はてなキーワード: ドラスティックとは
http://b.hatena.ne.jp/entry/synodos.jp/international/12340
このブコメ反応を見て、むしろ風刺的表現に反対する人が増えたか?という感じがして(数えてはいないけども)、彼我の違いに改めて思いを馳せた。
そういう宗教的な含みのある言葉を使っているのなら、「(キリスト教的かイスラム教的かはちょっと置いておいて)、宗教的なメッセージを伝えた」ということは、
少なくともキリスト教圏の人やイスラム教圏の人にとっては、単純な表面上の意味より深いものを伝えようとしている、ぐらいは、伝わってとは思うんだけど。
ブコメ反応的には、ひょっとして、「宗教的」自体にアレルギーが来ちゃってるのかなというか。日本人宗教苦手だからかなーとか。
宗教的であるがゆえにイスラム教への配慮が足りない、とかそういう意見もあるし、怒る人が居るのも当然だとは思うけどね。
ここにもあそこにも「文化」の違いはあって、一方で文化が全く違う人同士が接触する・意見を交わす・隣に暮らすのが珍しくもない世の中になってきた今となっては
やっぱり、一定の文化的な共通性をベースにして、それを外から嗤ったり壊したりすることで面白みを生み出すことが多い風刺表現というもの自体が色々難しい時期に来てるのかね。
文化や社会がボーダレス化するほど「風刺」が解体されてしまいそうだな。
あるいはボーダレス化、多様化がもっと乱暴にドラスティックに進んで、世界中で通用する共通性(日本語が変だ)を見つけて、それを嗤えるまで続けるか。
当面は「何人爆殺されようがテロの標的になろうが」という決意が必要になりそうだし、血で血を洗うのはイヤだからなぁ。
そしてそうなると、風刺漫画雑誌というよりももはや哲学や文学なのかなという気もするな。サルトルとかそういう感じになってくるな。
マナーどうこうとは違うけどね。
もちろん、仰るとおりなんですよ…。
「スマホでサンプル用として出る画面を撮影する=設備にかかる費用・運用費にタダ乗りする行為=万引き」ってのは分かる。
スマホの普及(とカメラ撮影のしやすさ)と、SNSに日常の写真をアップするのが当然という感覚の中で
「写真を撮る」ってことの、敷居がどんどん下がってる気がするんだよね。
メモ感覚っつーか、なんつーか。自分のことを考えても、何かに使うという訳でもなく料理の写真は一通り押さえてたりするし。
それに伴って「写真を撮ってもいいですよ」という場所も増えてるし。
「撮影禁止」という設定自体が、無理がある時代になってきたのかなと思う。
1. アトラクションの後に写真ブースを設け、全ての写真を展示する
1. 写真が欲しい人は、アトラクション開始前に +100円を払えば、JPEGをメール等を使いデジタルデータで貰える。
2. 気に入れば、印刷物 / マグカップなどを追加で購入する。
(アトラクション後に、写真が欲しくなった人は、スタッフにサンプルを見せて貰って購入)
そもそも、現状のビジネスモデルを諦めて
アトラクション中の写真データが貰えることを、遊園地自体の差別化として使うとか。
アスペを一緒くたにしないでほしい。
俺もアスペだけど俺は最初から車いすである事を事前に知らせなかった乙武の方を非難している。
乙武は今までそういったことに苦労してこなかったと言うが、それは周りが配慮してきたからだ。
自分が他の人間と違って、他の人間ができることがやりにくかったりできないのならそれを一番最初に念頭に入れておくべきなのは自分自身だ。
社会はマジョリティのためにできているのは自明なのだから、自分がそれにどれだけ対応できるのかは常に注意深く考え続けなければならない。
乙武にはその思考が致命的に欠けている。俺はこれを無意識な傲慢だと確信している。
乙武はまずこの自分自身の無意識に介在する傲慢を認識しなければいけない。
「誰でも入れるように店は努力すべき」とか「客はすでにコストを支払っているんだから何とかしろ」だとか言う人間はいるだろうけれど、
お互いリソースは限られているんだよ。大きい店ならともかく小さい店でそういうことを望むのは現実的な話じゃない。
そういうことをやるのにはお金も人的リソースも必要になってくる。
だから過渡期の今はお互い歩み寄って、少しずつ是正していくしかない。
もちろん店主の対応が悪かったのは間違いないけれどね。
世の中は少しずつ変えることができないから、それなら自分が社会に対応していくしかない。
社会を動かすことは本当に難しいけれど、自分を変えることならそれよりもずっと簡単だ。
読んでないけどハイペリオンなんて駄作もいいところだと思う。
別にSFじゃなくてもできるし、僕の中ではエンダーシリーズと同じくほとんどラノベとして分類されてる。
世界がひっくり返される感じ。
それまでの前提がすべて崩れ去ることがないSFはSFじゃない。
変な感じ、変な手触りがいつまでも残る。
と言っておきながら例を挙げようとするとイマイチ浮かばなくて好きなSFは「夢見る宝石」とかなんだけど。
ぜんぜん途中から違う話になってるところがすごい。
ドラスティックさ。
映画ならフロムダスクティルドーンとかクライング・ゲームみたいなもの。
ぜんぜんサイエンスじゃないけど、僕がSFに求める感覚はそういうものなんです。
といいつつほとんど小説として質が高いティプトリーが好きだから困るんだけど。
小説として質が高くてSFにする必然性がまったく存在しないのに面白いのは困る。ヴァーリイのブルー・シャンペンとか。
ラファティのつぎの岩につづくはSFだかなんだかもうわからない。
変な話としか言い様がない。
違和感とか驚きが好きなんです。
ヴォネガットも別にSFというフレームいらない。本人が自由にやった結果としてSFになっているだけで枠組みはどうでもいい。
星新一はそこらへんを追求していたと思うんです。
本人もそんなに深くは考えていないんだけど、「変な感じ」を。
星新一に関連した話で言うと、ショートショートの広場1の前足のない犬の話とかはSF感がある。
新井素子は構成が緻密すぎて、我々の知っている世界を超えたなにか違う世界になっている。
過去の作品に言及せざるを得ないのは、それを超えた作品が出てこないからなんだけど、
体力とか社会環境とか必然性が揃わないとよい作品はできないのかもしれない。
どういう状況になったらいい作品が作られるようになるのか知りたい。
この業界を立ち寄ったことがある。
その上で感じたことをまとめてみた。
もし今自分が各種アプリケーションの操作方法を極めたという自信をもっていたとする。アイデアもあったとする。
各種資格も取り、大抵のことはそのへんの人よりも素早く対応できるとする。HTMLはもちろん、各種プログラミング、DB関係、ネットワーク知識、ハードウェア知識、Office関連のソフト、Adobe系のソフトも覚えたよ!
って膨大な知識だと自負するだろう。これだけがんばったのだから、しばらくは行けると思うだろう。けれどもこういうのはすぐ時代遅れになる。そういう態度でいるとあっという間に置いていかれる。
ユーザサイドとしてはバージョンアップにはそれなりのお金がかかり、しかも改訂後ドラスティックにUIが変わっていることもあるうえに不安定なことも多く、みんな混乱する。
みんなで混乱って言うだけだと楽しそうだけど、仕事の締め切りの当日にこれを強要されたらどうだろう。間に合わなかったときは?
例えば、Officeがリボンを採用した時、縦狭モニタのノートパソコンがビジネス機の主流だった。多くの人が作業領域の狭さにつらい思いをしたのではないだろうか。
で、だったら旧バージョンでいいじゃないかというとそういうわけにもいかない。みんなでそうなっている以上合わせるしかない。自分以外の多くの人が新しいものを使用していて、やりとりが発生しても互換性がない状況がせまってくる。結果「ファイル開けない」という無用のトラブルに泣くことになる。
なおこの混乱の際に蓄積したノウハウは近いうち別のバージョンアップで埋め立てられ、思いついた本人でさえさっさと忘れ去る。諸行無常の鐘も鳴る。
でも、仕事なのだから、古きも新しきも覚えていなくてはいけない。それぞれのジャンルは、枝分かれを繰り返しながら日進月歩、エキサイティングな状況である。知識とノウハウをずっと二乗していける超人になればいい。総員四六時中勉強しろ。飲みに行くなら上司か業界関係者以外禁止。仕方がない。
熱い志を旗印に、世界中で新しいサービスが筍のように生まれ、シェア争いを繰り広げ、多くはそっと消えていく。
こういったことを細かに面白く教育してくれる会社は少ないのだと思う。それでも、この業界の人間はたいてい一人で楽しく勉強し、観察し、楽しんでいる節がある。実にファッショナブルでまぶしいなと思う。
こういう潮流の温度を知らない人間、忘れてしまった人間は「そんなことも知らないのかよ」とさげすまれる傾向があったりする。大御所の方が「これだから……」と陰でさげすまれてしまうことも珍しくない。
それではいけない、そうならないためにも最先端のデバイスを、流行を、業界動向を追いかけていこうとして、どんどん新生、枝分かれするものをすべて拾っていたら、現場の動向を追いかける時間が取れようはずない。結果肝心の持ち場が火を噴く結果となる。そこでバランス感覚が必要となるが、どこでとるかというのも悩ましい問題だったりする。
バランスをとるというのは、どこかを立ててどこかを捨てることなのだから仕方がない。でも精一杯勉強して苦渋の選択の結果いま不要だと思ったものは捨てる。怒られても捨てる。そうでないと、いくら時間があっても足りない。
これはWeb関係者に限った話ではないし、SNSアカウントを持っていないWeb関係者も時にはいるけれど
・メールの返信も可能な限り早く
職場の人間関係が及んでいるSNSアカウントを持っていたら当然同様の同調圧力が存在する。
よって疲れていても、忙しくても家族が病気でも定期的にその世界でイイネ!しなくてはならない空気をまとって生活している。
そのため100%プライベートに集中する時間を作ることが難しくなってくる。いちいち「事情があってイイネ!できなかったのだろう」という憶測をする人間が存在することもありえる。鬱陶しくも、それが普通の社会人生活。日本人は古来よりお互いを監視して自らを律して繁栄してきた。その結果、日本人はときどき海外の人に高いマナー感覚を褒められたり驚かれたりする。そういった意味でSNSは日本人精神に相当マッチしているのではないだろうか。こういう湿気がみな大好きなのだから仕方がない。
返信がいくら遅くてもいいような偉い立場の人々はまた話が違ってくるかもしれないけれど、どんな偉い人にもその上のさらに偉い人のもとで働いている。社長だって株主や大手取引先には頭が上がらない。しがらみのない人間なんていない。
みんなで、自分がお世話になっているコミュニティに、自分はきちんとコミットしているという態度を見せなくてはならない。職場がらみのSNSってこんな感じだ。そしてSNSは不眠不休で運営されている。深夜に同僚が仕事しているのを窺わせるポストに「イイネ!」して、自分は布団にくるまって安眠できるほど神経太くない。
これらが崩れたと言われてる。
確かに年功序列は悪い面も多い。
働きに対して「報われてない」と思った若者が辞めちゃったり。
だけど、終身雇用は悪くないと思うんだよな。
会社として駄目になって、ドラスティックなリストラが必要になった場合とかを除いて。
つまり、「終身雇用だけど年功序列じゃない」会社がいいんじゃないかって話。
そういう人事制度を作るべき。
どうせ40過ぎたらもう会社にしがみつくしかなくなるんだから、35歳くらいに給与のピークを持ってくる。
んで40過ぎの給与は年ごとに下がっていく仕組み。
社会的に少子化が問題となってるので、家族手当なんかは残してもいいけど。
あとね、役員とか取締役なんて連中は、社会的な地位で報われてるんだから、報酬はもっと下げてもいい。
社会的な地位だけじゃなくて、例えば仕事の裁量が大きいとかでも十分報われてるよね。
これで、総額人件費を下げて、若者にやる気を出させることができる。
会社にしがみついてる年寄りも、人件費が安いんだからクビにせずにすむ。
ばっちりじゃね?
いちおう医師。一心房一心室が本質的にまずいっつーことはないです。
むしろ二心房二心室の複雑な配管のせいで人類は心奇形に悩まされてるわけで、一心房一心室なら今ほど心奇形は多くなかったんじゃないかなーと思います。
もっとも、現生人類の体をいきなり一心房一心室にするといろいろ無理ありますけどね。血管抵抗とかがそういう風に最適化されてないから。心室→体循環→肺循環→心房とかすると静脈が滞って全身むくんじゃうだろうし、心室→肺循環→耐循環→心房はもっと最悪で肺血管が血圧に耐えられなくて狭窄しちゃいます。
ま、もとから一心房一心室ならそこらへんきっちり最適化されてて問題はなかったでしょう。なにしろジンベエザメの巨体だって循環させることが可能なんですから。
別に生物は、“効率的な”二心房二心室を目指して進化してきたわけではありません。そのときそのときで、環境にあうように少しずつ変化してきたんです。進化の弱点なんですが、完全な最適よりも「今の姿の近く」で最適なところに落ち着いてしまいやすいんですよ、局所最適といいまして。
もともと脊椎動物は一心房一心室・エラ呼吸。それが、干潟とかの環境に適応して口腔とか食道の粘膜でガス交換できるようになったのが現在の魚類の祖先です。消化器だから、ガス交換するといっても体循環の一部。でもこれが発達して肺になっていきます(魚類では浮き袋)。
ガス交換器なんだからエラと同じで体循環と並列でなく直列になればいいじゃんと思うわけですが、進化はあくまで偶然の積み重ねで、別に設計方針とか意図とかないのでそういうドラスティックな再配管とかできないまま陸上適応が進みます。まあ、再配管はできなくても少しずつ仕切りができて「肺方面」「肺以外方面」の区別ができてくるわけですけどね。はい、一心房二心室。
一心房二心室にもメリットはありまして。ワニとかカメとか、水中にいるときは別に肺に血液流す必要ないんですよ。そういうときに自由に肺血流オフにできる。これはこれで便利です。
で、水中生活と縁を切ったほ乳類は血流バランスの自由度とかいらなくなったので完全に仕切って二心房二心室にしたと。機能的には一心房一心室と同じに戻ったんだけど今さら作り直せないから二心房二心室です。
消化管粘膜から肺が発達した件が尾を引いてるわけです。この件、他にも大問題がありますよね。食物の通り道と呼吸の通り道がのどのところで交差してる。飲み込むときは息止めないといけないししゃべれないのも、のどの機能が低下すると食物とか唾液が気道に落ち込んじゃうようになるのもこの進化の歴史の気まぐれが原因です。
ソーシャルネットワーク全盛期2012年。当時女子大生だったアヤはまさにソーシャルネットで遊びほうけてしまい本業である勉強が疎かになり、ついに奨学金を打ち切られる。困ったアヤの目の前に現れた、自分を「天使である」と名乗る大人。アヤに「君はもっと天使に近づける」と知恵を授ける。そこでアヤはその天使に従い、様々な不思議な指令を実行していくが…?
「わたしと雲の上の天使たち」は、わたし(アヤ)が自分の若かりし頃を振り返り、懐古していく近未来視点からの現代ミステリーです。「天使」というSF要素をスパイスに、彼女の半生がドラスティックかつ繊細に描かれた注目の作品になっています。
■目次
第一章「転落」
第三章「私の味方は天使たち」
第五章「天使たちの本当の願い」
第六章「こんなはずじゃなかった」
第九章「天使たちの牙」
第十章「わたしも天使になれる」
橋下大阪市長が府知事時代におこなった行政改革を陰ながら応援していたものの、
彼を今ひとつ信用出来なかったのは、長い間、島田紳助の盟友だった、という事実のせいだ。
昔の交友関係だけで人を判断するのは間違っているのだから、随分と私の心は狭い……。
そう自分を責めていたが、最近の彼の言動を知ると、直感の方が、どうやら正しかったようだ。
島田紳助が昨年引退したのは、暴力団との親密な交際が発覚したという理由だった。
だが、彼が責められるとしたら、それ以上の理由があるだろう。
吉本の女性社員を、人気のない部屋に引きずり込んで、壁に顔面を4、5発以上もたたきつけ、ツバをはきかけた。
これまでも立場の弱い者に対して、裏では暴言や暴力をふるっていることが関係者から暴露されていたが、
彼の嗜虐性、異常性、卑怯性、利己主義ぶりなどが明らかになった。
事件が発覚してもなお、数年もの間、なぜ、人気司会者として、テレビという公器で権威をふるい続けられるのか。
これほど理不尽な話はなかった。
橋下は、紳助の暴力行為の発覚後も、紳助の番組で長い間、出演を続けていた人気弁護士の一人。
弁護士が、最低な人間の人権を守るために活動しなくてはならない場合は、たしかにある。
だが、紳助の番組に出演することは、弁護士の倫理観とは別物だ。
むしろ倫理を重んじるならば、潔く番組を辞めるべきだったが、橋下はそうしなかった。
つまりは彼の価値観では、紳助が弱者を殴りつける行為は、許容範囲だったのだろう。
教室の中で勉強がわからない、と心の中で悩むことと、同級生の友人から引き離され、一人、劣等者として教室で孤立することとは、大きな違いがある。
前者の記憶は薄れるが、後者の惨めさがどれほど辛いものなのかは、海外の昔の小説や映画で、いくらでも描かれているではないか。
高校生で留年が認められるのは、それに耐えうる精神力があるからだが、小中学生の未熟な精神にとっては、それは限界を超えたトラウマだ。
そのトラウマは、小学校の知識を習得することよりも、もっと深刻な悪影響を与えるだろうと、彼は考えないのだろうか。
小学校で授業についていけない子供の中には、知能には問題がなくとも、精神力や意志力が弱く、勉強が続かない子供たちも多いだろう。
精神力がそもそも弱いのだから、そのトラウマがどれほど彼らを蝕むのか、想像力に難くない。
思うに橋下は、努力ができない人や、いくら努力をしても結果を出せない人々に、共感できないのではないか。
彼の周りに集まる人々を見ればいい。
低所得層からのし上がり、基礎能力やコミュニケーション能力が大変高いという点で、共通しているが、何より両者は努力家だ。
努力家は得てして、他人の数倍の努力ができるのは、それだけの精神力や体力を持ち合わせた者に許された特権だということが理解出来ない。
だから渡邉は、従業員が過労死をしても、それが悪いことだとは考ない。
自責の念に囚われることもない。
生まれつき、精神力や意志力の弱い人々がいることが、理解出来ず、もっと頑張れと声を張り上げ、叱責し、責め立て、罰を与えることは当然だと考える。
精神論者はここが怖い。
橋下が嫌われるのは、ドラスティックな改革手法のせいもあるが、何より激しい痛罵の仕方にある。
そうする権利が自分にはある、というのが橋下の考えなのだろう。
怠惰な連中を恵まれた独占的地位から排除するのには大いに賛成だ。
だが、人並みの努力をして、人並みの結果を出せない人々に罰を与え、精神的に追い込むことも、強者に許された権利なのか。
……そうではないだろう。
橋下の目には、帰国子女という恵まれた立場でありながら吉本のマネージャーをしている女性などは、努力を怠った怠惰な人間に見えたのかもしれぬ。
犯罪の弁護人は、世界で全員を敵に回そうとも被告人の味方であることを求められる。こんな厳しい仕事を進んでやる人が一人でもいるから、裁判の正当性が担保されるのだ。それを理解していない筈はない。単純にポピュリズムというか、衆愚主義にのっかって(群集の快感原理に訴えかけて) 弁護士会への懲戒請求を煽る。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/28/kiji/K20120128002522420.html にもあるが、結局の所教育問題ってのは誰でも口をはさみたくなるが故に、しばしば間違っていることであっても「正しい」という信念のもとに正当化される。しかし、教育を左右するというのは国の基礎を左右している、という責任感はあるのだろうか(私には全く感じられない)。建っている建物の基礎を変更するんだから、ドラスティックに変更したら、いくら設計図が正しくても工程管理のミスで家が引っくり返ることがある。ましてや、その棟梁が選挙で選ばれる(すなわち、継続性が保証されない)政治家だと言う。
短期的に見ればミクロな世代間格差や想定していない副作用でおかしなことになるだろうし、長期的に見れば右に左にゆさぶられた教育の現場がぐだぐだになるだろう。教育改革は1つのサイクルすら5年、10年という長丁場の覚悟がないと、本来は為しえない難事業なのだ。どうしてもドラスティックに変えたければ、特区や特定校指定などといった「離れ」でまず実験をすべき。これは、別に教育に限った話ではなく、生きているシステムは全てそうだ。
身長182cmで顔も普通だしデブではないしジムにも通っている。
何が言いたいかと言うと
でもなんとなーくずるずると独身のまま三十路になってしまって、しかもこのまま行きそう。
婚活サービスとかは、男女とも恐ろしい雰囲気の市場になってるというし、業者しか幸せじゃなさそう。
まあ本人に真面目さや必死さが足りないって言うのはその通りだけど
昔はそういうのでもいい歳になると適当に相手見繕って世話焼いてくれたんでしょ?
いいよねそういうの。
非婚化が進んだんじゃないの。
ブコメに対して追記
いやいや、
学生時代に後輩から告白されたりしたこともあるし(断ってた)、
素材的に女性に嫌われた事は無いんだ。特に制服やスーツを着てればね。
私服の時はたぶんヤバいみたい。
自動車産業が抱える問題って、現在の日本の置かれた状況を象徴するものだよなぁ、と思い、少し掘り下げて考えてみた。「推測」と書いたのは、バックデータ・統計資料にわざわざ時間をかけてあたる暇はないので、状況証拠だけで考えていくということだ。暇な人、もしくは自動車産業関係者のマーケターの方、もしくはマクロ経済の専門家様、データを元にこの推測、といいますか仮説を検証してみてくださいませ。
「自動車の国内市場規模は縮小の一途。特に若者がクルマに興味を持ってくれない。」というのが、業界的に広く共有された悩みのよう。その典型的な事象の捉え方が痛いニュースのこの記事。
痛いニュース(ノ∀`) : “若者、車離れ” 日本国内で車売れない…トヨタ、本気でアイデア募集 - ライブドアブログ
この2ちゃんねるまとめブログで、板の題材として選ばれている記事がこれ。
国内で車売れない危機打開策 トヨタ本気でアイデア募集 (1/2) : J-CASTニュース
ま、痛いニュースとJ-CASTなので、、、、、でも、こういうメディアって、一般的な状況の捉えられ方やルサンチマン的なストレスを推し量るには本当に都合がいい。でもJ-CASTの元記事にはファクトデータも載っている。ちょっと引用してみると、
国内での販売は2年連続の減少だ。ダイハツ工業、日野自動車を含めたトヨタグループ販売は前期比同4%減の227万台と、米国販売との差が広がる一方だ。国内市場全体の落ち込みより減少幅が小さかったため、トヨタのシェア(軽自動車除く)は過去最高の45.8%まで上昇したが、トヨタ車単独で11万台の減では、シェア上昇も手離しで喜べない。
国内の自動車需要(全需)は、2006年度の軽を除いた日本国内の新車販売は前年度比8.3%減の358万台と、29年ぶりの低水準だ。登録車市場の低迷の原因としては、経済性や実用性を求めて軽自動車に人気が移っている影響とされてきた。しかし、軽を加えても同4.1%減の561万台であり、国内市場全体が収縮していることが鮮明になっている。
要は、
ってこと。ちなみにこの元記事は1997年という4年前のもの。
で、その対策として当時のトヨタは、
トヨタは06年末に社内横断的なチームを立ち上げ、国内低迷脱却のアイデアを懸命に探り始めた。
対策チームは、自動車という商品の枠内だけで解答は出さず、地域や社会全体の問題の中で消費を喚起する自動車を改めて模索している。携帯電話などの情報関連の支出が増えた若者の「車離れ」や、少子化による若年人口の減少による市場構造の変化を深刻に受け止め、車が売れなくなった構造要因に真剣に目を向けざるを得ない。地域ごとの特性や家庭の年代構成、消費者の行動なども踏まえて自動車市場全体を抜本的に洗い直そうというものだ。
少子化対策は政府でも有効策を打ち出せていない難題中の難問だ。それでも、トヨタの渡辺捷昭社長は「国内市場を活性化するためには、何よりも市場創造型のいい商品を投入することだ。地域の活性化を含めて、いろんな手を打っていきたい」と、社内チームの試みに大きな期待を寄せている。
というわけで、「国内市場をどうにか活性化させるための手を打ちたいと考え、具体的なアクションを起こしている」というメッセージを打ち出したわけですね。
それに対して2ちゃんねる側の反応はだいたい2分されていて、
となっている。
で、このあと2010年になってどうなったかというと、、、、市場動向、トヨタの対応、そしてネット民wの反応がツンダオワタ情報にまとめられている。(本当は産経新聞の元記事URLを引きたかったのだが、既に削除済み。というわけで、元記事の存在証明はないところはご容赦を。(だから、論文とかでは、データとしては使えないなぁ、、、増田で使うのが精一杯。)
豊田社長「マスコミは若者の車離れと言うが、離れているのは私達メーカーではないのか」 - ツンダオワタ情報
まずはトヨタがどのような手を売ったのかというと、、
トヨタは今年1月に「スポーツ車両統括部」を立ち上げ、スポーツカーの企画や開発に関する最終権限を経営陣から現場に移譲。スポーツカーの復活とともに、走る楽しみを演出する複数の
プロジェクトが始動している。足回りの良さにこだわった特別仕様車を相次ぎ発売。4人乗りで世界最小の「iQ」6速MT搭載限定車は予約開始から1週間で完売。
9月3日。強い日差しの下、静岡県小山町の富士スピードウェイで、1台のスポーツカーが強烈なエンジン音を響かせていた。12月から世界限定500台で販売が予定されている高級
スポーツカー「レクサスLFA」(価格3750万円)。報道関係者らを対象にした試乗会が行われていた。LFAの最高時速は325キロだが、この日は1周4.5キロのコースを約2分で駆け抜けた。「ハンドルを握ったときにドキドキ、ワクワクするクルマをつくりたい」自らレースにも参戦する豊田社長は常にこう言い続けてきた。
つまり、
のようにスポーツカーに活路を見出そうとしているよう。
でも、その結果は、、、、「文中の」ファクトデータを洗ってみると、、
クルマが売れない。昨年の国内新車販売台数は約460万台と、ピーク時(平成2年)の6割程度にまで縮小している。景気低迷が一因だが、一般的には若者のクルマ離れが最大の理由とされている。調査によると、大学生の「興味ある製品」でクルマは17位(20年度)と、40~50歳代が大学生だった当時の7位から大きく後退している。
要は、
ということ。ただし、MTのiQは限定台数を売り尽くしたし、Wikipediaの記述を見るかぎり、LFXもきちんと台数は捌けているよう。要は、「作ったクルマはちゃんと売れたけど、市場全体の構造を変えるまでに至っていない」ってことですね。それに対するネット民wの反応は、1997年の痛いニュースから、全く変わっていないというのも面白いところだ。
結局のところ、市場の縮小は人口減少トレンド下では不可避。でも、せめて若年層にクルマを運転する楽しみを知ってもらい、高付加価値のクルマを継続して買ってもらえるようにすることで、市場構造の問題を少しでも緩和したい、っていうところだと思われます。少なくとも、ここまでに取り上げた情報ソースからすると、、、、ですが。
まず、「若者」という括りに対してツッコミがあるというのは、甘んじて受け入れよう。というか、全面的に納得せざるを得ない。で、話を単純化するために、母集団を「大学生」という括りに絞ってみることにする。大学進学率が上昇し、それによって「大学生」という母集団の性質が変化したという点については、「なぜ大学進学率が50%を超えたのか? -大学進学人口と大学数との関連-」という小樽商科大学の学報掲載記事をご覧いただければ一目瞭然。(ああ、やっと真っ当なデータリソースを挙げることができた、、、ホッ。)
であれば、「大学生」よりも、より限定した形で母集団を設定しなければ、まともな時系列比較ができない、ということになる。でも、そんな統計はまともに存在しないだろうなぁ、、、、ということで、ここからは、私の実感という超主観的な状況証拠を絡めてで話を進めたい。私は30代半ばで、某都心から50kmくらいにある某大学を職場とする人間だ。で、自分の周りがみんな全くクルマに興味がないかというと、そんなことはない。R32スカイラインをシートを始めとしてひたすら改造しながら乗っている先輩、フランス製オープンカーに乗る後輩、馬鹿でかいアメリカ製SUVで駅まで送ってくれた後輩、、、、普通にいる。しかし、キャンパスの周りが整備され、駐車場の確保が難しくなったなどの事情もあるのだろうが、昔はその存在を確認できた30万円で買った中古車で大学に通い、金はなくともバス/電車という公共交通機関の利用を忌避するタイプの層は、ほとんど見ることができない。つまり、エンスー、とまではいわないかもいれないが、クルマに対しそれなりのお金を費やししている層は昔も今も、少数ながら存在していて、がんばってクルマに乗ろうという層がいなくなったということになるだろう。
30万円の中古車というと、当時の車種で具体的に言えば、10年オチのファミリアハッチバックとか、カローラⅡとかですな。当然乗り心地は良くないし、内装はパットしないし、、、でも、なぜわざわざそんなクルマを乗り回していたかというと、一番大きな理由は「クルマが無ければ不便だった」ということではないかと思うのですよ。この15年ほどで、私鉄や地下鉄の延長、新規路線開業は相次いだし、JRも湘南新宿ラインなどの直通電車をバンバン投入した。職場近辺は、15年ほど前までは、各駅停車しか止まらない私鉄の駅までバスで15分。都心に行くには2時間じゃ利かないという状況だった。かつ周囲には自動車工場と関連施設、更には清掃工場とかしかない、街だったわけで、、、、そりゃ、がんばってバイトして、クルマ買うよなぁ。逆に言えば、今となっては、無理してバイトしなきゃ手に入らないならクルマなんて買わずに、大学が斡旋してくれるUQ Wimaxのルータでも買って、電車の中で課題をこなしている方がよっぽど効率的だ。
これと同じ状況が広く各大学で生じている。また、首都圏・関西圏のいたる大学で、文系を中心に、バブル期に都心から30〜50km圏に新たに取得した土地に移転させた学部を、都心部の本部キャンパスに戻すというプロジェクトが進められている。というわけで、大学生の多くがクルマに乗らなくなるのは必然、というべき状況なのだ。
"Fun to Drive"というのは80年代〜90年代(だったかな?)にトヨタが掲げていたコーポレートスローガン、というかキャッチコピー。今あらためて読んでみると、いいキャッチコピーだなぁと。クルマを運転するのはやっぱり楽しいと思う。車高の低い、重心の位置が決まっているクルマって、運転技術が下手な人間でも、走らせるとむちゃくちゃ楽しい。(助手席に乗る人はたまったものじゃないわけだけれど、、、)研究者の職場というのは、普通のホワイトカラーと比べて圧倒的に交通の不便な場所に設置されていることが多い。大学しかり、企業や行政立の研究所しかり。将来的にそういった職場で、ある程度の期間働くことになったとしても、個人的にはクルマで通勤するのはできるだけ避けたいと思う。だって、遅刻の心配しながら朝必死に高速を飛ばしたり、長時間デスクワークした疲れた体で夜道を長時間かけて走って帰宅なんてしたくないじゃあないですか。しかも、クルマに乗っている限り、酒が飲めないというオチまでついてくる。正直、Fun to Driveを実感するきっかけが、自分に巡ってくる機会なんてめったにない。
タイトな仕事に従事する層が通勤でFun to Driveを感じるというのはかなり厳しい。逆に言えば、サボってもいい授業を沢山履修していたり、帰り道にドライブデートする機会が多い学生というのは、Fun to Driveを感じるのにものすごく最適化された生活をしているのだろう。もちろん、クルマで通うことが正当化されるような大学に通っている場合に限るわけだけれど、、、、
それ以外では、「もともと自宅に乗っていて楽しいタイプのクルマがあって」「工場勤務で工場隣接の寮に住んでいるから平日は閉じ込められている。近所にろくに店もないから、週末はクルマで遠出するのが趣味。店がないということは、そもそも他にお金の使い道もないし、、、」という人くらいなのではないかと思いますよ。
まあそれでも、ものづくりニッポンの文化として、モータリゼーションは浸透し続けるべきだし、それは可能だとおっしゃる向きもあるだろう。であれば、自動車文化先進国といわれるヨーロッパの状況を見てみたい。
ヨーロッパに行くと、日本ではあまりお目にかかれないブランドのクルマをよく見かける。SKODA、SEAT、そして90年代には多少日本にも乗っている人がいたけれど、、、的なOPEL、LANCIAなどもまだまだ現役だ。注目したいのはSKODAとSEAT。この2つのブランドはAudi同様VOLKS WAGENの一ブランドなのである。SKODAはもともとチェコ、SEATはスペインのメーカー。それぞれVWによって買収され、現在は中〜低価格帯のラインナップを担っている。逆にVWの高級ラインがAudi。VWは、ヨーロッパで最も販売台数が多い自動車メーカーだ。ACEA - European Automobile Manufacturers' Associationの、Year 2011 by manufacturer and by vehicle category (Enlarged Europe) <※注1:エクセルファイルへのリンクです, 注2:1月〜8月までの数値>によると、メーカーとしてのシェアは23.2%。で、問題は23.2%の内訳だ。VWブランドは全体の12.3%。高級ラインのAudiは全体の5.0%、SEATが2.3%、SKODAが3.6%である。VWはフェートンやトゥアレグなどの高級車(というか、実質中身はAudi A8・Q7ね、、、)はあれど、代数的にはごく一部だろうから、23.2%のうち、15%くらいはBセグメント以下の中小型車と推測できる。そしてVWグループの低価格帯のクルマにスポーツカーは極少数だし、Golfにしても他の車種にしても、ホットバージョンのグレードは売上のほんの少しだろう。
一方、スポーツブランド、エンスーな人御用達ブランドはというと、、、ALFA ROMEOで1.0%、PORSCHEで0.3%。ボンドカーASTON MARTINもヨーロッパでは8ヶ月間で1,664台(0.0180630955651735%)しか売れていない。(これだけ売れれば十分か、、、?)ちなみにみんな大好きフェラーリは、FIATグループの中でもその他扱いされていて、数値が出されていない。っていうか、その程度のもの。ヨーロッパは階級社会が未だに色濃く残る社会なので、先祖代々馬車に乗っているような人たちが、相変わらず週末の嗜みとしてポルシェやフェラーリ、はたまたブガッティやランボルギーニなどのカロッツェリアがリリースする少数生産の高級車に乗っているのだろう。ということは、ですよ。日本においてエンスー車のみをひたすら取り上げていたCar GraphicやNaviのような雑誌がそこそこ売れ、地方自治体立の図書館に配架され、なおかつテレビ朝日系で番組まであったというのは、どう考えてもおかしい事態、なわけですね。
というと、やっぱり車の運転が「好き」っていう人はそんなにいるように思えない。バック・トゥ・ザ・フューチャーの時代から、若者の憧れはSUVだったし、トヨタがアメリカの若年層を攻略するために導入したサイオンだって、ラインナップはxB(日本名Bb)、xD(日本名ist)だし。アメリカ市場といえば、、、のホンダの戦略車種だって、ELEMENTやCR-VにMDX。ようは、SUVをカリフォルニアサーフカルチャーに振るか、ニューヨークのヒップホップカルチャーに振るか、はたまた高級志向に走るかしか、手はなかったわけで、、、、
経済成長期というのは、来年は今年よりも所得が増える人が沢山いるという状態のことだ。経済的に余裕が出来てくると、多くの人間が考えるのは生活の質的向上を図ろうというものだ。その結果、未知の様々な趣味にお金と時間を突っ込んで見ることとなる(これ、現在の中国沿海部がちょうどそういう状態)。そういった状況下で、日本のメーカーはレビン/トレノ、MR-2、CR-X、ユーノスロードスター、FTOなど低価格でかなり走りが楽しめるスポーツカーを量産してしまうことに成功してしまう。ミドシップのツーシーターが200万円台前半とか、V−Tecエンジンを積んだ2ドアホットハッチが100万円台、車の歴史から見たら、おかしいだろう!ということですよ。更にホンダビートやダイハツカプチーノ、極めつけはマツダAutozam AZ-1。軽自動車なのに、ミドシップでガルウィング。とんでもなさすぎる、、、、
で、いろいろ手を出してみるものの、そこそこ収入が安定する頃には、自分の趣味や可処分所得に見合った趣味だけに落ち着いていく。ま、もともとクルマで女の子にもてようと思えば、そこそこの外車や国産車でもレクサスになるだろう。中途半端に月3万円のローンとほぼ同額の維持費をクルマに突っ込むくらいなら、3万円を衣服費に使い、残り3万円でデートに誘う店のグレードを上げた方がよっぽどモテるだろう。結局日本という市場は、相も変わらず500万円オーバーのクルマを買い続けてくれる一部の層と、下駄として使うための安くて丈夫なクルマを選ぶ層(しかも、子育て期限定でワンボックスを買う層も多いと見た、っていうか00年代前半は、2シーター乗っていた人が、パパになってSTEPWGNやセレナに乗り換えを余儀なくされるというパターンが本当に多かったのですよ)と、クルマなんてそもそもいらないっていう多くの層によって形成されることとなる。下駄クルマは利益率は低いし、韓国・中国勢がブランド力を向上させていけば、取って代わられる事態も当然ありうる(それを日本にやられた先例がアメリカだ)。国内市場で利益をあげ続けようと思うならば、高級車のシェアを取りに行くしかない。そういう意味でトヨタはLexusを止める訳にはいかないし、他社は実質国内市場はあきらめかけているんじゃない、、、としか思えない。高級車ラインを展開できなければ、日本は欧州・アジア向けモデルを導入するone of themの市場という前提で戦略を立てざるを得ない(実際、日産、ホンダ、マツダなんかはまさしくこの戦略をとってる。マーチが全量アジアからの輸入になるなんてね、、、、)。
で、以下のURLから1本のテレビCMをご覧頂きたい。トヨタグループの一員であるダイハツの企業CMだ。
テレビCM 企業CM「日本のどこかで 新しい町」篇【ダイハツ】
このCMの読み解きは、あくまでも僕の憶測にしか過ぎないのであしからず。
都会でクリエイティブ(たぶん美容師とか、ショップ店員とかかな?)な仕事をしていた瑛太が、突如田舎にIターン(Uターン、じゃないだろうなぁ、、、)して、ガテン系(工務店)の仕事を始める。そこで、これまで乗っていたアメ車のシボレー・カマロを第三のエコカーであるダイハツの軽(ミラ・イース)に変える。生活の変化と平行して、地元の郵便局員である吹石一恵との関係が始まり、、、、というストーリーなわけだけど、設定の1つ1つに企業戦略として重要な意味合いが込められていると思うのだ。(あくまでも推測だけど、、、)
都心にはダイハツが売り込む市場など、商用車以外に大して存在しない(それでも、乳幼児を抱えるお母さんが、電車に乗れなくなったから必要に迫られて車を買うというケースは結構ある(タントのCMを参照。それにしてもダイハツのCMは、意図がすっきりはっきりして清々しいほど。マーケ的お手本ですね。)。だから、当然第一次・第二次産業(の生産部門)が経済の中心であるエリア、もっとわかりやすく言い換えると、でっかいイオンモールが唯一のデートコースという地域が、ダイハツ(とかスズキとか)の主戦場となる。
そういったエリアは、都心とは異なる理由で市場の縮小が進んでいる。まずもって、人口減少トレンドがものすごく強いということ。都心の場合出生率は下がっても、人口流入が大きいので若年層人口の減少トレンドはかなり緩和されている(というか、江東区とか、横浜市なんかは、保育園入園の待機児童問題がぜんぜん解決されないままで、、、、)。でも、地方は加速度がついて若年人口が減っているというのがまず前提となる。
その上に自動車市場を冷やす意外な要因というのが、実はイオンモールの進出ではないのかな、と個人的には睨んでいる。こう書くと、「イオンモールこそが、駅前商店街衰退の最大の要因で、だからみんなクルマを保有せざるをえないのじゃないか」というツッコミがきそうだが、たぶん逆じゃないかな、と。地方の駅前商店街なんて、もともと若年層が楽しめる娯楽や、ファッションを提供する機能を持っていなかった。だから、暇な若者に出来る時間つぶしって、女の子を誘ってドライブくらいしかなかったわけだ。例えば、90年代にものすごく売れたホンダ・S-MX は、フルフラットシートにできるだけでなく、ご丁寧にティッシュボックスまで備え付けてある。わかりやすくニーズのど真ん中をついていたわけだ。
それが、イオンモールができることで状況は一変する。シネコンやタイトーとかセガとかの大規模ゲーセンやROUND1で時間は潰せるし、服を買うのも、ワールドやイトキン、オンワードといったアパレル大手のちょっと低価格ラインのショップ、レディースならば宮崎あおいがCMしてるEarth music & ecologyとか、OZOC、Melroseとか。メンズならTK Takeo Kikuchiとか。ユニセックス&チャイルドで、UNIQLOに満足しない層のために、GAPとか、無印とか、COMME CA ISMとかも入っている。ABCマートがあれば、靴も含めてそんなにダサくない、というか都心で売っているものと遜色のないものが揃ってしまう。そりゃ、裏原宿のテイストは無理だけど、池袋マルイやサンシャインシティくらいのレベルは買えてしまう。片道30分でイオンモールにつけるのであれば、その短い時間にお金をかけるよりも、一日中過ごすイオンモールの中でお金を使ったほうが楽しいわけだ。つまり、人口が少ないだけでなく、残っている若者にもクルマに必要以上にお金をつぎ込むインセンティブがもはや存在しないということだ。
じゃあ、粛々とシュリンクする市場規模に対応するだけの資源投下をすべきか、、、というとそうは問屋がおろさない。それができない要因、それは地方に数多く存在する独立資本の販売店フランチャイジーだ。バブル崩壊後、自動車メーカーはそれぞれ、ドラスティックに販売網ネットワークを整理した。今となっては複数の販売チャネルを運営しているのは、実質的にはトヨタだけになってしまった。ただし、トヨタ・日産・三菱といったメーカーの場合、販社は一部自らが出資している法人が大半であり、スムーズに(とはいかないまでも、どうにか)店舗網の縮小、合併を進めることができた。ところが、ダイハツ、スズキ、スバル、ホンダ(の旧プリモ店)は、三丁目の夕日に出てくるような個人経営の自動車整備業にフランチャイジーとして販売を委託するという形態の店舗を数多く抱える。販売店網が密だということは、アフターサービス・メンテナンスの質を向上させることにつながる。アフターサービス・メンテナンスはアフターマーケットという業界用語があるくらい、利益率の高い市場なので、各社力を入れているわけだが、サービス水準を高めるためには、各店舗の士気が高められていることが重要だ。
販社としては、生涯価値の高い顧客、つまり長くお金を落とし続けてくれる顧客を捕まえたいというニーズを持っている。となると、地方にやってきた若年層というのが、一番欲しい顧客のプロファイルとなる。地方にやってきて、工務店という地域密着な仕事をし、地元の(たぶん)特定郵便局の職員とつきあって結婚して、、、というのは、まさしく地方の販売店にとって喉から手が出るほど欲しい顧客像だといえるだろう。こういう層に向けて、ストレートに刺さるCM、というのは、ミラ・イースの本当の想定顧客かどうかは関係ない。(実際、イースの車種CMは、ブルース・ウィリスを起用してダジャレを言わせているわけだから、瑛太のようなプロフィール、ではないことは明白。)「企業CM」して瑛太と吹石一恵が出演するCMを放映するということは、メッセージのターゲットは販売店フランチャイジーなのではないかな、と。
小見出しで結論は言い切っちゃいましたが、基本はこれ。自動車メーカーもボードメンバーや車種開発部門は既にわかっていてやっているはず。じゃなきゃ、瑛太が乗るクルマはミラ・イースにならないし、マツダのスカイアクティブテクノロジ搭載車やホンダのハイブリッド車に国内独自モデルが1つもない、なんて事にもならないはず。
ところが、販売部門、とくに販社といっしょにプロモーション計画を取りまとめる部門は、国内は縮小均衡で粛々とやっていく、なんてことは口が裂けても言えないはず。なので、国内販社向けマーケティング担当者が考えるべきは、シュリンクする市場環境下で、世界共通モデルをいかに低コストでローカライズして、他者のシェアを奪うのか、しかないのが現状なのだと思いますよ。正直、ね。