派手ないじめはなかったけどほんのり自分を取り巻く空気が変で、とにかくしんどくて、当時は学校自体が無理だった。
アラフォーの今となっては再言語化も難しいけど、多分自分の持つ発達障害も原因の一つだった(その頃は知らなかった)。
空気が変、というのも自分だけが感じていたコミュ障の居心地の悪さだったかも知れない。
行かなくなった当初は親ともかなり揉めたし、ギクシャクしたし、泣かせもしたし自分も泣いた。
自分の場合、成績は悪くなかった。どちらかと言うと上位に入るほうだった。国語が得意でトップ争いするくらいだった。
それもあって、親との話し合いで「自分の気持ちや考えを伝える」ということが比較的でき、悶着は半年くらいで収まった。
学校と距離ができ、時間が経って、今では「普通の高校生活やってみたい」と笑い話にできる。
一番の後悔は、学校に行かなくなってから勉強から離れてしまったことだ。
正直な話、日常生活において中学校以上で習ったことを使う機会はそれほどない。
ただ、知っているのと知らないのでは生活の質に雲泥の差がある。知らない人は「雲」のほうの質も知らない。
日常で問題が起こったとき、解決方法の選択肢を多く出せるのは大抵の場合より「知っている」人のほうだ。もちろん例外はある。
人間は工業製品ではないので個体差が大きく、学校という場が合わない人もいる。いじめがあったり現場での問題も多い。
だから学校に行かないという手段自体は否定されるべきじゃないと思う。
ただ、勉強はしたほうがいい。
学校でやるようなことだけはやれという意味ではなく、「あらゆることから学ぶ意識を持ってほしい」という意味で。
もちろん教科書的な勉強も、未来の選択肢の維持のためにしたほうがいい。
でもそれよりもやってほしいのは世の中を学ぶことだ。
この世にはどんな問題があるのか、その解決には何が必要なのか、そのためにはどんなことを知って実践すればいいのか。
自分が将来したいことがあるとして、例えそれが一見「勉強」とは関わりのないことでも、絶対に先々必要になる。
学ばなくてもある程度はできるかも知れないけど、質のいい結果を出そうと思ったら勉強は不可欠になる。
薄っぺらい表面上のアウトプットは簡単に飽きられるし、代替できるものだからだ。
誰かが「勉強なんて役に立たない」と言ったところでその人が人生に責任を持ってくれるわけじゃない。
特に若い頃は、甘言に惑わされやすい。自分もそうだった。楽なほうに流れる言い訳を常に探していた。
そしていい年になった今、時間の無駄遣いをしたことを猛烈に後悔している。
勉強なんていつからでもできる、それはそうだし自分も今勉強中だ。
それでも、若いときの無限とも思える時間と行動力と未来への無根拠な希望があれば、もっとずっとたくさんのことを
学べたはずだと思う。
しかもそのころ、親は元気だった。そう、歳を取ると親が弱ってくる。それを助ける手段も、選択肢は多いほうがいい。
でもできる限りの不登校生が、自分の楽しいことと勉強を両方やって、生活リズムを適度に保ち、そこそこ運動して、
沢山本を読んで、映画を観て、気の合う友だちを作ったり色んな経験をして、健康に過ごしてほしいと思う。