世の中で言ういわゆる毒親とかそういうのではない。むしろ一人っ子の娘とだけあってとても大事に育ててもらった自覚もある。しかし依然として成人を超えても親が苦手だった。親と言っても主に母親である。母親としては尊敬しているが、一人の女とみると絶対に仲良くはしたくない人種であることも挙げられる。しかし母親としての彼女に対するこの気持はなぜなのかについて最近考えてみたところ私は母について「理解する」ことはできても「共感する」ことはできないからだと思った。逆に言えば母にとって私のことも理解をしてくれても共感はしてくれないだろうという根本の気持ちがあるからなのかもしれない。だからこそ母に対してなにか「相談をしよう」であるとか「自分の近況についての話」であるとかをしようとは全く思えない。だから今では母に口出しをされるのが何よりも嫌でなにも話さない子になってしまった。
こうなったわけには一つの理由があると私は思う。それは小学校でいじめられていたことである。いじめといってもよくあるトイレの個室の上から水を掛けられたりであるとか、ノートを勝手に捨てられたりだとかそういう目立ったことはされたことはない。(一度小学二年のときに体育から戻ったら洋服が教室の奥のダンボール箱の中に隠されていたことはあったが)主に目立っていたのは悪口だった。馬鹿らしくも集団のグループを大事にし、イレギュラーという異分子を許さない雰囲気が私の学年にはあった。私は幼稚園を私立で卒業し、そのなかでも私自身地が強いので合わない子と口論になったりもしたが、その子はその子他の子は他の子でのびのびと楽しい幼稚園生活をしていた。
小学校に上がって一応国公立を受験したものの、自分自身よくわかっておらずテストを真面目に受けなかったものだから普通に落ちて、地元の市立に入学した。そしたらどうだろうか女子と男子のカースト制度、その上野蛮、小学校に上る前はそれなりに漢字や勉強に興味のあるいい子であったはずなのに、小学校に入ったときに自分の名前をすべて漢字で書いたらある日男子3人に机を囲まれてこう言われたのだ「習ってない漢字を書くのはルール違反だぞ」と。今でも「は?」と思うし、当時も「何いってんだこいつ」と思っていた。けれど現実というのは自分ひとりだけじゃどうしようもなく、そのころの私はいわゆる私立出身の気弱なお嬢さんだったわけなので、そういったことを言われたり、私の学年は男子の言葉が絶対で男子の評価で女子からの評価も決まっていたので当然私は冷遇されてるのに耐えられなくてその権威に屈したのである。
その上何よりも嫌で嫌で仕方なかったのは小学1年と2年のときの小学校の担任である。もうこの担任が本当に嫌だった。そんな子供っぽいクラスメートの女子の意見をそのまま鵜呑みにして私のことを変に特別扱いし、一緒にして馬鹿にしてくるような担任だったのである。ついでにいえば1年のときにクラスの男子が教室で殴り合いになったときも止めずに観覧していたような担任である。そんな担任とクラスメートのと一緒に過ごす小学校生活になんの楽しみもなく私はひたすら自我を抑圧され、耐えるしかなかった。
結局6年まで耐え抜いたものの、私自身の性格は順応できるように自分でも歪んだ自信もあり、なおかつ口も悪くなった。今では治った方ではあるが当時は本当にそんな野蛮のなかで生きていたので口より手がでるような子供に育ってしまった。自分でも今思って悲しくて仕方がない。
その間私は何度も親に「学校に行きたくない」「休みたい」という主旨の主張をしたが、一度たりともその苦しさをわかってもらうことなんぞなく、理解してくれようともしなかった。そんな親であったので小学校の私は直接親に「いじめられているから行きたくない」などとはとても言えなかった。バイト先の主婦さんの子供が小学校に馴染めず今不登校してるという話を聞く度に「羨ましい」という気持ちしか湧いてこない。私もできることなら不登校になりたかった。あんな場所に今でも一ミリたりともいたくない。
20年以上生きてきた中でも人生のどん底は今でもあの小学校時代だった。そんなトラウマである小学校時代なにも救いの手を述べてくれなかった親に対して「理解する」「理解してもらう」ことなどできないと今でも心の奥底で思ってしまっているから、親に心を開くことができないのだと思うし、これからもこの溝を埋めることは決してないのだろう。
文章読む限りお前がめんどくさいだけ
今日も女は毒親でもなんでもない親叩き