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2018-01-14

静岡県西部民が考える静岡県東部都市序列と実際の序列

静岡県西部民が考える静岡県東部都市序列

 

1.沼津 …とにかくよくも悪くも地元報道に一番出てくる街。東部盟主

2.三島 …なんとなく商業が栄えているというイメージ新幹線止まるし

3.富士宮 …富士山の持ち主。「宮」がつくので偉そう。水がキレイ

4.富士 …全くインパクトがない

 

 

実際の序列人口順)

1.富士

2.沼津

3.富士宮

4.三島

 

 

沼津って有名なの?

https://anond.hatelabo.jp/20180114164116

2017-09-16

https://anond.hatelabo.jp/20170916193032

(遅かれ早かれ自民族だけで独立は出来たのに)

それはどうかなw

まず自分に都合のいい推論でしかないし

百歩譲って仮に自力で最終的に独立できたのだとしても

早い方がいいし助けがあった方がいいじゃんなあ?


「遅かれ早かれ」なんて暴論は

その”誤差”の数十年数百年の東南アジア人民の被支配下塗炭の苦しみを全く無視しなければ出てこない考え方ですなあ

いや~~~~レイシストには困るわwwww


頼んでも無いのに勝手国境超えて来て

普通にまれてたねえ

地元民との連帯なしには無理だよーん

政治経済民族宗教問題すっちゃかめっちゃかにして

混乱は元からだし植民地支配から闘争独立するのに

混乱ゼロなんて有り得ないね

馬鹿ぼっちゃまの発想だねえwwwww


敗戦後、負けた癖にアメリカの一番弟子になって

侵略受けた自分らを差し置き、世界第二位まで上り詰める

偉大なアジア希望だねえ

「同じ黄色人種だ」「我々も白人に負けないんだ」という幻想を与えたねえ


成長期は金だけばら撒いて、身内ではさんざん後進国と貶してきたくせに、

韓国じゃねえんだから

いちいち東南アジアにそういう変な蔑視向けるのは韓国人が大好きだねえ

現在になって、人口風向きが悪くなると今更アジア盟主ヅラして

アジア盟主」とかいうクッソキモい言葉韓国人以外好まないね

中国は?と思うかもしれないが彼等は「大中華」なので「アジア盟主」なんて卑屈なタイトルは使わない)



「高度なスキル持ったやつなら移民してもいいでw」

おまえらってワイの事好きなんやろ? ファックしたいほど濡れ濡れなんやろ?(ゲス顔)」

とかキモおっさんも真っ青のキチキモフレーズ言ってくる老衰国家

そんな国に好意もてると思うか?

日本アジア孤児!ってわめきたててたのに

普通に中韓朝以外から好感度高いのがばれるようになってくやちいくやちいwwww

日本すごい系ブログですら少なくともお前等と違って

日本好意を持つ外人の声」を紹介するときソースリンクぐらいは貼るねえwwwww


常識だよ常識

東南アジアの国々はこう思ってるの忘れんな

せいぜい中韓けが異様に敵意をもやしてるのを

アジア全体の声と嘘ついても突っ込まれづらかった時代はよかったねーwwwwwwwwww

2017-06-11

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2017-06-05

鎌倉戦国時代に燦然と輝く北条家は、日本史教科書では分からない

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

日本史教科書いくら見ても本当のところは理解できないんですよ。

なぜ北条家が坂東武士の頂点に立ち、鎌倉幕府頼朝が作ったにも関わらず、北条がその後の支配権を握り続けたのか。そして戦国時代に「後北条家」が、北条家と特に関係がないのに成立し、関東盟主足り得たか源氏とは、北条とは何か。

北条は、坂東平氏の家柄である坂東平氏とは、桓武天皇の血を引く、関東にやってきた平氏総称であり、その五世である平将門新皇自称して、朝廷に対して関東支配権を主張して反乱を起こし、敗れた後に祟りを起こして神となったことで、関東に決定的な影響力を及ぼすようになった。

平将門は神である。そこを間違えてはいけない。平将門怨念とされるものは畏敬の対象として、現代人に対しても深く印象づけられているが、関東ではほぼすべての神社平将門を祀っていたほどに力があった。坂東武士たちにとっては、平将門は実際に神であり、朝廷反旗を翻し関東独立した政権を、坂東平氏が頂点となって打ち立てることは坂東武士の念願であった。平忠常というそのへんの平氏関東で反乱を起こしただけで一大ムーブメントになってしまうぐらい、平氏関東支配朝廷から独立するという夢は坂東武士の間に広がっていた。元記事に書かれている関東の有力豪族千葉氏上総氏は、平忠常の子孫とされている。

そこにやってきたのが源頼朝である源頼朝清和源氏事実上嫡流である清和源氏桓武平氏といった用語を知らない人のために説明すると、天皇家は偉いわけだが、子孫がいつまでも皇族だと皇族が際限なく増えてしまい、現代で言う宮内庁予算が際限なく増えてしまうので、どこかで平民になってもらわなければならない。平民になる時に、皇族には名字がないので、名字を与える必要がある。その時に、源、平の名字が与えられた。天皇の血を引くスゴイ人たち、という意味が源、平という姓には込められている。清和源氏清和天皇の子孫で源姓を名乗った人たち、桓武平氏桓武天皇の子孫で平姓を名乗った人たちである

たとえば足利も、徳川も、本姓は源である。源尊氏源家康が本名だ。なぜ足利とか徳川というかと言えば、源が増えすぎて区別必要が出てきたというのもあるが、源というスゴイ名字を出すのは気が引けたから、という要素が大きいように思う。本当の名字は避け、住んでる所を名字にする、といったことをして、木曽義仲とか、足利尊氏とか、あるいは自分でっち上げ徳川という名字を使った家康のような人もいる。これを説明するには、武士にとって本名いかに大切であったか述べなければならないが、面倒だ。武士の下の名前は諱(忌み名、呼んではいけない名前)とされていたということを考えれば、上の名前もそれなりに大事だということはわかると思う。(そして信長様~とか秀吉様~とか言っている時代劇が全部嘘っぱちだということも分かるだろう)

平忠常の乱を平定しようとした、桓武平氏嫡流平直方は、乱の平定に失敗するが、清和源氏事実上嫡流である源頼義を婿に迎え、領地であった鎌倉を譲り渡す。この時、鎌倉坂東源氏拠点であると同時に、平氏源氏嫡流が交わった聖地という意味が生じた。そこから八幡太郎義家が生まれ源氏の声望が高まり、その嫡流である頼朝権威づけていく。

ここまでくれば、坂東平氏である北条家が頼朝を婿にとり鎌倉本拠地に据えた意味が分かるだろう。平家源氏が交わり、鎌倉拠点とするというのは故実に則った神聖儀式なのだ。ちなみに、北条家が坂東平氏の由緒正しい血筋だというのはおそらく自称であり、フィクションである。だが坂東武士は将門の祟りの方が怖いので、血筋の細かい所は気にしないのだ。

鎌倉に作られた幕府は初めから天皇を中心とする朝廷対立関係にあり、承久の乱勝利することで朝廷の上位に立ち、皇位継承操作するまでになった。それはなぜかといえば、平将門朝廷から独立志向していたかである平将門怨念が実際に実を結んだのが鎌倉幕府である頼朝の下で働いた北条梶原三浦和田千葉熊谷などは、みな坂東平氏である。そして役割を終えた源氏はどこかに消えて、坂東平氏北条家による支配が行われた。

そして戦国時代、後北条家の話になるが、後北条家は伊勢新九郎盛時、北条早雲によって立ち上げられる。伊勢氏室町幕府政所執事の家柄で、ものすごく偉い。ちなみに桓武平氏である

室町幕府というのは北条家に牛耳られた鎌倉幕府を倒して出来た政権である鎌倉幕府内の源氏で最高の血筋だった足利鎌倉幕府を倒し、北条家はほぼ滅亡してしまう。そして源氏である足利京都朝廷とベッタリの幕府を作った。平氏による独立志向関東幕府から180度の転換である

史実ではものすごく偉かった伊勢新九郎盛時であるが、実家室町幕府の偉い家柄で、関東を牛耳りに来たというのは、いかにも坂東武士には都合が悪い。仕方ないので、先祖を辿れば同じ坂東平氏という縁にあやかって、北条の名を名乗ることにした。ちなみに名乗ったのは息子の氏綱の代である。そこで、おそらく後北条家のプロパガンダによって、歴史改変が行われ、謎の素浪人北条早雲が、下克上嚆矢となり関東に覇を唱えたという、我々のよく知るストーリーが現れる。よく調べると、全てデタラメである

これにより、なぜ後北条家が秀吉と争い、滅亡への道を歩んだかも分かるだろう。秀吉関白天皇代理である天皇と対抗する存在である坂東武士にとって、秀吉に降ることは、平将門祟りを招きかねない決断であった。そのため、天下の趨勢が決しても、徳川伊達の援軍が得られなくても、単身で秀吉と抗い、滅びたのである。それだけ将門の祟りへの畏れや、坂東武士の誇り、天皇家という存在に対する対抗心が強かったのだ。

平将門武士の始まりであり、武士スピリット体現する存在である武士は武装し土地を守り、権力に抵抗する存在であると同時に、一族で争い、殺し合う存在である。その構図は徳川家康武士を飼いならすことでご破産になり、そこにあった本質は見えにくくなってしまっているが、武士を知りたければまず平将門を見て欲しい。

2017-06-01

日本人無宗教ではなく儒教徒である

日本の最大宗教儒教で、それは江戸時代から変わっていない。

武家は、統治のために中国儒教に倣ったからで、そしてそもそも儒教社会構造を維持するための宗教だ。日本史教科書には儒学とか朱子学とかさらっとしか書かれていないけれど、徳川治世は政教一致で、儒教社会本質を担う物凄く重要ものだった。

そして例えば、長幼の序年功序列)とか、男尊女卑とか、御先祖様がどうだとか、上座下座とか、家父長制(天皇制典型)とか、未だにある。そしてそれは道徳と称され、確信的に(加害者に悪の自覚が無く)差別が行われている。

さらにそれがとりわけタチが悪いことに、儒教教義を信奉している当人儒教徒であることの自覚が無い。それで、「日本人無宗教」という言説が定説になっている。

日中戦争太平洋戦争をした原因にも、儒教がある。儒教身分差別階級差別宗教なので、どちらが親分か、どちらが兄貴か、優劣(序列)がある。そうして、他者を蔑んだり、権威にひれ伏したりする。「大東亜共栄圏」という概念は、日本東アジア盟主親分)たらんとしたものだ。

日本では、少なくとも戦時中までは公然アイヌ人や沖縄人(「沖縄県民」)を差別してきたし、韓国人中国人は未だに事実上差別を受けている。戦前政府日本社会システム押し付けて、創氏改名を行わせた。それは韓国人に対してだけではなく、アイヌ人にも行われた。侵略され植民地化されたからには、日本論理を受け入れるしかなく、多くのアイヌ人は和人同化せざるをえなくなった。

国家神道」とかいうけれど、それも、神道の皮をかぶった儒教だ。天皇を家父長にした、身分差別階級差別宗教だ。

日本人は、正しい歴史認識をしていないし、戦争反省もしていない。なにせ、儒教徒である自覚が無いのだから戦争の原因を認識していない。だから謝罪をしても反省はしていない。しかも困ったことに、中国人韓国人儒教徒から問題本質解決する可能性がない。

正しい歴史教育だとか正しい歴史教育だとかいう以前に、日本人和人)は自分自身を知らない。

2016-03-13

セルフプロモーションに長けた女性声優の話

器量良し、エロい、そしてエロい三拍子揃った女性声優Sさん)の、ここ数日における営業攻勢に失禁が止まらない。

プロである

以前からかわいい」、「オッパイが大きい」、「やっぱりオッパイが大きい」と人気がある御仁だ。

本人もそのことを理解していて、Twiiterやブログにメチャシコな自撮りをよくアップしていた。

お顔のアップ、お胸の大きさがハッキリ出る服、お胸の大きさを強調するようにピンと反らした上体。

さらサブカルミリタリー、今は亡き東側盟主テイスト趣味がご贔屓で、オタサーの姫としても抜群のコンテンツ力を持っている。

いや、オタサーの""女帝""と尊称すべきだろうか。若い女性で、おいしさイナズマ級なのである

ベッキーとは対照的危機管理能力も高く、すみp……スペツナズである可能性は否定できない。

とりわけ、Twitterにあげたエロい写真電子レイプされた時の対応瞠目に値する。

写真彩度を弄り、白服下のブラジャーを視認可能なレベルまで透けさせるという革命的同志が現れてしまったのだ( http://livedoor.4.blogimg.jp/himasoku123/imgs/f/4/f482ac7a.jpg , http://livedoor.4.blogimg.jp/himasoku123/imgs/1/0/1061a4d5.jpg )。

日頃からドル売り女性声優はズリネタにされ、基本的人権はない。

しかし、今回は事務所許容範囲を越えたようで、Sさんツイ垢は無期限凍結された。

今後しばらくはブログ活動報告するという。極東マカーキが求める、しおらしい女性像を意識しての対応だ。

正しい。政治的にはアウトだが、業界的にはジャスティスである

声ヲタは、愛を売ってドルを稼ぐ女性声優にさえ貞操観念を求めるのだ。

クリスマス前後言動には彼らによる検閲が入り、結婚したら必ず報告しなければならない。

反動分子粛清し、「すみぺ、俺たちに負けるな!」とアジっていたシンパシベリア送りにし、何事もなかったかのようにTweetを続けられてはお猿さんたちが黙っていないのだ。

Twitterにおけるこの大陸撤退戦は定石であり、それほどニュースバリューはない。プラウダも書かないだろう。

S書記長の辣腕が奮われたのはその後、である

事変後、最初投稿された写真は「かわいいお顔、オッパイであるhttp://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/a/1/a10052cf.jpg )。

一見すると何も変わっていないようだが、もうスターリングラードのあとか先かくらい違う。

オッパイが控えめなのだ

無論、透けてはいない。

さらフリルがあしらわれており、身体のラインダイレクトに出ない淑やかさも認められる。

しか投稿されたのはTwitter凍結通告の翌日だ。彩度ダメだけど、別のモノなら弄ってもいいよというクレムリノロジー的メッセージが読み取れる。

さらに3日後には、黒のゴスロリ衣装と縦セタという、スプートニクショックが襲う( http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/8/8/885f0b4d.jpg , http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/8/8/880292d0.jpg )。

黒は『まだ喪に服しています』という謙遜、縦セタは脈アリ。飴ムチである彼女ならクリミアだって治められるに違いない。

そして4日後の3月12日グラスノスチ。高シコリティーな御真影が復活する( http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/6/e/6e57cbd8.jpg )。

ノースリーブで胸元が大きく開いた白ドレス

ホワイト!!(絶叫)ではあるものの、中には黒のインナーがしっかり。""分かっている""

そして2枚目( http://line.blogimg.jp/uesaka_sumire/imgs/b/c/bc75e99e.jpg )では大きく開いた胸元から谷間がЗдравствуйте!

╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !

オッパイはいいぞ。

2016-01-23

なんか知らんが金沢って偉そうでムカつく

横浜京都についての増田エントリがあったのでさらに便乗

金沢市でない石川県に住んでいたけど、金沢人ってほんとになんかプライドが高くて面倒くさかった

伝統文化伝統文化って金沢市民は騒ぐけど派手派手の九谷焼日常使いしにくい輪島塗とかどうなの

そもそもどちらも金沢で作られているわけでない

そのくせ金沢人は金沢市以外を「文化がない」とかいって見下す

でも京都にはかなわないから京都話題を出すと露骨に機嫌が悪くなる

金沢観光地もしょぼすぎ

兼六園は一度行けば十分だし、近江町市場って食材買う場所から観光地でもなかろう

北陸盟主ぶってるけど「新潟市政令指定都市だろ」とかいうと「新潟には文化がない」といいだす

金沢なんかカビの生えた古くさい文化ばかりで、金箔キーラキラもみっともない

俺は仕事で全国各地に住んだが金沢が最低だと思う

かつて地元北國新聞で「ラブラブクリニック」という性生活相談連載記事が載っていたがその程度の市だ

2015-11-05

さびさにリネ2やりたいなー

でも今やっても楽しめないのはわかってるから実際にはやらない。

覚醒関連のUP後はどんどん楽しくなくなってしまった。

クラシックサーバーとかやってもなんか違うんだよなー。

対人一切やらない狩り専のまったりクランだったけど楽しかったなー。

最初の方はずっとソロメインだったけど、副盟主盟主経験してやりがいあったし、

いつだかのUPでサマナ強くなってから野良やフレからお呼びかかることも増えて嬉しかった。

ボスアクセや高OE武器なんかも揃って、85でカンストの頃までは楽しかった。

そんなに本気でオリンやってたわけじゃないけど英雄には届かなかったなぁ。

ひたすら馬メインで頑張ってて馬大好きだったのに覚醒でいなくなって、システム全般的につまらなくなった。

それまではどんなUPが来ようと不遇職として扱われようが、ゲーム自体が楽しかったし、

フレやクラメンと仲良くてひたすらチャットだけして朝になってたようなことも数えきれないくらい。

どんなに仕事とかリアルが大変でも何年もずっと続けてた。

でもいつの間にかINしなくなって何年か経ち、これからも復帰するようなことはないって言いきれるくらいになった。

もうゲーム内のフレとも連絡取らなくなってしまったし、たまに公式サイトチラ見するくらい。

ほんとに大好きだったリネージュ2と仲間たち。ゲーム内がリアル以上だった。

リネ1を始めたときリネ2を始めたときのワクワク感は、ほかのゲームでは手に入らなかった。

もう二度とこういう経験はできないのかなとも思う。

一方で、これから先そういう体験ができることがないかと考えることもある。

それはゲーム以外の何かかもしれないし、まだ存在しないものかもしれない。

MMORPGとか、そういう類のもの黎明期からやっていて今はやめた人とかはそういうこと考えたりするのかな。

もし何かあったら参考までに、教えてほしい。

2014-09-28

介護業が製造業を追い抜く「2045」の衝撃

ダイヤモンドオンラインによれば、「2045年には、介護従業員数は、製造業従業員数を上回る」(計算にならざるを得ない)らしい。

 (野口悠紀雄氏の試算、http://htn.to/yyz6Qk

  これって、「消滅自治体が続出」レポートに勝るとも劣らない、衝撃なレポートなんじゃないか?

  日本経済教育文化、すべてにおいて「製造業ファースト」だったのが、「介護ファースト」になる、そういう時代になってしまう。

★例えば「経済界」への影響だと、現在東証一部銘柄の半分程度が製造業だと思うが、

 2045にはうち半分程度が介護銘柄に変わってしまう、

 野口悠紀雄の指摘する近未来はそういうこと

地方財界盟主も、今は「地銀」「マスコミ」「電力」「バス会社」辺りだが、

 これが2045には「介護業者」が地方財界要職を占めるようになる。

 日経新聞なんかも、今は紙面のうち3ページ位はメーカーについて記載しているが、これがせいぜい1ページ程度になり、

 代わりに1~2ページ程度、介護業界ニュースばかり載せるようになり、そして「日経介護新聞」が創刊される。

 (日経産業廃刊?)

 東京ビッグサイトの展示も、今は半分程度が製造業系の展示ばかりで、介護系の展示などは数える程度だが、

 2045には、これも逆転する。

教育分野で言えば、製造業向けの人材輩出母体である大学工学部とか高専とか、今の半分で済んでしまい、

 それ以上に「社会福祉学部」みたいのが必要とされる近未来

★現状、今の介護業界は、マンパワーの大半は中高年主婦に頼ってる。

 逆に言えば、中高年主婦マンパワーだけでなんとか間に合っていて、若者新卒マンパワーはさほど投入しなくても済んでいる。

 これが2045には、「新卒の数割は介護業界入社しないと間に合わなくなる」社会になる。

 就活学生が回る先の3割4割が介護会社、という社会想像してほしい。

★30年前などは、そもそも「介護業界」という業界のもの存在しなかった。

 それが30年後には「全業界の中で最大の業界」になる。これほどの劇的な変化は想像しづらい

 これはもう、日本人思考パターンを変化させることになる。

 現代日本人は「製造業最適」な思考パターンになっていて、その証拠小学校4年では「製造業から見た日本地理」を教育する。

 これも2045には、小学校4年の社会授業は「介護から見た日本地理」に変わらざるを得ない

 2045の小学校社会科では、「愛知県クルマを作ってます」とか「海岸コンビナートを作ります」なんて授業は、もう必要とされない。

 2045の小学校社会科では「老人ホームとサ高住の違い」とか「なぜグループホームは少人数、木造がいいのか? 」を授業してる。

 教育が変わる、というのは、つまりそういうこと。

 あるいは、高校あたりで必修科目で「老人心理学」「老人行動学」を学ばせる、「介護」授業が高校(或いは中学)に入ってくるんだろうなあ。

欧米では「今の小学生の6割は、まだ世の中に出現していない新職業に就く」とされてる。社会ダイナミズムを感じる。

 ・・・日本じゃ「今の小学生の6割は、介護業界に就く」てなハナシになる。

 まあ6割よりは少ないだろうが

2014-08-10

縁遠い他者の誇りを自分のものとして継承できることの面白

http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html

記事面白かった。

特に

イギリス英語学習者(あえてイギリス人とは言いませんが)にとって、

英語は単なる言語ではなく自国の誇りです。

に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして自分」の書き間違いか?

英語ではなく、ポルトガル語場合はどうなんだろう。

ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。

スペイン語場合も同じようなことがあるのではないか。

中南米スペイン語盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。

cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。

ともあれ、留学した先の言語文化自分を一体化するということは実際にあるのだな、

新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。

一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語イギリス文化)にかぶれた人や、

フランス人として生まれたわけではないのにフランス語フランス文化)かぶれた人もいる。

これらは少数派としての挟持マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、

それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。

まり、「誇り」の有効範囲日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。

イギリスフランスに行って名誉イギリス人名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。

その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。

後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分文化上の宗主国主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。

たいてい、親フランス派、親ドイツ派になったりしたようだが、

一方で、諸外国()では、ある国・ある地域言語を学ぶことはその言語文化圏代理人になることを意味しない。

中国王毅外相は、日本語機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。

サイデンステッカードナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。

このあたりは、賛否両論ありそうだ。あくま自分の見える範囲での印象。

また、非欧米からこちらに向かう眼差しについては、サイードのいう「オリエンタリズム」の問題もはらんでいると思う。

2014-05-10

険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア西アジア方面制度文化を発信していた。

特に、「漢」は、同時代にある「ローマ帝国」と同じように、東ユーラシア大陸システムの基礎を作ったと言っても過言ではないだろう。

ローマ帝国」が地中海地域ヨーロッパの基礎を作ったように。

伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族文化を「漢化」した。

優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸国家は確かに存在していた。

からこそ、中華人民共和国の振る舞いはすこぶる悲しい。

共産主義の下、さまざまな伝統破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。

(それでもなお凄みを見せるのは、共産主義でさえ、中国化(あるいは「漢化」)していることだ)

かつての存在感を取り戻すための示威行為なのか、たんなる資源獲得なのかはわからないが、まるで遅れてやってきた帝国主義の国のようだ。

列強帝国主義時代こそ、中国清国)は東ユーラシア盟主として立ち上がらなければならなかったのにも関わらず。

たぶん、日本にとって中国、というか海の向こう側にある大陸先進国はあこがれであったと思う。

孔子儒教北側経由で回ってきた「道教」の影響を受けた仏教は、日本人生き方に影響を与え、

律令制度や、孫子兵法近代まで日本制度を構築し、

茶、歌などはその後、独自の文化的発展を築く礎となった。

からこそ、大陸の後継国の中国に対して、日本人だけでなく、多くの東ユーラシアの国々の人は複雑な感情を抱いているのではないか。

確かに、昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。

アヘン戦争では、あの清国が敗れたと日本で大騒ぎになり、国家としての改革が急務となった。

当時の日本の中に、清国連携し、ヨーロッパ対峙しようとした人々がいると聞いた事があるが、

それはなされず、脱亜論代表されるように、日本は東ユーラシアから抜け出していく。

そして、大日本帝国清国にとどめをさした。

この時、それまであった不文律の東ユーラシアルールが変わった。

かつての超大国は列強に食い尽くされ、その輝きを失った。

アヘン戦争列強の支配、そして日本軍事侵攻中国の大きな傷になった。

近年の経済発展と共に「中華」を認識し始めたこの国は、東ユーラシア覇権を再度、力によって取り戻そうとしている。

「力」による支配はすでに時代遅れのものになっているが、大きな傷を癒すように、暴力的な行動が後を絶たない。

また、過去最大の領土を誇る事が、共産党の大きな統治理由になっているようであるが、その中で、各民族独立の機運が高まっている。

今まで中国投資をしてきた最大の貿易である日本は、足場を大陸から南に移し始めており、経済成長も徐々に陰りが見えてきた。

強烈な貧富の差の拡大は、歴代の大陸の王制の崩壊要因にもなっている。

この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。

駄文長文失礼

2014-02-21

http://anond.hatelabo.jp/20140221121545

大名盟主徳川家とそれを支持する諸藩の藩命によって戊辰を戦った戦死者たち」は「国民ちゃうってことか…

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