はてなキーワード: 自己実現とは
・すごいいましめ映画だ
いましめすぎてもはやホラーだった
・Twitterでおすすめ(半信半疑)+filmarksで3.6だったからそこまで期待せず見たけど現時点で今年1位になった 監督の次回作あったら観に行く
これもうホラーだろ…
・手づかみのレストランでの「マッマだけが一方的に楽しいと感じてる会話」が辛えわ…
・仕事の権力勾配ある状態で対等なコミュニケーションなんて不可能だから粛々と役割を果たすことに専念しよう…と思った
・息子君は社会(労働)に出たら否応なくわからせられるしアーティストになったとしても才能上位互換にぶち当たるだろうから調子こける今のうちに調子こいとけ…
ご家族から大切に育てられ、スタイルのいいイケメンでこの時代に自発的に恋愛したがって
アーティスト活動(笑)やるくらいバイタリティあって小銭稼げるくらいには人気稼げる出来過ぎな息子さんやからこれはほっとけマッマのがよほど怖かった
・初手の「ババア配信中は〜」からの「(シャワー中にドア開けて)ごめん!」でもう大切に育てられた子感すごかった
・A24作品で一番好き
なんか監督の自己満足感が少なくエンターテイメントとして伝わるよう重すぎず軽すぎず作ってくれてる感じする
・ネットで「創作者の承認欲求と自己実現の話〜」って聞いてたから「チック、チック...ブーン!みたいな感じかなそれならあんまり合わないかも?」と思って見てみたけどどっちかというと「他人に興味持て映画」だった
・キラキラワークのドヤ感を「他人に影響を与える仕事をしたくないの?!」の一言で捉える的確さよ
・最後のシェルター建築前更地のマッマの写真で「そ、その状況からイチから始めたんなら思った20倍位スゴい人やったわ…」ってなって
・職場の人に絶対「クラシックババア」ってあだ名付けられてるやつじゃん…
・母息子については「よかったね!」ってなるけど父親の存在がキャラの濃さの割にノータッチだったの、人生相談とかで母親から子育てについて相談メッセージ送られてきたが相談内容文面に父親が一切登場しないような不気味さがあった ちょっと父親だけアリ・アスター作品みたいな静かな不穏さ滲み出してて…
・「世界を変えるのは地道な仕事と相手への興味の下りは」ホンママジでその通りでございます…なんだけど他人に影響与える「福祉の仕事」と「車修理の仕事」のくだりに1ミリも関わってない女の子の口から唐突に出たからそこだけ少し「キャラに作者の思想言わせてる」感あった
・運転シーンが常に若干飛ばし気味でいつ横から車が突っ込んで来るかずっとヒヤヒヤしながらみてた
あとマッマの乗ってる車に「生活」の親近感もった
映画の人々、みんなSUV車?乗るから「お金、あるんやね…」ってなるから…
・配信中のババアノックしろよと配信で思想強めの曲やって信者からウヘられる共感性羞恥シーンはぜってえあると思ってたが無くて驚いた¥9000稼げてよかったね!
顔がいいから何でも似合う ピンホールシャツみたいな鎖、顔面が良くないと似合わん
・シコリ赤ランプ草 音楽漏れてないし「あっ…(触れない優しさ)」されるやつじゃん 家にそんな軽々とドリルの穴を…
・思想強めライブハウスの初手に出てきたシンガーの「ぼくはボンクラなので仲間内でちやほやしてくれるこの界隈でやってます!」顔に目茶苦茶わろた 間違ってないにしろ悪意ありすぎだろ!地味に2回出ててさらに草
・息子の曲の「十代にしか刺さらなそうなありふれた曲」感すげえな!顔ファン枠もそこそこいそう
・思想強めこじらせ人間しかいなそうなライブハウスで卒業アルバムに寄せ書きしてもらえる俺らマジ最強お前らとのお別れマジつれえわ…ソングは眩しすぎるからやめろ…やめろ…
・ほんま「今日は来てくれてありがと」「また来てね」の所良すぎた ちょっと涙滲んだ
・タイトル、原題のがよくない?と思ってたらラストの流れ見た後だと翻題のがいい…ってなった
砂場でトンネルを右手左手それぞれで両側から掘ってやっと手が繋がる時のような良さを的確に現しとる…
・ここまで素晴らしい映画で「自分の事ばっかじゃなくて他人に興味関心を持て人の話を聞け」と戒められたのに何で自分は他人の話に興味を持てないんや
興味関心を持とうと思って持てたら苦労しねえ!
答えてくれよー!
俺はさー!ヨイコノミライって漫画に出てくる「私、本物の批評家は大好きよ。作品への新しい読み方を示して、新しい道を拓いてくれるから」って言葉にまさしく打たれちまってよー!それからそういう批評家になろうと思って20年ぐらいだー!
無限増殖するオタク文化の中で何をどう消費したらいいのか学んだらいいのか分からない中で藻掻きながらその光を追い続けてきたんだよー!
でもたどり着けてねー!マジで年に数回めっちゃバズってる映画やドラマに乗っかって「考察」や「批評」のもどきをぶっかましてそれでチョットだけチヤホヤされるので精一杯だー!
これはもうなんなんだろうなー!せめて逆噴射聡一郎ぐらいの何かにゃなれるイメージがあったんだけど完全に無理だー!俺なんかには無理だったー!
だけどなー!未だに心のなかで願望だけがくすぶってるんだー!だから新しい漫画やドラマや映画やアニメやなんかしらがバズってるのを見るたびにいっちょ噛みしてバズれないか試しちまうんだー!
先生よー!先生なら分かるよなー!この気持ちがさー!承認欲求と自己実現欲求の歪んだ発露ですねなんて左手で書き殴ったようなカルテで済ませないでくれよー!
俺たちはなんなんだろうなー!!!
確かに嫌われるだろうとも思うし、同時に嫌われないだろうとも思う。
どういうことかというと、「オタクというのはただの消費者ではない、ただの消費者以上のナニカなのだ」っていう前提を置きつつ、ただの消費者が自分のことをオタクだなんていう自意識で生きるなら、そりゃ理屈の当然として嫌われるし、嫌われてもしょうがないだろ。一方で、「オタクというのはただの消費者の別名なのだ」という前提をおくなら両者は同一なんだから嫌われないだろ。
じゃあ、前者と後者のちがいはどこにあるのか?
それは例えば、(オタクである自分はオタクではなかった自分とは違って〜)参加コミュニティがあるとか、居場所があるとか、何らかの個性的な自己実現やら、人格的財産が入手できるとか、まぁ、そういう意識だよ。当たり前だけど、ただの消費者なんだから、そんな権利はないしそんなものは手に入らない。
仮に手に入ったとすればそれはその方向に何らかの行動をしたからであって、消費者だったからではない。
行動もしないただの消費者が、ただ単にアニメ見るというような消費だけで、「ただの消費者以上のナニカ」つまり前述のような自己実現を手に入ると思ってるのだとすれば、それはすなわち「オタクというのはただの消費者ではない、ただの消費者以上のナニカなのだ」っていう前提を置いているわけだから、そりゃ嫌われる。
「お金にならないことをやる原動力」についての考察ですね。人々がお金にならないことをやる理由は様々ですが、その中でも最も一般的な理由は、**自己実現**です。自己実現とは、自分自身の能力を最大限に発揮し、自分自身を満足させることです。自己実現によって、人々は自分自身を成長させ、自分自身をより良い方向に導くことができます。また、人々は、自分自身が何かを達成したときに、達成感を感じることができます。この達成感は、人々が自分自身をより良い方向に導くための重要な要素です。
お金に関心がない人もいれば、お金持ちの人もいます。しかし、お金に関心がない人でも、自己実現のために何かをすることができます。また、お金持ちの人でも、自己実現のために何かをすることができます。自己実現は、お金に関係なく、誰にでも可能なことです。
正直「育てる自信がないから」「子どもが好きではないから」「自由な時間がなくなる」そんな簡単で単純な言葉で片付く問題ではなく、日本の少子化には根深い問題がある
小学生の頃から今の社会で子供を産み育てるに疑問を抱き、女性視点でのメリットが何ひとつないと結論が出ているため理由を書き出してみた
子供を産むことは起業するよりもギャンブル性が高く後戻りができない
子育てが自分に合わなくても、子供を育てるお金が無くなっても、離婚しても、元の子供の居ない人生には二度と戻れない
会社のように廃業、倒産そういったことが何もできない。自分で意思決定できない。放棄すれば犯罪者になる
妊娠期間中、身体と精神に負担が大きく10か月間ほどの自由や人権がなく、その後も高確率でキャリアが途絶え20年間ほど自由を失う
産んだ後は社会的な立場や自分の時間を全て失う、軌道修正は困難、社会制度がクソ
代替わりするので、自由な時間がなくなるどころか、自分の人生の主役ではなくなる
人生の主役の座から降りることになり、自分が子供の人生のインフラ。しかも、体作り頭作りメンタル作り体験作り等も策定するコンサル兼インフラ
両親の自己肯定感が高くないと難しい。このことを理解せずに子供を作ると毒親になってしまう
子供は競走馬ではないと思う
男性はリスクを一切負わないから不平等、そのため軋轢も起きやすい
女性は1年近く身体不自由で麻酔もかけずに時間と自分の人生を失い命がけで子供を産むのに対し、
一切痛みを伴わず一瞬の快楽だけで自分の子供が作れる男性側は楽しいし、家族を養わなければならない場合基本的に世話も出来ない
男性のように子供を産んでも楽しさや自由があるわけではなく、女性は自分の人生をすべて失うことと引き換えになる
知的障がいや発達障がい、身体障がいを持ってしまった場合育てる時間や労力がない。健常者で大学に行かせても将来ひきこもりや病気になる可能性がある
医療現場で勤務経験のある自分は現実が見えて周りにそういう状況で苦労している親御さんばかりで、何も明るいイメージが出来ない
老後の世話をしてくれるとは限らない
仲の良い家族でも世話はしない。障害を持っていると世話はしてもらえないし、たとえ自分の言うことを聞く健常者が生まれても独立するとホームに入れて会いに来ないし、海外移住もある
ヤングケアラーや奴隷にさせることになる。昔のように子供が親と一緒に住んで下の世話までさせるのは虐待だと思う
「外見至上主義」や「能力による階層化」が進んだ今、「普通の人間」という水準が爆上がりして子供に求められる能力が高すぎる
ママ友付き合い、受験戦争、近所付き合い、親戚付き合い「子供を産んだ」ということだけが接点の人間との付き合いはリスクが多すぎるし苦痛
親戚やママ友からの、顔面比較、能力比較、セクハラなど、犯罪まがいの暴言や差別が子供と母親を傷つける
国が求めるような消費と納税が出来る子供を3人産んで大卒にするには財力も体力が必要
20代までに結婚、20代前半で第一子出産、35までに産み終えるなんて高校卒業してすぐ結婚するような女になるしかない
国から老後に2000万円貯金しろとも言われている時代に、さらに子供を1人の養育費と教育費総額約2,000万~4,000万円も用意できない
さらに住宅ローンもある場合、1億という金をどうやって稼ぐのか正直イメージできない。もっと安くできるという意見もあるだろうが
子供が労働力になった時代じゃあるまいし、学費をケチって子供に可哀想な思いをさせてまで産みたいと思えない
正直国の理想では10〜20代で子供を産むのがベストだが、高卒で結婚して金のない状態ですぐ産むなんて多くの現代女性には不可能
大学や働きながらの妊娠出産でヤリマン呼ばわり。職場や学校でマタハラを受けることもある。キャリアを維持するために産んでも育休が取れない。キャリア形成の出来てくる30代で産むのは厳しくリミットが訪れる
とにかく変化の激しい世の中で10代で計画的に80年以上も生きる人間を自分の意志で作ること自体が無理ゲー
※タイトルや以下における「エンジニア」とはソフトウェアエンジニア的なものを指すとする。
この時期に各種アドベントカレンダーで見かけるような、あるいは平時でもはてブの「テクノロジー」タブに上がってくるような記事は魂に訴えかけるものが皆無な浅い記事ばかりだ。マネジメントがどうのだとか、○○プログラミング言語で△△してみましただとか、無味乾燥なこと甚だしい。それはなぜかというと、そうした記述はいわば児戯を一生懸命やっているだけであって、社会や世界のことをなんら考慮しておらずなんの影響も与えることができないものだからだ。
求職側において、個人ブログ等で発信することでポートフォリオ代わりになり、転職活動に有利になるというインセンティブがある。求人側から見ると、自社ドメインの技術ブログ等で発信することで採用市場におけるプレゼンスを高めたいという動機がある。この双方向の動きにおいては、情報を多く出したもん勝ちであるため、浅い記事が量産されるというわけだ。
求職者は人材会社の陰謀に嵌められて義務的に情報発信させられていることも多く、被害者だとも言える。しかし、求人側がこの動きに加担するのは非道徳的である。たかが採用のために競合と人間の認知許容量を巡るゼロサムゲームを繰り広げて貴重な人類の知的エネルギーを浪費しているのは端的に反社・売国奴である。
IT業界は、火のない所に無理やり火をつけてからなるべく複雑な消火のソリューションをなるべく高値で提供するというブルシットジョブの宝庫である。何社もの企業がキラキラ業界ヅラして犇めいている分野においても、冷静に見るとその分野自体が社会に不要(それどころか有害)であるということはよくある。自分が携わっている分野においては正常性バイアスでそう感じないかもしれないが、他分野を見たときには同じように感じる方は多いだろう。
そもそもがブルシットジョブなのだから、それについて何をどう語ったところで本質的に伽藍堂なのである。
AIは身体性を持たないため、記号を記号としてしか処理できず、現実の実体が持つ意味と結びつけられないという記号接地問題が課題となっていた。特にサーバーレス環境において、エンジニアもAIと同様な状況に陥っている。コードを書いてCDでデプロイしてクラウドで動かすという開発のサイクルは現実の物体との関わりがなく、自分の行いが現実においてどういう意味をなすかという意識が希薄になるからだ。そのような状況では空論を弄ぶことしかできなくなるのは当然の帰結だ。
記号接地問題を解決する側にいるはずのエンジニア自身が同じ問題に囚われるとは、なんたる痛快事であろうか。
エンジニアというのは誰でもできる職業なのに高給取りだというイメージが付いており、思考停止しているくせに一発逆転を狙う馬鹿を呼び寄せている。
また、仕事それ自体によって、あるいは仕事で金を稼ぐことによって自己実現をしようと企むナイーブな価値観が蔓延している。もともと馬鹿ならそのままぬくぬくと馬鹿のまま育つし、大学で一般教養を学び大学院でコンピュータサイエンスを学んだような本来は"頭の良い"人までそうした朱の馬鹿共に交わってより赤き馬鹿に成り下がってしまう環境なのだ。
たぶん、彼らが許される世であって欲しいと思っているんだと思う。その願いと、そっちの世の中のほうがなんだか楽しそうだという希望を見出してんのかな。錦鯉が好きな理由を考える時、西成あいりん地区の三角公園を思い出す。どんなに治安が悪くて、どんな人相の人がいるんだろうとか思って行ったけど、公園で過ごしている人たちは朝っぱらから発泡酒を飲み、チューニングのあってないギターを弾き、踊り、その脇でボールもないのに全力でピッチング素振り(バッティングじゃない)をし、事情はあるにせよ彼らはかなり幸せそうにみえた。私にとって錦鯉は、三角公園でみたあの光景に近く、彼らが注目されている現状は三角公園に沢山の観光客が集まっている様子を想像する。あの空間はあのまま保たれていて欲しい。西成あいりん地区でおっさんが昼間っからピッチング素振りをしていることが許される世の中であって欲しい。
先日、空気階段もぐら、ニューヨーク嶋佐、トマホーク坂井が「ボクらの時代」に出演していて、坂井が「結局、何かで抑圧された人が自己解放のために芸人やってる人がほとんど。俺はおやじコンプレックスだと思う。おやじの人生みたいになりたくない」と言っていたんだけど、芸人に限らず人は自己実現とか自己解放とかなんやかんやできっかけや理由、目的を求めるもんだと思う。元々あるのではなく能動的に探す、見つかる。でも彼らはずっと受け身。野心や頑固さ、見栄、敵意などの突き動かすような大きな意思を感じない。そりゃM1の優勝を狙っているくらいだから無いわけではないと思うけど、熱すぎることもなくかといって冷めすぎてもいない。2人が出演したしくじり先生で、優勝を逃した2020年M-1を「僕たち2人に、人生で初めて悔しいという気持ちが芽生えた。しかもその悔しさはどんどん増した」と(主に渡辺が)振り返っていて徹底的に情けないと思いつつ、その情けなさを恥を忍んで言えるおじさんたちにちょっと胸を打たれた。
「誰も傷つけない笑いなんてものは本当に存在するのか」というテーマを一人遊びのおもちゃにしていた時期があったんだけど、表現をする人は常に誰かを傷つけるリスクがあり、たとえどんなに気をつけていても知らないところで見知らぬ誰かが傷つき不快な思いをしている可能性は捨てきれない。実際にミルクボーイのM1決勝ネタをみていた友人が「モナカってチョコモナカジャンボのこと?」と彼氏に聞いたところ「最中も知らねえのか」と随分バカにされ傷ついたみたいなことを言っていたし、さっきの三角公園の話も、きれいなところだけを観てわかったような態度でいるよなと自分自身で思う。
私は2020年M-1の錦鯉のネタ「パチンコ」でソファから落ちるほど笑ったんだけど、何が痛快だったかっていうと、パチンコに行ったことない人にとって、まさのりのあの顔が初めて見る「パチンコ台」になったこと。パチンコを知らなくても笑えるネタは、本当の意味で誰も傷つけてないし、置いてけぼりにもしてない。ネタを見ている人が例えパチンコを知らなかったとしても、誰からもバカにされないように、まさのり自身がパチンコ台になってくれる。錦鯉は、バカ担当まさのりさんがこの世の全ての"傷つき"を一身に背負ってくれてるんだと思う。「どうせみんなこうなるんだよ」「からっぽだよ」と冒頭から徹底的に自分を下げ、コンプレックスを持つ人たちに対して「俺のほうがもっと下だから安心しなよ」みたいな態度を取り続けてくれる。だから私は錦鯉のどんなネタも安心して観ることが出来る。一番好きなネタは「数え唄」です。
青春映画が好きなんですよね〜という時、おれは当たり前のようにスコセッシの映画とかサタデーナイトフィーバーとか桐島、部活やめるってよとかああいうのを想定して言ってる。それで通る事も多い。
青春の情熱を描いた系というニュアンスで受け取られる事もあるけど、それならそれでまあピンポンとかアツいですよねという方にも話を持って行ける。陰か陽かの問題で、どっちにしろ似たようなテーマの「青春」だし。
ただ、たまに青春映画=キラキラ恋愛ストーリーみたいな受け取り方をされる事もある。おれはそういうのにマジで一切関心がないし、自己実現への焦燥感や閉塞感を描いた鬱病みたいな映画が好きなんですと回りくどく説明してみても伝わりがあんまり良くない。その辺は理屈というより感覚の問題なので仕方がないとは思うけど。
タイトルのとおりなんだけどいま30後半で、今後の人生のことを考えるとむなしくなるわ。
仕事で自己実現できているやつもいいわな。その調子でスキルアップしなさいな。
で、この三つがどれもできていないおっさんはどうやって生きていけばいいわけ?
生まれてからずーっと、人に言われたことだけやって、我慢料として安い給料を渡されてさ。
誰かを稼がせるためにロボットのように働いて、動けなくなったらポイでしょ。
七時ごろに仕事が終わって、飯食って、酒飲んで、寝る。誰かを稼がせるためにそれを繰り返す。
自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。
はいはい、きみらの言いたいことはわかるよ。「趣味に生きろ!」とか言うんでしょ。
自分もオタクなので人並み以上にアニメ・漫画・ゲームは好きだが、面白い作品の供給を待つだけの人生にも疑問が出てきたんだよね。
結局、消費者でしかないし、自分の趣味に合う作品が配給されなくなったら終わりじゃん?
「生産的な趣味を持て!」とか言われるだろうけど、生産的な趣味で承認されるほどのスキルがあったらこんなことで悩んでいないのよ。
今まで何もしてこなかったおっさんが急に生産的な趣味に目覚めても、周りの生産性との差を自覚して惨めな思いするだけでしょ。
孤独なおっさんが誰にも承認されずに趣味に生きてなにが楽しいのよ。
4連休もな~んにも楽しくなかったよ。
子供の頃から死ぬのは苦しそうだという恐怖がパラノイアのようにまとわりついていた。ある時気絶を経験してみて、死なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。睡眠は死のイトコとはよく言ったものだ。身体的な苦痛に対する恐怖は薄れていった。恐怖は抽象的なものへスライドしていった。
「無」になることが怖くなった。
意識の断絶。経験したことのない状態。体験した者は一人残らず口が聞けなくなっている。これはどういう思考の過程で恐怖が薄れたのか忘れてしまった。どう足掻いた所で避けようもない。火の鳥や吸血鬼はきっと存在しない。ならば不安になったって仕方がない。考えるのをやめることでいつしか怖くなくなっていたのかもしれない。
存在を忘れられることが怖くなった。
無になっても、他人を介して自分に存在を繋ぐことが出来るのではないかと考えるようになった。それが成し遂げられないことへの不安だった。
大抵の人がそうであるように、自分という存在もまた忘れられれば初めから無かったかのようになってしまう。結婚して子供を残せば自分の存在を残せるかもしれない。でも4代5代も先になれば、誰も読みやしない墓石に刻まれた文字だけの存在になるだけだ。遺伝子を残した所で、それが自分のアイデンティティを為すものだとはどうしても思えなかった。それはただのモノだ。いつか朽ち果てる墓の中の骨と変わらない。そこに自分の考えや言葉や性格は何もない。そもそも血が途中で絶えない保証なんてどこにもない。
思春期の自己実現への焦燥感や全能感と合流して、偉大な存在になれば望みは果たされるだろうと思うようになった。教科書に乗るような存在になれば永遠になれる。誰も自分を忘れない。
しかし自分が大それた存在ではない事を薄々受け入れていく内に、この望みも薄れていった。ビートルズだって数百年先も人々の記憶に残っている保証はない。バッハだってカエサルだって仏陀だって、いつかは忘れられるかもしれない。
生きている間だけ存在し続けるのも、死後せいぜい数十年、数百年、数千年の間人々の記憶に留まるのも、永遠に比べたら誤差のようなものだ。それに身も蓋もない話をすれば地球だってどうせいつかは爆発するらしい。他人を介した方法でも、永遠の存在になろうとすることは諦めた。今思えば、地球がなくなっても宇宙へ住処を広げない可能性がないとも言い切れないけれど。
これらはすべて理屈の問題というよりは納得、受容の問題だった。
後悔を抱いて死ぬことが怖くなった。今に至るまでこれだけが怖い。
死は避けようもないが、しかしたった一度きりの生があるのもまた事実だ。
生きる意味などどこまで考えても見つからなかった。理詰めで問うていけばどれもこれも絶対的な地盤などなく、あやふやなものの上に成り立っていた。宗教というものの意義が肌感覚で理解できた。しかし自分なりに意義を見出す事は出来るはずだ。ならば心からの納得が欲しい。
死ぬ間際に人生こんなんで良かったのかという思いが頭を過る事に対して、強迫的な焦燥感を抱くようになった。
映画を見漁っても、友達付き合いをしていても、方々を歩き回ってみても、楽器を弾いてみても、曲を書いてみても、心からの納得は得られない。
それを振り切れるほどの情熱もないままに、存在の不条理なんていう目を向けてはいけないものを凝視し続けて頭がおかしくなってしまった。
情熱を持って生きるか、それが出来ないならせめて日々の気晴らしにかまけて人間存在の不条理など忘れ去ってしまった方がいい。
くだらない考えもほどほどに目の前の生活を淡々と送る。それが地に足のついた人生であり、そういうバランス感を模索していく事が人生の中で生き甲斐を見逃さないための誠実な生き方というものなのかもしれない。
そう頭で思っていても、情熱の燃料にもならない湿った焦燥感がどうしても捨てられず、後生大事に抱えている。これを捨てたら比喩ではなく石ころと同じ存在になってしまうように思えてならない。石ころと同じ存在になってしまうのはとても恐ろしい。仏教はそれを肯定しているらしいが、何をやっても納得してくれない心がそれだけは強く否定している。
思えば初めからそうだったのかもしれない。子供の頃から、普通に楽しく生きていれば、生きている実感を見逃さなければ死になんて目も向かなかったかもしれない。鬱病の素質があっただけかもしれない。
世の中の人間は意識的にでも無意識にでもこんな事は踏まえた上で、バランスよく自分なりの賢い生き方をしているのだろうか。まあ他人のことはどうだっていい。
といったような考えに10代の大半と20代の少しを費やしたが、同じような内容が大学の哲学系の講義でサラッと語られていた。
読書をしていればこんな考えに時間を浪費する事もなかった。車輪の再発明だ。無学の悲劇だ、と笑われそうだが、自分はそう思わない。そこには単に理屈だけではない実感が乗っている。価値観のDIYのようなものだ。拙くとも自分で辿り着いた事に意義がある。今更のポジショントークなのかもしれないし、それのせいでバカみたいに勝手に苦しんでるんですけど。
スタンド・バイ・ミーやイージーライダーが青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。
例えば土曜の部活をサボって多摩川をチャリで下った思い出がある。
車のディーラーやファミレスがセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所の住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップで面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯の時間もあるしそう遠くは行けない。
フラフラとチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日は半ドンで時間もあるし海でも目指してやろうって思う。
最初は楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンションか物流の倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。
途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポットは釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。
段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安。大人になったら人から借りたそういう陳腐な言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。
焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯の時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。
後日友達にチャリで多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。
後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体も拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。
川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミーも青春作品として支持されているのかもしれない。
先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。
今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか、妥協を受け入れてしまったか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。
ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。
茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。
青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。
明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。
https://anond.hatelabo.jp/20231112174416
スタバなんて高級店だぞ
缶コーヒーの値段は変わらないけれど、都会の人はスタバとかブルーなんとかを選ぶだろ?
というか都会でもコーヒーにあの価格出してるわけじゃなくて作業スペース・休憩場所としてあの価格を出してるのであって
田舎にそんな発想はないぞ
休憩は車の中の方が快適なわけだ
都会でそんなことしたら駐車料金取られるから結果的には高くなるな
そもそも都会住みだとRF1とか良い感じにオシャレな店行くだろ?
まぁ田舎でもイオンモールに行ってちょっとオシャレな食べ物買ったりするけど
どんなに多くても週に一回なんよ
都会だと週3ぐらいでは行くわけ
下手したら週7で惣菜買うよね
ここまで書いて思ったけど、都会だと承認欲求・自己実現を満たすための費用が高い気がする
SNSにアップするわけではなくとも、オシャレなカフェで仕事したりちょっと良い物を食べたりしたいんだよね