はてなキーワード: 縁故とは
以前、「何故就職氷河期世代は国や社会からあんなひどい扱いを受けて、テロリストにでもならなかったのか」という意見を書いていた増田を見かけたことがあったけどさ
これをテロと定義していいかはおいておいても、現在就職氷河期世代がネットで言っている主張って彼らが仮にテロリストになるとしても、その目的は「上級国民(上流階級)の座(利権・権力の器)をそっくりそのまま銃や爆弾などを使った狙撃、諜報活動で弱みを握り脅迫によりコントロール・簒奪をして後釜にすわる」みたいなことじゃん(恐らく今後仮にタチの悪いテロリストが出てくると知れば、動機はすべてこれになるんだろうけど)
でもさ、日本ってそんなわかりやすく型にはまった上級国民なんて、中々いないし見かけないから、見つけることもできなかっただけじゃないの?
今テロが盛んな国といえば未だに絵にかいたような独裁政権がいっぱいある南米とか、日本の比じゃないガチ縁故資本主義のイタリアとか、日本が健全に見えるレベルの超官僚国家のドイツとかフランスや、挙句の果てにしゃべる英語ですら上流階級とそれ以外では違うイギリスとかじゃん?
そんなの「どこに誰が金と権力もってるかなんて、バカでも一発でみればわかりやすいわかりやすさ」を醸し出してるわけでさ、この国経営者層と労働者層で入れる店分けられてるとか当たり前レベルなんだよね
それに対して日本って、ネットでちょっと知的〇害を疑うネトウヨや、糖質を疑うブサヨがまるで上級国民なる、falloutのエンクレイヴみたいな秘密結社が日本を支配し搾取してるってイメージ持ってるけど、実際は権力が過剰に分散させられすぎてる豪族社会や豪族政治なんだわ、この国って
慶応大学の内部進学者とそうじゃないのを一目で見分けられる?見分けられねえだろ?そこらへんのオッサンサラリーマンと国会議員を見分けられる?見た目一緒でしょ?
だから、スパイやテロリスト紛いの真似事しても、ターゲットがそもそも大まかにすら設定できないってところが一番大きいと思うんだわ
関東連合みたいな半グレグループが女使って勉強に仕事一辺倒なエリートに酒と女を提供して稼ぐってのは4~5年くらい前までは実際に噂も話もリアル社会で流れていたが、それも警察に目つけられてからはとんと聞かなくなった程度には、誰が金持ってて誰が権力者で、「コイツさえ落として簒奪すれば、一生遊んで暮らせるぜウヘヘヘwwww」っていうような存在が、そもそもこの日本にはいるかどうかもわからないくらい、変な意味で平等なのよ(本当に上級国民なんていう絵にかいたような存在があるのであれば、そんな出自も定かではない与太者相手が用意するしょうもない女や安酒を求めるか?って話)
だからさ、氷河期世代って時代や社会システムの犠牲者であって、ありもしない原因や「悪い奴」を探そうとすること自体が、不毛だと思うんだよね
結局のところ、縁故というか、つながりが一番評価されるのかなと思う今日この頃。
MBAホルダーたちでさえ、人脈形成が一番の財産ですって言ってるくらいだし。
まず、中高あたりから、一貫で全寮制で英才教育が主流になってくるでしょ。
子供の奪い合いだし、そうやって差別化するのが一番手っ取り早い。
すっげー高い学費で全寮制で少人数制。
そこを出れば、いわゆるセレブ層の子息とお友達になれるっていう。
アカデミアの世界じゃ終わった人だけど、ネームバリューだったら世界一っていう人とかを。
有名大学でも講義内容自体はiTunesやYoutubeで無料配信されるようになったりしてさ、でも就職時に評価されるのはその全寮制の過程を卒業したかどうかになる。
縁故や家族関係が大きな意味を持つ経済体制のこと。狭義では、権力者の親族や取り巻きが一体となり利権をあさる傾向を指す。
「クローニー」は「仲間内」と訳されることもある。新古典派の経済学者や国際機関から、アジア通貨危機を誘発した構造的な
背景として批判された。狭義の用法ではインドネシアのスハルト、フィリピンのマルコス政権などがよく引き合いに出されるが、
欧米では韓国の財閥、日本の「政・財・官」の癒着を同一視することもある。クローニー資本主義は東アジアの社会経済システムに
長い間組み込まれてきたので、通貨危機前の奇跡的な経済発展の時期にも支配的な体制であった。したがってそれが危機の直接的な
ただ年寄り世代だともっと世襲家出身者の割合が高く、若い世代だともっと非世襲家出身者の割合が多い。若い子が次第に辞めていくにしたがって釣り合い取れていく感じ。
この苗字の人だったら必ず社家出身、というわけでもない。長い歴史の中で、血が色々なところに分かれていっているせいもある。
さらに言えば小さい神社でも何百年とか千年台とか長い歴史を持つところが珍しくもないから、中途で世襲宮司家が変わっている場所がほとんど。
とは言え交代する家柄ってのも、代々神職とか世襲宮司家の継嗣から外れた次男三男とか夫婦養子とか、それなりの縁故や経歴持ってる場合がほとんど。
「君の名は。」で口噛み酒のシーンが気持ち悪いと言う話になっている。
http://togetter.com/li/1029154
口噛み酒自体は新海監督のある種のフェティシズムの発露であるというのはインタビューでも言っていたのでまぁ気持ち悪く感じる人がいるのもわからなくはない。
本来性癖は人によって千差万別でかなり慎重に扱うべきものだからだ。
一方でエロは万人にほぼほぼ普遍的に存在するものなのである程度の公約数的な部分を確保してしまえば多くの人間にフックするという強みもある。
新海誠監督は今まで過去作においてエロティックな場面をほとんど描いてこなかった。
その理由は私にはわからないがある種の特徴の一つでもあったと思う。
そういった点がこじらせた「童貞」臭さと言われる一端でもあった。
※ちなみに新海監督は童貞臭いと言われることを一定程度評価している旨をラジオ番組で発言している。
おそらく童貞臭いという評価に内在する純粋さ・ピュアさが新海監督がターゲットにしている思春期の男女にまさにクリティカルにHITする部分だと思っているからだろう。
今回はそこから一歩踏み出し、フェティシズムや一定程度健全なエロさを作中に含ませようと考えたのは恐らく言の葉の庭の足フェチ描写が観客に評価されたからであると思う。
ということに気づいたのだと思われる。
東宝に出した最初の企画書の時点で三葉の胸を揉む描写が既にあったことが見て取れる。
一方で性欲を丸出しにしてしまうと下品すぎて観客が引いてしまうことは恐らく既に把握していて、言の葉の庭では足を触る描写をエロティックだが徹底的に崇高かつ審美的に描き下品さをかき消すと言う手法を使った。
それに対して今回使った手法はベタベタと言っているように定型的で既に出来上がった文脈の手法をそのまま持ってきた形だ。
つまり笑いを使うことでエロさに健全さをくっ付けることで観客が引くことを回避させようと言う手法である。
つまり観客にこのシーンを見て笑ってもいいんだぜ?
というわけだ。
最近エロの手法を取り入れたにしてはこの辺の技巧に非常にしびれたし、単純にうまいなと思わされた。
なんとなくこの辺で瀧君を「ちょっとエッチな東京から来たイケメン」という卑近さを生み出すの成功しているような気がする。
股間に手を出すのはアウトだが、胸ならギリギリという非常に危ういラインだ(瀧が三葉の状態でトイレに行く描写がないのはそういうことだろう。三葉in瀧ではあるのに)。
その他こまごました部分を含めてその辺の舵取りはかなりきっちり詰めたのだろう。
お見事でした。
しかし、この入れ替わりシーンは置いておくとして問題になっているのは口噛み酒のシーンである。
と言うシーンである。
ここにオタク男性的感性をどうしても感じてしまうと言う点である。
四葉が女性の性的価値を少女でありながら感じていることに違和感を感じると言うことだろう。
しかし、正直この点に男性性をいきなり感じてしまうというのは少々飛躍しすぎではないだろうか。
実は作中に少女向けのファッション雑誌が部屋に転がっていると言うカットが存在する。
つまり、四葉はそういう点にわりと自覚的であるのではないかというエクスキューズをわざわざ用意してあるのだ。
あるいは三葉の言うとおり「思春期前のお子様」であるのでそういった視線に知識はあるものの無頓着である。
という解釈もできるかもしれない。
いずれせよ、安易に一方的な男性性を見出すには少々待ったをかける必要はあるはずだ。
ネット上の論評をいくつか見て回って、少し思ったことがある。
思ったのは新海誠が男性であるからといった点が論評において強く作用しているのではないかという点だ。
もちろん秒速5センチメートルが強い男性目線からの作品であったのは事実だと思うし、実際作中のモノローグの量はタカキの物が大半だ。その様な作品で男性性を強く見出すのはわかる。
しかし、だからといって一足飛びに「君の名は。」をすぐに男性的であると決め付けすぎるのはすこし早すぎる気がする。
もちろん過去作の文脈をまるごと無視するというのはさすがに無理があると思うが、言の葉の庭における雪野の描写や彼女と彼女の猫が女性主人公であるという点を無視しすぎである。
一方で日本では従来の男性ファンがあまりにも多すぎた気来がある。
そのせいかどうも、評論すら男性的目線から見たものが多すぎる気がする(特に上白石萌音が秒速でどちらかというとコスモナウトに感情移入したというのは示唆的だ。ネット上であまりその視点から言及した記事を見たことがない。)
女性が自分の性的価値を認識していないというのは少々一方的過ぎるだろう。
女性受けを狙ってアイドルをやっている人もいるという説明もまぁそういう人もいるだろうが、皆男性からの目線を意識していないなどというのは少し純粋性を女性に求めすぎだ。
特に三葉が口噛み酒販売に対して斜め上の回答をしたのはまともに回答するのが恥ずかしいからであり、それは三葉に対するジェンダー的抑圧の強さを示している部分でもあると思うし、「イケメン男子にしてください」という台詞にもつながる。
わりと重要な部分だと思うので安易に監督の男性性に固執するのは危険だと思う。
勅使河原の口噛み酒の部分もあれは作品のメッセージではなく勅使河原の認識とみなすのが相応だろう。
同じ縁故に縛られた立場として土着にまつわる行為を否定されることにある種のシンパシーからの擁護であるとも取れる。
※つまり、必死こいて神事を行ってるのに友人まで否定するのは酷ではないかという同情的心理。縛られていることに息苦しさを覚えていながら糸守に愛着があるという描写を事前に行っているのはその辺の示唆なのではないか。三葉がどう思うかは別である。
苦い思い出だ。
当時の私は極度にネガティブになっていた。
ネガティブ思考にも波があったから双極性のような症状だったのだろう。
招待状には参加の返信をしたものの、当日になってドタキャンしてしまったのだ。
ドタキャンどころか、より正確を期するなら、すっぽかした、のほうが近いだろう。
得体の知れない緊張感や恐怖感に苛まれて、会場へ向かうことができなかったのだ。
当時の私は大学生だった。
今ならFランクとでも言うのだろうか。
スポーツの関係でそれなりに名前が通ってはいたが、学力の面ではどうということもないところだった。
実家から通えてラッキー、などと嘯いてはいたものの、正直なところ、内心では大学受験に失敗したと思っていたのだと思う。
同窓会へ行って旧友に合わせる顔が無いと思ってしまったのだと思う。
あの頃憧れていたあの子に合わせる顔が無いと思ってしまったのだと思う。
取り繕うべき体面など無かったくせに、生半可な見栄を守りたかったのだと思う。
その後、同窓会の招待状が届くことはなかった。
開催自体されていなかったのか、私だけ招待されていなかったのか、知る由もない。
そして今年は、招待状が届いた。
現在。
就職氷河期ではあったものの縁故を頼って潜り込んだ中程度の会社で、大して昇進もできずにぼんくら中間管理職である。
結婚はしていない。
臆病な自尊心も尊大な羞恥心も、未だ変わらずに胸の中を渦巻いている。
さて、私は同窓会へ出席することができるのだろうか。
・響け!ユーフォニアムの2期が決まってうれしいです、とても面白い作品でしたね
・素晴らしい点を上げるとキリがないのですが、私はとりわけこの作品の描く「空気」が好きでした、作品のテーマの一つでもあると思います
・特に2話の葵ちゃん「みんな~問題のない方向へ~まとまっていく」というセリフ、8話の麗奈「特別になりたい」というセリフ、この2つが重要なシーンではないでしょうか
・この空気に着目した上で10話、香織先輩が再オーディションを希望するシーンを見ると、とても感動します
・久美子の心の成長も見所の一つです、でも久美子って少し流されやすいような気もします
・劇場版、そして2期、本当に楽しみです
と大体このような感じ
もしまだご覧になったことがないという方は、本当にオススメの作品です、ぜひぜひこの機会にご視聴ください
ところで、響け!ユーフォニアムってどこが面白いの?と問われたら、視聴済みの皆さんは何と答えますか
作画の綺麗さや演出の巧みさ、声優さんの演技の上手さなど色々なものが思い浮かびます
答えは一つではないと思いますが、私には響け!ユーフォニアムのココが好きだ!という点がずばり一つあります
それは、今まで深夜アニメーションという媒体では余り描かれることのなかった部活や学校という空間の空気
引いては集団の中で発生する同調圧力的な側面について描き、それをしっかりとエンターテイメントとして見ていて楽しい物に昇華しているという点です
少し話は変わりますが
おそらく一度は聞いたことがある、どんな物語か程度なら知っているという方も多いと思います
ストーリーの説明は省きますが、絵本の中でスイミーはたくさんの仲間達と一緒に大きな魚のふりをして泳ぎ、マグロを追い払いますよね
あのスイミーが案じた作戦、これはおとぎの世界の話だけではありません、現実の世界でも類似の例を見つけることが出来ます
例えば、チョウチョウウオという魚です
沖縄方言ではカーサと呼ばれ、その意味は葉っぱ、名の通りほのかな橙黄色に色付いた木の葉のような魚です
一匹でも十分に綺麗なこのチョウチョウウオですが、海の中で生活する時は大きな群れを作ることが知られています
チョウチョウウオはそれほど大きくない魚ですので、単体ではすぐに捕食者に狙われてしまいます
ですからまとまって大きな集団を作ることによって、捕食されることを回避しているわけですね
このようにして魚が群れを作るメカニズム、そこにあるシステムを群知能といいます
群知能は魚の群れを説明するための用語というだけではありません、他にも自然界の様々な場面で見ることのできる普遍的な概念です
ところでこのチョウチョウウオの群れですが、全体としては同じ方向を向いていても
中を細かく見てみるとそれぞれの個体や個々の集まりでは別の方向を向いていたりすることに気付きます
スイミーは全員が一丸となって戦うお話でしたが、現実世界のチョウチョウウオでは少し違うわけですね
外から全体を俯瞰して眺めるとみんなが同じ方向を目指しているように見えても、それぞれにはぞれぞれの想いがある
大きいものでは会社組織、小さい単位なら家族や友人関係かもしれません
そして多くの人が人生において最初にそれを経験する場所、それが学校であり、とりわけ部活動なのではないでしょうか
一概に部活動といっても様々あります、体育会系ならサッカーや野球、文化部なら美術などが有名ですよね
そしてもう一つメジャーなものの中に冗談めいて体育会系だとも文化部だとも言われる部活があります
そう吹奏楽部です
それが体育会系といわれる所以なのかもしれませんが、一つ他と決定的に違う点があります
それは圧倒的な力量を持った選手が一人や二人いたとしても、それが集団にとって即大きなアドバンテージとはならない、という点です
吹奏楽という競技においては、群れのレベルは全体の平均ではなく最も弱い個体の能力度合いによって決まるからです
これは積極的に底辺の能力を押上げようという助け合いの精神、教え合いの動機ともなり得ますが
いざという時には、底辺を全体のために容赦なく切り捨てるという残酷な選択を強いる結果にも繋がります
吹奏楽ほど、群れというものを意識する部活は他にはないかもしれません
そしてそこには、必ずしも絵本で描かれるスイミーのようなやさしさも海で群れをなすチョウチョウウオのような美しさも、あるとは限りません
それが京都アニメーション制作の「響け! ユーフォニアム」です
吹奏楽が舞台であるといっても、1話や序盤では多くの時間がキャラクター紹介、人物の関係性やこれからの展開をほのめかす場面に割かれます
彼女が高校生となって吹奏楽部に入部し、新しい学園生活、新しい友達や上級生と馴染んでいく過程を描いています
そんな序盤のキャラクターのやり取り、シーンの一つにこんなものがあります
久美子の幼なじみであり部活の先輩でもある葵ちゃん、彼女と久美子の会話です
久美子「でも今日みたいに聞かれたら、全国大会目指すっていう方に手挙げるでしょ」
葵「そりゃあ…ねえ」
久美子「だからややこしくなるんだよ、大人はずるいよ」
葵「それ言ったらどっちにも手を挙げなかった誰かさんが、一番ずるいんじゃない?」
久美子「それは……そうだけど……」
葵「きっと、そうするしかないんだよ。みんな何となく本音を見せないようにしながら、一番問題のない方向を探ってまとまっていく、学校も吹部も、先生も生徒も」
久美子「どうして……?」
葵「そうしないとぶつかっちゃうからだよ、ぶつかってみんな傷ついちゃう」
――――「響け! ユーフォニアム」第2話
この言葉は学校という世界しか知らなかった高校生の頃に立ち戻って考えてみれば、いっそう共感のできる言葉だと思います
そして、学生の時のみならず、社会人となってからもこの「空気」を読めという感覚は常についてまわるものです
集団、群れがあればそこには空気があります、そうして出来上がった集団の流れ、空気に逆らうことはとても難しいものです
特に思春期の女の子にとって集団から抜け落ちたり弾かれたりすることは、死ぬほどに辛いことだと思います
2話の終盤、このシーンはさらっと流れます、その為とりわけ重要ではないシーンのように思われるかもしれません
しかし、深夜アニメにとって大事だと言われる1~3話において、2分以上の長尺を取り久美子との二人きりの会話を描いているのは、このカット以外にはないんですね
音楽に通奏低音という言葉があります、本来はバロック音楽における用語ですが、転じて「常に底流としてある、考えや主張のたとえ」というような意味も持ちます
吹奏楽でいうならば久美子や友人である緑輝や葉月がいる低音パートですね
彼女たちの低音が吹部の演奏を支えてるように、葵ちゃんのこの言葉は響け!ユーフォニアムという作品における通奏低音となっています
続く話数、これ以降の3~6話ではある意味で葵ちゃんの言っていた通り、一つにまとまり
一致団結してサンライズフェスティバルという地域のイベントに向けて頑張る吹部の様子が描かれます
しかし、当の葵ちゃんは今までとは違う、空気の変わってしまった吹部についていけず退部を決意します
顧問の滝先生が赴任して来なければ、部のやり方が変わらなければ、葵ちゃんも最後まで部活動を続けたかもしれません
ただ去年の出来事を経験した葵ちゃんにとって今の空気はどうしても受け入れることの出来ないものだったのです
退部後の葵ちゃんと部長の晴香がファミレスで二人、話し合うシーンがあります
葵ちゃんは自分はそこまで吹部が好きではなかったと言った後、部長に対し晴香はどう?と問いかけます
部長は即答することが出来ません
今までの吹部とは違う、全国大会出場という大きな目標を掲げ、部員一丸となって全国という高みに向けて邁進する北宇治高校吹奏楽部
ですが、一人ひとりが見ている方向は必ずしも一致していません、全体では同じ方向を向いているように見えても個々人の想いはそれぞれなのです
ここまでが7話でした
そして続く8話、とても印象的な回ですね
この第8話終盤、麗奈と久美子の密会シーンは中盤のクライマックスです、その内容を憶えている人も多いでしょう
麗奈と久美子、二人以外は誰もいない小高い丘の上、眼下には楽しげなお祭りの光、麗奈はまっすぐと久美子を見据えて言います
麗奈「ねえ、お祭りの日に山に登るなんて馬鹿なこと、他の人はしないよね」
久美子「うん、まあ……」
麗奈「久美子なら分かってくれると思って。私、興味のない人と無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんて、馬鹿げてる。
当たり前にできあがってる人の流れに抵抗したいの、全部は難しいけど。でも分かるでしょ?そういう、意味不明な気持ち」
久美子「麗奈……」
麗奈「私、特別になりたいの。他の奴らとおなじになりたくない」
――――「響け! ユーフォニアム」第8話
特に未だ少年少女時の万能感から脱却しきれていないモラトリアム期の高校生ならば、それは多くの人が抱いた「本音」かもしれません
「特別になりたい」
しかし、多くの高校生はその本音を隠します、他者とぶつからないよう、ぶつかって傷つかないよう、波風を立てず皆と同じように日々を過ごします、それが「普通」なのです
麗奈は違います、久美子にはっきりと言います、特別になりたいと、他の人に流されたくないと
葵ちゃんのセリフと対になるこの言葉、少し甘酸っぱく子供っぽい麗奈のこの告白は、久美子の心を大きくざわつかせました
そして続く9話、ここからやっと吉川優子ことデカリボンちゃんと吹部のマドンナ中世古香織先輩にスポットライトがあたっていきます
去年までの熱意のなさが嘘のようにやる気を出し、ここまで大きなゴタゴタもなく順調に進んできた北宇治高校吹奏楽部
あとは大会に向けて全力で頑張っていくだけという感じですが、その前に一つ課題を乗り越えなればなりません
オーディションです
滝先生が事前に発表していたこの実力制メンバー選抜は、ことの成り行き次第では少々問題が起きそうな雰囲気です
さてオーディション、視聴者としてはポニテ先輩のことも気になりますが、吹部として重要なのは麗奈と香織先輩、どちらがソロを吹くのかという点です
部員の殆どは、麗奈が優れたトランペット奏者だということは知っていても、上級生であり、部内屈指の実力と人望を兼ね備えた香織先輩がまさか負けるとは思っていません
しかし当事者である香織先輩の認識は少し違っています、麗奈の実力を認め、負ける可能性を十分に考慮しているようです
さあ、結果はどうなるのか?と言うと……
この結果は当然ながら驚きを持って迎えられます、中には滝先生の選考に内心疑問を呈した部員や不満を抱いた部員もいたでしょう
しかし、個々人の想いとは関係なくこの時の部内の空気はオーディションの結果を受け入れるものでした、空気が異を唱えることを許さなかったのです
集団の空気に逆らうというのはとても難しいことです、もしもこのまま何事も無く事が運べば、大した波乱などなく一致団結して大会まで進んでいたかもしれません
ここで爆弾を落とすのがデカリボンちゃんです、オーディションから少したった頃、滝先生に対し部員が見守る中、こう言い放ちます
リボン「高坂麗奈さんと以前から知り合いだったって本当ですか?」
滝先生「それを尋ねて、どうするんですか?」
リボン「噂になってるんです、オーディションのとき、先生がひいきしたんじゃないかって、答えてください」
――――「響け! ユーフォニアム」第10話
この出来事から急速に部内の空気は変化していきます、元々個々人の中ではオーディション結果に対しくすぶっていた所もあります
0から1に突然変わったというような変化ではありません、空気を意図的に誘導しようとするそんな人物がいたわけでもありません
それどころか自分たちが一体どこに向かっているのか、それさえ誰にも分からぬまま漠然と悪い方向へ流れが変わっていく、そんな様子が丁寧に描かれています
滝先生は音楽の知識こそ豊富ですが、教員としての指導経験はまだ浅く、この事態に戸惑い苛つきます
見かねた部長が、このままではいけない、そう覚悟を決めなんとか解決しようと動き出した頃、丁度時を同じくして滝先生は一つの解決策を見出します
滝先生「今日は最初にお知らせがあります。来週ホールを借りて練習する事はみなさんに伝えてますよね。
そこで時間を取って希望者には再オーディションを行いたいと考えています。
前回のオーディションの結果に不満がありもう一度やり直して欲しい人はここで挙手してください。
来週全員の前で演奏し、全員の挙手によって合格を決定します。全員で聞いて決定する。これなら異論はないでしょう。いいですね?」
――――「響け! ユーフォニアム」第10話
この言葉に対し、香織先輩は一歩を踏み出すように立ち上がり、高く手を掲げ、まっすぐと滝先生を見つめて言います
香織先輩という人物についてはこれまでも何度か描かれています
葵ちゃんが退部し、部長がめげてしまった時にはおみやげを持参して励ましました
ポニテ先輩は、葵ちゃんと部長に加え香織先輩だけが、去年の部内のゴタゴタに対して真摯に解決しようと頑張っていたと言います
公園で二人きり、デカリボンちゃんから本人や父との縁故を理由に滝先生が麗奈を贔屓した可能性を告げられた時も噂を止めるようお願いするだけです
これらのことから伺えるのは香織先輩のやさしさであり、部に対する想いです
部長と共に、損な役回りを引き受けてでも部内の空気を良い方向へ持って行きたいという、そんな心配りです
その香織先輩が、今まで吹部内の空気をなによりも優先してきた、そんな香織先輩が、初めて自分の想いに素直に寄り添って決意表明したのがこの場面なのだと思います
もしかしたら吹部の嫌な空気、それを払拭するためにあえて希望した、もしくは香織先輩を推す部内の空気にのせられる形で希望しただけという穿った見方もできるかもしれません
しかし、友人を心配そうに見つめる部長の眼差しや驚きを持って香織先輩に視線を集める部員達の表情からそうではないことが見て取れます
香織先輩はこのとき空気に反発したのでも迎合したのでも、そして沈黙したのでもありません、ただ自分の確かな意志を表明したのです
まっすぐに滝先生を見つめ、自分の想いを吐露する香織先輩のその姿は麗奈が久美子にした特別になりたいという告白に重なります
さあ再オーディションです
まずは香織先輩が、吹き始める前こそ緊張の面持ちでしたがいざ吹き始めると特にミスもなく、普段通りの演奏を客席に座る部員たちの前で披露します
二人の演奏が終わり、よりふさわしいと思う方へ拍手するよう言われますが殆どの部員はどちらにも拍手することが出来ません
そんな空気の中、滝先生は香織先輩に問います、あなたがソロを吹きますかと
香織先輩は麗奈こそが、自分ではなく麗奈こそがソロを吹くべきだと、そう言い
それを聞いたデカリボンちゃんは泣いてしまいます、大粒の涙を流しながら、わんわんと声を上げて
一度目のオーディションの時ではなく、二人の演奏が終わった時でもなく、滝先生が麗奈を選んだ時でもありません
デカリボンちゃんは香織先輩が負けたことが、選ばれなかったことが、技量的に麗奈に劣っていたことが悔しかったのではありません
人を気遣い、自分よりも他人を思いやり、誰よりも優しい先輩、その先輩がたった一度、自分のために、自分だけのために
北宇治高校吹奏楽部の中世古香織としてではなく、一人のトランペット奏者として初めて挑んだ、ぶつかって傷付くことを恐れずに挑戦した
その特別なものへの憧れが、それが叶えらなかった事が、デカリボンちゃんは何よりも悔しいのです
悔しくて仕方がなかった、だから泣いたのです
もしもその悔しさだけだったなら、こんなにも大粒の涙を流すことはなかったでしょう
なぜならば、デカリボンちゃんはおそらく再オーディションが決まったその日から、自分がこの日再オーディションの当日、誰よりも悔しい思いをするという事は分かっていたからです
http://anond.hatelabo.jp/20151114054047 へ続き Permalink | 記事への反応(3) | 19:37
本文は後で書く予定。
一応概要だけ。
・
1.メリット
文化的交流の促進……エイズが入ってくるなら鎖国の方がよかったのか。
将来の国際的縁故……日本で教育を受けた難民が帰国して首班に座ることもある。
安価な労働力の提供……最低賃金でサービス業や単純労働につく人が増える。人手不足の解消。特に農林業、伝統工芸。
2.デメリット
集積された資産の使途……払った人と使われる人が違う、どころか無関係。負担の不公平感。
教育・道徳等の低下……平均値が下がると社会は全体的に負担が大きくなる。
労働のダンピング……移民や難民で受け持てる仕事に日本人がつきにくくなる。
・
3.総括
僕らは宇宙船地球号の乗組員です。
・
さも人間関係が実りであると帰結したそうに見えるが、人恋しいのか?
出会い系で無料で出会えたとかセフレが出来たとか彼女ができたとかあるが
あんなのにひっかかりたいのか?
実際の人間関係がどれほど重たくて面倒でしんどいものか知っているから
いままで構築してこなかったんじゃないのか?
実際問題、お金で買える。キャバクラいけばいいしスナック行けばいいし
縁故だとか情だとか法的関係だとかで重く軋む生活を続けざるを得なかったり
あたたかい家庭や、やさしい恋人なんかは金銭に換算すると0だが
その価値はお金ではかれないからしかたなく0といえなくもないほど
高価なものだ。
ガソリン代やメンテナンス費用で「なんのためにいきているのか」を
お金で買える車は処分のしようがあるが、あたたかい家庭ややさしい恋人は
維持できなくなったらどうするんだ。
とどのつまり、いま0でないならいま0になる程度に無駄遣いしても
その選択肢に満足できないかもしれないが、ほとんどの人間の欲求を
金銭変換できてる世界がいまここにはある。