「土地」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 土地とは

2021-01-23

はーー、マジで民間病院(歯科医含む)は全て滅びて欲しい…

フリーアクセスなんて、はっきり言って患者からしたらちっとも望ましくないんだよ

何処の病院サイトでは良さそうな事ばかり言っておいて実際行くと酷い態度だったりするし

口コミだってどこまで本当か分からない

そもそも、使ってる機材とか手術方法とかがなんで病院によって違うんだよ統一しろ

確立された治療方法がないか患者としては何処を選んでいいのか分からない

遠い土地に良い医者がいたとしても、交通費を考えたらおいそれと通えないしこの制度は本当にクソ。

日本医療制度フリーアクセス批判する人の中にも、患者が好きに選べるフリーアクセスメリットとして挙げる人がいるけれど

患者からしたら何処がいい医者なのか分からいからあちこち回ってみるしかない訳で

ちっとも有り難くなんかない。

保健医制度で全国均一な水準の医療提供するのが望ましい医療(歯科医療)の在り方だと思うんだよね

そうすれば患者側としては医者をいちいち探す必要も迷う必要もなく、交通の便だけで簡単に決められるし

かかりつけ医だってすぐに見つけられるのに。

いっそコロナを機に民間病院が全部国有化されて統一されればと思うんだが

まあまず無理だろうね。

2021-01-22

夫が可哀想

0歳時の育児のために、

私の慣れた土地(私の実家寄り)に住み.通勤片道1時間

朝は子供が起きなければ起きない

夕飯は割と手抜きで炒め物汁物煮物焼物ローテーション

夕食後の皿洗いは子供まれる前からだけど継続して空になった鍋も含めて洗う

洗濯を1日2〜3回するため1回は畳むのを手伝ってくれる

風呂は後に入ったほうが洗うから週5日夫が洗う

夜中少しでも長く子供が寝るように夫が寝る前に子供ミルクをあげる

夫がニュース番組見ている間に、私はおもちゃ片付けて洗濯機回して食器片付けてゴミまとめて夜中のミルク用にお湯沸かして加湿器の水補充して辺りでとてもキレたい気分になり、足の指で夫をつねり足を踏んだ。

夫が可哀想

ごめんよ

今、自分の身に起きてることが一般的状態なのか判断していただきたくて

恥ずかしながら30歳過ぎてようやく一人暮らし始めようかなって思って

suumoから申し込んで、生まれて始めて不動産屋さんに行って来た。

あれよあれよみたいな感じで、申し込んだ時とは違う物件内見に行って来て(もちろん初体験

それで、またあれよあれよみたいな感じで、今は審査中みたいな感じで、もう一回行ったら2月1日から契約

こういうことってこんなものなのかなってのを伺いたい

※補足的なこと

東京一極集中

どうして東京に集中するのかな

アメリカなんて首都ワシントンなのに東海岸西海岸にいいかんじに都市がばらけてる。

官公庁しょうがないとして、御所関連と会社本社東京にある必要性がない気がするがどうなんだろう。

土地も安い地方もいっぱいあると思うんだよね。もうリモートも普及したし集まる必要性も薄くなったんじゃないのかな。

神様信仰することのアホらしさ

タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人神様信仰していない。私は神様ではなく自分幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人信仰している。

私の家系日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家仏壇を拝むときだけだ。クリスマス初詣もするし、お守りを持つこともある。

このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如である批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。

しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。

日本人宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教儒家思想キリスト教などが入ってきても変わらなかった。

このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系災害の多さに求めた。日本人古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国植物動物の息吹があまねく見受けられるのである

こうした環境日本人精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米中東のような一神教的な絶対神日本征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教神の国の一部として取り込まれるのだから

遠藤周作小説沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本根付かず改変されていることを元宣教師フェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなである

一方でキリスト教イスラム教などの一神教誕生したのは、砂漠の国中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。

それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパ民族合理的従順だったかであるヨーロッパ生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャローマ代表される科学合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。

ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本一神教が人々を統べる欧米中東差異が分かる。そして、これが日本無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。

一神教宗教観は日本無宗教非難するが、それは無宗教神様信仰しないからだ。一神教の神は世界創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教非人間的な態度であり、シリアルキラー同類存在なのだ。先の私の小学校先生無宗教人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由無宗教に求めたのだ。

その上で私は一神教宗教家の方々の私の宗教観への批判反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。

先ほど私は日本宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである

私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。

沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしま申し訳なさで死んでしまいそうだ。

何か危機に陥ったときにかつては祭祀加持祈祷に頼っていたであろうが、科学時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。

今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。

では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなとき世界沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。

だが、それは私が世界とのコンタクト放棄しているかである世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである

私は長々とここまで語ったが、私は他人宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。

私の記事は以上だ。

anond:20210121201121

おおむね良いことだと思うので大筋同意なのだけれどすこしだけ、二つだけ加えさせてほしい。

まず一つ目は信用について。

「信用」とは本人が保持するものではないということ。

言ってみれば持っている現金が「信用」そのもの

これの量が信用であり多ければ多く信用がある。少なければ少ない。

これは本人が持っている信用を一次的に具現化しているものからそうだと言える。

ならば「信用」の本体はどこにあるのか。銀行の台帳に書いてある名前が「信用」そのもの

ネットでは顔と名前を出した時点で銀行に口座をつくったようなものになる。

銀行の台帳に名前を記した状態と同じになる。

そこから、その口座にいくら入れたか出したかの記録が信用となる。

借金が帳簿の上では資産になるとはそういうことだ。

銀行から出した金が当人の口座に入ってる、信用が口座に振り込まれているということは銀行が帳簿の上では貸付として信用をマイナスというリスクを背負って、口座の当人現金という信用をプラスにしている。

借金はすればするほど信用がプラスになっているのだ。

もちろん、借金が出来る前提はあり借金ができない人もいる。もともと信用がないものには貸し出さない。

これだけで伝わる頭の良い人たちばかりで良ければよいのだけれども、念のためにもう少し信用について話したい。

小切手現金に変わる信用として出てくるが、これは銀行振り込みを手動で行っているのと同じ。

現金持ち歩いてないけど今すぐ振込をしてあげたいが端末がない、現金持ち合わせもない、銀行にはあるのだが、という時に使うもの

その紙切れが信用を使って現金にできる、というわけではない。

信用をつかうのは等価で交換するとき現金を使う事ではない。

日本硬貨には日本国と書いてある。これは政府発行通貨でその資本日本にあるもの全てがそうだ。担保がある。

これを交換するときにわざわざ土地と船を交換するとき土地を持って行って船を持ってきた客と交換するのかというと無理があるから金に変えている。

小切手みたいなものだ。その商品の換わりに政府がそれの価値保証している日本のものだ。

日本価値のものなので、それを偽造することは日本で起きる事実日本がそれを事実とみとめるその基準を歪ませることなので重大な罪になる。

その他に日本銀行が発行している券がある。いわゆるお札だ。これは「信用を価値とする」ものだ。

担保がない。可能性について、未来について、予定について価値をつけるものだ。

等価交換から貨幣の話に入ることもしばしば見受けられるとおもう。しかしそれはすぐに理論破綻する。在るものを交換しても経済は成長しないからだ。

1年かけて工場建設し、5年かけて生産を伸ばし、そこでイニシャルコスト償却して純利益を伸ばしていく、という事業計画があったとする。

するとまず最初に5年分の出費と収入分の現金必要になる。そんな金があったら工場なんかつくるより投資したほうが得なのでは。

そもそもそんなに土地物資資産を持っている人間がいるわけがない。純粋にそれらを損失させて事業を成す人間などいない。

なので少ない資金から事業を「借金して」始めるわけだが、どこにその「借りてくる金」があるのか。そんなもの存在しない。

なぜなら未来へと時間が経過していくにしたがって誰かが何かの事業で増えていくもののそれであって「現在には存在していない」からなのだ

ではその「架空未来存在するであろう価値」をどうやって現在に持ってきて現金とするのか。それが信用なのだ

その未来分を持ってきて現金として発行するのが「日本銀行券」なのだ。そのお札そのものが信用であり履行されるべき約束であり生産されるべき未来なのだ

まり、信用というまだ実っていない未来を現時点の価値として、銀行担保で現時点の価値へと「銀行リスクを背負って」物資と交換する貨幣まり日本価値保証と変えているのだ。

その信用を託された人間借金をした人間というもの現金として具体的に目に見える形で「信用」が移るので、まるで借金をした当人に信用が移っている、あるように見える。

人間に信用が付くわけではない。信用という銀行が前借したリスクを、誰を使って回収するかという選別によって一次的に価値を借り受ける人間には、実質「リスク」はない。

貸倒というものがある。貸した金が帰ってこないということだ。これは何のリスクなのか、少し考えればわかると思う。

言い換えて現金を手にもっているそのお金の重みが信用だと、上記理解したうえでなら言っても問題ないし言葉としては同じだ。

もし仮に「信用を買った」というのであれば、それはだれかの未来を履行されるべき内容のもとに買い取ったということになる。

かに恩を受けたからそれが信用として、といった形で信用をつかうのはいわゆる信心である個人的個人的ポリシーのもと可能性を信じるのはそれぞれの勝手だ。

良い人だから裏切るはずはない、などと信じるのは個人勝手だ。金が絡むと親族でも豹変するなどの事はあるだろう。個人信心をもとに行動すると結果はそんなものだ。

証書をとり担保をとり連帯保証人を立てる、それくらいは信用について必要なことだという事は個人取引をするのならわかるだろう。

重ねて、信用とは貸出側の帳簿にあるもので、個人が持っているものではない、買えるものでも譲れるものでも人から得るものでもない。

信用についてはここまで。




次に、マルチにハマって経済回してる気になってる事についてなのだけれども、経済学をやっているのならまず帳簿をつけていないのではないか

帳簿をつけてほしい。

どこから金がはいってきて、何を売っているのか。

まず、クラファンで金が入ってきてるってそれは「乞食をしている」だ。

金をくれとしかいってない。そんなもの銀行事業計画書を持って行って借りたらいいものだ。なんなら信用金庫でもいい。

なぜしないのか。返さないからだろう。返す当てがないから。現金が欲しいだけだから

「信用」ではないのだ。その金は。

未来に発生するバリューがないことがその時点でわかっているのだ。

発生した利益還元しますと言えないのだ。生産をしていないのだ。経済活動をしていないのだ。ただ消費して消耗しているのだ。

そして何を売っているのか。それが価値があることなら、損失をしていても価値があるのならNPOになるべきだ。

それならば寄付が受けられる。プペルトラックなんて価値はないと初めから決めつけて事業を開始するのは心苦しいだろうけれども収益があがらないとはじめから予見されているのだからしょうがない。

それでも絵本を見せたい。子供たちに笑顔になってほしい。そう思うのなら寄付を募るべきだ。前後したがクラファンでもいいだろう。

NPOともなれば各業界から支援が受けられる。事務必要もの、決済や運営必要もの、数多くが無料で得られる。活動さら有益であるとされるのならば公益もとれるだろう。

営利活動目的をしている団体、いわゆる一般企業CSR観点からそういう協力は惜しまないだろう。

なぜすばらしい活動に自費で挑むのか。

さらに言うなら、良いことを損失覚悟でやることについて商材そのもの本体提供者が割引をしないわけがないだろう。

定価で商品サロン生に卸して勝手に売って個人収益にしてもいいよ、なんて言うわけがないだろう。

仕入れの値段、借入金事業計画収益、帳簿はエクセルでも100均メモ帳でもいい。簡単ものでもいい。覚書として数字だけ書いていてもいい。

一度帳簿をつけて、自分人生数字としていまいち見直してほしい。

以上二つを、添えて私からもさいとう氏が目覚める日を期待して祈りたいと思います

2021-01-21

anond:20210120110440

五味八珍の浜松餃子が紹介されていましたので参考まで。

 

東京方面から一番アクセスやす五味八珍は

熱海駅ビルに入っている五味八珍ラスカ熱海店だと思います

新幹線でつーっと行けば東京から45分くらいで到着。

安く済ませたい場合東海道線にのって1時間50分くらい。

元増田浜松県民を名乗ってるのに、静岡のお店紹介で申し訳ない)

 

熱海という土地柄、いかにも観光地っぽいお店が多い中で、

平熱で通常営業している雰囲気が居心地よかったです。

五味八珍のためだけに新幹線に乗って熱海に、というのは、

大げさすぎてお勧めしませんが、

温泉地に行ったついでに地元民に愛されているらしい

割と普通中華屋さんに立ち寄って、

取り立てて変わったところのない餃子を食べてくるなんて

悪くない感じがします。

anond:20210121185223

知り合いもいるけどいいんじゃない

とくに親がいて、持ち家土地付きとかなら、それでわるいとは思わない

さら農家とかだとそもそも高卒でいい

『〇〇出身』ということを大きく取り上げるのにもやっとした話。

◎はじめに※必読

① これから後ダラダラとまとまりなく続く話は隙自語のチラシの裏も裏のクソもクソみたいなものなので、本当に暇な人以外は読まない方がいい。

② この話の中で先日賞を受賞したとある小説家の方を取り上げるが、これを書いている増田はその方のことが嫌いなわけではない。今回賞を受賞した本はまだ読めていないが、デビュー作は読んでいる。とても面白かった。オススメ

 あくまで『〇〇出身』という表記についての増田が持ったくだらない感情を吐き出したいだけです。以上、よろしくお願いします。


◎今回書こうと思った事の発端

 今朝L〇NEを開いて飛び込んで来た地元新聞社トーク見出し文字が『〇〇出身小説家、賞を受賞』だった。

 記事確認する。確かに〇〇出身しかし、〇〇出身とは言っても育った場所は他の場所のようだ。→別に〇〇出身を大きく取り上げる必要はなくないか


出身意味確認

1 その土地身分などの生まれであること。その学校団体などから出ていること。「九州出身」「民間出身閣僚」「出身校」

2 官に挙げ用いられること。出世すること。

「名利を志し―を宗として」〈沙石集・一〇〉

 コトバンクより。今回の場合は1の方。辞書を引いたりもしたが、大体こんな感じ。見出しに間違いはない。

 小説家プロフィールからしても〇〇で生まれたのも間違いはない。


 ◎じゃあなんでもやっとしたんだ?ここから増田感情の話なので本当に読まなくていい。

 これは確実に増田コンプレックスが起因している。多分調べれば増田が上げている小説家もその出身地も分かると思うが、増田はその〇〇に近い半島出身。(近いとは言っても険しい山に隔てられた陸の孤島ともいえる、なので田舎人間の言う距離が近い、だと捉えてほしい)

 その小説家出身は〇〇で育ちは隣県、大学はK大学だという。

 まず隣!県!!育ちは隣県だってわかってるのか?

 記事を書いてるような県庁所在地(じゃないかもしれないが)の人間にとっては隣県(明確な場所はわからないが〇〇や半島と比べたら確実に都会)と県庁所在地にたいして違いはないのかもしれないが、増田からすれば違いは大有り。隣県なら半島のように新幹線の通る駅にたどり着くまで二時間半なんてことはまずないだろう。

 いかにもその小説家出身地で育ったような書き方をしないでほしい。

 絶対に、ほらやっぱりこの土地は素晴らしいじゃないか!みたいなのがよく調べも記事を読みもしないで言うのが出る。出てしまう。恥ずかしすぎる。

 これは明確な情報かはわからないが、その小説家中高一貫出身だという。

 仮に小学校の間は〇〇で過ごしていたとしても、都会の中高一貫がどんなものなのか増田にはわからないが、近隣にある過疎化少子化の進む地域の中で人員削減の為につくってみた公立の小中学校で合体してみて一貫教育です!や、エスカレーター式でその大学へと大半が進むニッコマのニの方の学校や前総理夫人出身校と同じ母体女子校とは、まず違うだろう。

 動物園のような小中高が地方にはあるし、それが当然で大学名なんてたいして問題にもならなくて地元のどこの高校を出たかけが重要視されているような世界が外にも同じように広がっているとでも思っていると、その小説家もそうだと思ってしまうのだろうか。恥ずかしいを通り越して悲しい。(Twitterを見ていたら多分記事も読まずにそう言っている人がいたので余計悲しくなってきた)

 

 ◎結論、何が言いたいの?

 その見出しさあ、なんか恥ずかしいのよ。ってだけの話(それなのにめちゃくちゃ長くお気持ち書いちゃったな……)

 田舎者の地元愛の塊みたいなのをその見出しに感じたからだと思われる。そして所詮自分もその田舎者の一部ということを願書の住所を書いていたら改めて感じて悲しかったのかもしれない。

 以上、自意識過剰増田地方と都会の差を勝手見出しから感じて恥ずかしがったり悲しがったり妬んだりしただけの話。受験生なのに何必死になってこんなの書いちゃったんだろうね?

 

『〇〇出身』ということを大きく取り上げるのにもやっとした話。

*~~はじめに※必読

① これから後ダラダラとまとまりなく続く話は隙自語のチラシの裏も裏のクソもクソみたいなものなので、本当に暇な人以外は読まない方がいい。

② この話の中で先日賞を受賞したとある小説家の方を取り上げるが、これを書いている増田はその方のことが嫌いなわけではない。今回賞を受賞した本はまだ読めていないが、デビュー作は読んでいる。とても面白かった。オススメ

 あくまで『〇〇出身』という表記についての増田が持ったくだらない感情を吐き出したいだけです。以上、よろしくお願いします。

**~~今回書こうと思った事の発端

 今朝L〇NEを開いて飛び込んで来た地元新聞社トーク見出し文字が『〇〇出身小説家、賞を受賞』だった。

 記事確認する。確かに〇〇出身しかし、〇〇出身とは言っても育った場所は他の場所のようだ。→別に〇〇出身を大きく取り上げる必要はなくないか

**~~出身意味確認

1 その土地身分などの生まれであること。その学校団体などから出ていること。「九州出身」「民間出身閣僚」「出身校」

2 官に挙げ用いられること。出世すること。

「名利を志し―を宗として」〈沙石集・一〇〉

 コトバンクより。今回の場合は1の方。辞書を引いたりもしたが、大体こんな感じ。見出しに間違いはない。

 小説家プロフィールからしても〇〇で生まれたのも間違いはない。

**~~じゃあなんでもやっとしたんだ?ここから増田感情の話なので本当に読まなくていい。

 これは確実に増田コンプレックスが起因している。多分調べれば増田が上げている小説家もその出身地も分かると思うが、増田はその〇〇に近い半島出身。(近いとは言っても険しい山に隔てられた陸の孤島ともいえる、なので田舎人間の言う距離が近い、だと捉えてほしい)

 その小説家出身は〇〇で育ちは隣県、大学はK大学だという。

 まず隣!県!!育ちは隣県だってわかってるのか?

 記事を書いてるような県庁所在地(じゃないかもしれないが)の人間にとっては隣県(明確な場所はわからないが〇〇や半島と比べたら確実に都会)と県庁所在地にたいして違いはないのかもしれないが、増田からすれば違いは大有り。隣県なら半島のように新幹線の通る駅にたどり着くまで二時間半なんてことはまずないだろう。

 いかにもその小説家出身地で育ったような書き方をしないでほしい。

 絶対に、ほらやっぱりこの土地は素晴らしいじゃないか!みたいなのがよく調べも記事を読みもしないで言うのが出る。出てしまう。恥ずかしすぎる。

 これは明確な情報かはわからないが、その小説家中高一貫出身だという。

 仮に小学校の間は〇〇で過ごしていたとしても、都会の中高一貫がどんなものなのか増田にはわからないが、近隣にある過疎化少子化の進む地域の中で人員削減の為につくってみた公立の小中学校で合体してみて一貫教育です!や、エスカレーター式でその大学へと大半が進むニッコマのニの方の学校や前総理夫人出身校と同じ母体女子校とは、まず違うだろう。

 動物園のような小中高が地方にはあるし、それが当然で大学名なんてたいして問題にもならなくて地元のどこの高校を出たかけが重要視されているような世界が外にも同じように広がっているとでも思っていると、その小説家もそうだと思ってしまうのだろうか。恥ずかしいを通り越して悲しい。(Twitterを見ていたら多分記事も読まずにそう言っている人がいたので余計悲しくなってきた)

~~結果何が言いたいの?

 ただ、田舎者の地元愛の塊みたいなのをその見出しに感じたからだと思われる。そして所詮自分もその田舎者の一部ということを願書の住所を書いていたら改めて感じて悲しかったのかもしれない。

 以上、自意識過剰増田地方と都会の差を勝手見出しから感じて恥ずかしがったり悲しがったり妬んだりしただけの話。受験生なのに何必死になってこんなの書いちゃったんだろうね?

 

2021-01-19

anond:20210119142926

この前建てた物件都市ガスを引こうとしたらその土地の近辺の道路都市ガスの管が来てなかったからガス管の延長工事が入ってしまって全額負担とか言われたので諦めたよ。

まぁそういう物件もあるという話なだけだけど。

anond:20210119094033

そこまでナイーブなら何で戸建て住宅という逃げも隠れもできない負債をもったのかよくわからない

その分だと不動産の基礎すらあまり理解していないんじゃない?

自分は家を買うときは、広さ、駅から距離、値段、間取りばかりを気にしてそこまで細かいことは気にしなかった


アパートとかならそれでいいよ。引っ越せるし。だけど戸建てでそのくらいしか見ないなら、ナイーブ通り越してる。自分ナイーブと思ってるなら論理武装しよう。未来予測回避しよう。

不動産関係の本を読めばわかるけど、もはや不動産屋に騙される時代じゃないからね

いや騙される以前の問題かも



これはマジで理解しないと。周辺環境なんて序盤も序盤。漫画で言うなら主人公名前性別を覚えるようなものからね。

ハザードとかみるのは当たり前。過去の水害や地震液状化も重ねてみるべき。ハザード安心感ではなく将来売るときに困るんだよ。もしも液状化で傾いたら最悪引っ越さなきゃいけないし、家や土地も売れなくなる。俺の近所には真新しい戸建てが建ってるけど、3ヶ月で300万以上下げても6棟のうち1つしか売れてない。直ぐ目の前にブロック塀が傾いた家があるからだろうな。

土地によっては元々ため池とかで地盤がグズグズってケースもある。

中学校とかは防音処理でなんとかいけるけど、問題学校に近いと言うだけで子供友達連れてくるケース。これは回避不能

クルマ道路に関しては仕方ないと思う。住んでみないとわからない部分だから。でも交通量はクルマ運転している人ならまず理解しておかないと駄目な部分なので、休みを使ってでも朝夕の出勤ラッシュ時の様子は抑えるべき。あと歩道が狭くて事故が多いとかもみるべきだよね。

時々あるけど計画道路で家を持って行かれることもある。

https://suumo.jp/journal/2016/06/06/112325/

まあクルマ道路関係は見るべき所が多過ぎだけど。

いまさらこんなこといってもだけど家を買うなら知識ないと詰む。正直、元増田にある奴はどれも定番のものばかり。全部回避しろとは言わないけど自分が将来どういったことで困りそうかくらいは想像しないと。正直、もう家を売ってしまって賃貸にしよう

anond:20210119132630

ライブ中継してたやつか?

てか流行ってるの都市部だし土地なくね?

anond:20210119130557

田舎なら300万円代前半でも立つよ

都内土地が高い

田舎県庁所在地レベルでも土地代500万円以下ごろごろしてる

凝らなければ上物は1500万でいけるから年収300でもふつうに買えるよ

anond:20210119110242

純粋なガス引き込み工事費が1メートル1万円以上する。実際に「ラスト10センチ」までのガス管まで計算する必要があるので高い

・ 地面を掘ってガス管を埋めるのだが、本管から自宅まで繋ぐ際に他人土地を掘る場合他人許可必要結構割合で断られる)

プロパンガス機器から都市ガス機器に変更するのが高い。ほぼ新品ならいいが、古いタイプ対応部品変更の部品がない等で買い替えが無難なため数十万の出費

てなわけで、仮に周りのおうちが全員許しても50万円近い出費がデフォなので「じゃあ、プロパンでいいや…」となる

古いアパート都市ガスのところは大家さんの過去英断感謝だぞ

2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

2021-01-17

anond:20210116135017

俺も今は東京住んでるけどずっとはあり得ないと思ってる。

家賃が異常だからね、他の土地であれば半分の家賃で部屋も広く、建物も新しい所はざらにあるし、周り観察してても子連れ堅苦しい思いしてそうな場面が多くてここは家族で暮らす場所ではないと感じてる。

あくま20代30代のキャリアと人との出会いのために住んでる、という感じ。

テレワーク仕事済ませられてるけど、この仕事環境で好きな土地に住むことができれば最高だよなぁと思ってる。この先10年でこれが当たり前になってくれると嬉しい

anond:20210117172351

東京が恋しいんだね。知り合いもない土地で頑張ってるじゃないか

anond:20210117093405

クイズはみんなそうでしょ

常用漢字やら、地名は読めた方が大人として恥ずかしくないと思うけど

後者は見知った土地じゃないと難しいけどね

田舎の嫌なところ:リアル

ヘイトを出さんとリアルに嫌なところを挙げてみよう

・虫がおる

 ムカデゲジゲジスズメバチ

 一番嫌なのはムカデで、身近さと実害を併せ持っていて最悪 父が寝てるときに刺されたという話を聞いたときはしばらく落ち着いて寝られなかった

 ゲジゲジはとにかく見た目が本当にキショい 益虫らしいが、外見がゴキブリの8倍くらいキショいのでそんなこと言ってられん ホンマにキショい

 スズメバチは家の外にしか出ねえが、怖さのレベルが違う 幸い刺されたことはないが、やっぱ「刺されたら死ぬ可能性がある」ような生き物がその辺をブォンブォン飛んでるのはホンマに怖いですよ 

 俺の田舎にいたのはスズメバチのなかでもデカい、その名もオオスズメバチで、ガチデカい 5センチとかある 超怖い ほんで近づくと顎をカチカチならして威嚇してくる 警告してくれるだけ有情なのかもしれないが、俺は家に帰ろうとしてんだから威嚇されたって困る

 毛虫とかも多い 春になると毛虫に覆われて真っ白になる超キショい木が近所にあって嫌だった

交通網がカス

 というよりは、都会の交通網が優れすぎなのか

 田舎から大阪に出てビックリしたのは、隣接する都道府県に片道1000円もかけずにすぐ行けてしまうこと どっか出かけようぜ!となったときに、大阪京都奈良兵庫くらいが候補に入るのはすごい 淡路島にも行ける

 俺の田舎じゃ隣県まで遊びに行くなんてことは考えられなかった 時間もかかるし、なにより金がかかる 

その辺の人が話しかけてくる

 田舎云々じゃなくて地元からかもしれないが、その辺を歩いてて謎のジジババが話しかけてくる頻度が高い

 しかも何言ってるかガチわからん 訛り+フガフガ声によって本当に理解不能領域突入している そんで話長い 助けて!と思いながら曖昧な返事をし続けるしかない

学校ウンチ

 子供絶対数が少ない上にヤンキーが多い 少なくとも俺のところはそうだった

 特に小学校が酷くて、同級生は9人 女子がひとり、ヤンキーが7人、そして俺だった 嫌いなタイプ人間と嫌いじゃないけどヤンキーなので怖い(カジュアルに殴ってくる)タイプ人間しかいなかった

 小学校時代の思い出を楽しげに語っている人をみるとちょっと悲しくなる 9人しかいないのでさすがにぼっちって感じじゃなかったけど、じゃあ「友達」がいたかというと、いなかった気がする

疎外感

 ほとんどのイベント東京大阪でやっているもので、自分には縁がない感じがしてしま

 まあ地方開催のやつだって時々はあるし、本気で行こうと思えば行けたのかもしれないけども、やっぱハードルは高いよな

 でも俺これに関しては都会育ちでも行ってない気がするな そういう意味で実害は多分被ってないんだけども、それはそれとしてなにかのイベントの詳細を見るたびに東京東京大阪大阪なのは疎外感があった

 テレビなんかでずっと東京の話をしてるのもツラいものがあった 

ーーー

 「都会のリベラル田舎暮らしに憧れて、田舎に住んでみた!」というのが俺の家庭だった

 親は東京出身だったし、それなりにええ仕事をしていた

 ホンマ何してくれとんねん 殺すぞ 田舎に住むな という気持ちは正直あるが、「田舎特有の閉塞感」というものは感じなかった つか子供会とか参加した記憶がないし、多分浮いてる家だったんだろうな

 いや、しかし、そもそも地縁みたいなモンがある土地柄ではなかった気がするぞ 昔からここに住んでるんですって感じの家庭は全然なかった

 クラスメイト、全員近所の児童養護施設の奴か転入者だった

 多分滅びすぎて地縁が消え失せた謎の地域だったのだろう そういう意味では一般的田舎とはまた違う雰囲気だったんだろうな

 でもニュータウンではないんだよなあ!タウンじゃなかったもんあれ 道沿いにしか家ないし、「山を切り拓いた道沿いに家々がへばりついた場所」って感じだった 町とか村以下の存在だった

 稀有体験だった気もするんだが、やっぱ都会で育ちたかった感じはどうしてもある

 今都会に住みたいって話じゃなくて、都会で育ちたかったって話なんだよな

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん