はてなキーワード: 商業主義とは
公開直後は登録サーバなど負荷増大のため,しばらくは重たい使用感になるかも知れませんが,期待されていたARアプリだけに,今後の活用と展開が期待されます。きっと様々なエア・タグが登録されていくことでしょう。
私の興味関心は,いろんなツールを学校現場で使ってみることなので,セカイカメラも同じように学校現場で利用したら,様々な点で面白いと思います。
・校内の各教室や備品などにエアタギングしてみる
・文化祭の企画として学校中にエアタギングされた学習クイズやヒントを解いていく
etc..
日常使うツールとして使うのも面白いですし,特別な日のために活用してみるのも面白いです。
iPhoneやセカイカメラのような「ICT機器」(教育のセカイでは,情報機器やモバイル端末等をこう呼んでいます)を学校現場に持ち込むことに,どんなメリットがあるのか不審に思う向きも少なくないようです。
携帯電話が学校持ち込み禁止になりましたから,なお,そのような考えや意見は増え,強くなっているかも知れません。
しかし,「ツールを使う日常が学校にあること」は,メリット・デメリットを丸ごと含めて,とても重要なことだと考えます。なぜなら,そのような「ツールを使う」ことに対する「指導や学びのチャンス」を学校内に確保できるからです。
残念なことに,軽量小型のビデオカメラ機能付き音楽プレーヤーが盗撮の道具に使われるという事件が起きています。このような行為をするのは,ツールの機能的な側面ばかりに目を奪われて,利用による効果や影響に関する思慮が足りないせいではないでしょうか。誘惑を断ち切る精神的な強さも足りなかったのでしょう。
ツールを使う日常が学校にあることによって,たとえば,機能面に捕らわれて起こしてしまう小さな失敗から多くを学ぶ機会が得られると考えます。少なくとも学校教育の中なら,そのような学びの機会を用意しやすいのです。そのような経験の繰り返しによって,ツールに対する適切な態度も形成されるのではないでしょうか。社会人になってからでは,その学習機会をつくることがどれだけ難しいか,実感されている方も多いと思います。
iPhoneやセカイカメラといったツールは,学校現場に積極的に持ち込んで,そのポジティブな面とネガティブな面を両方とも触れていくことが大事ではないでしょうか。そこに夢を描いてもよいですし,過度な商業主義に対する距離を確保してもよいでしょうし,あるいは学習活動に積極的に導入してもよいでしょう。
本書は評者からみると不思議な本である。実に面白い、同時に反米的な歴史記述とCIA陰謀論に挟まって中国重視論の独特の言い回し、つまり三つの部分が混載されている。ひょっとしてチョコレートでくるんだ毒入り饅頭かも。
題名だけをみると保守派の多くは反発を抱くだろう。しかし誤解を恐れずにアイ・キャッチを狙うあたりは著者ではなくて版元の商業主義的魂胆かも知れない。
冒頭から脱線で恐縮だが、この光文社ペーパーバックスのシリーズは、本書が135冊目。執筆陣は浜田和幸、松本道弘、藤井厳喜、野間健、徳本栄一郎の各氏らと何故か知り合いも多い。とくに浜田、藤井両氏は、このシリーズから数冊上梓されていて、執筆陣も左右混交である。
新世代が読むだろうと思う。というのも、横組みで英語がばんばん入るからだ。逆に小生のように日本語の書物は縦書きでないと親しめない世代にとって、最初はこのシリーズを読むのに骨が折れた。仄聞するところでは、横書きシリーズ、伸び悩みがあって間もなく終巻らしい。閑話休題。
さて近藤大介氏、期待の新作である。近藤氏は『週刊現代』前副編集長。元北京大学留学組。平壌にも小泉訪朝に随行、スクープが多い。日本が米国を捨てて中国と同盟し、韓国も仲間に入れようか、という提言は日本の外交現実を無視しているが、さすがに中国語と韓国語が流暢な著者だけに、情報には格段のおもしろみがある。しかし結語の三国同盟は納得しかねる。
サロン・マルキストという比喩は、革命をワインを飲みながらサロンで語る知識人。典型はサルトルなど。本書を通読した最初の印象はそれである。サロンにおける理想主義。日本共産党は歌を忘れたカナリア、飽きたらず暴力路線に走った反ニッキョウ系は、三派四派五派と分裂し、中核派はと革マル派は互いに殺し合った。
本書に何が欠けているか。暴力革命で政権を取った中国共産党は十三億人の無辜の民を壟断し、支配し、反革命勢力、すなわち民主主義者、独立運動家を「テロリスト」と名付け、逮捕し拷問し処刑する。敵は殲滅するのがかれらの掟である。
中華民族というスローガンは他民族を漢族へ「同化」することであり、これは五族協和の日本の理想とはほど遠く、孫文のそれは「漢族」が「満蒙回蔵」を強制同化し、支配することを意味する。
ウィグル絶滅のためにはロブノール近辺から楼蘭にかけて、46回の核実験。おそらく数十万人が被爆して死んだ。7・5ウルムチ暴動では平和なデモ隊に軍が出動して水平撃ち。おそらく二千から三千のウィグルの無辜の民が虐殺されただろう。
中国の本質は暴力支配、特権階級は富を独占し、その体制を可能な限り長く持続しえるそのためには外交も利用する。本書は、こうした事実をあえて論じない。だから不思議な本である。
では面白い部分はどこか?日本では親中派政治家はみんなCIAの謀略で失脚したそうである。田中角栄、カナマル某ほか。小沢がニシマツでやられかけたのもCIAだそうな。まだある。金正日がある日、北京から帰国のおりに列車爆破。流川とかいう駅だったが、あれを仕掛けたのもCIA。金正日のコックだった藤本某にはCIAから接触があり、毒殺依頼があった由。こうなると007の世界だ。盧泰愚、陳水扁の失脚は反米姿勢だったから?
真相にちかいことは、陳水扁は国民党の戦術=「野党を貶める生け贄」であり、台湾では司法は独立しておらず、もし陳水扁の汚職をいうのなら馬英九も宋楚楡も似たようなスキャンダルを抱えていながらなぜ司法の追求が突如止んだか。だから台湾における司法は中国共産党と同様に司法権の独立が曖昧で、国民党の顔色を窺う裁判官が多いからである。CIAとは関係がないのではないか。盧泰愚の「自殺」は身から出た錆、でなければ謀殺の可能性も否定出来ない。
というわけで田中の失脚はロッキード証言だが、日米の司法取引の差であって、米国の陰謀ではなかった(徳本栄一郎氏が田原総一郎の陰謀説を批判した。田中ブレーンだった小長氏自身が『そういう線で裁判やマスコミ対策を処理しようと提案したら田中総理は「おう」と言った』と証言している)。
本書を読んで考えさせられる箇所も多い。評者が本書を読みながら、どうしても孫崎享氏の書いた『日米同盟の正体』(講談社現代新書)を連想せずにはおられなかった。
外交官出身の孫崎享氏はイラク、イランでミサイルの雨の中、外交を展開してきた人で三月まで防衛大学で教鞭を執った。(そうそう、これもどうでも良いことだが、バグダッドの在イラク日本大使館で宮崎は、孫崎(当時は公使)と会ったことがある。88年だったと記憶する)。
その外交官がイラク戦争突入はアメリカ人の「旋風のような愛国心」の結果であり、リーカーンの南北戦争、真珠湾攻撃と似ているとする。反戦ムードを一気に好戦へもっていく謀略は政治に付きものであり、その点は近藤氏や孫崎氏の分析に同意するが、なぜか孫崎本には外交的結論がない、つまり日本の自立外交を模索してもいなければ対米追随が悪とも言っておらず、最後の最後はアメリカの核の傘は機能しないだろうと言いながら、日本の核武装は反対という。
つまり本書の著者と孫崎防衛大学前教授のスタンスは徹底して政治のリアリティ、外交の合理主義である。
外交は道徳が入ると機能せず、倫理を持ち込むと、外交の基本が成立しない。打算と国益の追求。しかし戦争の回避。軍事力の背景がない日本は、だからといって「ふつうの国」のように外交独自路線を採用することが不可能である。
所謂オタク趣味を足がかりにして社会を語るのは、世間的には非常に気持ちの悪い行為だと思うのだがどうでしょう?
オタクネタをもとにしたり、オタクネタで比喩を行うなんてのはネット上ではけっこう普通のことだけれども、リアル空間ではオタク同士でしか通じないのではないでしょうか?
ちょっと口が滑って「要するに綾波系」なんて言ったらドン引きされますよ。ドン引き。ちょっと古いネタになるけど「エビちゃん似」だとか「広末風」はOKなのに、「綾波」即ドン引きですよ。
ここでちょっと考えてみて下さい。ドン引きするってことは綾波知ってるんです。相手は綾波を知っていて、かつ拒絶するんです。つまり、その視点からは語るな、ってことです。これってば足がかりの否定ではないでしょうか?
そもそも綾波などと言ったのだって、少女的な部分を指して「タバサ」と言いたかったり、或いは「長門」と言いたい場合もあるかも知れない、私個人としては「咒吠君さん」とかeffectの「榊さん」とか言いたいところ、一般的知名度を考慮して、コミュニケーションに配慮してのことであって、本当に綾波が好きで言ったわけではない。もし、ここで榊さんを選択していれば(あの作品は文章および主人公的な観点では微妙だけれど、描き出そうとしているヒロインの観点からは中々に良いと個人的には思っている)虐めについての問題や疑われることのない偏見、商業主義マスメディアの抱える潜在的問題等々を語る良い切り口となり得る可能性があるところ、その可能性を捨ててまで綾波と言っているのに、それを拒否されてしまうんです。綾波を知らないなら別に良い、エヴァそのものに興味がないというのも別に良い(私自身、殆ど話題用としか考えていないし)。そうではなくて、単に比喩として用いただけなのに拒絶されるんですよ。
語るな、と言いたいとしか考えられないのではないでしょうか?
・・・という位に意識する暇もなくあっという間に過ぎ去った24、25日。
まあしかし、昨今のクリスマスが商業主義に毒されているとか何とか、そういう一面があるのは分からんでもないんだが、それを根拠にデモとかやらかすのはよく分からんのよね。みんなが浮き足立つおかげで普段需要のない物が余計に売れたりどうでもいいサービスが利用されたりして年末年始を乗り切れるところもあるわけだし。仮にクリスマスの商業主義を完全に否定したら地方の商店街とか壊滅するんじゃねーの?
その辺はさておき、「商業主義に毒されたクリスマスというイベント」に同意しないのならば、そいつらだけ普段どおりの生活(消費活動)すりゃいいだけの話なんじゃないかなあと思うんだが、なぜにわざわざ能動的に否定しようとするんだろうな。
お見合い結婚と恋愛結婚の数が逆転したのが、確か60年代の半ば。
とはいっても恋愛も結婚を前提とした、前段階という位置づけだったから、
70年代に入ると段々と恋愛と結婚が別のものという考え方が浸透する。
なぜならば恋愛を結婚から切り離した方が、新たなる市場が開拓できるから。
すべては商業主義による作為的な思想誘導とも考えられるが、この際どうでもいい。
(まあ恋愛は儲かる。今でも儲かる。恋愛禁止になったら失業者すごいぞ)
さて恋愛と結婚を意図的に分離するために商業主義者たちはあるハードルを撤廃した。
結婚が恋愛の延長線上にあった時代には、男性はぶっちゃけHしたいからプロポーズをした。
同時に女性は切り札としての肉体的な証である処女膜を守った。これを失うと結婚しにくかった。
普通に考えるとこの考え方を撤廃するのは生易しいものではないんだが、
ちょうどフェミニストの台頭による女性の社会進出(これも儲かるが別の話)に便乗して、
そして80年代となり日本はバブル到来。もう大変。乱痴気騒ぎ。
んでOLの市場が食い尽くされたあとは、女子大生の市場を開拓した。
バブル弾けて女子大生市場も美味しくなくなって、90年代になると女子高生を商品化した。
このころの女子高生たちが今の30代〜ね。生まれながらにして商品。もう泣くしか無い。
当然チヤホヤされて、食い荒らされていることにも気がつかず、性を大開放。
どれだけの経済効果(表も裏も)があったのか計り知れない。
女性にありつける男とありつけない男。
当然いい男にはたくさんの女性があつまる。恋愛における選択権は性を開放した女性にあるのだから仕方ない。
しかし法律で男は一人の女としか結婚できないということを忘れていた女が多すぎた。
師走に入ってはや一週間が過ぎ、いよいよクリスマスも近づいて参りましたが、非モテのみなさん怨嗟の声をあげる準備はお済みでしょうか?
インターネットの世界では、「聖なる夜が性なる夜になっている」だとか「無宗教主義の日本人が異文化にかこつけてセックスセックス」だとか、毎年繰り返されるお決まりの文句が飛び交っておりますが、私はまったくの無関心でありました、つい今し方ボニーピンク姉さんの新譜を聴くまでは。
ボニーピンク姉さん(以下「ボ姉」)の新曲「CHAIN」は、クリスマスソングであります。メリークリスマスと何度も歌ってらっしゃいますので、これに至っては間違いない。「キャンドル」や「星空」だなんて小洒落たワードもちらほら聞こえて参ります。ボ姉といえば、私個人の思いこみかもしりませんが、割と硬派なイメージがありまして。商業主義的ミュージックにチキチキとカッターナイフを突きつけ、自分の思うままの歌をお歌いになってきたように私は感じております。何者にも依らない孤高のシャクレミュージシャンだと。申し添えておきますが、かくいう私もボ姉のファンであります。髪の毛がオレンジだったりピンクだったり紫だったりした頃から存じ上げております。
そんなボ姉の新曲がクリスマスソング「CHAIN」であるのはまだいいのですが、そのサビで「愛してると 愛してると 繰り返した」なんて甘い詞を紡いでらっしゃる。ラブ・クリスマスソングというワケです。冒頭に戻りますが、私はクリスマスが商業主義のテレビや雑誌によって「恋人たちの夜」と定義されていても、いささかも気にはなりませんでした。クリスマスそのものに対して無関心でした。しかし、これここに来て孤高のシャクレミュージシャンであるボ姉までもが、クリスマス商業利用キャンペーンにのっかっていらっしゃる。「すわ一大事」とばかりに私の産毛は逆立ったのです。
孤高のシャクレをなびかせるほどに、クリスマス商業主義は絶対の力を持ち始めている。そう感じた私は、私自身もまた無関係でいるわけにはいくまいという思いを強くしました。さてそうなると問題なのが立ち位置です。私は果たして怨嗟の声をあげる側なのか、あるいは無関係を保っていられる側なのか。己を知るにはまず敵を知らん、というわけでさっそくWikipedia先生にクリスマスイブについてお伺いを立ててみることにいたしました。
多くの国々では、クリスマスは家族で過ごす日とされている。多くの家庭では、居間にモミの木などを用いたクリスマスツリー、玄関にはクリスマス・リースを飾る。クリスマス・イヴにはクリスマスケーキ、鶏、鴨、七面鳥などを家族で囲んで食べる。また子供にとってはこの夜、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれる嬉しい日となっている[2]。
なるほど、家族で過ごすのが一般的とのこと。あいにく私は独り住まいですから、この一般には当てはまりません。
日本の2004年の統計調査では「家庭と過ごす」という回答が約7割と最も多く、「恋人と過ごす」「友人と過ごす」等の回答はそれぞれ1割に満たなかった(NIKKEI BP NET)。
なるほど、なるほど、何はともあれ誰かと過ごすのがクリスマスというもの。とすれば独りで過ごす私は怨嗟をあげる側なのでしょうか。クリスマスイブ最大の被害者の一員となってしまうのかしらん。背筋に冷たいものを感じながら読み進めると、こんな記述が。
・・・(略)
「モシモシ、失礼なんですけれど、貴女がたはお二人だけなんですか」
「マァ、失礼な方!」
「僕たちも二人っきりで、サッキからカスンでるんでス、一緒に御飯をたべさせてくれませんかァ」
「マア図々しいワネ」
「アラ、いいわよ。そのかはり君たちお払いするのヨ」
「O・K!」
一九三一年を送らうとしているお嬢様たちは、この位チャッカリしていらっしゃるのです。
かうして楽しいクリスマスの犠牲になって、くやしがりながらシメられる七面鳥の数は、東京全市で千二三百羽にのぼるのです。
・・・(略)
なるほど!
私は歓喜の声をあげ、膝を叩きました。なんのことはない、クリスマスに苦しめられる人などいなかったのです。いるとすれば、それは七面鳥。クリスマスなどなければ、ここ日本で七面鳥を食す人など滅多にいないでしょう。生きながらえたはずの命が、妙な商業主義によって奪われている。なんとも痛ましいことであります。
それに比べれば私など何の損得もございません。あらおかしい。クリスマスに苦しむ方などいなかったのですから。シャクレが何を言おうと私は向かうところ敵なしでございます。クリスマスに苦しみマスなーんて、気にするこたあないのですよ。故あって今年は一緒に過ごしませんが、佳い人ならちゃんといますしね。
というエントリを読んだ。
http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html
いや、読もうとした。
小賢しい!小賢しすぎて読めない!
なので翻訳してみた。
翻訳の過程でこぼれ落ちた何かに対しては、俺はまったく興味を持てない。
元エントリの筆者にはこだわりがあるんだろうけどな。
はい、みなさん、こんにちわ、こんばんわ、おはようございます。さて、本日はテレビアニメーション(以下アニメ)における「原作至上主義」という言葉について考えてみたいと思うのです。
1 原作至上主義のふたつの定義
ざっくばらんに分けると、この言葉にはふたつの意味しかございません。
2 問題の提起
原作至上主義の問題について考えようと思えば、少し整理しなければなりません。
- 漫画や小説とアニメとは表現形式が違う
- だから原作をアニメで忠実に再現するのは無理
- 原作至上主義は商業主義だ (増田注:途中までしか読んでないので、ここはまだうまく訳せていない)
- アニメ製作者には、原作を重視したい人と原作を壊したい人がいる
- アニメ視聴者には、アニメ制作者の意図を分析したがる人と、作品そのものを分析したがる人がいる
原作至上主義の問題には、これら5つが絡み合っています。わたしは仕事がら、ずいぶん前からこの問題が気になっていました。けれども、真面目に考え始めたのは、「noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言った」さんの記事に触発されたからでございます。『ひだまりスケッチ×365』や『かんなぎ』などのアニメについて論じたエントリはとても興味深い。研究者や職業批評家の分析と比べても、ずっと興味深いのであります。
noir_kさんの立場を強引にまとめると、アニメ制作者は原作に依存しすぎだということ、これがひとつ。もうひとつが、アニメ視聴者は原作を無視し、アニメを重視しすぎているのではないか、というものです。
そこで、わたしもnoir_kさんの視点に乗っかって、原作至上主義という問題について考えてみたい。
3 批評でよく言われている、原作とアニメの間(あいだ)
批評は視聴者だけのものではなく、制作者のものでもあります。制作者が批評をするということは、先行する作品を批判するような作品を作るということです。『ガンダム』や『エヴァンゲリオン』のようなアニメはもちろん、さまざまなテレビ番組、インターネットや映画・ゲーム・コミック・小説・新聞・美術作品などの批判です。
現在のアニメにおける批評行為は、新房昭之や山本寛以降、“アニメ批判・パロディ・引用・自己言及”とまとめられます。これは誰の目にもあきらかでしょう。
これらの批評行為は、原作とアニメとで表現形式が違うので忠実な再現は不可能だということを忘れさせるような、ジャンルの横断可能性という最近のトレンドを反映したものにもみえます。ちなみに実写映画の技法を引用するのは、早いもの勝ちですし、技術力の問題でもあるというのが、実情でございましょう。
ですから、noir_kさんの立場が重要なのは、ジャンルの横断可能性が大前提とされている制作環境に、「メディアが変われば意味も変わるんだよ」という鋭いツッコミを入れていることであるように思われます。
ここまでで限界!もう無理!
痛いニュース(ノ∀`):10〜30代の若者、遊びが「貧困化」。携帯、ネット、ゲームに時間使う若者増加 …レジャーにも「格差」が
最近こういう最近の若者はビンボくさいというような記事ができますが、本当に貧しくなったのでしょうか?
ワーキングプアの問題など、憂慮しなければならないこともあるでしょうが、見落とされるものもあるような気がします。
ちなみに私は、それほど裕福ではありません。貯金とかすごく少ないですし。
でも、給料は悪くはないと思う。底辺地方基準だけど。それなのになぜビンボくさいかといったら、思うに、親の世代に比べたら出費が多いんじゃないかってことです。
まず、ケータイ。一人1台の時代です。どんだけ通信費使うんだよってことです。団塊の世代が若かりしころ、こんなに毎月出て行くものがあったのでしょうか?
それから、インターネットをすればプロバイダとキャリアに毎月払うものが出てきます。かなり安くなってきているとはいえ、やっぱり無視できない金額です。
それから、買い替えが頻発するハイテクな趣味が増えたこと。この辺は想像で申し訳ないですが、たとえばフィルムカメラって10年とか余裕で使えましたよね?
でも、デジカメを10年も使ってたら、何なの?死ぬの?ってな有様です。
それから、PC。続きはWebってなあんばいで、持ってること前提。昔のPCは高かったとはいいますが、持ってるのは一部の好事家のみだったわけです。
そして、これも10年も使えません。
その他、世の中にはものがあふれており持っていないと何なの?死ぬの?ってな印象を与えるものも少なくないわけです。
商業主義に躍らせてる部分もあるのでしょうが、兎に角、団塊の世代が若かりしころにくらべたら物的誘惑が多いのではないでしょうか?
団塊の世代の話を聞くと、若かりしころからこつこつ金をためて云々とかいう話とか聞かされます。
そうでなくとも当時の遊びは、今から見るとモノ的にビンボくさいですよ。
あとは、さっぱりわからんですが、税金とか今と比べてどうだったんでしょうか?
食費は?
その他生活費は?
そういったものをぜんぜんあげることなく、ただ単に今の若いモンはビンボくさいってのは乱暴すぎる論法ですよ。
収入が減るというのは嫌ですけど、それにあわせて物価が下がればどうってことないですし。
今と昔の家計簿を見比べてみたいものです。
>作家制の強い作品は別として、商業主義の金儲けの中から生まれてきた作品
その違いは誰が決めるの? あなた? 「皆」?
その「皆」は具体的には誰と誰? どういう立場の人? なんとか委員会の人?
例えば、仮面ライダーは昔から子供達に人気があるし、グッズ商品も売れてる。
あざといCMも打つし、話の展開もそう、だったら、あれは商業主義の金儲け?
演じてる若い役者さんは、全員、金儲け主義の守銭奴?
あなたの言ってる事って「仕事がなくなったら困るから、警察官は犯罪者に感謝しろ」って言ってるのと一緒ですよ。
「医者は、新型ウィルスに感謝しろ。不幸な事故に感謝しろ」って言ってんのと一緒。
自分は2次じゃない創作をしてるけど、儲かっていようと、そうでなかろうと、作家さんとその関係者は全員尊敬してますよ。
もちろん、人間としては、首を傾げたくなる人もいますけどね。(人格の好き嫌いの問題で)
何かを作るってのは、たとえ真似事だとしても、楽じゃない。楽じゃないんです。大事な事なので2回言いました。
http://anond.hatelabo.jp/20080817105113
作家制の強い作品は別として、商業主義の金儲けの中から生まれてきた作品に敬意なんていらないと思います。
企業という法人格が作り出したものだし、製作にかかわった人というのは生活の為に企業に命じられて働いたに過ぎないのだから。
二次創作にとって一次品というのは、共通のプロトコルに過ぎないわけです。その作品である必要性よりも、皆が知っているという点が重要なのです。
皆が知っているというのは作品の良し悪しではなくて、大金をかけて宣伝広告されたか否かです。
二次創作するに当たって大切なのは、一次品が、個人が作ったものか企業が作ったものかという点です。個人が作ったものなら敬意を示さなくてはなりません。それが人の心だと思います。
企業が作ったものは市場と経済の循環から生まれた現象といえるおものであり、消費者あっての営利活動、ゆえに全体の共有財産である文化です。
そして、権利者自らが己の利害において二次創作を黙認しているというのであれば、それは市場原理的に最も利にかなった状態です。
動物ってさー、種類にもよるかもしれんけどつがいを作るべ、つがいをよ。
それって、主義とかじゃないべ。
俺にとってあの木の実ついばむほうが価値あるし、つがいなんてつくってらんねーよ。
とか、そういう鳥いねーべ。いや、いるかもしれないけど、いたとしてもそれは明らかに「おかしな鳥」だろ。
恋愛に商業主義がからんでくるのは俺もうぜーというか、なんだかなーというか、思うよ。うん、思う。
でも、恋愛ってデフォだろ。恋愛しないやつは、動物として機能不全だろ。
いや、動物である必要ないっていうなら、俺はぐうのねも出ないけどね、うん。
人間だから理性がどうとかって言われても、俺はぐうのねも出ないけどね、うん。そんだけどうでもいい話。
あとさ、巨乳より貧乳が好きってやつも、動物として機能不全だしね。
だってよー、類人猿のメスって繁殖可能になると女性器が腫れるべ。肥大化つったほうがいいのか。
それがでかけりゃでかいほど、オスへのアピール力が高いんだよ。私はもう子供を作れますよって、アピールしてるわけなのよ。
でも人間は二足歩行だからよ。ほら、まんこ腫れたら歩けねーじゃん?
だからかわりに胸が腫れるわけよ[要出典]。
だから、チチのでかさと乳の出の良さは別問題っつーこと。ボインなサルもいねーべ?
そいういうことだからさ、貧乳好きは動物としてどうかしてんだよ。俺も好きだけどよ。
でも、恋愛するよ。つがいがいないと、なんか寂しくなるよ。
で、結局何がいいたいかというと、動物としてどうかしてる人って、病気なんじゃないかってこと。
いや、病んでるっていうとなんだけどさ、ほら、○○障害とか、そういう類。
医学的にまだ認知されてないだけでさ、なんかあるじゃないかなぁ。
だってさ、きれいじゃないオスを好むメスの孔雀がいたらさ、動物学者はぜったい脳とか輪切りにして調べるでしょ。よくわからんけど。
だから、生殖能力のない年端もいかぬ女性を性的な対象としてみちゃったり、巨乳より貧乳が好きだったり、恋愛とかいらないと考える人って、どっかおかしいんだよ。
恋愛をマリオカートの多人数対戦に例えるなら、今の状況は著しくゲームバランスを欠いている、それだけの話だと思う。例えばの話だが、キノピオやノコノコ(非モテ男)が、クッパやドンキー(モテ男)、あるいはピーチやデイジー(女)に比べて加速性能も最高速もグリップ力も劣っていて、10回対戦したとしてもほば勝ち目がない、しかもキャラクターの変更(非モテ→モテへの転身)も認められないとしたら、そんなゲームはすぐに「クソゲー」として切り捨てられるんじゃないか?
この場合、悪いのは誰か?悪いのはクッパやドンキーを使うプレイヤーではなく、そのような不公平なパラメータ設定をした製作者だろう。非モテの話でいうなら、一方的な恋愛文化を生み出し、かつ商業主義によってそれを保持・強化しているマスメディアおよび世俗の流れ、といえる。この場合、クッパやドンキーを使うプレイヤーは、案外自分たちが優遇されていることに気付かないものだ。
「リア充嫌い」とか「ミソジニー」とかは、そのような不公平なゲームバランスを問題にするのではなく「クッパが憎い!ピーチが憎い!」とただ叫んでいるだけに過ぎないと思うのだが。
レッドカーペットとかでやってたので知ってる人も多いと思う。その中で、特に象徴的なセリフとして
「オレって変わってんのかなあ?」
っていうのがあって、そこが一番の笑いどころなんだけど、同時にサブカル好きの一番中心の部分を突いている。
とかがある。
多かれ少なかれ、「自分は普通の人間と違う」という意識は、ほとんどのサブカル好きのアイデンティティとして存在していて
彼らは「マイナーなものが好きな自分」に酔っている。
ここまでは異論は無いと思う。
問題は彼らの多くが、自分が好きなものに対して、マイナーだから好き、という理由を覆い隠す様に
◯◯の本質をしっかり分かっている、とか、下らない商業主義に迎合してなんだかんだとか、理由を付けるという事だ。
確かにそういう理由もあるだろう、だが、マイナーだから好きという、単純で倒錯した理由も持っているんじゃないか。
そのことに自分で気付いているくせに、そこから目を背ける様に彼らは言い放つ。
「オレって変わってんのかなあ?」
そして周りの人間が、君は変わっているね。と言ってくれるのを期待する。
何故認めないのだ。マイナーだから好き、と言い切れないのだ。
何故「オレって変わってんのかなあ?」ではなくて「オレは変わった人になりたい」と言えないのだ。
全く悪い事じゃない。何が悪い。