はてなキーワード: 安全とは
一方的に強く肩をぶつけられてなぜこっちが我慢しないといけないの?納得がいかない。された方が黙っているとつけ上がる奴が多い
なお夫も無差別に絡みに行くわけではない。主な対象は、電車や駅でぶつかってきて謝らない人、対応の悪いタクシー運転手、電車内でマスクをつけずに大きなクシャミを連発している人、レジで並ぶとき妙に距離近く真後ろに並んでくる人、うちの家や車の前でボール遊びする家族…等、日常で出くわす「あ〜…なんかヤだな…」っていう人たち
夫さんは夫さんの基準で「こいつはこういう理由で悪い奴だから睨んでいい、絡んでいい」を選んでいて、社会的にマナーの悪い人を選んでいるようなんだけど、その人相手なら敵意を向けていいって思って敵意向けてくるのは、同じ社会に住む住人としてやめてほしいと思うよ。
電車や駅でぶつかってきて謝らない人が故意に謝らないのかは分からないでしょ。本当に気づかなかったのかもしれない、声が小さかったかもしれない。他の、増田が
日常で出くわす「あ〜…なんかヤだな…」っていう人たち
と感じる人たちにもそれぞれ事情があるかもしれないよ。悪意の可能性もあるけど
「あ〜…なんかヤだな…」って思うまではともかく、よし敵意を向けてもいいなと判断されて敵意を向けられるのは困るよ。
増田は夫さんが敵意を向ける相手が夫さんよりも強い相手だった場合のことを心配しているけど、私は「夫さんが敵意を向ける夫さんよりも弱い認定した相手」になるだろう立場なので、そういう夫さんの存在は困るよ。
増田は夫さんが夫さんよりも強い相手に敵意を発露して刺されたりしなければいいんだろうけど、夫さんよりも弱い相手に敵意を発露して夫さんのストレス発散材料にされる人はたまったもんじゃないと思うよ。
一方的に強く肩をぶつけられてなぜこっちが我慢しないといけないの?納得がいかない。された方が黙っているとつけ上がる奴が多い
我慢してください。夫さんの一方的な敵意の決めつけである可能性も高いからです。
夫さんは、「自分が受けた嫌な仕打ちはしてきた人に絶対返さないと気が済まない」「相手が故意じゃなかった可能性は絶対ない」「自分が被害者であれば・こういう理由があれば、敵意を返してよい」と思ってるんだと思う。それを他人に向けられるのは困るよ。
でも自分の無事のために周りを犠牲にする道を選ぶんだったら、「周りの人、私の無事のために犠牲になってください。周りの人に敵意を向けられてる間は私は安全なのでよろしくお願いします」くらい自覚的であってほしい。
なんで国や性別の単位での批判があると、自分が批判されたように感じるのか?
自分が属するグループが攻撃されると、自分自身が攻撃されたと感じる。昔の武士みたいに、自分の「領地」を守らなきゃならないってね。
考えてみろ。国や性別なんて、ただの社会的なラベルに過ぎない。
生まれた場所や性別で、自分の価値が決まるわけじゃない。それなのに、批判されると自分の存在そのものが否定されたように感じる。
これはもう、アイデンティティが脆弱だからだよ。自分の中身がスカスカだから、外側のラベルにしがみつくしかなくなってしまう。
広く、自分が属するグループの批判を個人の攻撃と感じるのは、集団心理の一部だ。
人間は社会的な生き物で、集団に属することで安心感を得る。だから、集団が攻撃されると、自分の安全が脅かされたと感じるんだ。本能的なものに近いだろう。だが、それが今現在の人間として本当に必要な感情かどうかは疑問だ。
自分の属する大きいグループへの批判があった時、それが事実であるかを考え、自分がそれにどれほど関与しているかを捉え、自分の考え方との距離感を測り、集団と個人の問題を切り分けることが必要だろう。
そして批判がもっともだと思えば、賛同することすらできる。それが何かの改善に繋がることもある。
批判すなわち個人的な攻撃と感じるのは、その問題の切り分けが不十分であること、自分の未熟さを露呈しているに過ぎないんだ。
自分のアイデンティティはもっと複雑で多面的なものだし、外部のラベルに依存する必要なんてない。
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
毎朝6時に起きる私は、まずベッドサイドに置いたLibrem 5スマートフォンに手を伸ばします。ハードウェアキルスイッチでカメラとマイクをオフにしているため、寝ている間も安心して眠ることができます。
目覚めの後、簡単なストレッチをしながら、Signalで昨晩のメッセージを確認します。フリーランスのソフトウェアエンジニアとして働く私にとって、世界中のクライアントとの連絡は欠かせません。
朝食を済ませると、私はLibrem 14のノートパソコンを起動します。このパソコンには、プライバシー保護に特化したPureOSがインストールされています。
私はまず、ProtonVPNを起動してインターネットに接続し、セキュアな環境を確保します。Torブラウザーを開き、プライバシー関連の最新ニュースをチェックするのが日課です。
次に、メールを確認し、必要なタスクを整理します。仕事の依頼やクライアントからの質問に対応する際、私はエンドツーエンド暗号化が施されたメールサービスを使用します。
午前中は、オープンソースプロジェクトへの貢献に時間を割きます。私はGitHubでプロジェクトをフォークし、コードの改善やバグ修正を行います。
仕事中、私はプライバシーを確保するために、全ての通信を暗号化し、GoogleやMicrosoftのサービスを一切使用しません。
必要なツールやソフトウェアは、全てオープンソースであり、信頼性の高いものを厳選しています。
昼食の時間になると、私は外出して近くの公園でサイクリングを楽しみます。自転車に乗ることで、リフレッシュし、健康を維持することができます。
公園では、持ち運びが簡単なRaspberry Piを使って、モバイルホットスポットを作成し、安全なインターネット接続を維持します。これにより、外出先でも安心してインターネットを利用できます。
午後は、クライアントのプロジェクトに集中します。私はクライアントの要求に応じてソフトウェアを開発し、そのコードを安全な方法で納品します。
私はまた、プライバシーに関する技術記事を執筆し、自身のブログに投稿します。これにより、自身の知識を共有し、他の人々にもプライバシーの重要性を理解してもらうことを目指しています。
夕方になると、私は写真撮影を楽しみます。カメラで風景や街の様子を撮影し、それをプライベートなクラウドストレージに保存します。
このクラウドストレージは、自分で管理しているため、第三者がデータにアクセスすることはありません。撮影が終わると、家に帰り、自分の写真を編集してブログに投稿します。
夜になると、一日の終わりにデバイスのセキュリティチェックを行います。最新のセキュリティパッチが適用されているか確認し、必要に応じてシステムを更新します。
また、バックアップを作成し、重要なデータを複数の安全な場所に保存します。最後に、Tails OSを使ってセキュアにブラウジングし、リラックスして一日の疲れを癒します。
追い抜きざまに腕や胸に触ってはUターンしてまた触りに来る
他にも知らない人に抱き上げられて連れて行かれそうになったり
一人暮らししてたら夜遅い時間に工事や業者を名乗る人が何度も尋ねてきたり
電車通学や通勤はしてないが昼間でも夜でも人通りの多い通りでも痴漢にあうし
どこにいても安全じゃない
申し訳ないけど、上手く行かないと思うよ。
特に外の喧嘩事案は、マジで相手が強かったらどうするの?暴力で解決する相手だったら?
まぁ、アンタの旦那が死のうが半身不随になろうが、俺には関係ないんでどうでもいいけど。
そういう安全からかけ離れた価値観を持っている人は、同じことを繰り返すよ。だって「それで上手くやった」みたいに思ってるんだから。
「あなたは自分のプライドのために刺されてもいいだろうけど、残された私はどうすればいいのさ」ってちゃんと聞きなさいな。
えいえいおーボイコットが起きる夢を見た
愚痴アカウントが何年も言っていることを、あえて検索避けなどをせず、多くの人達に届くよう、誹謗中傷にならない表現でまとめた「”ファン”の個人的な思い」に2万以上のいいねがあつまっており、とても驚いた。
くだんの「個人的な思い」にはわたしにとってもいくつも共感できるものがあったし、過去にはわたしにも愚痴アカウントを覗いては自分だけではないんだと安心していた時期がある。
自分もデビュー前からのファンであり、正直WESTival、WESTV!が彼らの最大風速だったとは思っている。売れるもの、話題になるものが良いものではない。どれだけ後輩との差を数字が物語っていても、わたしは心の底からWESTが一番良いものを作っていると信じていたし、彼らもそこにちゃんと自信を持ち続けられていたことを信じている。
正直個人的にえいえいおーは寒いと思っているし、個人的には重岡さんにばかりスポットライトが当たっているように少なからず感じさせてしまう部分が現状の彼らのライブへの最も不満な点なのだが、
それでもわたしは何よりも彼らの悲しむ顔を見たくない。
朝目が覚めて、夢でよかった、と心から思った。もちろん参加したツアーでも力いっぱいえいえいおーと言ったし、ドームでももしあるならもっと力いっぱいやるつもりだ。
けれど、わたし個人としては別に、勇気や元気や笑顔などをくれるから、くれたから、アイドルを応援しているわけではない。
やりたいことをやりたいようにやって欲しい。
本当にただただその一心だ。
見たい景色を見てほしい。
その一部でいられるのであれば、それほどうれしいことはない。
共感する意見がいくつもある。けれど、わたしはどうしても、唯一、「それが本人に届く可能性があること」を思った瞬間に心が凍り付いた。悲しんでほしくない。それで好きなことを好きにできなくなってしまったら本当に悲しい。個人的な気持ちである。
当該スタッフに関しては、切実にタレントとの距離感を考え直し、また安全面には配慮しすぎなほどに配慮してほしいと思う。
君と出会えて世界一の超幸せ者という歌詞を思い出すと、どこにいてもちょっと涙が出てくる。
いやマジで「スタッフもファンも虜になりました」は腹立つなあ!!!!!!!!!!!!!wwwwwwww
おわり♪
BBCラジオインタビュー:キャス博士に訊く、キャス・レビューついて。
https://www.jegma.jp/entry/CassReview-BBC
女性司会者:英国の18歳未満を対象としたジェンダー・アイデンティティ・医療サービスに関する報告書(レビュー)によると、医学的介入に関する調査不足と著しく弱いエビデンスに失望させられているといいます。小児科医ヒラリー・キャスの報告書は、こうも語っています。専門家たちは、彼女がジェンダーに関する議論の有毒性と呼ぶもののために、自分たちの意見をオープンに議論することを恐れてきた、と。
男性インタビュアー:待ちに待った、子どものジェンダー医療に関するキャスの報告書の結論は、医学界に響き渡るシンプルで手厳しい一文を含んでいます。ほとんどの若者にとって、医学的な治療法はジェンダーに関連した苦痛に対処する最良の方法ではないと、ヒラリー・キャス博士は述べているのです。
インタビュアー:思春期ブロッカーが安全に使用できるという証拠はありますか?
キャス博士:いいえ、今のところ、使用しても絶対に安全だという十分な証拠はありません。
思春期ブロッカーは、思春期が早すぎるという全く別の症状の子供や、ある種の癌を患う大人にも使われています。しかし、これは思春期を抑制するという新しい使用法です。ブロッカーが脳の発達に長期的にどのような影響を与えるかは分かっていません、というのも思春期には脳の発達が急速に進むからです。
また、ブロッカーがジェンダーや性心理の発達の軌跡を変えてしまうかどうかも分かっていないのです。
インタビュアー:医学の世界では、未知のものが一つの分野で大量に使用されるというのは標準的なことなのでしょうか?
キャス博士:研究チームは臨床試験から始めましたが、臨床試験結果が出る前に日常的な処方に移行し、さらに幅広い若年層に処方するようになった時点で、エビデンスから逸脱しました。
redditのアフガンカテゴリーでのぶっちゃけ話を総合すると日本の報道とは全然違って驚いたので備忘録として残す
Q.メディアで目にするものは本当でしょうか?女性は本当に車の運転が禁止されているのでしょうか?女性はブルカの着用を強制され、仕事や学校に行くことを禁じられているのでしょうか?
車の中で音楽を聴くことは許可されていますか?音楽を聴いているところを見つかったらどうなるのでしょうか?アフガニスタンは良くなると思いますか?
A1.多くの州では女性は車を運転しませんが、一部の州では運転しています。公立学校は12歳以上の女子は閉鎖されています。しかし、お金があれば私立の学校に通うことができます。仕事が見つかれば働くことができます。
車の中で音楽を聴くこともできます。ほとんどの人は検問所で音楽をオフにします。または、オフにしない人もいます。昨年は女性はタクシーの前の席に乗れませんでした。今年は乗れるようになりました。ブルカは義務付けられていません。
私はアバヤとヒジャブを着用しました。より保守的な地域ではニカブやフェイスマスクを着用しますが、他の地域では必要ありません。美容院は閉鎖されており、今では人々の家で行われています。
今後は良くなると思います。1年前からすでにかなり変わっていました。人々が体制に慣れてきたからなのか、それとも何か他の理由があるのかはわかりませんが、今年は検問所が以前ほど多くなく、それほど緊張しているようには見えませんでした。
A2.そんなことはない。まず、タリバン以前の多くの家庭では、女性は家族から離れて車を運転することは許されていませんでした。また、国のどこの出身かによっても異なります。一部の都市や村では、常に厳しい規制が敷かれています。
女性に運転を許可している家庭では、女性に運転を許可しています。女性は運転でき、音楽を聴くことができ、結婚式などで好きな服を着ることができます。もし捕まったらどうなるのでしょうか?
まあ、彼らは無視するか、コーランやナシードを聞く方が良いと言うかもしれません。
学校について 学校が閉鎖されているのは事実ですが、いくつかの学校は開校しています。医科大学や保育園はまだ開校しています。私立学校、大学、コースはまだ開講しています。女性も働くことができ、奨励されています。
男性中心の職場にいた女性は、給料をもらって働くことが許可されています。私のいとこは2年間働いていて、給料をもらっています。バランスの取れた職場にいる人は、そのまま残っています。
ブルカはチャデリのことですか?義務ですか?いいえ、義務ではありません。ヒジャブを着用することは義務です。報告する場合は、解除されるまでフェイスマスクを着用する必要があります。髪の毛の20%ではなく、80%程度を覆う必要があります。
好きな服を着てもいいですか? いいえ、体を覆う必要があり、タイトな服は許可されていません。メイクをしますか? はい、軽いメイクは許可されていますが、大胆な真っ赤な唇や華やかなメイクはプライベートなイベントでのみ許可されています。
その結果、どんな良いことがありましたか?ハラスメント、ルチャクバジ・キャットコール、通りすがりの男性に触られることが減った。捕まった人はボコボコにされる。
道路が整備され、より安全になった。以前は、警備がいない限り、女性と一緒の長距離運転はできなかった。誘拐や強盗が非常に多かったからだ。
拳銃は、警察官に特例的に貸与された道具の中でも特に手段として発達し、発達を遂げた完全無欠な道具であり、内部に球と呼ばれるミサイルがいくつか装填されており
引き金を引くと内部の球が発射されてターゲットを負傷させる力を持っている。ただし、内部に存在する弾が引き金によって強く発射される理由は専門家でないと分からない。
その辺のアパートに住んでいて普段は鳴りを潜めている若者が正体を出すということが現在全国的に流行しているが、因果関係として、その場合、警察官が、その者に対して
拳銃を発射すればいいのであるから、最大限の論理関係としても警察官において、拳銃を所持している限り、自らが不安を覚える余地はないものと思われる。警察官が拳銃を
所持しながらも不安を覚えるのは、相手方が暴力団で、何千人もおり、その暴力団が警察官にライフル銃で向かってきている場合であるが、架空の事例であり、現在の社会では
そういうことは発生しない。論理学では、論理が破綻している場合、驚愕的破綻までを想定できるが、客観的に、拳銃を所持していれば、 撃つぞ、という警告をしているうちは
問題ないが、撃鉄を起こして安全装置を解除していると、発射は自動的であり、安全装置の解除はほとんど発射されるのと同等であると解されている。
女スペース男児問題女児親だけど男児の安全のため女性トイレ使用は構わないと思っている。そもそも未就学だとトイレは男女で分かれていない園が多いし娘も気にしてない。Xみたけどフェミでも女児親でも嫌と言ってる人は一部2024/06/05 23:25
ancv この問題よく知らないんだけど、女性のためというより「女児の安全のため」に抗議してる人が多いのでは? ブコメに変なのがいるので。大人として子供を守る、という規範を無視する人とは関わりたくない。
こういう結び方するコメントってよく見るけど、そんなの向こうも関わりたくないだろし、なんの意味があると思って言ってるんだろう。
これから書くことはいわゆるネットスラングで言う「アルミホイルを巻く話」、つまり妄想だということです。
なので事実の摘示もしていませんので勘違いしないようにしてください。
子猫の小話
https://youtu.be/kaLkD3KBDTg?si=chkj7KDLeOO6Xo-M&t=217
石丸伸二について調べてみました
暇空茜
https://www.youtube.com/watch?v=GDFY6hB-BFM
石丸伸二がバズり始めたのは2023年8月上旬からということは複数の方が確認している。
2023/07/01 2023/08/31
堀口がおおむね圧倒的に上にあるが、8月に入り小林の怒りがトレンドに入り、そして低下するのと入れ替わるように石丸伸二が上がってくる。
この状況を整理すると、石丸伸二と堀口英利は互いに示し合わせて行動しているわけではないが、結果として石丸伸二の仕掛けを隠ぺいするために堀口英利がサポートする形になっていたようにみえる。
具体的には、堀口英利が小林の怒りに対してできるだけド派手な攻撃を行い、石丸伸二をプッシュしていることを暇空茜に気取らせないようにしていた。
もちろん、堀口英利がその事実を知っていたとは思えないが、意図せずとも互いの行動が結果としてWin-Winの関係 になっていたようだ。
伊久間の訴状を見れば、700万円の請求も神原、伊久間あたりが考えていた内容を堀口が実行したともいえる。
そうだとすると、石丸伸二を隠すように堀口に吹き込むタイミングが調整されていたのかもしれない。
堀口英利がネット上で話題を混乱させることで、石丸伸二のプッシュが目立たなくなり、計画がスムーズに進めた可能性がある、
自分だけだとバイアスがかかるかもしれないので、ChatGPTにも見せてみる。
ChatGPTが読み取れることを以下にまとめます。
7月初旬から8月中旬にかけて、人気度が一貫して高く推移しています。(編注:トレンドだからこういう表現になる)
特に7月中旬と8月初旬に大きなピークが見られます。これは何か特定のイベントやニュースが影響している可能性があります。
あるトピックやキーワードが7月から8月にかけて一貫して注目を集めています。特定のイベントや連続したニュースが関連している可能性が高いです。
7月初旬はほとんど変動がありませんが、8月に入ってから何度か急上昇しています。
これらの急上昇は、特定の短期間に集中していることから、一時的な注目を集めた出来事があったことを示唆しています。
他の二つのラインに比べて、頻度が低く、また人気度もあまり高くありません。
いくつかの時点で急激な増加が見られますが、それ以外はほとんどゼロに近い状態です。
@shinji_ishimaru
こちらの #キッチンカー の募集は明後日8/10(木)が〆切です!
すでにかなり多種多様なお申し込みがあり、県内でも稀なイベントとなりそうな感じがしています😃
盛り沢山な #フェス を共に楽しみましょう。(珍しい飲食が提供できる方は特に)皆さんの参加をお待ちしています!!
ttps://x.com/shinji_ishimaru/status/1688876338785267712
ここでサクラが出現している。
@Silvertigerone
安芸高田市長「恥を知れ」発言 #安芸高田市 #恥を知れ #石丸伸二 ttps://youtube.com/shorts/fnFbdyqsxDA?feature=share
ttps://x.com/Silvertigerone/status/1688946721718710272
@shinji_ishimaru
ここ数日、フォロワー数が急増しているので不思議に思っていました…再生数が6日で230万回はなかなかの伸びですね。
ttps://youtu.be/dTu2Fk_LpdI
#中国新聞 に限らず地方紙には似た傾向があるのではないかと懸念しています。発言に責任を持たない #メディア は有害です。
@ChugokuShimbun
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【逆ギレ】マスゴミが中途半端に石丸市長を挑発し、逆にコテンパンにされ涙目で逆ギレ議論すり替えを行ってしまう
余計な一言と、下手な追求は効かない人には絶対に効かないですね…記者も感情的にならず、もうちょっと理論的に話をしてほしいです。引用元安芸高田市定例記者会見(2023年7月) 前編ttps://www.youtube.com/watch?v=QfNRDlQbzy4チャンネル登録はこちらをクリック!ttp://ww...
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ttps://x.com/shinji_ishimaru/status/1691432918701494272
昔々、ある小さな村に、年老いたロバ、犬、猫、そして鶏が住んでいました。それぞれの動物たちは、一度は村で重要な役割を果たしていましたが、年を取るにつれて、その価値が認められなくなり、主人たちからも冷たく扱われるようになりました。
ある日、ロバは主人に言いました。「もう役に立たないと言われた。これからは自分の道を進むんだ。ブレーメンへ行って音楽家になろうと思う。」犬、猫、鶏も同じように、もはや主人にとって役に立たない存在とされ、ロバの提案に賛成しました。
彼らは力を合わせて旅を続けることにしました。旅の途中で彼らはある森に迷い込みました。森の奥深くで彼らは立派な館を見つけました。館の中からは、楽しそうな笑い声と音楽が聞こえてきます。動物たちは館に近づいて窓から中を覗いてみました。そこには、社会から疎外され、認められない弱者男性たちが集まっていました。彼らは能力や努力に見合う評価を受けられず、日々の生活に困窮し、心に傷を抱えていました。
ロバは言いました。「この館を乗っ取って、ここを私たちの新しい家にしよう。」他の動物たちもその考えに賛成しました。そして、彼らは知恵を絞って、弱者男性たちを驚かせ、追い出す計画を立てました。
まず、ロバが大きな声で鳴き始め、犬が吠え、猫が鳴き、鶏が鳴きました。その音に驚いた弱者男性たちは、館に幽霊が現れたと勘違いして一斉に逃げ出しました。動物たちは館に入って、安全な場所を確保しました。
弱者男性たちは森の中に逃げ出し、夜を明かしましたが、その運命は過酷なものでした。彼らは再び社会から疎外され、生活の糧を見つけることができませんでした。彼らの不幸な末路はそれぞれ異なりましたが、いずれも悲惨なものでした。
一人の男性は寒さと飢えに耐えきれず、森の中で凍死しました。もう一人は飢えと疲れから倒れ、野犬に襲われて命を落としました。他の男性たちも次々と力尽き、誰一人として幸せな結末を迎えることはありませんでした。
動物たちは館を手に入れた後、平和な日々を過ごしました。彼らは音楽を奏で、人々に希望と喜びを与える存在となりました。彼らの音楽は村中に響き渡り、村人たちに愛されるようになりました。