よく語られる男らしさ・女らしさって
男だと、「女を軽く扱う、暴力的、粗野」で
女だと、「男を立てる、謙虚」だよね。
でもこれは嘘だと思う。
これってどちらも「男、女の弱者がやる行動」でらしさではないよね。
映画や創作の「男らしい」って、「女の為に粗野でラフマッチョな男が一生懸命動いて守る」事が男らしさで、むしろすぐナンパしたり女を軽く扱う奴は女々しくダサい行為として描かれるわけじゃん。
男特有だが、男らしくはない行為。例えば電車男はラフでマッチョではないけど、「女を軽く扱う男から女を救って『男らしさ』を見せ、恋心を持たれる」ってのがプロット。
映画で描かれる「女らしさ」ってのは「感情的だが頭のいい女が、色香を使って男を手玉にとって、自分を守らせる」で、男に媚びるような行為は女特有だが、ダサい行為として描かれる。円光とか。
少女漫画に出てくるような、「自分を虐めるキラキラ系女子が男に媚びるが、媚びる女は嫌いと言ってした自分の方に恋心が向く」ってのがよくあるプロットでしょ。
「男女特有ではあるが本能的にやってしまう欠点」ナンパや円光なんてのは押し付けられたものでも、役割でもないし、自発的に「やってしまう」ものだから価値観を変えようがなくならないものだろう。
「男女特有ではあるが本能的にやってしまう欠点」がらしさとして扱われていて、
本来の社会から押し付けられ重圧になっている「男は女を守らなきゃいけない」「女は男から守らせなきゃいけない」というらしさは手つかずになってる。
性役割から解放したいなら、「男は女を守る必要無いんだよ」「女は自分で自分の身を守らなきゃいけないんだよ」となるはずだけど、なぜか
「男は女性が性被害に遭わないように、声を上げて守るべき」「女は社会に守られなきゃいけない、積極的差別是正措置が必要」ってなってる
つまり何が言いたいかというと「男女特有の本能的にやってしまう欠点を抑止する部分こそが性役割」なのだという事。
性役割から解放された結果として「ナンパをしたり女性を軽く扱うようになる」し、「男に媚びて売春をするようになり、自分の価値を下げる」事になる。
電車で痴漢から女を助ける男も、痴漢はダメだと声を上げる男もいなくなり、女は守られず、男に好きなようにもてあそばれる社会になる。主体性の無い人間は生き残れない社会になるわけだよ。
流行りのフェミニズムと性役割の解放という言葉は共存できない。フェミニズムの本質は「女性としての価値の向上」であって、「女性からの解放」ではない。