http://b.hatena.ne.jp/entry/synodos.jp/international/12340
このブコメ反応を見て、むしろ風刺的表現に反対する人が増えたか?という感じがして(数えてはいないけども)、彼我の違いに改めて思いを馳せた。
そういう宗教的な含みのある言葉を使っているのなら、「(キリスト教的かイスラム教的かはちょっと置いておいて)、宗教的なメッセージを伝えた」ということは、
少なくともキリスト教圏の人やイスラム教圏の人にとっては、単純な表面上の意味より深いものを伝えようとしている、ぐらいは、伝わってとは思うんだけど。
ブコメ反応的には、ひょっとして、「宗教的」自体にアレルギーが来ちゃってるのかなというか。日本人宗教苦手だからかなーとか。
宗教的であるがゆえにイスラム教への配慮が足りない、とかそういう意見もあるし、怒る人が居るのも当然だとは思うけどね。
ここにもあそこにも「文化」の違いはあって、一方で文化が全く違う人同士が接触する・意見を交わす・隣に暮らすのが珍しくもない世の中になってきた今となっては
やっぱり、一定の文化的な共通性をベースにして、それを外から嗤ったり壊したりすることで面白みを生み出すことが多い風刺表現というもの自体が色々難しい時期に来てるのかね。
文化や社会がボーダレス化するほど「風刺」が解体されてしまいそうだな。
あるいはボーダレス化、多様化がもっと乱暴にドラスティックに進んで、世界中で通用する共通性(日本語が変だ)を見つけて、それを嗤えるまで続けるか。
当面は「何人爆殺されようがテロの標的になろうが」という決意が必要になりそうだし、血で血を洗うのはイヤだからなぁ。
そしてそうなると、風刺漫画雑誌というよりももはや哲学や文学なのかなという気もするな。サルトルとかそういう感じになってくるな。