はてなキーワード: 商業主義とは
ひとつ前のTBが指摘しているように「精神病」としてのペドフィリアは社会情勢と関係なく以前から存在しているが、商業主義による「性的対象の低年齢化」は確かに戦後日本独特の社会現象だった。「幼い」「成熟していない」ことが性的アイコンとして『メインストリームで』もてはやされるようになったのは日本における「アイドル」という概念の誕生と時を同一にしている。テレビの中の「成熟していない」少女に欲望を向けることに慣れた男たちが現実世界においてもその欲望を露わにしていく過程を「焼畑農業」と呼ぶことはさして間違いではないし、そこから戦後日本社会の病理を読みとることも可能だがそんなことは宮台先生あたりに任せておこう。サブカルチャーにおける「戦闘美少女」の誕生とその一つの達成点としての冲方丁と桜庭一樹に関しても、ここでは言及しない。
重要なのは「焼き払われた」少女性をどうとらえるかだ。男性の欲望がより低年齢へと向かい、彼女らが「私は女であり、女は売り物である」という自覚を低年齢で持つことが社会的に/倫理的に悪なのかどうかという判断はここには示されていない。もちろん女児に性的欲望を向けることをためらわない男性/そのような男性が存在する社会は危険である。だがそのような現実を自覚したうえで、彼女らにどう「武装」を施すかが、母親としての責任でもある。ジェンダーに関する教育はそのあとでいい。もちろん元増田が自分の中の「焼き払われた」少女性を自分の娘に肩代わりさせたいのだ、というなら止めはしないが。
基本的搾取権と言っても、基本的に誰でもが持ってるわけではなく、当たり前のように与えられているわけでもない
そう見えるだけでそうじゃない場合もあるし、本当に搾取的な事をしている場合もあるだろう
2chって学歴とかすごく気にしてる人もいる。yahoo知恵袋だと本当にそんなに気にしてない人もいるのに。例えば子供の進路でも単純に偏差値で決めるのでなく、校風やクラブ活動が活発かどうかなども基準に、本当に選んでいる人たちもいた。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1054596645 中学生の娘が偏差値55の私立高校に受かったのに、48の公立に行きたがってます。
自分は私立に行って欲しいのですが、本人の意思がかたいようです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111557701 高校受験を経験した方、志望校は何をみて決めましたか?(設備、部活、校風etc.)
来年受験の中3なのですが、どうしても偏差値だけで判断しがちになってしまいます。
2ch運営の削除要求に対する対応について、官僚的と評されてたのを読んだ事もあるが、硬直した柔軟性を欠いた態度、それがやりたくて仕方ないような空気を感じないでもない。
それに、あの仕組みは、作った人だけが得をしているのに、商業主義に乗せられてないと思っているのも不思議だ。
あと、ユーザーは、やたらルールに従うのが好きw そして新規の人をそれに従わせるのも好きw
だけど、元々は他の人が作っていた掲示板にマルチポストして宣伝して、客を奪ったのが始まりだから、ルール違反した人が作ったシステムという矛盾
なぜ、商業主義を嫌っているのを推奨したり、商業主義と関係ありませんよ、というポーズをとるかと言えば、自分達以外の商売をそこでさせないため。(これは当たり前でどこのサイトでもそうだろうけど、商業と関係ありませんよというポーズを取ってた)
2ch運営(初期運営?)ほどうまく搾取できてない集団だと思うけど、体質としては、そういう資質を持った人が、多く集まった印象を受けた。
しかし、みんなで搾取しましょう♪とか、音頭取ってやってるわけではないだろうから、自然とそういう感じになったのか、たまたまそう見えるだけか、よくわからないけど
何が似てるんだろう 何かが似ている
素じゃない感じとか、悪い意味で老成しているところとか
自分に対して不思議な事をしてきた人が、考えてみたらやってる事が親と似ているなあと思い、どういう心理や心境でこういう事をするのだろうと、探ってたら、やばい結果を探り当ててしまって・・・
これは、もう何たらハウス関係なくごく個人的な事だろうな、と思ったが
こういう人を、引き寄せてしまう魅力が何かあるのかもしれないとは思う。
閉じた世界を感じる
カウンターカルチャー的ではなく、強いものの味方で、弱そうと見たら、権威主義的な態度を取るw そんな感じ
実際、権力者の近くにいる人がいて驚いた。 無茶やってるように見せながら、力に阿り擦り寄り
切ったら血が出るような、人間的な感情の発露というのを、止められてるのか、切捨てられてるのかわからないが、人間的感情の発露が理解できない。
こういうのって、今年問題になってる地震後の原発問題に対する東電の態度が官僚的な事や、官僚全般(中には頑張ってる人もいるかもしれないが)や日銀とか、弁護士や医師、の一部の態度にも通じる態度のような気がする。それを真似してるような。所謂困ったエリートは、搾取が当然と思ってて、高校生ウルトラクイズの賞金か何かだと思ってるのかもしれないと思う。
真似してるというか、そういう良くない力がある事を知って、それを肯定しているようなところはあると思った。
書いていた創作か実話かわからない話に、精神病院の中の様子が出てくるものがあった。その中の患者の様子の描き方が、医師にとって都合が良い描き方をしていた。それは、そういう人ではなく、そういう状態の人なのではないのだろうか?そして、それを治すのが、サポートしたりケアしたりして治すのが、医師の仕事のはずなのに、それができてないのは医師の責任ではないのか?
それを認識してない、その視点からの指摘が無い、抜け落ちているのはなぜだろう?
強さ弱さしか見られなくて、それに対して自分はどう思うのかという自分の判断力が入ってない、ものすごく子供な状態のままいる、そのくせ力を欲しがるのか、子供だから力を欲しがる、のかもしれないが。
そんなにうまく力が手に入るとは思えないけど、だからこそ、弱そうなものを見ると見境がなくなるのかもしれないし、自分達のフィールドに引き入れてしまえば、それなりに力を保って人に接する事ができる仕組みを作っているというか、作ろうとしているのかもしれない
。。。。。。。という妄念
さえ湧き上がってきてしまうほど、個性的な人が集まっているのはなぜ?
ただのシェアハウスのはずなのに
http://anond.hatelabo.jp/20111107124425の者です。
いいんじゃない、家族や恋人に普段「愛してる」って言わない文化の中にいるんだもの。
ノンクリスチャンにとっては、父の日や母の日、恋人の日のようなものなんでしょう
クリスチャンの中にもそういう商業主義的な雰囲気をひややかに見てる人がいるけど、
人間関係のためのいいきっかけにでもなれば全然問題ない、むしろ素晴らしいと思ってます。
…でも休日や「○○の日」の由来はちょっと学んでほしいけど(笑)。
聖バレンタインがなぜ聖人になったか知ってる人が少ないのは正直寂しい。
本当は家族や友人への愛情表現が特別なものではなくなればいいんだけど…
やっぱり心の中を見せるのが恥ずかしいんでしょうか。それは、相手を信じてない証拠だと思ってます。
世の中荒んでるなーとため息出ちゃいます。
これ、何かに似ていると思った。
昔の2ちゃんねらーへの人間ができ過ぎた対応はどうなったんだ?!と思ったら・・・
乙武さんは、一部の2ちゃんねらにしか過ぎない人を2ちゃんねらだと思ってるし、それを評価してるし、だんだん同化しつつあるようなのを、検索してたらなんとなく感じた。
褒めてたり、煽り耐性がついたとか、ツイッタなんか2chに比べると余裕とか・・・
「若くして世に出てしまった僕に強く物が言える人」で検索すると出る
乙武さんが2chをいやν速を意識してるのがわかるらしいバンド名
http://watch2ch.2chblog.jp/archives/3811689.html
何事に対しても、斜めでやりすごすというのも、道化やふざけ、からかい、中傷で対応する、(時には罵詈雑言) というのも、一種の自我防衛本能ではないかと思うが、防衛しなくてはいけない何かがあるのかもしれないし、それは別の守られ方をした方が良いのかもしれないけど、
何も乙武さんまで真似しなくても・・・ 嫌な事は嫌と言えばいいんじゃないの?
嫌じゃないのかもしれない。本当に好きなのかもしれない。
だから、こういう風に言うのかもしれない
「「2ちゃんねる」において、僕は不思議と愛されているようで、」
http://blog.livedoor.jp/yumemigachi_salon/archives/51422547.html
でも、こんな事↓するくらいなら、名誉毀損で黙らせた方が良かったのではないか?(註あり)
どっちもかまってちゃんなのに、
しかも、彼が取った手法は、3行でで済ませてしまったり、一部を切り取って見せることで、全体をわからなくさせ、物事の本質や深い理解を遠ざけてしまったり、一面的な事実や、一部の義や理によって断罪するやり方 断罪ではない断罪 罪とは言わないがやられた方は、場合によっては、罪のある人と同じような罰を受けたりする事もある。 精神的だったり社会的だったりするが。←これに近いものがある。
ツイッタは文字数が限られているので、そこで話すには適さないことも当然ある。
しかし、逆にそれを利用して、断定的な言い方の多様やイメージ戦略みたいなもので、人々を惑わす人たちもいる。
というか、惑わすと言うと言葉は悪いが、宣伝や営利目的でやっている人や会社も多いだろうし、それを推奨している面もあるようだ。ツイッタの本にもそういう使い方が載っている。スパムはまずいが自然な拡散を狙って宣伝する方法もありますよー登録して下さいよーというふうにツイッタ自身が言っている。
だから、ツイッタ的にはイメージ戦略も大いにけっこうなのかもしれない。もともと商業用だからw というかそれを禁じてるわけじゃないから。
なんだかなあと・・・・
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かまってちゃん というのは、かまって欲しくて悪さする人 のこと 気を引こうとしたり
乙武さんは、かまって欲しくて悪さする2ちゃんねらたちの中に、自分に対して救済を求めるような何かでも感じたのだろうか?
両方ともかまってちゃんだとしても、一般女性の方は、真面目で切実なものがあるかまってちゃんではないのかな
(一般女性の方をかまってちゃんとするのは、異論があるかもしれないが、あのまとめたやり取りに対する見た人や乙武フリークのような人のあの一般女性の捉え方は、「絡んできた人」精神的な問題があるから言ってはいけない事してはいけない事をした人 という捉え方で、彼女が自分のタイムライン(TL)で自分の独白のように吐き出した事も言ってはいけないことのように捉えているから、まあかまってちゃんと仮に呼んだ。)
自分のTLでつぶやいた事で、かまってちゃん認定もすごいと思うが、その意見はそこまで悪いものとして封じられなくてはいけないものなのだろうか?初期乙武批判の2ちゃんねらの何がしかの義に近い論旨で、誰でも言いそうな気づきそうな指摘だった。誰でもいいそうと言うか当然気づく乙武さんに対する矛盾や疑問も含んでいた。言わなくてもいいことだし、言われた方は良い気はしないかもしれない。しかし乙武さんは2ちゃんねらに対しては言われたら不快に感じる誹謗や中傷や人格否定を許しているのはどういうわけだろう?
乙武さんに関して、論理的に冷静にものを考えれば当然気づく素朴な疑問を、言うと、まるで天皇批判でもしたかのように、ν速的手法で断罪されるなんて恐ろしいw
論理的にというほど大げさに言わなくても、子供でもわかる理屈で、「あの人、なんかしたん?」何か具体的に実用性がある情報を提供したり社会に技術的に役立つ情報を発信しているわけではない。ある程度以上の知能はあるにしても学問的に貢献したとか言うわけでもない。
しかし、そういう人は他にもいる。実用的な情報以外流布しなくなったら、すっきりして良いかもしれないが、他に支障が色々出るような気もするし、それはそれで良いと思う。害にならなければ。
女子供が好むものなんて、大抵そういうものだ。と書くと偏見を助長してしまうから良くないが。
和田アキ子さんが昔昼の番組で、乙武さんの就職に関してだったか、本を出した後もメディアに出る方向に進んだ事に関して、ちょっとアレ?っと思ったような言い方をしていたが、そんな事を言う人は今はいないのだろう。
それに、最近乙武さん関係で目にするのは、このようなちょっと残念な事か、気を衒ったような事か、意外性みたいな事が多いような気がする。だから誰もそんな事言わないのかもしれない。
http://blogs.yahoo.co.jp/goisu166/folder/1209047.html
731 :優しい名無しさん:2007/07/06(金) 10:14:11 ID:dSHhKWfW
1990年には、米国の3つの物質依存治療センターで、アルコール依存症で治療中の患者を対象に、
親のアルコール依存症の有無によって2群に分けて調査を行い、
その結果、米国の正統派の精神科の診断基準マニュアルであるDSM-Ⅲで、
その2群にはまったく統計的な有意差は認められなかったと報告し、
http://mimizun.com/log/2ch/utu/1175555457/
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3653/archive/kato01.html アダルト・チルドレンの語られ方 -雑誌記事の分析より- 加藤 篤志 『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』No. 4 (1998年9月発行) 165-180ページ所収
http://www5.ocn.ne.jp/~misuzu/tamaki.html 書評「心理学化する社会」 -精神医学という名のメタなる怪物-
上記レスの調査ではないようだけど、フロイト先生のウソという本でも、虐待の連鎖については差はあるものの、8%と12%なので、大した差では無いという事になったと書いてあるらしいです。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ac.html 中立的なものの見方の精神科医の意見 精神医学界では冷遇されているとしながらも、頭から否定はしていない。1999年書かれたもの。ちょうど流行りかけのころか。
その中にもこう↓書いてある。
>ACとそうでない人々の間に統計的有意差はなく、ACなんてものは存在しないと主張する研究者もいたりする。
986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15
アメリカのソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから
もう40年という月日がたってしまった。
それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念が暴威をふるった。
このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミとAC業者がそうさせなかったのだが。
AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念のくびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。
ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。
AC収容所の人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。
ACに根拠は無いのに。
そして強制収容所の人々が「ここにいるから私は友と知り合えて生きていること許される」と心理的な合理化をするように
「ACを知ったからこそ私の人生がある」と合理化をするようになる。
商業主義の暴虐に痛めつけられ囚われの身となった人の心が、最後の誇りを失わないようにするために
強制収容所に30年幽閉された人が解放されてもとまどうように。
30年と言う月日をAC商業主義の暴虐に晒された心に「ACには何の根拠も無い」
と言われてもすぐには受け入れらないのはもっとなことだ。
このスレも次スレもこうしたAC被害者のリハビリをどうするかという問題も検討されるべきだろう。
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/psycho/1035617398/
http://anond.hatelabo.jp/20110906150347
読んだけれども全部は内容を把握できてないかもしれません。アダルトチルドレンというのは、ずっと前にも自分の今は使ってないgreeの中にも書いたのですが、アダルトチルドレン オブ アルコーリック の前の部分だけを取り出したもので、アルコール依存症患者とともに子供時代を過ごした人(今は大人)について、を指す言葉で、その人たちが大人になった時に同じような精神症状を示し、それがどうも過去に起因するのではないかと、精神医学の分野の人たちではなく、アメリカで心理療法家や臨床で精神的な問題を抱えた人に心理的なアプローチをする実際に身近にいる治療者たちから、言われ始めそのような研究や論文も(英語の論文サイトで見た事もある)少しはできたりしてたらしいです。(少しはと書いたのはアメリカが元だけど、そんなにアメリカで持て囃された理論でもなかったと思うから)
しかし、虐待の連鎖については、調べてみたら有意な差は認められなかったという結果が出た事もあったと、日本の精神科医のサイトで見たこともありました。(この元の論文は探してるけどまだ見つけてない)
日本では、虐待の連鎖も理屈や理由や統計は求めらずに一部専門家が言ったら、確定事項みたいに流布してしまっています。ACの流行の盛りは過ぎたと思ったのに、質問サイトではいまだに虐待の連鎖を心配して、被虐待者が自分が将来虐待するのではないかと相談しています。被虐待者に不安を与えて信者にして儲けようとしている人もいるかもしれないと思ってしまいます。日本の精神医学の学会ではACというものには懐疑的らしいです。なぜかというと、アダルトチルドレン オブ アルコーリックの人の症例や理論を拡大解釈し過ぎだし、誰にでもあるような事や、大して問題とも言えない事まで問題視する本をAC理論を唱える関係者がを出したりしてたからです。
虐待により精神的な問題を抱えるようになった人たちがいるのは事実だと思います。その人たち(自分もかもしれませんが)に適切な治療の場やサポートが与えられる必要はあると思います。AC本批判の医者の中にも極端な考え方をしている人も居ると思います。 精神症状の原因を外部に求めるのがいけないという書き方の本もありますから。どちらとも決め付けられない事だと思います。
こんなふうに意見が別れるのも、抽象的でどちらとも言えないもの決め付けられないものを、AC本は決め付けてしまっているからだと思います。
極端な考え方のものはともかくとしても、精神医学系の学会が、ACという考え方に関して疑問視していたと知って、書かれた疑問も読んで、ほっとはしたものの、なんだ、自分が思ってた事と同じではないか!もっと早く言ってよ!!と思ったことはありました。
認識の問題とか、自分の回復のために、そのような問題を書き綴って確認作業のような事をするのは、本人にとって害はないからよいと思いますが、お金を払って治療を受けに行くと、信者にされる可能性もあると思います。
.
昼間に書き始め、途中でやめて、また書いているので、最初言いたかった事とずれてしまったかも。
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こういう問題について書こうとするとよくわからなくなってくる。
ただ、アダルトチルドレン オブ アルコーリックは、アルコール依存症患者とともに育った子供時代を持つ大人を指すので、例えてみれば、中国残留日本人孤児の人たちが今は大人なのに孤児と呼ばれているので、中国残留孤児だった大人と正確に呼び、その後半部の「孤児だった大人」の部分だけで呼んで「孤児だった大人」「孤児だった大人」と呼んでいるようなものだと思うから、何だかこっけいな感じがしてしまうのですが・・・
今自分が書いたものでも、つい「アダルトチルドレン」と繋げて書いてしまいました。 これを言うなら「アダルト チルドレン オブ アルコーリック」とすべきでした。その方がわかりやすかった。子供だった大人、どんな子供? アルコール依存症の人と一緒に居た、ということだと思うんで、そこから、心は子供体は大人、とか 見た目は大人なのに中身は子供で、そうなってるのは本人のせいではない、みたいな理論とか、大人になれない子供とか(これは批判のように捉えて嫌がる自分はACだと思ってる人もいるみたいだけど)、子供時代を失った子供とか(これはある意味そうなんでしょうけど、それを指摘して何になる?当事者でもない専門家が親切にもあなたは子供時代を失ってますよ~と言ってくるというこっけいさ。それって親切なの?かわいそう攻撃じゃないの?) 子供時代に大人の役割をさせられた子供とか(これもそうかもしれないけど、それをACと称する事に、関係者がお布施を募る事ができる以外、何の意味があるかわからない) ...etc
これらの状態を アルコール依存症の人と一緒の子供時代を送って育った大人、とどう結び付けていけるのかわからない。
アダルト・チルドレン という響きが、聞こえが良かったのではないか? 自己愛的傾向を持つ人々の心を掴むのに、格好のネーミングだったからではないか?
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子供時代に受けたトラウマが、精神症状を引き起こす事はあると思います。それを否定するものではありません。それに対しては個別にそれぞれの現在の状態に合わせて対応するべきだし、親に限らず他人から受けたトラウマで精神症状が引き起こされる事はあるでしょう。親と言う人と接するのは、自意識や自我が発達してなくて判断力がない時期からだから、混乱させられやすいという事は言えるかもしれません。
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アダルト・チルドレンというものを考える上で、こういう事も念頭に置いた方が良いのでは無いかと思ったので書いてみました。
心に傷を持つ人、空虚なものを持つ人、家庭に問題があった人、孤独な人、こういう人は都会に出たら、何とか商法や、壷や絵を買わされやすい傾向にあると思います。怪しい宗教なんかも付け入ろうとするかもしれません。(孤独なお年寄りが布団売りつけられるようなものです。)
それよりはマシかもしれませんが、本買ったり心理療法に通わされたりするのも、同じような面もあるのではないかと思います。
手を変え品を変え、有名人を引き込んだり、NHKで有名作家にカウンセリング体験を語らせたり・・・
これで得をするのは誰でしょう?
.
追記
アダルト・チルドレンがキーワードになってたので、読んでみたら
今はACは、機能不全家庭で子供時代を過ごした子供たちの総称になっているそうです。
機能不全という言葉で用いられている機能というものが、そもそも抽象的なものでしか無いので、そのあたりが問題ではないかと思います。
自助団体 (自助という言葉が適当かどうかわかりませんが、そう自身で名乗られているので) からも、AC本の人には抗議文が送られていると、はてなキーワードで見ました。やっぱりねw
わかるとは思いますが アダルトチルドレンではなく、キーワードがACなので、リンク貼っときます。 http://d.hatena.ne.jp/keyword/AC
追追記
837 : 没個性化されたレス↓ : 2010/04/20(火) 00:09:36
ACを商売にしてる人はACに根拠が無い事がばれてくると今度は
「負の連鎖」とか「虐待の連鎖」というこれまたまっったく根拠の無い概念で
新たなお店を開いているようです
838 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/01(土) 18:57:32
根拠あるでしょ。十分に。
839 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/02(日) 13:58:54
ACに根拠があるかどうかに関わらず、
(傷付きやすく騙されやすい)ACをターゲットに商売をする人たちは
距離の近い親の本質を暴くことは、世の中の危険な人の本質を見抜くよりも簡単。
世の中、表面的にはイイ顔をしてても、中身は毒親みたいな搾取的な
結果として騙されたり、時間を無駄にすることだって多いのかもしれない。
840 : 没個性化されたレス↓ : 2010/05/08(土) 19:27:01
それに騙されて身動き出来ない人がいるということ。
>ACが自身の主体性を取り戻し、社会性を得ることの難しさに、
ウソ概念で騙されているんだから主体性を取り戻せるわけがない。
カネを搾り取ったがもうカネも出て来なくなったら主体性を取り戻せという。
AC業者の糞なやり方には本当に腹が煮えくり返る。
986 : 没個性化されたレス↓ : 2010/06/29(火) 22:37:15
アメリカのソーシャルワーカー達がアダルトチルドレンという無根拠なレッテル貼りを始めてから
もう40年という月日がたってしまった。
それを利用したAC業者やマスコミが被害を拡大させて、日本でも30年近くこの無根拠な概念が暴威をふるった。
このAC概念は無根拠なくせに極めて専横的で疑いを許さなかった。マスコミとAC業者がそうさせなかったのだが。
AC概念は人々を苦しめ、裁き、断罪し、この概念のくびきのもとで生きる事を強い、いささかの救いの道をも与えなかった。
ACは無根拠であるが故に疑いを許さなかった。ヒットラーのように。北朝鮮のように。
AC収容所の人間は小石のようなあきらめをしゃぶり乾きを癒すしか無かった。
ACに根拠は無いのに。
そして強制収容所の人々が「ここにいるから私は友と知り合えて生きていること許される」と心理的な合理化をするように
「ACを知ったからこそ私の人生がある」と合理化をするようになる。
商業主義の暴虐に痛めつけられ囚われの身となった人の心が、最後の誇りを失わないようにするために
強制収容所に30年幽閉された人が解放されてもとまどうように。
30年と言う月日をAC商業主義の暴虐に晒された心に「ACには何の根拠も無い」
と言われてもすぐには受け入れらないのはもっとなことだ。
このスレも次スレもこうしたAC被害者のリハビリをどうするかという問題も検討されるべきだろう。
http://logsoku.com/thread/academy6.2ch.net/psycho/1035617398/
某巨大掲示板のログですが、学問板なので、それなりにそれなりのモノの見方をする人も出てきてますが、残念ながらACと言われる人を責めるレスも時々あります。しかし、それに反論レスもあります。反論するのはAC理論が正しいとは思ってない人たちの場合も多いです。AC理論は否定するけどACと言われる人たちの中には精神的な症状がある人がいるのも事実だろうという認識です。
AC理論を唱えて儲ける専門家たちは、自分たちにとって一番楽な状態の人しか相手にしません。具体的な事をしなくて良くて、心理的なものの具合だけを診ていれば良い状態の人、過去の事で精神的に問題がある人、これらの人たちなら過去の事だから、今現在具体的に人権救済しなくてよいわけだし、ただでさえ、親の事で肉体的な暴力でもない精神的心理的抑圧なんて、そんな昔の事で・・・と言われるのが落ちで、グチや不満ではなく本当にわからなくなったり混乱したりして話したとしても、親の変な話をするというふうにしか受け取られなかったりする傾向にあるから、そういう専門の心理の療法家しか、自分たちの事をわかってくれない!と思いつめさせそこに依存させたり、信仰させたりする事もできる。
自分たちのところに来ない人たちの事はサバイバーと呼び、さも来ないのが変みたいに思わせる。
成人後も困った親から逃げている人たちもいる。そういう人は助けないのだから、おかしい。
413 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/22(木) 10:43:37
おばさんになってからの自認でしたから、既に生き辛さへの改善は進んでいたのですが、
嗜癖と自責の負のループに陥っていたのですがACと自認した途端、解放されました。
2. 思考の偏りの起因を知り、改善が進む。その際自己嫌悪から解放される。
AC論が正しいとしても、正しくないとしても、また自称だとしてもそれが役に立てば良いのではないかと思います。
極論、機能不全家族が原因で無いとしても、その考えに辛さを預けて進めれば良いのでないかと。
ただ、ACが免罪符であってはならないのでしょう。自己の努力が不可欠であり、その時こそ、AC自認が有効に働くと思います。
(意外にこの特効薬を求めてACを知りたがっている人が多いような気がする)
今抱えている問題は過去に起因していても、今の自分の問題であるという事ですよね。
414 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 09:00:50
>413
誤った疑似科学的概念が人に仮の安定をもたらすというのはよくあることだ。
ここは学問板なので出て行ってもらいたい。
またそうした方が幸せは長続きするだろう。
それに耐えうる概念のみが生き残る。
事に気づいているからこそ、
415 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 09:52:07
仮の安定ですか。
仮の概念により得た安定の方が私にはしっくりきます。勘違いなのかな?
そういう意味でも学問板に書く資格が無いのは確かでした。本当にそうですね。
申し訳ありませんでした。
416 : 没個性化されたレス↓ : 2007/11/26(月) 11:59:34
>415
例えば「全ては神の思し召し」ということで安定する人もいる一方、
そこと格闘しなんら安寧を獲得せずこの世を去る人もいるわけです。
AC概念は控えめに言って「視点を固定した時そう見えるだけという誤認」にすぎません。
それでもよければどうぞ。
親に対して、細かい指摘ができる(細かく正当な指摘ができると言う意味)はてなブログの方でも、心理療法家についてはあまり疑ってないみたいだったけど
この方の親程度に自分に都合が良い事をするその手の専門家はくさるほどいると思う。
精神科医でも、ACとはまた別の話で、NHKでもうつ病の薬について、医者がわかっていて儲けのために依存させる事もあるかのような特集も前やっていたのを見た。わかっててやったかどうかはわからないが、今は規制されてると思うけど、リタリンで依存症を起こし、離脱症状などでわけがわからなくなりまだ若くて健康だったのに、自殺されてしまった方の遺族が訴訟を起こしていたのもニュースで見たことある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1271342947 目を通すだけでも通してほしいのですが、(タイトル)
抜粋
>心療内科、精神科に行ったら、もっと惨めな気分にさせられ実際泣いて帰ってきた…
>これはあくまで私の私見ですが、
>精神科医の半分強、カウンセラーのほとんどが、ほんとうはその本人がケアを求めていると私は思っています。
>「あなたは甘えている」
>という言葉の裏には、
>「私はあなたより苦しいのに、なんであなただけ治療を受けられるんだ!私だって甘えたいんだ!」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425822034 うつ病の診察中に精神科医からの言葉に精神的ショックを与えられました。
はてな日記の親の心理的搾取を理性的に指摘されている方も、機能不全という言葉は信じて使ってらっしゃるようでしたし、自分が精神科医にかかった時に、医者に言われた事で、微妙な事でカチンと来た事や無駄なアドバイスだと思ったと言うような指摘は書いてありましたが、精神医療の構造的な欠陥 (昔 医師会の当時の会長に「家畜経営」と言われた精神病院の経営の仕方など、自分たちの利益のためなら人を壊す事も構わない、人間を獲物にしてる) までは、関係ないからという事もあるでしょうけど、全然言及されてません。
弱みがある人間が行けば、いい餌食にされる可能性は、弱みの無い人より高いと思います。 悪い医者ばかりではないと思いますが、精神医療はいろいろと矛盾を内包して闇の部分が多すぎます。
ACというものについては、学問板といっても、2chなのでスレ内では、自称とか言って責めるような意見も煽りとして存在してました。しかし、アダルト チルドレン オブ アルコーリック でも アダルト チルドレン オブ アビューシブ ペアレンツ でも アダルト チルドレン オブ ディスファンクショナルファミリー でも アルコール依存症の人と一緒に子供時代を過ごし大人になった人 という意味や、虐待する両親の元で子供時代を過ごした大人 という意味や、機能不全家庭で子供時代を過ごした大人 という意味なら、ACは居る、存在している、と言えると思います。
しかし、AC専門家?サイトで13の特徴とか、非科学的な啓蒙活動をするのは、間違っているのではないかと思うし、そこに挙げられているようなACというものについてなら、居ない と言えるのではないかと思います。
韓流ゴリ押し批判への反論で「韓国ドラマ規制したらアニメ輸出できなくなるぞ」とかいうのに疑問を持たないはてなー(?)ばかりだけど、数年前はマスコミと一緒になってアニメの殿堂批判してたような気がするんだが、いつの間に転向したんだろうか。どっちもアニメという特定業界への利益誘導なんだがばらまき無駄遣いってことにはならないの?それが儲けにつながるから民間企業がやりたがるまではいい(本当はよくないが)として、そういう商業主義に歯止めをかけるのが本来の政府の役割であるはず。それなのに政府も一緒になってどうするんだか。儲けにつながるから何やってもいいなら公害でも悪徳商法でも何でもアリになる。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブについて、各所で話題になっていたマサチューセッツ工科大サイトの感想も翻訳してみた。初音ミク現象を基に、情報を巡る様々な活動の基盤となるメディア・プラットフォームのあり方について考えたもので、書き手はミクが市民主導のメディア作りをするうえで参考になると考えているようだ。残念ながら一ヶ所、fro-ducerなる意味の分からない用語があったのでそこは翻訳していない。意味を知っている人がいたらご教授願いたい。
urlは以下の通り。
http://civic.mit.edu/blog/condry/miku-japans-virtual-idol-and-media-platform
7月2日土曜日、私は普通じゃないライブショー、日本から来たヴァーチャル・アイドルの米国デビューを見に行った。彼女は市民メディアについて私たちに何かを伝えられる存在だと思う。
初音ミクはアニメ・エキスポにおける催しの一つとして、ロサンゼルスのノキア・シアターで公演した。完売したコンサートには、多くがコスチュームに身を包んだ4000人を超えるファンが訪れ、ステージ上で生の演奏家の横に投影された「人間サイズ」の映像であるミクが床からせり出してくると、彼らは叫びケミカルライトを振った。
ミクは甘く歌い、幅20フィートある放物線状の鏡に沿って跳びはね、大半は熱狂的なテクノダンス・ポップな曲目を駆け抜ける間、決して汗をかかなかった。ステージの脇には彼女と他のバンドメンバーをクローズアップした映像がスクリーンに映し出されていた。彼女はちょっとしたおしゃべりもした。「はじめまして、初音ミクです」。そしてバンド(ギター、ベース、キーボード、ドラム)と6人の弦楽器奏者たちを紹介した。私たちは彼女に拍手を送り続けた。
「あたしたちは歴史を作っているのよ」と、私の隣に座った若い女性が友達に話しかけていた。たしかにそんな気がした。そして政治とポピュラー音楽について私が知っていると考えていることについて、改めて考え直した。
誰もが喝采しているが、何に対して? ステージ上、私たちの注目が集まる場所には誰もいない。単に仮想アバターが存在するだけだ。何のアバター? 一体誰の? それは私たちの。
大衆文化は政治と同様、しばしばステージ上の(あるいはスクリーンに映された)リーダーを前提としているように見えるが、その影響力や、しばしば創造性そのものが、どう転んでもより幅広い分散型の集団行動から生まれてくることを、ミクは示している。ミクは未開拓の可能性を孕む世界、クラウドソースな動員モデル、そして一部はソフト技術(ボーカロイド)、一部は文化的なアイデア(ミクというキャラ)からなるメディア・プラットフォームに関する有益な事例について、言外にほのめかしているのだ。
ミクはYAMAHAが開発し2004年から販売を始めたボーカロイドと呼ばれる音楽合成ソフトウエア・パッケージの声として作られた。ボーカロイドはガレージバンド[音楽制作ソフト]同様、演奏用の道具として音楽を作ることができるが、その際にメロディーと同じく歌詞を書けるという特徴も持っている。別の企業、クリプトン・フューチャー・エンターテインメント[ママ]が2007年、漫画風の画像と経歴設定(16歳、身長、体重、その他)と一緒に、追加音声であるミクを発売した。
http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv01_us.jsp
重要なことに、クリプトンは画像に対する著作権を強く主張しない方針を定め、キャラクターが彼女自身の生命、より正確に言えば私たち自身の生命を持てるよう制限を解いた。いわば私たち誰もがレディー・ガガのために音楽を作り、それを彼女が私たちのために演じてくれるようなものだ。ミクがリアルじゃないってことが問題だって? それじゃレディー・ガガはどのくらい「リアル」なんだい?
ファンはそれにこたえ、さまざまな共通の服装及び像(たとえばネギ)を共有しながら数百数千の音楽ビデオをオンライン投稿した。以来、日本の動画シェアサイト、ニコニコ動画への投稿及びコメントを通じて増幅されたファンの取り組みのおかげで、ミクはスターの座へ駆け上がった。いわゆる「Nicodo」[ニコ動]はユーチューブと似ているが、動画を見ていると利用者のコメントがスクロールしていくところが違っており、それによって参加者の視点というレイヤーが追加されている。
今日ではミクのP(『プロデューサー』)は彼らの作品をオンラインで販売し、日本のカラオケスポットでは好きなミクの歌をダウンロードして歌うことができる。クリプトンは、彼ら曰くクリエイティブ・コモンズの模倣であるPiaproというオンライン・サイトを持ち、連携促進とライセンス供与をするシステムを作っている。ファンの作品は他の販売経路を通じても売られている。2010年11月、東京・池袋で開かれ私を含めた7000人の参加者を集めた完売のファン・コンベンションでは、集められた500のファングループがボーカロイド関連の音楽、ポスター、DVD、イラスト本、テレビゲーム、装飾品その他を販売した。
こうしたファンの興奮ぶりを踏まえると、ビッグ・ビジネスが仲間に加わろうとするのも不思議はない。2009年以来、SEGAはProject Divaというタイトル名でミクの携帯機及びアーケード向けゲームを作成している。トヨタも今や広告シリーズでミクを使っており、彼らはミクのロサンゼルス・デビューの前にCMを公開したほどだ(いくらかの非難も浴びたが、おそらくは善意に基づいて作られていた)。とはいえ究極のところミクはファンの取り組みによって命を吹き込まれており、ミクが商業主義の世界に足を踏み入れるのを見るのが興味深いのもそれこそが理由だろう。
ミクは、以前から知られていた市民メディアのための教訓のいくつかを補強する存在だ。人々が参加するには本当の開放性が感じられることが必要であり、共有と対話がコミュニティー形成のカギになる。管理された知的財産権システムよりも自由な文化の方がより何かを生み出す力があり、新規参入と商業主義化は、特に人気が高まった場合は常にリスクとなる。
だがミクは分散型の創造性について、ウィキペディアとも人間のセレブとも異なる特殊な図式を提示している。ミクにはバックグラウンドが欠けている。彼女には予め定められた人格はない。彼女は唯一の完成した空想世界に存在しているのではない。このウィキ=セレブは、将来がプラットフォームに在る時代において、昔ながらの人間のセレブを白物家電のように見せてしまう。
この事実は民主主義と参加についての考え方にも別の道筋を提供するのだろうか? 行動と人気を生み出すのがリーダーたち以外の社会的現実だとしたら、メディアに関する問いは表現される内容よりも、プラットフォームのあり方、それがどれほど開放的であり、それが許す創造性の形式がどんなものであるかに振り向けられるだろう。
クリプトン社長の伊藤博之は2011年10月、ミクと計画されている英語版を含む関連プロジェクトについて議論するため[MITの]比較メディア論を訪れる。彼はこの現象を、エンターテインメント産業について再考する機会だとみている。「これは普通ではない形の創造性です」と、コンサート前にLAで短時間出会った際に彼は言った。「私たちはコンテンツを作成する過程を作り変えているのです」。ミクが機能するのは分散型のファン=製作者グループの関与があるからだ。おそらくこれはプロ=シューマー[生産消費者]の終焉であり、fro-ducer[残念ながら意味不明]の台頭なのだ。
大衆文化は、市民メディアを分析・設計する際に利用できる社会的力学を照らし出すものだ、と私は信じている。大衆文化は政治的参加のための媒体になり得るのみならず、特に人々に行動を促すという観点からどのようにアイデアが流れ影響をもたらすかについて把握するモデルも提供してくれる。
アニメに関する研究において、私は仮想のキャラクターがそれ独自で生成力のある創造性のプラットフォームになっているとの結論に達した。そこからより多くの種類のプラットフォームが出てきそうであり、創造され、築かれ、共有され、分配され、リミックスされ拡張されるのを待っていることを、ミクは明白に示した。ミクについて考えることで、私たちが未来において行動するコミュニティーを創造するための新たなアプローチについて思い描けるようになること、それが私の望みだ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
メールにしても、匿名掲示板のメッセージにしても、量が問題になるならば、それを偽装する方法はいくらでもある。バルクメーラーで2億通くらい送りつければ、日本の人口を超えているけど確実に多数意見を作れるわけであるし、自動書き込みツールもある。これらはツールモンキーレベルの児戯であるし、そういった現実を知らずに、それらの裏付けの無い発言を世論であるとカウントするのは、間抜けな事である。
ネットを世論操作の道具として使いたければ、まず、ネット上に論壇を形成する事から始めなければならない。論壇があって、そこで行われている議論の趨勢が、結果的に世論となる。メディアが独占されていた時代には、論壇は出版社や新聞社が商売の為に作っていたが、メディアの独占がなくなり、それらの商業主義論壇がやっていた事が、単なる銭儲けの為でしかなく、世のため人の為になっていない事が暴露されてしまい、商業論壇は存在しなくなった。
論壇がない状態で世論は、情報公開、反マスゴミ、ワンフレーズポリティクスという方向に進んできた。情報公開によって有権者が判断するというのは、情報公開によって、霞が関文学の詳細な実例や利権構造といった、既得権益層の存在とそれを温存する仕組みを明らかにした。それは、過去の諸制度に対する批判を掘り起こす結果につながり、反マスゴミ、ワンフレーズポリティクスへと進んでいき、ついに、無能な政治家は支持しないという風潮から、政権交代という結果になったが、政権交代の結果は、それ以前よりもさらに無能で恥知らずな愚物がのさばるという、どうしようもない結果となってしまった。
政治家を育てるには、育てるに値する信用が無ければならない。政治家の側が、育てて貰えるだけの価値を証明しなければならない。日頃の政治活動の可視化という、一番具体的な方法があるのに、それをやらず、また、地域密着の結果として、地域の利権代表であって国家の代表にはなりえないという宿痾を解決する多選規制という手法もあるのに、それをやれていない。
衆参が捻れている状態では、首相の任期は一年で、予算を通す度にコロコロ変わるのは当然となるし、選挙民に信用されない限り、一期限りで落選させるという事になる。利権代表でしかないのであれば、多選されたければ、利権をばら撒く地域を広げていくしかなく、その為の財源として赤字国債や増税といった手法をとるのであれば、税として取られる分や将来の負担を補えるだけのばら撒きが無ければ支持は集められないし、ばら撒きの量に差があれば、不平等だからという事で、自分達により多くばら撒いてくれる人を担ぎ上げるという話になる。それだけの手厚いばら撒きをやれる財源など、どこにもないので、結果的に、一期限りで落選させるという代議士の使い方にならざるを得ないのである。
電力会社の幹部にしても、政治家にしても、質の劣化は酷いものである。
質が劣化しているのは、質を向上させる仕組みがない為であるし、向上する必然性が無い為でもある。電力会社も政治家も、世界的視野から見れば、地域独占事業となる。独占に甘んじ、競争を怠ると、人材の質はどこまでも劣化していく。この体質を改める事こそが改革なのだが、人材の質を高める仕組みを作ると、オールドパージに繋がりかねないということで、反対する者が出てくる。
公共の利益よりも私益を優先する時点で、地域独占である政治や独占が認められている企業の従業員としては落第である。個人の利益を優先するならば、私企業で活動するべきなのだが、それすらも判断できないほどに質が低下しているのである。
個人の質の低下は単なる質の低下であり、低劣な人材を排除していけば済む事だが、質の低下を是正できないのは、社会の質の低下である。まさしく国難なのだが、それに気がついていないか、気がついていても、自分自身がそのものなので、気がつかないふりをしているというのが、多数派になっているのであった。
無能な多数派よりは、捏造メールの多数派の方が、害は少ない。無能な多数派は、原発をメルトダウンさせてしまったり、歳入よりも多額の赤字国債を発行する法案を通そうとしたりする。これは実害である。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
ボーカロイドの海外進出に将来性はあるのか。そういう視点から初音ミクのLAライブを見ている外国人は結構いる。今回紹介するのは、その中でも明確に「ビジネスとしての初音ミク」のあり方について論じている事例だ。日本人が読むと高すぎるハードルを設定されているような気がしないでもないが、確かに商売としての初音ミクを考えるべき時が来ているとの指摘には一理ある。日本でもまだ確立したとは言えないビジネスモデルをどのように海外で成功させるか考えるうえで、一つの材料になる。
urlは以下の通り。
http://cjblackwing.wordpress.com/2011/07/08/mikunopolis-christmas-in-july-and-world-conquest/
数日前、私はロサンゼルスのアニメ・エキスポ2011から戻ってきた。私の旅行のうち、すぐ後悔するに決まっているレベルの買い物を物販コーナーでしでかしたこと以外のハイライトと言えば、初音ミク関連全部だと言わざるを得ない。ミクがらみ全ての中で頂点はどう見てもミクノポリスだったが、週末のあらゆるパネルを通じてミクに関するたくさんのことを知ったのは楽しい経験だった。ロサンゼルスに向かう前から私はもちろんヴァーチャルアイドルのファンだったが、週末に入るまで私は何を予期すべきかについて実は知らなかった。出立後、ミクのファンになることがいくつかの理由でサンタを信じることに極めて似ているのに気づき、私は衝撃を受けた。
まず、クリスマスが持つ意義と同様、ミクは君が何をしたいかによって君が望むどのような存在にもなれる。世の中にいるあらゆる変態のために彼女が無限の衣装を持っているかのように見える点について話しているんじゃない。いや、それも一部かもしれない。今なおファンはミクに関する新しい歌、アニメーション、あるいはキャラデザをつくり、他の者がインターネット使用を通じて楽しめるようそれを世の中に送り出すことができる。けどクリスマスが単にキャンディー棒と橇の鈴だけではないのと同様、ミクも音楽だけじゃない。この週末、ほぼすぐ私にとって完璧に明らかになったのは、ミクがごく簡単に商業主義の同義語になり得るということ。色々な意味でこれはいいことだ。こうした起業家精神こそが、ゲームやフィギュアに登場するミクをファンにデザインさせることになるし、たとえ分権的なビジネスモデルを通じることになるとしてもなお企業がミク製品に資金を使うのを許すのだから。そして商業主義に関するあらゆるものの真実の意味において、ミクはしばしば決して純粋とはいえない姿に描き出されている。
クリスマスの比喩を続けよう。子供はしばしば小さいうちはクリスマスという概念を理解するのが困難だ。2歳児がただの贈り物を受け取る意味を理解する必要はないが、数年内にそれは子供の世界における中心的イベントになる。この週末、私はミクを理解するうえでそれと同じ感覚を味わった。明らかにアニメ・エキスポに来た大勢の人はミクが何であるかについていくらかの考えを持っていたが、大多数にとってこれはミクに関するあらゆる知識を大量に服用した最初の経験だった。ヴァーチャルアイドルに対する興味は週末を通じてゆっくり増大していくように見えたが、私が思うに大半の人が本当にミクの真価を認め始めたのは彼女のコンサートの間だった。当初、選ばれた一団の人々のみが歓声を上げさらに少ない人だけが立っていたようだった。だがコンサートが進むに連れより多くの人々が言わばグルーヴに身を任せるようになり、そしてその夜の終わりにはノキア・シアターのほぼ全員が立ち上がり、ミクにアンコールのため戻ってくるよう肺の中から叫んでいたかに思えた。サンタ・クロースとミクを含む人生における多くのこと同様、何が起きているかを理解するには多少の時間がかかるが、ひとたび理解すればそれは何か特別なことになるのだろう。
私は日本企業がミクの人気を増すために行ったこと、つまりクリエーター個人がその製品の中で比較的自由にミクを使えるようにすることでファンのデザインをコンサートやフィギュアに実装したところからこの週末のコンサートまで、その全てに敬服している。そして成功するためには他の国民もミクに関する彼らのモデルに追随すべきだと日本人が感じていることも何となく分かるが、それは正しい方法ではないと私は思う。世界中の人々が異なるやり方でクリスマスとサンタを祝っているのと同じように、我々はミクと他のボーカロイドを祝すべきだ。将来において他の言語でもソフトが使えるようにするのは正しい方向性だが、それは分かりきったことに過ぎない。心配なのは、ミクが米国あるいは他の西洋諸国のより幅広い聴衆に必ずしも利用されず、あるいはよく知られないままになるのではという点だ。現状、普通のアニメ、J-ポップ、その他のファン以外の人々が本当にミクのファンになるのは不可能だと思うが、米国で例えばniconico.comといった感じの新たなサイトを作っても、米国が中東に民主主義を紹介しようと試みているのと同じような前進しか期待できないだろう。
ミク(及び彼女の調教師)が本当に世界を征服したいと思っているのなら、まず彼らがオタクのファンベースを幅広く、Narutards[NARUTOの熱狂的ファン、キモオタの代名詞?]からミクを見るために国中から集まってくる人々に至るまで全ての人を(支持母体として)征服することが完全に必要である。エキスポで参加したいくつかのパネル及び私が過去に話した人々を見る限り、アニメ業界が彼らのオンライン製品をよく知らしめるためにいい仕事をしてきたようには思えない。コンベンションで出会った何人かの人はCrunchyrollが無料アニメを提供していることを知らなかった(はっきり言えば、合法違法を含めオンラインでアニメのストリーム上映を見られることを知っている人は極めて少ない集団にとどまっていた)。つまりniconico.comや新たに告知されたMikubookを習慣的に人々が見ることは決して所与の前提ではないし、まして部屋の中にユーチューブという名の500ポンドのゴリラがいる状態ではそんな事態は期待できない。
私がビジネスコンサルティングの授業から学んだ一つの教訓は、製品を作り出すのを手助けするのに必要なリソースを既に持っている企業と一緒に働く能力を君が備えているのなら、自らチャレンジして必要な能力を発達させるよりも、その企業と一緒に仕事をした方がいいってことだ。もし製品を外国に紹介しようとしているのなら、ジョイントベンチャーの利用はより重要である。確かに私はミク関係の人々がアメリカに拠点を置くウェブ企業とある種のジョイントベンチャーを作ろうと試みたのかどうか知らない。だがもしやったことがないのなら、それは彼らの犯した重大ミスだろう。普通のアニメ/J-ポップファンがniconicoやMikubookに気づくまでに使われる時間と金にはそれだけの価値があるようには思われず、そしておそらく普通のアメリカの消費者の注意を惹きつけることなど忘れてしまうほどかかるだろう。その代わり、既に有名なアメリカのネット媒体でミクの特別販促を行うことを日本企業が本気で考えたのなら、ミクは既に彼女を知っている者にのみ検索されることもなくなるだろう。
ミクが日本以外では失敗を運命づけられていると言っているのではない。日本で発展したビジネスモデルは間違いなく機能しているように見えるし、彼らはそのための偉大な製品を持っている。ミクがもっと一般的になるのを見たい人間として、米国でのトヨタCMである程度はやったように、彼女を宣伝するため日本企業がもっと米国企業と一緒に働くのを見てみたい。さらに、これらの取り組みは単なる単発的仕掛けにとどまってはいけない。既に確立したテレビメディアを通じてミクを人々に知ってもらおうとする取り組みを継続する必要がある。さもなくば最終的にビジネスのコストが高くなりすぎ、慌てて逃げ出さざるを得なくなるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
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初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
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初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
この頃、女性誌で断捨離と称してモノを棄てまくって、生活をシンプルにしよう、という提案がなされている。この思想、棄てまくるのではなく、そもそも買わない、つーか、モノやあらゆる事物への執着を減らすということらしい。
何故に商業主義まっしぐらの女性誌が、このような思想を煽るのか。スポンサーからクレームが入らないのか。それとも、本当に時代がその考えを求めてるため、当の女性誌は短期的な売り上げを確保するために、断捨離を特集するのか?
でも、断捨離を提案した次のページで「今年の流行はコレ!」みたいな感じで、購買意欲を煽ってるわけだがw
追記:
ゴメン。あらゆる執着を減らすまでは言ってないみたいね。
重要なのは「言ってるだけ」だってところだな。
結局初音ミクで売れてる曲ってのは商業主義の下でつくられるような「耳触りの良い音楽」「レベルの高いイラスト・PV」「王道な歌詞」のどれか(または全て)の要素が入ってるから。
それに気付いていないだけ。
クラシックCDがそのままじゃ売れないのに、のだめみたいなドラマやアニメと関連付けたコンピレーションになると途端に売れるのと一緒。
芸能活動を始めたり、AVに出演したり、ブログで自分の私生活を切り売りしたり、
あいのり出演者のそういった生活の仕方は、番組が終わったあとでも継続され続けている。
それを見て私は思うのだ。
「作られた存在のように感じる。」と
注目を浴びる舞台にさらされ、人の注目なしでは生きられなくさせられてしまったよう。
もちろん本人の意図したことであったんだろう。
良し悪し、加害犠牲、責任論、商業主義、恋愛論、など色々な観点はあるんだろう。
それでも私は、彼らの情報発信を見るたびにどこか違和感を感じる。
その向こう側に、彼らが意図せず失ってしまったものを見てしまう。
失っていくことが人生であり、大人になるということだけれど、それが目には見えないけれど計り知れないほど重要なものであったのではないかという疑問が頭をもたげるのだ。
もう一ヶ月近くも増田にいる。増田ばかりやっている。でも、増田は勉強場所になった。俺の力がどれだけ未熟かを分かることができる。どんなにクソ面白くないネタだと俺が思っても、増田の記事がホットエントリーに入ることもある。もっと真面目にやればたどり着けると思って手を伸ばして、国語の教科書を書写したり、新聞の文章を読み直したり、一心不乱になって色々と試すなりやってきた。
一部の増田は「処女厨」が面白くないと言った。俺も面白くないと思った。しかし他の人たちは楽しそうだった。俺は「処女厨」のどこが面白いのか気になった。「処女厨」の面白い部分が分かれば彼らのお話に混ざれるような気がした。時にはロムを、時には書き込みをして、盛り上がっている人々の反応を窺った。増田はそういう場所にもなった。ただの「きもい」書き込みが「興味」へと変わった。「興味」は「人を寄せ集めるコツ」へと変わった。人を集められるようになれれば、それは時として商品価値があるからだ。
世の人はあらゆるものをつまらないと言った。しかしそのあらゆるものはどこかの誰かの手に渡っていた。時には金銭価値が与えられていたりもした。商業主義者め! と毒づく人もいた。しかし、商業主義者と言われる人たちは何かを売ってご飯を食べている。ご飯の元は沢山の人がお金を払ってまで手に入れようとした何かを与えられるからだ。萌えでも、処女厨でも、セックスでも、何でもいい。ご飯が食べられなければ人は死ぬ。ご飯が食べられないのならば人は死にものぐるいになって糧を得る。いいじゃないかと俺は思った。
もしかすればキモイと言われる人たちにも何か魅力があるのかも知れない。非モテも誰から愛されるのかも知れない。オタクも気持ち悪がられていても商品になり得る。スイーツだってそうだった。ならばおしゃれのためにセックスを投げ売ってでもいいのではないか。そうしなければ飯が食えないのならば何でも投げ打っている人々も中にいる。そうした結果、ささやかな日暮らしが手に入るのならば文句もないだろう。
茨の道を歩む覚悟は出来た。よろしい、ならば好きなだけ叩け。叩いている間、俺は叩いている人々を見て、何が彼らをそうさせるのかを考えよう。一方で沢山の人々が愛して病まないものを見て、何故に愛されるのかも考えよう。全ては明日のご飯のためだ。ご飯がなければ人は死ぬ。いくらでも気持ち悪がられながらも飯を食うために目を血走らせるのも悪くはない。
今はただ、色々なものを見よといってくれた人に感謝するばかりだ。
叩かれてもご飯のためなら文句言えないよ。