はてなキーワード: 不文律とは
アニメキャラ(男)のイメージ香水でも買おうかなと思い、ショップのサイトを覗いた。すると目当ての商品にレビューが何件か着いていたので、参考にしようと思いリンクを開いた。
そしたらそのキャラへの性欲が丸出しのレビューが何件かあり、物凄いびっくりしてしまった・・・
恐らく夢女子の方が書いたレビューで、レビュー主は悪気なく無邪気に投稿したんだろう、ということは分かるが、正直不意打ちで人の性欲を見てしまい、痴漢に合った気分だった。
夢女子カルチャーに詳しくないから分からないんだが、あの界隈にはそういうのは隠れてやろう!みたいな不文律はあまり無い感じなのだろうか。
さらにレビューをよく読むとレビュー主にはどうやら夫と子供もいるらしいということが分かり、正直えっ!?と思ったが、よく考えると確かにそのようなおおらかであまり他人を気にしないタイプの人のほうが、そうでないオタクよりも結婚しているイメージがあるな、と納得した。多分根明なんだろうな・・・
正しさとは愚かさとは
それが何か見せつけてやる
毎日昨日をなぞってる
だけど何にも覚えてねー
持ち合わせるハズもなく
あと眠りたりない 徹夜できない
分かってるこれは加齢のせい
あてもなくただ諦念するエイデイ
それもそっか
最新の流行はどこで分かるの?
はぁ? うっせぇうっせぇうっせぇわ
ああ聞き飽きた
うっせぇうっせぇうっせぇわ
もう気力も沸かないので問題はナシ
つっても私サラリーマン
殴ったりしたらすぐ解雇
だったら経験みせつけろ
マジヤバない? 窓際じゃない
クソだりぃな
インスタのストーリーも知らないんですか
周りに聞く前にまず検索する
はぁ? うっせぇうっせぇうっせぇわ
ラインで辞職は反則です
あぁ肩痛い
うっせぇうっせぇうっせぇわ
黒々と生え揃ったその頭髪が欲しい
うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
私が俗に言う中年です
うっせぇうっせぇうっせぇわ
やっぱり羨ましいんだその若さ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシは大概なので
あとは任せた問題はナシ
「ゲームでしか運転しないペーパードライバーが久々に運転したら、(本物なのに)めっちゃリアルなドライブゲームに思えてやばかった。ぶつかっても平気そうに見えた」
んな訳ないやろ、加速に伴うGや、実車のハンドル操作をゲームに思えるって空想がひどすぎるで。(ハンコン使っててもゲームと本物の差はあきらか)
「自分は免許持ってるけどほとんど運転してないもんで、もう怖くて……。今の車ってサイドブレーキがサイドのレバーじゃないらしいじゃん。」
サイドブレーキが運転に影響するのって最初の発車時のみだよね?レバーじゃないから恐怖を感じるのはどの部分?
「この前乗ったレンタカーのサイドブレーキが運転席の左前あたりにあるスイッチ型で、全然気付かず聞きに行くハメになった。手で引くのも足で踏むのもあるし、車種ごとにコロコロ変えんなよとは思う」
何で全車種共通の操作方法である必要あるねんな、説明書を読め。ジョイスティック操作の車が欲しい。
「恐山のユーロトラックシミュレータープレイ動画は本当に名作なのでぜひYouTube見てくれよな」、「恐山さんのトラック運転ゲームまじで面白いので見てほしい。」
その通り!
「俺は昔、休日はドライブをしていた→座ってばかりで身体に悪そうだから自転車に乗るようになった→青信号を渡っていたら右折車に跳ねられ怪我で半年間仕事できず無収入→自転車は復帰できたが自動車は無理。の流れ」
言ってる意味分からんし、自動車運転は冤罪やんけ。運転すると人を跳ねそうで怖いという話やで。
「「政治・宗教・野球の話はしてはいけない」に自動車も付け加えたほうが良いね」
「生活必需品だから苦手とか関係無いのに練習するわけでもなく嫌~とか苦手~とか文句ばかりいっちょ前に言ってるのが風当たりの強い理由じゃないでしょうか。」
練習しろっていうと、苦手・怖い・無理の言い訳オンパレード。運転上手い人も練習したんやんな。
「咄嗟にアクセルとブレーキ踏み間違えそうなので、万年ペーパードライバー。」
「車含め機械の操縦は得意なんだけど集中力を維持できなくて事故るの間違いなしなので運転はしないことにしてる」
それは「機械の操縦は得意」とは言わん、自動車運転と機械の操縦は天と地ほどの差がある。
「記事見てもコメ読んでも、じゃ乗らなきゃいいじゃんとしか思えん。結局慣れ。自動運転完成なんてのも高速ならともかく、情報量の多い下道をセンサーカメラ半導体で処理して進めるのは死人の山築いて百年先の話だろう」
乗らなきゃいいじゃんについてはその通り、慣れというか習熟するための練習が免許取得時に終わってるという認識がダメ。
こういう運転怖いとほざく奴らが、自動運転の普及を阻害することに問題があるのですがね。死体の山築いていいならすぐに普及するだろ、事故どころかシステム停止も許さんとなっているから百年先の話になる。
「少なくとも6割以上の男性は難なく、普通レベルに運転できているように見えるので、俺にだってできな訳がない!と思って練習した。今では運転を褒められることもあるが、どこかに苦手意識は残ったままである。」
偉い、それでいい。苦手意識残したまま普通レベルに運転できていればそりゃ褒められるよ。
「「バック中は左右が逆になる」左右盲だと思って生きてきたけどこれはないな。ハンドルを回すとタイヤが回した方に向いて、それに対して物体は内側にまわるイメージがある...何言ってるかわからんが。」
左右盲は左右不覚ではなく、左右がとっさにどちらか分からないこと。どちらかに曲がるのを理解することと左右は関係ないで。
「バック中は左右が逆になる」は、むしろ日ごろから左右を認識できているから混乱するものだと思うぞ。左右盲は自分からみて右だの左だの認識しとらんから混乱しない。
「左右盲でしょっちゅう右折と左折をミスるため、いつかアクセルとブレーキも間違ってしまうのではという恐怖から極力運転したくないけど、地方の郊外住まいはないと暮らせない…」
てめぇはアクセルは右、ブレーキは左と頭で考えてから踏んでるのか?右か左か分からなくなることと、方向が分からなくなることは違うぞ。
踏んでるペダルの感覚を認識していないなら感覚掴むまで練習するか、運転しないで生きよう。
「交通秩序は「みんながルール通りにふるまうはず」っていう暗黙の信頼関係で成立してるので、そこに寄りかかれない人は怖くて運転できないと思う。逆に言うとルールさえ守ってればほとんどの事故は起こらない」
練習してそのへんの信頼関係を感じ取るんやけど、練習せん上に「相手がルールを破ったら」という最悪のパターンのみ考えて運転するから、かえって周りに迷惑かけるんよね。
「自動運転な上にとってもカワイイスマートモービルこと馬、都市部でも小回りの利く人力車」
馬が自動運転なわけないでしょ、目的地設定できて寝ててもたどり着くのか?燃費(餌代、飼育費)もそれほど安くない。
「仕事で徹夜明けに運転して事故るのを二回やって人を殺すの時間の問題だなとなったので仕事と一緒に運転も止めた。」
うん、お前みたいなやつは運転しなくともよい。公共交通機関とタクシー使え。
「“苦手派としては足での操作が常識となってるってのが怖すぎる”実際、手だけで操作できるゴーカートとかは開発されてるのよね。乗ったことあるけど問題なく運転できた。今後は増えるかも」
ワシは手だけで運転したいけど、足の操作が苦手と言ってるやつは手だけで安全運転できるわけないと思っとる、手でやることが今より増えるのに対応できるわけがない。
「はやく自動運転が導入されてほしい」
「車幅感覚とバックは激しく同意。車幅は自分の車を保有すればわかってくるらしいが。バックは、まずは微小に動かして自分のイメージとのズレを修正してるが、毎回ビビってる。」
それでええで、車幅もバックも感覚をつかむまで練習やで。イメージとのズレを修正できているなら大したもんやで。
「私と同じだな。殺人マシーンになる自覚があったから卒検以来自動車は運転してない。(原付は乗ってた) “免許をとって練習をするも50分くらいで運転センスのなさを確信。「俺は車は運転しない!」と心に決めた”」
センスなんかいらんねん、ともかく練習あるのみ。50分なんて練習の内に入らんお遊びやで。
「車の運転に慣れるということは、紅の豚の飛行艇乗りみたいに無意識のうちに前後左右に注意を払い続けるようになるということ。」
そう、練習によってリソースの割り振りを制御できるようになるねん。注意してなくても前後左右の事象に反応できるようにな。
「バック逆転のやつ、言わんとしてることはわかる。進行方向でない車輪が曲がるってのに感覚が付いていけないんだろう。Rに入れたらハンドル切った方向に後輪が曲がる仕様だったら言われてる通りになると思う。」
ハンドルでタイヤを曲げてるって認識がないからそないなことになるんやで。フォークリフト運転したらええやん(だいたいが後輪で曲がる)。
「車のインターフェイスにデファクトスタンダードを求めながら不文律を否定するのはずるくない?/なんか「考えすぎて算数を苦手になる子供の話」系に近い印象があった」
単なる練習嫌いの言い訳やで、ダブスタになるのもムベなるかな。
「慣れですよ、慣れ。最初は誰でも下手で積極的に運転したくないと思うけど、それを越えて運転してると運転が楽しくなる。目的地なんてなくても、純粋に好きな車を運転すること自体が楽しい。」
慣れるために練習(運転)する必要があるのだが、奴らはとかく運転をしない。
「車の運転って体の色んなセンサー使いまくってやっと出来る事なので、上手いとか下手とか簡単に語れる事では無いよね。自分はめちゃ方向音痴なのでペーパーになったわ。」
そうだね、体中のセンサーを何の気なしに使えるようになるよね。(ゲームの時とは違うはず)左右盲ではなく方向音痴と記載するところは正しい認識ですね。
「原宿さんのコメントが私と同じ過ぎて泣ける。特にこれな。 “前から突っ込んでも、前から出ることができる駐車場の開発が待たれる。”」
「「運転苦手」だから丁寧になると思ってる。「運転好き」が上手いとは限らない。」
そだねー。
前職とは全然関係ない業種で全然関係ない仕事を始めて1か月が経った。その備忘録。
これは入ったばっかの内だけやろな…と覚悟決めてたんだけど、先輩たちも含めて毎日みんな定時から15分以内に退勤してるので希望が持てる。繁忙期は知らん。
新人の内は困ったことの一つでもあるんだけど、基本的に朝から晩までひとりひとりデスクに向かって黙々と作業してる。隣の人にもスカイプで話しかける感じ。基本的にトイレとかコーヒー飲みに行く以外で席立つことがない。もちろん外回りはない。ついでにデュアルディスプレイなので快適。一人一台ありがてえな(新卒で入ったところはデスクトップが一人一台じゃなかった)。
もちろん来るときはくるけど週に1,2人くらいしか来ない。コーヒー飲まないので淹れるのに自信ないしあんまり来ないでくれるのは助かる。お茶くみは新人の仕事っていう不文律は相変わらずありますが…。
そもそもこの備忘録を書こうと思ったのも、今、すごいこの人モラハラ気質だなと思ったからだった。人当たり良くて優しい雰囲気(話しかけやすい)ではある。ただ、自分がド新人だってことを念頭に置いて言わせてもらえば説明が下手なのに理解できない私がクソみたいな態度をする。最初の2,3週間は「ももももも申し訳ございません;;;」みたいな感じでやってたけど、冷静に考えてみたら一ミリも仕事のこと知らん新人が歯抜けの説明されてわかるわけないんよ。わかんないところ聞いてもなんでわかんないの?くらいの感じでくるし。わからないの前に「知らない」んですよ。
前項目と連動するんだけど、そもそもモラハラ先輩がなんでわかんないの?の態度とりがちなのも、社長が私がド新人であることをちゃんと説明してなさそうな気がするから。そもそもデスク仕事をしてことなかった人間であることは面接時にちゃんと話してるし履歴書も間違いなく書いた。けど、なんかこの先輩がそれを知らなさそう。「このソフトつかったことなくて…」みたいなこと言うと絶対「は?」みたいな顔をされる。ソフト使ったことない人間を雇った社長の責任を私にぶつけるのやめてほしい。念のため「全然この仕事の知識も経験もないです」って改めてモラハラ先輩に言ったけど、「でもあんたここにいるよね?」くらいの感じで返された。面接のとき社長が「スキルは入社してからつければいいから大丈夫大丈夫!」とか言ってたの、大嘘。・・・って思って社長に言ったら社長ちゃんと私がクソ新人だってモラハラ先輩に話してたっぽい。疑ってごめん社長。モラハラ先輩も私みたいに中途で入ってきてるから気持ちが分かるはずみたいなことも言ってた。マジでなおさらモラハラ先輩はなんなんだ?!
ネット上のゲーマーに言わせると「スマホのMMORPGはMMORPGではない」らしい
どういう信仰に基づいてそういうことを言ってるのか謎だが、多分キーボードとマウスのような操作しにくいデバイスでやってこそMMORPGで
スマホのような直感的操作の可能なデバイスで簡単操作するのはゲーム至上原理に反するとかそんなんだろう
今やってるそのスマホMMORPGは比較的が優しい人が多いといわれている。
とはいえ全員が人格者なわけではなく、ギルドマスターは自己中心的な奴だし、野良でパーティ組めば嫌な奴にあたることがある。
大体が謎マナーのおしつけする奴が多いな。大体マナーってお互いが不愉快にならないようにするための一種の不文律なのに、それを強制的に押し付けてマナーに違反してるからって理由で相手を罵倒するのはそもそも本末転倒な気がするんだが。
ギルドマスターもブラック企業の社長みたいなのだった。とにかくギルドに貢献しろ貢献してないやつは追放するぞと。こんなのばっかり。嫌になったので、サブギルドマスターが数人引き連れてギルド抜けていった後、人数少なくなったけどここから再スタートしようぜって雰囲気出てるときに辞めてやった
まあそんなのでも多分パソコンとかで配信されてるMMORPGとかFFとかに比べると大分ましなんだろうな。前述のMMORPGにしては優しい人が多いって言質を信じるなら。
で、そのMMORPGが今度はSteam配信版を出すんだそうな。大丈夫なんか?
正直現状とは比べ物にならんほど動物園になるの目に見えてる気がするんだけど。
サーバー分けるつもりもなさそうだし、FFで禁止事項が出たもんだからあそこであぶれた連中が流入して一気に民度低下しそうなんだけど
私の中学と同じ現象が起きたら結局目立つ人だけ目立っちゃうよな〜と思ってる
以下は思い出話
名目上、セーターとベストの好きな方を選べる事になってはいたけど
なんとなく男女とも「この制服でベストを着る子はなんか格好悪い」「みんなセーターだからベスト着てると浮く」みたいな不文律があった
中学のそういう空気感を親がよく知らずにケチってベスト買われちゃった子は
なんとなくヒソヒソされたり
派手なグループや気が強いクラスの中心人物、部活の先輩たちからは
ベスト着てるだけで格下みたいな嫌な扱いを受ける事が多く
結局ベスト着るのを嫌がって後にセーターを買い直していた
まあ、そんな文化があるのが悪いんだけど
私一人が「そんなのおかしい」って言ったぐらいで変わるはずもなく
私はベストだけ買われた生徒だった
「ベストだと仲間外れにされやすいからセーター欲しい」と訴えても
その程度の事気にすんな!と豪快に笑い飛ばされ「仲間外れってあんた何かしたんじゃないの?」と何も分かってもらえなかった
私の母は他のお母さん達と違う行動して「変わったお母さん」って呼ばれてるのをガチで全く気付かない人なので
これ以上話しても無駄だなと思った(今は疎遠)
勿論、クラス内にはベストだろうが何だろうが全く気にしないような心優しい友達もいたので
中学生活3年間なんとか乗り切っていけたけど
卒業まで何かにつけて知らない生徒から「あのベストの子」「いつもベスト着てる先輩」と呼ばれていて
今でもネット見てると「子どもが他の子と同じじゃなくてイジられて泣いた」「同じもの持ってなくてハブられた」みたいな話ちょくちょく聞くし
みたいな事が出てくると思うんだよね
それはそれで大丈夫なのかなと
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
情報系の博士取得者だけど、自分の場合、内定式に出た後に内定を辞退して博士後期課程に進学した。
その身に起きたことを参考までに書く。
とある飲み会で博士に興味があるけれどでもしかで就職するような話を博士の先輩に話していたら、博士に進学することを強く勧められた。
親にそのことを電話で相談したら、応援する旨のことを言われた。
先生に話したら、「博士が100人いる村」のような話をされたが、同期で博士進学者が誰もいなかったからか比較的好意的だった。
学部の就職担当の先生に相談に行ったら、内定辞退をお願いするメールを一字一句指示された。(と言うべきだろうな、意見などを言える雰囲気ではない中、言われたことをそのまま書いて送れ的な感じだったので)
送ったところ、企業の採用担当者から呼び出しを受け、内定辞退したら3時間土下座させられた例もあるらしいと級友から脅されながら戦々恐々として赴く。
老婆心を装った嫌味を言われ、軽く説教されたが、内定式の時に渡された書類をお返しし、割と短い時間で話が終わった。
研究室の先生にも老婆心を装った厭味ったらしいメールが送られてきたらしく、先生はその会社の製品を買わないと憤慨されていた。
博士進学予定者だったからか、海外から来る客員研究員の出迎えなどを任される。
博士進学者は修士論文を英文で書くという不文律があるらしく、慣れない英文を頑張って書く。
修士で卒業する学友たちが卒業旅行に出かける中、ワークショップに論文を提出し、初の海外発表...自分の英会話力のなさを自覚する。
先生の助けもあり、一つ目の論文を査読ありのカンファレンスに出し、採択。
今思えば二つ目はある程度自分で研究を進めてほしいということだったのだろうけれど、自分でいろいろとテーマを考えるも研究が迷走して卒業の見込みが全く立たず、精神的に追い詰められていく。
博士進学を考えている修士の学生から「なんで進学したんですか?」と聞かれたときに「魔が差したから」と答えるほど病んでいた。
そんな夢のない話を聞いて進学する奴なんかいないので、その世代の博士進学者は0だった。
助手の先生ともいろいろと相談して一応別のテーマを設定し、査読付き論文通って最低限の要件を満たせたが、すでに10月を過ぎていて、採用活動はどこも終わっていた。
先生のコネで話をしてみて、とある会社に話を通してもらえることになった。
部長と係長の前で博士の研究でやったことを20分発表し、質疑応答して、その会社に採用された。
国内ワークショップでの発表などの場数を踏んだからか、PhDディフェンスを卒なくこなし、博士号を取得。4月から就職。
就職後は博士を持っている人が珍しく、博士をみんな取りたいと思っている場所だったからかとにかく博士というだけで風当たりが強かった。
職場の先輩にも博士なんだからそれぐらい自分で分かるでしょ?とろくな説明もなく業務をすることになる。
その割には係長からも先輩からも毎日ダメ出しをされるだけの日々でなかなか精神的に追い込まれる。
それを見ていた別の部署に行った主任から主任の部下として来ないかとさそわれて今に至る。
博士は精神を病まないと取れないみたいなことが言われていたけれど、それは割と本当だと思う。
博士を持っているとそれだけで少し下駄をはいた状態からスタートできるのも本当だと思う。
ただ、博士というだけで挑戦してくる人や無駄に突っかかってくる人などがいて、有名税みたいなのがあると思う。
進学するときは自分が楽ではなく快楽を求められるか(オメガトライブの読みすぎか...)、
先生に博士の指導経験があるか、家族のサポートがどうかなどを加味して決めたほうがいいと思う。
その辺がokなら、まあ、いけるでしょ。