼と評価の積み重ねから真偽のグラデーションを判断する実践感覚が生まれているのだということ、多くの生活の場においてその感覚に依存しているのだということを忘れるべきではない。
そういう人はエホバの証人が宗教的な理由で輸血を拒否して、それに伴う医学的に不利な扱いを受ける事を受容しますと言っているみたいに、「私は万が一コロナに掛かった時は病院に一切掛かりません」と宣言して実践して欲しい。掛かってからジタバタ医療資源を潰して回るのが最悪。
トレーニングといっても筋トレとか有酸素運動とかそういうものじゃない。
自分は身長185m。115kgから84kgまで落とした。31kg減。太っていた時に心筋肥大したので血圧は高めだけど、それ以外は良い数字。
練習を始めたのは30半ば。今40近く。5年くらいで31kgを落とした。
体感として、115kから110kgに落とすのが一番難しかった。楽だという人もいるが、それは代謝が盛んな若いうちだけか、短期的に太っただけの人だ。
健康目的の減量というのは、はっきり言って依存症からの脱却と全く同じだ。中肉中背から痩身を目指す美容目的とは違う。
他人から際限なく馬鹿にされ、理解を得られず、あきらめてまた依存に戻る。これを繰り返してしまっているのが肥満の人だ。
大前提として、俺たちは依存症に向き合わなきゃいけない。ダイエットと考えず、依存症と考える。
砂糖の依存性はヘロインの数倍ともいわれる。アルコール依存症からの脱却の方法がそのまま減量に活かせると思ってほしい。
周囲の理解のない言葉には惑わされないで。この投稿にも酷い言葉が飛んでくるだろうけど、彼ら彼女らは明確に敵で、悪魔で、人間ではない。
肥満は治療すべき病気だ。病人に石を投げるのは人間ではない。自分の病状を見据え、適切に段階を踏んで快復していくべきで、悪意に打ちのめされてはいけない。
エクササイズ、筋トレ、有酸素運動、それらは依存症からの脱却の過程で行われる行動であって、それらをすれば依存症から脱却できるという物ではない。
依存症からの脱却を目指す際に、いきなり運動をするのは間違っている。高確率で挫折をしてしまう。
運動の何が危険かというと、「運動への飽き」が「減量への飽き」と同化してしまって、運動と減量を同時にやめてしまうことだ。
減量しながら運動をするはずなのに、運動が先に来てしまう。短期で成果を求めてしまう。
体力づくりには運動は非常に有効だが、依存症からの脱却には運動は劇薬だ。依存症が薄れてきたら運動を楽しく行うべきだ。虫歯の治療をしてから歯磨きを励行すべきであって、虫歯の穴が開いているところに歯ブラシをねじ込んでもただ痛いだけだ。
そういうわけで、エクササイズの話はしない。カロリーの話もしない。
のどがカラカラな時でも、5分かけて水を飲むことができるか。
いつでも5分かけて飲み物を飲めるか。
肥満の人は異様に飲むのが早い。コップに口を付けたらそのまま3,4口飲む。
時間を計るのが煩わしい場合は、沸騰したてのお湯をカップ一杯用意して、すぐに一口飲む。当然大した量は飲めないが、この飲んだ量を覚えておいて、それ以降お湯が冷めてもその量を飲み続ける。
全部飲むのに5分以上は必ずかかる。
食前食後に飲み物を飲むのはOK。しかし、いただきますとごちそうさまの間は飲み物は飲まない。
飲み物を飲めないので、よく噛んで食べる練習になる。水で流し込むことはしなくなる。
喉が詰まらないよう、少量ずつ口に運ぶことになる。
ステーキを食べるときは、1cm四方の大きさに切って食べること。これはステーキを食べる作法でもあるようだ。
箸は危険。食べ過ぎる。昔から箸が普及している地域は水が豊富な地域だ。喉つまりを気にせず食べる文化が箸を生んだのかもしれない。
箸を使うくらいなら手で食べるほうがいい。実は手で食べ物を掴むと、上手く口に入れられない。必然的に一口の量を抑えられる。
子供ではないのだから、自宅で一人で食べるときに無作法をしても、外で同じことをする恐れはない。一度は手で食べてみることをお勧めする。人間はそんなに一口で物は食べられないとわかるはずだ。箸やフォークよりも指は太い。その分だけ食べる量を減らせる。
一度茶碗一杯のごはんを手で食べてみよう。口の周りを汚さずに。唇の中まで指を入れよう。
上記の方法を実践すれば、難なく達成可能だ。食後の飲み物を入れて、食事には30分かける。
30分かけて味わえるものを食べる。
健康にいいものを選ぶ必要は(最初は)ない。マックのセットを30分かけて食べてもいい。
麺類は「早く食べないと伸びちゃう」と急かされ、アツアツのものは「美味しいうちに食べなきゃ」と急かされる。
ぬるくても美味しいものを食べるといい。
そう思うかもしれない。
「再びドカ食いをし続けないための型稽古」だ。ドカ食いしてもいい。しかしそこから脱却できなくなるのはダメだ。
脱却するための型稽古がこれだ。もちろん他にもたくさんの型がある。全部は書ききれないけれど、まずは上記の3つの型をやってみてはどうだろうか。
そうすれば毎日の体重に一喜一憂することもなくなる。最初はとてもつらいが、それを目標にしよう。
運動に飽きても依存症の治療には飽きないように。いろいろと工夫をしてやっていこう。
痩せている人に言いたいことは、「あなたはアルコール依存症で苦しんでいる人にも同じ言葉をかけますか?」だ。
どうか見守ってほしい。
このご時世で完全在宅勤務になったし業務以外で最後に人とまともに会話したのが何年前かもよく覚えてない。
LINEや電話もマンションの管理会社とか火災保険の更新催促とか以外で何年鳴ってないかなぁ。
最後に電話を電話らしく使ったのは母が死んだ報告を受けたときくらいか。
ほとんどの奴は来世で俺になんてなりたくないだろ?俺だってこんな俺になりたくなかったよ。
「貴方は幸福ですか?不幸ですか?」みたいなアンケートがあったら間違いなく不幸カンストで回答するね。
2020年はコロナに怯えてたのもありオール引きこもり生活だった。
週末にゴミ出しと買い出しで1回外に出て、次の週末に先週出たゴミのゴミ出しと買い出しで外に出るという週1回のみ外出が許可される完全な自粛生活。
そんなんで去年はほとんど金自体使わなかった。食事は自炊だし趣味もサブスクで映画見るくらいだし生活保護の人達の方がよっぽど金費やしてたと思う。
流石に色んな部分で病みそうだったので2021年はといろいろと目標を建てた
まあ要するに「暮らしを丁寧にする」ってこと。割と実践は出来てると思う。
ちょっと広くなったのと築年数が新しくなって部屋の細かい部分がイケてる感じになった。あとゴミ出しがすげー楽になった。
家電を色統一するために買い直してベッドやらオフィスチェアやら(管理めんどいけど)イカした観葉植物やらレンガ風の壁紙やら買って、いろいろ頭捻ってレイアウトして今は誰が来てもカッコいいねって言われる自信はある。
服もかなり買い直したね。メルカリとか駆使しつつでそこまで高いブランド物買ったわけじゃないけどまあ無難なセットアップを何着も揃える戦法で今までよりは絶対ましになった。
食事については予算を数万ほど上げた。もともと自炊だったからそんなに酷い食生活送ってたわけじゃないけど、
鶏そぼろ丼からビーフストロガノフ、鶏の唐揚げからブリしゃぶくらいになった。安くてうまいものから普通にうまいものアップグレードした感じ。
あと朝食にサラダチキンとかレタスがつくようになったのとか地味に大きいかも。
運動は日光浴びるという目的の散歩及びウォーキングと、まだジムに行くのはご時世的にアレなのでリングフィットアドベンチャーになんとかしてもらってる。
大体1日30分くらい。今のところまだ続いてる。最近のゲームは凄いね。
今年になってから生活は改善したと思うけど、しかしながら結局俺の人生は何も改善してないし人生の問題は何も解決していない。
「絶望的な社会的孤立中の底辺無敵男」が「丁寧な生活を送る絶望的な社会的孤立中の底辺無敵男」になっただけ。
部屋をオシャレにしたってそこに呼ぶ人はいないし、運動したってこの人生の不幸度は何一つ変わらなかったよ。
人生に自分の味方は誰一人いなければ、恋人どころか雑談する相手すらいない。
わかるよ、俺くらい終わってる人間のなり損ないへのアドバイスなんて
「お前は逃れられない、望むものは絶対手に入らない、おとなしく諦めろ、悟りでも開いて足るを知れ」くらいしかないものね。
「保育園落ちた日本死ね」みたいな人間様の悩みとはわけが違う。
終わってるのなんて俺が一番良くわかってる。
でも少しは考えてほしいなぁ。『持ってる側』が『持ってない側』に上から目線で
「貴方が自分らしくいれる価値観にアップデートしよう」とか「持たないことを受け入れる価値観を持てば救われる」「丁寧な暮らしをしよう」
ぶっちゃけこういうアドバイス結構ムカつくんだけど、こういうこと言ってる人たちはそれで俺たちが救われると思ってるのかね?
むしろ他の悩みに置き換えたとしてもこんなクソアドバイスで「なるほどー!」って納得して救われる人間なんて存在するのか?
これと近い話かもしれないけど、「怠け者だから」という理由で物事を自動化するというエンジニアを見ることがあるが、あれほんと嫌い。
そういう仕組みづくりは脳みそを使ってるわけで、全然怠けてる訳じゃないよ。
これのどこが怠惰か。
でもそれをアイツらは怠けって言うんでしょ?
夫が着ている下着パジャマなど、使っているタオルは暮らし始めた当初から夫の要望で毎日洗っている。(私の実家ではフェイスタオルは毎日洗うがバスタオルは3日に一度でも母に嫌がられ突き返されていたため。休みの日に自分で洗っていた。)当初夜間に身に付けていた肌着とパンツもと出され最初は不満を覚えたがすぐ理解した。毎日洗わないと無理なのだと。
洗っても体臭?は取れず乾かした洗濯物はいい匂いなどしない。垢や強い脂の匂いがしないというだけ。柔軟剤は抗菌消臭の強いものは使えない。余計に気持ち悪くなるし体臭は消えない。
五回くらい繰り返し洗う(干す前にということ)とかなり体臭もとれ柔軟剤の弱い香りが良い匂いとして感じられるようになるのが実験をしてわかっているが、毎日匂いをとるために五回洗えない。
週に一度は必ず。二回洗うことが多い。
でも洗う度に無力感徒労感虚脱感で本当に嫌だ。
洗っても一晩使えばかなり匂いがするし、二日目終わるくらいから外飼いの犬が濡れた臭いになる。
ファブリーズが結構有効だけど、二倍かけると効くんだ、という有り様(一人分の寝具に上半身ぶん中心にかけると3日で一本なくなる)で毎日使うには金銭的に無理がある。
いつか増田にあった、デオコをぬって洗うとかなり良いのは枕で実践してみたが、三日で臭く戻ったのでもう…
おまけにきれいにカバーかけたりシーツかけてもぐちゃぐちゃにして使う。髪も体毛も陰毛も凄い抜け落ちて汚いし鼻くそが必ず幾つも落ちてる。最初は嫌がらせかと驚いた。忙しさにカバーとかつけ忘れても自分でつけないしただやってくれなかった事だけを恨んでくる。
うんざりしている