はてなキーワード: 武道とは
増田で人生の悩みを打ち明けても、ブクマやトラバに助けられる人ばかりではない。
多くの場合は無視か、正論で殴りつけて日々の憂さ晴らしに使われるだけだ。
匿名で面識のない人を親切にも救おうとする人は少ない。
それでも救いたくなるとすれば、その悲鳴に聞き覚えがあったからだと思う。
きっと、たまたま過去の自分や大切な人の叫び声に似た周波数だったのだ。
私も自分に合う悲鳴を耳にした時は、わざわざ長文で応えてしまったりもする。
他人様にアドバイスできるほど自分の人生はうまくいっていないくせに。
このあいだ、増田で悲鳴を上げた。
もう生きていられないと思って、
どうせ死ぬのなら最後に何か書き残そうと思いついて、
自分の状況や何がどう苦しいのかを書き殴った。
もう消してしまったけれど、吐瀉物のようで見るに堪えなかっただろう。
結果、数行のトラバで2発殴られた。
「甘え」「自己責任」「さっさと死ね」
よくある内容だ。自分でもそう思う。
ブクマはなく、プリントアウトを勧められ、ログの深くに沈んでいった。
それ以上の声をあげることはできなかった。
しばらく前に精神科に行った時も同じだった。
対面で話すと匿名の文章みたいに心の内を明かしきることができないから、
ずっとヘラヘラと笑いながら、他人事のように語ったと思う。
「こうなっちゃうんですよ、あはは、
こうしなきゃいけないのはわかってます、でもだめなんですよ、
やっぱ自分は発達障害か何かなんですかねえ?あははは。」
精神科として助けられることはない、と伝えられた。
武道でもやって心身を鍛え直してみては、と諭された。
渡された薬は特に効かず、3ヶ月でやめてしまった。
そういえば診察の席で、
過呼吸でおかしくなって通勤電車から逃げ出したのを言いそびれてた。
自責の念に襲われて職場のトイレでシャープペンシルを腕に突き刺していたことも。
こんなことを繰り返すうち、自分には助けを求める才能がないのだと悟った。
本当に助けが必要なとき、なりふり構っていられない状態では、
他人のことを考えないめちゃくちゃな文章になってしまうはずだ。
そんな状態でも誰かの心を射抜けてしまう、鋭い周波数の文章が出せるということ。
悲鳴を上げる才能ってそういうことだ。
私にはそんな才能がないから、こういう取り繕った文章を作ってしまう。
自分の増田で運良くブクマが伸びたケースは
自分語りをせずに最後まで取り繕えた文章ばかりだ。
悲鳴なんて伝わらないものだ、そう考えている。
結局プライドが高いのが悪い。
ネットでもなりふり構わず全てぶちまければいいのに、
下手にバズって過去の知人に知られたらだとか、
どうせ笑い物になるだけだとか、そうやってうやむやにしてしまう。
5chで相談できなくなったのも、増田で具体的な話ができないのも、
頭が悪い上に臆病なせいだろう。
いくら悲鳴でも、読みやすい文章、伝わりやすい話し方でないと人は動かない。
構成をきれいにまとめて、小粋なレトリックを添えて、
読む人の共感を誘うように書かなければ助けは来ない。
でも、そんな風に整理できる状態なら、そもそも苦しんではいないはずだ。
だから悲鳴を口の中で噛み潰してしまう。
噛み潰して飲み込むことに慣れてしまう。
そうしていずれ死んでいく未来がいつも網膜に小さく張り付いていて、
どれだけ顔を洗っても剥がせない。
崖へと続くトロッコに乗っていて、降りることができない。
いずれ落ちていく。
でも今日はまだ死なずにいられる。
今のうちに、悲鳴を上げるのが下手な人について残しておこうと思った。
いつか自分が他の誰かの悲鳴を聞き逃してしまわないように。
皆さん、聞いてくれて本当にありがとうございます。
返信+αを作っていたのですが、
長くなりそうなので後ほど別記事にて失礼いたします。
まずお伝えしたいのは、今の私は大丈夫で、
この増田自体は悲鳴ではないということです。
境遇自体はそれほど変わりないですが、気の持ちようとして堪えられる範囲です。
これは悲鳴ではなくどうにか取り繕いきれた方の文章です。
ご心配をかけてしまった皆さん、本当にごめんなさい。
また、主に時系列でいくつかフェイクを入れていました。
件の精神科には当時のつらさを箇条書きで書き殴ったメモを印刷して持ち込みました。
その上で「あなたが何をうちに求めているのか分からない」との回答を頂いております。
(次の増田で後述しますが、メモの時点で不十分だったはずです)
医者に甘えられる問題ではない、自力でなんとかするしかない。
そう痛感して、今のところ平均して当時よりはマシな状態になっています。
また、処方されたのはサインバルタでしたが
「しいていえばこの新薬だが、
あなたの状態が劇的によくなる薬などない」
と伝えられて、私自身もそうだろうなと感じております。
喉が弱い体質のせいか飲む度に軽い吐き気があり、
その副作用の割に当時の症状の改善は見られなかったので、
自分の気の持ちようで生まれ変わるしかないと考えて、
通院をやめて現在に至っております。
元増田は、伝わってほしくて、でも伝わらないだろうなと諦めてて、
それでもせめて未来の自分を救えるようにと書き残したものだったので、
望外なほど通じてくれたことが純粋にありがたいです。
まずはこの感謝を伝えさせてください。
他の武道に比べると極真は野蛮なイメージがある。極真の道の精神や関係者を頼るのはうまくいかない気がする。法律を盾にすることを考えたほうが良いと思う。踏み出して失敗してもそこでやめないで、ちゃんとあがききってほしい。あなた自身と子どもを守れるのはあなたしかいない。守ってやってください。
私のお父さんは柔道黒帯で、柔道で人を負かすのが大好きな人で、
ちょっとADHDの気があって、心は弱虫で、子どもたちを見下すことでしか
自分のことを守れないような、弱い人だった。
口癖は「俺が本気出したらこんなもんやない」。似てるね。
どれだけムカついても、怒っても、たたいたことも、なぐったことも一度もないよ。
妹は体も大きくて強いし暴れるからよく押さえつけられてたけど、
一度だけ、お父さんの方がこんがらがって無抵抗の妹を殴ってたことはあるけど、
それも一度だけ。
これからも家族でいられるなら、一度や二度の家出ぐらい数年後笑い話にできるから。
選択の余地はなかったと思い込むことももちろん自由な選択の結果だよ
今の時点でも選択の余地はどこにでも潜んでいると信じている選択をしている俺と
そうは思わずに選択の余地がないと信じているそちらで選択が分岐してるじゃん
選択結果が複数存在する、選ばなかった場合の結果が存在する(実在する、ではない)ということは選択の余地があったということ
分かれ道があったということは、そこで左道を選ぼうが選ばなかろうが右道の選択を行ったということ
分かれ道に差し掛かったときに自動的に右に進むと予め決定するという選択の結果で右を自動的に進むのもそれは選択
分かれ道に差し掛かって選択した後であの時は選択の余地がなかったと理由づけできることそのものが
その分かれ道でどちらに進むのかを持てる情報と感覚を全て消費した故の結果であり
それを積み重ねた先で片方を除外してもう片方を選ぶしかない状況になったのならまさしく完全に自由なる意志的な選択行動の結果
ただそれにしても人間が現実を認識しきる能力というのはどこか欠けているのが常なので結局何かしらどこかしらに情報不測による選択の余地は付きまとう
原子力発電所を安全神話で信じていた選択は100%余地のない選択だったが現実の方は許してくれなかったわけだ
なるようになるしかないというのは生来の自分の価値観による自動行動選択に委ねるっていう選択をして思考的な労力を無くしたいという願望選択だろう
ラットでさえ経験で迷路の道を選ぶが同じ影響を与えても同じ反応を全くたどるわけではない
つまりそこでラットの個体間に思考の際が生じているということでラットは各々別の思考を持ってして選択しているわけだ、これは自由だな
なお、この実験は結果を人間が予期しているので強制させられている、という見方はそれこそ傲慢だ
実験する研究員はコンマ何秒後にラットがどのルートをたどるとか完全な予測なんてしてない
単にデータからこうなるだろうなと予測をしてこうなったらいいなくらいの感覚で行っている、研究者の大半はこうなってくれ頼むくらいで実験結果を待ってる
なお本能に基づく習性とか反射とかは個人の努力や経験からはどうしようもないことが多いのでその領域に関しては君のように自由も選択の余地もないだろうな
呼吸を止め続けるとか心臓を意識的に止めるとか無理だし自由はないだろう、
だけど顔面に物が迫ってきて目をつぶる反射的行動は訓練で抑えられたり本能的領域のものでも自動化を解除する方法はある
それを訓練しない人にとっては選択の余地がないように思えるけど格闘技や武道をやるやつにとっては自力で主導権を握れる選択権のあるものだと認識するわけだ
極論を言うと全能感のあるマッチョほど選択権が増えていき、そうでないクソ雑魚ナメクジほど世界は狭く不自由になっていく
なにせ自分の選びたい選択結果にどうやってもたどり着けないんじゃ、経験を重ねるたびに自分の無力さと不自由さを重ねるだけだからな
仮に産まれてこのかた自分の第一希望しか叶わなかったような人間が世界に選択はなく、全てがこうするしかなかったんだと言い聞かせて信じ込む必要なんてないんだから
だいたいそういうやつは自分の無力さを呪いながら別の選択をできなかったことを何らかのせいにして自責の念や後悔を払しょくさせたいだけ
しかし実際問題として自分の能力値さえ足りているならその問題は解決でき別の選択行動に移れたと仮定できた時点で自分がそこまで到達しなかったという選択をしたとも認識できる
テストの赤点取るのはなるようになったんじゃなくて、単純に学力が足りないのに勉強サボった選択の結果
ただし現実は死ぬほど強いのでどれだけマッチョでも選択を誤るときがくる、問題は同じことがあったときに自分がどう次の選択をするか考えて備えることだ
朝夕がちょっぴり肌寒くなってきたこの季節、FBのフィードに誰かが食べた味噌煮込みうどんの写真がアップされていた。
それで、はっと昔のことを思いだした。
わたしは当時うつ病で、通院するほかはほとんど外出もせず一人で暮らしていたマンションに引きこもっていた。
夜な夜なネットを徘徊していろいろな人ととりとめもない会話をしていて、2ちゃんのスレで十歳下の男の子と知り合った。
彼も引きこもりだった。
お互いずいぶん遠くに住んでいたのだが、メンヘラどうしで話が盛り上がり、彼はわたしの住んでいるところまで新幹線とバスを乗り継いでやってきてくれた。
彼にとっては大冒険だったはずだが、生まれて初めての長距離移動がうまくいったことはずいぶん彼の気持ちを前向きにしたように思えた。
少しでも外に出てみようと思い、住んでいるマンションの通路部分で見晴らしのよい場所を見つけて長いこと外の景色を眺めていた。
そこが、よそのお部屋の玄関ドアの真ん前だったらしい。
そのお部屋の奥さんが、仕事中の旦那さんに携帯で「ドアの外に不審者がいる」とSOSを送り、駆けつけた旦那さんに彼は声をかけられた。
しどろもどろになりながらも、決して怪しい者ではない、同じマンションに住んでいる者で、たまたまここが眺望がよかったので立ち止まって景色を眺めてしまっていた、と説明したところ何とかわかってもらえた。
という話をしてくれた。
慌ててそのおうちに伺ってお詫びをした。
旦那さんは最初に彼を見たときに「何か事情がある子なんだろう」というのはわかったらしく、「よければ詳しく話を聞かせてほしい」とおっしゃった。
疑っているわけではなく純粋に親切心から言われているのがわかったが、どちらにしてもご迷惑をおかけした以上説明はしなければならないだろうと思って、彼の現状やわたしと知り合って一緒に暮らすようになったいきさつなどをかいつまんで話した。
そこからどういう話でそうなったのかは覚えていないのだが、別日に改めて旦那さん、奥さん、彼、わたしの4人で、近くのうどん屋に食事に行った。
「何が食べたい?なんでも食べたいもの食べろよ」
と気さくにすすめてくださる旦那さんの言葉に甘えて、彼が頼んだのは味噌煮込みうどんだった。
おいしいです、本当においしいです、と彼はすごくうれしそうに食べていた。
その旦那さんは、とある武道の師範の資格を持っているそうで、彼を練習に誘ってくれた。
彼も「行ってみたい」と言っていた。
それで何かが変わるかもしれない、と。
でも結局タイミングが合わなくて、練習に参加させていただくことはできなかった。
わたしは半狂乱になっていて当時のことをよく覚えていないのだが、事情を知る知り合いが代わりに行ってくれたようにかすかに記憶している。
旦那さんと奥さんが、すぐにうちに来てくれた。
立派な体格の旦那さんが、小さく小さく体を折りたたみ、言葉を一生懸命に選びながらわたしを気遣ってくれていたのを覚えている。
『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
目次 [非表示]
1 概要
1.2 書名の由来
2 脚注
3 刊本
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。
文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。また、「隆信様、日峯(直茂[1])様」など、随所に龍造寺氏と鍋島氏を併記しており、鍋島氏が龍造寺氏の正統な後継者であることを強調している。
当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。赤穂事件についても、主君・浅野長矩の切腹後、すぐに仇討ちしなかったこと[2]と、浪士達が吉良義央を討ったあと、すぐに切腹しなかったことを落ち度と批判している。何故なら、すぐに行動を起こさなければ、吉良義央が病死してしまい、仇を討つ機会が無くなる恐れがあるからである。その上で、「上方衆は知恵はあるため、人から褒められるやり方は上手だけれど、長崎喧嘩のように無分別に相手に突っかかることはできないのである」と評している。
この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので、藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。それ故に、佐賀藩の朱子学者・古賀穀堂は、佐賀藩士の学問の不熱心ぶりを「葉隠一巻にて今日のこと随分事たるよう」と批判し、同じく佐賀藩出身の大隈重信も古い世を代表する考え方だと批判している。
明治中期以降アメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。
また「葉隠」は巻頭に、この全11巻は火中にすべしと述べていることもあり、江戸期にあっては長く密伝の扱いで、覚えれば火に投じて燃やしてしまう気概と覚悟が慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本(孝白本、小山本、中野本、五常本など)により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。2人の初対面は宝永7(1710年)、常朝52歳、陣基33歳のことという。
白雲やただ今花に尋ね合ひ 陣基
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と単純に解釈されてしまっている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決時にこの言葉が使われた事実もあり、現在もこのような解釈をされるケースが多い。
しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括りにすることは出来ない。葉隠の記述は、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、人前であくびをしないようにする方法等、現代でいうビジネスマナーの指南書や礼法マニュアルに近い記述がほとんどである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、一般に近代人の想像するところの『武士道』とはかけ離れた内容もある。
戦後、軍国主義的書物という誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では地方武士の生活に根ざした書物として再評価されている。先述したように『葉隠』には処世術のマニュアル本としての一面もあり、『葉隠』に取材したビジネス書も出版されている。
戦後も、葉隠を愛好した戦中派文学者で、純文学の三島由紀夫は『葉隠入門』を、大衆文学の隆慶一郎は『死ぬことと見つけたり』を出している。両作品は、いずれも葉隠の入門書として知られ、各新潮文庫で再刊された。
書名の由来[編集]
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。
別に成績に優位な変化は現れなかったし、
なんでそんな帰結になるのかがわからないし、本気で頭が悪いと思う。
現代体育的な理論(って具体的に何のこと?適当言ってるっしょw)について一通り体得してる必要があると思いますが
あなたのスポーツ歴はどんなもんですか? 現代体育についてどれほどのご経験と見識がおありで?
何もないっしょ?
自分がやってる神秘主義武道を持ち上げるための比較物として言ってるだけの
そうじゃないっていうなら現代体育についての自分のレベルと体験を語って。
だから還元されるほどの何かがどれほどあったんですか?と言ってるんだけど
「ぼくのどうじょうのおじいさんのはなし」はもう結構ですよ
見てないから甲野さんの動きのように否定はしないけどその一方で肯定もしようがないです
特定状況下でおじいさんが若者を転がすぐらいのことなら可能性を否定しませんとも言いました
変な練習しただけの小男がワンパンで人を空に飛ばすとかは聞いただけで「有り得ない」と言いますけど、とも
甲野ageなんかしてないけど。一例としてあげただけで。
この同じ文の序盤だけでも
「甲野の技術は吉田をひっくり返すほどすごい!総合格闘家の誰にも出来ないことを軽々やった!」
って話をしてるのはあなたです
「腹が立つので発言に責任を持たないのだ!」とか言い出すなら負け犬の遠吠えってやつです
甲野善紀に助けられた増田やTVの実演、スポーツ選手の採用なんかを拠り所として、お前なんかより実証があってよほど認められる、って話しかしてないだろ。
人柄的には面白いおっさんでしたが、彼の「武術」はどんなものでしたか?
「TVに出ていた」「あの有名人も褒めた」「世間に認められている」
こんなもん
もしご家族がガンになった時は怪しい代替医療にお金を取られる危険性大の人なので気をつけてくださいっつーことです
http://anond.hatelabo.jp/20170401111105
絶賛拡散中の上記内容についていくつか
1.「銃剣道」は「旧指導要領から存在し、新指導要領でも残った」というのはガセ
上記ブログでは、
とあるが、現行の学習指導要領中学校保健体育解説では下記のようにある
また、
ともある。実はこの記述で現学習指導要領で「銃剣道」を教えることも抜け道的に可能なのだ
(逆に言えば、正式に学習指導要領に書き込むことで例外的ではなく、大手を振って「銃剣道」を教えられるともいえるだろう)
一応、「銃剣道」は「巻末参考資料」には「日本武道協議会加盟団体実施種目」として掲げられているが、
この種目の内容を行うようにという記載はない。あくまでも参考資料でしかない
とあるが、別に学習指導要領の「武道=日本武道協議会の種目」という規定はない
実際、政治的な背景から同協議会の種目が採用されたのは推測に易しいがそれが既定路線であるような書きぶりはかなりのミスリードを誘う。
ちなみに日本武道協議会自体、各種団体の寄り集まりの連絡団体だから、「正式採用種目」という表記も誤り。
これだとまるで日本武道協議会という権威が日本武道としてふさわしい競技を議論して採用したみたいな書き方になっている。
3.槍術を残したければ銃剣道ではなく槍術そのものを残せばいい
スポーツ化された「銃剣道」と軍隊格闘術としての「銃剣格闘」は別物で、
http://www.jukendo.info/jukendo-tankendo/jukendo
これは単純に論理破綻していて、槍術を残したければ銃剣道ではなく槍術そのものを残せばいい、で片付いてしまう。
中国の南方武術を残すために空手を普及しようなんて論理が成立するだろうか?
総括
これを「復活」「新たに追加」という見だしと表現で報じるのは限りなくイメージ操作意図の報道だと思う。
これのせいで騙された人間がすごく多い。
イメージ操作云々というか、事実誤認のオルタナファクトを垂れ流している書き手の行為自体がかなりまずい
なんというか、ひどいとしか言いようがない。騙してるのはあんただよとしか言えない
現行学習指導要領
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/hotai.htm
https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000154962
https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000157166
次期学習指導要領(決定版)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_3_1.pdf
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_4.pdf
これらはすべて文部科学省サイトやそこからのリンク先に載っているんだから、せめて一次資料に当たってから議論してくれないものかな。
現行指導要領に「明記」はされていないというだけ。銃剣道の文字が出てこない!デマだ!てバカなブコメに100以上のスターが付いてる様は、はてな民のリテラシーを疑わざるを得ない。
朝日に代表される新聞記事の誘導性に比べたら微々たるものだよ。
まず承前として、
⑴現行指導要領では「柔道・剣道・相撲以外にも履修可能なもの」として挙げられたその他の武道については、「なぎなたなど」として明記はされていなかった。
(明記されていないという点では、空手道、弓道、合気道、少林寺拳法、銃剣道の5種目はすべて同じ)
⑵ところが「修正前の」改訂案では、その明記されていなかった6種目(空手道、弓道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道)について、
銃剣道を除く5種目のみが明記された(銃剣道は競技人口の少なさを理由に落とされた)。
⑶そこへ来て右派の皆さんがパブコメなどを通じてやいのやいの言い、修正改訂案では銃剣道「も」明記されるに至った。
本来、「中学武道に銃剣道を『追加』」をタイトルにした記事であるから、主旨としては、
「パブコメを踏まえた新改訂案では、『それら既出の武道5種目に加え、一度は落とされた』銃剣道『も』追加された」とするしかないのだが、
と、「⑵修正前の改訂案で、すでに銃剣道以外の5種目が明記されていること」を示唆するものが、すべて省かれている。
記事全体を眺めても「修正前の改訂案がパブコメによって修正されましたよ」という内容であるから、「⑵修正前→⑶修正後」の比較こそが不可欠であるにも関わらず。
こうして当然のように、読者は「追加」された客体の、元の5種目の扱いがまったく分からず、
何もないところに、右派によって唐突に銃剣道だけが追加された印象を持ってしまった。
ブコメにも、⑴には銃剣道など明記されていない!新たに追加は間違ってない!増田はデマだ!という書き込みが目立ったが、問題はそこではない。
右派政権ですら一度は落とそうとした銃剣道が、さらなる右派の運動で復活してしまった⑶が問題だというなら、
尚更⑵の報道が不可欠となるはずだ。
銃剣道の特異性は分かるが、おそらく今回の件は、⑴の武道必修化の問題を超えるものではないだろう。
いずれにしても、<⑴から見れば>明記されずにいたものが明記された、<⑵から見れば>一度は落とされたものが復活したという、
http://anond.hatelabo.jp/20170401111105
事実誤認があるが、変な方向の反応が多いのは同意。それが朝日のせいだと俺は思わないけど。
簡潔に言えば今回の改訂で空手など5項目も新たに明記されており、当初案で銃剣道の項目が無かったのを銃剣道連盟が「不公平だ(意訳)」と反発(武道協議会加盟団体の中での不公平?)
したせいかはわからないけど、銃剣道も指導要項に明記されたって話。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/hotai.htm
・また、銃剣道連盟が「銃剣道を学習指導要項に明記して欲しい。」と要望書を出している
http://www.jukendo.info/wp-content/uploads/MX-4140FN_20170309_112723.pdf
よって増田の『「銃剣道」は9種目の一つなので、旧指導要領から存在し、新指導要領でも残った。』は間違い。明記されてるなら、明記するよう要望書なんか出さない
●もう少し細かい話
今まで武道に関して 柔道、剣道、相撲、と例外として「なぎなたなどの武道」
が記載されてた
http://www.jukendo.info/wp-content/uploads/MX-4140FN_20170309_112723.pdf
銃剣道連盟の要望書を信じるなら、他の武道8項目が明記されたのに銃剣道は明記されてなかった(と読める)
・発表された次期学習指導要項
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_3_1.pdf
『柔道,剣道,相撲,空手道,なぎなた,弓道, 合気道,少林寺拳法,銃剣道などを通して』
など5項目と一緒になって指導要項に明記された。と
経緯を見ると、当初案で忘れらていたようにも見える「銃剣道」に大きな力が働いていたにしても、働くのに時間差があってウケるw
て感じ。
はっきり言えば、銃剣道自体は剣道や柔道、空手なんかと変わらないただのスポーツだ。
武道と言ったほうがいいのか。
今回、ネットで銃剣道そのものに対するネガティブなコメントが増えたが、まあ殆どは……
実戦で意味がないというのはもっと謎で、実戦とは何を想定しているのか。
日常のとっさの時に剣道や柔道や空手より役に立たないものでもない。
どうも記事を読むと「選択体育の武道で銃剣道を選んでもいいように項目を追加した」というようなことが書いてある。
どこにそんな地域があって、誰が選ぶのだ。
となると、指導法の研究会が開催され、指導要領が整備され、かなりの人手が割かれることになる。
学校は培った指導ノウハウと道具がそろっている昔からの種目を選びたいだろう。
結構な予算を投入して、人手も割いて鳴り物入りで導入した銃剣道が全国で採用数ゼロとなれば、責任問題にもなるし、単純に裁可した人物は恥ずかしい。
ここで、各県教委に圧力がかかる。
ここで考えられるオーダーは次の通り。
『各県で少なくとも3校は銃剣道を実施できるように推進すること』
実績次第で、様々な飴と鞭を用意して、どうにかそろえば全国で150校の実施となり、まあ顔は立つ。
ひどい記事を見た
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170215-00001426-bunshun-soci
元記事は主観的な表現が多く、捜査1課長を悪く見せようという悪意に満ちあふれている。
まずタイトルからしてひどい。「美人記者」とか書いていて読者を同情を引こうとしている。
美人かどうかは主観的な問題だし、美人じゃ無かったら記事にしなかったのかと。
そのほか関係者の話などは伝聞形式になっており、ホントかどうかも怪しい。
だいたいマスコミは人の発言を都合が良いように抜き出すことが得意なので私は信用していない。
2月13日に警視庁捜査1課長に就任した上野洋明氏(58)が、刑事部の武道始式で入社1年目の女性記者Aさん(23)に全治3週間の怪我
以上のことは何も無い。
この文にしたって恣意的で、怪我をさせたように書かれている。
(事実は試合中に怪我をしたのであって、「させた」と表現するのは悪意があった可能性を仄めかしている)
試合中に怪我をするってのはあり得ることだし、課長のコメントは恣意的に抜き出した可能性があるので原文を見ないと何とも。
実際に悪意なり過失なりがあって記者に対して怪我を負わせたのだとしたら、何らかの処分があるだろうし、そういうのはマスコミが鬼の首を取ったように報道するだろうがそれも無い。
ただ単に主観的なことを並べ立てて記者の同情を誘い、課長を悪者に仕立てて私的制裁を加えようとするひどい記事にしか見えなかった。