はてなキーワード: 性役割とは
生まれてこのかた1度たりともモテた事が無い。生え抜きの喪女。仕事でも業務に関する事以外は男性と会話もない。
女性という性を自分自身の物だと自覚した事も、外部から性役割を求められた事もない。(いやひょっとしたら役割を求められてた時もあったのかも知れないが、空気が読めないので知覚できんかった)
自身の性に対する意識の希薄故か、自分が他の女性のおっぱいを見る目線が性的なものか、そうではないのか、どうにも判断がつかない。LGBTではない。
おおきなおっぱいを見たら綺麗だなーとか顔を埋めてみたいなーと思うし、そのおっぱいが付いている人の顔が好みだったら尚良い。綺麗な姉さんに親切にされると2割マシくらいに嬉しいのと同じ感覚で。
男性が上記の感想だったら、性的目線確定と判断されるだろう。当人の供述は無視される。
女性にとっては、そう言った視線を向けられる事自体が恐怖であり嫌悪の対象であるとの主張を表明する事例が昨今炎上していて、(当事者意識が希薄なので遠巻きに見ているのだが)女性の身体的特徴を性的なモノから完全に切り離せたとして、その先にある世界での繁殖はどういった扱いになるのだろうかと
男女共に性的役割を否定した時、おっぱいは空気のような存在になってしまうのか。
それはなんかさみしい
よく語られる男らしさ・女らしさって
男だと、「女を軽く扱う、暴力的、粗野」で
女だと、「男を立てる、謙虚」だよね。
でもこれは嘘だと思う。
これってどちらも「男、女の弱者がやる行動」でらしさではないよね。
映画や創作の「男らしい」って、「女の為に粗野でラフマッチョな男が一生懸命動いて守る」事が男らしさで、むしろすぐナンパしたり女を軽く扱う奴は女々しくダサい行為として描かれるわけじゃん。
男特有だが、男らしくはない行為。例えば電車男はラフでマッチョではないけど、「女を軽く扱う男から女を救って『男らしさ』を見せ、恋心を持たれる」ってのがプロット。
映画で描かれる「女らしさ」ってのは「感情的だが頭のいい女が、色香を使って男を手玉にとって、自分を守らせる」で、男に媚びるような行為は女特有だが、ダサい行為として描かれる。円光とか。
少女漫画に出てくるような、「自分を虐めるキラキラ系女子が男に媚びるが、媚びる女は嫌いと言ってした自分の方に恋心が向く」ってのがよくあるプロットでしょ。
「男女特有ではあるが本能的にやってしまう欠点」ナンパや円光なんてのは押し付けられたものでも、役割でもないし、自発的に「やってしまう」ものだから価値観を変えようがなくならないものだろう。
「男女特有ではあるが本能的にやってしまう欠点」がらしさとして扱われていて、
本来の社会から押し付けられ重圧になっている「男は女を守らなきゃいけない」「女は男から守らせなきゃいけない」というらしさは手つかずになってる。
性役割から解放したいなら、「男は女を守る必要無いんだよ」「女は自分で自分の身を守らなきゃいけないんだよ」となるはずだけど、なぜか
「男は女性が性被害に遭わないように、声を上げて守るべき」「女は社会に守られなきゃいけない、積極的差別是正措置が必要」ってなってる
つまり何が言いたいかというと「男女特有の本能的にやってしまう欠点を抑止する部分こそが性役割」なのだという事。
性役割から解放された結果として「ナンパをしたり女性を軽く扱うようになる」し、「男に媚びて売春をするようになり、自分の価値を下げる」事になる。
電車で痴漢から女を助ける男も、痴漢はダメだと声を上げる男もいなくなり、女は守られず、男に好きなようにもてあそばれる社会になる。主体性の無い人間は生き残れない社会になるわけだよ。
流行りのフェミニズムと性役割の解放という言葉は共存できない。フェミニズムの本質は「女性としての価値の向上」であって、「女性からの解放」ではない。
「乳を強調する服は性的」という主張にoverEは反論しなかったから仕方ない
声を上げなかったのだから、共犯者であるのも一緒。そういう社会を作った女が悪い。
胸がデカいのはダメとフェミニストが言ったのだから、その価値観に従ってるだけでしょ
男は女を性的に見てはいけない、ってそれ性役割の押し付けでしょ。
おじさんは好きに女を見ていいし、可愛いと思ったら声を上げていい。
なんでセックスもさせてくれず優しくしてくれない女に優しくしなきゃいけないの?
優しさは無条件に与えられるものだと思ってない?
国際男性デーでフェミニストが「男は男らしさを捨てろ」と言ってたんで、男が男らしさを捨てるとはどういう事なのか考えてみた。
端的にいうと反フェミになると思うんだよね。
フェミニストって結局男に優しさを求める活動じゃん。不快なポスターを掲示するな、モノ化するな、痴漢から守れ、見た目で判断するな、高い地位に就かせろ……等等
一見その優しさって男らしさと対極に思えるけど、男が女の為に動く理由って、性欲じゃん
上記等々を実現するには、男性に主体としての強い権力と、理性と、暴力性が必要なわけで
優しさって究極の男らしさだと思うんだよね。
フェミニストの活動、主張は「主体性を女性に男性が与える」矛盾を孕んだ構図で、結局は女から主体性を奪い、逆に男に主体性と男らしさを求め、与える構図になってる。
つまるところ、男が男らしさを捨てた場合、男が女に優しくする理由も、守る理由もなくなるわけですよ。
痴漢されている女性がいても、「なんでセックスもさせてくれない女を救う必要があるの?俺が苦しい時にこの女は自分に手を差し伸べてくれたのか?」ってなるし
フェミニストの主張も「なんで自分達を無碍にする人間にわざわざ優しくしなきゃいけないんだ?」ってなる。見ている世界が違う。
反フェミっていうのはむしろ、男が男らしさから解放される主張になってる。
痴漢されている人が居ても本人が声を上げなければ助ける必要はない。守らなかったからと言って自己嫌悪に陥る必要もない、それは男らしさだから。
不快なポスターもどんどん掲示するべきだ。男が女の為に配慮するのは男らしさの強制だからだ。
いわゆるジェンダーロール「男らしさ」「女らしさ」…
現状社会において、これらをあっさり捨てることができるのは強者のみで、
弱者は捨てることは難しいんでは、って話。
ここで言う強者とはなんらかのスペックが通常より振り切れてる人間のこと。
年収がめっちゃ高いとかコミュ力が万能とか容姿が超美麗とかスポーツとかで実績を残した…とかまあ色々あるが。
言い換えるならば「ハイスペである、という能力的余裕があって、初めてジェンダーフリーを実現できる」というべきか。
ハイスペは既存の保守的な性役割なぞ気にせず生活を送りやすい。
しかしそういうハイスペではない、言っちゃ悪いが無能な人間はどうだろう。
既存の保守的な性役割を外れると、あっさりジリ貧に陥る可能性が高い。
結局、忸怩たる思いを抱えつつも性役割に沿って生きるか、の二択だ。
いや別にね、「弱者はジェンダーフリーなんて諦めてジェンダーロールに沿って生きろ」なんてこと言う気は無いし、
世の人間がみんなジェンダーフリーに生きられれば良いと思っておりますよ。
ただ、私が言いたいのは「男らしさ女らしさなんてくだらない!捨ててしまおう!」
と言われたとき、あっさり捨てられる人間と捨てられない人間に差がある。
だから弱者にとっては「男らしさ女らしさなんて捨てちゃおうよ!」なんて言われても、
「そりゃ強者の論理でしょ…強者だから簡単に捨てられるんでしょ…弱者は簡単に捨てられないよ…」という印象しか持てないと思うんですよね。
https://togetter.com/li/1431341
あえてフェミニストとは言わない。男女同権論者とかリベラルフェミニストとか、
対話から直接見えるものを議論してもおそらく今後ともに実りはないだろう
ただし、俺からは遠い精神構造の存在、性嫌悪者たちの感情の中身
どうも「着衣の薄さ」とか「乳の大きさ」とかそういう表層を嫌悪しているみたいではなさそう
ここの引用内容に現れてるけど、男というものはエロを見て性犯罪を反射的に発生させてしまう
それを留めるためにそちらを思い起こす表現を見せないようにしたいという願望が根底らしい
女自身ではなく男の嗜好に焦点が当てられているため
https://wezz-y.com/archives/70406
なぜなら乳袋の表現がアップデートされ、二次元美少女が実在の巨乳向けブランドの服を着るようになったら
もともと性を感じさせない水着であったスクール水着が嫌悪を起こすようになった過程に通じる
更に性表現の際によく話題に上がるゾーニングも、おそらく描いている絵が俺と性嫌悪者で異なるように思う
嫌いな人間がうっかり性表現に遭遇しないように閉空間の入り口に案内のようなものや
ネットでの通告があればよいと考えていた
しかし性嫌悪者は他社が性表現にアクセスすると悪事を働くと思っているので
自分が見ないだけでは事態は解決せず、他人に見せないことを強要するのだ
すなわち性表現にアクセスするには格別の手間をかけさせることがゾーニングとなる。
いくらテクノロジーが進化して棲み分けが可能になっても無駄というわけだ
「さっきの例は『萌』とかエロに偏りすぎ」
ここに現れる通り、嫌悪者が射程としている嫌悪はエロではなく性役割の固定やブスなどの悪口にも広がっている
というか、役割分担や容姿への価値付け(これがプラス方向なら萌え、マイナス方向なら悪口)自体に
万人を簡単にアクセスさせたくないという欲求があるものと思われる
ここでの役割分担・容姿の価値付けは男女差が大きいものにのみ嫌悪があるようで、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/ro_ki_/status/1191893997196738560
そのへんは発達が差がありすぎるし、早い子が中学生でとおりすぎたことを一生中学のまま生きる人もいる
早い子のほうは「スプラがよくてなぜPUBGはダメなの」って言い出す頃でも有る(たしかに味付けが違うだけでゲーム構造としてはほぼ同じ)。
不器用な子はゲームによくある性役割を過剰に内面化したりもするけど
かといってゲームにある性役割だの人間性描写が全く嘘というわけではない。
人気があるものでもたとえば
「なぜか全年齢ゲーム内で台風のあとのボランティアが疲れきった被災者ともめる様子のエピソード」があったりする。
となると、親が子供の様子を見て一緒に選ぶ(または社会性より体調・心の調子を優先でブレーキを掛ける)しか無い。
誰が言い始めたのでしょうか。
「いわゆる、そうした日本の童顔・巨乳、でか尻、足細の女性キャラって、一昔前の言葉で、使うことにも躊躇しますが「奇形フェチ」だと思うのですよね。
昔の中国の纏足につながるような身体形成で、それは正に男性による女性のモノ化であり、人権・人格否定。」
色々思うことがあったので、自身の考えを整理するためにも書いてみました。殴り書きですみません。
まずこのツイートの背景を簡単に説明します。宇崎ちゃんが採用された日本赤十字社の献血ポスターにおける女性の体の描き方が以上に胸が大きく、つまり女性表象が現実を逸脱しており、これが性差別に繋がっているのではないかという議論が巻き起こりました。それに対して、巨乳を差別している、表現の自由が保障されているから良いのではないか、という意見がありました。
女性の「モノ化」とは?
性別という理由のみで性役割を固定され、女性が主体を失い、男性の理想となるような「モノ」を強制されることを指します。例えば歴史を見ていくと、性は戦争の道具に利用されていました。男性は戦争に行き、女性は家庭を守る。父権主義により女性は家庭に入り、男性の子供を産む道具つまり「モノ」として性役割を強制されるような歴史があります。
今回は、胸を過剰に表現することによって女性が男性の性的消費の「モノ」と化しているものを堂々と公開することは問題ではないか、ということを論点にしています。
→そもそも今回の批判対象はポスターの性表象になります。ですので、現実に存在するGカップの女性(どこからが巨乳かの定義は置いておきます)を批判しているわけではありません。また「奇形」と表現されているのは表象の結果的要素であり、作者の絵柄や萌え絵文化を非難するものでもないはずです。「なぜあえて胸を強調するような絵柄がポスターとして採用され、人の目に留まりやすい場所に掲示されているのか」が問題の本筋となります。
ツイッター上ではこの巨乳を奇形と差別したという話ばかりが広まり、これに対した反応をしている方ばかりを見かけるようになりました。巨乳が奇形だと間違った受け取り方をして、それを広めているのもここの人たちです。
→表現の自由は人権を守った上で存在できることは周知の事実です。
→あいトリで大きく問題にされていた昭和天皇の写真を燃やして踏みつける動画作品。これはそもそも天皇制を批判している、日本の象徴を侮辱しているという文脈で見ようとすると誤解を受けます。この作品を制作した大輔さんは「心の問題としての自画像」を取り上げ、変遷するイメージを天皇として表現しました。本来は世代によって変わる天皇のイメージと皇室タブーの議論へと接続される予定の作品だった。ただそれが上手く行かずに政治的文脈によってのみ判断されてしまいました。現代アートは問題を投げかける作品が多いです。ただその性質上、人間の負の感情からスタートすることが多い。私は表現の不自由展・その後を支持するわけではありませんが、展示が本来持つ意味に沿って機能せず、短絡的な思考により展示が阻害されたのは問題だと思います。これは余談なのですが、そもそも天皇は基本的人権をお持ちなのでしょうか。人権を制限されている制度が存在することを無視して、この動画作品を批判するのはどこか矛盾していませんか。天皇の人権について議論するならば、天皇制についてもきちんと議論するべきだと思ったのは私だけなのでしょうか。
→そのような絵柄を好む方も多くいることは理解しています。その愛好人口のある程度の多さ故に、女性的な要素である胸を強調するイラストは一定の支持を受けている。ただ忘れてほしくないのは、女性の性的要素が強調されたイラストを不快に思う人が存在するということです。今は女性の性的要素を強調しているのみですが、これが水着になったらどうでしょうか。もしエロやグロだったらほとんどの人が批判すると思います。場に適切か不適切かどうか。その線引きについて現在議論しているのです。
→存在し、受ける人が増加する事実を確認しているだけで、勧めているわけではないです。大事なのはこの背景に何があるかということです。胸を性的要素として日常に取り入れすぎてしまい、巨乳、つまり性的要素が強い人が結果的に性的な視線に晒される機会が多くなった。日常に取り入れすぎるというのは、今回のポスターのように市民権を得すぎてしまったことです。冒頭に戻りますが女性の「モノ化」により本来、個人的にやり取りされるはずの女性の性が、大勢とやり取りされることが問題になります。
この一連のツイートへの反応はどうしても本筋の論点とは違ったところへ議論が流れがちです。第三者が各所を切り取り、論旨をすり替えたツイートも見られ、大勢の人がRTしたりしています。これが最近話題のフェイクニュースかあ、と感心してしまいました。もちろん感心してる場合ではないのですが。情報の判断を誤ると生産的で建設的な議論ができなくなります。そもそも議論ではなく「でも私はー」や「でもこんな人もー」などのように個人的な感想や極めて稀な例を出す人もいます。感情や例外ではなく、一般的な例に則った議論を交わすことをお勧めします。私はこの議論に関しては肯定派にいますが、反対派の意見ももちろん聞きたいです。しかしそれは「胸を強調することに問題はない」「このイラストが公共の場に晒されることに問題はない」ことを証明する意見を求めています。
献血、ポスター、漫画、オタク、フェミ、赤十字、クリアファイル、コラボ、企画、広告、ターゲット、Win-Win、萌え、エロ、セリフ、煽り、健全、ラブコメ、巨乳、SUGOI DEKAI、タブー、チキンレース、炎上商法、表紙流用、表現の自由、規制、合法、お気持ち、本能、老害、嫌なら見るな、ゲイポスター、献血ボイコット、空想と現実、非実在青少年、実在巨乳女性、差別、マイノリティ、被害妄想、性嫌悪、ミソジニー、公共の場、不快感、普通、麻痺、環境型セクハラ、記号化、まなざす、性的消費、性役割、性規範、党派性、曲解、結論ありき、オールドメディア、ネットリンチ、フィルターバブル、エコーチャンバー、セレクティブエネミー、勝利宣言、議論が深まっ太郎、ブーメラン、どっちもどっち……。
「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
◉◉
「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
◉◉
オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。
NGOの指導を受けて改善した大ヒット作品を出しても、女性リーダーの活躍の描き方によって別々の批判が来たりしないんだろうか。
映画の男性リーダーみたいに肉弾戦で窮地を凌ぎ、敵をバツンバツン倒していけば、見た目が女なだけで野蛮なホモソーシャル価値観を内面化した名誉男性だと批判されないか?
男性リーダーとは明らかに異なる人物像に描いて、おしとやかで何もかも交渉と対話で解決するストーリーにすると、それは女性に期待された性役割の固定化だと批判されないか?
どんな作品にも批判がつきものだけど、ジェンダー不平等を改善するために作った大ヒット映画がジェンダー問題で批判されると元も子もないので、あらかじめ懸念事項は解決していきたい。
ここんとこのネット論争とかトゥンベリへの話題とかでの、自分やネット民の振舞いを見てて考えたけど、
2013年に増田が指摘した、35病ってのが今になって実にしっくりくるな。
執筆当時は「老害化ってだけだろ」みたくブコメされてたけど、今思うと、老害化よりもうちょいフォーカスが絞られている。
なんつーかさ、「諦め」なんだよね。
がんばっても別に世の中はよくならない……という諦めとはチト違う。
現在の世界で「世の中の改善」とみなされる運動が実を結ぶことはあるかもねと思うが、自分はその恩恵を受けられないだろうなという諦めだ。
「今ちょっと苦労してあれやこれやしたら、美味しいご飯を沢山作る技術ができますよ!」と言われても「最近ものを食べられなくなってる自分を感じるし、10年後とかその美味いメシをどれだけ食えるかなあ」となる。
無理のある年金システムを抜本的に変えましょう、なるほどそれはいいことかもしれないが、その場合丁度私らがもらいっぱぐれることになるんだろ。
性役割から自由になりましょうだの、セクサロイドを開発しましょうだの言って、それが実現する十年とか二十年後には、自分の男や女としての旬はとっくに過ぎている。
色んなイベントが楽しくなる、早く旅行に行ける、VRでこんなことができる、こんなゲームが作られる、でも十年後には疲れやすくなって、そういうのも存分に楽しめなくなってるんだろうな。
倫理的に良くなりましょう、差別をなくしましょう、でもそれが進んでも、もう自分は生きやすくなるよりダルいと思うことの方が増えそうだ
良い人であろうとしたり、良いことをしたりがきっと自分にもプラスになるって若い頃は思いやすいけど、どこかでその期待がなくなるんだな。
「是非は別としても世界的に見て日本は特異(未成年者を性的表象として扱うのに慣れすぎ)」という外国人・海外在住者・帰国子女や、
キズナアイのデザイナーは女性で、ごく普通の「かわいい」イラストを売りにしている人。
「エロく描いてる」とレッテルを貼るのはミニスカートを見て「絶対俺のこと誘ってるだろw」とか言っちゃうセクハラ親父と同じメンタルでしかない。
「絵は気にならないけど若い女性がいつも聞き役・アシスタント役という性役割は実際まだまだあるよね」という反応もあったのに、
広く一般的なマジョリティのための議論は大切だが、デマの被害者を踏み台に利用するな。
そういう議論がしたいなら改めて席を作り直せ。
そして最初にデマを流したのはやはりフェミニストであり、後からも決して少なくないフェミニストを名乗る人々がよく調べもせずいっちょ噛みし続けたという事実から目をそらすのはやめた方がいいんしゃないかな。
別に「フェミニストは絶対悪ゆえに滅すべし」とか主張するつもりもないし、フェミニストのなかにもいろんな人がいるだろうし、「そういうフェミニストもいるだろうが、自分は違うし一括りにするな」と言うなら無視するわけにもいかないが。「フェミニストは関係ない!」っていうのは流石に卑怯なんじゃないかね。
まあ、自分も一時期ながらsaebouなんかに傾倒して、あの人がただの差別主義者であると気付くのに数年かかってしまって、半ば私怨でフェミニストに対する恨みがあるのも事実ではあるが。
分かりづらい?性役割の記号化というのであれば男女を反転させたときはチン袋(笑)なんかにはならない。
「男の人は仕事してナンボですからね」というジェンダーロールに基づくディフォルメでなければならない。
たとえば「歩いてる男性を見ると顔が福沢諭吉に見えた」という価値観に基づき、
「女のビジュアルはバリエーション豊かだが男はみんな福沢諭吉みたいな顔をしている」というような世界観であったり、
それでも分かりづらいようであればATMやサイフの異形頭をイメージしてみるといいだろう。
(「巨乳は単なる身体的な個性」とする言説があるため、バランスをとって「福沢諭吉みたいな顔」とした)
(「福沢諭吉みたいな顔」は単なる身体的な個性だが、イラストに描かれれば異なる社会的メッセージを持つ)