はてなキーワード: アイロンとは
一所懸命にやってる。
でも結果が出ない。
自分で選んだこの道、自分なりにクレバーに試行錯誤しているつもりだ。
そんなに頭が悪いわけでもない。今までの実績もある。経験値も人並み以上にはあると思う。コミュも得意な方だ。
数年間、良い暮らしもした。まあサラリーマンより良い、という程度のものではあるが。
それなりの蓄えもできた。しかし今それを食いつぶして生きている。
残額は500万にまで減った。毎月維持費や家に入れる金で40万ほど飛ぶ。
残された時間は短い。その間に結果を出さなければならない。
焦る。
妻はげんきんだ。貧乏だと私のせいにして当たってくる。でもそれは否定できないから受忍してきた。
勤め人としてそれなりの生活をしていた起業前、長い間温めてきた自分の事業計画に欠けていたもの。それは開業資金。
生活を小さくするために引っ越しの準備を進める私に妻は、そんな夢物語は捨て、家族ためにその辺の工場や佐川の倉庫で夜勤でもしろと大声で罵った。
そして最終的に親に頭を下げて資金調達した私をさらに罵り、あざけ笑った。
「いい歳して結局親頼みかよ、カッコ悪い」と。
精神状態が最悪の状況で起業した。親からは1000万借り、その半分を妻に渡した。「万が一の時のために」と。
そのことは親には話していない。多分全部開業資金に、と今でも思っているだろう。
その後、会社は順調に業績を伸ばした。しかし私は自分の給与(役員報酬)を上げることにはためらった。
税理士からは、経営者には明日の補償がないと説得を受け、ようやく3年目に報酬を上げた。でも家には50万しか入れず残りは密かに貯金した。
復活して人並み以上の生活ができると妻は自分の功に胸を張る。「アンタの成功の半分は私のおかげだ」と。
7年目までは順調だった。しかし8年目に「食らう」。多角化できなかった私の経営ミスではあるが、大企業との取引の怖さを知った。
他社との契約を嫌がる大企業の言うがままにしていたら突然の契約解除、私の仕事を内製化するという。リストラであぶれた輩の仕事にするそうだ。
家に入れる金を減らした途端妻の態度が急変する。
今まで通りのカネを入れろと要求する。じゃないと生活できないという。そんなはずないだろう、手取りで50だぞ。
しかもきちんとその中から貯金もさせ、贅沢せずに暮らしてきた。妻も今までのことがあるから地味に生活してきたんだ。
今は手取りで30を入れている。給料名目ではあるが事実上当時の貯金を食いつぶしながらだ。
妻はパートで毎月7万ほど稼いでいる。
しかしそれは「別の金」だそうだ。
株もやっている。私も関与しているからそれだけでも百万ある。
ウチには一体いくら蓄えがあるのだ?と聞いても妻は答えない。
「だって、あんた使う気でしょ?」と。
でも妻は私の貯金額を聞いてくる。
昨年、はっきり答えた。すると一言目に出てきた言葉が「裏切られた」だ。
当初2千万以上あった。しかし会社を縮小する際にかなり消えたこと、今はほとんど売上げがなく食いつぶしていることを説明したがその点ではない。
「なぜ給与全額をいれなかったのだ?」と。
昨日、SEO対策をスマホでやっていると「オマエはネット中毒だ、不快だからやめろ、私は眠りが浅いから早く寝ろ」と怒鳴られた。
今の仕事を軌道に乗せるためにやっていると説明しても通用しない。
ことあるごとに難癖つけられる。
今は食器洗いは私の仕事になった。妻は仕事で疲れているからだそうだ。
妻の仕事は医療系。機嫌の良い時に話を聞くとかなりヒマな仕事らしい。パートに対しての福利厚生も手厚いそうだ。責任も少ない。
いつも上司の文句ばかり言っているが楽だし資格なくてもできる仕事だし時給も良いし昼食も会社が用意してくれるという。
何ともうらやましい限りだ。しかしそれが妻の仕事の価値観になっているから困ったもので。
開業後1ヶ月で「来月には軌道に乗る?」と聞かれたときには参った。
数年前から決めている。
結婚して20年近くになるが、自分の女性を見る目のなさには反省だ。
お互い様と言う言葉はもう何度も言われている。その通りかもしれない。
だから私はそれは認めない。
家でタバコを吸えなくなったのは何年前だろう。
食器は自分で洗う。
掃除、庭はき、草むしり、金魚の世話、鍋掃除は男の仕事だそうだ。
洗濯してもらってもワイシャツのアイロンすらかけたためしがない。
ただ洗剤入れて洗うだけ。
TV番組の嗜好も全く合わない。ニュースやドキュメンタリーやお笑いが好きな私、流行のドラマと映画が好きな妻。
もう家に帰りたくない。
11:15だ。今から帰っても、音を立てずに気を付けてもきっとウルサイと起きてきてブチ切れて怒鳴られるだろう。
何度も離婚を申し出たのだが一向に承諾してくれない。私も子供がかわいいから気を取り直してしまう。
かなり追い込まれている。
とりあえず8年持たせるにはカネを入れることだろう。
帰りたくない。逃げてしまいたい。
化粧はビッチがすることで、生まれもってのスッピンで勝負できないなら諦めるしかないと思っていた
髪を腰まで伸ばしていた。ストレートアイロンもかけない、カットで軽さを出すこともしてない、伸ばしっぱなしにしただけの黒髪ロングだった。周りにそんな髪の子いなかったけど、だからこそ希少価値があるのだと思っていた。
戦闘美少女アニメのヒロインのように「見た目に無頓着なのにかわいい」というのを目指していた。
そのくせ、「なんで三次元の女は縞パンはかないの?」みたいなレスを目にすれば、すぐに近所のしまむらへ縞パンを探しに走った
自分の幼い顔立ちと体型を、だぼだぼのパーカーや飾り気のない白いワンピースで強調して
「日本人の男ってロリコンだらけなんだろ?」と思い込みロリコン受けを狙った。
変な人に声をかけられると、危機感もなく、自分の狙いが成功したことに喜んでいた
嬉しかった。劣等感の塊だったあの頃は、少なくとも「性的な対象に見てもらえるくらいの魅力はある」ということが嬉しかった。
そして男尊女卑だった。女子のグループにいじめを受けた経験も相まって、本気で女は男より劣っててクズだと思ってた。
そこには「女なのに女の欠点を認められる自分」という優越感と「男性のみなさん、私は女だけど身の程をわきまえてます」という卑屈な媚びがあった。
私はある朝方に遠くの方で鳴いている鳥の声に重たい目を擦り上げられるようにして、起きた。昨晩のウイスキーの香りが染み込んだ木の家で、妻がベーコンを焼いている音がする。
買ったばかりのシガーを開け、ビニールを取り、白い整列した一つの断面から
一本のマスターピースを抜き取る。
3時間の作業に成ることを見通し、マスターピースを一本吸うと、一面に枯れ茂った芝を切り始めた。やれやれ。
ほんの少しの作業をすると、曇天が色を変え、季節の変わり目らしいせわしない動きをはじめた。淹れたコーヒーを広げ、クロックスの靴を投げ出して、寝始めた。
妻はアイロンを掛けると、ブーツを履き、新しい赤いiPodでビートルズのドイツサンバ部作3番章を聞きながら、近くのラウンドリーに出かけた。
大きな蛇行を打った川の上を見上げると、ドイツの運河のような黄色い水が流れていた。
私は、コーヒーを飲み、喉を焦がしながら、その光景を見ていた。
まるで、戦場で一人のロシア兵が鉄のカメラで撮ったような、争いの中で一つだけ凍りついたような場面であった。
大きな大きな木の群れに囲まれて、赤く艶やかな桃がドンブラーコーコーコーと流れてくるではないか。
秋の季節の成果であるのか、その桃は果実を超えた匂いを放ち、抑揚のあるリズムでやはりドンブラー、ドンブラッハー、と流れに乗って、流れてきている。
飛行機のトランジットを待っていて暇なので、ちょっと昔のことでも書いてみようと思う。数年前、この空港にはじめて来たとき、僕は今とはまったく違う人間だった。あの頃の僕は、希望と理想と好奇心に満ちあふれていた。でも今は? 僕の心は冷たく凍っている。そしてこれには訳があるのだ。
僕は父親を早くに亡くし母子家庭で育ったが、まじめに勉強したので成績はいつも一番だった。そのまま東大法学部に入ったあとも、僕は常に一番だった。東大を主席で卒業したとき、母はどれほど喜んだことだろう。その後、僕は外務省に入省し、上層部の大きな期待をうけて、ドイツの大使館に派遣されることになった。当時のベルリンはいまだ東西ドイツ分断の爪あとも生々しく、その一方で、新たな統一国家を創りあげるのだという若々しいエネルギーにもまた満ち満ちていた。その高揚感に僕は目を見張り、自分が今歴史のまっただ中にいるのだということに感激を覚えた。僕はドイツ語とフランス語がとてもよくできたので、大使館でも重宝された。そして、これはすでに上層部の許可を得ていたのだが、大学に籍を置き、仕事の合間にはさらなる勉学に精を出した。
あっという間に三年がすぎた。僕は相変わらず真面目に働き学んでいたが、心の何処かに落ち着かないものがあった。激動の時代を経たベルリンの大学にはさまざまな思想が渦巻いていた。その気風にあたって、僕の心になにがしかの変化が生まれたようだった。それまでの僕は、ただ真面目に生きてきただけだった。母親は僕を歩く辞書にしたかったのだろうし、今、官僚となった僕は歩く法律書であることを求められている、そんな気がした。僕が、自分の頭で物を考えること、そんなことは求められていなかった。そのことに気付き、僕は少しずつ別のことを学び始めた。歴史や文学を学ぶことで、自分なりの思想を作り上げようとしはじめた。
上層部の人間がそれをおもしろいと思うはずもなかった。彼らは僕が機械の歯車であることを望んでいたのだから。そもそも僕は同僚たちの間でも受けがよくなかった。彼らが飲み歩いて遊んでいるとき、僕はそれに加わらず、ひたすら勉強していたのだから。上層部の不興と、同僚たちの嫉みによって、大使館のなかでの自分の立場は危うくなってきていた。
僕が遊び歩かなかったのは、実のところ、僕が臆病だったからというだけだ。僕は子供の頃からずっと優等生だった。僕はまるで処女みたいなものだった。僕はただ極端な臆病者だったのだ。少しでも道を踏み外すのが怖かった。だから敷かれたレールの上を必死で走ってきたのだ。ばかにされてもしかたがないと思う。だが、うらやまれるのは納得がいかない。僕は遊ぶことができなかった。旧東ベルリンのすさんだ地域で、けばけばしい化粧をした娼婦たちに声をかけられても、それを買う勇気すらなかった。
ある日のこと、家に帰る途中ベルリンの壁に程近い、そんな貧しい地域を通りかかった。教会の廃墟の前で、一人の少女が泣いていた。十五、六歳に見える。ジーパンはは着古されているけれど清潔で、パーカーのフードからこぼれる髪は、明るい金髪だった。僕の足あとに気づいて振り返ったその顔を、どう表現したらいいのだろう。真っ青な目は清らかで憂いをたたえていて、その長いまつげからは今まさに涙のしずくが滴り落ちようとしていた。
僕は思わず声をかけていた。
「どうしたのですか。なにかお助けしましょうか」
彼女は驚いて僕を見つめたが、僕が真摯なのがわかったのだろう、こう答えた。
「助けてください。パパが死んだのに、お葬式をあげるお金がないの。私が言うことを聞かないから、ママは私を殴るの」
「こんなところで泣くのはおやめなさい、人目もあることだし」
「ごめんなさい、あなたはいい人ね。頼りにしていたオーナーに、借金を断られたんです。私は彼のところでもう二年も働いているのに。身体で払えと言って来ました。ねえ、お金を貸していただけませんか。かならずお給料からお返ししますから……」
彼女は涙ぐみながら上目遣いに僕を見た。なんともいえず色っぽかった。
僕は財布にたいした現金を持っていなかったので、時計を外して彼女に渡した。
「これをお金に替えなさい」
彼女は感動してポロポロと涙をこぼしながら、僕の頬にキスをした。
その後、彼女は僕が渡した名刺を頼りに僕のアパートを訪ねてきた。僕たちは頻繁に会うようになった。やがて、このことは同僚たちにも知れ渡るようになった。僕が場末のストリッパーと交際していること、もともと僕を快く思っていなかった連中は、それをあることないことで脚色して大使の耳に入れた。僕が学問をつけ生意気なことをいうようになったことが気に入らなかった上層部はこれをいい機会と僕を免職した。
本当は、このころ僕たちはまだ身体の関係をもっていなかった。彼女とその家族は社会主義下の東ベルリンで貧しくも慎ましく生きていたが、壁崩壊後の資本主義の流入で食べるにも困る状況に陥った。そんな時新しくできたストリップクラブでストリッパーとして働かないかと声をかけられたのである。昼は稽古、夜の舞台とこき使われて、そんななかでも努力が実り二番人気まで上り詰めたが、それでも少ない給料で家族を養うのにはとてつもない苦労があったようだ。
僕が首になったことを伝えた日、僕たちははじめて結ばれた。はじめて見たその日から僕は彼女のことを愛していたのだけれど、その気持ちを抑えこもうとしていた。僕の免職をきいて悲しみに震える彼女の姿をみて、僕ははっきりと自覚したのである。彼女を愛している、と。
僕は困窮した。給料はとめられ、滞在許可の期限も切れようとしていた。そんなとき僕を救ったのは、Aという友人だった。
Aは大学時代の同期で大蔵省に勤務していたが、僕が困り果てているのを人伝てに聞いたらしい。知り合いの新聞社の編集長に頼んで、僕をその新聞社の特派員という形にしてくれた。なんとか滞在許可を延長できたものの、給料は雀の涙であった。今度は彼女が僕を助けてくれた。僕はアパートを引き払い彼女の家に転がり込んだ。僕は彼女と、彼女の母親の住む部屋で、互いの少ない給料を持ちあってそれでも楽しい日々を過ごした。僕はもう学問にも本にも見向きもしなくなった。けれど、いわゆる世俗的なもの、今まで見向きもしなかった、見ないようにしていた世界が、僕の前に広がった。
冬が来た。ある日僕はAから電話をもらった。今、大蔵省の次官に同行しベルリンに来ているという。「君の名誉を回復するチャンスだ」、彼はそう言った。彼女にそのことをいうと小躍りして喜んで、戸棚に仕舞いこんであった僕のスーツに念入りにアイロンをかけて着せてくれた。Aが与えてくれた仕事は次官の通訳と翻訳だった。そして、ロシアへの出張の同行を打診された。まとまったお金が入ったので帰ってくるまでの生活費として、僕は彼女にそれを与えた。彼女の体調が優れないようなので、それが気がかりだった。
ロシアへの出張はすばらしいものだった。なによりも国際政治の舞台に再び立っているということが、僕の心を高揚させた。彼女のことを忘れていたわけではない、けれども、僕は迷い続けていた。日本に帰ってふたたびキャリアを積み重ねることができたなら……
ようやく出張から帰ったその瞬間まで、僕はそんなことを考えていた。けれど、彼女が戸口から飛び出して抱きついてきたその時、そんな迷いは吹き飛んでしまった。彼女とともに生きよう。僕は彼女を愛しているんだ……部屋のテーブルには、編みかけの靴下があった、それも、ミニチュアのような靴下だった。彼女は幸せそうに微笑みながらいった。「どう?」
数日後、僕は次官に呼ばれた。彼は言った。君の能力はすばらしい。ポストを用意するから、日本に帰ってこないかね。
僕はとっさに思った。このチャンスを逃したら、僕はこのまま落ちぶれて、日本に帰ることもできず、異国に散ることになってしまう。その瞬間、僕は、「光栄至極です」と言っていたのだった……
真冬のウンター・デン・リンデンを、僕はさまよい歩いた。僕の肩には厚く雪が積もった。固く凍った路面で、何度も滑り膝を着いた。ようやく家に帰ったとき、僕はまるで死人のような有様でそのまま床に倒れこんでしまった。
それから数日間の記憶はない。高熱を出してうわ言をいっているのを、彼女は必死に看病してくれていたらしい。そんなときAが訪ねてきて、僕が次官に帰国の約束をしたことを告げた。意識を取り戻したとき、僕は彼女の変わり様に驚愕した。Aは彼女を精神的に殺してしまったのだった。彼女は、「なんていうこと、そこまで私を騙していたなんて」と叫び、倒れてしまったのだという。ふたたび目をさましたときには、もう正気を失っていて、僕の名を呼んで罵ったり、髪をかきむしったり、小さな靴下に頬ずりをしてさめざめと泣いたりするばかりだった。
僕のほうの病気はすっかり治った。日本に帰国する際には彼女の母親に、幾ばくかの金を与え、可哀想な彼女の胎内の子供のことも頼んでおいた……
アホかと馬鹿にしていたが、昔の茶人とか、野原や河原、しまいにゃ戦場や山のてっぺんで茶会を開いてたんだよな。
敷物もって、釜もって、茶筅、茶杓をもって、紙コップや軽量プラスチックのカップなんてなかったから、落としたら割る重たい茶碗を持ってさ。
火をおこしてお湯を沸かして、お茶を飲む。
カレー作ったりバーベキューするならとにかく、お茶だけのためにその労力わけわかんねぇ。
と思ったんだが、山でお茶を淹れて飲んだら美味かった。
急須持ってってお湯沸かして飲んだら最高。
山まで出かける必要もない。
深夜の歩道橋でお茶を沸かして、ミルで豆を挽き、ドリップしてみたら、もう飲む前に香りだけでやばかったね。
いつものコーヒーがまるで酒のように気分を高揚させた、住宅街の窓の明かりが、世界遺産かなにかのように思えてならなかった。
西の空が赤く染まり、東の空から一つ二つと星が輝き出す様子をみていると、地球って素晴らしいと思うことさえできた。
野点とかいう野外の茶会って、大名だってはまったんだから、貧しい者にとっても富める者にとっても、単身者にとっても独身者にとっても、気持ちいいことなんだろう。
コーヒーでもお茶でもいいんだけど、お湯を沸かしてカフェインチャージするだけで、人は簡単に幸せを実感できる。
閉店間際のスーパーで、半額の寿司と発泡酒を買って、公園で食べるのもなかなかのもんだ。
就職できないからとか、リストラされたからとか、モテないからとか、そんなことで悩む必要はない。
涼しくなっていい季節だ。
リュックにヤカンとコンロを詰め込んで、ドアを開けて外に出よう。
前よりもずいぶん人間らしくなってる。驚いたな。
こんなに印象変わるもんなんだ
外見についてはこの方向でいいんじゃないか。
あとは話し方とか話題のもっていき方とかだな
眉毛は左右対称になるように書き慣れるまでが難しいけど、試行錯誤して一度自分に合ったデザインを
見つければ楽。
100円ショップには眉毛テンプレートが売っているけど、顔の眉毛の元々の形自体は悪くないので
今みたいに濃く書くだけでいいと思う(まだ書いた眉毛を自然に見せるテクニックを使う段階ではないから)
「眉毛書いたみたい」と女の子に言われたら、「薄すぎるから気になって書いてみたんだけどなかなか上手く行かなくて
」と言えば→眉毛の書き方について女の子の薀蓄を教えてもらえるかもしれない(ただし作業所に通う女の子がメイクテクニック
上手とも思えないのでスルーされるかもしれない)
口角を上に引き結ぶ顔筋トレーニングは口が「ヘ」の形にならないようにするためのトレーニング
左半分(襟が乱れていない側)の眉でいいと思う
左半分(襟が乱れていない側)の表情と最初の画像見比べたら確実に顔面向上してきたと思う
1.前髪をもう少し伸ばす。そして癖毛のセット方法どこかで相談して(私は直毛なのでアドバイスができない)
2.襟にシワが目立つから襟へのアイロンをかけ方をお母さんに教えてもらう(清潔感が大事)
これをクリアーして右半分も左半分のような表情になり、表情が豊かになればとりあえず「フツメン」まで
レベルアップ
翻訳は、村上の作品を組み立てる原理だとさえ言えるかもしれない。
彼の作品は翻訳されているだけでなく、翻訳についてのものだと考えられるのである。
村上的ストーリーにおける至上の愉しみは、とても普通の状況(エレベータに乗っている、スパゲッティを茹でている、シャツをアイロンがけしている、など)が
突然非日常(不思議な電話を受ける、魔法の井戸に落ちる、羊男と会話する、など)へ変貌するのを見ることだ。
言い換えるならそれは、登場人物が存在論的に盤石な立場から完全な異世界へと投げ込まれ、
たどたどしくも二つの世界の間をとりもつことを余儀なくされる瞬間だ。
村上作品の登場人物はある意味でいつも、根底から異なるいくつかの世界のあいだで翻訳をしている。
言い換えれば、彼の全作品は翻訳の作業を劇に仕立てたものなのだ。
村上の車の後部座席に戻ろう。
多くの企業の本社や、巨大な船のかたちをしたラブホテルを通り越していく。
およそ1時間後、風景は急峻な山道になり、私たちは村上の家に到着した。
木の生い茂る丘の上、山と海の間にある、こぎれいだが平凡な外観の二階建てだ。
靴をスリッパに履き替え、村上に連れられて彼のオフィスへと入る。
自らデザインした小部屋であり、『1Q84』のほとんどはここで書かれた。
同時にそこは彼の膨大なレコードコレクションの住処でもある。
(10000枚くらいだろうが、怖くて実際に数えてはいない、と彼は言う)
オフィスの幅広い壁二つは、床から天井までアルバムで覆いつくされている。
山々に向けて突き出している窓の下、部屋の端には巨大なステレオスピーカーが君臨している。
室内のもう一つの棚には村上の人生と作品にまつわる思い出の品々がある。
彼が『海辺のカフカ』で殺人者として想像したジョニー・ウォーカーを描いたマグカップ。
はじめてマラソンを完走したときの、くたくたの彼を写した写真(1991年ニューヨーク市にて、3時間31分27秒)。
壁にはレイモンド・カーヴァーの写真、グレン・グードのポスター、ジャズの巨匠の肖像がいくつか。
村上がもっとも好きなミュージシャン、テノールサキソフォンのスタン・ゲッツの写真もある。
私はレコードをかけてもらえないかと頼んでみた。
『1Q84』の始まりを告げ、その物語のなかで繰り返し鳴り響く曲である。
それは速く、アップビートで、劇的──まるで普通の曲が5つ、ペンキの缶のなかで決闘しているかのようだ。
同時にそれは熱狂し、ねちねちとした、暴力的な『1Q84』の冒険の主題曲として、もっともふさわしい。
村上はその奇妙さを買って「シンフォニエッタ」を選んだという。
「オーケストラの後ろにトランペットが15人いた。変だった。すごく変だった……その奇妙さがこの本によく合う。この物語にこれ以上よく合う音楽は思いつかない」
彼は何度も何度もその曲を聴いて、そして開幕のシーンを書いたという。
「シンフォニエッタを選んだのはまったく人気がない音楽だったからだった。でも本を出版してから、日本では人気が出た。小澤征爾さんに感謝されたよ。彼のレコードがよく売れたからね」
「シンフォニエッタ」が終わると、私は最初に買ったレコードは何か覚えているかと尋ねてみた。
彼は立ち上がり、棚をごそごそと探して、一枚のレコードを手渡してくれた。
「The Many Sides of Gene Pitney」。
カバーを飾るのは、華やかな姿の Pitney。60年代前半のアメリカのクルーナー歌手である。はまだらのアスコットタイに艶のある赤いジャケットを着て、髪型は崩れ落ちる波を凍らせたようにみえる。
村上は13歳の時、このレコードを神戸で買ったという(当初のものは擦り切れたため、何十年か前に買い直している)。
針を下ろすと、流れ出す Pitney の最初のヒット曲「Town Without Pity」。
劇的な、ホルンの即興とともに Piteny の歌声が黙示録的な叫びを歌う。
「若者にはつらいことがある、たくさんある/分かってくれる人がほしい/助けてくれよ/土と石でできたこの星が壊れるまえに」
終わると村上は針を上げ、「バカな歌だ」と言った。
『1Q84』を書いているあいだ、『1984年』を読み直したかと尋ねてみた。
彼は読み直したといい、それは退屈だったという。
(これが悪い評価だとは限らない。野球のどこが好きかと尋ねた際、彼は「退屈だから」と答えた。)
「始まりはいつも暗く、雨で、人々が不幸せそうにしている。コルマック・マッカーシーの『The Road』は好きだし、よく書けているけれど、でも退屈だ。暗いし、人間が人間を食べるし……ジョージ・オーウェルの『1984年』は近未来小説だけど、この本は近過去小説だ」
『1Q84』について「我々は同じ年を反対側から見ている。近過去なら退屈じゃない」
「オーウェルと僕はシステムについて同じ感じを受けていると思う」と村上は言う。
「ジョージ・オーウェルは半分ジャーナリストで半分小説家だ。僕は100パーセント小説家だ……メッセージを書くことはない。よい物語を書きたい。自分は政治好きな人間だと思うけれど、政治的メッセージを誰かに向けることはない。」
とはいえ村上はここ数年、彼にしては珍しく、政治的メッセージを大々的に言明している。
2009年、批判のなか彼はイスラエルでエルサレム賞を受賞しに行き、そこでイスラエルとパレスチナについて語った。
この夏、彼はバルセロナでの受賞式典の機会を利用して日本の原子力行政を批判した。
一度目はまったくの被害者としてだったが。
バルセロナの演説について尋ねると、彼はパーセンテージを少し修正した。
「市民として言いたいことはあるし、求められればはっきりと言う。あのときまで原発について明確に反対する人はいなかった。だから自分がやるべきだと思った。自分にはその責任がある」
演説に対する日本の反応は概ね好意的だったという。
人々は津波の恐怖が改革への媒介となってくれることを、彼と同じように、期待していたのだ、と。
「これは日本にとって転機になると、日本人のほとんどが考えていると思う」
「悪夢だけれど、変化のチャンスでもある。1945年以来、僕たちは豊かになるために働いてきた。けれどそれはもう続かない。価値観を変えなければならない。どうやって幸せになるかを考えなければならない。お金でもなく、効率でもなく、それは人格と目的だ。いま言いたいことは1968年から僕がずっと言っていることなんだけれども、システムを変えなければならないということ。今は、僕たちがまた理想主義者になるべきときなんだと思っている」
その理想主義はどんなものか、アメリカ合衆国をモデルケースとして見ているのか、と尋ねた。
「いま、僕たちにはモデルケースがない。モデルケースを作り上げなければならないんだ」
地下鉄サリン事件、阪神大震災、そして今回の津波……現代日本の数々の災害は、驚くほどにまで村上的だ。
地下での暴力的な衝動、深く隠されたトラウマが大量破壊を引き起こすものとして現れ、地上の日常を襲う。
彼は深さのメタファーを多用することで知られる。
登場人物たちはカラの井戸に降りていき、東京の地下トンネルに生きる闇の生き物に出会う。
(彼は別のインタビューで、井戸のイメージをあまりに何度も使って恥ずかしくなったため、8作目以降、できるだけ使わないように心がけたと話している)。
毎日机に向かい、集中力に満たされたトランス状態の中で、村上は村上的キャラクターになる。
それは、自らの無意識の洞窟たる創造性を探検し、見つけたものを忠実に報告する、普通の人物である。
「僕は東京に住んでいる。ニューヨークやロサンジェルスやロンドンやパリのように文明的といっていい世界だ。
魔法じみた状況、魔法じみた物事に出会いたければ、自分の中に深く潜るしかない。だから僕はそうしている。
魔法的リアリズムとも呼ばれるけれども、自分の魂の深みのなかでは、それは単なるリアリズムだ。魔法ではなく。
書くときには、非常に自然で、論理的で、リアリスティックで、合理的に感じる。」
執筆しないとき、自分はどこまでも普通の人だと村上は強調する。
彼の創造性は「ブラックボックス」であり、意識的にアクセスすることはできないという。
彼はシャイであり、メディアにあまり登場したがらない。道端で読者から握手を求められた時にはいつも驚く。
人が話すのを聞くほうが好みだと彼は言う。
実際に、Studs Terkel の日本版のようなものとして彼は知られている。
1995年サリンガス事件があったとき、村上は被害者65人と被疑者らを1年かけてインタビューし、
その結果を分厚い2冊組の本として出版した。
のちにそれは『Underground』として、大幅な簡略化をしたうえで英語に翻訳された。
この会話が終わったとき、村上はランニングに誘ってくれた。(「僕が書くことについて知っていることのほとんどは、毎日のランニングを通して学んだ」と彼は書いている)
身軽で、安定していて、実践的だ。
たがいの走り幅がつかめて1、2分たつと、村上は自分が単に「丘」と呼ぶところに行ってみないかと尋ねてきた。
それは試合の申し込みか警告のように聞こえた。
そんな言い方をした理由はすぐに分かった。
というのもまもなく「丘」を登り始めることになったからだ。
もはや走るというよりは、急な坂にさしかかって足をとられているというほうが近く、
地面が傾いたランニングマシーンのように感じられた。
道の終わりに向けて一足踏み込むと同時に私は村上に向けて「大きい丘でしたね」と言った。
そこで彼は指をさして、先にジグザグ道が続いており、私たちはまだほんのひと曲がり目を終えたにすぎないということを教えてくれた。しばらくして、二人の息が切れ切れになってくると、このジグザグ道には終わりがないのではないかと心配になってきた。
上へ、上へ、上へ。
しかし、やっとのことで、私たちは頂上に着いた。
海ははるか下に見えた。
それは秘められた巨大な水世界、日本とアメリカのあいだの、人が住まない世界だ。
その日見たかぎり、水面は静かだった。
そして私たちは下りを走り始めた。村上は村を通る道に誘ってくれた。
大通りのサーフショップ、漁師の家がならぶ界隈を通り過ぎた(彼はそのあたりの庭に古くからの「漁師神社」があるのを指差して教えてくれた)。
空気は湿っていて塩のにおいがした。
私たちは並んで浜まで走った。
村上がかつて名もない翻訳者だったころセントラルパークでジョギングをともにしたジョン・アーヴィングについて話をした。
セミについても話をした。
何年も土のなかで生き、地表にぽっと出て、わめき、最後の数ヶ月を木の上で過ごすのは、どんなに変だろうかと。
走り終えて家にもどると、私は村上の来客用バスルームで着替えた。階下で彼を待つ間、食堂のエアコンの風を受けて立ち、大きな窓からハーブと低い木のある小さな裏庭を見ていた。
最初それは鳥 – おそらくはその飛び方からして変な毛をしたハチドリのようにみえた。
が、すぐに2羽の鳥がくっついているようにみえだした。
飛ぶというよりはふらついているといった感じで、体の一部がそこかしこから垂れ下がっているようだった。
最終的に、それは大きな黒い蝶だと私は結論づけた。
見たことがないほど変な蝶だった。
浮かびながら、異星の魚のようにひらひらしつづけるその姿に幻惑させられ、
私はそれを既知の何かに分類したくなりかけたが、成功することはなかった。
それはひらひらと、およそ村上と私が走った道を引き返す形で、山から海に向けて飛び去った。
蝶が去ってまもなく、村上は階段を降りてきて、食堂のテーブルに静かに腰を下ろした。
見たこともない奇妙な蝶に遭遇したことを伝えると、彼は自分のボトルから水を飲み、私を見上げて言った。
「日本には色々な蝶がいる。蝶に会うのは変なことじゃない」
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
そもそもスーツはオーダーメイドもけっこう安くあるからメリットがあまりない
普段使いの洋服はサイズをつめることもできなければオーダーメイドもない。終わってる
ところでオレはろくにアイロンもせずにアイロンかけ必要なシャツを好んで着るが、
おシャレだとほめられる事がけっこうあるぞ
アイロンがけなんかろくにしないのにアイロンがけの必要なシャツを買ってクリーニングにも出さないとか
Tシャツなのに水洗い不可の買ってきちゃってやっぱりクリーニングに出さないとか
信じられないような事がよくある
そんな大げさな話じゃないんだよ
服の汚れ、しわ、ほこりは落としてから着るものだって事が体験として染みついてるかどうかってだけの話
だって、買った後、手入れしながら着る事を考えての発言だし
(ホームクリーニング可能なアクリルニットだって、平干しの必要があるから、充分な物干しスペースが確保できないと本当に洗濯できないんだけど)
手入れが簡単な服を選んで買うというのも、ある程度経験がないとできない事なんだよ
女の服が、カットソーとか化繊のふわっとしたブラウスとか、洗って干せばいいような手入れが楽なものが多いのも
女は手入れの手間まで考えて服を買う習慣がついてるからなんだと思う
反対に男で薄汚いのが多いのは、手入れの事を考えずに買って、手入れできないまま着てるってケースがままあるからだよ
アイロンがけなんかろくにしないのにアイロンがけの必要なシャツを買ってクリーニングにも出さないとか
Tシャツなのに水洗い不可の買ってきちゃってやっぱりクリーニングに出さないとか
信じられないような事がよくある
それと本筋と逸れるけど、
>素材や洗濯表示を確認して買う人は少数派だし、
素材や洗濯表示は、試着室なんかで値札と一緒にこっそりチェックするのが普通なので
店員の立場から見てチェックしてないように見えても、本当にチェックしてないとは限らないよ
それとも、試着する客がほとんどいないような売り場なのかな
清潔感はブローを丁寧にするだけで出せる
つむじから前に向かって髪を持って来るようにして乾かしてごらん
クセ強くても丁寧に撫でつけてあれば印象は悪くないと思う
「家事を分担して共稼ぎならいいけど、俺が専業で家事をするのは嫌だ。お前は埃が積もってるとうるさいし。寝具を干せだの、服にアイロンかけろだの、どうでもいいことをやらせようとする。そんな生活は出来ない」そうだ。
これは男女逆にしてもそうかな、と思うよ。私は男性だけど。うるさく言われると、やる気なくしますよね。
という訳で嫁がしてる家事を褒めまくってる。
「ありがとう嫁さん!ご飯、鳥肌が立つくらい上手いよ!っていうか立ってるよ」
「いや嫁さんって綺麗好きだよね。。。自分なんて掃除、1年に一回、友達が遊びにくる時くらいだったよ」とか
「今日、布団ふかふかですね?」とか言って褒め称えてる、
彼は東京で自営していたが、昨今の不況と持病の悪化で撤退をよぎなくされ、今、実家に身を寄せている。お父さんの年金にすがって、二人で暮らしている。
実家のほうで仕事を探しているのだが、今までの仕事のコネが使えない上、持病のため時々突発的に休む羽目になるというところがネックで見つからない。もちろん、年齢的に仕事を回してくれるような友人一人いない、という状態なのは、本人の社交性のなさを表していると思う。
私は現在年収が300万円ある。多くはないが、2人で慎ましく暮らしていくのなら問題ない。持ち家がある。
それで「家事をやってくれるんなら、おこずかいは回すから、それで2人で暮らさないか?」と何度も言っているのだけれど、断られている。
いわく「家事を分担して共稼ぎならいいけど、俺が専業で家事をするのは嫌だ。お前は埃が積もってるとうるさいし。寝具を干せだの、服にアイロンかけろだの、どうでもいいことをやらせようとする。そんな生活は出来ない」そうだ。
いや、彼氏に仕事があるならいいよ。でも、無いんだよ。とりあえず、単発の仕事でもしたらと言えば、女にはあるだろうが、男にそういう仕事はないんだという。ホント?
ありがとう。反対の立場から辛さを知ることが出来て、自分の心が救われた。
わかってる。
私が笑って楽しそうにご飯を作ってアイロンかけて、家をぴかぴかにして、町内会の仕事して、親の世話して
元気だったら彼は救われる。
でも、それが出来ないときに、私は誰にこの悲しい気持ちを話せばいいんだろう?
もう一人の自分が欲しい。
私が話すことをただ聞いてくれる。
ただ聞いてくれたらいい。
私は泣きながら取り留めないアホな愚痴を沢山こぼして
ただ「ふーん」とか「うーん」とか言ってくれ。