2009-11-14

消費という概念が出てきた時点で消費物は商品と化している件

もう一ヶ月近くも増田にいる。増田ばかりやっている。でも、増田勉強場所になった。俺の力がどれだけ未熟かを分かることができる。どんなにクソ面白くないネタだと俺が思っても、増田の記事がホットエントリーに入ることもある。もっと真面目にやればたどり着けると思って手を伸ばして、国語教科書を書写したり、新聞の文章を読み直したり、一心不乱になって色々と試すなりやってきた。

一部の増田は「処女厨」が面白くないと言った。俺も面白くないと思った。しかし他の人たちは楽しそうだった。俺は「処女厨」のどこが面白いのか気になった。「処女厨」の面白い部分が分かれば彼らのお話に混ざれるような気がした。時にはロムを、時には書き込みをして、盛り上がっている人々の反応を窺った。増田はそういう場所にもなった。ただの「きもい」書き込みが「興味」へと変わった。「興味」は「人を寄せ集めるコツ」へと変わった。人を集められるようになれれば、それは時として商品価値があるからだ。

世の人はあらゆるものをつまらないと言った。しかしそのあらゆるものはどこかの誰かの手に渡っていた。時には金銭価値が与えられていたりもした。商業主義者め! と毒づく人もいた。しかし、商業主義者と言われる人たちは何かを売ってご飯を食べている。ご飯の元は沢山の人がお金を払ってまで手に入れようとした何かを与えられるからだ。萌えでも、処女厨でも、セックスでも、何でもいい。ご飯が食べられなければ人は死ぬ。ご飯が食べられないのならば人は死にものぐるいになって糧を得る。いいじゃないかと俺は思った。

もしかすればキモイと言われる人たちにも何か魅力があるのかも知れない。非モテも誰から愛されるのかも知れない。オタクも気持ち悪がられていても商品になり得る。スイーツだってそうだった。ならばおしゃれのためにセックスを投げ売ってでもいいのではないか。そうしなければ飯が食えないのならば何でも投げ打っている人々も中にいる。そうした結果、ささやかな日暮らしが手に入るのならば文句もないだろう。

茨の道を歩む覚悟は出来た。よろしい、ならば好きなだけ叩け。叩いている間、俺は叩いている人々を見て、何が彼らをそうさせるのかを考えよう。一方で沢山の人々が愛して病まないものを見て、何故に愛されるのかも考えよう。全ては明日のご飯のためだ。ご飯がなければ人は死ぬ。いくらでも気持ち悪がられながらも飯を食うために目を血走らせるのも悪くはない。

今はただ、色々なものを見よといってくれた人に感謝するばかりだ。

叩かれてもご飯のためなら文句言えないよ。

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