はてなキーワード: tvドラマとは
90年代後半からオタク論が学術的、サブカル論的に語られ始め、2000年過ぎあたりを境に徐々に下火になっていった。ネットの個人サイトにおいてもオタク史やオタク論をまとめたものはいくつも見つかるが、その多くも2005年前後で語ることをやめている(その意味では『オタク論の死について』(エフヤマダ, 2014)はオタク論の現状に対する貴重な指摘である)。
本稿は真のオタクとは何であるかとか、データベース消費や心理学がどうこうといった話には一切言及しない。本稿の目的は誰がオタクと呼ばれ、誰がオタクを自称したのか、その変遷を整理することである。
第一回コミケは1975年12月に開催されたが、この時点で彼らはアニメファンやマニアと自称しており、オタクではなかった。もっとも二人称としての「おたく」はそれ以前のSF大会から広く使われており、そうした状況から一部で彼らを「おたく」と揶揄していたという指摘は存在する(岡田斗司夫, "オタク学入門", 1996)。とはいえ、彼らを「おたく」と明文化したのは1983年、中森明夫によるものという点で見解は一致していると言っていいだろう。
「運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴ら」「栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタ」「女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足」「クラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴ら」(中森明夫, "『おたく』の研究(1)", 漫画ブリッコ(1983))
中森はこのように「おたく」を形容する。この時「おたく」に知識量や購買力などは一切要求されておらず、現代で言えば非モテのコミュ障ブサイクへの侮蔑の言葉であった。この連載は批判意見の殺到により早々に打ち切られるが、一方、オタク達は自虐を込めて「おたく」を自認するようになっていく。
ほぼオタク界隈の内部でのみ使われてきた「おたく」は、1989年、宮崎勤の連続幼女殺人事件で一気に世間に知られることとなる。宮崎は6000本のSF、ホラー、アニメを録画したビデオテープを所有しており、この点からマスコミは「宮崎のような非コミュでインドアなブサイク」の代名詞として「おたく」を用い、バッシングを展開した。
「オタク、かっこ悪い?」
そういう問い自体出なかった
「オタクは格好の悪い生き物だ」
侮蔑され諦観し
故に侮蔑され故に諦観し
数珠つなぎの輪がぐるぐると回っていた気がする
(中略)
おい あれ
プッ
ぎゃはははは
オイロリコン部ーッ
ぎゃははははははは
世間は宮崎のような人物をオタクと呼んだ。宮崎のような気持ちの悪い見た目をしているならそれは宮崎であり、あるいはアニメが好きならロリコンであり性犯罪者である。全て一括りに扱われた。
当時の高校生オタクにこうした罵声に反論する公の場など当然無く、家族からも白い目で見られ、彼らはひたすら耐えるしか無かった。その意味で、当時彼らにとってオタクであるという自称は「同じ迫害に耐える同志」という意味だったと言ってもいいだろう。
岡田は現代でいうところの作画厨と考察厨を兼ね備え、またアニメに留まらない広範な知識、教養と分析力を有する者を「おたく」と呼んだ。世間からの白眼視に耐えてなお「おたく」であった連中であり、加えて当時は今よりはるかに娯楽の少ない時代であり、情報収集と理論武装に傾倒した者が少なくなかったことに不思議はない。
80年代後半からパソコン通信が、そして95年以降でインターネットが徐々に一般家庭へと普及を始める。同人誌即売会と異なり時間的空間的制限無しに、そして同人誌制作に比べてはるかに手軽かつ安価に意見交換できる場は、不特定多数のオタク間の相互交流を可能にし、各自の知識差が広範に意識され始める。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明, 1995)が大ヒットを記録する。これにより宮崎勤を知らない世代である中高校生を中心にオタク人口は大きく増加し、終盤の難解な展開の考察や解釈を求めてネットが活用された。ネット黎明期、オタクの集う場所はごく限られたこともあり、高度な知識と分析力を備えたオタクの存在はより多くのオタクの目に触れることとなり、各オタクの「濃さ」が相互に自覚されていった。翻って「自分はあれほどの知識を有しないからオタクではない」といった謙遜も生まれ、こうしてネットとオタク人口の拡大によってオタクと呼ばれる者とオタクを自称する者のズレは拡大していくことになる。
エヴァ以降、『カードキャプターさくら』(浅香守生, 1999)のようなロリコンアニメから『serial experiments lain』(中村隆太郎, 1998)のようなカルトアニメ、あるいは『カウボーイビバップ』(渡辺信一郎, 1998)など幅広いジャンルで今なお名作とされるアニメが相次いでTV放送され、無垢な若者のオタク化を助長し続けた。
他方、オタクをPCに向かわせた要素として95年以降のエロゲにおけるカンブリア爆発的な状況の影響は否定できないだろう。『雫』(Leaf, 1994)に始まるビジュアルノベルの勃興と「泣きゲー」の流行など、現代エロゲのベースはこの時代まででほぼすべて確立したと言っていい。
コミュニケーションツールとして、コンテンツ再生機としてPCはオタクの必需品と化していった。これと同期して、それまで家電製品の街であった秋葉原は90年頃からPCパーツの街へと変化し、来店するオタク率の高さからトレーディングカードやフィギュア専門店が相次いで秋葉原に出店、秋葉原はアキバと化していく(森川嘉一郎, "趣都の誕生 萌える都市アキハバラ", 2008)。
そして2005年、TVドラマ『電車男』が視聴率20%を超えるヒットを記録する。オタクには「アキバ系」という新たな名前が与えられ、アキバは一般観光客がオタクと呼ばれる気持ちの悪い珍獣を生で見ることの出来る動物園として扱われた。
珍獣としての要素については、モーニング娘。に端を発するアイドルオタクによって発展したオタ芸にも言及してしかるべきだろう。視覚的にわかりやすい「気持ち悪さ」を有したそれらの振る舞いは、オタ芸という名前を含め、何をオタクと呼ぶかにおいて一定の影響力を有したと考えられる。
2006年に登場したニコニコ動画は、2007年発売のVOCALOIDの登場などを通じて非アングラユーザ、中高校生といった若年層のユーザを多く取り込み、違法合法問わず大量のアニメやゲームといったオタク系コンテンツを抱え込んでいく。
アニメは放送時間が限られ、視聴時間をあわせて見るか、わざわざ録画予約しなければならない。ゲームも安くない金額を支払ってプレイする必要があり、多くの場合プレイ時間は数十時間以上を必要とする。これに対し、動画サイトに投稿された動画に必要な手間はクリックするのみである。オタク系コンテンツの視聴にかかるコストはかつてと比べ著しく低下した。
またアフィブログの影響も否定できまい。2chのログをまとめて整形し、見やすく要約する形で作られたゲーム系、アニメ系アフィブログは人気を博し、その読者は当のアニメを実際に見たことがなくともその内容を大雑把に把握し、売上情報やスキャンダルを把握する。その情報はあくまでアフィブログに書かれている内容に留まるが、彼らが一定のオタク的知識を有していることはまぎれもない事実である。
こうした層はアニメやマンガを多少知ってはいるが、深く傾倒しているわけではない。オタク系コンテンツの情報収集に必要なコストが高かった時代、身だしなみ等、オタク趣味以外にコストをかける余裕は無くて当然と言えたが、しかしコストが下がるにつれてオタク趣味以外へ投資をすることは普通になり、まともな容姿で一般的話題も把握した「オタク的な知識を有する何か」が徐々に増え始めることになる。
「非モテ」という単語が使われ始めるのは2006年以降であるとのことだが(松谷創一郎, "〈オタク問題〉の四半世紀", どこか〈問題化〉される若者たち(2008))、中森がかつてオタクと呼んだ人々は、こうして「おたく」という乱暴な括りから非モテ、コミュ障等と細分化し始める。
誰をオタクと呼び、あるいは誰がオタクと自称するかは、各々が自分の周囲にいる自分がオタクだと思った人を参考に決定するのだとすれば、ヤバい容姿のいかにも濃いオタクがかつてはどのサークルや同好会にもいた(黎明期は全員そうだったと言ってもいいだろう)時代と比べ、2010年に近づくにつれてそうした人物は減少し、あるいは絶滅していったと言え、こうして当人の周辺環境によって誰をオタクと呼び、誰がオタクと自称するかの個人差が拡大していったと考えられる(SNSの発達により、小さく仲の良いコミュニティが大量に分散して存在するようになった、という点もあるだろう)。
一方で2007年以降、AKB48が握手券商法を本格化させたことにも言及しておきたい。ファンにとって投資金額は熱意と情熱を表すバロメータとして機能した。彼らは自分がどれだけ投資したのかを示し、それによって同じファンから一目置かれるようになる。かつてネットによってオタクの濃度差が知識差として可視化されたと述べたが、投資金額の多寡としてもそれは可視化されるようになっていった、と言ってもいいだろう。
細田守監督の映画作品は『時をかける少女』(2006)を筆頭に非ジブリアニメながら広く世間に受け入れられ、『魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之, 2011)、あるいは『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(長井龍雪, 2011)のヒットはアニメを見るというオタク的行為に手を出す敷居を下げ、アニメを見ることは異常ではないという空気を作っていく。
2011年、アエルラ、アイムシングルの2つのオタク向け婚活サービスが開始される。このオタクの定義を見てみると、アエルラは「一つの趣味を愛し、共有したいという気持ちがあれば、それはオタクである」と定義し、アイムシングルでは明確な定義こそないが、「マンガ・アニメ・ゲーム好き」をパーティ参加の必須条件としている。
筆者が数回体験した範囲に限られるが、実際にこうしたパーティに行ってみるとかつて中森が嘲笑したような「おたく」を見ることはない。いささか一方的な会話を展開する男性は多少いるが、慣れない場に緊張したことの影響も少なからずあるだろう。一方、岡田がオタクと呼んだような広範な知識教養を有するオタクを見ることもまたほとんど無かった。面白いことに30代の参加者でも90年代後半のアニメの話題に反応する例は少なく、良好な反応の得られるアニメは概ね2010年以降であった。こうした点から彼らのオタク的趣味の範囲はここ数年に限定されており、もともとオタク的であったのかもしれないが、オタク的趣味を実際に楽しむようになったのは最近であると考えられ、10代の若者に限らず、幅広い年代でオタクと自称、あるいはそうと意識する人口が増えているという認識を抱いた次第である。
他方、携帯ゲームの課金要素の充実や2010年以降のアイドルアニメの興隆などから、グッズその他のオタク的趣味への投資金額の多寡がオタクとしての熱意の度合いを示すバロメータとして意識されるようになっていく。2015年、TVニュースにて「リア充オタク」が特集され、その「リア充オタク」のオタク趣味への投資は年間2万5千円であると報じられた際、その金額の少なさへの揶揄が主にTwitterで取り沙汰された点は、その意味で興味深いものがある。
アイドルオタクとアニメオタクを絡めるなら声優のアイドル化への言及は本来必要不可欠だし、女性オタクへの言及が明らかに足りていない、ゲームオタクについてなど全体的に漏れが多い点は自覚している。申し訳ない。
また整理の都合上、いささか恣意的に流れを作った部分があることも否定できない。例えばネットの普及+エヴァによるオタク人口の増加→知識格差の可視化、という流れは自分でも「本当にそんな単純な話か?」という疑問を抱いているが、ざっくりした傾向というレベルではまぁ嘘ではないだろうと考え記載した次第である。
ただ、ある人が誰かをオタクと呼ぶ時、あるいはある人が自らをオタクと称する時、その内容から当人がどういう時代背景を前提としてきたのか、あるいはどういうコミュニティに所属してきたかを推測できることは、会話の食い違いやすれ違いを修正する手助けになると筆者は考えている。
★少し前に翻訳調の女言葉は女性差別、って話がホッテントってたみたいね。
でも私としてはそっちよりもタイトルの繰り返しになっちゃうけど、むしろ女性言葉の消失過程を知りたいわ。
と思ってちょっとググったら文献あるのね。
★10年程前の調査だけど、30代前半より若いと概ね女言葉を話さない、らしいわね。
TVドラマでは登場人物の年齢によらず女言葉が多用されている、そうだけど今でもそうなの?
★こちらでは翻訳調の女言葉とは反対に、日本語の小説を英訳すると男女の口調の区別が喪失されることを指摘してるわ。
★先の文献に「アニメやマンガでは、女言葉は子供でも強調され使用される傾向があり」との指摘があるわね。
女児向けアニメに特に顕著じゃないかしら。これと娘に乱暴な言葉遣いさせたくない母親の教育が合わさると
今の時代でも女言葉を話す女児が出来上がると思うの。でも同年代の女児とコミュニケーションするうちに
「そんな言葉遣いは変だよ」と言われて、結局は女言葉を話さなくなっちゃうんじゃないかしら?
★音声を伴う映画やドラマやアニメより漫画が、画像情報を伴う漫画より小説が、登場人物の書き分けに便利な記号として
★同じ漫画でも当の若い女性が読む少女漫画や女性向け漫画と、女性との接触が少ないであろう男性が読む萌え系漫画やエロ漫画では
現実の若い女性の話言葉の登場人物への反映、女言葉の廃れ具合が違ってくる気がするわ。
先の文献に「男性は女言葉を好ましいものと捉えている」とあったから、現実をの違いをわかったうえで敢えて登場人物に
★とは言え、女性が男性に責められてるシーンで「堪忍してぇ」とか言い出したら流石に萎えちゃうと思うの。
そこは「ダメ、許してぇ」ぐらいにしないと。語尾の「かしら」もドラえもんを想起させて萎え要素ね。
★最後に、女言葉が消失した言葉遣いを取り入れたエロ漫画で印象的だった作品をあげておくわ。
土居坂崎「壁越しに見てるだけ」 コミックメガストア 2006年9月号 - コアマガジン
もう9年前の作品になるのね。
望むと望まざると関わらず、権威を持つということは、そういうことだ。
今回は映画関連。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
「誰がどう見ても駄作」の批評への信頼度は高いが、そうじゃないときは個人の限界をモロに露呈させているからさ。
例えば、調子に乗って無意味な続編を作った映画として、私は「トワイライト・サーガ」系列をよく挙げるのだが……。
おっと、勘違いするなよ。メインターゲット層にのみ視点を絞っていえば、「トワイライト」はその役目を間違いなく果たしている。
ただ、分不相応に流行り、調子に乗って無駄な続編を作ったのがダメというだけさ。
特に、そのシリーズの中でも「エクリプス」は、蛇足と駄作の境界で反復横とびしているような出来でね。
シリーズも板についてきただろうに未だ大根役者、デフォルト顔がお口ポカーンヒロインのベラ。
少年雑誌のラブコメ漫画も失笑するレベルの、「ニュームーン」での不自然な三角関係を無理やり継続。
明らかに吸血鬼エドワードのほうになびいているのに、ベラが狼男ジェイコブにキスを要求したときは、新喜劇ばりのズッコケをしてしまったよ。
シナリオも、シリーズ全体から考えて不必要だと断言していい内容の薄さ。
唯一褒めたいアクションシーンすら、カップラーメンができるのすら待ってくれない。
75点だ。
「トワイライト」、「ニュームーン」よりも高い点数をつけてしまったんだ。
しかも、あのサイトではかなりいい方だということも、信頼を損なうには十分な理由だね。
最終作で、無駄にパート1、2に引き伸ばした「ブレイキング・ドーン」の批評?
ないんだな、これが。
あと、これは私にとっての例で、他にも明らかに変な点数をつけて批評をしているから、試しに探ってみるといい。
とはいえ、これは超映画批評に権威なんてないという話なだけで、そもそも個人の感想なんてアテにならないものさ。
もちろん誰にだっていえるが、大事なのは君が実際に観て感じた体験、それこそが真実なんだ。故に、己自身という「個」に勝る評論家は存在しない。
批評がなければ映画が観れない、或いは批評を読んだだけで映画を観た気になるような輩でなければの話だが。
まあ、色々けなしたが、酷い低得点のときは割と信頼できると思うので、あのサイトは話半分で読むことをオススメするよ。
その二択だけ?……じゃあ、スーパーマンで。
バットマンはカッコイイかもしれないが、私からすればあれはコウモリのコスプレしたおっさんなので。申し訳ないが。
私がそう思うのは、やはり数十年前のTVドラマの影響が強いね(OPでひたすらバッマーンっていうやつだ)。
ファンにとっても、バットマンを世間に知らしめたという意味で功績は評価するが、いかんせんコメディ色の強さが今のダークな世界観を好む層には合わない。
映画でバットマンが、ボンバーマンのように爆弾を持って走るシーンや、サメを撃退するシーンはいま見ても面白いが、滑稽すぎるともいえる。
残念だが、いまのバットマンに望まれていないんだ、そういうのは。
私だって、好きなバットマンの映画を挙げるなら「マスク・オブ・ファンタズム」を挙げるしな。
とはいえ、アニメイテッドシリーズのとあるエピソードで、TVドラマ版バットマンの俳優が声優で参加したこともあるし、やはりTVドラマ版を無下に扱っちゃダメだとも思うんだ。
くれぐれも、リスペクトを忘れないことだよ。
「ダークナイト」の吹き替えを観た時、声優がちゃんとクリスチャン・ベイルのバットマン喋りをマネしていて吹き出しそうになったんだが、つまりそういうことだ。
・やさしいセカイのつくりかた(6) 竹葉 久美子
あんまり面白いと思ってなかったんだけど、惰性で最後まで買ってしまった。
最後は、よくある登場人物たちの未来の姿で、順当?なの?読モの女の子が行きつくところが無理やり過ぎない?
あちこちで強引さが引っかかる。作画が楽しめる作品でもないかな。。
・逢沢りく(上)(下) ほしよりこ
ほしよりこは読んだことがなかったので、まあ読んでみても良いかと思って購入。
狙ってるところはわかるんだけど、空ぶってる気がした。
りくの母親の描き方に不自然さが強くて入って行きにくかった。ファッションとしての自由さを装った不自由な人というのは、実際に居るのかもしれないけどこの描き方は説得力が薄い。そこに説得力がないせいでりくのキャラがボヤけているというか引きずられている。
そもそも狙っているところが古くない?昭和のTVドラマみたいな。。もちろん見せ方で今でも通用するだろうけど、これは失敗しているように見える。
3巻まで買って、やめようと思ったのになんとなく 4巻を買ってしまった。
手垢のついた設定のラブコメを時代にマッチした表現で面白く見せる手法を確立してきたのは、ラブコメを描き倒してきた少女漫画業界の強みかと。安定感のある面白さ。
・ホクサイと飯 鈴木 小波
気になっていた作家だったので、とりあえず一番読まれているであろう作品を購入してみた。
話のテンポやリズム、キャラの味付け、作画、どれも自分には合わないけど、ひどくつまらないかというとそういうわけでもない。
「なんだそりゃ」って話だけど、そういう作品はたまにある気がする。表現の手法は好きではないものの、表現しようとしている空気というか、空間がわりと好きなんだと思う。
ジャンルは食べ物系に見せかけた日常系SFで、日常系SFは空気感、空間感、(つまり世界観?)が重要なんだろうけど、好き嫌いはあるものの、この作品はなんらかの空気/空間を作ることができているのではないかと。
・紅い実はじけた 2 高橋 那津子
1巻を読んで、あまり面白くなかったんだけど、もうワントライということで 2巻を購入。
やっぱり面白くない。昔ながらの物語を昔ながらの手法で描いていて古臭さ MAX。
・つうがくろ : 1 かがみふみを
いつも通りのかがみふみを。
http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20150413/p4
の記事のブコメで「TVドラマはなんで円盤の売り上げ気にしないで続けられてるんだろ」というのがあった。
TVドラマは、テレビ局が制作していて、テレビ局は広告収入で利益を回収している。
アニメは、複数の企業がお金を出し合って製作委員会を作りアニメを制作し、テレビ局に電波使用料を払ってテレビで放送し、円盤の売り上げなどで利益を回収している。
もちろん、アニメの中にもテレビ局が制作しているものもある。その場合でも、視聴率より、円盤などの売り上げを見越して制作されている番組も多い。
詳しいことは僕もわからないので、詳しい人がいたら誰か教えてください。
・旦那には愛されていたが旦那のまわりの人間からは「何あいつ」視されていて
・自費出版うんぬんも、旦那をしのぶひとたち(おおぜい)から批判的に見られている
・TVドラマの原作になるってんで記者会見までセッティングされ
で、一人称で作品を引っ張ってきている男性(=もともとは未亡人に好意的だった)が
けっ。
と思う、というところまで進んできているんですが
アレか、これはゼロ田せんせいとかが登場してくるんですよね?
ってか「うさんくさい役どころ」を一身にになっている、出版社のおっさんがゼロ田せんせいなん?
みたいな興味でけっこう楽しく読めるからみんなも注目するといと思うよ。
(タイトル記述をわかりやすくするため【女性編】としましたが、あくまで稿者の体験記であるため【男性編】は存在しません)
一か月前に浮気らしきものをはじめ、それから自分でも思ってもみなかったような様々な心境の変化がありました。
特に共感も求めませんが、浮気や二股に嫌悪感のある方は読み流してください。
<スペック>
【私のスペック】20代半ば、女性。関西の大学院を出て都内で専門職。
外見は普通。服装や化粧などはまぁ地味なほう。WithとかMOREみたいな感じ。
浮気はこれまでしたこともされたこともなく、ごく普通の男女交際をしてきたと思う。
交際経験5人。元々は恋愛に時間を割くタイプではなく、ドライだと周りには言われてきた。
【彼氏(本命)のスペック】同じく20代半ばで会社員。大学のサークルがきっかけで出会い、交際二年。
仕事で月の半分以上は海外でほぼ遠距離。誠実かつ献身的な性格。
【浮気相手(以下"M"とします)のスペック】職場の上司(2つ年上)。
同じ職種だがとても有能で、私は入社当初から漠然と憧れていた。
そのため仕事や周りの人との接し方についての悩みをよく相談したりして最初は私が一方的に(上司として)慕っていた。
以下、浮気に至る経緯はありがちなんで以下ちょっとはしょって書きます。
<経緯>
・二か月前
Mから告白される。半年程前から私とMで2人で会う機会が増えていて、「ひょっとしたら異性として好かれているかもしれない…」と思いはじめていたのでそんなに驚かなかった。
しかしこの時点では向こうは彼女であるSさんと別れていなかったし、私に彼氏がいることも知った上で告白してきた。
そのことに違和感を感じながらも私もMに惹かれていたのは事実だったのでつい期待を持たせるような返事を返してその日は別れた。
今思うとここで思わせぶりなことを言ってしまったのがよくなかったと思う。
・一か月半前
Mから、Sさん(彼女)に○○(私)のことが好きになったから、と言って別れてきた、と告げられる。
Mは「もちろんそっちも彼氏と別れるよね?」と言いたげな態度。当然ですね。
・一か月前
Mに、今の彼氏に不満はないし、別れる決心が付かない。彼女がいるまま告白してきたことであなたのことが100%信頼できるとは言えないし、
(誠実な)彼を振るリスクは取れない。もう少し気持ちが固まるまで待ってほしい。と伝える。
こういう答え方をしてしまったのは本命彼同様Mのことを失うリスクもまたとれなかったから。
Mの返事は一応了承だったが、会うたびにほぼ付き合ってるような態度・行為をしてしまう。
・彼氏(本命)に無性に会いたくなり、真夜中に電話をかけたりしてしまう。
・Mからの連絡も異常に待ってしまう。つい携帯を開いたり、Facebook見たり。
つねに男性どちらかから連絡や関心の表現がないと落ち着かないようになった。
これまでは家に帰ったら仕事のための勉強をしていたが、その能率も明らかに落ちた。
相手が2人になったことで恋愛が占める物理的な時間数が増えたからだと思う。
つねに何か焦燥感に駆られる。
・これまで漠然とあった「彼に愛されている」という安心感・幸せ感がなくなった。
彼のことを思い出しても、罪悪感や自分やMに対する嫌悪感に苛まれ落ち着かなくなる。
テニスの壁打ち状態で鬱々。
・両者に対する愛情がそれぞれ半分ずつになった(減った)気がする。
間違いを犯したことでそれらが傷ついてしまい、以前のように愛情に胸を張れなくなった。
結果どちらに会っても態度は散漫になり、デートの満足度も低い。
いつも満たされない。
・良心の呵責
最初のうちは「一度くらい浮気してみてもいいかもしれない」と軽く考えていたが、自分はそんな器ではないと思い知った。
本命彼は勿論MにもSさんにも悪いことをしたという意識が拭えず、何をしていても気分がふさぐ。
腐ったナベを被って暮らしているような心境。TVドラマなどで純愛ものを見るとヘコみ、食欲が減退。眠れなくなる。
「死後さばきにあう」という文言が気がつくと頭に浮かんでいる状態。
結論として、浮気は精神的にタフな人だけがしていいものだとわかりました。
浮気や二股は精神的にタフで、自分の言動に責任が持てる人がするもの。
そうじゃないと周りの沢山の人を傷つけてしまうのはもちろん、
自分の人生や心、信念や大切にすべきものも傷ついて、どんどんダメな生涯になっていくと思う。
もう二度とこんなことはしないし、落とし前はしっかり付け、
受けるべき罰は受けようと思う。
読んでいただき、ありがとうございました。
【追記】4/25 17:30
・後日談はどうなったのか?
投稿が本日未明ですので、まだそれほど時間が経っておらず進展はありません。
申し訳ありません。
・Mと肉体関係はあるのか?
ありません。Mは私が彼と別れるのを待ってからと考えていると思います。
本投稿は、今回の一件による私自身の心の動きやその経過が自分でも意外なものだったので
時系列・箇条書きで整理し、何らかの形で記録しておこうと意図したものです。
ご不快になられた方、申し訳ございませんでした。
今更だけどリーガル・ハイを見た
Youtubeで9話の南モンブラン市演説シーンを見たのがきっかけ
家にTV無いのでスペシャル物じゃないTVドラマを見るのって10年ぶり位な気がする
こういう書き方が褒め言葉になるかどうかはわからないけど、すごい漫画チックで面白かった
新人弁護士と無敗記録を持つ優秀だけど人格がちょい破綻気味の伝説の弁護士、何が正義で何が悪か、人を裁くとは
みたいなありがちな設定ではあるけど、キャラクターが魅力的で見ていて飽きないし脚本も良かったんじゃないかな
偉そうな書き方になっちゃうが国産TVドラマも捨てたもんじゃないなと思わせるだけの力はあった
で、こっから本題
全話見返した後に、件の9話南モンブラン市演説シーンの感想を一通り漁ったんだけど
原発が~とか南アルプス市が~ってのばかりでちょっと自分の感想とずれてた
このシーンね
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=YrQy3ekxkM0
まずこの演説、古美門先生は恐らく事前から準備していただろうという事
この物語の序盤から「ズワイ蟹食べ放題ツアー」というワードが出て来ている事からもわかるように古美門は南モンブラン市の老人達がこの裁判にどこか本気で無い事を最初から知っていた
当然どこかの時点で和解に動くだろうという予想を立てていたはず
ここで問題になるのがこの裁判における古美門の報酬、「賠償金の3割」だ
要するに適当な金額で和解されてしまうと古美門の報酬が激減してしまう、和解という実質的な負けを受け入れ報酬も激減、古美門にとっては何一つ旨みが無い
だからこそ古美門は老人達を奮い立たせるような演説を用意していた、これは演説の中で参加者の過去に言及している事からもわかる
彼等を調べ、どんな言葉なら彼等が奮い立つのか計算し、そっと「一矢報いるには金しかない」と刷り込む
こういう計算高さこそが古美門の魅力だと思う
無論この演説が全て計算だとは思わない、古美門の本音も混じっているだろう
又、計算だったからと言ってこの演説の価値が薄れるとも思わない
というよりむしろ計算して作られた演説だからこそ価値があるとすら思う
何か「古美門の本心を見た」とか「本質をついてる」みたいなのはちょっと違うんじゃないかなと思いましてって話
大学行って正社員で就職して結婚して子ども作らなきゃ駄目なんだ。
そうでなければ「世間」は「普通の大人」として扱ってくれない。それがレールなんだ。
大学新卒正社員というのは労働者や人してまともな待遇で取り扱ってもらえる可能性の高い最強のカードなんだ。
レール外れて時給650円でバイトはじめてコンビニの店長や飲食店のフランチャイズチェーンか雇われ店長までしか
夢の持てない人生で満足か?
非正規同士で将来性も資金計画も無く結婚して子どもが産まれてリストラされ一家心中のニュースとか見たくないぞ。
人と同じでなければ、誰かのストレス解消に「優越感ゲーム」の的にされるんだ。
「皆と同じではない」ということはそのネタでdisったりいじったりされても仕方の無い罪なんだ。
「足が遅くて真っ直ぐに歩けない」「一重」「薄毛」「眼鏡」「黒髪」「頭が悪い」「あうあう」
「頭が悪い」「アニメアイコン」「匿名」「ブサ」「ニート」「フリーター」
すべてリア充からみれば、いじって遊べる優越感ゲームの要素なんだ。
だからあまり頭が良くない人は周りに怖がられるDQNになるんだ。そうすれば、裏ではともかく表では「優越感ゲーム」
の的にされにくいから。舐められていじめられるのはいつだって要領の悪い大人しい真面目系クズなんだ。
学校の廊下を歩いていると毎日のように不特定多数の男子達に笑いながら後ろから蹴りを入れられた事があるかい?
他人にナメられるということは多かれ少なかれ底辺扱いを受けるようになる。
それに反撃しても良識のある人々は「自己責任」という言葉で取り合ってくれない。
私が弱くて容姿も能力が低いのが悪いんだ。底辺にいる限りこの扱いは大人になっても死ぬまで変わらないんだ。
カーストが低いからしかたない。実名で発言しても正社員ではないフリーターやニートの戯言などリア充によって
笑われるだけ。
レールから外れるということは舐められてリア充から「優越感ゲーム」の的にされるということだ。
「劣っている」と思われたらリア充にどんなことを言われても周りは見ているだけ。そんな一生だ。
それでもレールから外れたいならどうぞ。
つまりは夢破れたなら、優越感ゲームの敗者の立場に一生耐えるのを受け入れなければならないけど
夢破れてレールからドロップアウトして人生駄目駄目な底辺増田は言います。
「普通の大人」という夢に向かって努力を続け能力の至らなさで叶わなかったとしても
他人がいかに見下そうとも、これまで積み重ねてきたスキルや蓄積したデータはボケるまで消えずに
生きる糧になっていきます。皆の嘆き、怨嗟、失敗、炎上、ノウハウから私が得たものは大きい。
いつか私も「優越感ゲーム」の犠牲者に街で突然理由も無しに刺される日が来るかもしれない。
その時は足も極端に遅いし逃げられないだろうから狙われたら命ある限り闘うしかないか。
少なくともただでこの命くれてやる気は無い。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120205-00000014-pseven-soci
車を買わない理由はだいたい、金銭面と価値観の相違の2つに分けられるのかな?
金銭的な面はともかく、価値観に関してはネットの普及というのもあるんだろうな。トレンディードラマ w の時代(まぁつまりバブル期だわな)は一般の人がネットを使うような時代じゃなかったから、情報源といえばネットと雑誌類。スポンサーになっている車メーカーがTVドラマを通じて「車って格好いい」というイメージを形成しやすかったけど、今はそもそもトレンディードラマ自体がない。
そもそも車を使ってどっかに行く機会も減ってるんじゃないかな? 特にアウトドア系。例えばスキーをやる人間なんて、90年を境に右肩下がりらしい。
韓流とアニメとアイドル(笑)系J-POPって、売り方に共通点ができてしまって。
共通点は固定ファンが一定数いて、そのコアな層の金払いが(このご時世にしては相対的に)いいこと。他にも似たようなジャンルは存在するけどとりあえずこの3つだけで話をする。
マーケティングのどこが似ているか?たとえば、「同じ映画を同一人物が複数回見ると特典がつく」というようなシステムは、韓流系映画とアニメ映画以外ではほとんどみかけない(これらのジャンルでも少数派だけど、ほかは絶対もっと少ないってば)。「何度でも見るような客がいる」からなされるのは明らか。
DVDやCDに特典をつけることで売り上げを確保する手法も重要。初回特典重要。普通の映画とかでもそれなりにあるけどさー、ひとりで二枚でも三枚でも買わせることすらやるのは、ねぇ(AKBほど極端な例はさすがに他では知らんけど、ローソンのアニメ系タイアップじゃあペットボトル箱買いネタはあったよね。実話かネタ画像か知らんけど)。
アニメのうち、特に深夜アニメは、作る側としては通常TV放送ではむしろ金を払って放送しているので赤字。キャンペーンとして放送して、あとから回収する。韓流TVドラマについてコンテンツが安いとか安くないとか諸説流れていて、まぁ作品によってもちろん値段は違うわけですが、レンタルビデオ店やセルビデオとの関連を考えれば深夜アニメのそれとの共通点も見えてくるでしょう(似たような現象で映画でもマイナー系では映画館では赤字になることが分かっていても宣伝効果等を考えてDVDセールスのために上映することもある)。日本のTVドラマで同じだけDVD/BDが売れる作品ってそんなにないですよ(もちろん、売れてる作品はちゃんと熟れてる)。作品数でいえば日本よりアメリカものの方がむしろ売れてるんじゃないかな(周辺グッズ収入は、調べてないけど多分アメリカものより韓流ものの方が売れてるだろうから、やはりTV放送を中心とした売上構造という意味では売る方が頼りたくなる構図は存在してしまっている。コンテンツの品質を放送側がどう思っているかとか無関係なところでも)。まぁ、韓流系のTVドラマとかは売上のピークは過ぎてるので、本来なら減っていくのは時間の問題のはずだけど(細かいことを言うと、韓国側が売れなくなった時にたたき売りになったら買われるとか、抱き合わせ商法的売買とかが入ったりすると、そんなにきれいに減少しないのだけど)、これは相対的なものなので、他に代わりになるコンテンツが出てこないことには時期は正直予想困難。
まー、どっちにしろ、それがすべてではないけど、「コンテンツが商売になりづらい時代の商法として儲かるものは使っている」という側面は確実にあるので、今後のマスメディアやこのてのコンテンツがどうなるか正直自分には予想はできないけど、短期的にはちゃんと作り手に金を流さないで「韓流流すな」つって変わると思うメンタリティが理解できない。
ちなみに、「韓流専門番組は以外の番組にまで韓国ネタが出てくるのがごり押し」とかいう別っぽい意見もみかけるけど、上記の話との結びつきは明確だし、そもそも韓国旅行者数ってこの10年以上みてもそこそこの人数なのでネタとしてほしい人が一定数いるのは明らかで「仕掛け人」「ごり押し」が「なければ」…「減った」可能性はあるかもしれんけど、全部「ねつ造」で説明できるというのはちょっとね。
※12月12日、末尾に追記。
ほどほどに広い敷地の中に、そこそこの歳の兄弟が、それぞれの家族と暮らす二軒長屋形式の住宅が建っている。
一方は小学校高学年相当、重度の自閉症を背負って生まれてきた男の子だ。食欲が旺盛で、小学校高学年相当にして、体重は
はや70㎏に近い。手加減なしに階段に足を踏み下ろすその振動により、夜中の二時にいきなり棟続きの家で棚からものが落ち
たりする。体形限定だが、イメージ的にジャイアンを思ってくれれば間違いない。奇声を上げ、庭で丸出しで放尿し、二階
ベランダからいきなりものを投擲し、庭石に植木鉢をたたきつけてかち割るなど、問題行動もときおり見られるが、基本的には
温和しいよい子だ。ジェントルジャイアン君。いや、バンドじゃなくて小説の方。
鉄道オタク嗜好があるらしく、五歳当時、事情を知らぬメーター検診員などが高い位置に増設されていた門の閂を掛け忘れた
千載一遇の好機を捉え、旅立った武勇伝を持っている。彼は四時間後に、隣接自治体で自由を満喫しているところを保護され
ている。この一件以来、敷地の門は常時施錠、メーター検診等は住人立ち会いの状態で行なわれるようになった。
増田の実環境に無謀なほど近いにもかかわらず、安い国産TVドラマのようなうさん臭いセッティングだ。
増田本人は甥であるジェントルジャイアン君については気の毒に思いつつ、正直なところかなりもてあましている。
どう接すればよいのか。
放尿するためにズボンを下ろしかけた状態のとき行き会えば、ジェントルジャイアン君は大変素直に制止を聞き入れてくれる。
一度、数秒タイミングを逸した際は、便所への移動と放尿、逐次的に実施すべきふたつの作業が同時進行となり、大いに困惑
させられたが。
一時は仰天させられた二階からの突発的な器物投擲や植木鉢の破砕も、負傷者が出るまでもなく、徐々に収まりつつあるように
見えるし、過去数年は全裸の庭徘徊も、少なくとも増田の知る範囲では発生していない。
深夜の鳴動も、実害はほぼないし、放置しておけばよい。ここが賃貸で、相手が赤の他人であれば、一月もしたら血相替えて怒鳴り
込むだろう、とも思ってはいるが。
増田の地元、最寄から二・三駅ほどのところに、とある知的障害者更生施設がある。比較的軽い障害を負った通学者の中には単独で
通学しているものもいた。増田が大学の頃から数年にわたり、最寄からおそらくこの施設へと通学する、とある『地元の有名人』が
いた。流れのままにガニメアン君と呼称する。
--有名な理由?簡単だ。思春期に入ったガニメアン君は、ホルモンの命じるまま、己の欲求充足を試みるのだ。
あまりにもストレートに。
帰宅途中、身長170㎝、体重90㎏程度と大柄な(種族的な特性?食欲に規制が一切かからない所為か? - 聞くのが憚られるので
ここで書いてしまうが)は、数時間掛けて駅からの家路を辿る道すがら、ふさわしい交際相手を見出すと、まっしぐらに接近、躊躇
なく交際を申し入れるのが常だった。下は小学三年、上は今風の表現であればアラフォーと、ガニメアン君のストライクゾーンは
かなり広く、選好みもしない一方で、玉砕するとすっぱり諦める潔さも持ち合わせていたため、トラブルもさほど起きなかったようだ。
ごくまれに、数メートル先から意味不明な言葉を発しながらドスドスと足音粗く近付いてくる、目付きがいささか覚束無い大男を
見て、悲鳴を上げる女子中学生なども見受けられたものの、高校生以上の"交際相手"であれば初見でも難なく対処できたし、中学生
でも一度遭遇してしまえば次からは大丈夫だった。ただ、小学生にはいささか荷が勝つようで、増田自身、何回か彼に"お断り"をした
経験があるし、周辺の当初三校、後に増設されて四校となった小学校のPTAのあいだで物議を醸したとも聞き及んでいる。
--ふぅぅ…
『障害者施設建設計画で町内会が反対運動』の記事についての侃々諤々を読んで、なにやらネガティブな想念がこみ上げてきたのを中和しようと、不自然きわまる文体でやってしまった俺の負けだ。普段の状態に戻す。
障碍者施設反対自体については、別に意見を表明しようとは思わない。生暖かく見守っていた地元の気分も体験してるし、身内に障害者を抱えた人々の苦境と負担も、充分に理解しているからだ。
以上を踏まえた上で、
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.ehime-np.co.jp/news/local/20101208/news20101208221.html
ごセイケツに人非人どもを高所から切って捨てている各位には聞いてみたいことがある。
多額の銀行ローンを背負って一世一代の家造りをしようと思った場所で、自分の娘が、例えば体重差二倍くらいの全裸の、まあ要するに変な人に追い回される可能性が、わずかばかりでもと判った場合、各位は当然今のようなごセイケツなスタンスを貫いて、率先して入居するのだよね?家族にも当然言い含めて。
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まぁ、大体の想像を裏付ける結論が出たようなのでネタあかしをさせていただく。これは、憂さ晴しと推測を裏付けるための、大変ヒトの悪い実験を兼ねた記述だった。
前半。うちは現在座敷牢化しており、子供の出入りに不自由だし、ジェントルジャイアン君は実際にかなり迷惑なことをしたりもする。うちの娘のためには、明らかに良くない。
しかし、「ふぅぅ」以前の部分では「もてあましている」「どう接して良いのか判らない」「困惑させられた」「仰天させられた」という俺本人の感想を除き、「基本的には温和しいよい子」「玉砕するとすっぱり諦める潔さも持ち合わせていた」という肯定的な記述を織り交ぜた上でネガティブな記述を極力排して全て事実に即した記述を心がけた。
俺本人の感想は、ごく自然なものだと思う。当たり前だ、俺には彼が理解できないし、下げたズボンびしょ濡れにしながら指示に従ってくれるなんて誰が思うか。それに目の前に突然トミカとかが落下すれば、大抵の人間は仰天する。それとも、俺を差別者扱いしてる人、こういうの平気?
後半のガニメアン君については、同じく子供から見れば明らかに巨大で威圧感がある。おまけに、彼に抱きつかれそうになれば、小学生は泣いて当たり前だと思う。PTAで騒ぎになるのだって当然、ならない方が変だ。地元が生暖かく見守っちゃダメなのか?
しかし、これについてもネガティブなフレージングは一切していないつもりだ。
こんなしち面倒臭いことをしたおかげで大変消耗したわけだ。にもかかわらず、ブコメを見ると、当たり前のことを感情抜きで書いている記述のはずなのに脳内補完して、そこに差別を見出している人が一部見受けられる。トラックバックの増田にはほぼそういう傾向が皆無なのにも係らず。これは、増田の読解力の方が高い、ということなのか、そのほかの誤読をした人がこれといって見受けられないことからも明らかなように、俺の大嫌いな『差別レーベル愛好批評家』各位の読解力だけが傑出して劣っているからなのか、どっちかなんだろう、きっと。
それとも、障碍者についてはたとえ事実であろうが、不利なことを一切書くのはまかりならん、とかいうものすごい基準なのか?
今後の参考のため、魚拓http://megalodon.jp/2010-1212-2322-16/b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20101210153318を作成の上で
最後に、サンプリングにご協力いただいた各位には厚く御礼申し上げるとともに、うらの真意まで読み取っていただいたWhat_a_dudeさん(考えてみて欲しい、障碍者施設が充実し、偏見が解消されなければ、兄弟の世帯や娘も含めて我が家の負担は今後も増え続けるのやぜ、俺が自分の馘締めてどうする)、満点回答を提示してくださったWintermuteさんほか、文意をきちんと把握できておられた方々に敬意を表したい。
シミュレーターというビデオゲームという媒体に課せられた最大の使命に忠実であるあまり、その内部に「物語」を他のどのゲームより性急に孕まなければいけなくなった…それが「RPG」というシステムの不幸な生い立ちではないでしょうか?
もう一度考えてみましょう。
我々はなぜ「RPG」にここまで惹かれるのでしょうか?
小説、映画、コミック、そしてアニメーション…これらの媒体を通して語られるありとあらゆる「物語」は学校、そして家庭…どれほど身近な舞台装置をもってしても、我々にとって既に<遠すぎる>ものです。
しかしこの「RPG」だけが、主人公に自らの姓名を入力することによって、画面上の主人公の言動を意のままに操ることによって、我々に、小説や映画がとうに失ってしまったある種の「一体感」をもたらしてくれるのです。
「東京ラブストーリー」よりも「北斗の拳」よりも、そして村上春樹も小説よりも…「ドラゴンクエスト」に、そして「ファイナルファンタジー」に胸を躍らせた少年時代を過ごした方も多いでしょう。
「しかし」です。
はたしてそれは「ゲーム」にとって幸せなことだったのでしょうか?
無論、ここで言う「ゲーム」とは「ゲーム業界」のことでも、いわゆる「ゲーマー」のみなさんのことでもありません、あくまで「ビデオゲーム」という一つのシステムのことです。
<物語>は諸刃の凶器です。どれほど卓越したシステムを内包していようとも、ゲーム中の<物語>がユーザーに与える快・不快はその印象を残酷なまでに左右してしまいます。
この事実は我々にまたしても不幸な命題を突きつけることでしょう…我々が、そして「あなたがた」が求めているものは果たして「知的刺激」を求めるべき<ゲーム>なのか、それとも感情移入によって現実世界では決して得られないカタルシスを得るために求められる<物語>なのか…?
無論、その双方を同時に満たすのが総合芸術としてのビデオゲームではないか…確かにその通り。しかしこの問いを<物語>の側から照射するとどうなるでしょうか? …純粋に<物語>の器として、「ゲーム」は果たして構造的に耐え得るのか、と…。「誰でも勇者になれてしまう」「誰でも<勇者である><主人公である>と規定されてしまう「RPG」は果たしてそれ自体単独で<作品>たりえる<物語>は語りえるのか…?
我々にとって、そして「あなたがた」にとって「RPG」は最後の砦だったのかもしれません。TVドラマに憧れれば現実の立ち位置に愕然とし、少年漫画に没頭すれば逃避であると罵られる現在、「RPG」は我々に残された唯一の<物語への道>だったのかもしれません。
しかし…いや、「だからこそ」我々はこの「RPG」をめぐる不幸な環境について自覚的であるべきでしょう。残酷なことかもしれませんが<あなた>は主人公ではない。
つか、たかがTVドラマでそんなことを突っ込んでたらキリがない。
マンガが売れるから。TVでタイトルを連呼してくれて、書店では「TV化!」とポップを付けて平積みしてくれて、それだけで十分ありがたいから。
マンガ原作じゃないとスポンサーが付かない程度の実力のドラマ制作者ですよ?でもって、マンガをそのまま映像化なんて出来ない技術レベル&俳優。
そりゃ、好き放題というか、妥協をしまくりますわな。
そもそもTVドラマを喜んで観ているようなレベルの視聴者からして・・・。
普通は事例を省みてドラマ化をゆるします。ええ。原作レイプ上等!ですよ。
だから「アニメ or ドラマはマンガと別だと思ってください」と、どの原作者さんも言いますよ。
文句をたれるのはバカか、ガキか、わかってやってます。芸です。
#ジャニーズを使って・・・とか酷いのもあったらしいけど。
最後まで納得する条件で作るとああなるんですよねー。
まぁ、マンガの人気があったから出来る荒技ですが。