はてなキーワード: 中性的とは
古武術の本読んでるとモールス信号の話題があって、モールス信号を打ってる人が女ぽい、男ぽいというのがあるらしく、それで女の打ち手にナンパとかあったらしい。
ここも匿名だけど話題のチョイスから文体や単語の使い方からなんとなく女だな…男だな…というのがわかる。
仕掛けとしては性別がはっきりしてるブログやtwitterをよんでると中性的な文体でも女の書き手、男の書き手というのがなんとなく分かってくるのでそれの応用になる。
ここで女の人に「女だよね?」と指摘するとなぜか動揺する人が多いので分かりやすい。
https://www.amazon.co.jp/dp/B09FL81DYC/
「古の武術から学ぶ 老境との向き合い方 甲野 善紀 (著) 」
この本な。面白いよ。
その気持ちはわかる。
もし自分が性同一でなく、脳の性別がそのまま戸籍の性別だったらそういう風に思っていたと思うので。
先にいっておくと多分その気持ちも感覚も増田にはわかることはないしわからないと思う。
身体違和については自分もまさに例に挙げてもらったようないわゆる「セルフいイメージとのずれ」以上でも以下でもないという認識、つまり整形をするかしないか程度の認識をしている。
しかし、自分の性別が男/女だという確信はまた別のところにあるので、それはまた別の感覚である。
そのことが感覚的にわからないのは非常に正常なことだとも思うし、
わからないことそれ自体は決して悪いことではないのでそのままそっとしておいてもらえると助かるかもしれない。
[性同一性障害は脳の先天性な性分化疾患であるのではないだろうか]
一応自分なりに考察したところによると、性同一性障害は心の問題ではない。
あくまで自分の例をベースに考えたところ、おそらく先天性な性分化疾患の範疇に収まるものだと認識している。
身体のどこかの性分化が正常に行われなかった場合、それは性分化疾患となる。性分化疾患には逆の性別に体の部位ごとが分化してしまう症例がある。
性同一性障害はその脳版なのではないかと考えている。(ちなみに、同性愛傾向の人の中にもその一種の人もいるだろうと推測している)
その正常に性分化が行われなかった場所が脳である場合、脳と身体の性分化がずれ、あるいは逆になり、性同一性の一致に支障をきたすのではないだろうか。
これはあくまで自分の場合であるが、子供の頃から趣味や思考、行動がいろんな人から異常だと驚かれて育ったが、自分が世間で言われるほどの奇異で奇特な異常者だとは思えなかった。自分のような思考をして物事に対して自分と同じような興味関心を抱くような人物像は、決して割合としては多数派ではないとは思うが、とはいっても異常者といわれるほど「おかしい」行動でも思考回路でもないと思っていた。よくいる類型的な青年像の一パターンに収まる範疇の思考回路や趣味だと思っていたからだ。女社会という中では確かに異常者であるが、仮に男女全てを含めて考えた場合、そこまで「異常者!」とは思えなかった。確かに自分みたいなタイプの女性は見たことがなかったが、男には割といる感じがした。
そこで、それを確かめるために男子校状態の学校に入ったり(※)、部活やスポーツにおいても男子と共通の枠の競技をでやってみたところ、やはり自分は男社会の暗黙のルールをなぜか知っていて、そして女社会の暗黙のルールをどんなに明文化されても感覚的にはよく理解できていないということをより強く実感した。そしてやはり自分と似たようなタイプの青年はたまに遭遇するので、自分がそこまで仰天されるほどの社会不適合な異常者ではないということもより強く「実感」した。
※学部の選択については、もちろん自身のもともとの関心がそういうSFメカ趣味だったのもあるが、何番目かの理由としては、あえて男社会に身を置いて様子を探ってみる、という目的もあった。
自分にとっては性自認や性別はどうでもよく、どちらかといえば、「社会から異常者だと言われる」ことの方が高校生までの自分にとっての解決するべき問題であった。
そこで、自分は女子社会の中だけではなく男社会の中でも異常者扱いされるのか、それとも男性社会では「想定されている社会性のある人物像」側に入れるのか、そこが自分にとっての興味関心だった。
後から考えれば、非常に自分の男性性を重視していた部分はある気はするのだが、それを男性特有の発想だとは思っていなかった。例えば、「少年よ大志を抱け」的な気負いはあったが、そのような頂点を目指す思考はだれでも持ってると思っていたし、これが男性特有の発想だとは思っていなかった。
どんなに合わせても明文化されていない女性集団の暗黙のルールが理解できない、それこそあまりにも自分が女子集団による善し悪しの価値基準を納得できず、行動にも反映できないため未成年のときの自分は自分に発達障害的なものを疑っていた。しかし、不思議なことに男性集団に混じると男性集団のほうの暗黙のルールは感覚的になぜか教わらなくとも理解できていた。そして、自分は発達障害的なものではなく、性別に由来する行動の原理が逆なのだと認識するようになった。
長くなったが、自分の「性自認」の感覚はこのようなものである。アホなので今でも特撮ヒーローのように正義とは何かを自身に問いかけながら振舞いたいと思っている。
自分は諸事情あって外見のパス度(=希望の性別で見られる度合い)は高くない。容姿においては中性的で男性的な雰囲気の女性だと思われている。雰囲気が普通の女性とは違うため同性愛者の女性だと思われることが多い。性同一の診断の紙きれは持っているが、「治療」の予定はない。ただ、声は子供の頃からの訓練によって男性~女性両方の声を出すことができるので、電話や通話のみの相手には何も言わずに男性で通すこともある。
他人からの視点については、自分のことを「同性愛者であり、なぜか異様に男特有の無意識の行動をとったり集団におけるポジションを志向したり限りなく男と同じ行動ばかりとろうとする女性」と認識される状態でも個人的には構わないと思っている。
というか自分のやろうとすることを妨害しないでいてくれれば他人が自分のことをどう思おうと構わない。
もちろん「こいつはそういうやつなんだな」と理解して認識してくれる人間の方と距離を詰めたり仲よくしたりしたいとは思うが、別に増田もそういう相手と親密に打ち解ける仲になりたいとは思ってないだろうし。
[余談]
ちなみに先述の発言をひっくり返すようなことを言うが、おそらく「心が異性」と宣言するタイプの人の多くは思い込みと勘違いが多いように見える。特に、女→男(心は男と宣言するパターン)の場合は、わざわざ言って回っている人は変身願望が強い若い女性がそう宣言しているだけのことが多いのではないだろうか。
また、本当の性同一性障害の人で特に女→男の人でおそらく真正だろうなという雰囲気の人については、彼らの多くは男の姿と声で堂々と社会に紛れ込んでいる。もしかしたらすでに増田の周りにいるのかもしれないし、仮にいても気づかないと思う。日常生活において見ず知らずの他人のパンツの中身を見る機会など基本的にはないので、まずわかることはない。あってみればわかると思うが「元女です」と宣言されたところでまず信じられない程度には通常の男性である。もし、実際に彼らにあって、雰囲気をみて「どうみても元女だ」と疑えるのならば、その人は同時に世の生まれ持っての男性の多くにも元女疑惑をかけながら生きなければいけないだろう。
不要。
自分は性同一性障害を脳の性分化疾患の一種だと思っているが、それについての研究が政治的イデオロギーによって非推奨になっている。原因はおそらく、自分は異性になりたいと主張する人のうち、脳の性分化による性同一性障害の人は多くはないからだろう。
昨今のLGBT法案における性自認についての言説は海外による政治イデオロギーの問題だと思っている。これによると、ポリティカルコレクトネスによると、本人の資質はさておき戸籍と別の性別になってみたい、戸籍と別の性別として暮らしてみたいという願望を持っている人は誰でも「自分の性自認は○○」と主張していいことになっているようなので、性自認という言葉自体がライトな意味合いのものに変容してきているように見えるのだ。
自分も実年齢に違和感はあるし実感してる年齢と実年齢がずれているというその感覚自体は分かるが、だからといって自分がトランスエイジだとかはバカバカしくて真面目に主張する気にはなりえない。
その感覚を性別に当てはめたものが「性自認という用語の意味」なら、性自認ってだいぶ軽い言葉だったんだなーと思うし、トランスエイジのジェンダー版がトランスジェンダーならトランスジェンダーってのもめちゃくちゃな発想だなーとも思う。
ほったゆみのネームは夫婦共同で作業してたらしいけど、それが良かったんだろうな。
女性作者特有の悪いところも男性作者特有の悪いところも出てない気がする。
佐為は言わずもがなだし、アキラも中身は獰猛だけど見た目が中性的でバランスが取れている。
ヒカルは初期はあかりに「女のくせに」発言をしていて、今の時代なら叩かれそうな言動もしているが、作品後半では囲碁に骨抜きにされていて精神的去勢されているように見える。小6の初期の方がまだあかりを意識していた。
あかりはヒカルが好きな女の子だが、恋愛脳ではないヒロイン。院生になった後囲碁部に来ようとするヒカルに「来ないで」と言える子なんだよね。恋愛感情よりも、ちゃんと今の自分の居場所や仲間を守ることを優先している。そういう意味で、かなり脇役のヒロインであるのに、主人公の付属物の女にはならない魅力がある。この時代特有のジャンプヒロインアンチもあかりにはほとんどいなかったように思う。ヒロインアンチが大量発生するのって、若い男性漫画家に女性を描くのは下手な人が多かったからだと思う結局。
マリオの映画の評論家と観客の評価が乖離してるのはポリコレの強行のせいだ普通の人はポリコレうんざりなんだ増田もそうなんだが、そもそも映画やその他のエンタメ作品の鑑賞自体が出来ているのか?という疑問が湧くのだ。
https://anond.hatelabo.jp/20230504221408
この映画は反ポリコレだ!だからヒットしたんだ!ポリコレが無いから評論家の評点が低いんだ!っていう意見が一か月くらい前からネットで湧きあがってるんだが、それに対して全然そうじゃねぇってツッコミ多数という状態になっている。
そんな状態で「オタクは女とポリコレに攻撃されている」という投稿をすると無条件で持ち上げられるはてなにそのままの認識をぶっこんだら賛同されると考えたんだろう。そしてその通りになっている。
だがこのオタクの反ポリコレブームというのはかなり変なのだ。「ポリコレ的なものを無理くりに見つけ出して批判する」というゲームになっているのだ。
そしてポリコレ要素が「見つかった」ものは棄損されスポイルされたものであるからつまらない、と結論される。インフルエンサーの雑な扇動と飯のタネになってるのではないか?
例えば、聖闘士星矢のネトフリ新作ではアンドロメダ瞬が女になると伝えられて、それがポリコレだ!と糾弾されるわけだ。
でも原作でもアンドロメダ瞬は中性的ななりで、何故か股間に防具が無くてレオタードみたいなのむき出し、なのに股間もっこりがない。
なので二次創作やおいジャンルでは瞬は女役というかもっとはっきり言うとメス役で他の男に犯される役が専らだった。
因みにやおい腐女子と呼ばれるジャンルは70年代末に遡るが、それが大きくなって市場化する起爆剤になったのが80年代の聖闘士星矢の二次創作だった(あとキャプテン翼)。
これって非常に反ポリコレでしょ。
そして四半世紀経ってリメイクするに当たり、公式の方が腐女子に合わせてきた訳だ。これがポリコレかっ!?逆だろう。
だからこういう大してオタクでもない増田も知っている文脈を知らないからポリコレという「真理」が見えちゃうというケースである。
それから鑑賞が出来ていない疑惑だが、数年前に100日後に死ぬワニってマンガがあったのはご存じかと思う。
変な広告屋に抱かれたせいで101日後にコンテンツとして爆死してしまった訳だが、この4コマ漫画の最終回は凝ったもので、ワニの死が直接描写されず、雑誌なら見開き(WEBなので大判だが)に桜が散るというコマで死が暗喩されていた。
だが、作者のTwitterには「僕の解釈」を開陳するレスが殺到したのだ。「このバイクに乗っているのは誰々で、そのキャラが死んじゃった」等という様々な「解釈」が殺到した。
つまりはあれだけ簡単な暗喩表現が分からない人は結構いるという事と、そういう人にとってはネットで見る物知り達の「自分流の穿った解釈」は単純理解と同レベルであり、単純理解が不能だった時は僕の解釈をしてもいいと思われているという事だ。
これはゲームのリプレイ動画に付くコメントでも同じで、洋ゲーのちょっと洒落た表現では必ず「僕の解釈」のコメントが付いている。
そういう人がネットの反ポリコレ言説に触れて、ちょっと難しい表現に当たった時、それは「ポリコレのせい」に見えるのではないか?
元増田の場合は「映画評論」というものを知らないのでは?という疑念が湧く。映画評論家は「これはポリコレ的に×、これはLGBTが出るから加点」という風にやる連中だと思ってないか?
一般的に人気はあるけど評論家の点数は低いという時、多いのは「全体的に面白いけど平板だから」というケースが多い。「大人も子供も楽しめますね」ってやつだ。
例を挙げよう。
同じ3Dアニメで「カーズ」ってアニメがある。車を擬人化した映画だ。
この中で古い車キャラが主人公の若い車にドリフトを教えるシーンがある。嘗ての街道レーサーみたいなジジイ車なんだな。
そしてレース中にスピンした主人公車がそのまま逆ハン切って大ドリフトに移行するというシーンがある。その時、実況解説してるジジイ車はたまらずに身を乗り出す。
こういう「刺さる」シーン「光るシーン」を平板な子供アニメに入れ込むと評論家の評価は上がるのだ。
更に今ではこの刺さるシーンのせいでネットでミーム化していつまでも残り、続編への呼び水になったりもする。
この評価の乖離が起きたのってロッテントマトとかだろう?新聞のキッズ欄の「お勧め度」じゃないんだろう?新聞キッズ欄の「お勧め度」なら平板でポリコレで安全な方が点数は高くなるがそれ以外なら逆だ。
これ書いてる増田の好きな映画ジャンルというのは虐殺、暴力、理不尽、同性愛、フェチといったもので、あんまりポリコレが力持ちすぎると困る。
映画『パフューム』のAmazonレビューに「無実の人が死刑になっていやな気分になった」とコメントされているのを見て笑ってしまった。同映画では連続殺人を犯した主人公が香水の魔力によって大衆を魅了し、死刑を免れる。司法は法的辻褄の為に代わりに世話人の家の一人を犯人にでっち上げ、処刑して主人公は放免めでたしめでたしとなるのだ。この理不尽は当然観客を反徳でいやな気持にする為に入れられている。
けれどネットのオタクが論う「ポリコレの浸食」は見るからにトンチンカンなのだ。一般的な鑑賞、読解と評論が出来ずに飛びついているというケースばかりなのだ。
むしろ俺は積極的にそれを求めて女性作家の作品を手に取るもことよくある。
(なので「性別関係ない」みたいな言説には反対って言うか疑問。
受け手側がそれ込みで感じ取れる・感じ取るのも当然では?
女なのに、中性的〜男性的なペンネームを使って、絵柄もなるべく女とは悟られないような絵で、少年誌や青年誌で漫画を描いてる作家は多いけど、
ね、つまりわざわざ男性読者向けの媒体に躍り込んできた女性作家の話なわけ。
それでも、そこで最初からメス丸出しの作品をやるならいいんだよ。
それは男らしい。っていうと性差別だから、潔い。堂々としてる。格好良い。
でもそうじゃない奴もおるわけ。
いかにも男へ目配せする方向性の可愛くて肉感的な女の子を出したり。
まあそれもいいんだ。
そういう勝負したら女性作家は甲斐なしというか単純に不利な気するけど。
自分にはない異性の欲望狙った商売するのは難易度高いと思うけど。
でも商売人としてそれを貫徹するならそれもやっぱり潔いし、堂々としてるし、格好良いよ。
少なくとも余人があーだこーだイチャモンつけるところではない。
ここで問題にしたいのは、
ちょっと人気が出てきたり軌道に乗ったりすると女の欲望出してくる奴なんだわ。
これ本当に気持ち悪い。
何がしたいの?ってなるし、単純にあらゆる意味で半端ものじゃない?
週刊少年ジャンプにもおった。
やりたくもないベタな男向けお色気を頑張って人気を出して、
風の、なんか女性読者が「素敵!」ってなる関係性?ばっか描いて墜落していった。
いやそれが描きたいなら最初からそういう漫画で漫画で勝負しろよ!
ってどうしても思うんだよな。
それをもろもろ偽装してまでジャンプでやりたがる意味も分かんねーしさ。
そういう雑誌行けばいいじゃん。
やりたくもないベタなお色気サービスとかしてまで男向け媒体に潜り込んで
っていうこのパターン何?
最初から主人公がハイヒール履いてたロギィは俺は嫌いじゃないよ。
潔いし騙しがないからな。続かんかったけど。
まとめると
女の感性や欲望丸出しのものを最初から最後まで描く作家には文句ない。敬意払う。
男の欲望に迎合した男向け商品描き切る商売人にも文句ない。敬意払う。
が、そのどっちでもない、
男向けですの顔して潜り込んできて隙あらば女の欲望ブシャーしたい作家、
女性向けに描いてきたのを途中から豹変して男の欲望全開展開したらどう?
なんか痴漢されたような気分にならねえ?
何度も何度も繰り返すけど
男の欲望女の欲望それ自体は否定しねえからな?一ミリも否定しない。
ただ対読者を考える時に
それも最初からそういうことやりますってスタンスで集めた客ではなく
これはなんかおかしくねーか?
読者も反発持ってもよくねーか?
たとえ古いけどちさぽんとかもさあ。
別にスレたイケメンにレイプされて感じようがイこうが一向にかまわねえよ。
(ほんと不貞腐れた態度のイケメン好きだよな。みんな髪ベタがない。)
けどなんでそこから
その女も周囲の友人もみんなそれを受け入れられない主人公は器ちっちゃい!みたいに主人公を責める空気なの。
まあなんらかの女の欲望が関与してるのは察知してるけども。
ああこれイケメンがグッドジーンで主人公はグッドダッドなんだなってすぐわかったよ。
まあちさぽん一周回って名作な気もするけどな。
これもうわかんねえな。
急逝した作者に合掌。
好きな漫画を描くべきだし読むべきだよ。
そういう話なんだよ。
あと最近に女性漫画家は素晴らしく能力高い作家はたくさんいる。
魂のない迎合ではなく当人の欲望で駆動しつつ男性読者にも訴求する作家が増えた。
だからもう半端もん変質者のことをそれほど気にする必要ないのは確か。
やっぱり脳の機能がめちゃくちゃ高いんだよな。
女なのに中性的なペンネームの漫画家って、なんか男装した女性みたいで、女っぽさがマンガに表れた時ウエッってなるよね
女なら女としてペンネーム付けて堂々と買いてほしいわ
SPA!とかAERAとかは中年男向けぽいけど荒んでるから読みたくないし、
LEONとかのファッション誌はオヤジすぎてついていけないし、
読めるのはGetNaviとか家電批評とかガジェット系くらいか?
女性は多いよな
ファッション誌はアラフォー用の雑誌がストーリーとかクラッシーとか複数あるし、
レシピ関係はよく読むし、LDKの100均特集とか大好きなんだよ
男だとBRUTUSとかなんだろうけど、なぜか合わないんだよな
モノマガジンは男性向けグッズ紹介なんだけど自分には男臭くて合わない
【追記】
みんな教えてくれてありがとう
「日本は伝統的にLGBTに寛容だった」というか、そもそも性欲とか性的アイデンティティについての理解や認識の構造が全然ちゃうかったんだよね。
今だと、男性に対して性欲を持つ(男性への性的指向を持つ)男性は、「ゲイ」としての性的アイデンティティを持ってて、基本的には同じゲイの人と交際するわけだよね。タチとかウケみたいな性交時の役割の概念はその下に来るし、今時だったら、自分はタチウケどっちというのが明確でない人(リバ)も多くいると思う。
昔は、男性同士の性関係は、男役側と女役側(たとえば陰間)、年長側と年少側(たとえば稚児・兵児ニ才)という非対称な関係になっていた。んで、このうち男役側とか年長側は、世間的には「ふつうの男」だった。相手にちんこを挿入する側は、相手の性別が女でも男でも、その性的能動性を根拠に、本人の男性性自体に疑いを持たれることはなかった。時代や地域によっては「女色・男色両方に通じてるのがいいんだ」みたいな言説すらあった。
一方で受動側、挿れられる側というのは、あくまで成長途中の一時的な状態であったり(たとえば「年少側」は、いずれそういう状態を卒業して年長側に移行する)、あるいは男性が女性化した「特殊な」状態であったりした。陰間のイメージは江戸中期から後期にかけて結構変わっていくんだけど(中期には「女性にない清廉な魅力がある中性的存在」みたいな扱いだったのが、後期にはより女装・女性化していく)、基本的にはずっと賤業として蔑視されていた(後期には梅毒問題もあって夜鷹の安い代替物みたいな感じになっていった)。あと、こちらも20代中盤には商売を上がるのが基本だった(つまり陰間にも「年少者に許された一時的な性的受動状態」としての性格があった)。
そういう意味で、実は日本には、明治時代にドイツ系の性科学(特に変態性欲研究)が入ってくるまで、「男色好み」や「陰間」はいても「同性愛者」はいなかった。①同性との性行為、②同性との性行為中の役割、③同性と性行為をする職業、はあっても、それを自らの性的なアイデンティティと考える発想自体がなかった。「同性愛者に寛容だった」というわけではなくて、「同性との性行為に寛容だった」「能動的役割の側の男性性は傷つかなかった」というのが実態。
needy girl overdoseの主人公は性別不明という設定らしいけどその設定が活きてるとは思えない。
承認欲求を満たそうとして情緒不安定みたいな設定は明らかにメンヘラ「女」として特徴付けるような設定で、まずその時点で性別不明という設定とのフラストレーションを感じる。
変身前と変身後の双方のキャラデザをわざわざ作ってる割には変身前も普通に美形に描かれている。
もしかして変身前ももっと醜い姿を化粧とかでごまかした姿だというのだろうか?しかしそうだとすると変身後に対してわざわざ「仮装した姿」といってるところにひっかかりを感じる。男があれだけの「変身前」の容姿になってるというならもはやどっちも仮装である。
緑のタンクトップにホットパンツの腐女子の絵でじゃないけど、「性別不明も年齢も不明だからあなたかもしれない」というなら、変身前はもうちょっとリアリティある容姿にすべきではなかったか。せめてもうちょっと中性的な見た目ならましになったかもしれない(もしかしたらそれは控えめに胸を描かれている点で既に反映してるつもりなのかもしれない)。
性別不明という設定で男の娘としたエロイラストが二次創作界隈でにぎわっているかかと期待したがそんなの全くないので、やっぱり性別不明という設定は少なくとも受け手にはほとんど無視、というより忘れ去られているように思える。
わかり手こと小山晃弘も、白饅頭も、弱者男性のことを収入・容姿・コミュ力・モテなどが不足した社会的弱者ととらえてきた。
そしてその層の生きづらさと鬱屈の責任を、弱者男性と対をなす「強者男性」ではなく、「弱者男性を相手にしない女性」に結びつけてきた。
声なきマイノリティのあり方に耳を傾けるテイを取りつつ、彼らの声を聞き届けないのはあくまで「女」だということにしていた。
こういう風に「女性」に矛先を向ける議論は、多くの弱者男性当事者にとって心地よい、受け入れやすい議論だった。
自分を弱者男性だと考える人が「強者男性」の格差について正面から向かい合ったら、そこには自責の余地が生まれる。
自分は「彼らより」収入が少ない。容姿が劣る。コミュ力がない。なぜそうなのか。どうすればいいのか。
考えても解決するわけではない「劣り」について考え続けるのは、緩慢な自傷行為だ。
それとは真逆に、「女性」に矛先を向ける議論は、他責の矛先を提供してくれる。
弱者男性が救われないのは、彼らの弱さに配慮しない社会、彼らの弱さを受け入れない女が悪いから。
そこでは「弱さ」は所与の前提になり、ことさらに「なぜ」を問われるべき課題ではなくなる。
ところが去年、白饅頭が医療従事者を社会的強者として叩いて炎上した。
https://togetter.com/li/1926636
今回、わかり手が大谷の容姿をネオテニーだ中性的だとdisり、白饅頭がそれを擁護して炎上した。
https://togetter.com/li/2098940
どちらも、これまで彼らがあえて焦点化してこなかった「強者男性」自体を直接射程に入れた議論だ。
「医者はもっと強者であることを自覚して(医療負荷について悲鳴を上げたりせず)わきまえろ」「大谷の顔は小綺麗で知的でブルジョワっぽいからキモい」「SAPIXっぽい」「高学歴エリート層と同じ」「実家が経済的に豊かであり、幼いころから潤沢な英才教育を受けていたアマチュア・エリート出身者」「メス化」…。
ここで語られていることが事実かどうかはさておき(たぶんだいぶ事実と違う)、
それも、「強者男性にはもっと旧来のマスキュリニティを発揮してほしい」という、倒錯した批判だ。
(「白饅頭の言う「かわいそうランキング」で下位に位置する強者=医療従事者の訴えが世間に聞き届けられるのはおかしい」と言いかえてもいい)
彼らがこれまで語ってきた世界観と、世間で活躍する「強者男性」たちの実像のズレが露呈しつつある。
だから彼らは、そうした現実をファンタジーの方に合わせようとして、
彼らの先入観と違う振る舞いをする「強者男性」を批判している。
彼らは強者男性にいつまでも「古き良き強者男性」らしくしていてほしい。
雄々しく、力強く、堂々としていて、だからこそ思うままに「メス」を手に入れられる、
そうした軸において弱者男性がかなわない「アルファオス」であってほしいのだ。
この数年プチバズり続けているタワマン文学(窓際三等兵など)は、
こういう「おとぎ話のような強者男性」像に対するアンチテーゼにもなっている。
そこで語られるのは、端的に言えば、教育・就職先・文化資本・社会階級をめぐる堂々巡りの自意識だ。
そこでの「成功者」は、マッチョでもないしモテるわけでもないしコミュ力が高いわけでもない。
単純に「親が金持ちで人脈があってSAPIXや鉄緑会に入って良い大学を出て良い会社に入って
高収入を得て美しい妻を娶って生まれた自分より目鼻立ちの整った子を自分以上のレールに乗せられる男」が
人生の勝ち組であり、その中でも新参者や中途半端な位置づけの人間は「さらに上」への嫉妬に身を灼かれる。
この世界観の中でも女性は相変わらず「トロフィー」ではあるが、
トロフィーを手に入れられる人間とそうでない人間の差はほとんど宿命的な筆致で描かれ、
そこにはもはや「女性は弱者男性に目を向けるべき」などという主張が介在する余地は全くない。
一億総中流と言われた社会が解体しきって、日本でもペアレントクラシーによる
階級再生産のサイクルが強固に確立したことを苦々しく再確認する物語だとも言える。
わかり手や白饅頭らは大谷批判の中でこうした論点を取り込もうとして、失敗してしまった。
その白饅頭自身が今やnoteで稼いだ金で買ったタワマンに住んでる勝ち組だから、という皮肉な現実はさておいても、
そもそもこうした露骨な階級社会論は、これまでの「女性が悪い」系の弱者男性論とすこぶる相性が悪いからだ。
タワマン文学時代の強者男性とは、すなわち階級的強者であり、自らがずっと勝ち続けるための盤石の基盤を整えた勝ち組たちだ。
そうしたペアレントクラシーによる階級の固定化を緩和するなら、再分配すべきは、女ではなくカネと教育だ。
でも、こんな野党みたいな話をして、弱者男性を自認する当事者が「そうだそうだ」と溜飲を下げるだろうか。
そんなわけがない。「いま」弱者男性である当事者が、カネと教育の再分配によって階層を浮かび上がれるはずがない。
語ってはいけない真実、語れば絶望しかもたらさない真実というものがある。
たまーに自分のセクシャリティがグレー過ぎる気がしてならない。
男女どちらも好きで、同じだけ嫌いだ。
そしてどちらかと言えば男性が苦手でもある。
それでいて男女どちらも好きになったことがある。
女性とは機会がなかった。
モテなかったのもあるし、同性相手が見つかるようなコミュニティにも所属していないし…
まぁモテないのは男女どちらに対してもそうなんだけども。
それに他人を好きになった経験は数回あっただけで、セクシャリティを確定させるほどの経験は無いかな。
これまで夢中になって追いかけた芸能人(アイドル、俳優、ミュージシャン問わず)って、恐らく同性しかいない。
競馬好きだから、武豊を始めとして男性騎手は好きだけど、そこに恋愛感情とかそれに近いモノは絡んでない。
世の中、LGBTQだとかって言ってセクシャリティが分けられたりラベルが付けられているが、どれもピンと来ない。
そうやって育ってきたし、そうやって納得してきたし、そういうモノだと思ってきたし、今更になって自分が男だなんて少しも思わない。
ただ、どことなく"女なら女性的であること"を強いられている気がして、少し疲れることがあるのは事実。
女だけど、女の子らしくいるのは苦手だ。
まぁ見た目は芋っぽい。無駄に幼顔なので余計に芋だ。
この話、何言ってる(書いてる)のか自分でも分からなくなるから内容が滅茶苦茶だね。
あと恋愛至上主義みたいな世の中というか、そういう感覚も苦手で、恋愛感情や性欲が絡まない人間関係が一番好きだ。
恋愛至上主義に則って、自分も……と思ったことがあるけど難しかった。
それなりに動いていると、好いてきてくれる男性はいたし付き合ったりしたけど、なんかやっぱり関係を築いて継続させるのが上手くいかなかった。
それに「彼氏いないの?」「好きな人いないの?」という手の質問がずっと苦手。
何か試されてるような気がする。
それでいて自分が関係せず、登場しない人の恋愛話を聞くのは嫌いじゃない。たまに理解しかねることもあるけど(笑)
だから恋愛モノのドラマとか漫画もよく見るし好きだけど、自分が登場しないからこそ良い。
ラブソングもたまに意味が分からないけど、普通に聴くし感動したりもするけど、自分がそこに存在しないから好きなんだと思う。
"作品"として受け止められる。
そういう世界は現にあるし、そういう世界(同性愛)のコミュニティに一時期所属してみたこともある(結局はそこも恋愛至上主義なので難しくて抜けたけど)。
自分さえ登場しなければ、BLだろうが百合だろうが、男女だろうが妄想も楽しい。
次期に32歳になるが、結婚もせずに年老いていくんだろうと違和感なく思う。
分からないけど。
おわり。